人気ブログランキング |

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

カテゴリ:岩井俊二( 5 )

少し前の日経新聞に興味深い記事(コラムです)が掲載されていて、捨てきれずにそのページだけ保管していたことを、いまのいままで、ついうっかり忘れていました。

これはまずいぞと、さっそく当初感じたことなどを書き留めておこうと思い立った次第です。

それは「それでも親子」というコラム欄で、執筆者は劇作家の永井愛、題は「父が教えた人間の悲喜劇」(2017.7.11夕刊)という記事です。

画家だった厳しい父親は、劇作家としての娘(永井愛)の仕事をなかなか認めてくれようとせず、1996年の紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞したときでさえも、「世も末だ」と言っただけで特に褒めてはくれなかったと述懐しています、その後、やっと認めてくれたと感じたのは2002年だったと書いています。

このコラムの主旨は、その父の生誕101年を記念し、今年の4月練馬にオープンした「永井潔アトリエ館」の館長として、彼女が運営に携わっていることを自から紹介したものですが、衝撃だったのは冒頭部分で触れている、彼女が幼い頃(2歳)に離婚して家を出ていったという母親と17歳のとき久しぶりに会ったときの思い出が記された部分です。

自分にはその箇所が、ことのほか強烈に印象に残り、それで、そのままこの記事を忘れてしまうわけにはいかないなと感じたのだと思います。

その箇所をちょっと引用してみますね。

「17歳のときに母から突然連絡があり、会いに行きました。手作りのトンカツをごちそうしてくれたのですが、ほぼ初対面の女性にいきなり母親のように振る舞われて違和感がありました。どんな映画が好きかと聞かれ、「戦艦ポチョムキン」と「旅情」と答えると、「2つとも好きというのは矛盾」と言われ、論争になりました。母をすっかり嫌いになって、会わずにいるうちに亡くなってしまったのが心残りです。」

ただ、これだけの文章なのに、何故か胸を塞がれるような堪らない気持ちになってしまいました。

自分的には、好きな映画は何かと聞かれ、「戦艦ポチョムキン」と「旅情」だと答える17歳の少女の飾らない澄んだ率直さに感銘したのですが、しかし、その奇妙な取り合わせに違和感を抑えられなかった母親は「そう」ではなかったのかもしれません、たとえ実の母娘とはいえ、ふたりの間には15年もの空白の時間が流れてしまっています。

母親が、いかに娘への愛情を募らせ、思いを込めて語り掛けても、「なにをいまさら」という思いを抱えている娘は素直になれないまま、母のその不自然な過剰さと、常識にこだわる杓子定規な切り返しに苛立ち、違和感と反発しか覚えることができなかったのだと思います。

たとえあの時、母親の問い掛けに対して、娘が≪「戦艦ポチョムキン」と「旅情」≫と答えていなかったとしても、ぎくしゃくと空回りするしかないふたりの会話には、いたるところに、また別な火種が潜んでいて、再び同じような「論争」をギスギスと繰り返したに違いありません、おそらくは、定められた「破綻」に向けて。

馴れ馴れしくされればされるほど苛立ち、自分には母親なんかいなくとも、これから先だって「ひとり」で立派に生きていくことができるのだ(今までだって「そう」してきた)と反発する娘の気持ちは、とうに母親から離れていて、ひたすら突っ掛かっていくことしかできなかったのだと想像できます。

そして幾年か経ち、母の死の知らせを聞いたときに感じた彼女の、会っておけば良かったという「心残り」も、仮にその「知らせ」が少し先送りされていたとしたら、たぶん「心残り」の方もその分だけ少し先送りされていたに違いない、その程度の心残りだったのだと想像することは極めて容易です、そのことはすでに現実が証明してしまっていますし。

いずれにしても娘は決して、そしていつまでも母親に会いにいこうとはしなかったはずだと自分は強く確信しました。

そして、「そう」感じた瞬間、自分の中に鮮明な映像として怒涛のように流れ込んできたのが、岩井俊二監督作品「リップヴァンウィンクルの花嫁」の、安室(綾野剛が演じています)と七海(黒木華が演じています)が、娘・真白(Coccoが演じています)の死を母親に報告に行くあの鮮烈なラストシーンでした。

