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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:川島雄三( 8 )

川島雄三の性典映画

5月に出版された「監督 川島雄三 松竹時代」を読んでいたら、とても面白い箇所に遭遇したので、そのことをちょっと書いてみますね。

この「監督 川島雄三 松竹時代」という本を出版したのは、ワイズ出版という会社。映画本とか芸能関係の出版では、これまでかなりの実績のある会社で、ちょっといい仕事をしてきた印象のある出版社です。

ちなみにこの会社からどんな本が出ているかというと、ウィキによれば、
『石井輝男映画魂』(1991年、石井輝男/福間健二共著)
『つげ義春漫画術』全2巻(1993年、つげ義春、権藤晋共著)
『日本カルト映画全集』全10巻(1995年-1996年)
『市川崑の映画たち』(1994年、市川崑、森遊机共著)
『完本 市川雷蔵』(1999年、山根貞男・編)
『三島由紀夫映画論集成』(1999年、三島由紀夫著)
『4区』(2000年、森山大道)
『日本映画ポスター集』全27冊(2000年-2003年)
『不死蝶 岸田森』(2000年、小幡貴一、小幡友貴共著)
『残りの花』(2000年、中居裕恭)
『松本清張 映像の世界 霧にかけた夢』(2001年、林悦子著)
『沢島忠全仕事』(2001年、澤島忠著)
『映画監督 深作欣二』(2003年、深作欣二、山根貞男共著)
『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(2006年、澤井信一郎、鈴木一誌共著)
『清/順/映/画』(2006年、鈴木清順述、磯田勉、轟夕起夫編)
『特技監督 中野昭慶』(2007年、中野昭慶、染谷勝樹共著)
『東京ゼンリツセンガン』(2009年、荒木経惟)
『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』(2010年、山田宏一著)
『ワイズ出版映画文庫』※2012年創刊
『よみがえる歌声 昭和歌謡黄金時代』(2012年、林家たけ平著)
となっていて、書名を見ただけでもなんだか歴史の重みを感じますよね。

さて、当の川島雄三ですが、とてもムラッ気のある監督で、なにしろ傑作と駄作の出来がはっきりしており、なかでも最初に監督になった松竹時代というのは、「駄作」の量産期だったというのが定説になっているくらいの低迷期で、あえて「そこ」に焦点をあてようというのですから、この出版、そりゃあもう冒険というか、営業の面からいえば無謀な無茶振り企画というしかなく(編者が「カワシマクラブ」とかいって、どうもこの企画、マニアック集団「川島教」信者の一方的なオダに乗せられて作ってしまったとしか思えない危うさがあります)、どうシロート眼から見ても、川島雄三が松竹を出たあとの1955年以降、他社で撮った傑作群を外してしまっては、現在たとえ微かなブームの再来が囁かれているとはいえ、あえてこうした奇を衒う隙間狙いの「川島」本というのが果たして一般読者に受け入れられるのか、いや、こういう核心を意識的にはずしたマニア好みの本にそもそも市場価値というものがあるのかという問題だってあり得ます。

つまり、川島雄三を語るときに、はたして「洲崎パラダイス 赤信号」(1956日活)や「幕末太陽伝」(1957日活)、それに「貸間あり」(1959宝塚映画)や「花影」(1960東京映画、個人的にはとても好きな作品です)、「雁の寺」(1962大映東京)、「青べか物語」(1962東京映画)、「しとやかな獣」(1962大映東京)をはずしてしまって(「奇を衒う」ことだけに拘り)川島雄三の「才気」を語ろうとしても、それは所詮無理な話なわけで、どれだけ突っ込んだものが書けるか大いに疑問とするところです。

とにかく、そういう川島雄三の後年の「華」の部分を切り捨てて、ことさらに修行時代の「粗製」期に「奇」を探してみても、そりゃあ下手すると、まさに隔靴搔痒「禅問答」みたいなコケ方をしかねない危惧を抱いてこの本を読み始めました。

松竹大船時代の若き川島雄三は、「プログラム・ピクチャー」の担い手として期待されながらも、しかし撮る作品ごとに酷評されては干され、そしてしばらく撮れない冷や飯期をすごしたあと、やっと撮った作品も再び酷評されて干されるということを繰り返しています。

そういう、とても「困難」な時期にあった「松竹大船」時代です。

そりゃあ、後年の川島雄三だって一筋縄でいくような単純で素直な人とは決していえなかったし、そういう意味では、撮る作品をひとつひとつ論じていけば、その作品評の積み上げの彼方に監督のユカシイ人間性が現出するなんて生易しい生き方をした簡単明瞭な人物ではなかったでしょうが、しかし、1955年以降の他社時代に撮られた作品群に共通しているのは、迫り来る死の影に怯えながら、あるいは開き直って、「限られた時間」の虚無とあがらいながら対峙した焦燥感によって、語り口が研ぎ澄まされ先鋭化していく一種の生真面目さ(演出の緻密さとねばり強さが伺われます)があらわになる過程が恕実に見える印象があります。

まあ、そのことを証明するなんて随分オコガマシイ話かもしれませんが、参考のために、世に言う川島雄三の「ベスト10」というのを挙げてみますね。

これを見れば、川島雄三が「先鋭化」した時期を欠いた「低迷期」だけを振りかざして川島雄三論に挑むことが、いかに無謀で空しいことかが分かろうというものです。

ちょうどいい具合に、この本に収載されている立川志らくの評文「松竹大船時代からの作品から見た川島雄三作品の本質」(読むほうが気恥ずかしくなるような大層なタイトルですが、論点は要するに「喜劇を作ろうとしたら、芸術になってしまった」のひとことで要約できてしまうような小銭稼ぎの駄文です)の中に「川島雄三ベスト10」というのがありましたので、引用させていただこうと思います。

以下が、その立川志らくのあげた「川島雄三ベスト10」です。

1位 洲崎パラダイス 赤信号(1956日活)
2位 グラマ島の誘惑(1959東京映画)
3位 とんかつ大将(1952松竹大船)
4位 人も歩けば(1960東京映画)
5位 しとやかな獣(1962大映東京)
6位 幕末太陽伝(1957日活)
7位 貸間あり(1959宝塚映画)
8位 青べか物語(1962東京映画)
9位 喜劇とんかつ一代(1963東京映画)
10位 雁の寺(1962大映東京)

う~ん、これってどうなんでしょう。肌合いがまったく異なる「洲崎パラダイス 赤信号」と「グラマ島の誘惑」をイコールで並べようとする無神経には、ちょっとついていけないものがあります。

ふたつの作品のなかにいささかでも共通するものがあるとは思えない「シリアス」と「破茶目茶」の両極端に位置する作品です、こういうのって、なにを根拠に引き比べて「甲」としたり「乙」とすることができるのか、などと訝しく思いながら眺めていたら、突然気がついたことがありました。

これってただ単に「硬・軟」を意識的に取り混ぜながら、世評とかも意識しつつ、マニアの受けも狙った、なんとも情けない予定調和の公式的折衷案満載ベスト10にすぎないのではないか、このなかに「いったい、あんたの意見は、あるのかよ」といいたくなるようなグズグズのベスト10だということにはじめて気がついたのでした。

でも、こういうベスト10だからこそ、「参考」になるのかもしれないのでしょうが、しかし、またまた、知らなくてもいいような世間知に長けた世渡り上手なヤカラの変な法則性を発見してしまった嫌な感じです。

知識をひけらかし読者をいたずらに攪乱しようとでも考えているのなら、その心根の卑しさは最初からバレバレで、目的を達したとは到底いえません。

ああいやだいやだ、しかしまあ、こういう図図しい人でなければ、落語もできないくせにインテリぶって偉そうに構え落語家でございなんてほざきたおしてえらそうなツラしていられるもんじゃありません、やれやれ、すごく疲れる。

