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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:犬童一心( 3 )

ゼロの焦点

ある日の昼休みのことでした。

定食屋で簡単な昼食を済ませたあと、いつものように、すぐ隣の書店に立ち寄って週刊誌を立ち読みしていたときです。

すぐ後ろで、イケメンの若いサラリーマンが、探している本の場所を書店員に尋ねている声が聞こえてきました。

「すいません、松本キヨハルの本は、どの辺に有りますか」と、今風の若者らしく、とても感じよく丁寧に尋ねています。

書店員も「松本キヨハルねえ」とか言いながら、一緒になって探している様子です。

何気なく耳に入ってきたその会話ですが、自分としても、はじめて聞く作家名だったのでちょっと気になり、耳だけでその会話のやり取りを聞いていました。

以前は、小説をせっせと読んでいたのですが、ここのところ読まなければならない経済の本とか、関係あるビジネス本や投資の本、おまけに朝夕の限られた時間のなかで「日本経済新聞」を隅々まで読まなければならないというのが結構負担で、そんななか、当然小説本がしりぞけられることになりました。

そんなわけで、優先しなければならない活字の方がたくさんありすぎて、いつの間にか小説を読む習慣をなくしてしまいました。

あるとき、ナニゲに「群像」を手に取って眺めたところ、目次にはいままで見たことも聞いたこともない見知らぬ若い作家たちの名前がずらりと並んでいるのを見て大ショックを受けました、これではまるで時代に取り残された浦島太郎です。

以前は、少なくとも芥川賞受賞作くらいには目を通していたのですが、いまではそれもなくなってしまい、その結果、これほどまでに小説界の事情に疎くなってしまうとは、正直焦りました。

これも会社の忙しさにかまけて、小説から自然と遠ざかってしまった報いかもしれません。

これはまずいぞと感じたそのとき以来、難解な文芸誌の購読も(ごくタマに、ですが)復活させました。

ほんの少し前までは、吉田修一も舞城王太郎の名前も知らなかったくらいですから、考えてみれば随分と時間を損してしまった感じがします。

さて、イケメン・サラリーマンからの本探しの求めに応じて、書店員は簡易ハシゴなどを使い、書棚の随分高い所まで「松本キヨハル」を探していたのですが、どうしても探し出せないらしく、「お客さん、ちょっと見つかりませんねえ」と言い掛けたそのとき、ハシゴの下で出版目録をながめていたイケメン君が、ついに目当ての本を探し当てたらしく、「これこれ」とページの箇所を指し示し、書店員に教えていました。

書店員は、無理な体勢から体をねじって、そのページを覗き込み、「ああ、松本セーチョーですか」と、なんだか虚脱したような、書店員たるプライドを傷つけられたような憮然とした表情で、しばらくはハシゴの上から脱力感に耐えて客の顔をじっと見つめていました。

まあ、お客さんの手前、この弛緩した空気をどのように収めれば一番ベストなのか、言いたいことを精一杯抑えた、それが彼なりに考えた結論だったかもしれません。

会社に戻る道々、これはいい新ネタが出来た、さっそく同僚に話さなければ(おい、聞いてくれよ。いまの若い連中は、松本清張の読み方も知らないんだぞ。松本キヨハルだとよ。イッヒッヒのウワッハッハ)と思いながら、いまの出来事を反芻しました。

この「反芻」は自分の癖で、重要なプレゼンテーションの直前には予行演習みたいなことを、前もってこんなふうに頭の中であらかじめ演習しておかないと、小心者の悲しさというか、どうにも気持ちが落ち着かないのです。

しかし、考えてみれば、いくら「ゼロの焦点」が映画化されたとはいえ、いまどき松本清張を読む若者がいるのか、という意外な感じは残りました。

電車に乗ってみれば、本を開いて読みふけっている若者など、最近はついぞ見かけたことがありません。

小説などというまどろっこしいものを退けて、一様にケイタイを開き、なにやら必死に打ち込むか、一心に読みふけっている、まるで戯画のような間抜けな風景がズラリと並んで待ち受けているだけです。