長い間、疎遠だった娘の突然の死を知らされた母親(りりィ生涯最高の名演です)は、家を出て行ったきり、いままで連絡のひとつも寄こしてこなかったあんな娘など、もはや自分の子だとは思っていないと、コップに満たした焼酎をあおりながら、頑なに否定し続けます。

そこには、母親である自分を徹底的に否定し、見捨てて去っていった娘に対する憤りというよりも、どんな窮状に見舞われても決して親の自分を頼ろうとしてこなかったことに対する(侮辱されたような)怒りだったに違いありません。

母親は、仏壇の横に飾られた娘の写真を手でなぞりながら、あの子の目はこんなじゃなかった、あの子の顔はこんなじゃなかった「これじゃまるで別人だ」と吐き捨てるように言い捨てます。

そして、ポルノ女優になったと知った時の驚きを苦々しく述懐し始めます、よりにもよって人様の前で裸をさらし、恥ずかしい姿を撮られて世間にさらされるような、そんないかがわしい仕事をしなくたってよさそうなものじゃないか、わたしゃ世間様に恥ずかしくって顔向けができなかったよと掻き口説く母親は、酔いで体を揺らしながら、娘の死の報告に来た安室と七海の前で、突然着ている服を脱ぎ始めます。

母親のその突然の行為に、当初はただの「だらしない酔態」と見て、あっけにとられていた安室と七海が、しかし、徐々に母親の真意を理解するという傑出した場面です。

冷酷で厳しいこの社会を、女がひとりで生きていこうとして(なにか必然的な過程のなかで)ポルノ女優という過酷な職業を選ぶ、人前で「脱ぐ」ということが如何に恥ずかしいことか、生活のために娘が耐えたその辛さと惨めさを少しでも理解しよう・少しでも近づこうとして母親は、悲しいくらい必死に脱いだのだと思います。

彼女たちだって、なにも特別な人間なんかじゃない、世間では悪意の込もった卑猥な薄笑いで語られる「AV女優」という偏見に満ちた「特殊さ」を、(りりィが「脱ぐ」ことによって)「恥ずかしさに耐える」という常識の域まで引きずりおろしてみせた岩井俊二の心優しい悲痛な「思い」に自分は撃たれたのだと思います、撃たれないわけにはいきません。

売れない俳優が集まって副職として結婚式の親戚代行業をしていくなかで、余命わずかな孤独な女優(真白)のために、画策して密かに「花嫁」(心を通わせられる親友)を妻合わせるという、少し強引なこの癒しの物語の背後には、岩井俊二の密かな「哀悼」の思いがひそんでいるのではないか、劇中名に使われた「皆川七海」や「里中真白」や「恒吉冴子」の仮名を眺めながら、ぼろぼろになって早世を余儀なくされた不運な女優たちのことを思わず連想させられてしまったのは自分だけだったのか、いまは確かめるすべもありません。


(2016東映)監督原作脚本編集・岩井俊二、エグゼクティブプロデューサー・杉田成道、プロデューサー・宮川朋之、水野昌、紀伊宗之、制作・ロックウェルアイズ、撮影・神戸千木、美術・部谷京子、スタイリスト・申谷弘美、メイク・外丸愛、音楽監督・桑原まこ、制作プロダクション・ロックウェルアイズ、製作・RVWフィルムパートナーズ(ロックウェルアイズ、日本映画専門チャンネル、東映、ポニーキャニオン、ひかりTV、木下グループ、BSフジ、パパドゥ音楽出版)
出演・黒木華(皆川七海)、綾野剛(安室行舛)、Cocco(里中真白)、原日出子(鶴岡カヤ子)、地曵豪(鶴岡鉄也)、和田聰宏(高嶋優人)、佐生有語(滑)、金田明夫(皆川博徳)、毬谷友子(皆川晴海)、夏目ナナ(恒吉冴子)、りりィ(里中珠代)、

映画第40回日本アカデミー賞(2017年) 優秀主演女優賞 (黒木華)
第41回報知映画賞(2016年) 助演男優賞(綾野剛、『怒り』『64-ロクヨン- 前編/後編』と合わせて受賞)
第31回高崎映画祭(2017年) 最優秀助演女優賞(りりィ)
第90回キネマ旬報(2017年)日本映画ベスト・テン 第6位



by sentence2307 | 2017-08-06 09:24 | 岩井俊二 | Comments(0)
久しぶりに「リリイ・シュシュのすべて」を見ていたら、すっかり忘れていた当時のことがいろいろと思い出されてきました。