「洲崎パラダイス 赤信号」と「グラマ島の誘惑」を並べ、あるいは「しとやかな獣」と「幕末太陽伝」とを並べ、また、「喜劇とんかつ一代」と「雁の寺」をあえて並べてみせるところなど、《並べる》こと自体に拘っただけの随分見え透いた虚栄心があからさまで、なんてことない総花的ベスト10にすぎませんでした。

「洲崎パラダイス 赤信号」に対して「グラマ島の誘惑」のどこが「2位」なのか、2作品をこうして並べるからには、それ相当の価値基準くらいは明らかに示して欲しいと思いますよね。

さて、この小文のタイトル「川島雄三の性典映画」からどんどん離れてしまうそうなので、あわてて所期のテーマに戻りますね。

この本の中に収録されている評文のなかでひときわ注目した文章がありました。

アロ・ユエカルダ(肩書きは「映画評論家」と書かれていますが、イザヤ・ベンダサンの例もあるので、要注意です)という人の書いた「風俗と風刺の間」、サブタイトルには「性典映画と川島雄三をめぐって」とあります。

この評文には大変に示唆を受けました。

川島雄三と性典映画との出会いとして「娘はかく抗議する」(1952松竹京都)と「純潔革命」(1953松竹京都)の2作品を上げ、性典映画が隆盛した1950年から1952年にかけての時代状況を論じており、川島雄三が、時代の流行をどう付け焼刃的に対そうとしたのか、たいへん面白く書かれていました。

なかで思わずクスッとさせる出色の一文があったので、ちょっと抜書きしておきますね。

《性典映画は性と教育を組み合わせようとした不思議な劇映画のジャンルだった。
松竹は文部省に「娘はかく抗議する」の教育映画指定を訴えたということさえあったらしいが、「性教育のあり方が不明瞭で、青少年には不向きである」と断られた。
もちろん、性典映画はほとんどの場合、性を売り物にしただけのもので、それは製作者にも観客にも明らかだったのである。
表向きに性道徳を訴えるエロ映画のジャンルという最初から極めて人工的に作られた現象だったとも言える。
評判も決してよくはなく、こういう作品は教育的にも映画的にも駄目という意見が一般的だった。》

突っ込みどころは幾つかありますが、まずなんといっても文部省に教育映画の指定を申請したという部分でしょう。

文部省が却下したのは当たり前だとしても、その前にその申請が本気で為されたものだったのかという疑問が残ります。

想像するに、たぶん至極本気だったと思います。

美少女たちの太ももをチラつかせ、ふくらみ掛けた息づく胸を見せつけ、あるいは少女たちの純潔を汚そうと迫る欲情した男たちの、毒牙を必死で避ける苦悶にゆがむ表情をとらえて、そういうものを散々見せ付けておいて(観客の欲情をさんざん煽っておいて)、最後にただひとこと「こういうフシダラナコトは、なりませぬよ」と申し訳程度に教訓をたれて収束するこのエロ映画が、それでも「性教育映画」だと信じて作り、そう言い張るのなら、見解の違いというものがあるくらいなのですから、あるいはそういうこともあるかもしれません。

しかし、つづいて上野一郎(当時の映画批評家らしいです)が、川島作品「娘はかく抗議する」を評した映画批評が掲載されていました。

「主人公の純潔が守られたかどうか、その診察の結果が劇の大きなポイントになっているが、もうこのへんに至るとあまりにも浅ましくて見るに耐えなくなる。
まじめ腐ってそんなことを議論している映画中の人物が、みな精神異常者に見えてくる。要するに、性教育問題を取り上げるにふさわしい準備も誠意もない映画で、こういう映画を見るとスクリーンの純潔を守れと叫びたくなる。」(キネマ旬報1952.8上旬号)

べつに太鼓もちみたいな批評家など期待しているわけではありませんが、少なくとも批評家はなべて「作り手の理解」に身を寄せる優しさみたいなものがあってもいいかなと、この批評を読んで感じました。

ここでこそ必要なのは、「洲崎パラダイス 赤信号」を評する立位置ではなく、まさに「グラマ島の誘惑」を理解しようという「作り手の理解」の共感が求められていたのではないかと感じた次第です。


