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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:中村登( 2 )

君美しく

このところWOWOWで中村登監督特集として、幾つかの作品を放映していたので、録画しておいたのを休みに少しずつ見ています。

まず最初に見たのは、1955年製作の「君美しく」でした。

太平洋戦争で一家の大黒柱の父親が戦死したあと、つづいて長男も戦死し、男手を失った一家が、苦難の戦後を生き抜くという家族の物語です。

戦死した長男は、長女に「老母と幼い弟妹たちのことを、よろしく頼む」と、家族の行く末を託した遺書を残しています。

まだ19歳かそこらの長女には、その兄の残した言葉は、あまりにも重くのしかかりますが、責任感の強い長女は、「若い娘」でいることを捨てて、家族のために懸命に働きます。

しかし、当然ながら、その懸命さが彼女に余裕を失わせ、余裕の無いその厳しさが、弟妹との間に、いつしか溝を作り、息詰まるような渇々の生活のなかで、弟との関係にさらに深刻な亀裂を生じさせていきます。

弟には、兄の死を知った当日ひそかに着飾る姉の秘密の背信行為を垣間見て不信感を抱いたという記憶があり(最後に姉の口から、それは家族のために「青春」を捨てる彼女なりの決意の儀式だったことが明かされますが)、そのために姉とどうしても融和できず、だから姉のその口うるささ・厳しさにますます反撥して、そむくことになっていきました。

妹もまた、出征したのちにずっと連絡がとれなかったむかしの姉の意中の人・国友(日航の操縦士として彼女の前に現れます)と、成り行きから婚約したことを知らされ、姉は愕然とします。

これだけ家族のために尽くしてきた代償として、弟の反撥と妹の裏切りにあった長女は、ひとり家族を支えなければならなかった責任の重圧と、経済的にも追い詰められ婚期も逸してしまった過酷な生活に耐えてきた意味のむなしさを自問します。

亡兄の遺児のためにひそかに援助をし続けるなど、家族のために自分の人生を犠牲にしてきた代償のむなしさと焦燥感に苛立つ長女を好演しているのは、淡島千景です。

この作品の次に撮られる「夫婦善哉」と、その翌年に撮られることとなる小津監督の「早春」を思い合わせてみれば、洗練された目を持つ監督たちが、思い描いた淡島千景という女優から受けるインスピレーションというかイメージみたいなものが、なんだか分かるような気がします。

「夫婦善哉」からは、婚期を逸した幸薄い中年女が、やっとめぐりあった男に寄せる執着のごとき濃い情愛の、しかし、それだけに突けば崩れてしまいそうな脆さも感じますし、「早春」には、夫の浮気によって、愛する者に従順であろうとする思いを裏切られた屈辱感に対しても、背をぴんと伸ばして毅然として立ち向かおうとする誇り高い女の強さも感じます。

しかし、それらは決して矛盾したものではなく、おそらくひとつながりのものなのであって、そのどちらにも共通しているものは、縋りつこうとする男からは皮肉にも決して癒されることない虚無感と、底深い女の孤独です。

弟・俊二を演じたのは高橋貞二、将来を嘱望されながら飲酒運転による自動車事故で早世した松竹の、佐田啓二と並び称された若手俳優でした。

奇しくも、佐田啓二も自動車事故で亡くなっていますが。

高橋貞二は、小津監督の作品にもよく起用されていて、早すぎるその死を、小津監督がさかんに残念がっていたという記述をどこかで読んだことがあります。

それから、俊二の部屋の向かいに住むバーの女給を演じているのは岸恵子。

「早春」において、妻・淡島千景が、夫・池部良をめぐって対決する愛人役として出演していていますが、この作品の後半でも、ほんのチラリと描かれている女の対決を見ていると、映画監督たる者、持ち味のまるで違うこのふたりの女優をモロに対決させて、演技の火花を散らさせてみたくなる誘惑を感じるのかもしれませんね、

毅然として誇り高く生きてきた潔癖な女・淡島千景に対して、岸恵子は、世なれたバーの女給を演じています。

いまどき、「女給」などという言い方は、多分死語になっているかもしれませんが、しかし、ここに登場する女たち(桂木洋子も含めて)の、悲惨な境遇のなかで水商売に入るしかなかった彼女たちの、まるで社会の蔑みにいどむように肩を怒らせて生きる虚無と、そのなげやりな感じには、いかにも「女給」という言葉こそがふさわしい、と感じました。

さて、険悪になり、煮詰まった兄弟間の調停役(むしろ、救世主といったほうがふさわしいと思います)として登場するのが、長女がむかしひそかに思いを寄せていた兄の後輩・現在は日航の操縦士をしている国友サンです。

彼は、失職した弟には安定した空港の整備の仕事を紹介してあげたり(ただし、入社10日くらいで、旅客機のエンジンルームの蓋を開けて、なにやらネジをさかんに回しているシーンがありました。入社早々の新入りにあんなことをさせて、それで日航機が墜落したのではないかと、ちょっと不安になりました)、そして、妹には1000人に10人とかいう競争率のスチュワーデスになる世話をやいています。

