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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:渡辺邦男( 5 )

早撮り伝説

小津監督が、大映で「浮草」を撮ったとき、その早撮りを「俺も、ちょっとした渡辺安二郎だろ」と自慢気に語ったという有名な話を思い出しました。

この「渡辺」は、もちろん東宝の早撮り監督・渡辺邦男を指しています。

そんな軽口にされるくらい、彼の早撮りは映画界では誰知らぬもののない有名なことでした。

ではなぜ、小津監督がそんなふうに語ったかというと、すでにその年、松竹で「お早よう」を撮っている小津監督は、いくら溝口監督との長年の約束を果たすためとはいえ、一年に一本を撮るというペースを乱すことの不安に加え、慣れない撮影所での見知らぬスタッフに囲まれて写真を撮るという不安もあっただろうと思います。

そして、そうしたプレッシャーのなか、どうにかこうにか仕事をやり遂げて、ホッとした解放感から、思わず漏れた「渡辺安二郎」という軽口だったのだろうと考えられます。

小津監督といえども、引き受けた以上、その肩にかかる責任の重さや緊張感など、人知れず重圧を感じていたことが分かるエピソードたったと思います。

しかし、この「早撮り」ということを監督自身どう考えていたのか、どんな資料を読んでも、小津監督の考え方の表出は見つかりませんでした。

しかし、そこには、当然微妙なものもあったに違いないと思わせる響きが感じ取れます。

もちろん、小津監督自身が、会社の要請を全面的に受け容れて、自分が納得できないような作品を大量生産するなどという可能性の有無を論じるつもりはありません。

会社も、小津作品には、特別な思い入れをもって破格の計らいで遇していたわけてすし。

当然その辺のことは、小津監督自身も十分に認識していたと思います。

しかし、この待遇を逆の言い方にすれば、自分の作品が、たとえ当たらなくても、そのアナは、「早撮り」によって作られた多くの作品の興収によって支えられているという紛れもない事実があることもまた認識していたに違いないという見方もできるはず。

そう考えれば、「早撮り」や「渡辺安二郎」という言葉を不用意に発して、それを聞いた第三者が、そこに揶揄や軽侮などの微妙な響きを感じ取りはしなかったかと、一瞬小津監督は後悔の念を抱いたのではないか、小津安二郎という人は、そういうタイプの人だったような感じがしました。

「早撮り」は、会社も観客も巨匠たちにとっても、どうしても必要なものであり、早撮りのエピソードを読むたびに、複雑な思いにとらわれています。

以下は、その「早撮り」に関するエピソードです。

渡辺邦男監督の映画の作り方は、物語の頭から尻まで、何回も繰り返し出てくる場面は、いっぺんに全部まとめて撮ってしまいます。

しかも、カメラは据えっぱなしで、俳優には衣裳やメイキャップをどんどん変えさせ、つぎにその反対側の場所からカメラを置き換えて、さらに全部撮る。あとはちょいちょい全場面に出てくる二人入れ込みや、クローズアップや全景ひろい、これを場面別に撮って、ハイ出来上がり。

こんなふうな撮り方だったので、俳優の方は、衣裳を全部セットに持ち込んで早変わりに次ぐ早変わりに忙殺され、いったい自分がいまどの場面のどのカットで演技しているのか、どのセリフをしゃべっているのか、皆目分からないままカメラの前に立って、ひたすら指示されたセイフを喋るだけなのですが、しかし、これをカチンコの番号どおりにあとで並べると、ちゃんとひとつの物語になっていて、しかも筋もしっかりとおっているのだから摩訶不思議。