どれも懐かしいものばかりです。

その思い出の中のひとつに、ある友人が彼女と喧嘩したという話を思い出しました。

喧嘩の発端は、「リリイ・シュシュのすべて」を、彼が「この映画には、主張がない」と言ったことから始まったという「きっかけ」だったと思います。

もっとも、その時、彼女も「見たあと、しばらくは、何もする気がしなくなるぐらい後味の悪い作品だった」と言ったというのですから、その言葉につられて、つい出てしまった彼のホンネだったらしいので、彼ばかりを責めるのもなんだか可哀想です。

でもホント、熱烈なファンが多いこの作品の感想は、じっくりと風向きをうかがいながらコメントしないと、恋人や親友を失ったり、田圃に蹴り込まれたり、挙句の果てに援交で稼いだ金を上納しなければならないような大変な目に遭うかもしれないので、細心の注意が肝要だったのです。

実はボク、以前その彼女から、この作品の感想を聞いていて知っていたのですが、それは、「まあ、それだけ夢中に作品の中にのめり込めたんだから、きっと名作なんじゃない?」程度のことは言っていたかもしれません。

つまり、後味の悪さに、しばらくは何もする気が起きなかったくらい嫌悪感が残ったとしても、その強烈な印象が後々まで彼女の中に残ったというのは事実なのだから、その実感から「きっと、あれって」名作なんじゃない?くらいの感想だったと思います。

この作品の内容が、アイドル歌手のプロモーション・ビデオ程度のものだったのなら、なんの問題も起きなかったのですが、なにせ生々しい凄惨ないじめの描写を、いやというほど見せ付けられることになる重厚な作品なので、実のところ、軽いコメントで何とか、女の子からの難問をかわそうとしている連中は、みんな困っていることを知っていたので、僕としては彼女の難問を軽くかわしたつもりでした。

しかし、「岩井俊二ファン」でもない彼女に、そうまで言わせてしまうこの作品の悪魔的な力が、どこにあるのか実際知りたくもなりました。

この思春期の少年たちの不安に満ちた揺れる感性を、見事な映像と卓越した音楽によって「酔わされる」という言葉がぴったりのこの映画センスは、まさに「エーテル」と呼んでいいかもしれません。

ここで示された岩井俊二の映像センスと、役者を動かす演出の力量は、それはもう並大抵のものでないことはよく分かりますが、しかし、そこには、ひとりひとりの役柄に対して監督の解釈がまったく見えてこないというのも事実です。

蓮見や津田や久野、そしていじめの首謀者星野でさえ、他人との距離を測れないままに、彼らは、その「親愛」と名づけた偽りの関係性の延長線上に、歯止めが効かない泥沼のような「いじめ」があって、そこに至るまでの状態が「じゃれあい」なのか「いじめ」か判然としない模糊とした部分を分かつものとして位置づけられているのが、蓮見のにえきらない「隷従」にあるのです。

この作品に寄せられた海外の批評の中に蓮見の隷従の不可解を論じたものが散見されたのも、もっともだと思いました。

日本の閉鎖的な学校制度のなかで、押し潰されそうになっている中学生たちの置かれている閉塞状況を差し引いて考えたとしても、蓮見が星野の腹を刺す前にしなければならなかったことは、単に、彼に殴りかかることだったのかもしれないヨというコメントもあったくらいでした。

それは、不可解な蓮見の「隷従」こそが、彼自身へ「いじめ」を招き寄せているという解釈ですが、僕自身も、この「隷従」は、中学生たちの「事件」を監督の解釈なしに、パッチワーク的にただ巧みに並べたことからくる副産物と見ています。

あるいは、もし、そこに共感とか陶酔感とかいうものが生じるなら、それは、観客が、ここに描かれている深刻ないじめや家庭崩壊、援交やレイプや自殺など、ただ「並べました」という描写以上の解釈を監督から得ることなく、ただ中途半端なままの状態で放り出されてしまったところから得る不安感と同じ種類のものと言えると思いますし、陶酔感が「後味の悪さ」と対になってしまう彼女の感じた違和感は、そういう意味で正直な感想だったのだと思いました。

