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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:徒然草( 44 )

8月10日の夕刊の一面に、「水の都へ、清きお濠に」という見出しで、皇居の外堀と内堀の汚染が著しいので、玉川上水に接続して抜本的に浄化しようという案が報じられていました。

記事によると現在のお濠は下水道とかにもつながっていて、夏場はとくに汚染が激しく藻や悪臭が発生するそうなので、玉川上水とつないで循環させ、浄化してお濠をきれいにしようという案だそうです。

この唐突な見出しを見た当初は、何十年もほったらかしにしておいて、「なにをいまさら」という気持ちしかありませんでしたが、よく読むと、それもこれも2020年・東京オリンピックをめどにして、それ以後に具体化するということです、そうと分かると「はは~ん、なるほどね」とようやく納得することができました。

まあ、こういうことも婉曲的にはですが、「オリンピック効果」のひとつといえるわけで、当然「是とすべきもの」と思いますが、かつて猥雑な東京を国家的な突貫工事によってまたたくまに高速道路網を完成させ、東海道新幹線も走らせ、驚異的な速さでカラーテレビを普及させた(これについては退位したさきの天皇のご成婚時が契機だったという説もあります)あの1964年のオリンピックのときと比べると、もはや施設やインフラ、そしてソフトの面でも完成されてしまっている観のあるいまの東京では、最早することなどごく限られてしまい、為すべきものも尽きていて、仮にもしあるとしてもせいぜい「補修」とか「修繕」くらいしか考えられないので、この「玉川上水連結」など、施策担当者が「仕事はないか」と必死に探したあげくに、やっとひねり出した「妙案」だったのかも、などと感心しながら、その一方で、それにしてもずいぶんと突飛なアイデアだなと思わずクスッと笑ってしまったほどでした。

だって、お堀の水など汚れている方がむしろ重厚なくらいで風格もあっていいじゃないかと思うのですが、しかし、考えてみればあの満開の桜の散る季節、花びらが滂沱と滝のように降り注ぐ千鳥が淵の荘厳な光景を思い起こし、毎年のおびただしい落花が何年にもわたって堆積し、そのままに放置されているわけで、積り積もった堀の底は手の施しようもないくらいのヘドロの層になっていることも想像され、やはりここは玉川上水を回流させるという大鉈を振るう施策というも必要なことなのかもしれないと思えてきました。などと記事を読みながら、一人このような妄想にふけりながら、また別の思いにも捉われていました。

「玉川上水」といえば、すぐに連想するのは、そこで情死をとげた太宰治のことです。

つい最近の映画でも、たしか「人間失格」とか「ヴィヨンの妻」が映画化されて、太宰治の根強い人気を再認識させられた印象が鮮明に残っています、

しかし、自分としては、どうしてもイマイチ好きになれない作家のひとりです。

自らの「不具」(社会的不適応もそのひとつですが)をことさらに誇張し、見せびらかし、売り物にして「オレはこんなにダメな人間なのだ」と同情を誘いながら、「でも、こんなオレのことがアンタは好きなんだろう? な?」みたいな、他人に媚びへつらうような取り入り方にどうしても嫌悪が先立ち、その開き直った傲慢な卑屈さには、どうにも耐えがたいものがありました。

たとえば、小説「晩年」のなか、最初の「葉」の冒頭部分などは、本気なんだか、それとも傷心をよそおって読者の感心を煽るもの惜しげなテクニックだかなんだか知りませんが、どちらにしても、とても嫌なものを感じてしまいます。

こんな感じです。

《死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が折り込められていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。》(「晩年」の「葉」冒頭部分)

こんな感じのものなら、まだまだあります。

小説「姥捨」の冒頭、小説の書き出しとしては、読者の意表をつく「そのとき、」という前後になにひとつ脈絡もなく突飛な言葉で不意に始められる(奇を衒うという意味で)とても有名な冒頭部分です。

《そのとき、(原文では、この言葉を際立たせるために、すぐに改行されています)
「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」
変わった声で呟いたので、
「それはいけない。お前の覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでいくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神様だって許してくれる。」
ふたり、厳粛に身支度をはじめた。》(「姥捨」の冒頭部分)

こんなふうに書いていたら、むかし、ある酒の席で、話の勢いの成り行きから、その「太宰嫌い」を披露しなければならない局面に立たされたことを思い出しました。

そのとき、たまたま隣に座っていたごく若い神経質そうな文学少女に猛烈に反発され、執拗に食って掛かられたことがありました。《あなたがいまウダウダ非難した「それ」こそが、太宰治の人間的な魅力なのだと》

しかし、どのようになじられても、自分としては太宰の人格的な歪みについてはどうしても受け入れられず、とうてい理解できるものではないことを繰り返すしかありませんでしたが。

まあ、そういうことがあったあとでも懲りずに太宰作品は、折りに触れて少しずつ努めて読むようにしていますが、やはり、どうしても、そして、いつまでたっても自分には太宰治(人間と作品)に馴染めないということが、ますますはっきりしただけでした、それくらいが努力した読書の成果というか、収穫といえば収穫ということになります、いわば「不毛な収穫」だったわけですが、いざこうして「不毛な収穫」などと文字にしてみると「収穫」と「不毛」とは、いかにも矛盾し相反する言葉の組み合わせであることが、いまさらながら奇妙な感じです。しかし、これが自分の実感でした。

自分の「嫌悪」は、太宰の世の中に対する甘ったれた姿勢もそうですが(こうストレートにいってしまうと、またまた、揚げ足をとられて非難されそうですが)、むしろ、文体とか語り口のスタイルの方にこそあったのではないかと。そもそも太宰治に馴染めないのは、どうもあの独特の「おんな言葉」で語られる軟弱な独白口調(女性独白体小説)にあるのだと、あるとき、天啓のように気がついたのです、この「気がついた」というのは、ごくごく最近のことで(自分は硬質な文体を好むので、とくにそう感じたのかもしれません)ちょっとそのあたりのイキサツを書いてみようと思います。

自分のいつもの散歩コースの重要な一部に駅前の書店をのぞくというのがあります。

住んでいるところは、なにせものすごい田舎です、そこにある唯一の書店なので(一度つぶれて、いまの店は代替わりした二代目ということになります)、毎日のぞいてみるといっても昨日と今日の品揃えに特別の変化があるかもしれないという懸念などいささかも必要ありませんが、自分の日常的な散歩の定例コースにあたるので、どうしても立ち寄ってしまうという事情があるくらいです。

そして、のぞく売り場というのも、おもに「小説」と「映画」のところと限られているので手間もかかりません。「映画関係」のコーナーは、スペースからいえば普通です、新宿・紀伊国屋書店の売り場(別館の方)と比べても、三分の二くらいは確保されているのではないかという、それなりの扱いになっていますが、しかし、「品揃えのセンス」からいえば比べものにならないくらいの格差を感じます。そりゃあ、あなた、それは単に購買客の資質を反映しているにすぎないよと言われてしまえば、返す言葉もありません。

新宿・紀伊国屋書店の「映画本」売り場で斬新な選択の魅力的な書籍に囲まれながら、それを片っ端から読みとばし世界映画史を跳梁しつくすという快楽の時間は1~2時間くらいではとうてい満足できるものではありません、3~4時間は優に必要で、実際もそうさせてもらっていて、それこそザラにあることです(立ち読みの分際でこんなことを言うのも気が引けますが、それでも時間は足りません)、それに比べてわが町の書店の「映画本」売り場などというものは、ものの3分もあれば十分通過することが可能な腐界にすぎません。なんでこんなにも韓国人俳優やタレントの愚劣な本を律儀に揃えなきゃいけないのだ、いったいこんな愚劣なものを誰が読むんだと一瞬辺りを見回して些か憤り、この見事に低劣な品揃えに心底うんざりして店をあとにしながらも、しかし、「明日」もまたここに立ち寄ることになるわが囚われの哀れな習慣が、なんだかとても可哀想になってきました。ほんとにもう、という感じです。

そんな感じで、この週末、いつもの散歩の定例コースをたどって書店に入りました。

そして、いつものように「小説」の売り場をゆっくり眺めながら歩いていたとき、一冊のオレンジ色の装丁の本が目に止まりました。最近ではついぞ見かけなかった本なので、思わず手に取りました。

背表紙には、大きな活字で「だれも知らぬ」と書かれています。そして、さらにその上に小さな活字で、「太宰治・女性小説セレクション」とあります。いったいこりゃあなんなんだと、ペラペラと頁をめくると、目次には、見知った太宰治の小説のタイトルが羅列されています。さらに本文をパラパラ走り読みすると、どうも収録されている作品の多くは、いままで自分が敬遠してきたあの「おんな言葉」で書かれた女々しい小説が、かなりの割合で収録されている印象です。なるほど、だから「太宰治・女性小説セレクション」なんだなと。

★井原あや編・太宰治女性小説セレクション「だれも知らぬ」(春陽堂書店)2019.7.10.1刷、317頁、2700円

生誕110年とあるこの本は、どうも太宰治の旧作を集めたアンソロジーのようですね。まあ、太宰治亡き今となっては、どの作品も旧作には違いありません。

出版社が、出版物のアイデアに枯渇すると、苦肉の策として名前の通った作家の旧作を集めてアンソロジーを出すということは、よくあることだと耳にします。それなりの売上げがあり、安定的に投入した資金の回収がみこめるからだと思いますが、それにしても、なんでいまさら太宰治なんだと訝しく思いながら、巻末の編者(井原あや)の「解説」を読んだとき、自分の抱いていた積年の疑問が一気に氷解したのでした。

この本に収録されている小説と、掲載された雑誌名・掲載年月号、そして太宰独特の意表をつき、既知の場所から突然動いているストーリーを始めるように読者の関心をダイレクトに掴み取る見事な書き出しを添えて以下に書いてみますね。


☆雌に就いて「若草」1936年5月号《これは後述します》
☆喝采「若草」1936年10月号《書きたくないことだけを、しのんで書き、困難と思はれたる形式だけを、選んで創り、・・・》
☆あさましきもの「若草」1937年3月号《こんな話を聞いた。たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがゐた。》
☆燈籠「若草」1937年10月号《言へば言ふほど、人は私を信じて呉れません。逢ふひと、逢ふひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていつても、なにしに来たといふやうな目つきでもつて迎へて呉れます。たまらない思ひでございます。》
☆I can speak「若草」1939年2月号《くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪へか。わかさ、かくて、日に虫食はれゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。》
☆葉桜と魔笛「若草」1939年6月号《桜が散って、このやうに葉桜のころになれば、私は、きつと、思ひ出します。と、その老夫人は物語る。いまから三十五年まへ・・・》
☆ア、秋「若草」1939年10月号《本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。》
☆おしゃれ童子「婦人画報」1939年11月号《子供のころから、お洒落のやうでありました。》
☆美しい兄たち「婦人画報」1940年1月号《父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。》
老ハイデルベルヒ「婦人画報」1940年3月号《八年前のことでありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過ごしたことがあります。》
☆誰も知らぬ「若草」1940年4月号《誰も知ってはいないのですが、と四十一歳の安井夫人は少し笑って物語る、可笑しなことがございました。私が二十三歳のハルのことでありますから、もう、かれこれ二十年も昔の話でございます。》
☆乞食学生「若草」1940年7月号~12月号《一つの作品を、ひどく恥かしく思ひながらも、この世の中に生きていく義務として、雑誌社に送つてしまつた後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになつてゐない筈である。》
☆ろまん燈籠「婦人画報」1940年12月号~1941年6月号《八年まへに亡くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変つてゐるやうである。》
☆令嬢アユ「新女苑」1941年6月号《佐野君は、私の友人である。私のはうが佐野君より十一も年上なのであるが、それでも友人である。》
☆恥「婦人画報」1942年1月号《菊子さん、恥をかいちやつたわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻つて、わあつと叫びたい、と言つても未だ足りない。》
☆十二月八日「婦人公論」1942年2月号《けふの日記は特別に、ていねいに書いて置きませう。昭和十六年の十二月八日には日本のまづしい家庭の主婦は、どんな一日を送つたか、ちよつと書いて置きませう。もう百年ほど経つて日本が紀元二千七百年の美しいお祝ひをしてゐる頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしてゐたといふことがわかつたら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。》
☆律子と貞子「若草」1942年2月号《大学生、三浦憲治君は、今年の十二月に大学を卒業し、卒業と同時に故郷へ帰り、徴兵検査を受けた。極度の近視眼のため、丙種でした、恥ずかしい気がします、と私の家に遊びに来て報告した。》
☆雪の夜の話「少女の友」1944年5月号《あの日、朝から、雪が降つてゐたわね。もうせんから、とりかかつてゐたおツルちゃん(姪)のモンペが出来上がつたので、あの日、学校の帰り、それをとどけに中野の叔母さんのうちに寄つたの。》
☆貨幣「婦人朝日」1946年2月号《私は、七七八五一号の百円紙幣です。あなたの財布の中の百円紙幣をちよつと調べてみて下さいまし。或るいは私はその中にはひつてゐるのかも知れません。もう私は、くたくたに疲れて、自分がいま誰の懐の中にゐるのやら、或るいは屑籠の中にでもはふり込まれてゐるのやら、さつぱり見当も附かなくなりました。》

リストの中でいちばん掲載の多い雑誌「若草」について、編者は「右に挙げた一覧のうち、「若草」という雑誌については、ここで少し触れておきたい」と、とくに解説を加えています。

《「若草」は、宝文館の「令女界」の姉妹雑誌として刊行された文芸雑誌である。その後、次第に男性読者・投書家も増えていくのだが、たとえば「雌に就いて」が掲載された前後の号には、「令女界でもよくみかけました」、「令女はサヨナラなさったの?」というように「令女界」や少女雑誌を経て「若草」にたどり着いたという読者の声もあり、創刊時の性格も踏まえて今回ここに収録した。》

そして、太宰治もこのリストの一番最初にあげられた小説「雌について」の冒頭で、「若草」という雑誌に小説を掲載するについて、言い訳がましくこんな書き出しで始めています。

《その若草という雑誌に、老い疲れたる小説を発表するのは、いたずらに、奇を求めての仕業でもなければ、読者へ無関心であるということへの証明でもない。このような小説もまた若い読者たちによろこばれるのだと思っているからである。私は、いまの世の中の若い読者たちが、案外に老人であることを知っている。こんな小説くらい、なんの苦もなく受け入れてくれるだろう。これは、希望を失った人たちの読む小説である。》

なるほど、なるほど。

この本に収録されている太宰治の「女性小説」といわれる作品が、そもそも女性読者を想定したこうした女性文芸雑誌に合うように努めて書かれたのだということがよく分かりました。そうですか、はじめて知りました、そういうことなら了解できますよね。

そして、思えばそれは商業誌としてならごく当然の話ですよね。注文のあった雑誌社の方針や当の雑誌の傾向に合わせて、それなりの作品を太宰は書こうとしたのだと思います。原稿料で食べていかなければならない以上、誰しもそれは「継続的にお仕事をもらうため」には、あるていど当然の判断だと思います。作家は、なにも書きたいものだけを書いていけるわけではなく、発注者の意向をできるだけ忖度して、自分の考え方と先様の要望との兼ね合いのなかで、作品を書くことがプロの作家というものなのだと。

むかし、酒の席で年端のいかない文学少女と太宰文学をめぐって大人気なく言い争うなど、最初から無益なことだったことが、やっとこれで分かりました。

太宰が女性向けに書いた小説を若き女性がまっすぐに受け取り理解したそのことに関して、場外にいるにすぎない大人の部外者がなにもとやかく言う必要も、そしてその資格もなかっただと。