あるときなどは結髪で、片半分しかまだ髪ができていない女優さんを、そのままでいいとセットへ連れ出して、出来ている片面横顔だけで撮影して間に合わせました。

渡辺監督の方は、頭に血がのぼってカッカして撮っているから、いちいち女優の名前なんかきちんと呼ぼうなんてハナから思ってない。

入江たか子だろうが、山田五十鈴だろうが、
「オイコラ! 女、出てこい! セリフ!」

その場に来ていない俳優なんか、どんどん抜かして作業を進める。

しかし、それでもちゃんと話はつながるのだから、渡辺邦男映画はホントに不思議です。

そしてもうひとり、早撮り伝説で欠かせない監督といえば、やっぱマキノ正博です。

伝説に残るマキノ正博のいちばん早かった記録といえば、日活の片岡千恵蔵主演で作った「江戸の花和尚」といわれています。

この映画、12月27日にクランクインして、翌々日の29日にクランクアップ、そして正月4日の封切りに間に合ったというのが、早撮り最短記録だそうです。

その頃の映画は、1日15カット、多くて30カットで、1本30日から40日かかるのが普通だったのですが、それにしても早撮りは決して不名誉なことではなく、むしろ早撮りできない方が不名誉だったくらいだそうです。

早撮りは、会社も大きな利益につながるのですが、しかし、そのための徹夜徹夜の労働オーバーでも、スタッフも出演者も月給制なので、少しくらいの徹夜残業手当くらいでは、体力を消耗するだけなので、むしろ敬遠されるというのがどうも本当のところだったようです。

職員にしてみれば、やるだけ損という感じだったのでしょうか。

しかし、マキノ正博のようなフリーの監督は、あっちの撮影所こっちの映画会社で早撮りして、喜ばれればお互い大儲け。

その辺が、彼が一会社の専属になりたがらなかった理由だったそうです。
by sentence2307 | 2010-08-11 17:46 | 渡辺邦男 | Comments(2)
四方田犬彦の「『七人の侍』と現代-黒澤明再考」(岩波新書)を読んでいたら、ちょっとびっくりする箇所があったので、忘れないうちに書き留めておきますね。

それは、『七人の侍』の製作期間が遅れに遅れた状況を危惧した東宝の上層部が、「こんな状態で黒澤は、この作品を完成させることができるのか」と、ついに黒澤明監督に対してあからさまな不信感を抱きはじめ、危機感を表明する部分です。

あの世界のクロサワが演出するのですから、少し遅れるくらいいいじゃないかと思ってしまうかもしれませんが、しかし、投資家や会社経営者の観点からすれば、納期を遅らせるというのは、実業界に生きる者には致命的なリスクです。

どんな製造業においても納期を守るというのは、死活問題にかかわる重大な意味があります。

会社の機能は、納期を履行し、ちゃんと製品を納めることによって、投資した金が順調にまわり、はじめて回収もできるのですから、納期を無視してマイペースで生産活動するような会社など、そもそも相手にされません。

取引の基本的な信用を失い、経済取引の資格を剥奪されるというのが、だいたいの常識だろうと思います。

それが世界のクロサワであろうと同じこと。

投資家はじめ会社経営者からみれば、投資した資金が順調に回収できるのが、いちばんの関心ごとなのですから、いくら黒沢監督作が天才であろうと、そして、その作品が劇場に掛けられれば莫大な興行収入を得ることが分かっていても、それより優先するのは、納期なのです。

納期を遅らせて、資金の回収が危ぶまれるくらいなら、どんな駄作でも期日までに公開し(この方針を堅持した映画会社もありました)、資金の回収を進めなければ、融資を受けた銀行や投資家たちに返却しなければならない負債はどんどん膨らんでいくばかりです。

黒澤明監督もその辺のところは十分に理解していたでしょうが、経営者の側からしてみれば、まるで世間知らず駄々っ子を相手にしているという感じだったかもしれません。

しかし、そこは世界の巨匠・黒澤明です、当然、自分が納得できる作品を作るまでは一歩たりとも後へは引かなかった、という強気でとおした経緯は、いろいろな書籍から読んで知っていました。