思春期の揺れる少女の心情を描くそのままの映像では、陰惨極まる「いじめ」を描写するには、いささか容量が不足していたのかもしれません。

当時そんなふうに感じたのを、ぼんやりと思い出していました。
by sentence2307 | 2007-04-07 17:30 | 岩井俊二 | Comments(0)

花とアリス


女の子同士で楽しそうにジャレ合っているところを遠くから眺めているだけで、いつの間にか笑顔になってしまっている自分が、しっかりオヤジだなあと最近つくづく思います。

岩井俊二も、きっと同じようなオヤジ的な気持ちからこの映画を作ったに違いないと感じたりもしています。

ここに描かれている少女たちの「キュートな可愛らしさ」も「ひたむきな健気さ」も、それがリアルからは程遠いオヤジ的な視点から見た少女像だと思う気持ちがあるからでしょう。

いままで接した多くの感想の中で、感動はしたけれど実際の女子高生はこんなじゃない、という違和感を敏感に感じ取った人たちの苛立ちのコメントを幾つか見掛けたのは、きっとそういうことだったからだろうと思います。

でも、こう言ってはなんですが、個人的には、リアルにこだわった中学生たちのイジメと殺し合いを描いた寒々しい映画なんかよりも、女の子たちがキャッキャッとはしゃぐ恋の噂話そのままに、まるっきり空想から出来上がってしまったこちらの作品の方が、遥かに爽やかな気持ちにさせてくれたことは事実でした。

もちろん映画本来の作りとか出来とか、そういうこと以前の話という条件を付けても、それって映画にとって本質的で、とても大切なことのような気がします。

さて、評価の低い作品のなかから優れた部分を見つけることよりも、多くの人たちの支持を得ている作品から欠点を見つけ出す方が、はるかに難しいとはかねがね思っていることで、いままで「花とアリス」についてのおびただしい感動のコメントに接してきて、そのことを痛感しています。

たまに出会う批判めいた感想も、結局のところ、先入観があって(多分、少女趣味とか岩井俊二への反撥とか)、あらかじめ身構えながらこの作品を見、そして、いとも簡単に感動してしまったことに対する戸惑いや照れ隠しなどがきっと根底にある、つまり少し言い方を代えただけの「ひねくれた賞賛」でしかないということが、すぐにも分かってしまうタイプの感想でした。

それはきっと、嫉妬からの可愛い言い掛かりみたいなものなので、多分それだって単なる愛の告白の一変種だと、分かる人には分かってしまう程度の批判だったと思います。

ですので、どのような形であれ、この作品のコメントを書くということは、多くの人たちが既にどこかで言い尽くしている感動の言葉を、ただなぞるだけで終始するかもしれないという危惧がどうしても付きまといます。

しかし、感動したというこの思いだけは、どうしても言葉にして残しておきたいと、あるコメントを呼んで痛切に思いました。

それは、ラストのオーディションのシーンで、アリスがなぜバレエを踊るかどうしても分からない、アリスがモデルの仕事にそんなにも執着を持っているようには思えなかったと書かれているコメントでした。

紙コップをつま先にガムテープで巻き付け、トウシューズのようにして彼女がバレエを踊る美しいシーンに、この映画のすべての魅力が込められているといってもいいかもしれません。

幾つものオーディションを受け、そして、その数だけ落ち続けてきた彼女にとって、アリスはその度に「私のことを何も分かってないくせに」という悔しい思いを抱え、落ち込んでいきます。

だからこそ、あのオーディションで、アリスは自分のことをちゃんと分かって欲しいために、「ちゃんと踊ってもいいですか」という言葉をどうしても言わずにはいられなかったのだと思います。

そして、自分のすべてを表現したいという彼女のそういう舞いが、美しくないわけがないので、きっと誰もが「自分」というものを十分に表現し尽くすことができたら、「有名」になるとか、そんなことはそれ程の問題ではないのだ、とこのシーンは言っているように思いました。

この映画を少女2人と落研のトッぽい男の三角関係の物語と見れば、おそらくラストのアリスのバレエのシーンは不可解という感想も当然あり得るかもしれませんが、この映画は、花と宮本、アリスと(母親を含めた)別居中の父親との、2組の物語と見ることで、はじめて見えてくるものがあるような気がします。

