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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:黒沢清( 4 )

岸辺の旅

誰もが持っていると思いますが、自分にも、仕事上や趣味面で、信条(自分を行動に踏み切らせる切っ掛けというかジンクスみたいなものですね)としているものが幾つかあります。

そのどれもが、あまりに思い込みのつよい幼稚なものなので、公言するのはちょっと気が引けるのですが、例えば、「いま考えていることに関連する事柄に三タビ遭遇したら、迷わず行動する」みたいな感じのものです。

最近、その「公式」にぴったりハマったことがあったので、ちょっと書いておこうと思います。

以前、黒沢清監督の「岸辺の旅」を見たとき、世間が評価するほどには、自分は、もうひとつ賛同できなくて、そのことがずっと気になっていました。

確かにこの作品「岸辺の旅」は、素晴らしい作品です。

ただ、自分の心情として、その辺をさらに正確に表現するとすれば、「確かに、素晴らしい部分のある作品です」くらいには言い直したくなる感じです。

そうでもしなければ、どうにも気持ちの収まりようがなく、この作品には何か大切なものが欠けているという思いでいます(あなたねえ、カンヌ国際映画祭で、ある視点部門監督賞を受賞しようかというすごい作品なのに、なにをいまさら「大切なものの欠落」でもないじゃないですか、と抗議されてしまいそうですが)。

そこで、最近経験した例の「三タビの遭遇」の方程式にハマッタことについてちょっと書いてみますね。

この作品について、自分が、このような「いまいち」懐疑の気持ちを持っていて、無意識にですが、折に触れネットでこの作品につていの「感想」を読む習慣が、いつの間にか身についてしまったかもしれません。超有名な人気作品ですから、その感想の量も膨大なのですが、あえて目についたものをランダムに紹介してみたいと思います。

「黒沢清監督のゴーストものだが、怖い映画ではない。」

「岸辺に住む人々のお陰で、妻は夫を理解し、本当の別れを迎えることができる、深津さんのラスト、素晴らしかった。」

「幽霊の存在・霊魂の可視化に挑んだゴーストものはひとつのジャンルと呼べる。」

「旅先でその地の人々と一緒に、楽しく生活する二人。だが、いつしか瑞希は、死者に対する想い出に介入して、人の心を乱してしまう。知らずにしてしまっことだが、結果的にそれらは、死者と生者の心の区切りを付けさせる為の一助となる。旅の目的はこういうことなのか。これが優介のお世話になった人々への恩返しであり、別れの儀式なのだ。」

「岸辺という生死の狭間をさまよう生き霊たち。そんな荒ぶる魂を鎮めるための、これは男と女、二人の道行きの物語。生者と死者(元生者)との激しい葛藤。とり返しのつかない言動が生んでしまった永遠の懐疑と悔恨を何とか成仏させたいという切なる願いを胸に、旅をする夫婦。」

「突然行方不明になり、そして死んでしまった人がどんなことを考えていたのか。そして何をしていたのか。どうしようもなく知りたいことのひとつだと思う。本作は死んだ夫の幽霊とともに旅をし、真実が明らかになっていくというストーリー。設定が設定だけに不気味で怖かったり突拍子もなかったりするが、主演二人の素晴らしい演技によってすんなり観られる大人の映画に仕上がっている。」

「映像や音楽、夫婦役の2人が美しい。自然の中のシーンも、室内での照明の感じも綺麗だった。途中、夫が妻に『泣きながらでもご飯食べていそう』と妻の芯の強さを表現。ラストシーンの深津絵里の表情でそのセリフに納得。大切な人をゆっくりと失う感じが切なかった。」

「死者に対して人は二度お別れを言わなければならない。肉体的なお別れと、精神的なお別れだ。」

なるほどなるほど、しかし、これら感想のどれも、自分の中に存在する苛立ちを解消してくれるものではありませんでした、むしろ、不信感を一層煽るようなものばかりというのが本音です。

つまり、自分を苛立たせるこれら感想の「大勢」が、この小文の出発点ということになるわけですが。

そこで、まずひとつ目の「遭遇」からいきますね。

ここのところ「日本映画専門チャンネル」で、今村昌平の「人間蒸発」を幾度か放映していて、機会があれば、繰り返し見ています。

自分的には、「繰り返し」、そして「幾度」も、絶対に見つづけるべき価値のある作品のひとつだと思っていますし、見るたびに得るものがあり、いままでその期待を裏切られたことはありません。