「軟弱な文学」からも、「硬派な文学」からも究極的に受け取る本質というものはきっとただひとつか、あるいは大差なくて、ただそこにあるのは、語り口調やスタイルの違いがあるだけのはなしで、なにもむきになって目くじらを立てることもなかったのかもしれません。

なんかこう書いてみると、太宰治を最初から予断を持って貶してばかりいたみたいですか、決してそんなことはありません。

一時流行のように新潮社や講談社や中央公論、そして文芸春秋社や集英社が、競って出していた「日本文学全集」のたぐいの「太宰治集」からでは、とうてい読むことができなかった作品群(作品の格としてインパクト的に弱く優先順位が劣っていたということはあったかもしれませんが)がこうして読むことができたということは、やはり収穫だったと思います。

今回は、太宰治のストーリー・テラーとしての多才ぶり・巧みな構成力にとりわけ感銘を受けたという一席でした。

なんだよ、ほめてんじゃん。



by sentence2307 | 2019-08-14 11:48 | 徒然草 | Comments(0)
パソコンの前に座ると、最近、まず、することといえばyou tube動画をひとわたりチェックするということになります。

地上波テレビの間延びした(そのくせ内容空疎な)バラエティ情報番組より、よほど気が利いていて、作る側の「見せる努力と意欲」も十分に感じられ、大変すがすがしく、ダレたテレビなどより、よほど信頼できるというものです。

オレオレ詐欺の犯罪者集団だかなんだか知りませんが、陰ながらその筋からお小遣いを頂戴してほくそえみ、テレビでは善人に見せかけて世間を欺きふんぞり返っているような、くそ面白くもないお笑い芸人が馬鹿ヅラした馬鹿笑いが癇にさわって仕方ありません。謹慎くらいで済ませるなという感じです。しかも、さも新ネタみたいに自慢げに吹聴している話にしても、そこらの芸能週刊誌にいくらでも載っていそうな陳腐な話題の焼き直しなのはミエミエで、その思い上がった愚劣な馬鹿騒ぎに付き合うくらいなら、活力とアイデア、ナマの声に満ち満ちたyou tube動画を見ていた方が、まだしも有益で新鮮、短くとも充実した時間を過ごせるというものです。

テレビには、つくづく愛想が尽きました。あんなもの。

草の根的なyou tube動画の隆盛は、荒廃したテレビの在り方そのものを脅かしているというのに、そして、いまのままではカナラズヤ近い将来、確実に大衆から飽きられ、テレビの存在価値そのものが根底から覆されて、消滅しかねないと危ぶまれているというのに、この激動の「変革期」もカイモク理解できず相も変わらず愚劣な番組を十年一日量産し垂れ流している思い上がった無知と醜態にはもうこれ以上耐えられません。というか、自分などはもう何年も前からとっくに見放していて、せいぜい見るものといえば、映画かスポーツくらいです。

とまあ、そんな感じでここのところyou tube動画を見ているのですが、これも日常的に見ていると、なんだかひとつの傾向みたいなものを感じるようになりました。

それってまさか、例えばあの、見ているうちになんだか自然とコーラが飲みたくなってしまうみたいな「心理的誘導操作」が巧みに仕組まれているとかいう「あれ」なんがではないとは思いますが、最近、そんな感じでwebの森をさまよっていて感じたことがあるので、そのことについて若干書いてみますね。

you tube動画といえば、すこし前までは、北海道のインターアーバンさんという方が製作した、北海道の各本線をたどりながらすべての駅を自動車で走破するというyou tube動画に嵌っていました。

北海道の各線・各駅が必ずしも国道・道道に整然と平行して走っているわけではないので、ときには、とんでもない脇道を迂回しなければならなかったり、人も通わない狭い田んぼ道や雑木林に迷い込んだりと、北海道の原野をこれでもかというくらい堪能できるスグレモノの動画で、傍らに置いた北海道鉄道路線図の各駅にチェックを入れながら日々見ていくうちに全ての駅にチェックが入ってしまいました。

新幹線が停車することによって華麗に整備された駅とか、大都市をひかえた近郊で乗降客が増えて急に手狭になるなど、そういう幸運な駅は、むしろ例外で、ほとんどの駅は、特急列車にスルーされて、停車する電車は日に2~3本くらい、それもだいたいは無人駅で、乗降客は日に数人(その人数に合わせて停車しているらしいのですが)、過疎化が進む辺境の地にあれば、端から徐々に秘境駅となり、やがてバタバタと廃駅となるというのが北海道の鉄道の運命と進行形の現状なのだなと感じさせられるスグレモノの動画です。

そうそう、この動画に出会ったのは、あのカーリングの聖地・北見市常呂町がどういう町かと検索し、また「北見駅」がどういう駅かと眺めていたときに、そのままの流れで「石北本線」の各駅をめぐるこの動画に出会ったのでした。もうほとんど秘境駅という感じの「西女満別駅」とか、「下白滝駅」から「上白滝駅」にかけての荒涼とした原野にある駅が廃駅となる前後の経緯を描いたドキュメンタリー番組を絡めて見たこともありました。

なんといっても実際の自然の風景や街路のたたずまいなど、世界の隅々まで居ながらにして見せてくれるこの手の「ストリートビュー動画」は、インターネットのすぐれた特性だと思います。

北海道の原野の魅力にすっかり魅入られてしまったので、二回目、三回目のインターネット北海道周遊を再びする可能性は大だと思います。こう考えると四国八十八ヶ所巡礼の魅力というのも、こういう感じなのかもしれません。全部のお寺を踏破するリアルな動画というのは存在するのでしょうか、たいへん興味があります。

しかし、この一連のyou tube動画は、見たい動画をピンポイントで語句指定して特定して見ていたわけですが、現実はなにもそんな律儀なことをしているだけではなくて、多くの場合、特に目的も指定もすることなくナニゲに見流す(こんな言葉はありませんが、昔風にいえば、いわばネットサーフィンです)目の前にある面白そうな動画を次々とたどっていくというダラダラした感じがむしろリアルです。

そしてこの場合の「興味を引く」というそのキモの部分は人それぞれに異なると思いますが、自分の場合は、「ものすごく気持ち良くしてくれる」ということが最優先のポイントということになります。

この「ポイント」に当たる動画を具体的に個々に上げていかなければ、「ものすごく気持ち良くしてくれる」という抽象の説明にはならないと思うので、まあ、キリがありませんが、そのうちの2~3を上げてみることにしますね。

そのひとつには、なんといっても「外人さんの日本褒め」という動画があります。

とにかく、日本好きの外人さんが日本のことをやたら褒める。

長い間日本に憧れていてやっと観光で来たという人から、もう何年も住み着いてしまっている人まで、それも欧米人、アジア人、中近東からアフリカまで、それこそ多種多彩の人種がいて、それこそ、やれ財布を落したら無事に返ってきただの、中身の金も手付かずだっただの、道に迷っていたら親切なタクシーの運転手さんが空港まで送ってくれて飛行機に間にあったうえに料金も受け取らなかっただの、日本では黒人なのに差別をされなかっただの、日本で生まれた黒人の少女が渡米したら始めて差別を知って差別されない日本社会に改めて感激しただの、いわば日本人の善良さ・規律正しさをあげるものとか、いやいや、まだありました、日本の風景(サクラとか)をベタほめし、温水洗浄トイレに喜声をあげ、スクランブル交差点と竹下通りと歌舞伎町、築地市場や浅草寺をレンタル着物でさまよい歩き、秋葉原のメイドカフェをのぞき、林立する自動販売機の数を数え、モノレールに乗り、新幹線のスピードにびっくりし、日本食の美味さ加減に大仰にのけぞってみせ(それも寿司や神戸牛、スキヤキや天麩羅ならともかく、お好み焼き・たこ焼き・ラーメンのたぐいにまでデリシャスやトレビアンの連発なのですから、そこまでいくと揶揄されているのではないかと疑心暗鬼になるのは当然で、それにしてもなにがなんだかわけがわかりません)、そして、ツアーのコースにでもなっているのか必ず伏見稲荷の赤鳥居のトンネルを嬉々としてくぐり、奈良公園の鹿に餌をあげてお辞儀をさせ、大仏を見て喜ぶという、そうした動画が延々累々と続きます。

まあ、来日観光客数というのが年々増大しているということですから、この動画のすべてが「眉唾」とは思いませんが、「本当かよ」という気持ちは、どうしても拭えません、それほどのことなのかよ、とこうなります。ならざるを得ません。

しかし、そう思いながらも、この似たような動画を飽きもせずに延々と見ることができるのは、やはりそこに「外人さんの日本褒め」の心地よさがあることは確かです。とにかく日本人は外人さんに褒められることにとても弱くて、だから大好きなのだと思います。自分も含めてね。それは日本人の中に業のように根深い外国コンプレックスとかがあって(だからいつまでたっても英語が喋れないのかもしれません)、外人に褒められると罪を贖われたように感激して、なんでも許してしまえる部分があるからだと思います。それを外人さんは日本人の善良さと誤解しているフシもあって、その双方のボタンの掛け違え感がまたなんとも言えない心地よさなのです。

そして、この流れで延々と動画を見ていくと、やがて「究極の動画」というのに行き着きます。つまり、いわゆる極め付け、それが「舞妓さんウォッチ」です。

これも日本観光ツアーのコースになっているのではないかと思うくらい、外国人観光客がぞろぞろと四条通りから花見小路あたりのお茶屋さんや置屋さんの前をなんとなくぶらついて、あきらかに舞妓さんや芸妓さんが通り掛るのを待ち伏せしてタムロしているふうで、そして、突如、舞妓さんが「出現する」(実際は、お茶屋さんに出向くだけなのですが)となると、まるで「怖いもの見たさ」で遠目からチラミをする遠慮深い人から、すれ違いざまに至近距離でカメラを向け、それでも飽きたらずに血相変えて追っかけまわすという正直にずうずうしい人までいろいろいて、この様子を見ているだけでも外人さんたちの「舞妓さん」に向ける興味と感心の高さがうかがわれます。聞くところによると、このずうずうしい追っかけの観光客の誰もが必ずしも善人というわけではなく、後ろからカンザシや髪飾りを引き抜いて盗んだり、ひどいのになると襟からなにかを入れたりするというとんでもないやつもいるとかで、舞妓さんたちもいい迷惑で、いくら注目の的になっているからといって、必ずしも善良に受け止めて悦に入っている場合ではない油断ならない部分もあるそうなのです。

これではまるで野鳥観察ではないかとも思ってしまうのですが、しかし、残念ながら「品」と「距離感」と「好奇心の質」の面においては、「舞妓さんウォッチ」の方は、はるかに「品」に欠け「危険な距離感」で「善良さに欠ける好奇心」によって、美しく見せるために無抵抗なのに付け込まれ、それをいいことに盗みや小暴力の危険や被害にさらされるという実に生々しい人間的な善悪の彼岸にいることを感じました。

自分がこの一連の動画を見ていて直感したのは、むかし、小売店の開店祝いの宣伝のために近所を賑やかに練り歩いた白塗りの顔のチンドン屋のあとを子供たちがぞろぞろとついて歩いていたあの景色でした。なによりも子供心には、あの「白塗りの顔」の物珍しさというのは、非日常のヨコハマメリーさん風な「異様さ」と同じものだったと思います。むかし、天井桟敷や状況劇場の芝居をみたとき、「白塗り」の顔を異様と受け止めたあの感性と同じものを見たのだと感じました。

いやいや、「チンドン屋」の白塗りと「舞妓さん」の美しい白塗りを比較するなんて、なんという不見識だとお叱りを受けそうですが、子供心に思ったことなので、なにとぞお許しください。

考えてみれば、自分がいままで舞妓さんの白塗りを、そうした美しさの面から見たことがまったくなくて、むしろ「異様さ」からしか見ていなかったという、それくらい遠い世界の存在だったということなのだと思います。

ですので、多くの舞妓さんたちが語る「舞妓さんになろうと思った動機」が、修学旅行のときに美しい舞妓さんを見て自分もなりたいと思ったというコメントなど、自分的にはどうにも実感の伴わない空疎なものに聞こえてしまって仕方ありませんでした。

そういえば、この「はるかに遠い存在」感は、水田伸生監督「舞妓Haaaan!!!」2007や周防正行監督「舞妓はレディ」2014を見たときも、「なぜ、いまさら、舞妓さんなんだ?」という唐突さと違和感しかなく、正直「意味、分かんねえ」という思いしか抱けませんでした。無理もありませんよ、遠い祇園のお茶屋遊びのことなど空想するにも手掛かりがなく「無」の状態だったのですから、興味がどうのこうのという段階にさえ至ってなかったわけで、ですから「舞妓さん」など、存在それ自体が現実とは考えられない存在だったのはしごく当然のことだったと思います。

その意味でいえば自分など、あの「善良さに欠ける悪意の好奇心に満ちた観光客」にもおよばない、それより以下の日本人にすぎませんでした。


(注)劇場版映画は以下のとおり。
舞妓はんだよ全員集合!!(1972年 松竹 ザ・ドリフターズ、吉沢京子主演)
舞妓はん(1963年、松竹、橋幸夫、倍賞千恵子主演)
舞妓物語(1987年、松竹、岡本舞子主演)
舞妓物語(1954年、東宝、峰幸子主演)(ストーリーは上とまったく違う)
祇園小唄絵日傘(1930年、マキノプロダクション、桜木梅子主演)
祇園囃子(1953年、大映、若尾文子主演)
祇園囃子(1934年、松竹、飯塚敏子主演)
おもちゃ(1999年、東映、宮本真希主演)
SAYURI(2005年、松竹配給、チャン・ツィイー主演)
舞妓Haaaan!!!(2007年、東宝配給、阿部サダヲ、堤真一、柴咲コウ主演)
舞妓はレディ(2014年、東宝配給、上白石萌音主演)


そんな感じで、外国人観光客の「舞妓さん追っかけ動画」を見ていたのですが、しかし、その手の動画のなかには、なにも興味本位のものばかりとは限らず好意的に舞妓さんや芸妓さんを美しく撮ろうという好事家の撮った動画もあることに気がつきました。満開のサクラの下での撮影会とか。奉納舞とか。イベントとか。

そこで驚天動地の、とてつもなく美形の芸妓さんを見つけてしまいました、さっそく名前をメモりました。そこには、祗園東の「つね桃さん」と書いてあります。とにかく、ものすごい美人。というか、そのキップの良さは、どう見ても柳橋とか赤坂芸者のイメージで、上品でおとなし目の芸舞妓さんが多い京都らしからぬ鋭さがあって、そのことを本人も一向に隠そうとしない明け透けなところが却って清々しく、好感を持ちました。どうすれば自分を美しく見せられるか(髷で白塗りの裾引き)を熟知しているプロに徹した賢さと自信と開き直りも、見るものを安心させるものがあります。

さっそくアレコレと検索をかけてみました。


山口県萩市出身 1987.2.6生
2002 祇園東「繁の家」に仕込みさんとして入る。
2003.3.3 舞妓さんとしてデビュー、桃の節供にちなんで「つね桃」に。
2008.11.28 21歳で襟変え(ということは、1987年生まれということですか)