アリスにとって宮本先輩の失われた記憶(実は虚偽なのですが)をたどるデート・コースは、実は、失われてしまった自分の家族の記憶を辿る思い出のコースだったことを思えば、あのオーディションで踊ったバレエが孤独なアリスの悲痛な「自己主張」だったと考えていいかもしれませんよね。
by sentence2307 | 2005-04-27 00:03 | 岩井俊二 | Comments(107)

Love Letterと四月物語

この2作品、思い返すと、なにか常にセットで見たような印象があります。

そして、いろいろな人の意見も、だいたいが「とても爽やかでした」みたいな感想で統一されているようなので、とても意外だった印象が残っています。

しかし、いずれにしても、この2作品は、岩井俊二の最良の作品に数えられることには異論ありません。

でも、僕としては、「爽やか」の一語で片付けられてしまえるほど、すんなりと単純化して気持ち的に受け入れることができない作品ではありました。

例えば「Love Letter」、この作品は、ラストまで、博子にしても樹にしても、ともに胸が詰まるような淋しさを抱えたままで、これから先もずっと孤独に耐えて生きていくしかないのだという、どちらかというとわだかまりを残したままの余韻をもった終わり方をするわけですから、それを「爽やかでした」とは、やはり考えにくい気がします。

僕としては、その「爽やか感覚」には、どうしても少し違和感を覚えてしまうのです。

それから、多くの感想の中に多かったのが、「博子と樹のどちらが不幸だったのか」と、戸惑いがちに問い掛けるものでした。

博子にしても樹にしても、同じように、時には、ほろ苦い思い出に胸を突かれながら生きていかねばならないそういうことが、不幸なことなのか幸せなことなのか、一概には言えない気もしますが、ここに登場する博子と樹二人の女性の位置を構図的に見るなら、まず、樹という女性の存在を不意に知った博子の失望(彼の中学の同姓同名の同級生のその女の子が、自分と瓜二つだったことから直感できる彼にとって自分はその子の単なる身代わりだったという予感と不安と、そして結局どちらにしても屈辱感の影が付きまとうもの)があり、怯えながらも「本当のこと」を知らずにはおられないという衝動から、博子は、自分の知らなかった小樽での彼の中学時代の思い出を教えてくれるように樹に依頼します。

物語の視点は、樹の側に移っていきます。

樹は、彼と同姓同名であることで生じた事件の回想を丹念にひとつひとつ思い起こして、淡々と手紙に書き綴って博子に送ります。

お互いに中学生だった何気ない日常の積み重ねを描いたこの一連の回想シーンの素晴らしさが、この作品を観る者に深い思いをもたらします。

少年と少女の日々のエピソードの積み重ねは、「恋」などという無神経な言葉でひとくくりできるようなものではないことは、「性」の前で異性を感覚的に警戒するその「距離感」によって繊細に映像表現されています。

樹は、自分と「同姓同名」のその少年との日々をひとつひとつ回想することで、ふたりが共有した時間の中から「同姓同名」という条件が消えて見えなくなったとき、そこには、ふたりの「距離」も消えて、彼の姿がはっきりと見え始めたのだと思います。

そしてその瞬間、樹は同時に二つの事実を突然知らされます。

ひとつは、彼の死。

そして、もうひとつは、彼が図書カードに書き残した遠慮がちな自分への恋心。

知らずにはいられなかった博子と、知らなければそれで済んでいたかもしれない樹、どちらが不幸か、もう一度問い掛けた方がいいのでしょうか。

最愛の人と信じていたのに、相手が必ずしも自分だけを愛していた訳ではなかったらしいと知って動揺する博子。

懐かしい友だち程度にしか思っていなかった男友達の突然の死の知らせによるその虚脱感の中で、初めて彼の自分への秘めた好意を知り、そして自分の気持ちの中にも、かすかな彼への好意に応えるものがあったことをようやく悟る樹。

ここには、疑いと不信の中で失意の過程をたどる愛と、そして、あらかじめ失われてしまっている場所から、その喪失を過去に遡ってひとつひとつ確認していくような絶望的な二種類の愛が描かれています。

しかし、よく考えてみれば、このふた通りの恋愛感というのは、自分勝手とまでは言わないまでも、女性的な要素のきわめて強い志向性をもっているような気がします。

傷心の彼女たちの哀しみのメイン・テーマの前では、どうしても男が不利な立場に立たされねばならない位置にいる男・藤井樹のことを少しは弁護してあげなければ、なんか彼が可哀想ですよね。

