人気ブログランキング |

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ:黒木和雄( 3 )

岩波写真文庫

勤め帰りには、いつも立ち寄っては、週刊誌などをしばらく立ち読みしている本屋に、つい習慣で、今日もいつものとおり寄り道をしました。

店に入ってすぐ、ずっと奥まった所に無造作に置いてある一冊の本がすぐに目に入ってきて、なんとなく気になりました。

遠目ながら、その灰色と黒の装丁の少しアンバランスなところが却って目を引いたのかもしれません。

奥までゆっくりと辿るあいだに、週刊誌を見、月刊の映画雑誌をペラペラと眺めながら「その場所」にたどり着いて驚きました。

灰色と黒の配置が不自然な装丁の表紙には、カメラの横に座っている撮影中の黒木和雄監督の姿がレイアウトされています。

現代書館という出版社から出ている佐藤忠男の「黒木和雄とその時代」という本でした。

表紙を見た途端、咄嗟に黒木監督の次回作はなんだったっけと考えている自分がいました、不思議な気持ちでした。

黒木和雄監督は既に亡くなっていて、もうこの世にはいないのに、それを認めることを恐れ、なお次回作を待ち望もうとしている自分がそこにいました。

それでなくとも最近、かつて僕たちを夢中にさせた映画監督たちが立て続けに亡くなっています。

以前、長寿を祝う会合で、ある老人にお祝いを申し述べたとき、こう言われました。

「なにが寂しいと言って、友達が次々に死んでしまい、いつかこの世にただの一人も親しい人間がいなくなってしまうのではないかと思うと、つらくてね。年老いるってことは、そういうことなんだよね。」

他人事のように聞いていたその言葉の意味が、最近なんとなく分かるような気がしています。

さて、そんなわけで、佐藤忠男著「黒木和雄とその時代」を購入して帰りました。

これから時間をかけてゆっくり楽しみながら読んでいこうと思っていますが、冒頭に岩波書店の出版物についての面白い記述があったので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

むかし、岩波書店から「岩波写真文庫」という本が出版されていました。

四六判くらいの小冊子の写真集という感じで、学校の図書館あたりには必ず揃えられていたものでした。

風土記関係、事件もの、社寺仏閣とか、なんでもありの写真集でした。

この「黒木和雄とその時代」によれば、昭和25年6月から昭和33年の打ち切りまで286冊を刊行したと記されています。

そしてその辺のいきさつをこんなふうに書いています。

「もちろん文庫の成功には、それだけでなく、経営の堅実さもおおいに影響している。
というのは、写真文庫は発刊から終刊まで286冊を出版したが、ポケット版100円で出発し、終わるまで一貫して100円の定価を変えなかった。
そのために制作費の上昇から、後には赤字になったらしい。
しかし最後まで初志を貫き通したのである。
このような節操のある経営方針が、そのフレッシュな視角とともに、写真文庫のファンをひきつけたことは否定できない。」

しかし、考えてみれば、100円の初志を貫き通した経営方針によって、長寿を得ていたかもしれない優れた企画の出版物を逆に圧迫し、たった8年の短命にしてしまったことに、僕などはつい割り切れない思いを抱いてしまうのですが・・・。
by sentence2307 | 2006-12-12 23:42 | 黒木和雄 | Comments(0)

父と暮らせば

たまたま暇な時間ができても、映画を見始めるためには何かの切っ掛けが欲しいという腰の重い人間なのですが、いざ見始めると今度は止められなくなるという面倒くさいタイプでもあります。

そんなわけで、まだ見ていなかった黒木和雄の「父と暮らせば」をやっと見たついでに、その勢いを借りて新東宝の映画「世界の母」という作品とスティーヴン・ソマーズの「ヴァン・ヘルシング」を続けざまに見てしまいました。

このちぐはぐな選択に対して、いったいどんなポリシーがあるのかと聞かれたら、単にテープに入っている順番に見ているだけとミもフタもないような答え方しかできません。

もともと映画が好きなだけで、ポリシーなんか最初からないのです。

「ヴァン・ヘルシング」の方は、まさに「そうだろうな~」という映画です。

「すごい」とか「びっくりしちゃった」とか、もうその辺はどんな感嘆詞でも当て嵌まってしまいますが、要するにそれだけで、まとまったコメントを残しておけるようなものは、この作品のなかに見つけることはできません。