【参考資料】
監督川島雄三松竹時代 カワシマクラブ 編. ワイズ出版, 2014.5.
阿川佐和子のこの人に会いたい. 9 阿川佐和子 著. 文藝春秋, 2013.12.文春文庫
鬼の詩/生きいそぎの記 : 藤本義一傑作選. 河出書房新社,2013.4.河出文庫
幕末太陽傳 田中 啓一. 川島 雄三. 今村 昌平 2012.1.
阿川佐和子のこの人に会いたい(第902回)撮影所の化粧部屋で、川島(雄三)組と黒澤(明)組が一緒になったことがあってね……。 俳優 小沢昭一 阿川 佐和子. 小沢 昭一2011.12.8
[石原裕次郎ゴールデン・トレジャー~日活映画大全~] [2]石原裕次郎 [出演].日活,[2009.7]
「風俗映画」と「現在」のモビリティー--川島雄三と風景の変わり目 小倉 史2006.3.特集・映画のモビリティー
赤信号 洲崎パラダイス 芝木好子 原作 ; 井手俊郎, 寺田信義 脚本 ; 川島雄三 監督.日活,2006.3.
飢える魂 完全版 丹羽文雄 原作 ; 柳沢類寿 脚本 ; 川島雄三 監督・脚本.日活,2006.5.
銀座二十四帖 井上友一郎 原作 ; 柳沢類寿 脚本 ; 川島雄三 監督.日活,2006.3.
風船 大仏次郎 原作 ; 今村昌平 脚本 ; 川島雄三 監督・脚本.日活,2006.3.
わが町 織田作之助 原作 ; 八住利雄 脚本 ; 川島雄三 監督.日活,2006.5.
愛のお荷物 柳沢類寿 脚本 ; 川島雄三 監督・脚本 ; 山村聰 [ほか]出演.日活,2005.10.
あした来る人 井上靖 原作 ; 菊島隆三 脚本 ; 川島雄三 監督.日活,2005.10.
お嬢さん社長 Hibari memorial ’53富田義朗, 柳沢類寿 脚本 ; 川島雄三 監督 ; 美空ひばり [ほか出演].松竹ビデオ事業室,[2005.2]美空ひばりメモリアルDVD - Box ; 2
貸間あり 井伏鱒二 原作 ; 藤本義一 脚本 ; 川島雄三 監督・脚本.東宝,2005.11.東宝セレクション
暖簾 山崎豊子 原作 ; 八住利雄 脚本 ; 川島雄三 監督・脚本.東宝,2005.11.東宝セレクション
幕末太陽傳 -- コレクターズ・エディション.田中啓一, 今村昌平 脚本 ; 川島雄三 監督・脚本 ; フランキー堺 [ほか]出演.日活,2005.10.
名作映画の周辺(第4回世田谷フィルムフェティバルより) 山内久--映画「豚と軍艦」他を巡って--川島雄三、今村昌平、浦山桐郎監督らとの仕事 山内 久. 水野 晴郎2003.3.
幕末太陽傳 川島雄三 監督・脚本. 日活 (発売),2002.11.
川島雄三と水谷龍二  太田 和彦2001.9.特集 喜劇の向う側
川島雄三 乱調の美学 高平 哲郎 2001.4.下旬特別企画 映画館主義 絶対映画館で観る!
川島雄三、サヨナラだけが人生だ 藤本義一 著.河出書房新社,2001.1.
川島雄三乱調の美学 磯田勉 編.ワイズ出版,2001.4.
花に嵐の映画もあるぞ 川島雄三 著.河出書房新社,2001.7.
柳よ笑わせておくれ 川島雄三, 柳沢類寿 [著].河出書房新社,2001.9.
私の映画回想録-40-川島雄三監督との対立 舟橋 和郎1995.08.
今村昌平,川島雄三作品を語る 今村 昌平. 桂 千穂. 阿部 嘉昭 構成1993.06.15没後30年--川島雄三はサヨナラを言わない<特集>〔含 ビデオグラフィ〕
川島=村井は始源の映画的想像力を覚醒させる--大映時代の川島作品のカットを分析する 筒井 武文1993.06.15没後30年--川島雄三はサヨナラを言わない<特集>〔含 ビデオグラフィ〕
没後30年--川島雄三はサヨナラを言わない<特集>〔含 ビデオグラフィ〕1993.06.15
Kawashima Yūzō & Mori Issei : Japanse meesters van de B-film = Kawashima Yūzō & Mori Issei : Japanese kings of the Bs / [redactie, Hasumi Shigehiko].Film Festival Rotterdam :c1991.Tijger reeks ; 6
居直り太陽伝 塚本 邦雄1989.03.監督川島雄三<特集>
宴会の外--川島雄三の尿意 筏丸 けいこ1989.03.監督川島雄三<特集>
織田作之助の手紙--事実は小説よりも奇?(「東京」昭和23年1月号より再録)織田 作之助 著. 川島 雄三1989.03.監督川島雄三<特集>
囲われた空間--「しとやかな獣」へのオマージュ 高橋 康也1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三を再評価する--その空間造形と距離感覚 加藤 幹郎1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三監督論のための観察ノート 白井 佳夫1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三関連年表 1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三関連文献目録 田中 真澄 編 1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三と喜劇(「中央公論」誌昭和38年7月号より収録)川島 雄三. 岩崎 昶. 草壁 久四郎1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三と戦った日々と工夫の数々 フランキー堺1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三のマジック 内藤 誠1989.03.監督川島雄三<特集>
川島雄三フィルモグラフィー1944-1963 1989.03.監督川島雄三<特集>監督川島雄三<特集>1989.03.
ざっくばらんな話(「キネマ旬報」誌,昭和26年6月下旬号より収録)川島 雄三 他1989.03.監督川島雄三<特集>
師匠・川島雄三を語る--屈折した水面下の明るい光 藤本 義一 1989.03.監督川島雄三<特集>
「失敗」への嗜好 絓 秀実 1989.03. 監督川島雄三<特集>
私的風景のなかの川島雄三 池内 紀1989.03.監督川島雄三<特集>
羞恥心の風俗映画 蜷川 幸雄1989.03.監督川島雄三<特集>
大映作品の川島監督 湯浅 憲明1989.03.監督川島雄三<特集>
ダブルベッドとルノワール--場違いのしとやかな亀裂 松浦 寿輝1989.03.監督川島雄三<特集>
蕩尽の映画,蕩尽の人生そして既成への異議申し立て 西河 克己. 山根 貞男1989.03.監督川島雄三<特集>
何より残念なのは早く死んでくれたということです--川島雄三との仕事,その時代 岡崎 宏三. 稲川 方人1989.03.監督川島雄三<特集>
役者冥利!と乗せられた川島流演出法 小沢 昭一1989.03.監督川島雄三<特集>
<歴史>を目撃する--「幕末太陽伝」のメカニズム 梅本 洋一1989.03.監督川島雄三<特集>
わがあこがれの不健康優良児 岡本 喜八1989.03.監督川島雄三<特集>
悲劇の喜劇映画監督・川島雄三 : 1918(大正七年)~1963(昭和三十八年) 木村東市 著.ジーワン・ブックス,1988.6.
Kawashima club : 鬼才!監督川島雄三の魅力 編集委員会,1985.4.
川島雄三と加藤泰 佐伯 知紀1983.08. 映画の文学誌 ; 映像感覚と文学的感覚
芸術と風土--川島雄三の生涯を軸として池田 博1980.
ミューズの蹠 : 川島雄三の生と死映画監督川島雄三を偲ぶ会 編.映画監督川島雄三を偲ぶ会,1980.6.
かわしま・ゆうぞう考-3-我らが師匠・川島雄三監督の魅力的人間像をさぐる-1-藤本 義一. 小沢 昭一1977.01.01
かわしま・ゆうぞう考-4-我らが師匠・川島雄三監督の魅力的人間像をさぐる-2-藤本 義一. 小沢 昭一1977.01.15
川島雄三について語るには時間が何時間あっても足りない!(かわしま・ゆうぞう考-2-)殿山 泰司. 藤本 義一. 白井 佳夫1975.04.15
川島雄三という映画監督は我々にとって何であったのか?(かわしま・ゆうぞう考) 長部 日出雄. 藤本 義一. 白井 佳夫1975.01.15
サヨナラだけが人生だ : 映画監督川島雄三の一生 今村昌平 編.ノーベル書房,1969.
川島雄三と喜劇--映画・人と作品-4- 川島 雄三 他1963.07.
川島雄三論・作品の見かた 小川 徹1963.02.
年鑑代表シナリオ集. 1957年版 シナリオ作家協会 編.三笠書房,1958.
風鉛 川島 雄三 他1956.01.
by sentence2307 | 2014-07-05 15:49 | 川島雄三 | Comments(1)

あした来る人

川島雄三作品を見るたびに、ある本に掲載されていた紹介文を、セットのように思い浮かべてしまいます。

そこには、「川島雄三は、優れた多くの作品を撮ったが、しかしまた、とんでもない駄作も量産した映画監督だった」というようなことが書かれていました。

その一文を読んだ当初は、その主観的で独善的な文章に少なからず驚いてしまいました。

たかが紹介記事くらいで、そんなふうにマジで気負わなくてもいいじゃないかという気持ちが、強烈に残ったせいかもしれません。

書かれていることの内容よりも、筆者の書き方に対する姿勢に嫌悪の情が先立ってしまって、「とんでもない駄作」という部分の方までは考える余裕がなかったというのが正直なところだったと思います。

それほどに、その書き手の気負いには、生理的な部分で嫌悪を抱きました。

しかし、それから後、いろいろな川島作品と接していくにつれて、確かに、川島雄三の作品のなかには、やっつけ仕事と断じられても仕方のないような作品も、あるにはあるのだなということを実感しました。

たとえば、この作品「あした来る人」など、川島雄三の最高傑作「幕末太陽傳」と、あえて比べようという意欲など最初から起こるはずもないほどの、集中力に欠けた惨憺たる作品という印象を持ちました。

もちろん、その頃も常に脳裏にあったあの「とんでもない駄作」という言葉に無意識に支配されていたことはいうまでもありません。

しかし、あらゆる作品を、常にその監督の最高傑作と比較して見るような見方が、はたして正しい見方といえるだろうかと疑い始めたのも、実はこの作品「あした来る人」と出会ってからでした。

複雑に絡み合う5人の男女が、不思議な運命の糸に操られて、最後には結局、誰ひとり幸福になることができずに、脆くも崩壊していく人間関係の失意の物語を見て、その印象を率直にいえば、この作品の煮え切らないラストについて、複雑に絡まる人間関係をさばき切れず、戸惑い、集中力を途切らせてしまった川島雄三の困惑を見せ付けられたように印象したからかもしれません。

しかし、当時にあって、その印象を、「失望」と名づけるしかなかった自分の限界を、最近ふたたびこの作品を見て、思い知らされました。

むしろ、川島雄三は、人間関係が不全に終わるこの物語に惹かれたのではないかという気がしてきました。

お互いの気持ちをはかりかね、「好きだ」とか「愛している」などというあいまいな言葉くらいでは、どうにも届かない人間と人間の隔たりを前に呆然として、この作品の登場人物たちは相手に伝えるべき言葉に臆し、諦念のなかで口ごもるばかりで為すすべなく、別離にあまんじているように見えてしまいました。

どのようにも人間関係を築き上げられない不全の意味するものとは何だったのかといえば、それは川島雄三がその身に纏わせていた死の影と蒼ざめた虚無だったのかもしれません。