あんなケイタイごときに、松本セーチョーの小説を霞ませたうえで、読みふけるにアタイするような凄いことが書いてあるとは、到底思えません。

こういう現象を見て、若者の小説離れに危機感を抱く友人もいますが、しかし、自分としては、そのことに関して、まったくといっていいほど心配などしておりません。

あの戯画のような間抜けな風景を、そのまま、ひとときも他人にコミュニケーションをとらずにはいられない拠り所のない現代人の孤独な求愛の風景と捉えれば、他人との繋がり方を、目先の簡易安直な方法(ケータイ)と技術に求めているだけの話であって、そこには「人を求める行為」そのものはしっかりと存在しているのであり、いつの日にか頼りないケータイのコミュニケーションなどでは到底飽き足らず、人々はその不安と動揺の先に、小説的なまどろっこしさの中にこそ、心安らげるコミュニケーションの可能性があることを見出すに違いないと考えています。

世の中も、人の気持ちも、ことほど左様にヤタラまどろっこしいものには違いないのですから。

でも、その「まどろっこしさ」のなかにこそ、寄り添いながら共生していくことの人と人とのふれあいや営みの歓びもまたあるに違いないのですから。

だんだん会社が近づいてきました。

なんだか「おい、聞いてくれよ。いまの若い連中は、松本清張の読み方も知らないんだぞ。松本キヨハルだとよ。イッヒッヒのウワッハッハ」が、だんだん揺らいできました。

たしかに、単に「知らない」ということだけを上げつらって嘲笑するというのは、あまりいい趣味とはいえません。

「知らない」ことなら、知ったときに知ればいいだけの話しです。

なにもそのことによって嘲笑したり・されたりするような筋合いのものじゃない。

かつての大ベストセラー作家・松本清張も、時が経てばいつの日か、忘れ去られてしまうときが、きっとくるでしょう、それは間違いありません。

しかし、やがて未来のいつか、名前の読み方も分からない昔の作家の本に心引かれ、今日、昼休みの書店で見かけた情景のように、若者が書店を訪れる。

それが仮に今日の「いま」でなかったとしても、数年後、あるいは数十年後に、日本文学史上すっかり忘れ去られた松本キヨハルの本について、ふたたびニキビ面のどこかの若者が、おずおずと書店員に語り掛けるに違いない。

そんな光景はこれから幾たびも見られるはずです。

それがたまたま「今日の昼休み」だったにすぎなかったのだと思えてきました。

重要なのは、松本キヨハルという言い間違えを嘲笑することではなく、松本清張の小説「ゼロの焦点」を読みたいのだと切望した若者が、その作家の名前の正確な読みはどうあれ、とにかくこの小説が読みたい、どこに置いてあるのかと書店員に問い掛ける行為の方にあったのだと思い至りました。

「ゼロの焦点」は、戦争直後、混乱した日本の過酷な社会の底辺で、必死に生き抜いたふたりの娼婦と、彼女たちの苦渋を十分に理解し温かく見つめた男の、まさに虐げられた者、弱い者同士が、その悲惨な過去のために殺し・殺されなければならなかった実に痛切な悲しい物語です。

特に今回の犬童一心監督作品の、野村芳太郎作品と比べて特徴的で顕著に異なるところは、娼婦時代の仲間だった田沼久子(木村多江が演じています)をきめ細かく描いているところが印象的でした。

野村作品では、良家の奥様となった室田佐知子(犬童作品では中谷美紀が演じています)が、ひそかに殺意を抱いていた久子から、佐知子のためなら死んでもいい、私の分も幸せになって欲しいと告白され、心動かされ、自分の犯罪のすべてを公にして罪を償おうとした矢先、彼女の目の前で偶然の成り行きから(憲一の兄を毒殺したウィスキーを久子が誤飲してしまいます)久子を死なせてしまう野村作品にくらべ、明らかな殺意をもって久子を死に追い詰める犬童作品には、室田佐知子の過去を隠蔽する俗世的な決意をただならぬものとして描いている分、運命に翻弄されるばかりの女たちの像が弱まってしまったように感じました。

それは、かつて彼女たちが娼婦に身を堕したことをも含めて、そのすべてが女たちの意思によって為されたのだと描きたかったであろう犬童監督の演出意図でもあったのだとは思いますが、はたしてそれがあの小説の真髄にあったものかどうか、いささか疑問に感じました。

彼女たちの過去と、それに繋がる連続殺人のなにもかもが、悲しい宿命と、避けがたい運命にひきずられ翻弄された結果だと思う方が、なんだか、救いがあるように思えて仕方ありませんでした。