なるほど、なるほど。検索していくにつれて、このヒトが、「超」のつく売れっ子芸妓さんということは、画像と動画の多さからでも容易に分かりました(むしろ、知らなかったのは自分だけだったのかという気分にさえ段々なってきたくらいです)が、そんなふうに調べ進むうちに、新しいコメントの調子が、なんだか過去形で書かれているようなのが少し気に掛かり始めたとき、「つね桃さんの結婚式」という記事に遭遇しました。どうも結婚を機に引退されたような感じです。

なるほどね、そりぁそうですよ、なにしろこの美形です、男たちが放っておくわけがありません。
外国人観光客が、舞妓さんの追っかけくらいでは気が納まらず、舞妓さんに成り切るコスプレ(和装レンタルと髷と白塗りの化粧がセットになっています)まで結構繁盛している意味もこれでよく分かりました。




●京都五花街の舞妓さん・芸妓さん名前一覧  2019.04.17 現在しらべ

★祇園甲部
【舞妓】
小純 こすみ 廣島家
鈴乃 すずの 福嶋
まめ樹 まめじゅ 多麻
豆結 まめゆい ニンベン
美羽子 みわこ 西村
佳つ笑 かつえみ 小田本
槇里子 まりこ 西村
市紘 いちひろ 中支志
小奈都 こなつ 中支志
あすか あすか つる居
菜乃葉 なのは 多麻
豆誉 まめよ 新井
瑞乃 みずの 福嶋
佳つ桃 かつもも 小田本
佳つ春 かつはる 小田本
豆沙弥 まめさや 柴田
多都葉 たつは 多麻
ゆり葉 ゆりは 多麻
豆珠 まめたま イ
小なみ こなみ 中支志
朋子 ともこ 西村
小花 こはな 枡梅
美月 みつき つる居
まめ衣 まめきぬ 多麻
佳つ花 かつはな 小田本
小衿 こえり 廣島家
まめ春 まめはる 多麻
【芸妓】
まめ柳 まめりゅう 多麻
茉利佳 まりか つる居
市晴 いちはる 中支志
紫乃 しの 福嶋
実佳子 みかこ 西村
佳つ江 かつえ 小田本
豆純 まめすみ 亻
市十美 いちとみ 中支志
佳つ雛 かつひな 小田本
豆六 まめろく 新井
恵里葉 えりは 多麻
真咲 まさき 美の八重
佳つ智 かつとも 小田本
紗月 さつき つる居
章乃 ふみの 福嶋
千紗子 ちさこ 西村
豆まる まめまる 柴田
小芳 こよし 廣島家
つる葉 つるは 多麻
紗矢佳 さやか つる居
小扇 こせん 廣島家
市有里 いちゆり 中支志
槙子 まきこ 西村
有佳子 ゆかこ 西村
真生 まお 美の八重
小愛 こあい 廣島家
満友葉 まゆは 多麻
【引退】
紗貴子 さきこ 西村
亜矢子 あやこ 西村
まめ章 まめあき 多麻
豆こま まめこま 柴田
真希乃 まきの 美の八重
豆千佳 まめちか 新井
清乃 きよの 福嶋
知余子 ちよこ 西村
佳つ扇 かつせん 小田本
由喜葉 ゆきは 多麻
夢乃 ゆめの 福嶋
まめ藤 まめふじ 多麻
まめ菊 まめきく 多麻
佳之介 かつのすけ 小田本
杏佳 きょうか つる居

★祇園東
【舞妓】
満彩尚 まさなお まん
叶久 かのひさ 叶家
叶千代 かのちよ 叶家
富千英 とみちえ 富菊
涼真 りょうま 栄政
満彩野 まさの まん
叶紘 かのひろ 叶家
【芸妓】
雛佑 ひなゆう 岡とめ
富津愈 とみつゆ 富菊
富多愛 とみたえ 富菊
まりこ 岡とめ
美晴 みはる 岡とめ
つね有 つねゆう 繁の家
つね和 つねかず 繁の家
満彩希 まさき まん
涼香 りょうか 榮政
豊壽 とよひさ 榮政
美弥子 みやこ 叶家
【引退】
満佐子 まさこ まん
雛菊 ひなぎく 岡とめ
文音 ふみね 岡とめ
満彩美 まさみ まん
つね桃 つねもも 繁の家
富久春 ふくはる 岡とめ
叶菜 かのな 叶家
駒子 こまこ 岡とめ
叶笑 かのえみ 叶家

★宮川町
【舞妓】
とし菜穂 としなほ 駒屋
とし菜希 としなぎ 駒屋
叶笑 かなえみ 川久
ふく典 ふくのり しげ森
君咲 きみさき 本城
小晶 こあき 花傳
ふく友梨 ふくゆり 堀八重
君萌 きみもえ 利きみ
とし七菜 としなな 駒屋
とし菜実 としなみ 駒屋
千賀染 ちかそめ 駒屋
菊咲奈 きくさな 花ふさ
ふく那 ふくな 河よ志
ふく香奈 ふくかな 河よ志
ふく千華 ふくちか 堀八重
富美梗 ふみきょう よし富美
小えん こえん しげ森
菊弥江 きくやえ 花ふさ
千賀明 ちかさや 駒屋
千賀遥 ちかはる 駒屋
ふく弥 ふくや 河よ志
とし恵美 としえみ 駒屋
叶幸 かなゆき 利きみ
ふく珠 ふくたま しげ森
叶子 かなこ 川久
ふく朋 ふくとも 堀八重
小はる こはる しげ森
【芸妓】
ふく音 ふくね 河よ志
とし純 としすみ 駒屋
小梅 こうめ 花傳
里春 さとはる 川久
ふく兆 ふくちょう しげ森
田ね文 たねふみ 高よし
富美夏 ふみか よし富美
君綾 きみあや 本城
弥千穂 やちほ 花傳
ふく恵 ふくえ 河よ志
ふく紘 ふくひろ しげ森
小ふく こふく しげ森
美恵雛 みえひな 春富
ふく尚 ふくなお 石初
ふく鈴 ふくすず 石初
ふく光 ふくてる 堀八重
とし真菜 としまな 駒屋
とし夏菜 としかな 駒屋
とし輝 としてる 駒屋
菊志乃 きくしの 花ふさ
里香 さとか 川久
【引退】
君さ代 きみさよ 本城
ふく英 ふくはな しげ森
富美苑 ふみその よし富美
富美芳 ふみよし よし富美
小凛 こりん 花傳
君有 きみゆう 本城
君とよ きみとよ 利きみ
君ひろ きみひろ 利きみ
ふく乃 ふくの 河よ志
小よし こよし しげ森
千賀すず ちかすず 駒屋
とし桃 としもも 駒屋
ふく苗 ふくなえ しげ森
美恵菜 みえな 石初
ふく真莉 ふくまり 堀八重
とし日菜 としひな 駒屋
とし智 としとも 駒屋

★先斗町
【舞妓】
秀眞衣 ひでまい 雅美家
秀華乃 ひでかの 雅美家
市愛 いちあい 舛之矢
市すみ いちすみ 山口
市沙登 いちさと 舛之矢
もみ香 もみか 山口
光はな みつはな 丹美賀
市結 いちゆう 勝見
市彩 いちあや 舛之矢
【芸妓】
多香 たか 山口
久桃 ひさもも 井雪
もみ福 もみふく 山口
あや野 あやの 山口
久鈴 ひさすず 舛之矢
市福 いちふく 舛之矢
【引退】
市奈菜 いちなな 山口
もみ陽菜 もみひな 丹美賀
市照 いちてる 舛之矢
あや葉 あやは 勝見
市駒 いちこま 丹美賀

★上七軒
【舞妓】 
尚舞 なおまい 中里 
市梅 いちうめ 市 
市ぎく いちぎく 市
勝貴 かつき 大文字
梅たえ うめたえ 梅乃
ふみ幸 ふみゆき 勝ふみ
市彩 いちあや 市
梅ひな うめひな 梅乃
市多佳 いちたか 市
【芸妓】
尚絹 なおきぬ 中里
尚可寿 なおかず 中里
【引退】
梅叶菜 うめかな 梅乃
勝音 かつね 大文字
市まり いちまり 市
梅なな うめなな 梅乃
梅はな うめはな 梅乃
梅ちえ うめちえ 梅乃
市こま いちこま 市
市知 いちとも 市
尚あい なおあい 中里
勝奈 かつな 大文字
勝也 かつや 大文字
梅蝶 うめちょう 梅乃
梅咲久 うめさく 梅乃
勝瑠 かつる 大文字



by sentence2307 | 2019-06-25 19:45 | 徒然草 | Comments(0)

黙って聴いてろ!!

わが地域には、ボランティアが運営している「日本語教室」というのがあります。

地域に居住している外国人が、生活に困らない程度の日本語の日常会話を短期間で無料で教えるという教室ですが、難解な日本語ができずに困っていて、教えてもらいたいという外国人のニーズはここ最近顕著にあるのに、その要望の増加に追いつけない教える側の人材不足というのが常態的に存在しているのです。

教えるといっても、まるっきりの無資格では講師になることはできません、ある一定の講座を受けて(当然有料です)、そのうえで既定の教材(これも有料)にそった「教え方」というのが段階的に決められていて、そこには自治体がらみというシガラミもあるので当然それなりの規定というものは避けがたく、ただの素直な善意だけで通じるようなものではなくて、そりゃあ、なかなか「うるさい」ものが、ないでもありません。

日本語を習得したいという外国人のニーズがこれほどあり、たとえ有料でも構わないから短期間で教えてほしいという熱い機運が一方にあるのに、「規約」に捉われて身動きできないひとつには「授業は無料」という足かせもありました。

しかし、「いま」というこの現実において、もしかしたら彼ら外国人の方が経済的に日本人より余程豊かかもしれないのに(ここでいう「外国人」が、どうも中国人を指しているらしいと感じたとしたら、その直感は正しいです)、このボランティアの「日本語教室」の根底には、依然として十数年前の、まだまだ貧しかった外国人に施しを与えるという旧態依然のイデオロギー(そんなものは今となっては、実態にそぐわない経済借款と同じような、もはや幻想にしかすぎません)が存在していて、そうしたすべての「規制」にがんじがらめになってしまい、実際の要望にも応えることができずに、どうにも身動きが取れなくなって一歩も進めないでいる姿を見ていると、「構造改革」とか「規制改革」という言葉をどうしても思い出さないわけにはいきません、「貧しさ」「施し」「資格」「定型化した講座」「無料」、いつまでも、こんな「上から目線」の古びた優越規制にこだわっていて、目の前にある現実に適応できずにマニュアルどおりにしか動けない頑なさを見るにつけて、あるベトナム人の女性の言葉を思い出しました。

「日本人はとても親切で、日本語を熱心に教えてくれるいい人たちばかりだけれども、なぜみんな英語が喋れないのか、日本では英語を教えないのか」と。

外国人に日本語を教えるに際しては、極力英語は使わないようにというお達しは、確かにありますが、これみよがしに英語をひけらかしたくて仕様がないという異常者や能天気な変態は別として、「片言」~「まったく」まで、英語を喋れないという人たちは事実として多くいると思います。自分も含めてね。

そう思えば、僕たちが、中学校から大学にいたるまで「英語教育」というのを足掛け10年近く受けてきたはずなのに、英語が喋れないというのは、ベトナム人女性から改めて言われなくとも、異常なことには違いないと気づかされ「なるほどな」と思わず同感してしまいました。

「貴国においてはいざ知らず、日本においては、およそ6年から10年くらいは英語を習うであろう」と、そのベトナム人女性に答えようと思いながら、「その理由」というのも併せて答える必要があるだろうかと思ったとき、むかし高校の教師から

「黙って聴いてろ!!」

と恫喝されたことを、突如、思い出しました。

自分は、むかしから理屈っぽい性格で、疑問に思ったこと、納得ができないことは根掘り葉掘り訊かずにはおれない性格であることは確かです。

嫌な性格なら、長ずるにおよんで徐々に矯正するというのが普通の行き方かもしれませんが、もともと「嫌だ」とは考えていなかったので矯正することもなく、ちょうど高校の頃は、その「根掘り葉掘り」がピークに達したときだったかもしれません。

授業中でも突っ込みどころがあると、手を挙げてよく質問していました。

そして、その理屈っぽい「根掘り葉掘り」に業を煮やして激怒した教師から、ついに、

「黙って聴いてろ!!」

のお言葉を頂戴したのだと思います。

なるほど、なるほど。

「黙って聴いてろ!!」の一方通行の授業では、何年たっても英語が話せるようになるとは、とうてい思えません。一向に喋れない自分がまさにその証拠ですし、多くの日本人がその証拠でもあります。

さて、このベトナム人女性に、10年も学習しながら日本人が一向に英語を話せない理由を、どのように説明したらいいのか、じっと天井を見上げて、しばし考えてしまいました。

天井を見上げながら不気味な三白眼になって固まってしまった日本人のおっさんを前にして、その若きベトナム人女性は、一瞬怯え、かすかに身を引いたかもしれません。



by sentence2307 | 2019-05-25 12:14 | 徒然草 | Comments(0)
アカデミー賞が最高の映画に与えられる映画の祭典なら、ラジー賞(正式名称は、ゴールデン・ラズベリー賞)は、最低の映画に与えられる映画の祭典です。

授賞式は、アカデミー賞の授賞式が行われる前日の2月23日(現地時間)に行われますが、今朝、そのノミネートというのが発表されていました、なんといっても失笑なのは、トランプ大統領が2部門でノミネートされていていることでしょうか。

ひとつは、「ワースト主演男優賞」。

ドナルド・トランプ(「華氏119」「Death of a Nation(原題)」)が本人としてノミネートされているのが、ひとつ。

もうひとつは、「出演者およびパペットのあらゆるコンビ」に与えられる「ワースト・スクリーンコンボ」では、「ドナルド・トランプと彼の永続的な心の狭さ」という理由でノミネートされています。

さすがアメリカ、みごとです、権力者にも物怖じしないこの辛辣なユーモア、見上げたものです。

しかし、このユーモアにトランプ大統領がどう返すか、たぶん、ツイッターで「自分を非難するマスコミを徹底攻撃」というあたりがいいところだと、大方の予想はつきますが、ユーモアで返せないこういうところが、やっぱ、この人の余裕のなさというか、限界って感じですかね。あらゆる人間は、すべて敵だ、みたいな。

そこで思い出しました、先週の読売新聞の書評(2019.1.20朝刊)で、トランプ大統領について書かれた本が紹介されていて、ものすごく感心したので、とっておきました。

これです、これ。「FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実」(日本経済新聞出版社)

著者は、ボブ・ウッドワードという米国を代表するジャーナリストで、現在はワシントンポスト紙の副編集長をしている方だそうです。そして、この素晴らしい書評を書いたのは、森健氏。ちょっと、引用してみますね。


