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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:小津安二郎( 91 )

東京暮色

BS放送で小津作品「東京暮色」を放映していたので、本当に久しぶりに、じっくりとこの作品を鑑賞することができました。

しかし、このように簡単に「じっくりと鑑賞することができた」などと言葉にしてしまうと、いままで自分がこの作品に対して抱いていた「気持ち」とか「印象」からは、ずいぶんと隔たりのある言い方になってしまうことに気づかされます。

あえて、「じっくりと鑑賞することができた」というなら、正確にはそれは、「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」のことと言うべきなのではないかと。

「東京暮色」は、その「救いがたい深刻さ」と「陰々滅々さ」において、多くの小津作品とは明らかに一線を画し、というか、他を圧して余りある作品ということができます。

多くの小津作品においてなら、たとえ徹底的な絶望や苦々しい諦念が描かれていたとしても、それでも、そのラストでは、必ずや微かな希望もまた同時に描き込むのを忘れることなく、本編で痛切に描かれている深刻さの割には、鑑賞後の印象はさほどでもなくて、たとえば「救いがたい深刻さ」や「陰々滅々さ」の代表格のようにいわれるあの「風の中の牝鶏」においてさえ、生活苦からやむなく売春に走った妻の一時の過ちを夫が徹底的に責め苛み(戦地に行っていた夫は、自分が不在のために逼迫した家族に何も為しえなかったという責任や負い目も当然あったと思います)お互いを傷つけずにはおられないという夫婦の壮絶な葛藤が描かれたあとの荒廃で、「これでやっと俺たちも、これからどうにか生きていけそうだ」と確認し合い抱擁するというラスト(贖罪感)が描かれていたことを考えれば、やはり深い部分で僕たちは「救い」を感じることができたのだと思います。

しかし、この「東京暮色」においてだけは、この最後の救いすら許されているとは、どうしても思えません。

どこを探してもこの作品には「そんなもの」は、最初からないのです。

次女(有馬稲子)を事故で亡くし、一時同居していた長女(原節子)も夫の元へ帰り、すべてを失った父・周吉は、一人きりの孤独のなかで生きていかねばならない姿がラストで素っ気無く描かれているだけです。

なるほど、なるほど、これがまさに、自分が、《「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」》と感じた、つまり長い間この作品を事実上「敬遠」してきたという本当の理由だったのだと思い至りました。

思えば、小津作品に描かれている人物たちに対して、そのラストにおいて微かにではあっても「救い」を感じられたのは、その絶望や失意の一端で、「しかし、これでも自分たちは、まだまだ幸せな方なのだ」とか「これでどうにか生きていけそうだ」と思い直す部分がわずかに残されていて、その多様性こそが日常生活を生きる庶民のせめてもの才覚であり姿でもあること、母親の死に直面し、深い悲しみに動揺しながらも同時に喪服の心配ができるという、以前の自分なら「失笑」をさそわれるという反応しかできなかったもの、その矛盾を生きる人間の「なにものか」が、この世を生き抜いていく庶民の処世であり活力であり「救い」であることに気づかされたということなのかもしれません。

「風の中の牝鶏」にあって、「東京暮色」に欠落しているもの、お互いが、お互いを決して許そうとしない家族のこの頑なな緊張関係が、自分が長いあいだ抱いてきた「東京暮色」への違和感であることにようやく気がつきました。

しかし、では何故よりにもよってこの作品にだけは、小津監督は「微かな救い」を織り込もうとしなかったのか、そんなふうに考えていたとき、今年の四月に出た「小津安二郎大全」(朝日新聞出版)の中にも「東京暮色」を製作したときの当時の状況の記述があるので、かいつまんで書いてみますね。

《1956年8月22日、骨髄性白血病で入院した溝口健二を京都府立病院に見舞った。これが最後の別れとなり、24日に溝口は亡くなった。58歳だった。当時としては特別早い死ではない。2年前には同じく交友のあった同年代の井上金太郎監督も亡くなっている。

9月から再び蓼科で過ごす。土地も人々も気に入り、小津も別荘を借り受けた。

そこを「無藝荘」と命名し、野田と「東京暮色」を執筆開始した。「彼岸花」を除いて、以降の作品は、蓼科で執筆することになる。

執筆中は毎日のように酒を飲んだが、酔った小津は「カチューシャ」「千葉心中」「不如帰」「婦系図」などを歌い踊った。ジョン・フォード「駅馬車」のモノマネを披露することもあったという。

11月末、「東京暮色」を脱稿した。

「東京暮色」は、小津監督最後の白黒作品である。画面の調子は暗く、悲劇的な内容だが、カラー作品が増えている当時にあって、小津監督は白黒でしか表現できない深みのある作品を撮ろうとした。

「晩春」以来共同で脚本を務めてきた野田高梧とは物語の内容をめぐって対立し、完成した作品にも批判的だった。

役を演じる俳優をあらかじめ決めて脚本を書く小津だが、想定していた役者に出演を打診した結果、ほぼ全員が想定通り決定したが、想定と異なる配役があった。ひとりは父親役に考えていた山村聰で、舞台出演の時期と重なったため出演不可となり、代わりに刑事役の予定だった笠智衆が父親を演じることになった。

また、主演の次女役には岸恵子を考えていたが、彼女が他作出演や仏国のイヴ・シャンピ監督(仏)との結婚の予定があって都合がつかず、こちらも出演不可となった。

小津は「早春」で岸を大変気に入っており、「俺がひとりの女優のために六ヶ月もかけて書いたシナリオなんだ。これは、君のために書いたんだ。君なんかよりもいい女優はたくさんいる。でも、これは岸恵子じゃなきゃできない役なんだ」と伝えたといわれる(浜野保樹「小津安二郎」)。

しかしその調整はつかず、次女役は結局有馬稲子が演じることになった。この頃の役者は皆喜んで小津作品に出演することを希望し配役には困らなかったという状況下では、これはたいへん異例のことだった。当然、キャスティングの段階で出鼻をくじかれた形になった小津監督に、なんらかの失望とダメージがあったことは否めない。

作品の下敷きになったのは、前作「早春」でも広告が写り込んでいたエリア・カザン監督の「エデンの東」1955である。小津はこの作品にたいへん入れ込んでいた。

偉大な父と、死んだと聞かされていた母、父親からの愛情を切望する次男などの人物設定に類似点がある。自分の境遇を下の子が苦しむ点、母親の働いている場所が社会的地位の低いいかがわしい場所・娼館や麻雀屋という点も同じだが、聖書を基調にしたこの欧米的なストーリーを日本の状況に強引に当て嵌めようとした設定には当然に無理があり、違和感は免れなかった。

時はまさに石原慎太郎が衝撃的な小説「太陽の季節」を書いて太陽族が流行し、映画化もされようかという時代。「大船調」を守っていた松竹の興行成績が、新作二本立てに踏み切って時代劇ブームを起した東映に抜かれ、二位に転落し、翌年には大映にも抜かれて、翌々年には五位に凋落した。大船調を守り続ける松竹の方針に批判が高まり始めたという時代である。

1957年1月、撮影開始。

小津は「いままでは劇的なものは避けて、なんでもないものの積み重ねで映画を作ってきたが、今度は僕のものでは戦後初めてドラマチックな作品となろう。芝居を逃げずに、まともに芝居にぶつかるという作り方をしようと思っている。話の仕組み自体はメロドラマ的なものだが、メロドラマになるもならないも芝居の押し方次第だ。近頃は、大船調批判が厳しいようだが、正調の大船調とはこれだということを、この作品で示してみようと思っている」と語り、作品への意欲を示した。脚本執筆では、野田高梧が反対する部分もあったが、小津は押し通した。助監督によると撮影時、「そんなものが撮れるか、それは野田が勝手に書いたんだ」と小津がめずらしく声を荒げることもあったという。大幅に撮影は遅れ、小津組にはめずらしく、夜中まで撮影が続くこともあった。

4月、「東京暮色」が公開された。物語も画面の調子も暗い作品となったが、「この次に撮る作品も、やはりドラマチックなものにする予定です」と語った。

「東京暮色」は、小津監督が力を入れた作品だったが、批評家や若者から小津は時代遅れだとの批判があがり、キネマ旬報ベストテンでも19位という結果に終わる。それを知った小津は、「俺は19位だから」と周囲に自虐的に語った。野田ものちに、リアルに現実を表現することは無意味だとこの作品を批判した。

のちに小津の脚本全集を出す井上和男からも「若者のヴィヴィッドな動きは、フィックスのローポジでは掴めない」「今の若い女子のにとって、中絶なんて非行でも無軌道でもない、日常茶飯事だ」などと批判された。

生々しい不倫という情事を、女優・岸恵子が演じる軽妙さによって、現実の生臭さと深刻さとを免れた「早春」のあの独特な雰囲気をかもしだそうとした「東京暮色」も、想定していた主演女優を失い、「太陽族ブーム」のあおりを受けて、むき出しの痛切なリアルしか表出できなかったことが、負の成果としての「東京暮色」だったのかもしれないなという思いがきざしてきました。

大人たち=世間と家族の冷ややかな無関心と悪意によって自滅していく「次女・杉山明子」役を、はたして(あるいは「やはり」)、岸恵子以外には演ずることができなかったのかどうか、監督の意に添わぬまま主演に抜擢された有馬稲子と、フランスの三流監督との愚にもつかない結婚のために小津安二郎作品の主演女優の座を逃した岸恵子、この二大女優がいずれもいまだ存命中だとしても、もはやどうすることもできません。


(1957松竹大船撮影所)企画・山内静夫、監督・小津安二郎、監督助手・山本浩三、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、撮影助手・川又昂、音楽・斎藤高順、美術・浜田辰雄、装置・高橋利男、装飾・守谷節太郎、録音・妹尾芳三郎、録音助手・岸本真一、照明・青松明、照明助手・佐藤勇、編集・浜村義康、編集助手・鵜沢克巳、衣裳・長島勇治、現像・林龍次、進行・清水富二、
出演・原節子(沼田孝子)、有馬稲子(杉山明子)、笠智衆(杉山周吉)、山田五十鈴(相馬喜久子)、高橋貞二(川口登)、田浦正巳(木村憲二)、杉村春子(文学座)(竹内重子)、山村聰(関口積)、信欣三(民芸)(沼田康雄)、藤原釜足(東宝)(下村義平)、中村伸郎(文学座)(相馬栄)、宮口精二(文学座)(刑事和田)、須賀不二夫(富田三郎)、浦辺粂子(大映)(「小松」の女主人)、三好栄子(東宝)(女医笠原)、田中春男(東宝)(「小松」の客)、山本和子(前川やす子)、長岡輝子(文学座)(家政婦富沢)、櫻むつ子(バアの女給)、増田順二(バアの客)、山田好二(警官)、長谷部朋香(松下昌太郎)、島村俊雄(「お多福」のおやじ)、森教子(堀田道子)、石井克二(菅井の店の店員)、菅原通済(特別出演)(菅井の旦那)、山吉鴻作(銀行の重役)、川口のぶ(給士)、空伸子(給士)、伊久美愛子(うなぎ屋の少女)、城谷皓二(麻雀屋の客)、井上正彦(麻雀屋の客)、末永功(麻雀屋の客)、秩父晴子(義平の細君)、石山龍嗣(深夜喫茶の客)、佐原康(深夜喫茶の客)、篠山正子(深夜喫茶の客)、高木信夫(深夜喫茶の客)、中村はるえ(深夜喫茶の客)、寺岡孝二(深夜喫茶の客)、谷崎純(取調べを受ける中老の男)、今井健太郎(受付の警官)、宮幸子(笠原医院の女患者)、新島勉(バアの客)、朝海日出男(バアの客)、鬼笑介(バアの客)、千村洋子(町の医院の看護婦)、
1957.04.30 15巻 3,841m 140分 白黒