この「人間蒸発」を見ていて、とても印象深いのは、理由も告げず自分を置き去りにして蒸発(失踪)した「婚約者」を捜索する主人公「早川佳江」の執拗さです。

「婚約者」がどこへ行ってしまったのか、そして、なぜ失踪したのか、彼に失踪しなければならないほどの何があったのか、失踪について誰がどのように関与したのか、主人公の早川佳江は、失踪者=婚約者の最後の立ち寄り先や接触した関係者の誰彼構わず尋ねまわり徹底的に調べます。

当初、この作品がリアルに現実を捉えたドキュメンタリー映画だと信じて見ていた僕たちは、そのラストで、この作品がすべて「虚構」だと明かされたあとでも、「早川佳江」という人物像が、今村昌平やスタッフが企んだ架空のものであることを知ったあとでも、やはり、その執拗さには真に迫ったものがあり、それを「異常」とは思わせない観客を十分に納得させる「もの」が、そこにはありました。

たぶんそれは、理由も分からずに不意に婚約者を失ってしまった女性の「屈辱」と「納得するわけにいかない自責の念」だったからかもしれません。

自分は彼をあれだけ愛していたのだから、婚約者が失踪したなんてどうしても納得できない。少なくとも「失踪」なんて、絶対自分のせいなんかではない、何らかの理由で第三者が関与して彼を失踪に追い込んだに違いないという(自分を除外した)懐疑が、彼女を激しく突き動かし、「真相」を求める情熱となったのだと思います。

訳も分からず、突然、恋人や夫が、不意に自分の前から姿を消したとしたら、残された者はどのように感じるかの「リアル」が、映画「人間蒸発」には描かれていると思いました。

失うまでの相手を深く愛し、理解していたと確信していればこそ、「自責の念」や「屈辱感」より以前に、突然の「失踪」に対して、「何故だ」「どこへ行った」「誰かが企んで陥れたに違いない」という「早川佳江」の思いに到達できたのだと思います。それが、人間のごく普通の感情なのではないかと。

たとえ一度でもお互いに愛するという感情を共有したことがあり、だから生活も共にしてきた同棲相手が不意に姿を隠したことに対して、「なんで自分の前から消えたのだ」という共棲者として憤りを込めた痛切な思いに苦しめられたようには見えない「岸辺の旅」の妻・薮内瑞希が、自分には、どうしても「リアル」に欠けるように思えてならなかったのだと思います。

そして、ふたつ目の「遭遇」です。

会社では、自分は、偏屈とか、頑固とか、その他いろいろな言われ方をしていて、そのどれもが決して「いいふう」に言われておらず、また、もちろんそんなふうな理不尽な言われ方に同意できるはずもないのですが、ひとつだけ「無理もないか」というものがあります、「悪趣味」です。

わが課では、始業時にその日の「官報」を回覧していますが、「官庁の契約関係」とか「役所の人事異動」とかは、それぞれ別の課がチェックしているので、さしてわが課が関係するような記事はありません。

はっきり言って、わが課では、「官報」の回覧などは無用のことで、ただ惰性で行われている「慣行」にすぎないのです。

課員は、官報の頁を繰ることもなく、余白に閲覧印をさっさと押して、瞬く間に課を一周し、再び官報は自分の手元に戻ってきます。

さて、ここからが、自分が「悪趣味」といわれている所以です。

官報には、ほぼ毎日、市町村長名で公示される「行旅死亡人」という記事が掲載されています、いわゆる「行き倒れ」(病気や飢え・寒さなどのために、路上で倒れること。また、倒れて死ぬこと。また、その人。行路病者。いきだおれ。大辞林第三版)ですよね。

自分がその記事をコトサラ熱心に読みふけっていることを知っている課員は、こちらをチラ見しては、クスクス笑います。

しかし、官報を愛読しているということを「悪趣味」というのならまだしも、「行き倒れ」の記事を毎朝「楽しみにしている」などと誤解し、そしてそれ掴まえて「悪趣味」というのなら、それは少し違うぞと強く抗弁したい気持ちがあり、心外に思っています。いつか弁明する機会があれば、彼らにも理解できるように説明したいと思います。