≪政権発足から2年。メキシコ国境での壁建設などの大統領令やマティス前国防長官を含む多くの要職の解任など、正常とは思えない数々の判断をしてきたアメリカのトランプ大統領。だが本書を読むと、実像はもっとひどいことが分かる。著者はかつてウォーターゲート事件を暴いたベテラン記者。本書でも政権内幕の信じがたい話が活写される。描かれるのは政権発足の前段から大統領に就任して1年半あまりの日々。その間、ロシアゲート、北朝鮮の核ミサイル問題、貿易問題などの難題が続いていく。
まず驚くのは彼が大統領としての仕事を根本的に理解していないことだ。当選後、政治任用の4000のポストに誰を当てるかもまるで用意がなく、ヨーロッパや韓国との安全保障の連携もお金の支出額でしか判断しない。
お金の話には「興奮」するが、政府の財政運営は理解していない。財政赤字を減らせという一方、政府は財務省証券を発行し、売って儲けを出せばいいという。それは財政赤字を増やすことだが、と指摘すると「どういう意味だ?」とくる。貿易や産業の関係に疎く、製造業からサービス業への流入が多いのは「理解できない」。
恐ろしいのは、記憶も不確かなところだ。オーストラリアの首相と関税について除外すると請け合ったのに、8か月経つと話したことも覚えていない。そして、夜はテレビをつけっぱなしで見続け、ツイッターに興じる。
こうした危うい大統領を懸念し、中枢の要職は大統領を通さずに仕事をする。前国務長官は独断でカタールとの外交文書の覚書に調印し、国家経済会議委員長は韓国大統領宛の親書を隠したりする。隠したのは米韓自由貿易協定の破棄という内容だったためだ。
前国務長官は会議で本人が不在の時にみんなに言う。「あの男は知能が低い」。こうした人物が世界最大の権力を握っている。読んでいる方も恐怖を覚える本である。≫


ふ~ん、これじゃあまるでヒトラー政権の最後みたいじゃないですか。

まあ、とにかくラジー賞のノミネートの記事と歴代受賞者と作品を末尾に掲載しておきますね。


★ラジー賞ノミネート発表 トランプ大統領がワースト主演男優賞に
(2019.1.22 17:00)

ワースト主演男優賞にトランプ大統領がノミネート
[映画.com ニュース] 最低映画の祭典ゴールデン・ラズベリー賞(通称ラジー賞)のノミネートが発表された。
今年で39回目となるラジー賞は、ジョン・トラボルタ主演のクライム映画「ギャング・イン・ニューヨーク」、パペットと人間が共存する世界を舞台に展開するR指定コメディ「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」、ウィル・フェレルとジョン・C・ライリー共演で映画化された「ホームズ&ワトソン」が、最多6部門ノミネートで並ぶ大混戦。また、「華氏119」などにニュース映像で登場したドナルド・トランプ大統領が2部門、メラニア夫人とケリーアン・コンウェイ大統領顧問が1部門でノミネートされている。
さらに、映画のなかの最悪の組み合わせを選出するはずのワースト・スクリーンコンボ賞に、「ジョニー・デップと彼の急降下中の映画のキャリア」や「ドナルド・トランプと彼の永続的な心の狭さ」などをノミネートしており、ユーモアや話題性を優先した結果となっている。第39回ゴールデン・ラズベリー賞授賞式は、アカデミー賞の前日2月23日(現時時間)に行われる。

ノミネート結果は以下の通り。

★ワースト作品賞
「ギャング・イン・ニューヨーク」
「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」
「ホームズ&ワトソン(原題)」
「ロビン・フッド(原題)」
「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」

★ワースト主演男優賞
ジョニー・デップ(「名探偵シャーロック・ノームズ」)
ウィル・フェレル(「ホームズ&ワトソン(原題)」)
ジョン・トラボルタ(「ギャング・イン・ニューヨーク」)
ドナルド・トランプ(本人として)(「華氏119」「Death of a Nation(原題)」)
ブルース・ウィリス(「デス・ショット」)

★ワースト主演女優賞
ジェニファー・ガーナー(「ペパーミント(原題)」)
アンバー・ハード(「ロンドン・フィールズ(原題)」)
メリッサ・マッカーシー(「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」)
ヘレン・ミレン(「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」)
アマンダ・セイフライド(「ジュディーを探して」)

★ワースト助演男優賞
ジェイミー・フォックス(「ロビン・フッド(原題)」)
リュダクリス(「ショウ・ドッグス(原題)」)
ジョエル・マクヘイル(「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」)
ジョン・C・ライリー(「ホームズ&ワトソン(原題)」)
ジャスティス・スミス(「ジュラシック・ワールド 炎の王国」)

★ワースト助演女優賞
ケリーアン・コンウェイ(本人)(「華氏119」)
マーシャ・ゲイ・ハーデン(「フィフティ・シェイズ・フリード」)
ケリー・プレストン(「ギャング・イン・ニューヨーク」)
ジャズ・シンクレア(「スレンダーマン 奴を見たら、終わり」)
メラニア・トランプ(本人)(「華氏119」)

★ワースト・スクリーンコンボ
出演者およびパペットのあらゆるコンビ(「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」)
ジョニー・デップと急降下中の映画のキャリア(「名探偵シャーロック・ノームズ」)
ウィル・フェレルとジョン・C・ライリー(「ホームズ&ワトソン(原題)」)
ケリー・プレストンとジョン・トラボルタ(「ギャング・イン・ニューヨーク」)
ドナルド・トランプと彼の永続的な心の狭さ(「華氏119」「Death of a Nation(原題)」)

★ワースト・リメイク/パクリ/続編
「Death of a Nation(原題)」
「デス・ショット」
「ホームズ&ワトソン(原題)」
「MEG ザ・モンスター」(「ジョーズ」のパクリ)
「ロビン・フッド(原題)」

★ワースト監督賞
イータン・コーエン(「ホームズ&ワトソン(原題)」)
ケビン・コノリー(「ギャング・イン・ニューヨーク」)
ジェームズ・フォーリー(「フィフィティ・シェイズ・フリード」)
ブライアン・ヘンソン(「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」)
ピーター・スピエリッグ&マイケル・スピエリッグ(「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」)

★ワースト脚本賞
「Death of a Nation(原題)」
「フィフティ・シェイズ・フリード」
「ギャング・イン・ニューヨーク」
「パペット大騒査線 追憶の紫影(パープル・シャドー)」
「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」
(映画.com速報)





★歴代のラジー賞(最低作品賞、最低主演男優賞、最低主演女優賞、最低監督賞)

1980年(第1回)
最低作品賞:『ミュージック・ミュージック』
最低主演男優賞:ニール・ダイアモンド(『ジャズ・シンガー』)
最低主演女優賞:ブルック・シールズ(『青い珊瑚礁』)
最低監督賞:ロバート・グリーンウォルド(『ザナドゥ』)

1981年(第2回)
最低作品賞:『愛と憎しみの伝説』
最低主演男優賞:クリントン・スピルスベリー(『ローン・レンジャー』)
最低主演女優賞:ボー・デレク(『類猿人ターザン』)、フェイ・ダナウェイ(『愛と憎しみの伝説』)
最低監督賞:マイケル・チミノ(『天国の門』)

1982年(第3回)
最低作品賞:『インチョン!』
最低主演男優賞:ローレンス・オリヴィエ(『インチョン!』)
最低主演女優賞:ピア・ザドラ(『Butterfly』)
最低監督賞:テレンス・ヤング(『インチョン!』)、ケン・アナキン(『パイレーツ・ムービー/恋のしおかぜ』)

1983年(第4回)
最低作品賞:『The Lonely Lady』
最低主演男優賞:クリストファー・アトキンズ(『ナイト・イン・ヘブン』)
最低主演女優賞:ピア・ザドラ(『The Lonely Lady』)
最低監督賞:ピーター・サスディ(『The Lonely Lady』)

1984年(第5回)
最低作品賞:『ボレロ/愛欲の日々』
最低主演男優賞:シルヴェスター・スタローン(『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』)
最低主演女優賞:ボー・デレク(『ボレロ/愛欲の日々』)
最低監督賞:ジョン・デレク(『ボレロ/愛欲の日々』)

1985年(第6回)
最低作品賞:『ランボー/怒りの脱出』
最低主演男優賞:シルヴェスター・スタローン(『ランボー/怒りの脱出』『ロッキー4/炎の友情』)
最低主演女優賞:リンダ・ブレア(『ナイト・パトロール』『非情の島・女囚大脱走』『暴行都市』)
最低監督賞:シルヴェスター・スタローン(『ロッキー4/炎の友情』)

1986年(第7回)
最低作品賞:『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』
最低主演男優賞:プリンス(『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』)
最低主演女優賞:マドンナ(『上海サプライズ』)
最低監督賞:プリンス(『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』)

1987年(第8回)
最低作品賞:『ビル・コスビーのそれ行けレオナルド』
最低主演男優賞:ビル・コスビー(『ビル・コスビーのそれ行けレオナルド』)
最低主演女優賞:マドンナ(『フーズ・ザット・ガール』)
最低監督賞:ノーマン・メイラー(『タフガイは踊らない』)、エレイン・メイ(『イシュタール』)

1988年(第9回)
最低作品賞:『カクテル』
最低主演男優賞:シルヴェスター・スタローン(『ランボー3/怒りのアフガン』)
最低主演女優賞:ライザ・ミネリ(『ミスター・アーサー2』『レンタ・コップ』)
最低監督賞:ブレイク・エドワーズ(『キャデラック・カウボーイ』)、スチュワート・ラフィル(『マック』)

1989年(第10回)
最低作品賞:『スタートレックV 新たなる未知へ』
最低主演男優賞:ウィリアム・シャトナー(『スタートレックV 新たなる未知へ』)
最低主演女優賞:ヘザー・ロックリア(『怪人スワンプシング』)
最低監督賞:ウィリアム・シャトナー(『スタートレックV 新たなる未知へ』)

10周年特別賞
10年間の最低作品賞:『愛と憎しみの伝説』
10年間の最低男優賞:シルヴェスター・スタローン(『コブラ』『ロックアップ』『オーバー・ザ・トップ』『ランボー/怒りの脱出』『ランボー3/怒りのアフガン』『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』『ロッキー4/炎の友情』『デッドフォール』)
10年間の最低女優賞:ボー・デレク(『ボレロ/愛欲の日々』『類猿人ターザン』)
10年間の最低新人賞:ピア・ザドラ(『Butterfly』『The Lonely Lady』)

1990年(第11回)
最低作品賞:『フォード・フェアレーンの冒険』『ゴースト・ラブ』
最低主演男優賞:アンドリュー・ダイス・クレイ(『フォード・フェアレーンの冒険』)
最低主演女優賞:ボー・デレク(『ゴースト・ラブ』)
最低監督賞:ジョン・デレク(『ゴースト・ラブ』)

1991年(第12回)
最低作品賞:『ハドソン・ホーク』
最低主演男優賞:ケビン・コスナー(『ロビン・フッド』)
最低主演女優賞:ショーン・ヤング(『死の接吻』)
最低監督賞:マイケル・レーマン(『ハドソン・ホーク』)

1992年(第13回)
最低作品賞:『嵐の中で輝いて』
最低主演男優賞:シルヴェスター・スタローン(『刑事ジョー/ママにお手あげ』)
最低主演女優賞:メラニー・グリフィス(『嵐の中で輝いて』『刑事エデン/追跡者』)
最低監督賞:デヴィッド・セルツァー(『嵐の中で輝いて』)

1993年(第14回)
最低作品賞:『幸福の条件』
最低主演男優賞:バート・レイノルズ(『コップ・アンド・ハーフ』)
最低主演女優賞:マドンナ(『BODY/ボディ』)
最低監督賞:ジェニファー・チェンバース・リンチ(『ボクシング・ヘレナ』)

1994年(第15回)
最低作品賞:『薔薇の素顔』
最低主演男優賞:ケビン・コスナー(『ワイアット・アープ』)
最低主演女優賞:シャロン・ストーン(『わかれ路』『スペシャリスト』)
最低監督賞:スティーヴン・セガール(『沈黙の要塞』)

1995年(第16回)
最低作品賞:『ショーガール』
最低主演男優賞:ポーリー・ショア(『陪審員だよ、全員集合!』)
最低主演女優賞:エリザベス・バークレー(『ショーガール』)
最低監督賞:ポール・ヴァーホーヴェン(『ショーガール』)

1996年(第17回)
最低作品賞:『素顔のままで』
最低主演男優賞:トム・アーノルド(『スクール・ウォーズ/もうイジメは懲りごり!』『ドタキャン・パパ』『ステューピッド/おばかっち地球防衛大作戦』)、ポーリー・ショア(『バイオ・ドーム/ボクたち環境改善隊』)
最低主演女優賞:デミ・ムーア(『陪審員』『素顔のままで』)
最低監督賞:アンドリュー・バーグマン(『素顔のままで』)

1997年(第18回)
最低作品賞:『ポストマン』
最低主演男優賞:ケビン・コスナー(『ポストマン』)
最低主演女優賞:デミ・ムーア(『G.I.ジェーン』)
最低監督賞:ケビン・コスナー(『ポストマン』)

1998年(第19回)
最低作品賞:『アラン・スミシー・フィルム』
最低主演男優賞:ブルース・ウィリス(『アルマゲドン』『マーキュリー・ライジング』『マーシャル・ロー』)
最低主演女優賞:スパイス・ガールズ(『スパイス・ザ・ムービー』)
最低監督賞:ガス・ヴァン・サント(『サイコ』)

1999年(第20回)
最低作品賞:『ワイルド・ワイルド・ウェスト』
最低主演男優賞:アダム・サンドラー(『ビッグ・ダディ』)
最低主演女優賞:ヘザー・ドナヒュー(『ブレア・ウィッチ・プロジェクト)
最低監督賞:バリー・ソネンフェルド(『ワイルド・ワイルド・ウエスト』)

特別大賞
1990年代最低作品賞:『ショーガール』
20世紀最低主演男優賞:シルヴェスター・スタローン(彼が行ったすべてのことの99.5%に対して)
20世紀最低主演女優賞:マドンナ(『BODY/ボディ』『上海サプライズ』『フーズ・ザット・ガール』)
1990年代最低新人俳優賞:ポーリー・ショア(『バイオ・ドーム/ボクたち環境改善隊』『原始のマン』『陪審員だよ、全員集合!』)

2000年(第21回)
最低作品賞:『バトルフィールド・アース』
最低主演男優賞:ジョン・トラボルタ(『バトルフィールド・アース』『ラッキー・ナンバー』)
最低主演女優賞:マドンナ(『2番目に幸せなこと』)
最低監督賞:ロジャー・クリスチャン(『バトルフィールド・アース』)

2001年(第22回)
最低作品賞:『フレディのワイセツな関係』
最低主演男優賞:トム・グリーン(『フレディのワイセツな関係』)
最低主演女優賞:マライア・キャリー(『グリッター きらめきの向こうに』)
最低監督賞:トム・グリーン(『フレディのワイセツな関係』)

2002年(第23回)
最低作品賞:『スウェプト・アウェイ』
最低主演男優賞:ロベルト・ベニーニ(『ピノッキオ』)
最低主演女優賞:マドンナ(『スウェプト・アウェイ』)、ブリトニー・スピアーズ(『ノット・ア・ガール』)
最低監督賞:ガイ・リッチー(『スウェプト・アウェイ』)

2003年(第24回)
最低作品賞:『ジーリ』
最低主演男優賞:ベン・アフレック(『デアデビル』『ジーリ』『ペイチェック/消された記憶』)
最低主演女優賞:ジェニファー・ロペス(『ジーリ』)
最低監督賞:マーティン・ブレスト(『ジーリ』)

2004年(第25回)
最低作品賞:『キャットウーマン』
最低主演男優賞:ジョージ・W・ブッシュ(『華氏911』)
最低主演女優賞:ハル・ベリー(『キャットウーマン』)
最低監督賞:ピトフ(『キャットウーマン』)

2005年(第26回)
最低作品賞:『Dirty Love』
最低主演男優賞:ロブ・シュナイダー(『Deuce Bigalow: European Gigolo』)
最低主演女優賞:ジェニー・マッカーシー(『Dirty Love』)
最低監督賞:ジョン・アッシャー(『Dirty Love』)