《以下は、挫折し廃棄した草稿です》
この「東京暮色」には、かつて母親がふたりの娘を置き去りにして駆け落ちし、家を出てしまったという一家の「その後の惨憺たる物語」が描かれています。
「現代」においての小津作品に対する僕たちの大まかな印象を、無理やりひとことで括ってしまうとすれば、(自分だけかもしれませんが)やはり「明るさ」ということになると思うので、この「東京暮色」という作品の暗さはいっそう際立っていて、その意味で「例外的な作品」ということは可能なのかもしれません。
自分など、その「明るさ」が過ぎて見えてしまい、むしろずいぶんと虚無的に感じてしまう部分もあったりするのですが。
しかし、残念ながら(というか、むしろここでは謙虚に、「寡聞にして」とでも言うべきでしょうか)、いまに至るまで、この作品が小津作品群の中でどう例外的なのかと表明した評文というものに接した記憶がなかったので、手元の資料に二、三あたって確認してみることにしました。
最初に見たガイドブックには、こう記されていました。
《小津監督は、それぞれの物言わぬ肩や背中に生きることの悲哀をずっしりと感じさせ、寂莫の人生模様を、甘い感傷に溺れることなく、みごとに織り上げてみせた。》
なるほど、なるほど、なんかコレ、やたらと褒めてるじゃないですか。
こちらの家庭の事情で、最初から「例外的」という負の評価に照応するものだけを見つけ出し、歪んだ先入観を満足させられればいいやくらいの身勝手なものだったので、まず受けたこの「意外さ」の不意打ちは、考えればむしろ常識的で、正義にかなった正統な評価ということができるかもしれません。
いつの時代にも「偏見」を振り戻し正してくれる「常識」というものは、やはり存在しているものなのだなとヒトリ感じ入った次第です。


by sentence2307 | 2019-08-09 13:35 | 小津安二郎 | Comments(0)

お茶漬けの味

先日、BSで小津作品「お茶漬けの味」1952を放映していたので、久しぶりに見てみました。

「お茶漬けの味」は、自分のなかの位置づけとしては、とても微妙な作品です、いままで何をさし置いても「是非とも見る」という作品では、必ずしもありませんでした。

ですので、たまたまのTV放映は、ある意味(他動的な)とても貴重な機会といえるかもしれません。

戦後の小津作品を単純に年代順に並べてみると、興味と評価についての比重は、どうしても「シリアス」な作品に傾いてしまうというのは、誰もがきっと同じだろうと思います、インパクトからみれば、それは致し方のないことと自分でも思っていますし、そうした傾向を「善し」とする部分が自分の中には確かにあります。

しかし、それらシリアスな作品(「風の中の牝鶏」「晩春」「宗方姉妹」「麦秋」そして「東京物語」や「東京暮色」)と同じ乗りで、この「お茶漬けの味」を見ることができるかというと、どうしても抵抗を感じてしまうのが、いままでの自分の状態でした。

この「お茶漬けの味」を、それこそはっきりと「喜劇」と仕分けしている解説書もあるくらいですから、そういう影響を受けてしまうのは避けられません、なので軽妙洒脱な「お茶漬けの味」という作品を受け入れるためには、どうしても特別の覚悟と気分の切り替えの心的手続きを必要としたのだと思います。

その意味で自分にとってこの「お茶漬けの味」はたいへん「微妙」な作品で、それが「敬遠」というカタチに現れてきたのかもしれません。この作品を見たのは今回が二度目、しかも数十年ぶりの鑑賞でした。

たぶんに思い込みというのもあったと思います、自分にとっての「お茶漬けの味」は、いわゆる「分かりやすい作品(だから、もう見なくていいか)」という位置づけで「ワキ」に押しやった作品といえます、思えば、随分と勝手な話ですが。

つまり、最初見たとき、なんの根拠もなく、「これは、こういう作品なんだよな」と決め付け、完全に理解したつもりになって、それ以後、二度と見直すことも、思い返すこともなくなってしまった映画として、「お茶漬けの味」という作品はありました、いわば「封印」状態にしてしまった作品です。

最初に見たのは、おそらく「並木座」か「文芸地下」あたりの「小津監督作品特集」の一本として「お茶漬けの味」を見たと思いますが、当然、他の小津作品と比較して見て、その「衝撃度」がすこぶる弱く、ずいぶん淡白な作品だなあと失望し、だから「封印」したのだと思います。

なにしろ、この映画の内容というのが、熟年夫婦が喧嘩して和解するまでを描いた映画にすぎません、親しく出入りしていた姪が、「見合いなんか、絶対に嫌」と見合いの場から逃げ出したことから、その世話をした妻が身勝手な振る舞いをした姪に怒りを向けると、夫のほうは「かばう」という立場になって夫婦仲もぎくしゃくし始め、やがて険悪になってしまいます。

この夫婦もまた見合い結婚で一緒になっていて、夫婦のあいだが疎遠なのはそのためなのかと感じ始めるあたりから、次第にお互いの積年の不満が噴出してぶつかり合うというストーリー展開です。

自分がこの作品を見るのは今回で二度目なのですが、姪が「お見合い」に疑問を感じたことと、熟年夫婦の間にくすぶる「疎遠」の原因が「見合い結婚」に端を発していたのではないかと思い始める物語の構図が、端正な整然とした相似形をなしていることに今回はじめて気がついて、とても感心しました、これが小津作品の楽しみ方というものなのかと。

「いまさら、なに言ってんだ」と叱られそうですが。

姪の見合い話がこじれたことが切っ掛けとなって、気まずくなった夫婦が、やがて和解に至るまでを描いた映画なのですが、これをもし「風の中の雌鶏」などと一緒に見たとしたら、シリアス好みの自分には、やはり落胆するしかなかったに違いないことは、容易に想像できます。

なにしろ、「風の中の雌鶏」は、夫が出征中に子供が急病になり、切り詰めた生活のなかでは治療費に当てる経済的余裕がなく、思い余った妻は売春してしまい、そのことを知った夫は激怒して妻を殴るわ蹴るわの、現代ではもはや製作することはおよそ困難な、「戦争直後」という逼迫した時代が作らせた凄まじい壮絶なDV極限的映画です。

しかし、かたや「お茶漬けの味」は、裕福な家庭の夫婦の気持ちをかすかな行き違いと、ささやかな和解とを描いた上品な映画です、そもそもの喧嘩の原因が「お嬢様育ち」の有閑マダム(現在では完全に「死語」ですが)のわがままと思い上がりが根底にあり、彼女のささやかな改心によって和解するという気持ちの微妙な行き違いをさざなみのように描いた、別段なんということもない映画です、当時の自分が、「風の中の雌鶏」に心奪われ、「お茶漬けの味」に失望したとしても、一向に不思議ではありません。

子供の命を救うためには売春するしか方法のなかった切羽詰った主婦の苦悩を描いた「風の中の雌鶏」を見たあとで、この気まぐれな有閑マダムの反省と改心の物語「お茶漬けの味」を見たら、まあ、こんな自分のことですから(いまから思えば、若気のいたりにすぎませんが)、落胆を通り越して、手抜き作品以外のなにものでもない、こんな作品を小津監督がわざわざ撮る必要があるだろうかという「悪印象と嫌悪」すら持ったかもしれないことは、容易に想像することができます。

ですので、そのとき自分が持ってしまった「烙印」は、今回、この作品を見るときも残っていて、もう「見なくてもいいかな」的な印象の中で、今回、BSでこの「お茶漬けの味」の放映を受けて、それほどの期待も抱かずに見たというわけです。

しかし、この「お茶漬けの味」の内容のすべてを忘却して、「知識」が皆無だったというわけではありません。

叔母・木暮実千代が、自分の夫のことを女友だちの前で(いずれも有閑マダムです)あまりにも悪し様に言う姿に、津島恵子演じる姪が嫌悪し、「見合い結婚」というものに幻滅し、見合いをすっぽかす動機になるという断片だけは鮮烈な記憶として持っていました。

この印象のカケラは、決して誤りというわけではありません、また、ストーリーの重要なキモを押さえていることもその通りなのですが、今回、この作品を改めて見て、そのニュアンスが若干異なっていることに気がつきました。

生活に余裕のある有閑マダムの妻・妙子(小暮実千代)は、同じようにひまを持て余している有閑マダムの友だちと修善寺旅行に行くこと約束し、夫・茂吉(佐分利信)には、友だちが急病になったから見舞いに行くと嘘をついて旅行を承諾させます。

この一連のやり取りから、この夫婦のカタチが想像できるような気がします。

一流商社に入った男が、その優秀さを上司に見込まれ、娘と見合いさせられてめとる、しかし、都会育ちの妻は、無骨な田舎出の男の所作のいちいちが癇にさわり、何もかもが気に入らない。

そういう思いを鬱積させている妻は、修善寺の夜も、やはり友だち相手に、面白くもない夫の生真面目さ・無骨さを酒の肴にして笑いものにして楽しんだ挙句のその翌朝、宿の池に放っている鯉に餌をあげながら、もそもそして餌を逃してしまう動きの鈍い鯉を鈍重な夫になぞらえて「鈍感さん」と呼び、友だち皆で散々に笑いものにしますが、自分の印象では、ここで姪の節子(津島恵子)が、夫を人前で笑いものにする妻・妙子に対する嫌悪をもよおし非難したとの記憶があったのですが、まったく違いました。

姪の節子も同じように皆のからかいに同調して(とまではいかないにしても、否定することもなく)穏やかな笑顔でその場の雰囲気に溶け込み、楽しんでいたことは確かです。

むしろ、妙子が夫をからかい悪口を言い募りながら突如不機嫌になって、つぶやくように、「あんなやつ(とは言っていませんが)どこへでも行っちゃえばいいのに」と吐き捨てるように言い、それから思いつめた表情でじっと黙り込む鬼気迫る表情は、修復不可能な夫婦の深刻な亀裂と、彼女の絶望感を示唆している衝撃的なシーンでした。

それは自分の記憶の中には、欠落したまるで存在していない「表情」です。

そして、自分の記憶の中にあった姪・節子の反発と怒りの言葉「お見合いなんか、絶対にいや」は、もう少しあとの場面の、実家で無理やりお見合いさせられることになったと叔母・妙子に訴えにきたときの会話のやり取りのなかで発せられています。

姪・節子は、叔母・妙子も見合いで結婚したと聞かされ、「だからふたりは合わないんだわ」ときめつけ、妻が夫に嘘をつくこと、亭主のことを人前でからかい笑いものにすること、そういう夫婦でいることで「幸福なのか?」と妙子に問い詰めます。

「私は幸福よ」

「真っ黒な、もそもそした鯉を叔父様だなんて、お気の毒だわ」

「余計なことよ」

「いいの、結婚したって、旦那様の悪口なんて絶対に言わない。私、自分で探します。お見合いなんて大嫌い。」

「困った人ね、そのうち分かるわよ」

「分かりたいとは、思いません。人の前で旦那様のこと、『鈍感さん』なんて、決して言いませんから」

姪・節子の本音が、ここで十分すぎるくらいに語られているのに、それに反して、彼女から激しい言葉を浴びせられた叔母・妙子の本音は、それほど十分に語られているとはいえない、と自分は長いあいだ思い込んできました。