あの書店で松本清張の本を探していたイケメン・サラリーマンは、作家の名前の正確な読み方を知らなくとも、そんなことよりなにより、その日本人の戦後の原風景のような悲しい物語を読みたいと切望し、本の在り処を勇気を持って(あるいは、恥を忍んで、だったかもしれません)、書店員に問い掛けたのです。

松本セーチョーが、もし仮にキヨハルだったとしても、なんの支障もありません。あるわけがない。

会社に戻る道すがら、あのイケメン・サラリーマンの言い間違えをネタにして嘲笑するなんて、金輪際止そうと心に決めました。

(2009電通・東宝提携作品)監督脚本・犬童一心、原作・松本清張、製作総指揮・島本雄二、島谷能成、エグゼクティブプロデューサー・服部洋、白石統一郎、市川南、梅澤道彦、企画・雨宮有三郎、製作・本間英行、脚本・中園健司、音楽・上野耕路、撮影・蔦井孝洋、美術・瀬下幸治、編集・上野聡一、助監督・熊澤誓人、照明・疋田ヨシタケ、企画プロデューサー・大浦俊将、製作プロデューサー・川田尚広、キャスティングプロデューサー・田中忠雄、プロダクション統括・金澤清美、録音・志満順一、装飾・遠藤雄一郎、VFX・荒木史生、製作担当・小森日出海、音楽プロデューサー・岩瀬政雄、主題歌・中島みゆき「愛だけを残せ」、製作統括・亀山慶二、木下直哉、町田智子、宮路敬久、喜多埜裕明、石井博之、水野文英、吉田鏡、久保田修、大宮敏靖、井上義久、高田達朗、荻谷忠男、古田栄昭、戸和良、北村一明、
出演・広末涼子、中谷美紀、木村多江、杉本哲太、西島秀俊、鹿賀丈史、崎本大海、野間口徹、黒田福美、本田博太郎、
配役・鵜原禎子:広末涼子、室田佐知子:中谷美紀、田沼久子:木村多江、鵜原憲一:西島秀俊、鵜原宗太郎:杉本哲太、室田儀作:鹿賀丈史、鳴海享:崎本大海、本多良雄:野間口徹、葉山:小木茂光、上条保子:黒田福美、青木:本田博太郎、板根絹江:市毛良枝
131分 第22回東京国際映画祭特別招待作品 2009年11月14日 英語題名『Zero Focus』。

★映画化された松本清張作品一覧
顔(1957)
影なき声(1958)
張込み(1958)
点と線(1958)
眼の壁(1958)
共犯者(1958)
かげろう絵図(1959)
危険な女(1959)
黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960)
黒い樹海(1960)
波の塔(1960)
ゼロの焦点(1961)
黒い画集 寒流(1961)
黄色い風土(1961)
黒い画集 ある遭難(1961)
考える葉(1962)
風の視線(1963)
けものみち(1965)
霧の旗(1965)
花実のない森(1965)
愛のきずな(1969)
影の車(1970)
内海の輪(1971)
黒の奔流(1972)
砂の器(1974)
告訴せず(1975)
球形の荒野(1975)
霧の旗(1977)
鬼畜(1978)
わるいやつら(1980)
疑惑(1982)
天城越え(1983)
迷走地図(1983)
彩り河(1984)
ゼロの焦点(2009)
by sentence2307 | 2010-11-03 15:12 | 犬童一心 | Comments(6)

眉山

あるとき、コピーをとっていたら(コピー機は給湯室に設置されています)、背後で女子社員たちが、お茶の準備をしながら、夢中になって映画「眉山」の感想を話している現場に立ち会ってしまいました。

「ラストシーンで、泣いちゃった」
と誰かが言うと、それを受けて、最近入社したキャピキャピの「女の子」(すこし前「その言い方、やめてくれませんか」と女子社員に抗議されたばかりなので気をつけているのですが、油断すると、つい出てしまいます)が、
「東京からわざわざ逢いに来たのに、あの父親、あそこで何にも出来ずに、ボケーと突っ立っているだけだったよね、なんか馬鹿みたい。」
と極めて辛辣・率直な意見を言っていました。