しかし、この四方田犬彦の「『七人の侍』と現代-黒澤明再考」には、ちょっと目新しい記述があったので、ぜひとも紹介したいと思います。

「『七人の侍』は1953年5月27日に撮影が開始され、会社側の意向では8月いっぱいで終了して、秋に公開という計画だったのが、黒澤明はこうした計画を最初から気にもしておらず、予定されていた73日の撮影期間をなんと4倍に膨れ上がらせた。撮影は二度にわたって中断された。その一回は、制作を打ち切るか、それとも続行するかをめぐって会社の上層部が危惧を抱くにいたったためだった。」

そして

「撮影が順調に進行しないのを苛立ち、黒澤明は深酒を重ねた。スタッフの内部でも意見が割れ、ロケ先で喧嘩ごとが生じた。当時、東宝で企画本部長を務めていた森岩雄の語るところによれば、黒澤明は一時、ひどく弱気になり、制作を中止して、後半は渡辺邦男に任せてもいいと考えていたそうである。」(森岩雄「私の芸界遍歴」青蛙房1975)

というのです。

どうしても順風満帆のときの強気の巨匠・黒澤明ばかりに目をとられてしまうと、これはどうしても抜け落ちてしまう重要な側面かもしれません。

資金の調達がうまく進まず、自分の思うように映画が撮れなくなってしまったときの、悲観のどん底で身動きできなくなり、もしかすると自殺の妄想さえちらついてしまう弱々しい部分もまた、もうひとつの黒澤明の実像だったに違いありません。

製作中止やむなしの絶望と悲嘆のなかで、「七人の侍」の後半を渡辺邦男に任せてもいいと弱音を吐いたという記述は、少なくとも巨匠・黒澤明が、単に世間知らずの駄々っ子ではなかったことを証明しているのかも知れません。

まかり間違えば、渡辺邦男監督の撮った多少右寄り嗜好のちょっと淡白な「七人の侍」を見る羽目になっていたのかもしれませんね。
by sentence2307 | 2010-08-11 09:14 | 渡辺邦男 | Comments(0)

緑の故郷

この作品は、以前、「日本映画専門チャンネル」で、「原節子特集」が企画された際に放映された作品のひとつだったことを思い出しました。

しかし、この作品が放映されたのが、いつのことだったのか、だいたいの見当さえはっきりとは思い出せません。

それが相当前の出来事だったのか、それとも、「そんなこと、どうでもいいか」と無関心でいられるくらいに興味がなかったのか、いずれにしても、この明快な「忘れっぷり」は、すでに録画しようと思いついたときでさえ、この作品にさほど関心がなかったことを証明してしまっているような気がします。

それに、録画したあとで、多くの作品のうちから、どの作品を見ようかという優先順位みたいなものがあるとするなら、(僕だけでなく、多くの人がそうだと思いますが)それは当然、その作品自体の知名度とか話題性とか、あるいは監督の名声に惹かれるということになるのでしょうから、僕にとって明らかに「渡辺邦男」という監督に対する関心度の低さから、この「緑の故郷」という作品を後回しにし、あるいは、改めてこの作品を見てみようかと思い立たせるまでには、どうしても録画した日時や行為自体を忘れ去ってしまうくらいの時間を要したのは、多分仕方のないことだったかもしれません。

ですから、どのくらいの期待をもってこの「緑の故郷」という作品を見たのかと問われれば、明確な答えに窮するとおもいます。

たとえば、この作品を見て落胆しても(その可能性を前提にしていたかもしれません)、後々までひきずるような気持ちの負担にだけはならない程度の心積もりと軽さとをもって、この映画に対し、あるいはやり過ごそうとしていたことは容易に想像されます。

なにしろ渡辺邦男監督といえば、僕たちにとっては、どうしたって長年刷り込まれた確固たるイメージがあります。

東宝争議の際のスト破りとか、あの名だたる「明治天皇と日露大戦争」を監督したことに象徴される反共の旗手というあのイメージです。

そういう先入観とかイメージとかをもって「どうせ大した作品じゃあないだろう」ぐらいな「冷笑」的なスタンスでこの作品を見ていたことは認めなければなりませんが、しかし、この「象徴的」というイメージが、どうも「くせもの」なのだということを、実際の作品を見て、今回あらためて思い知りました。