いまでこそ、大きすぎて潰せない地に落ちた国民のお荷物会社ですが、当時にあっては、日航の操縦士というのがいかにオールマイティで、絶大な職業であったかが分かろうというものですよね。

それから、かつての思い人、淡島千景には、なにをしてあげたのか、と考えてみたのですが、皮肉にも、結果的には、彼女から「すべてを奪った」としか思えませんでした。

憧れの職業・スチュワーデスになった妹と、かつての思い人で結局は裏切ったカタチの操縦士・国友サンを乗せた羽田空港を飛び立つ飛行機を見送りながら、姉・淡島千景が考え深げに終わるラストシーンに、もしマジで突込みをいれるとしたら、この映画は根本的なところで総崩れになるかもしれません。

しかし、それにしても、小津作品でも見かける役者たちが、この作品においては、同一人物かと目を疑ってしまうくらい、その表情の精彩のなさには、ちょっと驚かされてしまいました。

気品の欠けた淡島千景をはじめ、岸惠子や北龍二など、その生気をなくした表情からは、どう見ても別人としか思えず、思わず乗り出して見直してしまったくらいです。

(1955松竹大船)監督・中村登、製作・山口松三郎、脚色・井手雅人、瀬川昌治、原作・田井洋子、佐々木恵美子、撮影・生方敏夫、美術・浜田辰雄、照明・小泉喜代司、音楽・古関裕而、録音・大村三郎、
出演・淡島千景、高橋貞二、野添ひとみ、浦辺粂子、桂木洋子、菅佐原英一、岸惠子、船山裕二、日守新一、水上令子、松山恒夫、北龍二、永井達郎、末永功、竹田法一、南郷佑児、春日千里、
1955.12.28 9巻 2,522m 白黒
by sentence2307 | 2010-09-26 08:03 | 中村登 | Comments(1)
中村登監督の52年度松竹作品で「波」という映画を、先日BS放送で放映していたので、たまたま見ることができました。

決して名作だとか、珠玉の名品などと呼べるような作品ではありませんが、しかし、この作品には「日本の男のエゴイズム」というものが、明確に描き込まれていて、とても面白いなと感じました。

ストーリーは、教え子が家庭の貧困のために芸者になり(そこでは、「売られた」というリアルな表現がされています)、暫くして芸者の辛い仕事に堪えられなくなった彼女が逃げ帰ってきた先というのが、かつての教師(主人公です)だった男の下宿で、やがて夜になって彼女には帰る所がないというので泊めてあげたことが、その二人の結婚した主たる理由です。

別に教師が教え子や芸者(現実的には、どちらにしても少しは躊躇くらいした方がいいかもしれませんが)と結婚することが悪いとか倫理に反するとか思っている訳ではありませんが、躊躇するくらいの葛藤や迷いの描写はあってもいいかなと感じました。

登場人物がどういう職業にあり、どういう倫理観に囚われていて、そしてどんな風に悩んだり苦しんだりするのか、作品や人物描写に奥行きを持たせるということは、多分そういうことなのだろうと思いますし、この部分がしっかりと描き込まれてないと、作品との距離を縮められずに醒めきったままの観客は、いつまでも作品の中に感情移入できないで終わる可能性があります。

この作品には、随所にそうした「肩透かし」を食らわせられる場面が幾つも出てきます。

例えば、妻が不倫の末に若い男とともに駆け落ちし、夫が投宿しているその温泉宿まで会いに行く場面が、ひと悶着とともに描かれていますが、なぜ妻が若い男と不倫をしたのか、その動機が一切描かれていません。

駆け落ちという穏やかならざる行動にでた妻に責められるべきところがあるのと同じように、そうした行動に追い詰めた夫にも責められるところが当然あっただろうと観客は考え、夫婦の間にあったはずの軋轢の理由を知りたいと思うのは無理からぬところです。

「なぜ、あんなことをした」と夫が問い詰め、あるいは「あなたのそういう卑怯なところが堪らないのよ」とかなんとか、夫の人間性をめぐって夫婦の言い争いくらいあっても少しもおかしくない場面です。

しかし、夫の側の「負の部分」が伏せられたまま真実の追究は描かれることなく、産褥の死の床にある妻は、不自然なほど、ただひたすら夫に詫びるばかりなのです。

また、生まれた子が本当に自分の子かどうかと夫が疑惑を抱く場面でも、そして里親の妹と「あやまち」を犯す場面でも、この同じパターンが繰り返されています。

男の側の「負の部分」が伏せられ、真実は突き詰められないまま、いつの間にか親子は和解し、自分への好意を踏みにじった里親とも難なくヨリが戻りそうなラストでした。

結局、最後まで解消されることのなかった「わだかまり」は、本編の進行にはなんの支障もなかったものの、しかし、観客の心の中にはしっかりと根を張って残ってしまっていることを、中村監督が、はたして分かっていたかどうかは、はなはだ疑問なところでしょう。
by sentence2307 | 2005-01-23 23:11 | 中村登 | Comments(632)