しかも、男にとって以前に付き合っていた女の子のことをトヤカク言われることくらい辛いことはないと思いませんか。

「今」と同じように「その時」だって、そして「いつ」だって、そのとき愛している相手に対し、そして自分に対しても精一杯真剣で誠実にあろうとしているわけなのですから、かつてのそのことを責められたら男として立場がありません。

それを博子は、堂々と躊躇なく不快感を表しています。

過去の恋は、なにも現在の彼女を想定して行われたわけではないのですから、非難がましいそんな大人気ない態度をとられても、男はどう弁解することもできません。

また、女・樹の方にも一言いわせて下さい。

彼女は自分への好意を秘めたまま転校していった彼氏のことを、その死とともに知らされてショックを受けるのですが、多分その時「死」が伴っていなければ、それ程のショックをはたして受けたでしょうか。

初恋風に描かれている男・樹は、彼女に連絡を取ろうとすれば、いつでもそう出来たはずなのに、そうはしませんでした。

女・樹にしたって、必死に探せば彼の消息くらい探し出すのは別に不可能なことでもなんでもなかったはずです。

男と女の間には、もっとも純粋であってもいい恋愛にさえ、こんなふうに微妙な力関係が存在していて、ともに相手に対して出来るだけ優位な立場を確保しようとする「かけひき」というものが人を容易にactionに踏み切らせないのだと思います。

奇跡のような出会いや胸の震えるような素晴らしい触れ合いも、それが成熟した恋まで至ることなく、「淡い思い出」のままで終らせてしまうのは、多くの場合、その「かけひき」放棄するか、あるいはうまくクリア出来なかった場合が多いのではないかと思います。

どうして、こんな捻くれた思いを書き綴ったかというと、この映画において、男・藤井樹の存在が巧みに(不当に)押し隠され、一面的で都合のいい美しい女性映画になりきってしまっていることへの僕の精一杯の反撥の積りなのですが。

この「Love Letter」を見たとき、セットみたいに、松たか子主演の「四月物語」を続けて見てしまいました。

北海道の親元を離れて東京の大学に入学したひとりの少女の、一人暮らしに慣れるまでの1ヶ月を繊細に描いたこれもまた素晴らしい映画でした。

実はこの作品、松たか子のプロモーション・フィルムとして企画されたらしいのですが、ひとりの少女の深い孤独の影が鮮烈に描かれていて、とても印象深い作品でした。

高校時代に好きだった先輩・田辺誠一に会いたいという一心で東京の大学への進学を決めた彼女が、徐々にその地元に慣れながら、先輩のアルバイト先の書店でようやく彼と「顔つなぎ」を果たすというその「1ヶ月」の描き方は、その部分だけは、いやに「爽やか」に明るく描かれていましたが、しかし、彼女を取りまく周囲の眼差しは、彼女に対して必ずしも好意的なものとして描かれているわけではありません。

心を打ち明けられるような親しい友だちもできないまま、ひとりぼっちで見知らぬ町「東京」を行き場もなくさまよい歩くという孤独な印象が強く感じられる描写です。

思えばそれは、岩井俊二がどの作品でも一貫して描いている学校=クラスという閉ざされた世界での、よそよそしいクラスメイトたちの素っ気無さとか、あるいは悪意のこもった過干渉とかに対する岩井の深刻な嫌悪とイラダチがどの作品にも共通してうかがえる特徴だと思います。

「四月物語」では新入生が個々に自己紹介していく場面ではニレノ・ウヅキは、言葉尻を捉えられ、笑われ晒し者にされ、言葉を失って戸惑いながら気まずく座り込みます。

「Love Letter」では、クラス中の悪意に満ちたひそかな目配せの企みによって、ふたりともに図書委員に選出されてしまいます。

確かあの場面では、男・樹がキレて級友に殴りかかっていきましたし、女・樹は、自分の知らないうちに転校した彼の机の上に飾られた花束を見て激昂し、クラス中の仕打ちにキレて、花瓶ごと床に投げ付け叩き壊しました。