この映画は、戦争が終わって戦場から帰還した復員兵が、ともに戦った戦友の死を、故郷の両親に告げに行こうとするところから始まっています。

しかし、息子の生還を信じ、楽しみに待っている老いた両親の前にいざ出ると、復員兵には、どうしても彼の死を告げることができません。

復員兵が村に来る途中でひとりの女教員に出会います。

原節子演じるその女教員の兄は、すでに北支で捕虜となっており、「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓にあるとおり、一家は村民から非難と侮蔑にあって無視されて、村八分の状態にいます。

しかし、圧巻は、この映画のラストシーンにありました。

「農地改革」について話し合う村の寄り合いで、戦中から依然として村の権力を握っている有力者から、例によって捕虜になった兄のことを侮蔑的にねちねちと非難されることに対して、女教員・原節子は必死に兄のことを弁護します。

その場で復員兵は、女教員・原節子をかばって、立ち上がります。

大日本帝国軍隊の玉碎精神がいかに人間性を無視した無謀な教育であったかと演説する感動的な場面です。

戦争というものの痛切な実態は、内地で喧伝されていたような奇麗事では決してなく、いかに過酷なものであったかと説いたあとのシーン、寄り合いの場所における高揚を持続して、原野で原節子と語り合うクライマックスです。

彼は、戦友の死を老親に隠し通すことの疚しさに耐え切れず、女教員・原節子に、真実を告げるべきなのではないかと原節子に告げる場面です。

実は、戦友の死は単なる戦死ではなく、重傷を負い動けなくなったため、自決せよという戦陣訓のとおり、自分が手榴弾を渡して自決させた、この自分こそが、彼を殺した張本人だという負い目を持っています。

自決したこと、そして自分が手を貸したことを老親に告白するという彼を、女教師・原節子は押し留めます。

そんな残酷なことは言うべきではない、知らないでいることがいいことだってあるのだし、むしろ、あの老いた親たちの傍にいて慰めてあげることが、あなたにできる最良のことなのではないかと。

復員兵はその言葉に感動して、新らしい人間として生きていくことを宣言します。

とにかく、その部分が圧巻なので、再録せずにはいられません。

原「どうして、そんなにご覧になるの」(文にしてみると、随分カマトトぶった嫌味なセリフですが)

復員兵「まきさん(彼女の名前です)、僕は勇気をだそう。生まれ変わった積りでこれからの人生を生きていこう。こんな戦争のために家を失い、肉親も失い、一時は思想まで失った敗残の一兵卒でした。だからこれからは、失ったものの何倍かのものが得られそうだ。僕の背中の暗いものは今日この場限り、きれいさっぱり棄てる。僕はこの両手で光を摑む(なんだか、このあたりから、調子がおかしくなってきますが)、平和と希望にキラキラと輝く希望をしっかりと握り締める。握り締めたら、僕はもう話さない(バーゲンセールのおばさんみたいなことを言ってます)。僕はもう決して後ろを振り返らない(高村光太郎もそうでした)。僕は進む。」

言い終わり方がなんだか少しおかしいような気がしますが、すかさず入る原節子のセリフだって、前後のつながりを無視して相当唐突ではあります。

原「ここを一面の耕地にするのだわ(「するのだわ」の語調は、とても奇妙に響く分だけ魅力的でもあります。いまどきの人で、こんな言い方をする人は、まずいないでしょうしね。)。小作農だった私たちは(このサナカにあっても、さすが原節子、ちゃんと「わたくしたち」と言っていました)自分の土地を持つんだわ。そしてこの土地にはトラクターが走り回るんだわ。おたがいに都会だとか農村だとかっていって、憎みあったりなんかしたくないわ。いがみあったり、殴りあったりなんかしたくないわ(原節子が言うにしては「殴りあったり」はいかにも変ですが、何度聞き返してもそうとしか聞きとれません)。そういうニッポンにしていきましょうよ。」