2006年(第27回)
最低作品賞:『氷の微笑2』
最低主演女優賞:シャロン・ストーン(『氷の微笑2』)
最低主演男優賞:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ(『最凶赤ちゃん計画』)
最低監督賞:M・ナイト・シャマラン(『レディ・イン・ザ・ウォーター』)

2007年(第28回)
最低作品賞:『I Know Who Killed Me』
最低主演女優賞:リンジー・ローハン(『I Know Who Killed Me』)
最低主演男優賞:エディ・マーフィ(『マッド・ファット・ワイフ』のノービット役)
最低監督賞:クリス・シルヴァートン(『I Know Who Killed Me』)

2008年(第29回)
最低作品賞:『愛の伝道師 ラブ・グル』
最低男優賞:マイク・マイヤーズ(『愛の伝道師 ラブ・グル』)
最低女優賞:パリス・ヒルトン(『The Hottie and the Nottie』)
最低監督賞:ウーヴェ・ボル(『T-フォース ベトコン地下要塞制圧部隊』『デス・リベンジ』『ポスタル』)

2009年(第30回)
最低作品賞:『トランスフォーマー/リベンジ』
最低男優賞:ジョナス・ブラザーズ全員(『ジョナス・ブラザーズ ザ・コンサート 3D』)
最低女優賞:サンドラ・ブロック(『ウルトラ I LOVE YOU!』)
最低監督賞:マイケル・ベイ(『トランスフォーマー/リベンジ』)

2010年(第31回)
最低作品賞:『エアベンダー』
最低男優賞:アシュトン・カッチャー(『キス&キル』『バレンタインデー』)
最低女優賞:サラ・ジェシカ・パーカー、キム・キャトラル、クリスティン・デイヴィス、シンシア・ニクソン(『セックス・アンド・ザ・シティ2』)
最低監督賞:M・ナイト・シャマラン(『エアベンダー』)

2011年(第32回)
最低作品賞:『ジャックとジル』
最低主演男優賞:アダム・サンドラー(『ジャックとジル』『ウソツキは結婚のはじまり』)
最低主演女優賞:アダム・サンドラー(『ジャックとジル』の女性ジル役として)
最低監督賞:デニス・デューガン(『ジャックとジル』『ウソツキは結婚のはじまり』)

2012年(第33回)
最低作品賞:『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』
最低主演男優賞:アダム・サンドラー(『俺のムスコ』)
最低主演女優賞:クリステン・スチュワート(『スノーホワイト』『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』)
最低監督賞:ビル・コンドン(『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』)


2013年(第34回)
最低作品賞:『ムービー43』
最低主演男優賞:ジェイデン・スミス(『アフター・アース』)
最低主演女優賞:タイラー・ペリー(『A Madea Christmas』)
最低監督賞:『ムービー43』を監督した13人

2014年(第35回)
最低作品賞:『Saving Christmas』
最低主演男優賞:カーク・キャメロン(『Saving Christmas』)
最低主演女優賞:キャメロン・ディアス(『SEXテープ』『ダメ男に復讐する方法』)
最低監督賞:マイケル・ベイ(『トランスフォーマー/ロストエイジ』)

2015年(第36回)
最低作品賞:『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』『ファンタスティック・フォー』[2]
最低主演男優賞:ジェイミー・ドーナン(『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』)[2]
最低主演女優賞:ダコタ・ジョンソン(『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』)[2]
最低映画監督賞:ジョシュ・トランク(『ファンタスティック・フォー』)

2017年(第38回)
最低作品賞:『絵文字の国のジーン』
最低主演男優賞:トム・クルーズ(『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』)
最低主演女優賞:タイラー・ペリー(『Tyler Perry's Boo 2! A Madea Halloween』)
最低映画監督賞:トニー・レオンディス(『絵文字の国のジーン』)



by sentence2307 | 2019-02-02 18:06 | 徒然草 | Comments(0)
アジア大会、女子100メートル背泳ぎ
決勝 

1 酒井夏海(日本)59.27
2 小西杏奈(日本)59.67
3 チンケツ(中国)1:00.28


日本、勝ったわよ、女子100メートル背泳ぎ

へ~え、すごいじゃん

1.2着とも日本よ、メダル独占

へ~え、すごい、すごい

3位は?

チンケツっていう中国の選手、残念だったけど

えっと、種目、なんてったっけ

女子100メートル背泳ぎよ

あっそか、「またフライ」かと思った、チンケツだから

ばか、あんたねえ、そういう下らないこと言ってるから出世できなかったのよ

そのことだけは言うなっていってるだろ、この野郎、カー!!
しかも過去形だ、それ




(注)いままで書かずに辛抱してきたのですが、ついに書いてしまいました、限界です。



by sentence2307 | 2018-09-06 00:30 | 徒然草 | Comments(0)

見憶えのある場所

誰しもそうだと思いますが、出勤前の限られたわずかな時間のなかで、素早く支度ができて、しかも忘れ物をしないようにと、あれこれ工夫してきた経験値が積み重なり、なんとなく定着した自分なりの準備のシステムがあります。

靴下・ワイシャツ・ズボン・コート(上着は、すぐに着られるように、すでにコートの中に納まったままです)は、着る順に並べておいて、さらに通勤定期券と財布と携帯電話のセット、それに通勤途中スタンドでコーヒーを買うための小銭(特別に用意しておかないと、その場になって小銭探しで慌ててしまうので)も、ジョギング用キャップの中にまとめておきます。

これで、服を着る流れ作業のなかで、通勤必須の小物も各ポケットへ滞りなく収められますし、あとはカバンを肩にかけて、いざ出発、「いってきま~す」というわけです。

こうすれば、駅の改札口まできて胸の内ポケットをまさぐり、はじめて通勤定期券を忘れてきたことに気がついて愕然とするなんてこともありません。

なにしろ限られた毎月の小遣いなので、そのたびにキャッシュで電車賃を払っていたら、それこそたまりませんものね(モロ昼食代に影響します)。

これは幾度かの過去の痛い経験がつちかった朝の習慣といえますが、大げさに言えば、経験が生んだ個人的な「文化」みたいなものでしょうか。

あっ、そうそう、もうひとつ忘れていました。なにしろ自分は極度の「活字中毒」なので、なにか読むものを携帯していないと落ち着きません、必ずカバンのなかには本を入れておきます。電車に乗っているときなどのちょっとした空き時間でも、ぼんやりしているのがなんだかもったいない気がして、本を開いて活字を追っていると、その方がとても落ち着くのでそうしているのですが、それならスマホでもいいじゃないかというと、そうはいかないのです。

最初からただの情報収集というのが目的なら、そりゃあ、あのぶつ切りの味気ない記事(針小棒大・白髪三千丈みたいなツギハギ・デッチあげの得意なライターの顔が見えるようです)を次々と読む空しさにはどうしても耐えられません、活字になにを求めるかという問題なので、なにも空しさを感じないというのであれば、なにもわざわざ自分だって「活字中毒」なんぞにならなかったと思います。

さて、そんなある朝、さあ出かけるかというときになって、カバンの中の本が昨日読了したものであることに、そのときになってはじめて気がつきました。しまった、チェックするのを忘れていた! という感じです。

もはや本棚の本をあれこれ選んでいられるような状況でもないので、著者名なんて確かめることもなく、なるべく薄くて軽そうで、表紙のデザインも明るめの本を選びました。

たまたま手にしたその本の表紙は、なんだか、いわさきちひろ風な絵で、見るからにホンワカした印象の本です、薄さも十分、これなら、あとであらためて精選する次に読む本のツナギには十分だろうという感じでカバンに収めました。

電車に乗り、その日は運よく座席に座れたので、さっそく仕込んできた本を取り出しました。

著者は安達千夏、未知の作家です、そして書名は「見憶えのある場所」(集英社、2007.2刊、140頁)となっています。

この本を買った記憶が、まったくないので、たぶん妻が、読んだあと自分の本棚に勝手に並べた本だと思います。

パット見、乱雑に見えるかもしれませんが、自分なりの分類法はあり、それなりの整理をしているつもりの本棚です、勝手にそういうことされると困るんだよな、とかなんとか思いながら読み始めました。

結論からいうと、びっくりしました、物凄い書き手です、母と娘のどろどろの深刻な葛藤を、まさに辣腕で読者を物語の渦中にぐいぐい引き込みます。

退屈な通勤時間を埋めればそれで十分という思いで手に取った軽めの読み物という先入観があったので、衝撃はなおさらだったかもしれません。

心覚えのために、ちょっとあらすじを書いてみますね。

母親・菜穂子は、以前、一流商社に勤めていた元バリバリのキャリアウーマン、結婚し娘ができたことで仕事を辞めなければならなかったことを悔い、そのことをひどく腹立たしく思っています。

こんなに優れた自分が、よりにもよって自分より遥かに劣ったこんなつまらない男=夫・三樹夫やぐうたら娘・ゆり子のために、輝くような自分の将来を犠牲にさせられたことに苛立ち、ことあるごとに家族を罵しります(もうひとり息子がいますが、我関せずの態度の彼には、なぜかホコサキは向かず、彼女からの罵倒の非難を免れています)。

最初、夫に向けられていた執拗な非難は、ついに妻・菜穂子の「出ていけ!」という罵りの最後通牒により、夫が家を出ることで一応終結し、次なる罵りの対象は娘に向けられることになります。

物語は、ここから始まっている感じです。
親の期待にことごとく応えることのできなかった娘は、さらにシングルマザーとなって、娘をひとり抱えながらスーパーのアルバイトで食いつないでいる始末で、このことも母親の苛立ちをさらに募らせています。

スーパーで働いている間、子供を母親のもとに預けているゆり子は、毎夕、母・菜穂子の家に娘を引き取りに行き、そのたびに辛辣な嫌みをいわれますが、彼女はただ薄笑いを浮かべて耐えるしかありません。

劣った娘という負い目があるうえに、彼女には、母親から受けた暴力・虐待の記憶があって、それがトラウマとなっていて、完全無欠の強い母親にどうしても言い返せないでいるのです。

しかし、ある夜、娘・ゆり子は、このままではいけないと自立するために、母・菜穂子への反抗を決意します、その母娘が言い争う迫真の場面を、ながくなりますが、心覚えのために以下に写しておきますね。


《菜穂子が、眉根を寄せた。
「あれだけしてやったのに、どこに不満があるっていうのよ」
「してやったこと」を並べ立てる。正月や七五三の晴れ着、盆の花火大会の浴衣に学芸会の手作りのドレス、欠かさなかったお誕生会、春夏冬のまとまった休みには泊まりがけの旅行、プールに海水浴に遊園地に動物園、ハロウィン、クリスマス、そして、世間では流行っているものなら、頼まれなくても買い与えてやった。
「よその家でやるようなことはすべてしてやったわ」
そうね、してやった。ゆり子は即座に認め、でも、と穏やかに切り返す。
「あなたは私を殴った。蹴った。踏んだ。罵った。嫌みも絶妙よね。楽しそうにしてたり、喜んでたりする時に、挫くの。嫉妬に狂ったら、相手を惨めな気持ちにさせなゃ気が治まらない。ああそうそう、私の笑ってる顔が大嫌い。見てるとむしょうに腹が立つ、って真顔ではっきり言ってたものね? 一生の汚点だ、産むんじゃなかったと後悔してる、って。なにしに来たのとさっき訊いたわよね。この話をしに来たの」
さっきまで私自身もよくわかっていなかったけど、とゆり子は胸の内に呟いた。菜穂子はしきりと瞼をしばたたかせ、白っぽいストッキングの脚を組み替えると、「なによ」とちいさく、震え声で言った。ゆり子は声を荒げもせずに続ける。
「百点の答案を持って帰ると無視して、機嫌がわるくなって、九十点ならバカだブタだイヌだと罵って上機嫌に自慢話してたよね、さっきみたいに。自分は頭がいい、勉強なら誰にも負けない、いつだって一番、って千回も聞いた。こんな試験私なら間違いなく百点しかとらないわ、って小学生相手に敵愾心燃やしてたの憶えてる? どうして、そんなにも劣っている娘がライバルなの? どうして、私を陥れなければ安心できないの? 私なら私なら、って、もう聞き飽きた。昔話はいいから、なにができるかやってみせてよ」
淡々とゆり子は語った。仕事のことだけど、と視線を背けている母親の顔を、ゆっくり覗き込む。
「千草を食べさせるためならなんでもする。私にはこんな家はないし、生活費を振り込んでくれる夫もいない。今の仕事は、待遇に満足とはいえないけど、誰かがやるべきことを誇りを持ってやろうって思ってる。でもあなたは私と違う。TOEICとか国家資格とかご立派な試験を受けて、優秀さを証明して、30年も前に辞めた商社の海外駐在員だの、テレビの気象予報士だのになれる日を夢見てたらいい。私は止めないから。ただし、成田の到着ロビーで、外タレの来日待ちしてニュースに映り込むなんてことは恥ずかしいからやめてください」
ぶん、と勢いよく腕を振り抜いてから菜穂子は驚く。娘を殴った手の、しびれる痛みにまで気がまわらず、殴られた娘の姿を見てなにをしたか悟る。ゆり子は頬をかばうこともせず、体勢を戻して、それから、とひるまずに言葉を継ぐ。
「他人の仕事を馬鹿にするのも結構だけど、どうして私なんかと比較して、勝った勝ったって喜べちゃうの?」
私はあなたのネガとして育てられたのに。斜めにうつむけた頬と唇には、乱れた髪が張りついている。ねえ母さん、と呼ぶ下唇から細く血が伝った。
「完璧な家庭を作れ、なんて誰があなたに頼んだ? 誰もこんな家になんか興味はないのよ」
二発目は、それと意識して手を出した。忌まわしい分身を力いっぱい殴りつけ、打ち砕きたかった。頬を張り、左手で首根っこをつかむと右で喉首を、体重をかけひと息に床へ押し倒し、とにかくつかまえておこうと夢中で両手に力を込める。息が詰まりゆり子はあえいだ。もがく脚がテーブルを蹴り上げ、横倒しになった天板のガラスが派手な音を立てて割れる。苦しさから逃れようと、首をしめつけてくる手指を引きはがし、身体ごと抜け出そうとしたゆり子は勢いあまって、木製の電話台に肩をしたたかに打った。電話機が床へ落ち、切手シートが見開きの状態で膝に載る。
乙女チックなラブシーンのスチールを、ゆり子は咳き込みながら見下ろし薄笑いを浮かべた。菜穂子にはそう見えた。乱れ髪をつかみ、激しく揺さぶり、引きずり倒し、まるで昔のように、肩といわず腰といわず足蹴にした。
憤りが昂じれば昂じるほど、激しく責めたならそれだけ、ゆり子は菜穂子のなすがまま、逃れようと試みはするが、殴られても蹴られても決して刃向かおうとはしなかった。両腕で頭をかばい、壁際へ後退って、背を丸め、そうしていればやがて消えてしまえるとでもいうように、ちいさくちいさく四肢を引きつけ縮こまる。幼い頃にも、今も、娘は無力で、泣き叫びもしないそのさまがますます菜穂子の熱をあおった。突き飛ばすなり、腕や脚をはらいのけるなり、哀願や、逆襲すら可能だろうに手も足も出そうとせず、なにも起きてはいない、痛みはなにも変えないといわんばかりに身を晒し、菜穂子を否定する。
「虫ケラのくせに。馬鹿にしやがって、どいつもこいつも、私を見くびって馬鹿にしてる」
この娘は、私を否定するために生まれてきた。
「思い知ればいい。なにものでもないって、生きていてもしようがないって。こんな女、誰も相手にしない。いても、いなくても、誰も気づきもしない」
ゆり子を罵る言葉は、そのまま、菜穂子がひた隠しにしてきた想いだった。ゆり子にはそれがわかった。涙が溢れた。哀しくて、それも、自分自身のことではなく菜穂子の言動が憐れでならないから、別離の痛みにじっと耐えていた。もう、この人とうまくやっていこうなんて思うまい。だが菜穂子は、謝りなさい、と吼えるように命じている。さあ顔を上げなさい、謝るのよ、言うことを聞かぬのならと菜穂子が腕を伸ばし、ゆり子の髪をつかみ頭を引っ張り上げようとした時、けたたましい電子音が空気を震わせた。》