舟木一夫が級友と肩を組み合って声高らかに謳った「高校3年生」の時代とは大分様子が違います。

多分、その集大成として、クラス内の陰湿ないじめと殺し合いを描いた「リリイ・シュシュのすべて」があったのだろうと思います。

いろいろな掲示板で多くの感想を読んだ中で、この映画を見て中学の頃のことを懐かしく思い起こしました、という幾つもの無神経なコメントに接しましたが、僕なら、岩井俊二の映画を見たあとに、もしコメントを求められたら、多分、岩井と同じように、「愚劣なあの頃のことなど、二度と思い出したくありません」と、つい大人気なく答えてしまうかもしれません。

アシカラズ。
by sentence2307 | 2005-03-01 23:34 | 岩井俊二 | Comments(0)

Love Letter

いろいろなところの掲示板を眺めていて、とても意外だったのは、この岩井俊二の最良の作品の感想に「とても爽やかでした」系のカキコが多かったことでした。

みんな、本当にそう思っているのでしょうか、みたいな。

この作品は、ラストまで、博子にしても樹にしても、ともに胸が詰まるような淋しさを抱えたままで、これから先もずっと孤独に耐えて生きていくしかないという余韻をもった終わり方をするわけですから、それを「爽やかでした」とは、やはり考えにくい気がします。

僕としては、その「爽やか感覚」には、どうしても少し違和感を覚えてしまいました。

それから、その次に多かったのが、「博子と樹のどちらが不幸だったのでしょうか」と戸惑いがちに問い掛けるものでした。

理屈っぽくて申し訳ありませんが、「不幸」というものに、格差があるのかと冷静に考えてみれば、これもちょっと考えにくい問題だと思います。

ここに登場する博子と樹二人の女性の位置を構図的に見るとするなら、まず、樹という女性の存在を不意に知った博子の失望(彼の中学の同姓同名の同級生の女の子が自分と瓜二つだったことから生ずる彼にとっての自分がその子の単なる身代わりだったかもしれないという予感と不安と、そしてどちらにしても屈辱感の影)があり、怯えながらも「本当のこと」を知らずにはおられないという衝動から、博子は、自分の知らなかった小樽での彼の中学時代の思い出を教えてくれるように樹に依頼します。

物語の視点は、樹の側に移っていきます。

樹は、彼と同姓同名であることで生じた事件の回想を丹念にひとつひとつ思い起こして、淡々と手紙に書き綴って博子に送ります。

お互いに中学生だった何気ない日常の積み重ねを描いたこの一連の回想シーンの素晴らしさが、この作品を傑出したものにしています。

少年と少女の日々のエピソードの積み重ねは、「恋」などという無神経な言葉でひとくくりできるようなものではないことは、「性」の前でお互いを警戒するその「距離感」によって繊細に映像表現されています。

樹は、自分と「同姓同名」のその少年との日々をひとつひとつ回想することで、ふたりが共有した時間の中から「同姓同名」という条件が消えて見えなくなったとき、そこには、ふたりの「距離」をも消えて、彼の姿がはっきりと見え始めたのだと思います。

そしてその瞬間、樹は同時に二つの事実を突然知らされました。

ひとつは、彼の死。

そして、もうひとつは、彼が図書カードに書き残した遠慮がちな自分への恋心。

知らずにはいられなかった博子と、知らなければそれで済んでいたかもしれない樹、どちらが不幸か、もう一度問い掛けた方がいいですか?

最愛の人と信じていたのに、相手が必ずしも自分だけを愛していた訳ではなかったらしいと知って動揺する博子。

懐かしい友だち程度にしか思っていなかった男友達の突然の死の知らせによるその虚脱感の中で、初めて彼の自分への秘めた好意を知り、そして自分の気持ちの中にも、かすかな彼への好意に応えるものがあったことをようやく悟る樹。

ここには、疑いと不信の中で失意の過程をたどる愛と、そして、あらかじめ失われてしまっている場所から、その喪失を過去に遡ってひとつひとつ確認していくような絶望的な二種類の愛が描かれています。

しかし、よく考えてみれば、このふた通りの恋愛感というのは、自分勝手とまでは言いませんが、きわめて女性映画的な要素の強い志向性をもっているような気がします。

傷心の彼女たちの哀しみのメイン・テーマの前では、どうしても男が不利な立場に立たされねばならない位置にいる男・藤井樹のことを少しは弁護してあげなければ、なんか彼が可哀想ですよね。