復員兵「ええ、まず自分たちの村から、やっていかなくちゃあ。」

原「自分たちの村? あなたは村にいてくださるのね。」

復員兵「僕はきっと村の役にたつ。」

原「うれしいわ。兄さんもどんなに喜ぶでしょう。あの優しい兄さん、あの優しい兄さん。ご苦労様(まさに「桜の園」ですね)。戦争なんて言葉、なくしましょうね(って、現実では、すぐに思い出さなければならない事態が持ち上がります)。」

こんなふうに、戦争直後の、まだ混濁していないで済んでいた民主主義の理想が、とうとうと語られていきます。

しかし、職人・渡辺邦男ともあろうテダレが、こんなにも青臭い甘々な理想を大真面目に宣言しようとは、少し意外でした。

でも、よく考えてみれば、この時期、占領軍の指導のもとでこの手の啓蒙映画がワンサと作られたわけですから、これはまあひとつのトレンドたったわけで、しかし一方では、「作らされました」というものまであったこともそれなりに確かでしょうから、自発性と占領軍=権力側からの要請の間において実に多くの作品が作られたなかで、この渡辺邦男作品「緑の故郷」の立ち居地を考えるのも面白いと思いました。

この「緑の故郷」が撮られた1946年という年には、ほかにも実に多くの民主主義の啓蒙映画が発表されています。

例えば隠遁物資の横流しの摘発と土地解放の民衆デモを描いた斎藤寅次郎の「東京五人男」、例えば戦時中の自由主義者の弾圧と軍人の横暴を描いた木下恵介の「大曽根家の朝」、例えば女性の人権の主張を描いた溝口健二の「女性の勝利」、例えば軍需産業の資本家を告発した今井正の「民衆の敵」、例えば反戦活動家への弾圧を描いた楠田清の「命ある限り」、そして軍国主義の歩みを描いた亀井文夫の「日本の悲劇」などですが、たとえばこれらの啓蒙映画の一本として、この「緑の故郷」をもこれらの作品群と同列に位置づけられるか考えてみました。

ためしに、こんなふうな言い方ができるだろうかと。

「この作品は、渡辺邦男にとっての「わが青春に悔いなし」いえるだろうかと。

しかし、こう言い切ってしまうと、この映画が描いているような「民主主義」を当の渡辺邦男自身が本気で信じていたかどうかはきわめて疑わしいところだという気がしてきました。

ちょっと前までは、強いられて戦意高揚映画を撮ったように、たまたま今日は民主主義啓蒙映画を撮っているにすぎない、と考えたのではないか。

多くの芸術家肌の巨匠たちの豹変ぶりを横目で見ながら、映画職人・渡辺邦男は、単にトレンドを模倣しただけで、別に「民主主義」を心の底から信じたわけてはない、その必要もなかったのだと思います。時勢の要請がありさえすれば、いかなるものでもナンナク撮ったのだと思います。

そして、その延長線上に「明治天皇と日露大戦争」が位置したとしても、何の不思議も違和感もありません。

なにしろ、渡辺邦男こそは、与えられた素材は、どのようにでもこなすことのできるテダレの映画職人だったのですから。

目の前を去来した多種多様な思想を、渡辺邦男がどこまで本気で信じていたかはともかく、小学校しか出ていない(と言われ続けた)渡辺邦男の根底には、かつて「芸術映画を撮りたい」といって池永浩久所長から「お前などは、夜店でも売っているような安物のステッキみたいな映画を撮っておればええ」と一喝され、自分の「分」を悟った彼のルーツにつなげて、そのことを考えてみたいと思いました。

(1946東宝)製作・伊藤武郎、監督・渡辺邦男、脚本・八木隆一郎、撮影・川村清衛、音楽・伊藤昇、美術・小川一夫、録音・岡崎三千雄 宮崎正信、照明・田畑正一、
出演・黒川弥太郎、原節子、進藤英太郎、中北千枝子、菅井一郎、小杉義男、英百合子、田中春男、藤間房子、光一、矢の島ひで子、花澤徳衛、三田國夫、一條眞一郎、望月明、落合富子、石田鉱、篠原實、小森敏、高松政雄、伊東健、米倉勇、伊達満、小柳久子、豊原みのり、