まあ、とにかく、久々に読書に集中できた充実した通勤時間でした。幸い乗り過ごすこともありませんでした。



by sentence2307 | 2017-12-16 14:48 | 徒然草 | Comments(0)

バナナの数え方

新聞を読んでいて、その時の自分の気持ちにピタリとくる一文に出会ったりすると、破棄できず、そのまま捨てずに保存してしまうのですが(だからといって特別にどうするということもしていません)、結果的に新聞がまたたく間に溜まり続けてしまいます。

そこで、その処理方法(断捨離です)について考えてみました。

つまり、捨てられないというのは、その記事だけのことではなくて、それを読んだ時に感応した自分の気持ちもあって、そのまま「捨てる」ということができないわけですから、就寝前のほんの数分間を利用して、チェックした部分を片っ端からパソコンに打ち込んでみたらどうか・そして、それを読んだときに感じた自分の気持ちというのもそこに付け足すようにすれば自分の気が済むのではないかと考えてみました。

そこでアットランダムに選んだ最初の一枚、これは日経新聞の読書欄(2017.9.23朝刊)に掲載されていた、政治学者・宇野重規の書いた定期記事「半歩遅れの読書術」のなかの「『ふたつの世界』生きた人・失われたものの懐かしさ」と題された記事です、故須賀敦子を回顧したエッセイの冒頭部分ですが、ちょっと転記してみますね。

《本を読む人の話を聞くのが好きだ。もちろん、本は自分で読むものだが、本について語る人の話に耳を傾けるのは、また、別の喜びがある。あの本をこんな風に読むのか、そんな素敵な本があるのか。本はそれ自体に滋味があるだけでなく、本を読むことがまた別の世界を形作る。》

実にいい文章だと思いました、自分など、「読んだ本について語るのが好きだ」という自分の立場ばかりに固執し、いつの間にか人の話に耳を傾ける喜びも謙虚さも失っていたのかと思うと、なんだか耳が痛く、気恥ずかしさで顔が赤らみ、いままで書き散らしてきた雑文を改めて読み返すのも怖くなってきたくらいです。

しかし、考えてみると、身勝手で独善的くらいでないと、何かを書いて人目にさらすなどという大それたことなど、ただ恐ろしく、とてもできるものではないとも思うのですが、この一文は、そこに、「人の話を聞くという喜び」を付け加えていることで、「身勝手で独善的」という部分を和らげることができるだろうし、また、そういう部分を失ってしまったら、たかが「書く」などという行為に、なにほどの意味があるのか、しかも、そんなふうに孤立した「持続」など、ただの空しい「暴走」でしかないし、それで自分の感動を誰かに伝えようなど、チャンチャラおかしな話で、はなから望むべくもないことなのだと思い知らされました。

たぶん、これって、なにについても言えるわけで、それが音楽でもいいだろうし、もちろん映画を見たり芝居を見たりして、その感動を誰かに伝えるということに通ずるのかもしれませんよね。

つづく一枚は、同じく日経新聞の夕刊(2017.9.21)の定期コラム「プロムナード」に掲載されていた森山真生の「素直な感性」という記事です。

筆者は、時折、頼まれて小学生低学年に数学の授業をしているのだそうですが、この年齢の子供たちの素直な感性にいつも驚かされると書き出して、あるエピソードを紹介しています。

引用してみますね。

《小学校から帰ってきた子供が母に、「ねえお母さん、今日学校で足し算を教わったよ! リンゴ2つとリンゴ3つを足すとリンゴ5つ。ミカン1つとミカン3つはミカン4つ」。得意気にそう言う彼に、母は「偉いわねえ。じゃあバナナ2つとバナナ3つを足すといくつ?」と聞いた。すると、子供は困った顔で「バナナはまだ教わってない」と答えたというのだ。
1万年以上前の古代メソポタミアでは、羊を数えるために羊のための、油の量を数えるためには油専用の「トークン」という道具が使われていたという。リンゴも、ミカンも、羊もバナナも、みな同じ記号で数えられるという認識に至るまでには、何千年にもわたる試行錯誤の歴史があった。「バナナはまだ教わってない」とうつむく子供は案外、知識に染まる前の人間の素直な感性を代弁しているのかもしれない。》

まだまだ読まなければならない新聞の山を前に呆然としながらも、なんだかとても不思議な気持ちに捉われました



by sentence2307 | 2017-10-22 08:32 | 徒然草 | Comments(0)

人工知能とのつきあい方

梅雨入りしたというのに、一向にまとまった雨も降らず今日もカンカン照り、テレビでも、貯水池の水がどんどん心細くなってきたという不安なニュースを連日見せられています。

気分にそぐわない快晴の空を見上げながら、なんだかこのところ仕事の方も思わしくなくて、どうにも気分も晴れず、滅入る一方です。ため息さえ出なくなりました。

会社の手前、もろ業績不振を口にすることは憚られるのですが、ランチの席などで同僚と「大丈夫なのかな、今年の夏は」などと抽象的な言い方で、「ぼんやりとした不安」を駄弁ったりした帰りのことでした、会社の廊下で、ある講演会の告知と、そのポスターを見かけました。

テーマは、「人工知能とのつきあい方」と書いてあります。

これまで全然関心のなかった分野なので、普段なら無視して通り過ぎてしまうところですが、こう気分が落ち込むと、なにか起死回生の切っ掛けでもあれば、なんでもいいから縋りつきたい気分ですので、ここは関心があるの・ないのと言っている場合じゃありません。

仕事も私生活も、なんだか下降線をたどっているようなブルーのときには、なにかパッとした気分転換が必要で、ここはひとつ「人工知能」というものと、ひとつ付き合ってみるか、という気持ちになりました。

会社が呼びかけている講演会ですので、いざ行くとなれば、会社から半日の特別休暇が貰えるうえに交通費と入場料が支給され、おまけに「日当」まで付くというタイヘン「おいしい話」です。

まあ、これで行かない手はないだろう、ということになります。

それに、俄然行く気になった理由がもうひとつありました。

ポスターの左下隅に掲載されていた女性講演者(某新聞社の科学部長と書かれています)の顔写真を見て、その若さと美しさに、正直びっくりしてしまいました、女子大生といわれても十分に通用する若さです。

自分が知っている大手新聞社の「部長」といえば、不摂生と睡眠不足と酒の飲みすぎで血圧の上が優に200を超していそうな、病的にでっぷりと青太った、いまにも棺桶の覗き窓からコンニチハをしてしまいそうな、ほぼ死にかけているストイックなゾンビ爺さんというのが、いままでの定番イメージだったのですから、そのポスターに掲載されている科学部長嬢の「若さと美しさ」といったら、それはもう想像を絶する、ユリの花さえ彼女の美しさに負けて恥ずかしくてうつむいてしまうくらいの美貌です。

自分の陳腐な既成概念など根底から引っくり返してしまう、それはもう本当のびっくりでした。

まあ、今回の「講演」参加も、ズバリ言ってしまえば、「美人を見に行く」ということにつきますが、自分も歳をとるに従って、この「見に行く」という行為の奥深さを、最近だんだんと自覚するようになりました。

若いときなら、たとえ超美人でも、他人の眼を意識して見栄や体裁を取り繕り、せいぜい「ちら見」程度だったものが、こう歳がいってくると、そんなことでは到底満足できません。

まるでカラヴァッジョの絵をムサボリ見るように、図々しくごく至近距離まで接近し、眼を擦り付けんばかりの無遠慮さでなめ回すようにジロジロ「見つくす」というのが、本当の「見る」ということなんだよなと、最近つくづく思い至り、また、そうすべきと決心もし、「美人」を見るときには、いつもこの姿勢を貫いています。

女性の方にしたって、結構こういうのって嬉しいんじゃないんですか、なんてこんなふうにぬけぬけ言えるのも、それがまさに自分が正真正銘、ヘンタイ的に「オヤジ化」した証拠なのかもしれません、まさかストリップを見に行くわけじゃあるまいしね。

何もそこまでという感じがしないでもありませんが。

一方で、このままこの「見方」を過激に深化させていけば、なんだかゆくゆくは立派な痴漢になってしまいそうで、なんだかとても怖くて不安で、不吉な予感がします。

しかし、とにかく、動機なんてどうだって構わないのです、ここは躊躇なく速攻で参加を申し込み、入場券を入手しました。

その会場というのは会社からほんの二駅、常日頃ウォーキングに精を出している自分ですから、歩いたってどうということもない眼と鼻の先の距離です。

もし講演がつまらなければ、早々に途中退場して、時間つぶしなら幾らでもある隣接している大歓楽街に繰り出す所存です。心配ありません。

さて当日です、会社の連中と連れ立って30分前には会場入りしました。

すでに場内は、立錐の余地のないほどの超満員です。

まあ、半日とはいえ特別休暇がもらえて、入場料はロハ、さらに足代と日当まで出るとなれば、ご一同連れ立ってのレジャー感覚で即満員になるのというのも、なんだか頷けます。

さて開演、登壇した科学部長嬢は、予想にたがわぬスタイル抜群の超美人でした。

講演がはじまり、そのまた声の美しいことといったらありません、いままで聞いたこともない鈴をころがすような美声です、これが同じ「人間」の声とは、到底信じられません。

自分好みの小柄な美貌に見とれ、スタイルに見とれ、美声に聞きほれているのは、なにも自分だけではありませんでした。

満員のスケベな中年男たちはみな、心に期したはずのジロジロ「なめるように見る」などという邪心もどこへやら、いつの間にかウチ忘れて、しばし呆然と眺めていたというか、正確には、話に引き込まれて放心状態だったというのが相応しいかもしれません。

話は、今年の3月におこなわれた世界トップの韓国人棋士と人工知能の囲碁ソフトが対戦した話題から始まりました。
                                       ああ、その話ならよく覚えています、たしか人工知能の方が勝ったという、あれですよね。

4勝1敗で人工知能が勝ったという話しの衝撃的なところを十分に理解していなかった自分にとって、どれも初めて聞く新鮮な話ばかりで、いつしか「美人科学部長」の話しに引き込まれていったのだと思います。

ずっと以前に、人工知能がチェスのチャンピオンを倒したという話は聞いたことがあります。

そして、つい最近では、人工知能が将棋の名人を負かしたという話もありました。

しかし、当時だって、そしてつい最近まで、人工知能とはいえ、まさか囲碁のチャンピオンには、当分のあいだ勝てないだろうというのが囲碁の世界と、そして世界の常識でした。

というのも、囲碁は、その局面の複雑さにおいて、まさにゲームの「聖域」と考えられていたからです。

囲碁の盤面は広く、1回の対極で考えられる局面の数も「10の360乗」にのぼります。

チェスの「10の120乗」や、将棋の「10の220乗」と比べても、その数は格段に多いゲームです。

いくらコンピューターの計算能力が向上したからといっても、力ずくの計算でも、勝率が高い手を選ぶには、あまりにも局面が多すぎます。

また、チェスや将棋はそれぞれの駒に役割があって、動く範囲が決まっているのに対して、碁石にはそのような制約はありません。

碁石の位置関係によって形勢を判断する人間の「直感」には、コンピーターは、まだまだ人間に劣るとみられていました。

ところが、米グーグル傘下の英グーグル・ディープマインド社が開発したソフト「アルファ碁」は昨秋、欧州チャンピオンに勝利しました。

しかし、その棋譜を見たプロたちは、世界トップにはまだまだ遠いと考えていました。

だが、実際は、たったの半年のあいだに「アルファ碁」は人間を圧倒する力を獲得してしまいました。

その急成長の秘密は「深層学習(ディープ・ラーニング)」と呼ばれる技術にあります。

たとえば、人間は、猫を何度か見た経験があれば、すぐに、それを猫だと認識することができます。

しかし、従来のコンピューターは、「ひげがある」「眼が大きくて吊り上っている」「しっぽがある」などというような特徴(条件)をひとつひとつ教え込まなければ、猫を識別することはできません。

深層学習(ディープ・ラーニング)は、人間の脳の働きを真似て、自ら特徴を見つけていく方法です。

「アルファ碁」は、プロ棋士の棋譜から約3000万の局面を記憶した上で、同じソフト同士での対局を繰り返し、どのような形が有利で、かつ最終的に勝つ確率が高いかを膨大な対局を通して自ら学習したのです。

それは、碁のルールを教えられなくても、小さな子どもが大人の対局を見ているうちに、打ち方を自然に覚えていくのと、どこか似ているかもしれませんが、しかし、その学習スピードたるや圧倒的に速く、そして、かつ膨大だったのです。

3月の世界トップの韓国人棋士との対局では、序盤で悪手と見られていた手が、結局勝利につながるという場面がありました。

これなど、碁というゲームの奥深さと魅力を人工知能が再発見した好例といえるかもしれません。

講演は、さらに続いていきましたが、もうこれだけで、カルチャーショックというのでしょうか、知的衝撃とでもいうのでしょうか(同じだ!)、十分に感動し、圧倒もされ、もはや彼女の「胸から腰にかけてジロジロ見る」などという失礼な、女性蔑視も甚だしい不純な気持ちも、どこかに吹っ飛び、いまではすっかり真人間になることができました。

さすがに科学部長です、人間がデカイ、おまけに胸も・・・おっと、これは失礼(舌の根が乾かないうちから、もうこれです、やれやれ)。

しかし、周りを見ると、みんな一心になって科学部長の話に耳を傾けています。

講演途中で、ふっと「我」に帰ってしまったのは、どうも自分だけのようでした。

なぜ自分が「素」に帰ってしまったのかというと、科学部長の話から派生的にある妄想に取り憑かれてしまったからでした。

人工知能に「名作映画の条件」をひとつひとつ入力していけば、はたして「名作映画」ができるだろうか、という妄想です。

かの科学部長も講演の最後の方で話していましたが、国内のSF短編小説の賞で、人工知能が人間と一緒に書いた作品が一次審査を通過したとかいう話もあるくらいですから、映画の分野にしたって、まったくの不可能とはいえないのではないかと考えました。

まずシナリオですが、人工知能が小説を書けるくらいですから、同じ方法でそこは十分書けると思います。

それに、なんせこちらは、創生以来100年の歴史の重みがある映画ですから、いままで地球上で創られたすべての「名作映画」を入力しておいて、まず物語のシチュエーションとか、もちろん悲喜劇の選択からはじめ、登場人物などは物語に必須の人物を算出し、それを自動設定器で読み解き、ああすればこうするとか、こうくればああするなどと、各人の行動を微分積分などを駆使して計算し、そして起承転結のポイントとなる重要な場面では、「アップ」だの「パン」だの「ローアングル」などの画面選択装置を使って完成に漕ぎ着けるというわけです。