しかし、妙子は、実家の千鶴(三宅邦子)や山内直亮(柳永二郎)から節子の見合いの話を聞き(前夜に説得し、渋々承知させたこと)、見合いの席である歌舞伎座への同行を依頼されたときも、前日の節子とのつきつめた話はいささかも仄めかすことなく、まるで何事もなかったかのように平然と同行を承諾しています。

この一連のシーンを見たとき、これが妙子の本音なのだなと思い当たりました。

だってほら、妙子は、姪の節子との会話の中で、こう語っていましたよね、「困った人ね、そのうち分かるわよ」と。

妙子が自ら語ってしまった「そのうち分かるわよ」の意味は、夫に嘘をついて気ままな旅行をしたり、好き勝手に遊びまわり、鈍重な夫を陰でからかい、「結婚なんて、しょせんそんなものだ」とうそぶいて、一瞬捉われるかもしれない自己嫌悪を適当にやりすごし、はぐらかして夫婦のあいだによそよそしい溝を作り、顔をそむけ合い、当然の孤独を抱えて暮らすことが、そのうちに分かる「結婚」の実体なのだ。結婚なんて「それ以外の、なにがあるの?」と。

鈍感と夫をなじり、大人気ないと姪を非難し、お茶漬けを下品にかき込む夫に「そんなご飯の食べ方、よして頂戴!」となじりながら、妙子は、それら非難の積み重ねのひとつひとつに、自分の非を少しずつ同時に気づき始めています。

この「積み重ね」が彼女の中になければ(そして、そのことを観客が理解できていなければ)、その夜、飛行機の故障によって夫が突然帰宅し、夫婦が和解をとげるという唐突感は、あるいは免れないかもしれません。

妙子が、腹立ちまぎれに実家に帰ってしまい、その間、突然、夫に海外出張の辞令が下りて、急遽旅立たなければならないとの連絡を受けても、それまで、怒りを高揚させたまま収束できない自分の頑なさにこだわっているあいだに、夫を空港に見送ることをあわや逸しかけたことも、妙子は反省し、深く傷ついたに違いない「積み重ね」を辿れなければこの夫婦の和解は十分に理解できないかもしれない、そんな危惧を感じました。

実は、自分も、夫婦の和解がなぜ「お茶漬け」なのか、という疑問をずっと抱いてきたひとりでした、この実感のなさもこの映画が「敬遠」につながったひとつの原因かもしれません。

夫婦の気安さの象徴というのが「お茶漬け」なのだろうかとも考えてみましたが、もうひとつピンときません。

そのときふっと中学校(相当むかしの中学校です)の若き女教師の言った言葉を思い出しました。


英語というのは、ごく短い文章で多くの情報を瞬時に伝えることのできる優れた言語です。それに引き換え、この日本語はどうですか、でれでれと長たらしいばかりで、結局、最後まで肯定しているのか否定しているのかさえ分からない曖昧さ、グズグスと持って廻った実に煮え切らない下等な言語です、と彼女は日本語で熱く語っていました。

そしてまた、アメリカの食べ物というのは、栄養満点の高カロリーで、だからああした立派で逞しい肉体が形成されるのです。それに引き換え、日本の食事の貧しさ・みすぼらしさはどうですか。日本人の貧弱な肉体が証明しています、実に恥ずかしい限りです。漬物とか納豆とか、得体の知れない臭さ、なんですかあれは。なぜ、あんな奇妙な物を食べなきゃいけないんですか、と。

欧米の優れた文化を賞賛・崇拝するために、できる限りの想像力と弁舌を駆使して彼女は「日本」を卑下しまくっていました。

いまでは、日本文化を愛する外国人が、へたな日本人よりも日本語を流暢に喋り、受け継ぐ者がいないような伝統文化に興味を持ち、着物はおろか日本髪を結いたくて、そのためにわざわざ来日し、あるいは帰化する人たちさえいて、納豆も漬物も健康的な食品であることを熟知している脂肪太りの外国人たちは、なんの抵抗もなく食べている時代です。

あの女教師の「日本」卑下を思い返すとき、この「お茶漬け」を撮ったときの当時の日本の風潮(アメリカナイズ)の時代背景を考えるべきで、この作品は、小津監督の時代への批判が込められていたのではないかと考えた次第です。

(1952松竹・大船撮影所)監督・小津安二郎、脚本・野田高梧・小津安二郎、製作・山本武、撮影・厚田雄春、美術・浜田辰雄、録音・妹尾芳三郎、照明・高下逸男、現像・林龍次、編集・浜村義康、音楽・齋藤一郎、装置・山本金太郎、装飾・守谷節太郎、衣裳・齋藤耐三、巧藝品考撰・澤村陶哉、監督助手・山本浩三、撮影助手・川又昂、録音助手・堀義臣、照明助手・八鍬武、録音技術・鵜澤克巳、進行・清水富二
出演・佐分利信(佐竹茂吉)、木暮実千代(佐竹妙子)、鶴田浩二(岡田登)、笠智衆(平山定郎)、淡島千景(雨宮アヤ)、津島恵子(山内節子)、三宅邦子(山内千鶴)、柳永二郎(山内直亮)、十朱久雄(雨宮東一郎)、望月優子(平山しげ)、設楽幸嗣(山内幸二)、小園蓉子(女中ふみ)、志賀直津子(西銀座の女)、石川欣一(大川社長)、上原葉子(黒田高子)、美山悦子(女店員)、日夏紀子(女店員)、北原三枝(女給)、山本多美(女中よね)、山田英子(給仕)、谷崎純(爺や)、長谷部朋香(見合いの相手)、藤丘昇一(事務員)、長尾敏之助(社長秘書)、
劇場公開日 1952.10.01 12巻 3,156m 115分 白黒 スタンダードサイズ(1.37:1)
毎日映画コンクール男優主演賞受賞(佐分利信)




by sentence2307 | 2019-06-09 17:01 | 小津安二郎 | Comments(0)

鏡獅子

先日、神田の古本屋街をぶらぶら歩いていたら、映画・演劇関係の書籍や資料を扱っている店で、めずらしいものを見つけました。

むかし(1970年前後だったと思います)、フィルムセンターが出していた30頁~40頁くらいのカタログですが、同センターで特集上映(フランス映画特集とかアメリカ映画特集とか)する際に、作品の詳細な解説をしたカタログを同時に発行・販売していました、いまにして思えばとても貴重で、なかなか有益な資料でした。

当時、リアルタイムでそのカタログを買った号もありますし、買いたくても買えなかったものもあります。

たぶん、そのときの価格は200円とか300円くらいのものだったと思いますが、それでも毎回買うというのは、自分には、ちょっと経済的にしんどくて躊躇せざるを得なかった価格だったかもしれません。

いまでも、ときおり古書を扱っているサイトを検索し、安いものがあれば買おうと思って狙っているのですが、当時200円・300円くらいのものが、いまでは2000円とか3000円の高値がついて取引されているのをみると、やはり積極的に買おうという気持ちにはどうしてもなれません、つねに手元不如意の状態にある自分には、いつまでたっても買えないものだなと半分は諦めています。

そんなとき、神田の古本屋でそのカタログが数冊まとめて売りに出されているのを見つけたのでした、瞬間「やったぜ!」という気持ちにはなりましたが、やはりそこは価格次第の話です、糠喜びはできません。

さっそく表紙裏に貼られている価格をみたら、どのカタログも1000円と記されていました。

う~ん、「安い!」というまでの値段とは思えませんが、現在2000円とか3000円で取引されていることを考えれば、思わず身を委ねたくなるような魅惑的な価格であることは間違いありません。

ここは、少し冷静になって考えてみる必要があります。

まず、この価格が「売りに出ている物をすべて買えるような安さか」といえば、そうではありません。

では何冊買える? 例えば、3冊買って3000円払い、あとで後悔しないかと。

いや、それは、きっと「後悔する」と思います。その3冊に収録されている「50年前の情報」の対価として3000円というのは、価格的に決して相応なものとは思えません。

単なるノスタルジーだけで、その物が本来もっている価値の判断を曇らせてはならないということに気が付きました。

まずは、目の前にあるカタログの中から1冊だけ厳選して買うということに決めました。

それでは、なにを買うか、という問題ですが、正直、いまの時代、インターネットで大抵の情報なら(正確・不正確を問わず)溢れかえるほど出回っていますので、ここは「現在ではなかなか入手できない情報」を買うべきなのではないかと考えました。

そう考えると、選択はきわめて容易です。

巨匠の作品なら、出回っている情報量も入手のしやすさも現代の方が格段に優っていて、その量も多く充実していることは確かです。比較的無名な監督のレア作品も、ストーリーを持つ劇映画ならマニアの発信者も多く、たどり方さえ誤らなければ、ある程度、「時代的に更新された」情報を入手できる環境は整っていると思います。

そうした日の当たらないマイナーな作品にしても、いまの時代、いつナンドキ、どのような弾みで「カルト」の栄えある評価を与えられないとも限りません。
そう考えれば、これらの条件で淘汰した後に残るもの、つまり「劇映画でなく」「時代に更新されなかったもの(時代に取り残されたもの)」ということになれば、戦前の軍国主義の時代に「官」の息のかかった記録映画の資料(戦後民主主義によって封殺されて、その存在すら禍々しいものとして黙殺されました)ということになり、その情報の希少さに金を払うというのであれば一応は納得できます、その価値は十分にあると思います。

神田の古書店に出ていたフィルムセンターのカタログでは、「日本の記録映画特集 戦前編」の(1)と(2)という2冊が、この条件に該当します。

「戦前編(1)」は、戦争の暗雲がまだ及んでいないおおらかな時代の記録映画なので(もちろん、「古さ」という魅力はありますが)、切迫感とか逼迫感には乏しく、その分だけ購買意欲を掻き立てる牽引力というものには欠ける感じはしますが、ただし、巻末に「日本記録映画史年表」という素晴らしい記事が付録として付いているので、やはり捨て難いものがあります。

しかし、なにせ「戦前編(2)」には、小津監督の「鏡獅子」が掲載されているので「年表」の方は諦めました、躊躇なく(2)に即決しました。

一般的には、小津安二郎の初めてのトーキー作品は、「一人息子」とされていますが、正確には、この「鏡獅子」が最初ということになります、この「鏡獅子」の前後に作られた「東京の宿」と「大学よいとこ」は、いわゆるサウンド版といわれるもので、トーキー作品ではありません。

その間の経緯について、小津日記の「一人息子」から「鏡獅子」に至るまでの記述が詳しいので紹介しますね。


《「一人息子」2/5大船撮影所での第1回作品準備中、
3/15第1回オール・トーキー作品着手の予定、
4/5・4・5月から撮影開始、
4/15信州田舎家セットから撮影開始、
4/25小学校教室セット撮影中、
5/5信州田舎家セットから再撮影中
5/15トンカツ屋場面のセット撮影中、
5/25「一人息子」撮影の傍ら(菊五郎の)「鏡獅子」を完成、
・・・8/25「一人息子」撮影終了、編集中
9/5完成》


トーキー映画「一人息子」を撮影しているあいまに「鏡獅子」を撮ったというこの経過を読めば、やはり小津監督のトーキー映画第1作は「一人息子」とした方がいいかなと自分でも思います。

さて、小津監督の最初にして最後の記録映画「鏡獅子」の製作された時代背景をざっとオサライしておきますね。

戦前から半官半民の機関である国際文化振興会(現在の国際交流基金の前身です)では、日本文化を海外に紹介するための映画製作を映画会社に委嘱するという活動を行っていました。