1946.02.28 10巻 2,380m 白黒
by sentence2307 | 2010-02-13 11:54 | 渡辺邦男 | Comments(1)

決戦の大空へ


日本映画専門チャンネルがこのところ放映している原節子主演映画の今月の8本は、もっとも終戦に近い時期に作られた戦意高揚映画です。

それらの8本の作品の封切り日をあげると、

①熊谷久虎監督の「指導物語」が1941年10月4日、
②山本嘉次郎監督の「希望の青空」が1942年1月14日、
③伏水修監督の「青春の気流」(脚本は黒澤明が書いています)が1942年2月14日、
④佐藤武監督の「若い先生」が1942年3月20日、
⑤島津保次郎監督の「緑の大地」が1942年4月1日、
⑥同じく島津保次郎監督の「母の地図」が1942年9月3日、
⑦今井正監督の「望楼の決死隊」が1943年4月15日、
⑧そして、渡辺邦男監督の「決戦の大空へ」が1943年9月16日

となっていますので、この8本のなかでは「決戦の大空へ」が、戦況の最も厳しくなっていた時期に撮られた作品ということができると思います。

この作品「決戦の大空へ」は、日本の敗色が濃厚になり始めていた戦争の末期1943年に、土浦海軍航空隊、あの「七つボタンは桜に錨」の予科練の生活を描いて大ヒットした海軍省後援の国策映画です。

もとより国民の戦意高揚をはかるために作られた映画だったのですから、その主たる目的は十分に果たしたといえるでしょう。

冒頭「撃ちてし止まん」の字幕で始まるこの映画には、中盤に挿入されている敵航空母艦に捨て身の体当たり攻撃を敢行し、ミゴト敵艦を撃沈させたという軍神たる卒業生の悲壮なエピソードを重要な完結点として設定して、その主題に向かって姉・原節子と弟の愛情深い成長物語が展開されていくのですが、しかし、ここで扱われている本当のテーマは、「少年兵の徴募」という差し迫った軍部からの要請のメッセージであり、もしこれが姉弟の成長物語を退けて危機感をただ煽るだけの露骨な強調に終始したミエミエの国策映画だったら、民意をこれほどまでに摑むことはできなかったでしょう。

きっと「予科練の歌」をなぞるだけの、それこそ眼を覆いたくなるような惨憺たる無味乾燥な宣伝映画で終わっていたと思います。

やたら景気のいいこの軍歌「予科練の歌」には、国家から早々に死ぬことを求められた若者たちの、開き直った捨て鉢な快活さと共鳴する何かがあったのだろうなと思いますが、しかしそれらに反して作品の中心に凛とした原節子の姉を据えたことによって、この映画が宿命的に負わされていたはずの、死の影に覆われた血と死の臭いのする自棄的で支離滅裂な「どろどろ」の噴出を「原節子」が抑え鎮めることができたのだと思います。

そういう原節子の存在のあり方に一種のカリスマ性を見て、当時多くの人々が彼女に神に仕える巫女を幻想したり、あるいは、「軍国の女神」などと命名した気持ち、なんか分かるような気がします。

映画史的にいえば、熊谷久虎の影響を考えるべきなのかもしれませんが。

そういえば、この映画の中に練習生のひとりとして、元気いっぱい「予科練の歌」を歌っている若き木村功の姿をみつけ本当に驚きました。

僕にとって、木村功といえば、まずは「真空地帯」を連想してしまうくらいなので、どうもこの元気いっぱい「予科練の歌」を歌い上げている練習生・木村功の姿にはちょっと違和感を覚えざるをえません。

戦後つくられた映画、あの軍隊内部で傷み付けられ傷だらけにされながら、それでも軍に反抗し続けた「真空地帯」の陰鬱な兵士の姿には反戦のイメージの方が強くて、どうしても「予科練の歌」にしっくりこないものがあったので、先日、酒の席でその違和感を友人に話したところ、むしろ逆に否定されてしまいました。