しかも、男にとって以前に付き合っていた女の子のことをトヤカク言われることくらい辛いことはないと思いませんか。

「今」と同じように「その時」だって、相手に対しても自分に対しても精一杯真剣で誠実にあろうとしていた訳ですから、そのことを責められたら立場がありません。

それを博子は、堂々と躊躇なく不快感を表しています。

過去の恋は、なにも現在の彼女を想定して行われた恋だったわけではないのですから、非難がましいそんな大人気ない態度をとられても、男はどう弁解することもできないのです。

また、女・樹の方にも一言いわせて下さい。

彼女は自分への好意を秘めたまま転校していった彼氏のことを、その死とともに知らされてショックを受けるのですが、多分その時「死」が伴っていなければ、それ程のショックを受けたでしょうか。

初恋風に描かれている男・樹は、連絡を取ろうとすれば、いつでもそう出来たはずなのに、そうはしませんでした。

女・樹にしたって、必死に探せば彼の消息くらい探し出すのは別に不可能なことでもなんでもなかったはずです。

男と女の間には、もっとも純粋であってもいい恋愛にさえ、こんなふうな微妙な力関係があって、ともに相手に対して出来るだけ優位な立場を確保しようとする「かけひき」というものが人を容易にactionに踏み切らせないのです。

奇跡のような出会いや胸の震えるような素晴らしい触れ合いも、それが成熟した恋まで至ることなく、「淡い思い出」のままで終らせてしまうのは、多くの場合、その「かけひき」観をうまくクリア出来なかった場合が多いのではないかと思うのです。

どうして、こんな捻くれた思いを書き綴ったかというと、この映画において、男・藤井樹の存在が巧みに(不当に)押し隠され、一面的な美しい女性映画になってしまっていることへの僕の精一杯の皮肉の積りなのですが。

この「Love Letter」を見たとき、セットみたいに、松たか子主演の「四月物語」を続けて見ました。

北海道の親元を離れて東京の大学に入学したひとりの少女の、一人暮らしに慣れるまでの1ヶ月を繊細に描いたこれもまた素晴らしい映画でした。

高校時代に好きだった先輩・田辺誠一に会いたいという一心で東京の大学への進学を決めた彼女が、徐々にその地元に慣れながら、先輩のアルバイト先の書店でようやく彼と「顔つなぎ」を果たすというその「1ヶ月」の描き方は、その部分だけは、いやに「爽やか」に明るく描かれていましたが、しかし、彼女を取りまく周囲の眼差しは、彼女に対して必ずしも好意的なものとして描かれているわけではありません。

心を打ち明けられるような親しい友だちもできないまま、ひとりぼっちで見知らぬ町「東京」を行き場もなくさまよい歩くという孤独な印象が強く感じられる描写です。

思えばそれは、岩井俊二がどの作品でも一貫して描いている学校=クラスという閉ざされた世界での、よそよそしいクラスメイトたちの素っ気無さとか、あるいは悪意のこもった過干渉とかに対する岩井の深刻な嫌悪とイラダチがどの作品にも共通してうかがえる特徴だと思います。

「四月物語」では新入生が個々に自己紹介していく場面ではニレノ・ウヅキは、言葉尻を捉えられ、笑われ晒し者にされ、言葉を失って戸惑いながら気まずく座り込みます。

「Love Letter」では、クラス中の悪意に満ちたひそかな目配せの企みによって、ふたりともに図書委員に選出されてしまいます。

確かあの場面では、男・樹がキレて級友に殴りかかっていきましたし、女・樹は、自分の知らないうちに転校した彼の机の上に飾られた花束を見て激昂し、クラス中の仕打ちにキレて、花瓶ごと床に投げ付け叩き壊しました。

舟木一夫が級友と肩を組み合って声高らかに謳った「高校3年生」の時代とは大分様子が違います。

多分、その集大成として、クラス内の陰湿ないじめと殺し合いを描いた「リリイ・シュシュのすべて」があったのだろうと思います。

いろいろな掲示板で多くの感想を読んだ中で、この映画を見て中学の頃のことを懐かしく思い起こしました、という幾つもの無神経なコメントに接しましたが、僕なら、岩井俊二の映画を見たあとに、もしコメントを求められたら、多分、岩井と同じように、「愚劣なあの頃のことなど、二度と思い出したくありません」と、つい大人気なく答えてしまうかもしれません。

アシカラズ。
by sentence2307 | 2004-11-14 23:48 | 岩井俊二 | Comments(0)