(1955日活)監督・川島雄三、製作・山本武、原作・井上靖(朝日新聞連載)、脚本・菊島隆三、撮影・高村倉太郎、音楽・黛敏郎、美術・中村公彦、録音・福島信雅、照明・大西美津男、編集・中村正、製作主任・林本博佳、カジカ資料提供および指導・渡部正雄(資源科学研究所)、助監督・今村昌平、日活の製作再開一周年記念作品。
出演・山村聰、月丘夢路〔入社第一回出演〕、三橋達也、新珠三千代、三國連太郎、高原駿雄、金子信雄、小沢昭一、小夜福子、小沢栄、天草四郎、山田禅二、高品格、瀬川路三郎、大森安行、武藤章生、加納桂、加藤義朗、植村進、関弘子、真下治子、村田寿男、千代京二、稲垣実、小川繁、青木富夫、河上信夫、宮原徳平、澄川透、真杉隆一、重盛輝江、福田とよ、石塚雅子、早川十志子、明石淳子、宮路正美、星野昌子、歌川まゆみ、本目雅昭、衣笠一夫、緑川宏、須藤孝、黒田剛、古田祥、芝あをみ、峰三平、山之辺閃、弘松三郎、三原一夫、三浜元、上原一二、水木京一、神山勝、露木護、久遠利三、坂井美紀子、井東柳晴、千代田弘、柴田新、三杉健、大倉節美、三島謙
1955.05.29 12巻 3,160m 115分 白黒
by sentence2307 | 2010-12-19 22:35 | 川島雄三 | Comments(128)

洲崎パラダイス 赤信号

「月夜の傘」を見て意外に感じたことのひとつに、新珠三千代の清楚で品のいい美しさへの驚きがありました。

しかも、いかにも初々しい。

映画通の友人との雑談の折に、友人にそのとき感じた彼女の印象を伝えたら、新珠三千代は「その線」で売り出した女優なんだから当然だろうと切り返され、逆に、それじゃお前が「驚いた」というその理由というのは何だったんだと聞き返されてしまいました。

僕が最初に見た新珠三千代の作品、つまり川島雄三監督の「洲崎パラダイス 赤信号」に出演していたあの演技のことについて話しました。

友人いわく「新珠三千代の第一印象を形成するにしては、そりゃあ最悪な出会いだったわけだな。しかし、最初に出会ったその作品が彼女にとって最高の演技と評価を受けた作品だったことは、本当の意味では幸運だったと云えなくもないかな。」

帰宅してから、そのときの会話が気に掛かって、佐藤忠男の「日本映画史」のページを繰って新珠三千代について書かれた部分を探してみました。

「日本映画史」の第8章「危機と変革の1960年代」の15「俳優たち」の項には、こんなふうに記されていました。

《新珠三千代は、美しく品よくふるまって貴婦人崇拝的な愛の対象になるというメロドラマ的な役柄の多いスターであるが、川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」56ではずるくて冷酷でもある娼婦を鮮やかに演じて演技的に代表作とした(・・・やっぱり、そうだったんだ・・・)。
堀川弘通の「女殺し油地獄」57では、やさしさと美しさが仇となって親しい不良少年から殺されてしまう商家のお内儀を演じて凄艶であった。
小津安二郎の「小早川家の秋」61では、中村鴈次郎の老父に意見するしっかり者の娘であり、折り目正しい演技だった。》

そうだ、「小早川家の秋」に出ていたんだった。

「折り目正しい演技」とは、まさに小津安二郎好みの女優ではないかと気がついて、松竹編「小津安二郎新発見」にあった「小津映画の名優たち」のひとりに加えられているのではないかと思い、ページを繰ってみましたが、残念ながら特別な項目が立てられてはいませんでした。

肩透かしを食わされた気分です。

そして、佐藤忠男の「日本映画史」の中で、もうひとつ気に掛かる部分がありました。

「洲崎パラダイス 赤信号」のなかで新珠三千代が演じた役・蔦枝が「娼婦」と記されている部分です。

僕はいままで、彼女が演じたあの役は、食い詰めて、そのままでは娼婦に落ちてしまいかねない危うい境遇の女だと思い込んでいました。

そうだったのだろうか、もしそうなら、僕がいままで持っていた固定観念を修正する必要が生じる。

撮り溜めたストックのなかに、この作品のビデオがきっと保存されているとは思いますが、整理が悪いので、すぐには見つかりそうもありません。

そうそう、以前書いた感想ならブログの中にあるかもしれないと気がつきました。

そんなわけで、少し以前のブログを探してみたところ、ありました、ありました。

自分自身の心覚えのために、以下に貼っておこう思います。

《食い詰めた男と女が行き場所を失い、切羽つまって、洲崎に流れてきます。

しかし、川向こう洲崎遊郭で働き口を見つけるまでの決心はつかないまま、女は橋のたもとの一杯飲み屋で働き、男は蕎麦屋の出前持ちになります。

離れ離れの生活を送るうちに、女は男との腐れ縁を絶つように電気屋の主人の囲われ者となり男の前から姿を消すと、一時は男も半狂乱になって女を探しますが、それもやがて諦めて仕事に精を出すうちに、飲み屋の亭主が昔の女に殺されるという事件が起こり、それをきっかけとなって再び女とよりが戻ります。

離れたりひっついたりしながら、男と女は誰もが今にも千切れそうな生活という一本の綱の上で危なっかしい世渡りを続けているのだと描かれます。

だが、この映画の本当の主人公は、むしろ、橋の袂に踏み止まる二人を絶えず脅かし続ける川向こう、洲崎パラダイスからの、堕ちる所まで堕ちて捨て身の逞しさで生きる様々な人間たちの、お祭り騒ぎのようなどよめきと賑わいです。

あの溝口健二の最期の作品「赤線地帯」は、奇しくもこの同じ年に撮られています。

地獄のような赤線の町から抜け出すためには、死ぬか気違いにでもならなければ駄目なのだと、売春制度の悲惨を憎悪を込めて告発したこの作品の悲惨な女たちの数々の運命が、まるで見本市のように蒐集されて描かれていく果てのラストで、ひとりのいたいけな少女が無理矢理塗りたくった厚化粧の中から、恐る恐る客に声をかける初店の鬼気迫る場面には、溝口の女性崇拝を基盤にした非人間的制度への怒りと怨念の告発が漲っていました。

しかし、過酷な運命に弄ばれ、されるがままになっている人形のような、どこまでも被害者でしかない溝口の描く女たちに比べると、川島雄三の描く女たちは、惨めな生活に絶望しながらも、だからこそ限られたその人生の、女として味わい得る快楽の悉くを享楽するために、露骨な欲情を押し隠すこともなく、とことん生き尽くそうとする貪欲な「人間の女」たちなのです。

思えば「幕末太陽傳」で、佐平次が、溢れ出る活力に任せて、はしゃぎ回り、暴れ回ったその後で、人知れず時折咳き込みながら見せた暗い不吉な表情が、彼のすぐ傍らにある死の存在を明確に仄めかすことで、作品自体に彫りの深いニヒリスティックな陰影を与え得て、物語に更に一層の豊かな奥行きを持たせることに成功し、また、それだけに観る者に強烈な印象を与えることが出来たのだと思うのですが、この「洲崎パラダイス・赤信号」における、佐平次のそうした「死」に見合うだけの謎といえば、それはきっと女(蔦枝)の「過去」の得体の知れなさではないでしょうか。