それは、かつて自分の家庭を守るために、愛人を見捨て、そのままほったらかしにしていた身勝手で無責任な男・篠崎孝次郎に対する彼女なりの軽蔑と憎悪がこめられた言葉だったと思います。

その刺々しい非難に満ちた言葉は、ひとりの男である僕も、面前で難詰されたようなショックを受けました。

映画を見る限り、この父親に対する同情的な弁解は、この作品のどこにも語られていません、イメージとしては、ただ母親・龍子が語った「あの人を心から愛していたの」という一方的な思い入れの中で気配として語られる存在くらいでしかなく、本当のところ、男の側の気持ちは「どう」だったのかは分からないまま、観客は、この「拠りどころの無い」不安定な気持ちを抱えて(それは娘・咲子の心の状態と重なります)映画を見続けなければならないかもしれません。

しかし、祭りの喧騒のなかで、愛人を見捨てた情けない男に、いったい何が言えただろうかと考え込んでしまいました。

あのシーンで、観客の涙を絞るための感動的なストーリー展開なら、ほかに幾らでも作り得たと思います。

身勝手な男が、迷惑をかけた母娘に土下座して謝罪し、やがて黄泉に旅立つ母親を安らかに見送るという設定にしても、それなりに受け入れることができたと思います。

しかし、映画に描かれていた「男」は、このラストにおいて、なにひとつ為すべもなく、「ボケー」と突っ立っていたに過ぎません。

雑踏の中から呼び掛ける「お父さん!」という娘の声に気づき、父は娘を見、そして、その娘の視線の先にいる末期癌におかされ、病み疲れた瀕死の愛人を見出します。

そこで視線を交わした彼らが、それぞれに目顔で軽く頷いたとしても、しかし、それはそれ以上の描写に発展していくようなものではありませんでした。

瀕死の彼女は、不意に現れたかつての愛人を、単に強く深い視線で捉えたに過ぎない。

きっと、この場面の、あからさまに涙を欠落させた素っ気無いクライマックスが、あのキャピキャピ娘から泣く機会を奪い取り、失望させ、一層苛立たせたのでしょう。

しかし、最愛の男から見捨てられた惨めさと屈辱に、生涯の最後まで耐え続けてきた女が、命のホムラが尽きようとしているそのとき、不意に現れた男に、いったいどういう顔をして、なにが言えたでしょうか。

恨み言を言ったり、詰ったり、許したりするには、積み重ねた時間が、あまりにも重過ぎたのだと思います。

愛を拒まれ、捨てられ、絶望のすえに、せめて残された子供とともに生きていこうと決意するまでの時間の重さにかろうじて耐えてきた母と、日陰者の娘という予感に怯え、肩身の狭い思いを克服して孤独のなかで辛うじて生きてきた娘の、そこには、この社会から踏みつけにされた者にしか分からない「意地」があったのだと思います。

見捨てられても、こうして生きてきたことを、この母娘は、父親に見てもらえれば、それだけで十分、それ以上の繋がりを父・篠崎孝次郎に求めてはいなかったという、そういうラストシーンだったのだと思います。
(2007東宝、フジテレビ、幻冬舎、博報堂DYメディアパートナーズ、関西テレビ放送、PPM、キアロスクーロ)監督・犬道一心、原作・さだまさし、脚本・山室有紀子,撮影・蔦井孝洋,音楽・大島ミチル、照明・疋田ヨシタケ、録音・志満淳一、美術・瀬下幸治、編集・上野聡一、主題歌・レミオロメン「蛍」
出演・松嶋菜々子、大沢たかお、宮本信子、夏八木勲、円城寺あや、山田辰夫、黒瀬真奈美、永島敏行、金子賢、本田博太郎、中原丈雄、本田大輔
by sentence2307 | 2008-06-08 20:22 | 犬童一心 | Comments(2)