そのなかでも日本の伝統芸能としての白眉、世界に誇る歌舞伎の神髄を宣伝するために、六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」の記録映画を松竹に委嘱して製作したもので、タイトルもアナウンスもすべて英語の海外向けのトーキー作品です。

一般公開はせず(そもそも、稀代の名優六代目尾上菊五郎がこの映画の出演を承諾したのは、国内では公開しないということが条件だったと伝えられています)、プリントは海外の日本大使館に送られて外国人向けの上映会に用いられたそうです。

狂言は新歌舞伎十八番の舞踊劇で、舞台は東京歌舞伎座、長唄も三味線も太鼓も当代一流をそろえ、監督は小津安二郎に依頼しました。小津安二郎がこの監督に起用されたのは、六代目を高く評価していたためであると同時に、小津ほどの監督でなければ、六代目が撮影を承諾しなかったからだともいわれています。小津監督は、「鏡獅子」の映画的構成だけを引き受けて撮影に立ち会いました。

「キネマ旬報」昭和10年(1935)4/1号の「小津安二郎座談会」では、小津監督の六代目に対する並々ならぬ思い入れと傾倒ぶり、手放しの絶賛が以下のように熱く掲載されています。

「僕は名人だと思っている」
「僕は音羽屋の踊りを見て、娘よりは娘らしいと思っている。例えば、踊りのときのあの色気です」
「音羽屋は、動かなくとも女らしく見える。客席に背を向けて、足を開いてお尻が落ちているだけでも、娘らしく感じる」
「音羽屋の芝居を見ていると、音羽屋がやっていることが分かるような気がするのです。こんな場合はこういうことをするのじゃないかということを漠然と感じるのです」
「音羽屋の芸談は、理屈なしで人情の機微に触れているのです」
「それは行って話をきいたのです。ああいうことを知っている人から聴かないで置くというのは実に惜しい」


小津日記を見ると、撮影は昭和10年6月25日で、一般興行の終わった深夜から明け方まで舞台をそのまま使い、徹夜で撮影して、1日おいた27日に、これまた徹夜でフィルムの整理と編輯をおわり、28日に試写、その夜、菊五郎の家で関係者一同シャンペンを抜いて祝杯を挙げたと書かれています。

さて、神田の古書店から帰宅後、購入してきたフィルムセンター刊「日本の記録映画特集 戦前編(2)」の25頁掲載の「鏡獅子」の項を読んでびっくりしました。

前半の記述「国際文化振興会が歌舞伎の映画製作を企画した」~「菊五郎宅でシャンペンで祝杯を挙げた」までは、だいたいその通りですが、後半には物凄いことが書いてありました。

《ところが、それから約1年後の昭和11年6月29日に国際文化振興会の主催で帝国ホテル演芸場にて披露試写をしてみると、これがさんざんの不評だった。この狂言は大奥の腰元が正月の鏡開きに踊り、飾ってある手獅子を持つと腰元に獅子の精がうつるという節で、前半はたおやかな娘姿の踊り、後半は豪放な獅子の舞いとなっており、和事と荒事を一人二役の早替わりで、しかも巧妙に踊り分けるところが見どころになっているのだが、後半はともかく、前半の娘姿の踊りが、太り気味の菊五郎では、どのような仕草でカバーしても、カメラのリアリティに捉えられると、グロテスクな女形のアラが見えて、お世辞にも美しいとは言えない、というのだった。そのうえ、撮影が平板で、カットが少なく、映画作品としての立体的構成が欠けているから、遠くから舞台を長々と見ている退屈さがそのまま伝わるような欠点があった。小津監督はこの時32歳、すでに多くの名作映画を撮っていて鏡獅子の場合も、楽屋や客席、大写し、移動などを取り入れたかったらしいが、協会側と歌舞伎関係者の反対で不本意な作り方に終わったらしい。せめてカラーで撮れたら別な魅力が出せただろう。》

小津監督が「僕は音羽屋の踊りを見て、娘よりは娘らしいと思っている。例えば、踊りのときのあの色気です。音羽屋は、動かなくとも女らしく見える。客席に背を向けて、足を開いてお尻が落ちているだけでも、娘らしく感じる」と語っていたことを思い出してください。

小津安二郎が絶賛した名優六代目菊五郎をグロテスクと言い放ち、映画の出来も「撮影が平板で、カットが少なく、映画作品としての立体的構成が欠けているから、遠くから舞台を長々と見ている退屈さがそのまま伝わるような欠点があった」とまでこき下ろしているのです、まるで何か意趣遺恨でもあるのかのような悪口雑言と思ってしまうくらいの悪意を感じました。

いやいや、ちょっと待ってくださいよ。ここには、「カットが少ない」と書いてありますが、佐藤忠男の「日本映画史」には、そんなふうには書かれていなかったと薄れた記憶をたよりに、索引で見当をつけて本文を探しました。

ありました、ありました。

ここには、このように記されています。

《「舞踊劇だから、一気に踊り抜くしかないのに、映画として形を整えるために小津はいちいちカット割りをし、そのたびに演技を中断させたからである。踊りの気勢をそがれて六代目はおおむくれだった。」(「日本映画史」2巻91頁)》

映画鑑賞者の立場からは「カットが少ない」と感じ、演出者としては平板になりがちな舞台撮影にできるだけメリハリをつけるために踊りを中断させてまで「カット割り」に努め、名優は踊りを中断されて、おおむくれだった、ということですよね。

これじゃあまるで「藪の中」だ、「羅生門」だ、わからん・わからん、です。

まあ、ここで、こんなふうに言っても仕方ないので、実際にyou tubeで「鏡獅子」(20分に少し欠ける作品です)を見てみることにしました。

しかし、すぐ踊りが始まるその冒頭に、少し違和感がありました。

フィルムアート社の「小津安二郎を読む」(1982.6.20.1刷)には、この「鏡獅子」の冒頭について、こんなふうに書かれています。

《この作品は、上演の舞台である歌舞伎座のスケッチから始められる。外観から正面入り口そして舞台内部へと、紹介が続き、更にカメラは楽屋に入り、6代目の額や風景が紹介される。ここまで、すべて固定ショットで撮影され、例によってスチール写真が積み重ねられたような小津調は健在で、楽屋スケッチは、劇映画における室内描写と全く変わりがない。ここまでの映像に、歌舞伎座の構造、鏡獅子の梗概、六代目についての簡単なナレーションが重ねられる。》

現在アップされているyou tubeで見られる「鏡獅子」では、この導入部分が完全に欠落しているのか、それとも、二種類つくられたという内のひとつが「そう」なのかは分かりませんが、you tubeで見た感じ、少なくとも4台のカメラで捉えた演技は不自然な切れ目などなく、整然とつながっていると感じました。「編集」の秀逸さを感じました。

踊りながら六代目が、両手で持った開いた扇子を小さく投げて回転させるところ、そのタイミングで画面が切り替わるのですが、取り損ないそうになって一瞬身を固くしたそのままの緊張が、次の場面にスムーズにつながっています、決して平板なんかではありませんでした。

そして《前半部と後半部を仕分ける圧巻となる場面は、獅子頭を手にした六代目が、乗り移った獅子の勢いに引き摺られて花道から揚幕に一気に駆け入るところであるが、この場面は、カメラを花道の前の客席に据え、大胆ともいうべきパンニングで一気に撮影し、六代目の入神の演技を余すところなく捉えている。このパンニングは、小津のこれまでのスタイルから言えば破調ともいうべきもので、小津の自己のスタイルを破壊する気迫と六代目の演技とが相俟って、異様な迫力を生んでいる。》

同感です。1000円損した。こんなもの買うんじゃなかったと、やはり後悔してしまいました。

(1935松竹蒲田)監督・小津安二郎、撮影・茂原英雄、
出演・六代目尾上菊五郎、長唄・松永和楓、三味線・柏伊三郎、太鼓・望月太左衛門
2巻(530m) 19分


by sentence2307 | 2018-09-08 17:40 | 小津安二郎 | Comments(0)
勢いというか、成り行きというか、勤めていた会社に「退職願」を出すことになってしまい、突然、職を失って、晴れて自由を手にすることができました。

こう単純な言い方をしてしまえば、一方的な「やられっぱなし感」がニュアンス的にあるかもしれませんが、実感としては、そういう感じはまったくなくて、自分の方もそれなりのアクションを仕掛けた結果でもあるので、むしろ、爽やかな感じの方が大きいです。

つい先週のアタマまでは、今年の夏休みにはどこに行こうかなどとyou tubeで各地の観光案内を見まくっていたのですから、その「突然」には、自分でも驚いているくらいです。

そうそう、余計なことですが、その観光案内の動画検索をしているときに、すごい美人に遭遇しました。

「にいがたTV」というところが作った「佐渡のマニアックなインスタ映えスポット」というタイトルの動画なのですが、現地のインスタ映えスポットの案内役をしていた佐渡汽船の広報課の(違うかもしれませんが)髙野さんという女性が、それはもう美しくて、それが容貌だけにとどまらず、話し方や所作に至るまで、優雅の極みとはこういう人のことを言うのだなとつくづく感嘆した次第です。

「奇麗な人って、いるもんだなあ」と、しばらくはその動画を何度も再生し、ボーっとなって繰り返し美貌と優雅な所作にしばし見とれてしまいました。

それもこれも、いわば突然暇になってしまった結果のなせるわざということに尽きるのですが、例えば、勤めていたときには絶対に見られなかったNHKの7時のニュースなど、ここのところごく普通に見られるようになりました。

その在り得ない時間帯にビールジョッキ片手に枝豆をもぐもぐさせながら、テレビの前にどっかと陣取り、個々のニュースはともかく、まずは最初に大写しになる「ジャーン!! 7時のニュース」というメインタイトルに、まず感動してしまうという状況です、そんなたわいのない感慨なんてすぐに慣れてしまうとは思いますが。

さて、7月1日(日)の「7時のニュース」を見ていたら、15分くらいのところにきて、突然、原節子がこちらを向いて微笑している写真がテレビ画面いっぱいに大写しになったので、本当にびっくりしました。

息を呑むついでに枝豆を誤飲しそこなってホント危なかったんですから。ゲホゲホ

しかし、明らかにこれは「東京物語」の原節子です。

なんだ・なんだと、ビールのジョッキを跨ぎながら思わずテレビ画面の至近距離までにじり寄りってしまったくらいです。

そのニュースによると、松竹の女性社員が小津監督作品の資料(写真)を整理していたら、その中から、小津監督が演技指導しているスナップ写真を見つけ、その何枚かは共通して、役者たちの目の下あたりに監督がなにやら塗りつけている写真があって、それがスクリーンに映し出されると、涙の後のように見えるという小津監督独特の工夫だったと解説していました。

そして、それを裏付けるように、撮影の川又昂は監督の指示で常にワセリンと綿棒を携帯していたという回想が紹介されていました。

そういえば小津監督が役者の目のあたりに何かを一心に施している写真なら、自分も見た記憶があるので、比較的写真が豊富に掲載されている松竹編「小津安二郎新発見」(講談社+α文庫)を引っ張り出して、最初のページから一枚一枚めくって探してみました。

「小津監督の名優たち」の「中村鴈治郎」のページに「浮草のスナップ」として、小津監督が、親指と人差し指で何か(よく見えませんが綿棒だと思います)を摘まみながら、目は鴈次郎の目の下あたりを注視し、まさに「それをそこ」に近づけているような、このシチュエーションにピッタリの写真がありました。