食い詰めた二人が洲崎まで流れてきて、橋の手前で躊躇する感じが何やら意味ありげなのです。

そして物語が進行するにつれ蔦枝が元娼婦だったらしいことが、周囲で取り交わされる会話や雰囲気で何となく分かり始めます。

そのことで、更に蔦枝の迷いも少しずつ分かり始めます。

食うためなら、少しの間、体を売ってもいいかも知れない、と考えたかも知れません。

彼女が、体を売ること自体に抵抗を持っていたとは考えにくいものがあります。

もしあるとすれば、亭主に対する遠慮だけだったのではないでしょうか。

ここで川島雄三が描いている蔦枝という女は、溝口健二の描いた日本の古い因習に囚われた痛ましい女たちとは、だいぶ様子が違います。

蔦枝には、そもそも性に対する罪悪感が全然ありません。

むしろ、蔦枝は、「洲崎遊郭」という解放区で性の魅力と自由さに再び魅入られ虜にされてしまうことを恐れているかのようにさえ思えてしまいました。

彼女が持て余しているのは、絶望的なくらいに生き生きとした彼女自身の「女であること」の決定的なバイタリティです。

ここまで書いてきて、この作品は、もしかすると売春防止法というものに対する川島雄三の意思表示だったのかもしれないと思えてきました。

もし金のために嫌々身を売らねばならない不幸な女が一人でもいるなら、売春防止法は有効であるという論理の裏側で、1人だけの男に独占されることを拒み、様々な男たちとの性交渉を通して自分の肉体が持つ官能の可能性の総てを欲望のままに享楽し尽くそうとする女がひとりでもいる限り、売春防止法は無効であるという論理も成り立つ可能性も在り得るのではないか、というような・・・。

この作品は、川島雄三の最高傑作です》

しかしなんですよね、その新珠三千代も既に亡くなってしまっているのですから、やっぱりこのあたりが映画の残酷なところなんでしょうか。

そういえば「小早川家の秋」の最後の場面はこんなふうでしたよね。

火葬場の煙突から出る煙を見ながら、河原の夫婦が言葉を交わします。
「爺様や婆様やったら大事ないけど、若い人やったら可哀想やなあ。」
「うーむ、けど、死んでも死んでも、あとからあとからせんぐりせんぐり生まれてくるわ。」
「そうやなあ、よう出来とるわ。」

この死の影に覆われた壮絶な台詞を聞いてしまったら、「映画って、本当に素晴らしいものですね」なんて、口が曲がっても僕には言えそうにありません。

(56日活)(監督)川島雄三(原作)芝木好子(脚本)井手俊郎、寺田信義(撮影)髙村倉太郎(美術)中村公彦(音楽)眞鍋理一郎
(出演)新珠三千代、轟夕起子、河津清三郎、三橋達也、芦川いづみ、牧眞介、桂典子、田中筆子、植村謙二郎、冬木京三、小澤昭一、山田禪二、菊野明子、隅田恵子、津田朝子
(81分・35mm・白黒)

新珠三千代出演作
1.1951.06.22 平安群盗伝 袴だれ保輔  東宝
2.1952.06.12 娘十八お転婆時代  宝塚映画
3.1952.10.01 その夜の誘惑  宝塚映画
4.1953.03.05 悲剣乙女桜  宝塚映画
5.1953.04.29 妻  東宝  
6.1953.12.29 鞍馬天狗斬り込む  宝塚映画
7.1955.03.01 人形佐七捕物帖 めくら狼  滝村プロ
8.1955.04.24 花のゆくえ  日活
9.1955.05.29 あした来る人  日活
10.1955.07.12 若き魂の記録 七つボタン  日活
11.1955.08.02 青空の仲間  日活
12.1955.08.09 三つの顔  日活
13.1955.08.21 月夜の傘  日活
14.1955.08.31 こころ  日活  
15.1955.10.25 江戸一寸の虫  日活
16.1956.01.03 ただひとりの人  日活
17.1956.01.21 ただひとりの人 第二部  日活
18.1956.02.19 風船  日活  
19.1956.02.25 神阪四郎の犯罪  日活
20.1956.03.14 死の十字路  日活
21.1956.04.04 東京の人 前後篇  日活  
22.1956.05.03 雑居家族  日活
23.1956.05.31 続ただひとりの人  日活
24.1956.07.31 洲崎パラダイス 赤信号  日活  
25.1956.11.14 乳母車  日活
26.1957.01.03 お転婆三人姉妹 踊る太陽  日活  
27.1957.01.03 川上哲治物語 背番号16  日活  
28.1957.03.20 「廓」より 無法一代  日活
29.1957.08.10 夜の鴎  東宝  
30.1957.09.15 初恋物語  東宝  
31.1957.11.15 女殺し油地獄  東宝  
32.1957.11.29 遙かなる男  東宝
33.1958.02.18 母三人  東京映画  
34.1958.03.25 葵秘帖  東映京都  
35.1958.04.15 東京の休日  東宝
36.1958.05.26 結婚のすべて  東宝  
37.1958.07.12 若い獣  東宝
38.1958.08.19 炎上  大映京都  
39.1958.09.02 鰯雲  東宝
40.1959.01.15 人間の条件 第一部純愛篇、第二部激怒篇  にんじんくらぶ=歌舞伎座映画
41.1959.01.28 かげろう笠  大映京都
42.1959.04.12 私は貝になりたい  東宝
43.1959.06.13 千代田城炎上  大映京都
44.1959.08.09 新・三等重役  東宝
45.1959.08.19 新吾十番勝負 第二部  東映京都  
46.1959.08.29 お役者鮫  大映京都
47.1959.11.20 人間の条件 第三部望郷篇、第四部戦雲篇  人間プロ
48.1960.01.15 新・三等重役 旅と女と酒の巻  東宝  
49.1960.01.27 現代サラリーマン 恋愛武士道  東宝
50.1960.03.22 若い素肌  東宝
51.1960.03.29 国定忠治  東宝
52.1960.04.26 新・三等重役 当るも八卦の巻  東宝  
53.1960.06.26 接吻泥棒  東宝
54.1960.07.12 新・三等重役 亭主教育の巻  東宝  
55.1960.08.28 濹東綺譚  東京映画
56.1960.09.18 自由ケ丘夫人  東京映画
57.1960.11.19 赤坂の姉妹 夜の肌  東京映画
58.1960.12.25 サラリーマン忠臣蔵  東宝  
59.1961.01.28 人間の条件 完結篇 第五部死の脱出、第六部曠野の彷徨  文芸プロ=にんじんくらぶ
60.1961.02.14 南の風と波  東宝
61.1961.02.25 続サラリーマン忠臣蔵  東宝  
62.1961.04.25 社長道中記  東宝  
63.1961.05.16 女家族  宝塚映画  
64.1961.06.14 沓掛時次郎  大映京都  
65.1961.10.29 小早川家の秋  宝塚映画
66.1961.11.12 黒い画集 第二話 寒流  東宝
67.1962.01.03 サラリーマン清水港  東宝
68.1962.03.07 続サラリーマン清水港  東宝  
69.1962.04.29 社長洋行記  東宝  
70.1962.05.22 愛のうず潮  東宝
71.1962.06.01 続社長洋行記  東宝  
72.1962.06.20 おへその大将  宝塚映画
73.1962.09.01 かあちゃん結婚しろよ  松竹大船
74.1962.11.03 忠臣蔵 花の巻 雪の巻  東宝  
75.1963.01.15 憂愁平野  東京映画
76.1963.02.17 風の視線  松竹大船
77.1963.04.28 社長外遊記  東宝
78.1963.05.29 続社長外遊記  東宝  
79.1963.08.14 馬喰一代  東映東京
80.1963.09.14 丼池  宝塚映画
81.1963.11.16 江分利満氏の優雅な生活  東宝  
82.1963.12.08 暁の合唱  宝塚映画  
83.1964.02.29 今日もわれ大空にあり  東宝
84.1964.02.29 続社長紳士録  東宝
85.1964.04.04 喜劇 陽気な未亡人  東京映画
86.1964.07.11 悪の紋章  宝塚映画
87.1964.08.28 西の王将 東の王将  東宝
88.1965.01.03 社長忍法帖  東宝  
89.1965.01.03 侍  東宝=三船プロ
90.1965.01.06 怪談  文芸プロ=にんじんくらぶ  
91.1965.01.31 続社長忍法帖  東宝
92.1965.04.10 冷飯とおさんとちゃん  東映京都  
93.1965.05.28 霧の旗  松竹大船
94.1966.01.03 社長行状記  東宝
95.1966.01.25 女の中にいる他人  東宝  
96.1966.02.25 続社長行状記  東宝  
97.1966.02.25 大菩薩峠  宝塚映画  
98.1966.10.01 あこがれ  
99.1967.01.01 社長千一夜  東宝
100.1967.01.14 惜春  松竹大船
101.1967.06.03 続社長千一夜  東宝
102.1967.08.03 日本のいちばん長い日  東宝  
103.1967.09.23 斜陽のおもかげ  日活  
104.1968.01.14 春らんまん  東宝  
105.1968.05.25 喜劇 駅前火山  東京映画
106.1968.06.08 日本の青春  東京映画
107.1968.12.28 喜劇 大安旅行  松竹大船
108.1969.03.29 ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを  東京映画
109.1969.05.14 超高層のあけぼの  日本技術映画
110.1969.05.31 鬼の棲む舘  大映京都  
111.1970.01.15 男はつらいよ フーテンの寅  松竹大船  
112.1970.06.06 ある兵士の賭け  石原プロ
113.1973.09.08 人間革命  シナノ企画=東宝映像
114.1975.11.01 陽のあたる坂道  東宝映画
115.1976.06.19 続人間革命  東宝映像=シナノ企画
116.1976.10.02 喜劇 百点満点  東宝映画  
by sentence2307 | 2007-10-20 21:36 | 川島雄三 | Comments(2)