友人
「例えば、どう抵抗したって、あがらえるわけもない国家権力にねじ伏せられるのなら、既に死の領域に踏み込んでいた彼らにとって、せめて死んでいくための意義めいたものが欲しい、何かに縋りつくもの、拠り所のようなものが欲しかったのだと考えた方がむしろ妥当だ。
そんな当時の若者の前に、たまたまあったのが「予科練の歌」であり、「原節子」だったにすぎない。
そこに選択の余地など何一つなかったという事態は、なにも観客ばかりでなく演じる方だって同じだったはず。
戦前においても、また戦後、手の平を返すように民主主義の旗手めいた役を演じねばならなかった役者にとっても、重要なのは常に目の前の役を「演じること」であって、何かを「主張する」ことではなかったことと、それは符号する。
それを『時代に翻弄された』などというべきではない」
のだそうなのです。

かなり酔った状態での言葉の応酬だったので、それが木村功の話だったのか、原節子についてだったのか、時代に翻弄される国民や役者たち総体についてのことだったのか、醒めてみれば僕も友人も、何を話したのかさえもうほとんど覚えてない状態でしたが、しかしそれは出征していく若者たちの話でもあり、戦後「真空地帯」で兵士を演じた木村功という役者の話でもあり、「わが青春に悔いなし」で民主主義を貫いた女性を凛々しく演じた原節子についての話でもあった、つまりはそのすべてを包括した話だったのだと思いました。

それはまた、僕の長い間の疑問だった、病弱な弟を慈愛の眼差しで温かく見守る姉・原節子が、優しく励まし、諭し、叱咤して、「躊躇する弟」が象徴していた日本の若者たちに向けて戦場へ赴く決断を促し、立派な軍人として戦場へ送り出すという役を演じたそのたった3年後に、今度は「わが青春に悔なし」で民主主義の旗手を演じた「変節」の、その答えでもありました。

ひとりの女優の、その神がかった清純な魅力に導かれ、または心の拠り所にして戦地に赴き、散華して果てた兵士たちはもとより、残された家族の「原節子」観がどのようなものだったのか、あるいは、戦場で死に損ない、戦後の荒廃期を生き延びねばならなかった多くの兵士たちが、「わが青春に悔いなし」で民主主義の素晴らしさを大真面目に謳い上げる原節子を見て、どのような思いを持ったか、僕が想像していたよりも遥かに大衆は違和感なく原節子を受け入れたように見受けられます。

友人の示唆《役者にとって重要なことは、常に目の前の役を「演じること」であって、何かを「主張する」ことではなかった。その「演じた」ことを『時代に翻弄された』などというべきではない》がその答えだったように思いました。

(43東宝)製作・山下良三、演出・渡辺邦男、脚本・八住利雄、撮影・河崎喜久三、音楽・伊藤昇、作詞・西條八十、作曲・古関裕而、美術・安倍輝明、録音・片岡造、照明・横井総一、後援・海軍省
原節子、小高まさる、落合富子、英百合子、高津慶子、田中筆子、進藤英太郎、清水将夫、清川荘司、高田稔、河野秋武、西村慎、村田昌彦、津田光男、田中利男、大久保欣四郎、松尾文人、水間常雄、飯塚小三郎、木村功、高本勝彦、鈴木重則、横山昌良、花沢孝夫、岡田東作、丹羽薫、飛田喜三、武江義雄、黒川弥太郎、三谷幸子、里見藍子、
(10巻 2,448m 89分 白黒)
by sentence2307 | 2005-02-20 08:58 | 渡辺邦男 | Comments(107)