しかし、鴈治郎が団扇を持って縁側に座っているこの「浮草」の一シーンが、はたして「泣いた痕跡」が必要なシーンだっただろうか、どうしても思い出せません。苛立っているような表情からすると、川口浩(息子)と若尾文子(一座の女優)とが密かに付き合っていることを知った時の憤りの表情だったとしても、それでも目の下にテカリが必要だっただろうか、などとアレコレぶつぶつ言いながらページを繰っていたところ、なんと、「小津監督の撮影現場」の章の「メイク」という項に、いやというほど「小津監督の目の下塗り」の写真があるじゃないですか。

114ページから117ページにかけて、7枚の写真が掲載されていました。

「早春」の岸恵子が2枚、「東京物語」の笠智衆、「浮草」の杉村春子、「彼岸花」の有馬稲子、「東京物語」の原節子、「風の中の牝鶏」の田中絹代がそれぞれ1枚という大漁振りです。

松竹が編集したこの「小津安二郎新発見」で、わざわざ特別に「メイク」の項まで設けてこんなに多くの写真を集めているくらいですから、この「小津監督の目の下塗り」は、当時から業界人のあいだでは承知の事実だったんじゃないんですかあ、NHKさん、とかなんとか突っかかりたくなりますが、早計はいけませんし早漏も、もちろんいけませんが、そのへんは自分ではどうすることもできません。

この「メイク」の項には、数行の解説が付されていて、こんなふうに書かれています。

「小津映画の登場人物たちは感情を抑制することが多く、悲しいときでも号泣することは稀である。せいぜい瞼が涙でうっすらと濡れる程度であり、そのときは、小津自ら俳優に涙のメイクをほどこした。」

NHK「ねっ、ほらほら。《小津自ら俳優に涙のメイクをほどこした》とは書いてあるけど、それが《ワセリン》とまでは書いてないじゃないですか。今回の新発見は《ワセリン》なんですから。変なところは、なにひとつありません。新発見新発見」



by sentence2307 | 2018-07-02 18:55 | 小津安二郎 | Comments(0)
週末の夕方、久し振りに神保町の三省堂前で友人と待ち合わせをしました。

友人と会うのも久し振りなら、神保町に来るのも本当に久し振りです。

帰宅部だった高校生の頃の自分は、帰途、雨さえ降っていなければ九段の坂を下って神保町の古書店を見て回り、御茶ノ水か、気分次第で秋葉原(ここだって当時は古色蒼然としたドヤ街みたいな感じの街でした)や湯島・根岸くらいまで足を延ばして帰宅したものでした。

あるいは、秋に行われる恒例の「古書店まつり」には、どんな用事があっても都合をつけて必ず行ったものですが、社会人となってからは勤めが多忙になるにつれて行けなくなり、徐々にその習慣も崩れて途絶え、いつしか「神保町」の雑踏や匂いのことなども思い出さなくなり、現在にいたっています。

考えてみれば、この街に来るのはあれ以来ですから、ほんと何十年振りになるわけで、ほとんど「里帰り」状態で、どこもかしこも懐かしく、それだけに激変した町並みが一層物珍しくて、キョロキョロとあたりを見回して歩きました。

それだけに「ここは自分の知っている街じゃない」という思いに強く囚われたのかもしれませんが、なんといってもその極めつけは、待ち合わせ場所とした三省堂書店前についたときでした。

あの正面のパッと見の感じは、そのまんま高級レストランではないですか、それは少なくとも自分の知っているコテコテの「本屋」、店頭に野放図に本を山積みした「あの無防備な三省堂書店」なんかではありませんでした。

こう考えると、かつて自分の知っていた「三省堂書店」は、むしろ「焼け跡・闇市」の時代(戦後の荒廃)を引きずっていたのかもしれませんね。

そんなふうに、どこもかしこもすっかり綺麗になってしまったヨソヨソしい神保町ですが、それでもここはやっぱり「神保町」なんだよなと、足早に行きかう人の波をぼんやり眺めながら(誰もがとても身ぎれいで裕福そうなのが、むかしとは大違いです)、そこに立っているだけで、流れ去った時間の重さに押しつぶされそうになり、なんだか胸がいっぱいになってしまいました。

それにこんなに街の様子がサマ変わりしたと感じたのは、その人群れにチラホラ外国人学生や観光客が混ざっていて、その彼らが真顔で古書を物色している様子が、なんの違和感もなく自然に「神保町」の風景に馴染み溶け込んでいると感じたからかもしれません。

さて、待ち合わせの時間に少し早く着いてしまったので、靖国通りからすずらん通りを廻って(舗道はどこも綺麗に整備されていました)ふたたび三省堂まで戻ってこようと、古書店の店頭にあるワゴンや棚の廉価本を眺めながら、ぶらぶら歩き出しました。

そこには、なんと3冊で100円なんていう魅力的なサービス本もあるので、仇やおろそかに見過ごすわけにはいきません、なにせ自分は廉価本(小説か映画関係の本か歴史ものですが)というのには滅法弱く、内容よりも、まずは価格の誘惑に負けてしまって「とりあえず買っておいて、あとで精査する」という収集狂タイプの人間です、それが昂じてこんな夢をみたことがありました。

たぶん場所はこの神保町、古書店巡りをしている自分が、ある店の店頭で「三島由紀夫全集」全巻で100円という廉価本をみつけて、飛び上がらんばかりに狂喜乱舞し(夢なのですが)、歓喜のあまり大声をあげながら(こちらは現実です)跳ね起きたことがありました。

横で寝ていた家人がびっくりし起き上がり、訝し気に「ウナサレテタよ、なんか怖い夢でも見たの」と声をかけてきたので、そこは反射的に「うん、なんか、もの凄く怖いやつ」とかなんとか取り繕っておきました。

それでなくとも現状は整理の追いつかない「廉価本」で家が溢れかえり、生活に必要な空間まで徐々に占領し始めている危機的状況に常に苛ついている家人のことです、自分の能天気な夢のこと(三島由紀夫全集全巻100円で発見)、そして歓喜のあまり大声を発して飛び起きたなんてことを知ったら、それこそ逆上して明け方まで延々と嫌味を言われるのがオチなので、ここは機転を利かせた咄嗟の返答でうまく躱すことができたのは、我ながら実に見事な対応だったと思います。

さて、一応そのとき買った「3冊で100円」という本をちょっと紹介しておきますね。

①木村威夫「彷徨の映画美術」(株式会社トレヴィル)1990.10.25初版
②藤本義一「映像ロマンの旗手たち(下)ヨーロッパ編」(角川文庫)昭和53.12.20初版
③ダイソー日本の歴史ブックシリーズ6「平清盛」(株式会社大創出版)平成24.15.2刷

なのですが、この3冊のうち、当初いちばんの掘り出し物と思っていた①の木村威夫「彷徨の映画美術」は、意外に淡白・脱力系の内容で、映画美術というよりも、木村氏が仕事を始める前にいかに熱心に資料集めに奔走したか、今度やる映画が描く当時の世情や町並み・生活や風物を知るための資料集めがドンダケ大変だったかという、いわば資料集めの苦労話(それは、それなりに楽しいのですが)、「本の虫 行状記」みたいに読めば面白いにしても、「映画美術」の木村威夫の仕事が知りたい読者の期待にこの本がどれだけ答えられるかといえば、そこは大いに疑問とするところかもしれないなというのが、正直な印象でした。ですので、当初の「いちばんの掘り出し物」という看板は引っ込めなければなりません。

②の藤本義一「映像ロマンの旗手たち(下)ヨーロッパ編」は、ゴダール、トリュフォー、フェリーニ、パゾリーニの生い立ちを、彼らが撮った作品を随所に配して辻褄合わせのようにつなげながら生い立ちを「小説」に仕立てているのですが、しかし、個人的作業の小説家と違い映画監督に「生い立ち」を知ることが、それほど重要で有効なことなのかと少し疑問に囚われ、しかし逆に、この強烈な個性の4人なら、あるいは「あり」なのかもしれないなと考え直しました。

どちらにしても、映画が強烈な個性を前面に出して撮ることのできたあの「時代」こそ、そういうことも、あるいは許される「天才たちの時代」だったのだと、その「食い足りなさ」の残念な印象でさえも、それなりに楽しむことができました。

問題は③の「平清盛」です、具体的な執筆者名の表示がなく(当時放送していた同名の大河ドラマを当て込んだ際物として急遽作られた本だと思います)、ほんの140頁のパンフレット同然の如何にも安価な歴史本ですし、定価も100円と表示されていますので、100均のダイソーの100円ブランドとして売られたものと見当はつきましたが、その「侮り」は見事に裏切られました、一読して実に見事な間然するところなきその要約ぶりには心底感心してしまいました(巻末に16点のネタ本が参考文献として掲げられています)。

いずこかの名もなき編集プロダクションがダイソーから請け負って執筆・編集されたものだと思いますが、プロに徹した「匿名」氏たちのその見事な仕事ぶりには感銘を受け、密かな称賛を捧げた次第です。

自分は、「メディアマーカー」というサイトに蔵書を入力して管理しているのですが、以前はその「蔵書」という言葉に拘って、こういう3冊(読了したら処分する予定です)は「蔵書」扱いせずに、読了したら右から左にさっさと処分するだけ、あえて入力(記録)はしていませんでした。

いわば「読み捨て」状態のこれらの本は、期間限定の「記憶」に残るだけで「記録」としては残りません。

しかし、これってなんかオカシナ話ですよね。買って読みもせずにただ積んでおくだけの本(多くは権威ある執筆者によるメジャーな出版社の本です)は「蔵書」としてコマメに記録するのに、たとえダイソー本であっても、自分に大きな感銘を与えた「平清盛」は、ある日「燃えるゴミ」と一緒に処分されようとしている。

しかし、自分にとって、一番大切なこと(記憶すべきもの)は、まずは自分に感銘を与えることができた「実績」の方であって、少なくとも未だ頼りない存在でしかない「期待」の方なんかじゃないことは明らかです。

ここまで考えてきたとき、「それなら図書館から借りて読んだ本は、どうなんだ」と自分の中から問い掛けてくる声がありました。

実は、こんなふうに考えたのは、ひとつの理由があります(前振りが少し長くなりましたが、ここからが表題の「小津安二郎、厚田雄春、宮川一夫」です)。

小津監督作品について考えているとき、派生的に、以前なにかで読んだエピソードがふっと思い浮かんできて、それを原典にあたって確かめたくなるなんてことがよくあります。

例えば、そういう位置付けにある本として蓮實重彦が聞き手になった厚田雄春の「小津安二郎物語」(筑摩書房)があげられ、近所の図書館が在庫しているので時折借りて愛読しています。

しかし、この本、難点もないわけではありません。

本来なら、撮影現場で小津監督のすぐ傍らにいて、時折遠慮がちにでも小津監督にお願いしてカメラを覗かせてもらっていた小津組のハエヌキ・厚田雄春の述懐ですから、それだけでも「第一級資料」たるべき役割を果たさなければならないのに、自由奔放、移り気で散漫な厚田雄春の思うがままに四散する述懐を制御できない蓮實重彦の聞き出しのまずさが、掘り下げにも広がりにも失敗したという大変残念な印象だけが残る淡白な本です。

しかし、それでも折に触れ、そこに書かれているエピソードを確かめたくなるときもあって、図書館から借り直すということをしばしば繰り返している本で、例えば、木暮実千代が厚田雄春に撮り方について注文をつけるクダリ(170頁~171頁)は、こんな一文ではじめられています。