トンカツ一代

川島雄三の「トンカツ一代」を見たとき、「そんなアホな」みたいな連想をしてしまいました。

以前見たマドンナの「エビータ」を思い浮かべたのです。

そう言えばあの「エビータ」を見た当時、周囲の人たちの「すごく良かった」という感想に圧倒されて、ついに否定的な意見を言えずじまいだったことも同時に思い出しました。

劇中話されるなんてことないセリフが、いつの間にかオーケストラの奏でる曲に乗って歌に変わっていくという持っていき方の不自然さに、どうしてもついていけず、自分だけ映画の流れから取り残されて、そのたびに僕は戸惑い続けていました。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観た時も同じです。

自分のこうした根っからのミュージカル嫌いのルーツをたどれば、きっと「ウエスト・サイド・ストーリー」あたりにぶち当たるのでしょうが、日常的には絶対にありえないこの話し言葉にメロディーが伴うという不自然な推移に、「あれって絶対不自然だよね」という素直な感想を、いつかは誰かに訴えてみたいという欲望をずっと持ち続けていました。

しかし、ミュージカル映画愛好者にとって、そんな見当違いな述懐など、ただ奇妙で馬鹿馬鹿しいと思われるだけでしょうし、精々皮肉な冷笑を浴び掛けられるのが関の山だという絶望的な予感もあって、口を噤んできたというのが本当のところでした。

そんな袋小路に迷い込んでいた僕を慰めてくれたのが、この川島雄三作品「トンカツ一代」です。

僕にとって、どうしても受け入れがたい不自然さの金字塔みたいな映画「エビータ」に比べれば、楚々とした「トンカツ一代」(登場人物たちの複雑な身分関係図を別にすれば、ですが)は、ミュージカル仕立ての奇妙な不自然さを十分に認識しながらの、含羞に満ちたラストです。

それに出演者総出の大合唱の繊細にして優しさに満ちた唐突さは、品位においてフェリーニの「8 1/2」の大団円のラストに匹敵するかもしれません。

いつまでも西洋文化の大雑把な荒々しさに馴染めないでいるこの遠い極東の島国で心を閉ざしている、虫けらのような存在に過ぎない黄色人種の僕にとって、虫けらのような孤独を分かち合うことができる優しさに満ちた作品に出会ったような思いがしました。

あのミュージカル仕立てという日本には絶対馴染むわけがない不自然な欧米風な価値観を大真面目に押付けられる時にいつも感じていた反発が、この川島作品では、ラストでほんの僅か、含羞に満たされて恥ずかしそうにチマチマと歌われるにすぎないさりげない繊細さによって、かえって愛らしく、そして妙に感心し、かつてミュージカル映画に対して持っていた偏見と頑迷を優しくサトシテくれるような安堵感のなかに自分を感じました。

作品の仕上がりに極端なムラがあると言われている川島作品のなかにあって、この「トンカツ一代」は、特に評価の集まりにくい隙だらけの作品だと思います。

いくら川島雄三のマニアックなファンと任じている人でも、まさかこの「トンカツ一代」を「幕末太陽傳」や「雁の寺」や「洲崎パラダイス赤信号」や「青べか物語」や「しとやかな獣」を差し置いて、上位にランクしようという勇気は、なかなか持ちにくいかもしれません。

そりゃあ僕だって、そうですが。

しかし、川島雄三の映画の魅力が、市井に生きる人々の猥雑な日常描写の確かさのリフレインにあり、あの起承転結のカッチリとした構成力ではなく、むしろ巨匠らしからぬ腰砕けの魅力というか、本編を突如見舞う物語性の破綻の独特な美しさにあるとすれば、こうしたさりげない「失敗作」こそ評価してみたくなる誘惑に駆られてしまう作品だったと思います。

(63東京映画・東宝)製作・佐藤一郎 椎野英之、監督・川島雄三、脚本・柳沢類寿、原作・八住利雄、撮影・岡崎宏三、音楽・松井八郎、美術・小野友滋、録音・長岡憲治、照明・榊原庸介

出演・森繁久彌、淡島千景、加東大介、木暮実千代、フランキー堺、三木のり平、池内淳子、山茶花究、団令子、益田喜頓、都家かつ江、横山道代、水谷良重、岡田真澄、原地東、村田正雄、中原成男、立原博、旭ルリ、勝間典子、林涛郎、若宮忠三郎、守田比呂也、芝木優子、浜田詔子、藤本芳子、岩倉高子、鶴島美奈、村上美重、小野松枝、紅美恵子、野間一江
1963.04.10 6巻 2,580m 94分 カラー 東宝スコープ
by sentence2307 | 2006-12-30 23:31 | 川島雄三 | Comments(0)

還って来た男

戦時下の厳しい最悪の製作環境の中で、川島雄三が精一杯の自由な精神によって作品を作り上げようとしたことは、このデビュー作品を見ればよく分かります。

しかし、主人公をあまりにも「自由」な場所に置くことに固執したために、かえって後味の悪い散漫な印象を残すに留まってしまったような作品に思いました。

南方の戦地から帰還した軍医・佐野周二の夢は、日本の虚弱体質の子供たちを健康にするための総合施設を建設することにあり、彼は、この映画に登場する人物たちを辟易させるくらい情熱的に繰り返しその夢を問いて聞かせ続けます。

この「繰り返す」行為自体がギャグとなるはずの後年の川島作品とは異なり、厳しい戦時下で作られたこの映画では、「日本の虚弱体質の子供たちを健康にする」という国策を揶揄の対象とみなされかねない懸念もあってか、この煮え切らないパターンから笑いが伴うことはありませんでした。

あるいは、作中この若き軍医は、「見合い」についてこんな所感を披瀝しています。

つまり、何回も見合いを繰り返すことで、何人もの女性を悲しませ落胆させるのなら、自分としては最初の見合い・ただ1度の見合いで結婚を決める積りだと公言します。

聞きようによっては、制約の多かったあの時代に対しての投げやりで反時代的なニヒリズムをさえ感じとることができるかもしれないこの言葉も、「揶揄」の武器性を剥ぎ取られてしまったこの潔い公明正大な彼の宣言は、彼に仄かな思いを寄せ始めていた多くの女性たちをただ「悲しませ落胆させる」ばかりの、世間知らずの「お坊ちゃん」の戯言としか聞こえないし、ましてや自分の迂闊な発言によって周囲の女性を傷つけていることに気づかないでいる無神経さには、物語の在り方そのものに対しても疑問を感じざるを得ません。