大忠臣蔵

イギリスで仕事をしている知人からの便りに書いてあった話です。

クリスマスの夜、むこうの繁華街は実に閑散としていて、日本の派手やかな夜の賑わいに慣れている身にとっては、ちょっと寂しいと書いてありました。

多くの市民は、クリスマスを自宅で家族と過ごすために商店でさえ早仕舞いをしてしまい、街は暮れ方ともなると、ほぼ人通りが途絶えてしまうというのです。

家族を持たない独身の彼などにも、この特別な夜を一人だけで寂しく過ごさせないようにという配慮からか、家族パーティのお誘いが幾つもあって、日頃はクールでケチでシビアなイギリス人気質に辟易している彼も、その夜だけは彼らの心の温かさに触れ、さらに、幾つものサプライズなプレゼントに接したりすると、感激で胸が詰まって、ちょっとウルウルきてしまい、危うく泣きそうになってしまうくらいだそうです。

クリスマスの夜に繁華街がからっぽになるというのは、一部の地域のことなのか、イギリスという国全体がそうなるのか、その手紙の文面からだけでは判断がつきませんが、そこには、もうひとつ面白い話が書かれていました。

この夜には、TV番組で必ず「クリスマス・キャロル」を放送するのが定番なのだそうです。

彼は書いています。

「そう、日本で言えば、ちょうど『忠臣蔵』みたいなものでしょうか。」

確かにこの年末の番組の中にも「忠臣蔵」か、それに類する関連の番組は幾つかありました。

でも、「クリスマス・キャロル」と「忠臣蔵」とでは、ずいぶんな違い方のように思います。

実は、年末に放送があった大映作品、渡辺邦夫監督・長谷川一夫主演の「大忠臣蔵」を録画しておいたので、この正月にビールをちびちび飲みながら鑑賞しました。

もし、知人のあの手紙がなければ、この定番のお約束映画をなんの抵抗感もなく、気持ちよく見過ごしたろうと思うのですが、これがあの「クリスマス・キャロル」と比較されている映画かと思うと、どうしても「外国人の客観的な眼」を意識せずに見過ごすことはできませんでした。

これは、元禄時代に私憤のために公式な場で抜刀した大名・浅野匠守が、要職にある同じ大名・吉良上野介に切り付け、そして負傷させたこと(神聖な城の廊下を血で汚した)を咎められ、責任を問われて切腹させられるのですが(吉良方は不問にふされました)、主君に対するお上の不公平な裁断・片手落ちを諌めるために、残された家来たちが徒党を組んで復讐を遂げるという、江戸時代から現在に至るまで、日本の大衆から絶大な支持を受けている物語です。

いつもならなんなく見過ごしていたスカッとしたクライマックスの「討ち入り」の場面が、気になって仕方がありませんでした。

雪降る夜半、武装した赤穂の浪人たちは、予告もなしに大挙して吉良邸に殺到します。

寝込みを襲われた吉良方の武士たちは、何がなんだか分からないまま恐慌状態のなかで、寝着のまま辛うじて刀を携えるのがやっとという感じで応戦します。

なにしろ、不意打ちの完全武装した集団VS寝ぼけパジャマのパニックに駆られた集団です。

子供の頃、忠臣蔵の映画を見て、討ち入りの大乱闘の後で浅野方の浪士たちに怪我人がひとりもなかったことにホッとした記憶がありますが、考えてみれば、こんな闇討ち同然の奇襲で、武装集団側に負傷者がでるわけがなかったのです。

クリスマスの夜、イギリスの子供たちは「クリスマス・キャロル」を見て、人に優しくしてあげることは結局自分のためでもあるのですよ、という教訓を手に入れているとき、日本の子供たちは「大忠臣蔵」を見て、事情があるなら、時として奇襲攻撃で勝利を得ることも、別段悪いことでもなんでもありませんよ、という教訓を手に入れるかもしれませんね。

クリスマスの夜、英米人に招かれたパーティの席で、「クリスマス・キャロル」→「大忠臣蔵」→「パール・ハーバー」と話が進みそうになったら、急いで席をはずすことを、老婆心ながらお勧めします。
by sentence2307 | 2005-01-02 20:30 | 渡辺邦男 | Comments(0)