ジャジャジャーン。どうです、いいアイデアでしょう。

「しかしねえ、あなた。そんな映画、だれが見るわけ」

ですから、ですね。まあ、人それぞれに個人差というものがあるということは十分に承知していますが、しかし、どうしてもこれだけは譲れないという映画に感動する重要な条件というものが誰しもあるじゃないですか(同じこと言ってね)。それがたとえ何百項目あろうと、何万項目あろうと一向に構わないんです、いやいや、これは多いほどいい、それだけ感受性豊かな「観客」ができあがるというものですからね、それを全部入力するわけです。

「はあ、はあ。それで?」

「えっ? それでって? それでおしまい。あとは名作映画を見て感動するだけ」

「だれが?」

「だれがって。人工知能が、ですよ。」

「ああ、そう。人工知能の作った名作映画を、感動しやすい人工知能の観客が見て感動するわけね。」

「そういうこと」

「そういうことじゃねえや、バカヤロー」

(諸説あり、おしまい。)



あっ、変な妄想しているうちに、大事な講演、終わっちゃったじゃないですか。

「まいったなあ、後半の方、全然聞いてなかったよ。残念」

「おれも。科学部長さんの顔と胸を交互に見ているうちに、いつのまにか講演、終わっちゃってた。」

「お前ねえ~」

(本当の お・し・ま・い。)
by sentence2307 | 2016-06-18 20:28 | 徒然草 | Comments(0)

算段の平兵衛

読みたいという気持ちは十分にあるのに、なにかの事情で、なかなか読めないままになっている本というのが、きっと誰にもあると思います。

例えば、図書館の書棚で読みたい本を見つけて、意欲が湧き、せっかく借りたものの、優先しなければならない用事ができて、読めないままズルズルと期限がきてしまい、結局返却しなければならなくなる。

そしてまた、しばらく経つと、「ぜひ読みたい」という意欲が湧いてきて、また借りる、そんなふうに同じ本で同じことを何度も繰り返して、結局、達成できないまま意欲だけが燻ぶり続けている、そういった本なのですが、自分の場合のそれは、イサベラ・バードの「日本奥地紀行」(平凡社・東洋文庫)ということになるかもしれません。

もう何年も前になりますが、「日本奥地紀行」の評判が立ち、それも一度に二度ではなく、さらに新聞記事の紹介記事やwebの推薦記事が立て続きにあって、絶対読みたいという思いが頂点に達して借り受けたものの、そのときはたまたま村上春樹の「1Q84」を読んでいる最中だったので、まさかそれを中途で途切らせるわけにもいかず(村上春樹の世界にどっぷりと浸かってしまったら、読書を継続している最中の至福の快感からは、そう易々とは逃れられることはできません)、やはり期限の二週間がきてしまい、返却しなければならなくなりました。

そのときは、その「日本奥地紀行」を借りるとともに、さらにバードの他の著作も読みたいというモチベーションが相当に上昇していて、ほかに「朝鮮奥地紀行」と「中国奥地紀行」も借りたくらいですから、そのときの「意欲」の高まりがどれほどのものだったか想像していただけると思います。

しかし、いつの場合にも、それぞれに読めない事情というのはあって、微妙にバリエーションを変えた支障は幾らもあったとしても、考えてみれば、それは結局、単なる言い訳にすぎないのではないかと、最近、よく考えるようになりました。まさに、カフカの「審判」の世界ですよね。

たとえ、どのような事情があろうと、「絶対に」読むことができないなどということは、たぶん、あり得ません。

結局、突き詰めて考えれば、そこには自分の優柔不断さとか、ムラッ気だとか、意欲を努力に変えられない怠惰だとか、薄っぺらな虚勢心とかが原因で「そう」させているだけで、その辺の自己認識の曖昧さが、いつまでたっても同じアヤマチを繰り返させているのではないかと気がつきました。

「結局、人間って、ひとつのものしか、手に入れられないのよね」というセイフが、瞬間アタマを過ぎりました、そうそう、これは、昨夜見た映画「深夜食堂」(監督・松岡錠司2014)のなかで高岡早紀が発していたセリフです、セリフの残響が余韻となって、まだ自分の中に気配を残していたんですね。

ただ、そのときの「日本奥地紀行」、「朝鮮奥地紀行」、「中国奥地紀行」の三冊を読むことなく返却したということが、少なからぬストレスとして、自分の中に残ってしまいました。
読みもしない本を、ただ図書館と家のあいだを運搬しているだけの自分とは、いったいなんなのだ、という苛立ちです。

そのストレスは、それ以後のある時期、図書館から自分を遠ざけた理由として、たぶん関係があったと思いますし、そして、近所のブックオフに古本を覗きに行くという新たな習慣ができたこととも、たぶんカブルかもしれません。

古本なら、購入してしまえば(それもごく安価です)自分の所有物になるので、図書館のように「返却期限」に縛られたり、読むことを急かされたり、そういうことを気にすることのすべてから解放され、落ち着いてゆっくり読むことができます。

そのことだけでも、なんだか重苦しい足枷から開放されたような晴れ晴れとした気分になることができました。それが「古本」の効用といえますが、しかし、まあ、図書館でしか読むことができないようなタイプの本(そこでは既に「ある選択」がなされていること)も確かにあることが、そのとき気がつきました。

そういうわけで、暇なときにはブックオフに古本を覗きに通い、そこで目に付いた「映画関係」の本(図書館では、たぶん置いてないタグイの本です)を片っ端から買いあさったのですが、その中の一冊に、ビートたけしの「仁義なき映画」(1991.12.30.3刷、太田出版、芸能関係と映画本の老舗出版社です)がありました。

例によって、悪口雑言とイチャモンを、まるで一種の媚びのように駆使する狡猾さで(「乱」でピーターが演じた道化の役どころです)権力に取り入るもうひとつの巧妙で愚劣な姿勢に貫かれているゴミのような映画批評本なのです。

読書をする際にはいつもでチェックできるように傍らに置いておく鉛筆も付箋も、予想どおり、一向に役にたつ機会はありませんでした。

ただし、例外として、一箇所だけ、遠慮がちに鉛筆の「レ」点が入った箇所ありました。

それは、「プリティ・ウーマン」の項で、アメリカの厳しい格差社会において、その作品が描いた欺瞞的なシンデレラ・ストーリーの在り方について痛烈に難じた章で、例のとおりボコボコに貶しつつ、返すカタナで、こんなふうな注文をつけていました。

《この映画を大きく意味づければ、アメリカの「水戸黄門」だよ。要するにのっとり屋が改心する話でさ、なぜ改心したかというとハートフルな娼婦に出会ったからで、それを切っ掛けにバブルな商売から足を洗って額に汗する実業にもどると。それをシンデレラ物語を使ってやっている。
「水戸黄門」や「大岡越前」をバカにするヤツがいるけれど、とんでもない話でさ、こういう映画を見ると、アメリカのほうがずっと遅れているんじゃないかって思うよ。
日本人は浪曲とか講談をもっと評価したほうがいいよ。小説にしても長谷川伸シリーズとか、話としては、「プリティ・ウーマン」の上をいくものがゴマンとあるって。まあ、テレビの時代劇で中身を薄められて毎晩見ているわけだけど。》

このあとで、「アメリカ人の体質としてハッピーエンドじゃないと許さないところが強烈にあるんじゃないのかな。」と、アメリカの格差社会の厳しい現実のなかで、シンデレラ・ストーリーにこだわる(この作品を含めて)アメリカ映画の欺瞞的な在り方の一面についてボコボコに貶しているのですが、自分が関心を持ったのは、そこで取り上げられていた「日本人は浪曲とか講談をもっと評価したほうがいいよ。」という部分に惹かれたのでした。

自分らの子どもの頃は、一般家庭までには、いまだテレビ受像機の普及は届いておらず、もっぱら一家そろってラジオ放送に耳を傾けるというのが、夕方から就寝までの家族団欒の姿だったと思います。

ニュース放送に耳を傾け、三橋美智也や神楽坂はん子などの歌謡曲を聴き、連続ドラマにも耳を傾けていました(「聞く」というよりも、まさに「耳を傾ける」という感じでしたネ)。

横道に逸れますが、「神楽坂はん子」の漢字の表記を確かめるためにwikiを開いたところ、かの大ヒット曲「芸者ワルツ」は、彼女の唄だったのですね、あの当時、幼い子どもたちまでが「あなたのリードで島田も揺れる」と歌っていたものでした。

しかし、ダンスの動きに身を任せながら、結った島田が微妙に揺れるのを感じるなんて、なんと官能的な描写かと、こりゃあ「地毛」じゃないとそうは感じない、肉感的というか発情感みたいなものがリアルに感じられて子供心にも「グッ」と迫るものがありました。

その同じラジオで「赤胴鈴之助」も聞いていたのですから、「性」への導きも「夢」への導きも果たしていたその頃のラジオは、子どもたちにとって、まさに完璧な存在というか無敵だったのだと感じたのも無理ありません。

そうそう、だんだん思い出してきました、たしか戦地に行った自分の家族の消息を知っている人がいないか、呼びかける番組もあったことも、薄っすら記憶しています。

そして、就寝前の少しの時間、部屋の電灯を消して、蚊帳を吊った布団のなかで、親が聞いている「浪曲」や「講談」や「落語」などを一緒になって聴いたものでした(実際は、「聞こえていた」というべきかもしれませんが)。

当時は、まだほんの子どものことですから、聞いているうちにやがて眠気が差してきて、いつの間にか眠ってしまったに違いありません。

ですので、教養としてどうなのかはともかく、雑多ながらも「浪曲」や「講談」や「落語」に接し、聞き込んだ回数なら人後に落ちない、かなりのものがあるはずと思っています。

たけしが上記で述べている趣旨(日本人は浪曲とか講談をもっと評価したほうがいい)が、「評価の面」止まりのことを言っているのか、それとも、さらに敷衍して、それらを海外に「発信」すべきとまで考えているのか、その辺はもっと突き詰めて考えねばならないことだと思います。

自分としては、夫婦の情愛や師弟愛ならまだしも、果ては忠君愛国を謳い上げる「浪曲」や「講談」の理念(人倫の道を説くとはいっても、その根底には封建思想があり、封建体制護持のバイアスが強烈にかかっている印象があります)を、世界の理解を求めるのは、ちょっと無理があるのではないかと考えています。

それに引き換え、落語の場合なら、その辺の事情はちょっと異なってきます。

落語「二十四孝」では、老母を蹴り倒す乱暴者の息子が登場しますし、「佐々木裁き」では、桶屋のせがれ・四郎吉が、奉行に面と向かって行政の乱れを堂々と指摘し権威に挑む姿勢が描かれています、「帯久」では、人の道を外してまで金儲けをはかる悪辣な商人に対して、奉行は法を捻じ曲げてでも落魄した弱者を救おうとします。

「厩火事」では、破綻しかけた夫婦に対して仲人が孔子の教えを説いて仲裁を図ろうとして、ぐうたら亭主に巧みにシテやられます。

どの話も忠君愛国とか滅私奉公などの「大言壮語」的な発想とは無縁の、活き活きとした庶民の逞しい日常が、人情深く語られています。

多くの映画監督たちが、落語に材を求めて映画を作ろうとした理由が、なんだか分かるような気がしますし、それが成功しなかった理由も同時に分かるようなきがします。

そこで、自分的に、映画化したら、とてもユニークな作品になるのではないかという「落語」をひとつご紹介したいと思います。

その題目は、「算段の平兵衛」、桂米朝が発掘した上方噺で、ひとつの死体の処理をめぐって、色々な死に方をさせられる庄屋(すでに死体です)の噺で、ブラック・ユーモワ満載のハードボイルドです。

いままで米朝師匠の語ったものしか聞いていなかったのですが、桂南光の噺をyou tube で聞くことができ、そのガラガラした話振りが、かえって新鮮で迫力があり、米朝とはまた違った味わいで愉しめました。

死体の処理に困ってあちこちに隠して回る大騒動を描いたヒッチコックの映画「ハリーの災難」に似ている部分もありそうですが、「ハリーの災難」と決定的に異なるのは、この落語には、殺害に関わるどの関係者も「殺害する意思」が明確にあるために、シチュエーションを自由にあやつることができて、深刻な事態も一変させてしまう才人・算段の平兵衛の思い通りに動かされてしまう痛快さがあります。

そもそも、最初に手を下した(偶然といえば偶然ですが)のが、そもそもその平兵衛であるというのが、なんとも人を食った話なのです。

【「算段の平兵衛」の要約】
やりくり算段のうまいところから、算段の平兵衛と呼ばれている男がおりまして、庄屋にうまく取り入り、庄屋のめかけを持参金つきでもらいます。

しかし、持参金を頼りにぶらぶら遊び暮らしているうちに金を使い果たし、嫁さんの衣類を始め目ぼしい調度まで売り払い、明日の米を買うのにも不自由な暮らしになってしまいます。

そこで考えついたのが美人局、元旦那の庄屋に美人局を仕掛けて幾らかでも有りつこうという魂胆です。

庄屋を騙くらかして家に引き入れ、嫁さんがしな垂れかかり庄屋がヤニさがっているところに飛び出して凄むという芝居がすぎて、はずみで庄屋を殺してしまう、しかし、そこは算段の平兵衛、死体の処理に算段をして、まず、庄屋の家の前まで死体を運び、表から、朝帰りのていを装って庄屋の声色を使い、留守の女房にやきもちを焼かせます。

そして、女房から「首でも吊って死んでしまいなはれ」といわせると、それを機に、平兵衛は庄屋の死体を松の木に吊るして、とっとと帰ってしまいます。

庄屋の女房は、死体に驚き、その始末に困って平兵衛のもとに相談にきます。

平兵衛は金をもらって死体の処理を引き受けます。

夜陰に乗じて隣の村の盆踊りに紛れ込み、わざと喧嘩を起させるように仕向けて、村人が騒ぎ出したのを汐に死体を放り出して逃げ帰ります。

殴る蹴るのあと村の者たちは庄屋の死体に驚いて、その処置について平兵衛のもとに相談に来ます。

平兵衛は、また金をもらって処置を引き受ける、今度は一本松の崖から転落したように装います。

これで庄屋の死体の始末がついたのですが、圧巻は、このあとのくすぐり、

「世の中にこれくらい気の毒な死体はありまへんな。なぐられたり、首つられたり、どつかれたり、蹴られたり、そのうえ崖から上から突き落されたり、どの傷で死んだのかヨウ分からんようになってます。」

この爽快な一言で、いままで笑っていた観客は、自分たちが「死体の始末」という物凄いことにすっかり加担して笑っていたことにハッと気がついて我に返り、このままで済むわけがないという気持ちを取り戻します。

南光の噺では、こうなります、やがてこの事件の変死を疑う噂がでて、大阪の役人が調べにきて、方々を調べてまわった挙句、平兵衛のもとにやって来ます。

いよいよカンネンする時がきたと覚悟を決めている平兵衛に役人が言います、「この事件はどうもよく分からん、算段してくれ」と。

これがこの噺のサゲなのですが、最後まで罪悪感とか善良さとか勧善懲悪などというヤワな道義心とは一切無縁のそのタフさ加減に、ただただ感心させられたのですが、しかし、よく考えるとその「タフさ」こそが、この噺を発掘しなければならなかった「埋没」に至らせた原因なのかもしれないと気がつきました。