彼に思いを傾け始めていた女性たちは、そのきっぱりとした宣言に顔を曇らせて仄かな恋を諦め、彼の前から立ち去って行く描写と平行して、大本命・田中絹代との恋愛が確実に進行していくらしき描写でこの映画は終わっています。

周囲の女性の落胆まで描き込んでいるのだから、それでいいという問題ではありません。

きっと、この作品に対して抱いた違和感は、コメディの可能性を剥ぎ取られ、スラプステックのシチュエーションだけで描き切ろうとした無理がそのような形で現れたのかもしれません。

スラプステック・コメディなら、次から次へと瞬く間に爽快に後方へ飛び去る記号と化した命なき登場人物たちも、リアルに描き分けなければならないこの映画では、当然疾走感は失われ、流れは澱み、まがりなりにも「個性」を持たされた人々は息を吹き返し、悔やんだり恨んだりしながら、停滞することに苦悶しているようにさえ見えました。

時代の制約が方法論から実質的な「自由」を奪い取り、換骨奪胎されたスラプステック・コメディの「かたち」だけが無残に取り残された映画ということができるかもしれません。

(44松竹大船撮影所)企画・海老原靖兄、製作・マキノ正博、監督・川島雄三、脚本原作・織田作之助、撮影・斎藤毅、音楽・大澤寿人、美術・小島基司
出演・笠智衆、佐野周二、吉川満子、小堀誠、文谷千代子、辻照八、田中絹代、三浦光子、草島競子、日守新一、山路義人、坂本武、渡辺均、
1944.07.20 白系 7巻 1,849m 67分 白黒/スタンダード
by sentence2307 | 2006-08-07 20:31 | 川島雄三 | Comments(0)

青べか物語

この川島雄三作品「青べか物語」を初めて見たとき、本当に物凄い衝撃を受けて、もし、黒澤明の「どですかでん」より以前にこの作品「青べか物語」を見ていたら、はたして黒澤作品をあんなふうに手放しで賞賛したり評価することができただろうか、と少し不安な気持ちになったことを覚えています。

確かに、この川島雄三作品は、僕にとって虚を突かれたような衝撃作でした。

あの黒澤明作品のヒューマニズムに満たされ、目の覚めるような色彩に溢れ、美しくデフォルメされた汚濁の聖化ともいうべき倒錯した貧民窟とか、そこで暮らす人々の生真面目さなどは、どう贔屓目に見ても貧民窟に住む人々のリアルとは程遠いものと感じられてなりませんでした。

身なりだけはいかにもみすぼらしく装っていても、しかしそれは貸衣装をむりやり着込んで「それっぽく」見せかけているだけで、どの人物も中身はただの思慮深いインテリにすぎないような、つまり、日々の暮らしに追われまくる庶民があんなふうに深刻ぶって日々生きていけるわけがないという気がずっとしていました。

「貧民窟」や、そこで生きる人々を素材にして、黒澤明が破格の映像作家としての自身のモチーフを前面に押し出しながら、もっと別の崇高な「なにもの」かを描こうとしている姿勢に対する疑問というか、反撥を感じたのかもしれません。

天才監督が「自分の作品を作る」のですから、それはごく当たり前のことなのですが、川島作品「青べか物語」を見たとき、社会の底辺で虫けらのように生きる明日の展望を失った庶民が、その絶望的な境遇のなかで、乱痴気騒ぎ・馬鹿騒ぎの狂騒に明け暮れながら嬉々として生きる(振りをする)失意を真っ向から描こうとした川島雄三の姿勢の誠実さに少し感動したのだと思います。

絶望的な生を酒で煽り立て、あるいは紛らわし、刹那的な「性」にのめり込んで疾駆していくしかない庶民の負の情熱、それを「生き急ぐ」といえばいいのか、「自暴自棄」というべきなのかはわかりませんが、「愛のコリーダ」によって描かれた自らを閉ざし破滅に向かって内向する人間の絶望の表出は、たぶん黒澤作品の方法では、きっと・そして・決して、描き得ないと考えていた僕に、この引きつったような絶望的な馬鹿笑いの狂騒に終始する「青べか物語」は、この疑問にぴったりと照準を合わせるかのように明確に答えてくれた作品でした。

狡猾で、したたかで、小ずるくて、本能のままに放埓に「生きる」ことに悩んだことなどさらさらない、人間なんかもったいない、なにかイカガワシイ動物にでも喩えたくなるような、図太くて、鈍く、貪欲そうに見えて、その実繊細なところもないわけではない、なんとも複雑な人々なのです。

それは、役者たちをそれぞれ自由に、そして縦横に動かしながら、目指す一点(リアリティ溢れる庶民の強烈な生活臭の発散)をタガエることなく照射して川島雄三演出の力量をイカンナク示し、すべての俳優たちから、それぞれ生涯最高の演技を引き出すことに繋がっているといってもいいと考えています。

よそ者の弱みに付け込んでボロ船を売りつけ、さらに酒・煙草をたかりまくる厚顔なスケベ爺じいを演じた東野英治郎の見事な演技は、豊田四郎の「雁」の因業な金貸しに匹敵するものといえるでしょうし、過剰な情念に生きる底辺の女娼を演じた左幸子の演技は、「飢餓海峡」の杉戸八重と並び称してもいいと思いました。

そうした中で僕のもっとも好きなシーンは、最初の花嫁に逃げられ不能の汚名をきて街の笑い者になった五郎=フランキー堺が、2人目の花嫁(池内淳子)を迎えたその初夜の場面、恥らいながらも花嫁は初夜を迎える身支度をしている傍らで、早く床入りしたくてうずうずしている五郎がびったりとくっついて待っています。

好色そうに彼女の肢体をなめまわすように見つめる五郎と、恥じらいながらもそうされていることがまんざらでもない花嫁、この場面はもうほとんど「前戯」です。こういう鮮烈なエロスを婉曲に描く力量が、かつての日本映画にはしっかりとあったのだと実感しました。

しかし、これだけ感動できた「青べか物語」のはずですが、このふたつの作品を見たときから長い時間が経ったいま、各シーンをくっきりと思い出すことができるのは、残念ながら「どですかでん」の方なのが、とても不思議です。

あのリアリティはなんだったのだろう、という疑問が湧いてきました。

もしかしたら、その理由は、森繁久弥の描き方にあったのかもしれません。

庶民の破天荒な活力の前で、ただたじたじと怖気漬いているしかない彼は、終始「部外者」でしかなく、結局この土地から独りそそくさと立ち去ることになる場面に、そういう視点で描かなければならなかったこの映画の限界が明かされていたのかもしれません。

庶民に限りない愛情と理解を示しながらも、しかし、一度として彼自身は「庶民」ではなかった男、あの逞しく人生を生き抜く活力を持ち合わせておらず人生の半ばにしてこの世からの退場を余儀なくされた男・川島雄三の姿が、あのラストにかぶさりました。

(62東映)製作・椎野英之 佐藤一郎、監督・川島雄三、監督助手・山本邦彦、脚本・新藤兼人、原作・山本周五郎、撮影・岡崎宏三、音楽・池野成、美術・小島基司、録音・原島俊男、整音・西尾昇、照明・榊原庸介、スチール・橋本愈、製作主任・大久保欣四郎、
出演・森繁久弥、東野英治郎、南弘子、丹阿弥谷津子、左幸子、紅美恵子、富永美沙子、都家かつ江、フランキー堺、千石規子、中村メイ子、池内淳子、加藤武、中村是好、市原悦子、桂小金治、山茶花究、乙羽信子、園井啓介、左ト全、井川比左志、東野英心、矢野間啓治、小池朝雄、名古屋章、立原博、丘寵児、中原成男、田辺元、竹田昭二、旭ルリ、岩倉高子、桜井浩子
1962.06.28、8巻 2,755m 101分 カラー 東宝スコープ
by sentence2307 | 2006-07-15 15:47 | 川島雄三 | Comments(1)

