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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:岡本喜八( 1 )

8月に戦争映画の放映が多いのは、「終戦記念日」があるからですが、これを契機に戦争で死んだ英霊のミタマを悼む厳粛な気持ちにならなければと思うより先に、惰性で繰り返される固定化・マンネリ化した戦争映画の放映というお約束の「企画」自体が、いつもながら随分と安直な発想だなとシラケ返り、げんなりさせられ、イマイチ厳粛な気持ちになれないでいました。

だいたい、「戦争映画」とひとくちにいっても、そのスタイルや内容がさまざまであるように見えて、実は、作られ方自体は画一化されていて、迎合するにしろ反発するにしろ、「ご時勢(権力者から大衆まで)」の微妙な鼻息を窺いながら作られているという独特のクサミがどうしても鼻について、素直に見ることができませんでした。

それは、たとえばサキの大戦を懐古する好戦的な映画から、人道主義を持て余したどっちつかずの中途半端な映画まで、いやいや「反戦映画」といわれるタグイの作品群においても、おしなべてそれはいえることのような気がします。だいたい「反」とはいっても権力へ擦り寄る媚態という部分ではなんら変わらない、隠微なシナを作ったオモネリの姿勢はみえみえで同質、結局それはどこまでもただの免罪符とか踏み絵でしかなく、だから一層いかがわしい印象を拭えないまま嫌悪さえもよおし、いずれにしても自分としてはこの「戦争映画」一色に染められた「戦争映画月間」というダレた季節を、どちらにも組みすることもできないまま、落しどころのない苛立ちを抱えて、どうにかやり過ごさなければならないというのが、この「8月」の毎年の過ごし方でした。

もし、キューブリックやオリバー・ストーンの戦争映画を知らないで、これらの低レベルな邦画に晒され続けたとしたら、辛抱の足りない自分などは、とっくのむかしに、きれいさっぱり映画へのこだわりなど放棄できていたと思います。

しかし、そんな作品群のなかにもたったひとつの例外、いわば「救い」という意味での例外的な作品というのはありました、岡本喜八の「独立愚連隊」です。

「戦争」という忌避の固定観念から「アクション映画」という視座を得て切り込み、従来の硬直した贖罪と被虐趣味に隷従していたストーリーを解き放ち、自由な発想とスタイルをもって免罪符でも踏み絵でもない映画、客観的に「戦争」を別の角度から照射してそこにこそ「何もの」かを気づかせてくれることのできた作品、欺瞞に満ちた嘘八百の「深刻さ」ではなく、もちろんベタベタのお涙頂戴の「被虐趣味」なんかでもなく、むしろ「諧謔」や爽快な「誇張」によってしか表現し得ないそのスタイルによって、より「真実」に近づくことのできた映画、それが岡本喜八の「独立愚連隊」でした。日本においては本当に稀有なことですが、スタイルの発見というかたちで「作家性の発揮」を僕たちに見せ付けてくれた数少ない作品だったと思います。

この作品の公開当時、作品に浴びせられた大方の批判(はっきりいって「非難」ですが)は、描き方に対する「戦争に対する不謹慎」という罵声でした。

しかし、その非難は、そのまま発言の批判者自身でさえ気がつかなかっただけの(「戦争」はかく描くべきと断じ偏執した愚にもつかない囚われ)、薄汚れた日本的情緒を持て余していた従来の日本映画なら決して作りえなかった作品、優れて突出した異質な作品に対する驚愕と動揺と条件反射的に異物を排斥せずにおられない狭小で愚劣な情動の証しにすぎなかったことは、この国の映画史がとっくのむかしに証明してしまっていることでもあります。

とまあ、こんな感じで今年も「独立愚連隊」でも見て、せいぜいすっきり救われようかと月間プログラムを楽しみに開いたのですが、なんと「独立愚連隊」の放映予定などどこにもアップされていませんでした。なんだよ、全然わかっちゃねえなあと心底がっかりしてしまいました。

それならいったいなにがあるんだと見たところ、やっぱ派手派手のあの「日本のいちばん長い日」1967は、しっかりとアップされていました。

しかし、それにしても、これはどう贔屓目にみても原田眞人作品を引き立たせるための刺身のツマみたいな扱いにすぎません、もっともそれは「よく言えば」の話なので、実のところは、コタビの岡本作品のアップは「先様を褒めるために、こちらを貶す」というまるで噛ませ犬の扱いです、今後もこんな感じで作家性の希薄な「日本のいちばん長い日」は、こんなふうにして戦争懺悔の「8月の場」に引きずり出されることになるに違いありませんが、はっきりいってこれって随分と「無礼であろう」扱いです。