「父と暮らせば」の場合は、逆にそう簡単にコメントできるようなタイプの映画ではありません。

ズシリと重くて、僕なりの理解が形成されるまで、自分のなかでもう少しそっと熟成させておきたいような作品です。

あの牛の反芻ではありませんが、いい映画の愉しみ方というのは、その「反芻」までがワンセットになっていると考えたいと思っています。

感動した作品をいつまでも自分のものにしておきたい、いつまでも繰り返し思い出しては愉しみたいという思いが僕の場合人一倍強いのかもしれませんね。

原爆病の再発にびくびくしながら、死を待つような不安と失意の日々をかろうじて生きている婚期を逸しかけた娘、その娘の傍に「父」がいます。

映画が進むにつれて、この父親が原爆によって既に死んでしまっている人物であることが、やがて分かります。

かつて娘は火炎に包まれた瀕死の父親を助けられずに、父の命令で彼を見捨てて戦火を逃れたこと、そしてさらに戦後の時代まで生き延びたことに深い罪悪感を持ち続けています。

おそらく、原爆病が再発し、深刻な状態になるかもしれないという怯えがこの娘にあまり感じられないどころか、むしろ死の恐怖に対して希薄な印象さえ受けるのは、彼女が父親の死に対して深い負い目と贖罪の気持ちがあり、みずから積極的に死を選ばないにしても、自分が幸福になるためのすべての可能性を断ち切って世捨て人のように暮らしているからだと思います。

そんな娘のそばに「父」は寄り添うように暮らしをともにしています。

死に少しずつ近づこうとしている失意の娘を、生きていかなければいけないと必死に励ますこのやり取りの感動的なところは、これらの会話が、すべてさりげない日常会話の中に込められていることでしょう。

いつの間にか人を傷つける言葉しか発せられなくなってしまった僕たちにとって、生きなきゃ駄目だと励ます忘れかけていた優しい語感に久しぶりに接し、鳥肌が立つ思いがしました。
by sentence2307 | 2006-02-04 14:48 | 黒木和雄 | Comments(4)
いろいろな賞の受賞リストを眺めていると、ときどき素朴な疑問にぶつかることがあります。

例えば、作品賞を受賞した作品が、監督賞を受賞できないのは何故だろう、とか。

結構類例はたくさんあると思うので、こんなこと疑問に思う方が変なのかも知れませんが。

単純に考えれば、作品賞とは作品総体に対して与えられるものだから、きっとスタッフやキャストなどその作品に関係した全員の仕事に対して顕彰するものと解することができるでしょうし、監督賞は文字通り演出に対して贈られるものと理解すればいいのだとは思います。

ただ、賞にはまた別に個々の技術的な専門部門での顕彰がそれぞれ用意されているのですから、作品賞との矛盾というか齟齬というか、そんな感じのものが付きまとうのではないかなんて考えてしまうのです。

何故こんな考えを持ったかというと、日刊スポーツ映画大賞で作品賞を受賞した「血と骨」(崔洋一監督)と、監督賞を受賞した黒木和雄(「父と暮せば」「美しい夏キリシマ」)の活字をパッと見て、その奇妙な配列(当たり前ですが作品賞には作品名が、監督賞には監督名が掲げられています)に違和を感じ、ふとそんな考えが浮かびました。

作品賞を受賞しながら、その背後に括弧書きで記される監督は、いったいどんな顔をしていればいいのか・どこまで喜んでいいのか困惑して、きっとその奇妙な立場に戸惑うのではないか。

だって、彼の横には正真正銘の「監督賞」を受賞した人物が立っていて、たとえ作品賞の監督が優れた仕事でその作品にかかわったとしても、少なくとも自分は隣に立っている演出家以上の評価を得ているわけではなく、つまり素直に手放しで喜べるような立場にいる訳ではないと感じてしまうのではないか、というようなそんな考えに囚われてしまいました。

ここまで読んでくれた人たちは、きっと僕が、「賞というものの在り方」についてみたいな展開で話を進めようとしていると思われるかもしれませんが、自分としては黒木和雄監督と「青の会」について書こうと思っていたので、実のところ文章に変な勢いがついて制御できないまま、話が思わぬ方向に進んでしまったことに戸惑っています。

また明日、整理してから改めて書き直そうかと思っています。
by sentence2307 | 2005-01-30 00:06 | 黒木和雄 | Comments(0)