さて、その「行旅死亡人」ですが、ある日の官報に「岸辺の旅」を連想させるこんな記事(平成28.11.15号外251号50頁)があったので、思わず複写をしてしまいました。


≪行旅死亡人

本籍・住所・氏名不詳、年齢55歳から75歳位の男性、身長175cm位、体格中肉、白髪交じりの短髪、茶色チェック柄シャツ、黒色長袖Tシャツ、青色ジーパン、黒色スパッツ、黒色靴下、黒色スニーカー、青色ボクサーパンツ、現金3万491円、黒色二つ折り財布、黒色と灰色のジャンパー、フード付きフリースパーカー、黒色ニット帽、手袋、眼鏡、腕時計

上記の者は、平成27年12月14日宮城県仙台市青葉区一番町4丁目2番10号東映プラザ地下1階ダイナム宮城一番丁館休憩コーナーで椅子に座ったまま意識不明となり、仙台市立病院に搬送され、同日縦隔腫瘍による呼吸不全のため死亡しました。

上記の遺体は、身元不明のために火葬に付し、遺骨は仙台市無縁故者納骨堂に安置してあります。心当たりの方は、当市青葉区保護第一課まで申し出てください。≫

作品「岸辺の旅」には、作り手や受け手が興味を示した「幽霊の存在」だとか「霊魂の可視化」以外にも、このストーリーの中に込められたはずの無残な思いとか、もっと興味を示してもよかったかもしれないリアルで熾烈で悲惨な「現実」がもう一方にあったことを、この「官報」が教えてくれているように感じたのでした。

さて、三つ目の「遭遇」です。

京大の酒巻匡教授が、ある雑誌に「性悪説」というコラムを書いていました。

書き出しは、こうです。

「人間には、悪の能力がある。これは、法学・政治学の大前提であり、この学問分野に少しでも触れたことのある者にとっては常識であろう。しかし、筆者は、法制度の設計を専門的に検討する審議会の委員を務めた際に、健全な社会常識を代表するという一般有識者委員の言動から、これが世間一般の常識ではないらしいことを知った。」

IR推進法案反対の幼稚な言説でも分かるように、綺麗ごとをひたすら並び立てて現実を見ようとしない「良識人間」とか「人道主義」が、いかに現実を歪めたか、アメリカをはじめ世界はいま、その揺り戻しに時期に差し掛かっているように感じます。

結局は、善人しか登場していないような幽霊の話なんて、てんで興味がなかったと、「岸辺の旅」についての感想を最初からズバリ言ってしまえば良かったのかもしれませんね。

(2015)監督脚本・黒沢清、原作・湯本香樹実『岸辺の旅』(文春文庫刊)、脚本・宇治田隆史、撮影・芦澤明子、美術・安宅紀史、編集・今井剛、音響効果・伊藤瑞樹、音楽・大友良英、江藤直子、照明・永田英則、飯村浩史、録音・松本昇和、助監督・菊地健雄、製作・畠中達郎、和崎信哉、百武弘二、水口昌彦、山本浩、佐々木史朗、エグゼクティブプロデューサー・遠藤日登思、青木竹彦、プロデューサー・松田広子、押田興将、ゼネラルプロデューサー・原田知明、小西真人、音楽プロデューサー・佐々木次彦、VE・鏡原圭吾、スクリプター・柳沼由加里、ヘアメイク・細川昌子、衣裳デザイン・小川久美子、COプロデューサー・松本整、マサ・サワダ、VFXスーパーアドバイザー・浅野秀二、助成・文化庁芸術振興費補助金、配給・ショウゲート、企画制作・オフィス・シロウズ、製作・「岸辺の旅」製作委員会(アミューズ、WOWOW、ショウゲート、ポニーキャニオン、博報堂、オフィス・シロウズ)
出演: 深津絵里(薮内瑞希)、浅野忠信(薮内優介)、小松政夫(島影)、村岡希美(フジエ)、奥貫薫(星谷薫)、赤堀雅秋(タカシ)、千葉哲也、藤野大輝、松本華奈、石井そら、星流、いせゆみこ、高橋洋、深谷美歩、岡本英之、蒼井優(松崎朋子)、首藤康之(瑞希の父)、柄本明(星谷)、