さんざんコケにされておきながら、いまさら「無礼であろう」もありませんが、そうとでも言わなければ貸した金をネコババしておいて空とぼけシカトを決め込むつもりのずうずうしいあの愚劣な劣等民族に分からせる方法がこれくらいしかないのですから、これもまあ致し方ありませんか。南も北も他国の財産をなにかと因縁をつけ、あるいは脅しをかけてきてこそこそと掠め取ることしか知らないコソ泥根性の恥知らずの国家という意味ではよく似ています。民族でもなんでも統一して共に破綻するという浅慮を早いところ実現させて世界をすっきりさせてほしいものです。

しかし、どちらにしても作家性などなかなか込める余地のなかった超大作映画「日本のいちばん長い日」ですから、作家性不在などとそれほどカリカリする必要もありません。

なにしろ、この作品を撮ってストレスをいちばん強く感じたのは岡本喜八自身で、翌年、この大作の鬱憤晴らしのような低予算作品「肉弾」1968を撮って、「日本のいちばん長い日」で撮ることのできなかったもの、自分は本当のところなにを撮りたかったのか、みたいな作品を残しました。

「独立愚連隊」が当時不謹慎と非難されたように、「日本のいちばん長い日」も当時あれこれと批判されたことは記憶しています。

自分の手元にも、当時の代表的な批判という評文の複写というのが手元にあるのですが、迂闊にも出展を明記しておかなかったので、今となっては、これがいつ頃のどこからの引用かを明記できません、とても残念ですが、出展不明というかたちで引用させてもらいますね。

そこには、「日本のいちばん長い日」について、こんな感じで書かれていました。

《シナリオが戦争を賛美しているわけではない。(この少し前に「橋本忍のシナリオはさすがだ」と褒めています)演出も太平洋戦争が愚挙だったことを否定していない。戦死者200万人、非戦闘員の死100万人との字幕と重なって、戦争の惨禍を表すスチールが映され、仲代達矢の「この同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、日本人の上に再びこのような日が訪れないことを念願する」とのナレーションで映画は終わる。これが作者の観点であり、この限りでは作者の認識は間違っていない。だが軍国主義者やファシストの他民族への加害性や侵略性を批判する視点は希薄である。最重要事項を描かずにディテールだけを切り取って描くと、真に大事なものが漏れてしまう。》

なるほど、なるほど。

日本の安定政権が一瞬揺らいだ間隙をついたアダ花みたいな、言ってみれば当時のアサハカな「流行」として、かつて日本が戦争を起したことによってご迷惑をおかけしたアジアの諸国民に対して徹底的に謝り倒すという「はやり」があったわけですが(そのアトサキを考えない幼稚で偽善的で無責任な放言のツケを払うために窮々としている現在です)、この評文なんかもほとんどその「ながれ」に迎合した駄文にすぎないと「うっちゃって」もいいところでしょうが、まあ、その辺は「良識」から非難もせず沈黙を守っていたところ、岡本喜八自身の論考「体験的戦争映画・試論」のなかに目からウロコの落ちるようなクダリを発見しました。「やっぱ、あったじゃ~ん」という感じでしょうか。
岡本喜八は、こう書いています。

《1000万円映画は論外としても、日本の映画作りは、並べて、製作費にユトリが無いのだが、戦争映画作りは特にユトリが無い。
拙作の中でいわゆる大作は二本しかないのだが、「日本のいちばん長い日」では、準備中、俳優費の計算に追われ、「沖縄決戦」では、白兵戦を、彼我夫々一個分隊単位でしか撮れなかったものである。
従って、現場体験から言えば、「部分で全体を・・・」、言い換えれば、「戦略的な規模を狙わず、戦術的な手法を使う」といった、素材選びと処理法の方が、より「戦争」に噛りつき易いと思う。
尤も、製作費にユトリのある筈のアメリカ映画でも、超大作「史上最大の作戦」より、小品「攻撃」に、より「戦争」を感じたところを見ると、製作費の多寡にかかわりなく、「部分で全体を・・・」しか手のないほど、「戦争」という奴は、やっぱり巨大な怪物なのかも知れない。》

誰がどう見たって、オールスターキャストの総花的なダレきった「史上最大の作戦」より、上官への反抗と射殺というショッキングな事件を描いた「攻撃」のほうが、より優れた作品であることは自明の理です、なにが「大状況」だよ、という感じでしょうか。



by sentence2307 | 2019-08-22 12:37 | 岡本喜八 | Comments(0)