ジョゼと虎と魚たち

この映画には、物語に登場する3人の失意の場面が、それぞれ順を追って描かれています。

まず最初は、ジョゼが恒夫に心を開きかけたとき、恒夫が大学の女ともだち・香苗と交わす会話を聞いてショックを受ける場面です。

半身不随の自分のことを、椅子からダイブする珍しい動物みたいなからかいの対象にされていることを知り、ジョゼは、恒夫と、そしてこの世界に対して再び心を閉ざします。

2つ目は、養い親の老婆を亡くしたジョゼが恒夫と同棲し始めたとき、恒夫を奪われた香苗が怒りに逆上してジョゼを殴り付けに来る場面です。

福祉志望の香苗は、身体障害者を殴り付けたことによって、自分の目指していた価値観のすべてを混乱させ、将来の展望を見失ってドロップアウトしてしまいます。

そして、3つ目は、半身不随のジョゼから逃げて、健常者たちの世界に立ち戻っていく恒夫のやましさに満ちた悲嘆の場面でしょうか。

実はこの映画、ずいぶん前に見ていたのですが、当時は、あえて感想を書くことをやめていました。

この映画についてのコメントめいたものを自分の中から搾り出そうとすれば、それはきっと苦しいだけの作業で終わるしかないだろうし、映画の鑑賞をリラックスの場と考えている僕にとって、あえて辛いと分かっているような感想など最初から書くのはやめようと思っていたのでした。

あまりにも重過ぎるために、こんなふうに敬遠した映画なら、いままでも何本もあります。

それは、自分から望んで、そんな苦痛に満ちた感想を書くことで、あえて辛い局面に身を晒すことに意味なんて見出せないというのが、その主な理由だったのですが、しかし、ある女友だちのひとことがきっかけで、僕はこの映画の感想を書いてみようと思いたちました。

彼女は言いました。

「妻夫木クンはいいけど、あの池脇千鶴のワザとらしい喋り方がたまらなく嫌だわ。なによ、あの命令口調」

陽の当たる場所しか歩いてきたことのないようなこの人に、劣等感を体一杯に満たした人間の、引け目のある相手と対等な場所に立とうとする屈折した気持ちなど、どう説明しても分からないかもしれないなという苛立ちみたいなものを、そのとき感じました。

僕にもうまく説明できるかどうか分かりませんが、しかし、身障者が健常者から惜しみない無償の愛を受けるときの怯えのような繊細な気持ちくらい、僕にもどうにか分かる積もりです。

恋愛関係とは、その前提として肉体的にも感情的にも対等な関係が求められるはずのものです。

この関係のバランスに、同情や憐れみや施しの気持ちや、打算や蔑視などが割り込めば、それはもはや恋愛などと呼ばれるようなものではなくなり、きっと従属とか隷従とか支配とか義務といわれている種類の関係に堕落してしまうでしょうからね。

だから、ジョゼのあの命令口調は、ハンディのある自分が、恒夫との恋愛関係において、はじめから対等な関係など結べるわけもないという負い目を、逆に命令口調を使うことによって彼を傷つけまいとした彼女なりの、恒夫が望むならいつでも彼を解放してあげようという精一杯のジョゼの思いやりだったのだと思います。

そこには、恒夫を自分に繋ぎ止めておこうという意図など些かもないどころか、もし彼から別れ話がでたら、いつでも受け入れようという心の準備さえも伺われました。

しかし、身障者の彼女にとって障害によって捨てられたと思うことは、とても辛いことだったに違いありません。

それは恒夫にしても同じことだったでしょう。

泣いて縋るということもなく、出て行く恒夫を送り出すジョゼの静かなラスト・シーンは、だから「身障者」という言葉に一切触れないままで、自立した大人同士としてお互いが納得して別れるにすぎないのだということを、ジョゼも恒夫も強く望んだのだと思います。

そして恒夫は、かつての恋人の元に帰って行きます。

それは、福祉関係の仕事を目指しながら、恋人を奪われた怒りを抑えられず身障者ジョゼを殴り、その自己嫌悪によって自分の将来を見失ったあの香苗です。

かつて身障者を殴りつけた女と、そしていままさに身障者を棄てた男が寄り添って街路を歩く姿を追うキャメラは、突如泣き崩れる恒夫の姿を捉えています。

まるでそれと対比するみたいに、ジョゼが電動車椅子に乗って街中を走る毅然とした姿が映し出され、そして魚を焼く姿に続く椅子からの突然のダイブで彼女の姿を見失う場面に遭遇した僕たち健常者は、かつて恒夫や香苗が交わしたように、まるで珍しい動物のことでも語り合うようにして、半身不随のジョゼの珍しいこのダイブのことを面白半分に話すべきなのでしょうか。
by sentence2307 | 2005-02-26 23:01 | 犬童一心 | Comments(1)