第89回キネマ旬報日本映画ベスト・テン第5位、主演女優賞(深津絵里、『寄生獣 完結編』と合わせて受賞)、第70回毎日映画コンクール日本映画優秀賞、第37回ヨコハマ映画祭(2016年)日本映画ベストテン第7位、第10回アジア・フィルム・アワード(2016年)最優秀助演男優賞(浅野忠信)、第25回日本映画プロフェッショナル大賞(2016年)ベストテン・6位、特別功労賞(芦澤明子、本作ほか長年の映画撮影の功績に対して)、第25回日本映画批評家大賞(2016年)主演男優賞(浅野忠信)、第30回高崎映画祭(2016年) 最優秀主演女優賞(深津絵里)、最優秀助演女優賞(蒼井優)、第8回TAMA映画賞(2016年)最優秀女優賞(蒼井優、『オーバー・フェンス』『家族はつらいよ』と合わせて受賞。)、第68回カンヌ国際映画祭ある視点部門監督賞受賞(黒沢清)、


by sentence2307 | 2016-12-18 22:57 | 黒沢清 | Comments(2)

アカルイミライ

僕の知る限り、この映画を見た感想でもっとも多かったのは「わけ分からん」でした。

それは、いい年をしたオッサンも、結構若い連中も、共通して同じような言い方をしていたので、その意味からすれば、この映画は「世代間による対立や現代社会に対する価値観の相違を巧みに」とらえることには成功してはいても、この映画自体が観客に与えた反応としては、この作品の公式テーマ「世代間の対立や価値観の相違」という認識とはアイ反して、老いも若きもおしなべて和気藹々と「わけ分からん」という共通認識で一致していたのには、なんか皮肉な感じがして苦笑してしまいました。

そして、その「わけ分からん」は、きっとこのタイトル「アカルイミライ」が、内容のどの部分とつながるのかさっぱり理解できないというところにあったのだろうと思います。

この映画に描かれている雄二や守に、果たして、アカルかろうがクラかろうが、そもそもミライなんてものがあったのかと僕ミズカラ自問し、「あった」と仮に自答しようとする地点から、僕はこの黒沢作品を考えてみたいと思いました。

この作品には、旧世代から差し伸べられる「分かろう」とするポーズへの怒りが満ちています。

若い世代に興味がありそうな振りをして近づき、「君たちが好きなCD」を聞く振りをして、あたかも理解したふうなポーズをよそおい、すべてが分かったようなツラで人の気持ちの中にずかずかと土足で踏み込んでくるその無神経さ、例えば、雄二がなによりも大切にしていたCDを返すことをまったく忘れ去っている社長に対する雄二の怒り=殺意にまで昂まっていく逆上の場面に、この作品のメッセージが一挙に集約されていると思います。

それは多分、勝手に「理解」され、彼の中で勝手に「消化」されてしまう者の「怒り」です。

大人たちは、何のために、そして何故理解したがるのか、多分それは、ただ若いヤツらを便利に使いたい、上手に支配したいためなのは明らかです。

ただそれだけのことなら、そうされてもいいし、多分我慢もできる。

しかし、それを「理解」者みたいなツラをして善意を押し付けてくるそういう欺瞞だけはなんとしても許せない。

功利だけでつながろうとするみえみえのむなしい「人間関係」や、他人との距離を程よく測ることに疲れ切って、もはや社会とのつながりを半分拒んでいる雄二や守にとって、その社長・藤原の傲慢は死を課すに値する許しがたいものだったのだろうと思います。

この「アカルイ」を、見通しの明るい「希望に満ちた明日」みたいにストレートに理解し、そしてそれをこの映画の中でなんらかの答えを見つけようとすれば、きっと結論は「わけ分からん」になってしまうと思います。

多分この「アカルイ」は、明日の限界までもすっかり見通せてしまう、そういう虚脱をともなうような絶望的な明るさのことなのかもしれません。

なにも特別なものである必要はなにもないあるがままのもの、そういう「ミライ」なのだと思います。
by sentence2307 | 2005-01-09 18:58 | 黒沢清 | Comments(134)