「で、『お茶漬けの味』は、女優が木暮実千代、木暮が小津さんに出たのは、後にも先にもこれっきりでしょう。いまだからいえるけど、これは撮影中にいろいろあったんです。スキャンダルめいたことはいいたくありませんけど・・・」と前置きし、まず、木暮実千代が自分がどんなふうに撮られているか、所長試写ということで、小津監督には内緒でラッシュを(製作の山内武と渋谷組のキャメラ助手とともに)見ていたという話を紹介したあとで「大変無礼なことだと思いましたね」と憤慨し、「で、木暮は自分のアップが少ないから不満だっていってるんだってことがあとでぼくの耳に入ったんです。で、ぼくは小津さんに言ったんです。『撮影がまずくて汚く撮れた』っていわれたんなら仕方がない。でもそうじゃなくて、アップが少ないからいやだなんていわれたんじゃあ絶対困る。小津さん、『そんなことで騒ぐなよ』っていっておられましたけどね。」

そして、さらにこんなふうに続きます。

「御承知のように、小津組で『アップ』というときは顔一杯のアップじゃない。本当のこといえば、『アップ』は『バスト・ショット』なんです。みんな、胸から上くらいをねらっててそれが小津さん独特の画面になってる。そしたら、ある日、準備ができて位置が決まったとき、木暮が『厚田さん、こっち側から顔を撮ってね』といったんです。自分が綺麗だと思ってる右側の顔にしろというんでしょう。ぼくは、『うん、うん』っていって7フィートの位置をつけたんですけど、小津さんそれを聞いてらしたようで、『ロングでいいよ』と。で、ぼくは小津さんの顔を見たわけですよ。あ、私に対して気をつかって下さるんだな、ありがたいなって思いましたね。」

この一連の文章をどう読み取るか、「あ、私に対して気をつかって下さるんだな」でこのエピソードを覆い包むか、それとも、傲慢で我儘な女優の横暴を茶坊主よろしくご注進に及びバタバタと騒ぎ立てる厚田氏に対して「そんなことで騒ぐなよ」とうんざりしながら苦笑する小津監督の言葉の真意が、この文章の最後まで覆って支配しているとみるべきか、自分などには判断がつかないところですが、ただ、フィルムアート社刊・田中眞澄編の「小津安二郎 戦後語録集成 1946~1963」における厚田雄春への小津監督の言及のあまりの少なさとか、例の「女中に手を付けてしまった」発言などを考えると、小津監督は厚田氏をあくまで内輪のスタッフとして冷徹にみていたことが分かります、その裏付けとして、大映に出向いて宮川一夫と仕事をした際の、過剰ともいえる気の使い方や、敬意の払い方を伝えるエピソードなどを読み比べてみれば、あるいは、おのずとそこに答えは出ているのかもしれませんね。



by sentence2307 | 2017-06-04 08:59 | 小津安二郎 | Comments(0)

小津安二郎と俳句

実は、前回ブログに書いた「エイゼンシュテインと俳句」の後日談というのがありまして、例の理髪店から帰宅して、しばらくテレビを見たあと、すこし早めの夕食でもとろうかと思っていたとき、さきほどの理髪店のオヤジさんが訪ねてきました。

なにか店に忘れ物でもしたのかと思って出てみると、先ほど店で話した雑誌をオヤジさんがわざわざ届けにきてくれたというのです。
手渡されたその雑誌の表紙には「月刊・俳句界」(文学の森刊行)2015.3月号とあり、その下に幾分小さめの活字で「特集・映画人の俳句」と書いてあります、なるほど、なるほど。

そしてそのすぐ下には、確かに「小津安二郎から渥美清、夏目雅子まで」とありました。

「これですよ、店で話した特集記事というのは。ほら、ほんとだったでしょう。さっき旦那が、なんだか疑わしそうな顔をしていたので、実物を見てもらおうと思って届けにきました」ということでした。

「返却の方は、いつでも結構ですからね」とそれだけ言い残して、オヤジさんは、そそくさと帰っていきました。

「あっ、いえ、かえって恐縮」とかなんとか、およそ場違いな挨拶を遠ざかっていくオヤジさんの背中に慌てて投げかけました。

このときの自分の応対が素っ気なかったとすれば、それは不意のことに戸惑っただけなので、「小津安二郎と俳句」というのなら大歓迎、興味なら大いにあります。

しかし、こうした「証拠」を目の前にしたいまでも、なんだか半信半疑なのは解消していません、そもそも「小津安二郎と俳句」なんて、いままで考えたこともありませんでした。

だって、なんだか「らしくない」感じの方が勝って、どう考えてもしっくりこないというのが正直な気持ちです。

いままで自分のなかで「小津安二郎」と「俳句」を結びつけるという「発想」そのものがなかったということもありますが、そもそもあの寂しがり屋の小津安二郎がひとり孤独にふけって俳句という言葉遊びに興じたり・熱中したり・煩悶したりという孤独な時間を過ごしたということに(仲間を集めてワイワイ賑やかなことがとても好きな小津監督のことですから、そういう孤独な「時間」をひとりで過ごして言葉遊びにふける人とはどうしても思えなかっただけに)、なんだか意表を突かれたからだと思います。

さっそく「月刊・俳句界」の小津安二郎の俳句が掲載されているとかいうページを開いてみました。

なるほど、ありますね、あるある。

ページの右端に「小津安二郎」という見出しがあり、俳句が6句掲載されています。

ごく短いので、ちょっと書き写してみますね。


つくばひに水の溢るる端居かな
黒飴もひとかたまりの暑さかな
手内職針の針のさきのみ昏れのこる
未だ生きている目に菜の花の眩しさ
月あかり築地月島佃島
春の雪石の仏にさはり消ゆ


最初から分かっていたことですが、俳句の素養なんてまるでない自分です、この6つの句を目の前に並べて、その句の良し悪しが「どうこう」判断できるわけもありません、ただ言えることは、どの句にも感情というものが些かも感じられないということくらいでしょうか。

あっ、そうか、これって正岡子規がいっていた「写生」とかいうもので、後継者の虚子も「花鳥諷詠」とかいってたっけな(これは深見けん二先生からの受け売りです)と乏しい知識から、これら小津俳句の「素っ気なさ」の意味がだんだん分かってきました。

そういえばあの司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、なんで正岡子規の設定が必要だったのか、読んだ当時も(そしていまでも)訝しく思ったことを思い出しました。

とかなんとか余計なことを考えながら、まあ、この小津俳句、早い話が、感動していいものやら、しなくていいものやら、少しも分からないという思いだけがヤタラ空回りして同じ所を堂々巡りするばかりです。

で、いつもなら、これで話は途切れて「おしまい」になってしまうのですが、この特集記事の最初に掲載されている齋藤愼爾という方の「映画人の俳句逍遥」という論考の、そのなかの一文を読んで、俄然興味が湧いてきました。

そこには、こんなふうに書かれていました。

「田中眞澄(小津映画の研究家)が、小津の手帳、メモ帳、覚書帳から編集した1933年から63年に至る「全日記小津安二郎」(フィルムアート社)には、およそ123句の俳句と10首ほどの短歌を拾うことが出来る。最も多産だったのは、「東京の宿」が公開された1935年の46句だ。5月18日には、同行13名で仙台行。夜は句会を開いている。連衆は小津の他に斎藤寅次郎(監督)、清水宏(監督)、野村浩将(監督)、野田高梧(脚本家。小津とは処女作以来、終生の名コンビ)である。」


そして、そのすぐあとに、つぎの3句が紹介されていました。
籤運の悪さをなげく旅の空 斎藤寅次郎
さみだれに濡るる仔馬を見て過ぐる 野田高梧
郭公もしとどに濡れて五月雨 小津安二郎

ちなみに、ここにある13名とは、

斎藤寅次郎、清水宏、野村浩将、野田高梧のほかに、荒田正男、佐々木啓祐、柳井隆雄、井上金太郎、池田忠雄、北村小松、伏見晁、斎藤良輔、そして小津安二郎だったそうです。

なるほど、なるほど、これならよくわかります。出来の方はともかく、あの寂しがり屋の小津が愛した俳句というのが、こうして仲間内でワイワイ賑やかに楽しむ華やかな連句だったんだなと、「小津安二郎にとっての俳句」の意味が少しだけ分ったような気がしてきました。



by sentence2307 | 2017-04-01 10:41 | 小津安二郎 | Comments(1)

晩春

先週、ある新書判に遭遇しました。

書名は、「原節子、号泣す」(末延芳晴著、集英社新書、2014.6.22刊)です。

なにしろ、書名があまりにも刺激的・挑発的なので、思わず手にとって、一気に読んでしまいました。

要するに、この本のテーマは、小津作品、特に「晩春」「麦秋」「東京物語」に出演した原節子の泣くシーン(それこそ号泣する場面です)を取り上げて個々の作品の分析を試みたものですが、一気に読み通した感想としては、はたして、ただの生理現象にすぎない「泣く」という行為の分析が、作品を読み解くうえでそれほど重大なことなのだろうか、それがどこまで意味あることなのかと、まずは疑問に捉われてしまいました。

それについて著作中で筆者もちょっと言及しています。

映画の中で女性の「泣く」という姿は、それ自体、見た目がド派手なので、どうにか「絵」にはなるかもしれませんし、「クライマックス」に相応しい盛り上がりだって一瞬はもたらすかのように見えてしまうかもしれませんが、しかし、ただそれだけでは、結局「孤立した絵」にしかならず、どこにも繋がらなくなる虞がある、要するに、その先のストーリーの流れに、どう繋げていくのかが問題なのであって、そこに精密な計算がないと、かえって、ただ作品展開を滞らせてしまうだけの(悪く言えば)障害にもなりかねないダメージの部分もあるのではないかと述べています。

目の前で、突然女性に泣かれてしまい、途方にくれてしまったことなら実体験として結構あります。

じっくりと話さなければならない大切な話を、突然泣き出されて中断せざるを得ず、話を中途で折られたまま、ついにお互いの意思を確認できずに苦い終わり方をしなければならなかった経験からしても、映画の中の「号泣」だって、同じように諸刃の剣的な「効果と障害」があるに違いないと思いました。

しかし、個々の内容はともかく、「小津安二郎」の世界に真正面から取り組もうとした真摯な姿勢に、正直感銘を受けたことは確かです。

そして、この本を読みながら、自分がいままで映画評論という分野になぜ興味を持ち、惹きつけられてきたのか、気づかされた思いがしました。

これは常日頃感じていることですが、日本における「映画評論」という分野の歴史がまだまだ底浅く、スタンダードな著述が少なすぎて質的に十分に成熟していないのではないか、確固たる本質論が不在のなかで、奇を衒い論点をはずした稚拙・無謀な傍論だりが幅を利かせ氾濫して、僕たちはそんなものばかりを読まされてきたような気がします。

スタンダードを欠いたこうした現状への飢え感と苛立ちが、「映画評論」に近づけた理由だったのかもしれないと、この本を読みながら感じた次第です。

総合芸術といわれるくらいの「映画」なのに、それを評するライターといえば、ごく偏った知識だけを駆使してサッと「あらすじ」をなぞる程度か、「偏っ」てるくらいならまだマシなほうで、それこそ映画など興味も関心もない原稿料狙い「小金稼ぎのヤカラ」が我がもの顔で跳梁し、もっともらしく斜にかまえるスタイルだけは一応イッチョマエ、せいぜい世の中を歪めて見ることくらいしかできない拗ね者・捻くれ者の論法だけで、映画の基盤となっている文学=ストーリーを真正面から読み解こうとすることもなく、せいぜい「あらすじ」か周辺情報を紹介する程度で、本質論を語れないまま論点をはずし、狭い偏見を駆使しただけの傍論が堂々と幅を利かしている、そういう稚拙な世界(業界)なのだということが、自分をずっと苛立たせてきたのだと思います。