そう考えれば、これまでだって世間をはばかる演者の道義心のために自主規制で失われた噺は幾らでもあったに違いありません。

そうそう、米朝のサゲは、事件のあと、按摩の市兵衛という男が現れて、まだ噺が進展することを匂わせて終わっていたのですが、webで確認したネタ本によれば、

《事件のあと、按摩の市兵衛という男が現れて、杖を突きながら頻繁に、平兵衛の家に行き、何か喋っては金をもらってきます。近所の人が不思議がって
「なんぞ、平兵衛さんの弱いところでもつかんでおるのやろうか」
「それにしても大胆やな、相手は算段の平兵衛や、どんな目におうか分からんでえ」
「そこがそれ、めくら平兵衛(へび)におじずや」》

となっているのだそうです。

米朝が最後まで語ろうとせずに早々に切り上げ、そして桂南光が「役人の取調べ」に改変したこの本来の「さげ」が、近い将来、この噺に再び埋没の危機が見舞う要因になるであろうことは、たぶん確かでしょう。

現代にあっては、「そこがそれ、めくら平兵衛(へび)におじずや」のさげでは、やはりまずかったのだろうなと思います。

しかし、それにしても、「あらすじ」だけの落語なんて、なんと味気ないものか、つくづくわかりました。

つまり、落語をただのストーリーとして、映画化するなり、ユーモア小説仕立てにすることが、必ずしも成功に繋がらなかった理由が、本来の「語り」という饒舌を失ったところにあったのだと、いまさらながら分かりました。

それに、「饒舌」がなければ、死体を弄ぶことで笑いをとるこの陰惨このうえない「算段の平兵衛」が、成立するわけもなかったのです。

最後に米朝師匠を偲んで、出だしの部分の口調を筆写してみたいと思います。

《ようこそのお運びで、相変わらずごく古いお噺を聞いていただきます。
世の中があんまり変わりすぎましたんで、古い落語をやるときに分からんよおなことが、だんだん増えてきまして、説明せんならん場合が増えてきたんですけどね、「算段」なんて言葉も使わんよおなりました。
「遣繰算段(やりくりさんだん)」ちゅう言葉だけが、まだ生きてるように思いますがなあ「ちょっと算段しといてんか」とか「あいつは算段がうまいさかいなあ」とか「そういう算段ならあの男や」とか、日常会話にもよう出てきたんでございますがなあ。
いろいろとこの「算段」をする、ちょっとした無理でも何とか収めてくれるとか、お金が足らんのでも間に合わすようにするとか、そういうことになかなか長けた、上手な人ちゅうのはあるもんでございまして。どこのグループにでも、どこの会社にでもこういう便利な人が一人ぐらいありますわなあ。・・・》
by sentence2307 | 2016-05-15 19:12 | 徒然草 | Comments(0)

首縊りの力学 ①

まとまって休めるゴールデン・ウィークは、とても嬉しいのですが、あとで必ず「どちらかに行かれましたか」と、何人もの人から聞かれるのがとても憂鬱です。

先方は、社交辞令のつもりで聞いてくるのでしょうが、もうこの歳になると、話題づくりのために、無理して海外旅行へ出掛けたり、渋滞40Kmの高速道路上で、何時間も辛抱強くアイドリング運転を続けるなど、人並みなことをこなす気力も根気もありません。

時間をそんなふうに無駄遣いするくらいなら、女房の顰蹙をかいながらでも、家にいて本を読むとか、ゆっくり映画でも見ている方が、よっぽど気がきいています。

連休近くになると、女房は、「せっかくの連休なんだから、どこかへ行きましょうよ」と思いついたように必ず言うのですが、この時期にどこかへ出掛けるつもりの人は、何ヶ月も前から計画を立て、予約を済ませているようなキトクな人なのであって、「今頃言っても遅すぎる」と無理やり彼女を納得させ、例えばこの連休は、巨大ホームセンターを歩き回って特売の文房具を買い、また次の日には、近所のスーパー銭湯で半日お湯に浸かってお茶を濁した次第です。

いずれも超満員で往生しましたが、帰宅が午前零時を回るなどという「理不尽な激務」がないだけでも「良し」としなければなりません。

しかし、当方にしても、突然、まとまった時間を与えられ自由にしていいと言われても、実際は、困る部分もあります。

前日まで読んでいた本を引っ張り出して、その続きを読むなどという気分には到底なれません。

まあ、女房と同様「せっかくの連休なんだから」と気分を一新したい気持ちもあるので、なにか目先の変わった新しいものを読みたいと思いながら、とりあえずは溜め込んでおいたアレコレの雑誌・新聞に掲載された「書評」を引っ張り出して、片っ端から読み始めました。

経験から言うと、映画の予告編というのは、だいたい本編を見たくなるような素晴らしい出来のものが多いのですが、書評に関しては、感心するようなものが、ごく少ないというのが偽らざる実感です。

一冊の本を限られた字数で要約するということが、とても手間のかかる困難な作業(なにしろ一冊の本を熟読し、さらにまとめて要約までしようというのですから)であることはよく分かりますが、ひどいのになると「まえがき」と「目次」を掲げただけという手を抜いた、まるでやる気のない書評をwebで読んだことがあります。

そのやっつけ仕事には、読者として侮辱されたような憤りを感じました。

肩書きだけは「大学教授」と名乗っていますが、ろくに本を読まないヤカラであるのがミエミエです。

書評というのは、本当に本が好きで、取り扱っているテーマにも精通していて、要約の勘所を象徴的な言葉で直感的に言い当て、読者をいかに惹きつける簡潔な文章が書けるかということだと思うのですが、このように考えるたびに、卓越した読書人にして書評家だった丸谷才一の仕事が、自分にとっていかに大きかったかを、いまさらながら実感しています。

さて、読み漁ったその書評の中にこんな書評(「出版ニュース」2010.2)がありました。

「林浩一著『漱石のサイエンス』(寒灯舎/れんが書房新社発売)B6判、201頁、1800円」についての書評なのですが、ごく短いので、全文を引用してみますね、

「夏目漱石はもともと科学に対する好奇心が旺盛で、しかも学究肌の人であったから、書物やその道の専門家から積極的に科学の知識と情報を学習していた。
そのため、漱石の作品には、科学の知識や方法論が活かされている、と物理学者である著者はいう。
例えば「猫」には、「首くくりの力学」という話が出てくる。
これは寺田寅彦から紹介されたイギリスの物理学の学術論文誌に掲載されたホートンの論文「首くくりについて」に影響を受けたもので、吊るし首はアングロ・サクソンにおける最も普通の処刑方法であることや、実際に12人の侍女たちを絞殺した方法が「猫」には、延々と引用されている。
そして最後には首をくくると身長が伸びるという話になるのだが、ここからは漱石の低身長コンプレックスが窺えると著者はいう。
その他、猫の宙返りから位置と運動のエネルギーの関係を考えていたことなども明らかにしている。」

なるほど、「吾輩は猫である」のなかに、「首くくりの力学」という話が出てくるというわけですか。

ふむふむ、「首くくり」と「力学」、言葉の組み合わせからしても、なんだか、とてもシュールで面白そうじゃないですか、それに語感がとても素敵です。

しかし、漱石が、「その道の専門家から積極的に科学の知識と情報を学習していた」とあって、その理由として、「学究肌の人」だったからと理由づけていますが、むしろ、漱石は、単に知識や情報を得るというだけでなく、苦笑してしまうほどの人間臭いブラックな部分に惹かれたのではないかという気がします、なにしろ「首くくり」と「力学」です。

これこそ「吾輩は猫である」の真骨頂たる諧謔精神じゃないですか。

さっそく、「検索」の誘惑に駆られましたが、それにしても、まずどこから攻めるのか、が問題です。

自分は、根はコテコテのアナログ人間(先端技術などには、到底アタマの方がついていけません)ですが、なにかする場合はオシナベテ簡便・簡略を旨とする面倒くさがり屋なので、そういう意味では堂々たるデジタル人間です、「クリック、クリック、大いに結構、けっこう、ケッコー、コケッコー、ワッハッハのハ」です、なんだかワケが分かりませんが。

そんなわけで、まず、寺田寅彦の線からいくことにしました。

以前、「寺田寅彦の映画論」を調べたことがあるので、その際に読んだ「寺田寅彦・森田草平・鈴木三重吉 集」(現代日本文学全集22・筑摩書房)が、机の上にそのままの状態であります。

読んだあと、いちいち片付けることをしないから、机の上がとんでもないカオス状態になってしまうのですよね、まさに女房の言うとおり、だらしなく積み上げられた本の谷間に身を捻じ込ませ、手探りでパソコンの在り処を確かめては、ずるずると引っ張り出し、ようやく文字を打っている始末です。

「寺田寅彦集」の目次をみれば、やはり、目指すは「夏目漱石先生の追憶」ということになるのでしょうね。

5頁ほどの短い随筆なので、ざっと走り読みしたところ、ありました、ありました。中程からやや後半にかけての部分に、こんなふうに書かれています。

「自分が學校で古いフィロソフィカル・マガジンを見て居たら、レヴェレンド・ハウトンといふ人の「首釣りの力學」を論じた珍らしい論文が見附かったので、先生に報告したら、それは面白いから見せろといふので、學校から借りて来て用立てた。それが「猫」の寒月君の講演になって現れて居る。高等學校時代に数學の得意であった先生は、かういふものを讀んでもちゃんと理解するだけの素養をもって居たのである。文學者には異例であらうと思ふ。」(「夏目漱石先生の追憶」より)

なるほど、「吾輩は猫である」のなかの「寒月君の講演」に「首釣りの力學」が引用されているというわけですね。

明確にこのように書かれているわけですから、ここは素直に「吾輩は猫である」のなかの「寒月君の講演」の箇所をすぐに当たればいいようなものですが、そこはホラ、根が不精者ですし、そのうえ天邪鬼ときています、そう簡単には素直に応じることができません。

そのうえ、なにより決定的なのは、当の「吾輩は猫である」を自分が蔵書として所有していないことが判明したのです。

一応、メディア・マーカーで自分のすべての蔵書を入力して管理(らしきことを)しているので、「ある・なし」は、すぐに確認できます。

検索を掛けても蔵書2000冊(この数字は、既に手放して「不在」の本も含まれていて、正確には「自分を通り過ぎた冊数」ということになります)の中には、「吾輩は猫である」は、ついに存在しませんでした。

夏目漱石を蔵書として持っていない読書人なんて、いったいなんなんでしょうね、そんな人がはたして読書人なんていえるのか、という感じです。

しかし、事実だから仕方ありません。

ないものは、図書館にいって借りて読むしかないのですから、あとで借りに行くとしても、とりあえず、図書館のホームペイジで「在庫」を確認しておくことにしました。

ふむふむ、なにしろモノが国民的文学の「吾輩は猫である」ですから、図書館にないわけがありません、調べるまでもなく当然のように幾冊もありました。

そうそう、ついでに思いついたことがあります、キイワード検索で「首縊りの力学」とダイレクトに入力したらどうでしょう、こりゃあ我ながらいいアイデアです。

敵の不意を突いて、本丸を直接叩くという奇策です、真珠湾奇襲攻撃です、まさにニイタカ山のトラトラトラなのであります。

そして、この検索の結果、ただの一冊だけヒットしました、「中谷宇吉郎集 第一巻」です。あっ、そうくるわけ。

この反撃で、奇襲もあえなく撃墜されてしまった感じです。

中谷宇吉郎といえば、寺田寅彦の愛弟子じゃないですか、それに、あの松岡正剛センセイの「千夜千冊」の栄えある第一夜は、中谷宇吉郎の「雪」で飾られていましたよね。

こうしては、いられません、さっそく自転車を走らせ、おっとりガタナで図書館に駆け込みました。

「まってろよ、いまいくぞ~!」ジャンジャジャ~ン

まず、「夏目漱石集(一)」(現代日本文学大系17 筑摩書房)を借りました。

ちょっと意外だったのは、日本文学全集の「夏目漱石集」と名がつく本なら、どれにも「吾輩は猫である」くらいは入っているに違いないと安易に考えていたのですが、いくら探しても、この「現代日本文学大系」以外には、見つけることができませんでした。

「坊ちゃん」は、必ず入っているのに、です。

そして、二冊目が、「中谷宇吉郎集 第一巻」(岩波書店)です。

多くの読者の手から手へ渡り歩いた人気のほどが「栄誉の汚れ」に感じられる「夏目漱石集」に比べると、いままで誰ひとり借り手がなかったのではないかと思えてしまうほど変に真新しい「中谷宇吉郎集 第一巻」(奥付には、2000年の発行と記されています。)を手に取り、さっそく目次を拝見しました。

まさに、そのまんま、「寒月の『首縊りの力学』その他」というタイトルで掲載されているではありませんか。

頁数でいえば、たったの8頁くらい。

寺田寅彦が亡くなった少しあとで、「吾輩は猫である」のなかに挿話として、漱石が「首縊りの力学」を取り入れたいきさつを、寺田寅彦から直接聞いた中谷宇吉郎が、後世に伝え残すために書いた随筆であると、冒頭に記されています。

本文をパラパラと走り読みしましたが、どうもダイジェストっぽい感じです。

さっそく貸し出し手続きをして、家に持ち帰り、二冊の本を左右に置いて一文一文対照してみることにしました。

まず、中谷宇吉郎集から、最初の節の解説を以下に示し、そのあとで、「吾輩は猫である」の該当する部分をお示ししたいと思います。

【中谷宇吉郎集】
「寒月君の演説の冒頭「罪人を絞罪の刑に処するということは重にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして・・・」というのは、論文の緒言の最初の数行のほとんど完全な翻訳である。以下猶太人中にあっては罪人に石を抛げつけて殺す話から、旧約全書中のハンギングの語の意味、エジプト人の話、波斯人の話など、ほとんど原論文の句を追っての訳である。わずかばかりの動詞や助動詞の使い方の変化によって、物理の論文の緒言が、寒月君の演説となって、「猫」の中にしっくり納まってしまうということは、文章の恐ろしさを如実に示しているような気がするのである。」

【上記に対応する「吾輩は猫である」の原文】
「罪人を絞罪(かうざい)の刑に処すると云ふ事は重(おも)にアングロサクソン民族間に行はれた方法でありまして、夫より古代に溯(さかのぼ)って考へますと首縊(くびくくり)は重に自殺の方法として行はれた者であります。猶太人(ユダヤじん)中に在(あ)っては罪人を石を抛(な)げ付けて殺す習慣であったさうで御座います。旧約全書を研究して見ますと所謂(いわゆる)ハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣又は肉食鳥の餌食(えじき)とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人(ユダヤじん)はエジプトを去る以前から夜中(やちゅう)死骸を曝(さら)されることを痛く忌(い)み嫌ったように思はれます。エヂプト人は罪人の首を斬って胴丈を十字架に釘付(くぎづ)けにして夜中曝し物にしたさうで御座います。波斯人(ペルシャじん)は……」
「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。
「これから本論に這入(はい)るところですから、少々御辛坊(ごしんぼう)を願います。……

なるほど、対照してみて、ようやく分かりました。

結局、中谷随筆は、原文をなぞって、「簡単にまとめてしまえば・・・ということです」と注釈を加えているにすぎません。

すばらしい漱石の原文が「そこ」にあるのに、なにもわざわざ「まとめたダイジェスト」を読まなければならないのか、極めて疑問に感じ始めてしまいました。
by sentence2307 | 2016-05-07 19:43 | 徒然草 | Comments(0)