アカルイミライ

僕の知る限り、この映画を見た感想でもっとも多かったのは「わけ分からん」でした。

それは、いい年をしたオッサンも、結構若い連中も、共通して同じような言い方をしていたので、その意味からすれば、この映画は「世代間による対立や現代社会に対する価値観の相違を巧みに」とらえることには成功してはいても、この映画自体が観客に与えた反応としては、この作品の公式テーマ「世代間の対立や価値観の相違」という認識とはアイ反して、老いも若きもおしなべて和気藹々と「わけ分からん」という共通認識で一致していたのには、なんか皮肉な感じがして苦笑してしまいました。

そして、その「わけ分からん」は、きっとこのタイトル「アカルイミライ」が、内容のどの部分とつながるのかさっぱり理解できないというところにあったのだろうと思います。

この映画に描かれている雄二や守に、果たして、アカルかろうがクラかろうが、そもそもミライなんてものがあったのかと僕ミズカラ自問し、「あった」と仮に自答しようとする地点から、僕はこの黒沢作品を考えてみたいと思いました。

この作品には、旧世代から差し伸べられる「分かろう」とするポーズへの怒りが満ちています。

若い世代に興味がありそうな振りをして近づき、「君たちが好きなCD」を聞く振りをして、あたかも理解したふうなポーズをよそおい、すべてが分かったようなツラで人の気持ちの中にずかずかと土足で踏み込んでくるその無神経さ、例えば、雄二がなによりも大切にしていたCDを返すことをまったく忘れ去っている社長に対する雄二の怒り=殺意にまで昂まっていく逆上の場面に、この作品のメッセージが一挙に集約されていると思います。

それは多分、勝手に「理解」され、彼の中で勝手に「消化」されてしまう者の「怒り」です。

大人たちは、何のために、そして何故理解したがるのか、多分それは、ただ若いヤツらを便利に使いたい、上手に支配したいためなのは明らかです。

ただそれだけのことなら、そうされてもいいし、多分我慢もできる。

しかし、それを「理解」者みたいなツラをして善意を押し付けてくるそういう欺瞞だけはなんとしても許せない。

功利だけでつながろうとするみえみえのむなしい「人間関係」や、他人との距離を程よく測ることに疲れ切って、もはや社会とのつながりを半分拒んでいる雄二や守にとって、その社長・藤原の傲慢は死を課すに値する許しがたいものだったのだろうと思います。

この「アカルイ」を、見通しの明るい「希望に満ちた明日」みたいにストレートに理解し、そしてそれをこの映画の中でなんらかの答えを見つけようとすれば、きっと結論は「わけ分からん」になってしまうと思います。

多分この「アカルイ」は、明日の限界までもすっかり見通せてしまう、そういう虚脱をともなうような絶望的な明るさのことなのかもしれません。

なにも特別なものである必要はなにもないあるがままのもの、そういう「ミライ」なのだと思います。
by sentence2307 | 2004-12-18 23:06 | 黒沢清 | Comments(0)

ドッペルゲンガー

「最初、やたら重たいホラーかと思って見ていたら、いつの間にかコメディーみたいな軽い乗りになっちゃったんで、なんだこりゃって感じでした。」
っていうのが、この作品に対する僕の知り合いのだいたいの感想でした。

きっと多くの熱烈な黒沢清ファンでも、この映画「ドッペルゲンガー」という作品を大きく割っている不思議な「転調」には、少なからぬ戸惑いを覚えたのではないかと思います。

会社のなかでは映画好きで通っているまじめな中年のオジサン集団も、正直、この作品には苛立っているようでした。

「コケ脅かし」とか「小賢しい」などという激しい言葉も聞かれたくらいです。

たまたま高峰秀子の映画の話で盛り上がっていたとき、黒沢清のこの作品「ドッペルゲンガー」について話そうとした僕を、彼らはとても怖い顔で「そんな不愉快な作品の話しで楽しい雰囲気を壊すなよ」みたいな吐き捨てるような言い方で、すげなく一蹴されてしまいました。

断っておきますが、こよなくゴダールを愛するこのオジサンたち、いつもなら黒沢清監督のシュールな作品にはとても好意的で、例えばあの「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の洞口依子にアンナ・カリーナをダブラせて、とても熱く語り合ったりしているくらいなのですが。