そのひとつの現われが、さんざん読まされてきた「晩春」における、あのなんとも下品でオゾマシイ「父娘・近親相姦論」でしょう。

小津安二郎が生きていたら、こんないかがわしい解釈(ここまでくると、これはもう解釈以前の妄想でしかなく、せいぜいアダルトビデオの発想程度です)をされること、そういう侮辱的な評価が堂々とまかり通っている異常な事態に対して激怒するのではないかと思うくらいの暴論です。

もう本当に正直うんざりなのです。

たぶん批評家ご本人は、有り余る知識をひけらかしたくて、こんなふうに奇を衒ったことでも書き散らせば(それ自体、もはや甚だしい時代錯誤の発想にすぎませんが)、大向こうを唸らせられるとでも勘違いしたのでしょうが、しかし、それこそが猿の浅知恵というもので、ただ長生きして生き残り、先輩が死に絶えて自分に発言の順番が回ってきただけの「ご仁」の薄っぺらな世迷言を拝聴しなければならないという災厄をこうむるのは、いつの時代でも、同時代に生きる者たちの避けがたい呪われた宿命なのかもしれませんが、スタンダードの存在しない世界で、いくら奇を衒った傍論(もちろんあの「父娘・近親相姦論」です)をぶち上げても、それは所詮ただの駱駝のゲップ程度の影響しか世の中に与えることしかできません。

しかし、「晩春」という作品が、いまだに正確な読み取りは為されていないながらも、あの作品が描いた「スタンダード」な理念は、厳然として、やはりその作品のなかに存在しているわけなのですから、いつの日にか、そして誰かが、明晰によって「スタンダード」を読み取ってくれるに違いないと信じています。

「晩春」は、早くに妻を亡くした父とその娘の、孤独な親子の日常の物語です。

愛する妻を失った夫と、母を失った孤独な娘が、寄り添うようにひっそりと生きる日常が淡々と語られており、その穏やかな日常の底には、あえて劇中で語られることはないにしても、つねに「妻=母」への切ない思いで満ちています。

この物語から、この父娘をとおして亡き母へのつきせぬ情愛の思いを見失わなければ、きっと「父娘・近親相姦論」などという、とんでもない妄想も、いかがわしい世界への連想にも迷い込まずに済んだかもしれません。

娘は、亡き母のかわりに、ずっと父親の世話をし続けています。

母の面影を背負い、母の眼差しに見守られながら父の世話をする作業は、娘にとって大きな喜びであり誇りでもあったはずです。

人が生きていくうえで「喜び」と「誇り」とが満たされた自足の生活をすでに得ているとしたら、いったい他になにを求める必要があっただろうかと考えるとき、紀子が、この穏やかな日常をいつまでも失いたくないと考えるのは至極当然なことで、そこでは、自分が婚期を逸しかけている「行き遅れ」などという異次元の下世話な発想さえ入る余地のない濁りのない純粋な境地にあり、娘にとってこの「3人だけの生活」が、まさに完璧なものだったからこそ、いまさら他人を介在させる必要も意味も見出せなかったに違いない、これが紀子の置かれていた状況だったと思います(「喜び」も「誇り」にも縁遠い蓮実センセイには、この辺のところが、もうひとつ解せなかったのかもしれませんが)。

しかし、父親にとって、身を犠牲にすることなど厭わない娘の心優しさを思うにつけ、父親はひそかに胸を痛めています。

自分の亡き後、ひとりぼっちになってしまう娘の境遇は、すぐ間近に迫っている熾烈な現実としてあり、そのことを思えば、いっそう健気な娘への不憫と焦りは募っています。

ひとり残される娘の行く末を案じる危惧から「いつまでも、こうしてはいられない」と、見合い話を容認する父親の責任感と、いまの現状を決して変えたくないという娘の気持ちとが激しく衝突し、軋轢を生じさせるというストーリーが展開します。

しかし、結婚に逡巡する娘の背中を押すための父親の苦しい嘘=見合い話、娘の嫉妬と決断へと進むこの物語をどう辿り、自分的にどう飛躍させても、「父娘・近親相姦論」などという「性」的妄想には、どうしても繋がっていかないのです。

いやいや、「晩春」だけじゃない、「麦秋」にしても「東京物語」にしても、どう間違えれば、近親相姦に辿り着けるのか、そのいかがわしい発想の端緒を見つけることがどうしてもできませんでした。

無理にでも辻褄合わせができないか、しばらく考えたあと、馬鹿らしくなってやめました。

アダルトビデオの安直な筋立てじゃあるまいし、義父と嫁が同衾したり乱交したりなど、小津作品には最初から有り得ないことだったのです。

むしろ、逆に「性」によってしか関係を結べなくなった人間不信の「現状」こそが、むしろ異常事であって、後世の人たちから見たら、人間関係を結ぶうえで、これほど「性」にこだわり重きを成した現代の異常な幼児性を奇異に思うかもしれません。

時代になんか媚びる必要なんかない、と教えてくれたのは、小津作品の普遍性です。

あえて探さなくって、スタンダードなら目の前にありました。

スタンダードがそこに厳然として存在しているなら、解釈なんて所詮無力なものにすぎません。

(1949松竹)監督・小津安二郎、原作・: 廣津和郎「父と娘」より、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、製作・山本武、美術・浜田辰雄、調音・妹尾芳三郎、録音・佐々木秀孝、照明・磯野春雄、編集・浜村義康、音楽・伊藤宣二、装置・山本金太郎、装飾・小牧基胤、衣裳・鈴木文次郎、現像・林龍次、焼付・中村興一、進行担当・渡辺大、監督助手・山本浩三、塚本粧吉、田代幸蔵、斎藤武市、撮影助手・井上晴二、川又昂、老川元薫、舎川芳次、松田武生、美術助手・熊谷正男、調音助手・堀義臣、末松光次郎、佐藤廣文、大藤亮、照明助手・鈴木茂男、青松明、装置助手・佐須角三、結髪・佐久間とく、装飾助手・山崎鉄治、相原誠、床山・吉沢金太郎、柿沢久栄、工作・三井定義、擬音・斎藤六三郎、編集助手・羽太みきよ、演技事務・八木政雄、撮影事務・田尻丈夫
出演・笠智衆(曾宮周吉)、原節子(紀子)、月丘夢路(北川アヤ)、杉村春子(文学座)(田口まさ)、青木放屁(勝義)、宇佐美淳(服部昌一)、三宅邦子(三輪秋子)、三島雅夫(小野寺譲)、坪内美子(小野寺きく)、桂木洋子(小野寺美佐子)、清水一郎(多喜川の亭主)、谷崎純(林清造)、高橋豊子(林しげ)、紅沢葉子(茶湯の先生)
by sentence2307 | 2014-09-15 15:53 | 小津安二郎 | Comments(0)

「淫蕩」と「孤独」と

「さすらい日乗」さん、こんばんは。

たびたびのご指摘、ありがとうございます。

「駄作」は曲解でしたね、そんなことは誰も言っていませんでした、撤回します。

なるほど、なるほど。

「雀荘の連中の描き方など、どう見ても戦前の軟派学生の描き方で、石原裕次郎以後の太陽族が出てきた時代の若者ではありません」は、確かにそうですね。

有馬稲子が、雀荘に木村を探しに現れる場面など、ギラギラの「太陽族映画」なら、たちまち輪姦でもされかねない、清純な乙女にはとても危険なシチュエーションです、実際にそういう映画なら幾らでも見た記憶があります。

しかし、「東京暮色」にあっては、不良学生が小西得郎の口調を真似て、ふたりの馴れ初めから妊娠まで、内容は実に深刻な話なのに、そりゃあもうなんと申しましょうかなどと軽快におさらいしてしまうというなんともチグハグな感じが、作品に場違いな不協和音を生じさせていることは事実ですね。

ただ、作品の流れをぶち壊すくらいのこの「チグハグさ」が、自分に取って唯一息のつける愛すべき場面であったことは確かでした。

今回あらためて見て、自分がこの場面にものすごく愛着を感じていることに気が付きました。

その理由が、「さすらい日乗」さんのご指摘で明らかになりました、感謝です。

そして、もうひとつ、「原節子が、母親・山田五十鈴を非難することが、小津自身の自己批判(時流批判ではなく?)になっていると思う」という部分ですが、残念ながら、どう考えても、こちらの方は承服できません。

たとえ、それが「自己」でなく「時勢」であっても、そうした自分の時勢に対する姿勢を作品中で明らかにしたという高踏的解釈(それは、確かにそういうこともあるかもしれませんが)以前に、重要なのは、そのことの作品内における意味、つまり長女・原節子の真意でしょう。

かつて母親が間男をつくって家を出たことでもっとも傷ついたのが誰かといえば、まだ幼かったとはいえ既に物心がついていたに違いない長女・原節子だったはずです。

だから、もしかしたら夫・笠智衆よりも、その母への憎しみは一層深いものがあるのかもしれない。

その証拠に、母・山田五十鈴が、まさに北海道に旅立とうとしているとき、夫・笠智衆は、長女・原節子に「見送りにいってやらなくていいのか」と促しているくらいですから、夫・笠智衆の憎しみの感情がすでに薄らいでいることがうかがわれます。

つまり、長女・原節子の厳しさは、かつて厳格だった父親の教え(家族に対する厳しさ)に耐え、そして忠実に従い受け継いできたそのままのものだったのだと思います。

父親は、すでにその厳しさをとっくに失ってしまっているのに、長女・原節子だけは、遺物のように保持し、その教えを忠実に守り続けて、家族(母親や妹や自分の夫、そしてときには父親)に対しても厳格に振舞ってきたのではないかと想像してみました。

実は、自分のコメント「『東京暮色』と『もず』を隔てるもの」は不完全なもので、まだ付け足さなければならない部分が、もう少しありました。

「もず」の淡島千景の狂乱(孤独と男好き)に対して、山田五十鈴の静かさ(諦念)を対比したあとで、その理由を書こうと思ったのですが、集中力が切れて書き切ることができませんでした。

それというのは、たとえば、山田五十鈴が家を出た理由を、銀行監査役の厳格な性格の夫・笠智衆が作る息の詰まるような冷たい家庭のなかでは、ついに自分の居場所を見つけることができず家を出たのではないかと仮定してみたのです。

そして、夫・笠智衆も時を経てその理由に気付き、自戒の念にとらわれ、あの「見送りにいってやらなくてもいいのか」の言葉につながったのだと考えました。

さらに、次女・有馬稲子の前に失踪していた母親が現れたとき、自分にも母の淫蕩な血が流れているのではないかと動揺したという部分も、上記の「母の家出の理由」をあてはめれば、若干の読み変えが必要になるかもしれません。

優しさのまるでない冷たい家庭(父親の厳格さを長女が引継ぎ)で育った次女・有馬稲子は、その孤独をまぎらすために「不純異性交遊」にふけり、妊娠と堕胎をしたあと、突然現れた母によって、彼女もまた冷やかな家庭の孤独に耐えられず、誰かにすがりたいと切望する弱さを持っていたことを知り、自分もまるで母と同じではないかと痛感し、しかし、自分は母親のように家庭や子供を見捨てたりしないと念じながらも、しかし、子供も失い、男もまた自分から去ろうとしているとても厳しい現実に遭遇します。