幕末太陽傳

陰惨にしかなり得ないような廓噺なら、古典落語には幾らでもあります。

この作品でいうなら、佐平次は無一文の労咳病みで、その養生のため、舌先三寸で女郎屋に転げ込みますし、お茶挽き続ける老女郎は、その惨めさから逃れるために、馴染み客と心中未遂をしようとするし、また、末を誓った偽の起請文を何枚も書いて、客を自分に繋ぎ止めようとした性悪な女郎は、策謀が露見するに及んで、男たちからの報復の暴力を避けるために、自分の体が売り物であることを絶叫して危険から身を守ります。

話しそのものは、滅入るような陰惨なものなのに、しかし、これが、ただただ陽気な艶笑噺になり得てしまうのは何故だろうと考えました。

権力と金の力にものを言わせて民衆を抑え込みにかかる「おかみ」に対して、もとより、晴れがましい歴史にその名前を留めるはずもない庶民は、格式の、義理の、と肩肘張ったまやかしの生き方をこそ見透かして、自由気ままに洒落のめし、ごますり倒す諧謔の精神を唯一の抵抗の武器としたのだと思います。

そして、そこにこそ、川島雄三の映画にこめた魂が存在するのかもしれません。

深刻ぶらず、芸術ぶらず、壮大な権威をひたすら嘲弄して、馬鹿笑い振りまきながら、やがて、その笑いが、やりきれない自嘲に強張ってゆくとき、川島雄三の、卑力な庶民の遣る瀬無さをただじっと凝視することの残酷さと哀しみから、俳優たちを縦横にはしゃぎ廻らせれば廻らすほど、それとは裏腹に、鬱へと静かに滅入り込んでゆくどす黒い憤怒や怨情をも垣間見る気味悪ささえも感じてしまいました。

だからこそ、この傷だらけの無頼の徒・佐平次の放蕩三昧に打ち込む破れかぶれのひたむきな姿には、惨めさの中でとことん生き抜いてみせようとする逞しさが、そのまま痛ましい自堕落へと突き進んでいかざるを得ない自虐の、煌めくような捨て身の迫力へと繋がってゆくのだと思いました。

この頑ななまでに明るく生きようとした佐平次の中に、明るい風刺を込めた屈託ない川島雄三の賑やかしの魂と、日本の風土の暗闇に這いずり回る人間を溢れ出る活力の絶望的な逞しさで生かせてしまう今村昌平の粘っこさとがぶつかり合って、生きることへの執着と葛藤とが生々しく描かれるとき、僕たちは、映画に生涯を賭ける者たちの凄まじい執念のぶつかり合いを見、きっと終始圧倒され続けることとなるのだと思います。 
by sentence2307 | 2005-02-17 00:08 | 川島雄三 | Comments(0)

洲崎パラダイス・赤信号

食い詰めた男と女が行き場所を失い、切羽つまって、洲崎に流れてきます。

しかし、川向こう洲崎遊郭で働き口を見つけるまでの決心はつかないまま、女は橋のたもとの一杯飲み屋で働き、男は蕎麦屋の出前持ちになります。

離れ離れの生活を送るうちに、女は男との腐れ縁を絶つように電気屋の主人の囲われ者となり男の前から姿を消すと、一時は男も半狂乱になって女を探しますが、それもやがて諦めて仕事に精を出すうちに、飲み屋の亭主が昔の女に殺されるという事件が起こり、それをきっかけとなって再び女とよりが戻ります。

離れたりひっついたりしながら、男と女は誰もが今にも千切れそうな生活という一本の綱の上で危なっかしい世渡りを続けているのだと描かれます。

だが、この映画の本当の主人公は、むしろ、橋の袂に踏み止まる二人を絶えず脅かし続ける川向こう、洲崎パラダイスからの、堕ちる所まで堕ちて捨て身の逞しさで生きる様々な人間たちの、お祭り騒ぎのようなどよめきと賑わいです。

あの溝口健二の最期の作品「赤線地帯」は、奇しくもこの同じ年に撮られています。

地獄のような赤線の町から抜け出すためには、死ぬか気違いにでもならなければ駄目なのだと、売春制度の悲惨を憎悪を込めて告発したこの作品の悲惨な女たちの数々の運命が、まるで見本市のように蒐集されて描かれていく果てのラストで、ひとりのいたいけな少女が無理矢理塗りたくった厚化粧の中から、恐る恐る客に声をかける初店の鬼気迫る場面には、溝口の女性崇拝を基盤にした非人間的制度への怒りと怨念の告発が漲っていました。

しかし、過酷な運命に弄ばれ、されるがままになっている人形のような、どこまでも被害者でしかない溝口の描く女たちに比べると、川島雄三の描く女たちは、惨めな生活に絶望しながらも、だからこそ限られたその人生の、女として味わい得る快楽の悉くを享楽するために、露骨な欲情を押し隠すこともなく、とことん生き尽くそうとする貪欲な「人間の女」たちなのです。

思えば「幕末太陽傳」で、佐平次が、溢れ出る活力に任せて、はしゃぎ回り、暴れ回ったその後で、人知れず時折咳き込みながら見せた暗い不吉な表情が、彼のすぐ傍らにある死の存在を明確に仄めかすことで、作品自体に彫りの深いニヒリスティックな陰影を与え得て、物語に更に一層の豊かな奥行きを持たせることに成功し、また、それだけに観る者に強烈な印象を与えることが出来たのだと思うのですが、この「洲崎パラダイス・赤信号」における、佐平次のそうした「死」に見合うだけの謎といえば、それはきっと女(蔦枝)の「過去」の得体の知れなさではないでしょうか。

食い詰めた二人が洲崎まで流れてきて、橋の手前で躊躇する感じが何やら意味ありげなのです。

そして物語が進行するにつれ蔦枝が元娼婦だったらしいことが、周囲で取り交わされる会話や雰囲気で何となく分かり始めます。

そのことで、更に蔦枝の迷いも少しずつ分かり始めます。

食うためなら、少しの間、体を売ってもいいかも知れない、と考えたかも知れません。

彼女が、体を売ること自体に抵抗を持っていたとは考えにくいものがあります。

もしあるとすれば、亭主に対する遠慮だけだったのではないでしょうか。

ここで川島雄三が描いている蔦枝という女は、溝口健二の描いた日本の古い因習に囚われた痛ましい女たちとは、だいぶ様子が違います。

蔦枝には、そもそも性に対する罪悪感が全然ありません。

むしろ、蔦枝は、「洲崎遊郭」という解放区で性の魅力と自由さに再び魅入られ虜にされてしまうことを恐れているかのようにさえ思えてしまいました。

彼女が持て余しているのは、絶望的なくらいに生き生きとした彼女自身の「女であること」の決定的なバイタリティです。

ここまで書いてきて、この作品は、もしかすると売春防止法というものに対する川島雄三の意思表示だったのかもしれないと思えてきました。

もし金のために嫌々身を売らねばならない不幸な女が一人でもいるなら、売春防止法は有効であるという論理の裏側で、1人だけの男に独占されることを拒み、様々な男たちとの性交渉を通して自分の肉体が持つ官能の可能性の総てを欲望のままに享楽し尽くそうとする女がひとりでもいる限り、売春防止法は無効であるという論理も成り立つ可能性も在り得るのではないか、というような・・・。

この作品は、川島雄三の最高傑作です
by sentence2307 | 2005-02-15 22:48 | 川島雄三 | Comments(0)