その後の結末は、前述のとおりなのですが、次女・有馬稲子が動揺したという「母の淫蕩」は、「母の孤独」と考えるべきではないかというのが、自分の見解です。
by sentence2307 | 2013-07-07 21:15 | 小津安二郎 | Comments(1)
以前書いた「もず」について「さすらい日乗」さんからコメントをいただいたので、早速お礼のコメントを書きはじめたのですが、定められた欄にはどうしても収まり切らず、仕方なく独立したコメントとしてupすることにしました。

題して《「東京暮色」と「もず」を隔てるもの》です。

まずは、「さすらい日乗」さんからいただいたコメントを自分なりの理解によって要約してみました。

以下の通りです。

【「もず」は大変好きな映画で、「東京暮色」(と比較する)よりも、「甘い汗」など、脚本家・水木洋子との関係で見た方がよい。
「もず」や「甘い汗」は、水商売を職業とする女性の一種のプロレタリア文学の立場から作られたものなので、戦前のモダニズム謳歌の悔恨意識から撮られた「東京暮色」などとは比較すべくもなく、出演している娘・有馬稲子に象徴される「太陽族」の性的不道徳性とか、その原因となった笠智衆を捨てた山田五十鈴の性的放埒さの描き方、あるいは長女・原節子のその母・山田五十鈴に対する非難などをみれば、激変する戦後の価値観に対応できなくなった小津の限界を露呈していることは歴然としている。】

要するに、時代をリアルにとらえた「もず」と、時流に乗り切れないまま時代に背を向けるしかなかった「東京暮色」とでは、そもそも映像作家の価値基盤が異なるので比較のしようがないではないか、との趣旨と理解しました。

ここで問われているのは、やや極論ぎみに言えば「東京暮色」という作品が、(当時にあっては)論ずるに足りない時代錯誤の駄作なのではないかというご意見です。

そして、その説を裏付けるものとして、享楽にふけり、やがて妊娠という負の報いに遭遇した娘・有馬稲子が失意と苦しみのただなかにあるとき、追い討ちをかけるように、彼女の目の前に失踪していた母親が突然出現するという事態に(自分にも母の淫蕩な血が流れているのかと)さらに動揺をきたし、ついに発作的に自殺するという物語を破綻で終わらせる設定が、糜爛した時代風潮を受け入れられずに理解を放棄したような、小津らしからぬ工夫のない因果応報・短絡な断罪によって物語を閉じるという、映像作家としての限界を示した作品なのではないかという趣旨と受け取りました。(後述しますが、ひとつだけ気になるのは、遊び=妊娠という「太陽族」の享楽のイメージからは程遠い深刻な有馬稲子の描き方です。)

たしかに、小津作品中「東京暮色」が、当時ばかりでなく現在でも、ことのほか厳しい評価に晒されている理由は、やはり、このストーリーの救いのなさにあることは明らかです。

「東京物語」や「麦秋」が、そのラストにおいて、主人公が、たとえ苦渋に満ちた喪失感を抱えたまま物語が閉じられようとするときでさえ、なにかしらささやかな希望が暗示されており、映画を見終わった観客は、その作品名をまるで幸福な記憶の代名詞のように幾度もその「救い」の意味を甦らせては、凍えた気持ちを温めることができました。

たとえば「東京物語」がそうでしたよね。

義理の父・笠智衆から渡される母・東山千栄子からの形見の腕時計を手にしたとき、亡き息子の嫁・紀子は、感謝の意味に躊躇して「自分は、そんな善良な人間ではない」と泣き崩れる場面を思い出します。

僕たちは、老母が生前、紀子への感謝の言葉を幾度も口にしていることを知っているので、義理の父・笠智衆の優しい感謝の言葉が嘘だとは決して思いませんが、しかし、このシーンの最初には「もう息子のことなど忘れて、あなたには幸せになって欲しい」と伝えているところからすると、たとえ老母の感謝の言葉が義父の作り話であったとしても、幸薄い嫁を気遣って掛けた笠智衆の精一杯の思いやりとして一向に差し支えないもの(その意味では、どこまでも「真意」の重さが保たれている「生きた言葉」でした)として受け止めることができました。

その優しさは、形見の腕時計にあったのではなく、むしろ笠智衆の言葉そのものの中にあったからこそ、それに応える紀子の告白もまた、観客は大きな救いのなかで聞くことができたのであって、この世に遺された者たち(紀子や、もちろん笠智衆自身も)の囚われている「絶望」にも、彼らはこれから先もどうにか耐えていけるに違いないという一点の希望の灯を見ることができたのだと思います。

しかし、残念ながら、幕切れまで、その優しさに匹敵するような救いの言葉が一言も発せられない「東京暮色」のラストにおいて、観客は、逃れようのない重苦しさを抱え込まされたまま、映画館の外へ放り出されたはずです。

それはまるで優しい抱擁を期待して駆け寄った母親から、突然平手打ちを食わされたような手痛い衝撃だったかもしれません。

いままさに室蘭に旅立とうとして青森行きの列車の中にいる山田五十鈴は、人待ち顔でしきりに窓外を気にしていますが、そこに誰一人現れることはありません、現れるはずもない、これはとても残酷な場面です。

自分の産んだ子供のうち二人は既に死んでおり、そのうちの一人は、「自分」のことが原因で自殺しています。

ほんの数日前に、その死を知らせに来た長女から、「妹が死んだのは、あなたのせいだ」と怒り露わになじられたばかりです、そんな長女がわざわざ会いにくるはずもありません。

それなら彼女はいったい「誰」を待っていたのか、裏切った前夫・笠智衆は、自分のプライドを保つために無視の態度をとり続けているくらいですから、会いに来るはずもありません。

それでも山田五十鈴は、列車が動き出しても必死に窓外に目をこらして誰かを探していますが、列車は彼女の未練な気持ちを駅舎に残したまま走り始めます。

このラストシーンに小津安二郎はなにを意図しようとしたのか、もしそれが「東京物語」と一対をなすラストなら、それは是非知りたいと痛切に感じました。

そして「さすらい日乗」さんが、そのコメント中に書かれた「プロレタリア文学」という言葉の示唆する概念が、いまだに有効なのかどうかとか、あるいは「悔恨意識」という耳慣れない言葉の意味するところが、単に「懐古趣味」とか「郷愁」などに留まらず、さらに強烈な自責の念を求めるような痛切な感慨を伴っているのかどうかなど、まだまだ検証しなければならないものがあるのかもしれません。

しかし、たとえその当時において小津作品にそうした「時代遅れ」的な要素があったとしても、なにも「悔恨」まで抱かねばならないほどのものだったのかという違和感はありました。

「悔恨意識」という言葉を使われた真意を自分がどこまで正確に理解できているか、心もとない部分もありますが、自分なりに理解しているところをざっくりと書いてみたいと思います。

この2作品を見て、まず強烈な印象を受けるのは、二人の母親の描き方の違いにありました。

「もず」の淡島千景演じる水商売の母親・すが子は、酒色におぼれる荒れた生活のために、いまではすっかり身体も神経も壊れかけており、自身でも密かに死期が近いのではないかと恐れている自棄的な気持ちを持った破滅的な人物設定であるにしても、しかし、あの始終苛々としたヒステリックな狂乱振りの過剰さ(の演出)は、ちょっと現実離れしていて、突飛すぎる性格破綻者という設定には違和感を禁じ得ませんでした。

一方「東京暮色」の山田五十鈴演じる母親・喜久子はどうでしょうか。

「さすらい日乗」さんが、性的に放埒で、夫・笠智衆や子供たちを捨ててまで愛人のもとに走った淫蕩な女と位置づけた彼女です。

スクリーンに最初に登場する母親・喜久子は、僕たちのそうした先入観をことごとく裏切るような物静かさで、さらに寂しそうに弱々しく微笑むところなど、なんだか肩透かしを食わされ、そのあまりのギャップには、最初に持っていた先入観(性的に放埒な情熱の女)を混乱させられるばかりでした。

そこには愛人と一緒になるために家族を捨てた情念の熱い女という印象などさらになく、むしろ、逼迫した生活に押し潰され、失意と悲哀に堪えながら生きるしかないと諦念のなかで思い定めた生気の失せた初老の女を見出すばかりです。

おそらく、それは、愛人との出奔・逃亡という背徳行為が、彼らを経済的に厳しい境遇に追い込み、その窮乏生活が彼女からかつての熱や夢をすっかり奪い取り、ひたすら過酷な日常に堪えるしかないという冷え切った諦念のなかで、うらぶれ老成した失意の人間像が完成されたと見るのが順当なのかもしれませんが、はたしてそれだけだろうかという思いはありました。
by sentence2307 | 2013-07-06 21:07 | 小津安二郎 | Comments(3)
そうそう、何日か前の新聞に「小津安二郎 少年期の手紙」という記事を読んだので、そのときは、さっそく当ブログ(備忘録としてよりも、貴重な第一級の資料としてです)に書き留めておかなくてはと思ったのですが、なんやかやで、つい今日まで延び延びになってしまいました。

いけませんねえ。

パソコンの前に座りさえすれば、結構一生懸命「打ち込み」に励むのですが、根がずぼらなものですので、なかなか調子がでません。

自分が読んだのは、2月5日の読売新聞の夕刊です。

現物は手元にあります、これでも大事なものは保存しておかなければならないという意識のほうは、ちゃんとあるのですが、どうも気分が乗らず、つい今日までになってしまいました。

さて、それでは、まず手紙のほうから紹介しますね。

【小津安二郎から父親に宛てた手紙】(原文のまま)

御父上様 御ぶじですか 私どもぶじに暮してゐます 

この間は僕のだいすきな運動會でした可ら一心にしました 又伯■さんや岡本の伯母さんもおいでになつたので直々一心になりまして家に歸つてお母さんにほめられました お父様のお歸をまつています 深川の鳥の市はもうじきだと思つてゐます 僕は山の神をたのしみにしてゐます この間さけけうまかつたから又おくつてください

拾月廿九日     
               安二郎より
御父上様


(注)文中の「伯■さん」は、原文のままで、四角く塗りつぶされたままになっています。
インクが乾いてから修正しようと後回しにしておいて、そのまま忘れてしまったのではないかと推測されます。
自分などもよくやらかします、あっ、そこんとこは小津安二郎とまったくおんなじだ! なんとなくウレシイです。

【記事の要約】
「東京物語」など多くの名作を残した映画監督・小津安二郎(1903~1963)が、三重県松阪市で過ごした少年時代に東京の父親に宛てた直筆の手紙などの資料が見つかり、同市愛宕町の「小津安二郎青春館」で公開されている。

小津は、東京・深川の肥料問屋に生まれた。

1913年(大正2年)、9歳だった小津は、「子供の教育は田舎の方がいい」という父・寅之助の考えから、父親の故郷・松阪に母、兄、妹とともに移り住み、10年間を過ごした。

映画館に通い詰め、映画の道を志したのもこの頃とされる。

資料は、松阪の実家のあった土蔵で保管されていた。和菓子店などで買い物をした領収書や、小津の祖父が愛した歌舞伎の錦絵など6000点以上で、管理者から同館に寄託された。

公開されたのは、その一部。

父親に宛てた手紙は、松阪に転居して半年後の尋常小学校の4年生の時に出されたもので、運動会の様子や父への思いが率直につづられている。

同館の佐野洋治館長は、「今年は小津の生誕110年で、没後50年。小津の家族の温かみや、当時の松阪の様子が分かる貴重な資料を見てほしい」と話している。
by sentence2307 | 2013-02-17 16:10 | 小津安二郎 | Comments(4)