きっと、このオジサンたちを落胆させ、気分を害したたものは、この作品を二分したあの「不自然な転調」にあったのだと思います。

実は、僕も、この作品「ドッペルゲンガー」を見た後に、まずはその「転調」に対する拒否反応が最初に襲ってきました。

それは、「後半は手抜きだ」という印象からの「拒否反応」でした。

きっと映画というものは、終始一貫した調子で撮られなければならない、ホラーならホラーのままであり続けて欲しい、昔から映画とはそういうものなのだ、と固く信じ込んでいたからでしょう。

映画の形式=美意識についてのその思いは今でも変わらないのですが、しかし、自分が何の疑いもなく、そう思い込み続けてきたということを、この「ドッペルゲンガー」によって、はっきり気づかされました。

むしろ、その「転調」のなかにこそ監督が言おうとしている意図があるのではないか、そんな思いがしてきました。

この映画を、ごくストレートに観ていくと、黒沢清監督は、映画のラストで、世間から欲望の対象にされている「人工人体」をあっさりと海に投げ棄てて、金で動かされる人間たちの欲望へあからさまな嘲りを示すことで締めくくっています。

男・役所広司は、晴れ晴れとした顔で、女・永作博美とともに車で走り去って行くシーンにそれは端的に表されているといえるでしょう。

そして、これがこの映画のラストのすべてです。

言い換えれば、なにもわざわざ「ドッペルゲンガー」など持ち出さなくとも、そしてその「分身」を殺さなくとも一向に差しさわりのないきわめて真っ当な締め括り方といえるでしょう。

ホラー映画と思って見ていれば突如コメディー映画になり、やがて出来損ないのアクション映画みたいに変貌したかと思うと、最後に突きつけられた結論というのが、生活費のためにアクセクと毎日働いているサラリーマンに対して、「自分を殺して金のために生きているヤツらは、みんなアホだ」みたいな言われ方をされてしまうわけですから、まあ言ってみれば、この映画を観た給与生活者こそ「いい面の皮」だと思います。

ウチラの会社のオジサンたちが、この作品に自尊心を傷つけられて憤慨し、「コケ脅かし」とか「小賢しい」などという激しい言葉で毒づいた気持ちも理解できますし、映画の最後の結論というのがこの程度の教訓だったら、金を払ってこの駄作をわざわざ観にいった観客は誰だってドタマにくるのは当然です。

今日の僕は、書いていくうちに次第に感情的になってしまうみたいなので、ドッペルゲンガーが現れないうちに、これくらいで止めておこうと思います。

この作品についてなんらかのコメントを書こうとして、書き進むうちについ感情が先走って激昂し、中断を余儀なくされてしまいましたので、再挑戦のつもりで改めてパソの前に座りました。

これまで何人かの人にこの作品をどう思うか、機会あるごとに感想をそれとなく訊いてきたのですが、この作品をアタマから否定する人は、意外にもいませんでした。

僕の受けた印象からいうと、多くの人たちは、自分が持った感想に「あの黒沢作品をアタマから否定してもいいのか」みたいな不安もあって、相手の感想をそれとなくさぐりながら、自分の感想と照合しようとする「疑心暗鬼」というか、つまり自分の意見を予め自己規制してしまうような「不健康」なものを感じたのです。

きっと、いまや大看板の「黒沢清」という名前が、人々に失敗作を気楽に否定させないところまで退廃してしまったのではないかという危惧を踏まえたうえでの僕の「激昂」だったのだと思います。

ロバの耳をした王様が、さらに裸で、しかし、それでもいいではないかという大衆の暗黙の了解と支持が支配している静寂の中から、「王様の耳はロバの耳で、そのうえ裸!」と叫び上げるそのマイナーな勇気が、きっと黒沢清監督を無条件で愛している多くの人たちをシラケさせるだけなのを十分に承知していたからこそ、その中からあえて語り出そうとする孤立感と緊張感とが、つい僕に「激昂」という姿勢をとらせたのだろうと思うのです。

逆風の中で大勢に反することを言おうとすると、どうしても前振りが長くなってしまいますよね。

この映画「ドッペルゲンガー」の、前半の重々しいホラー調で始まったストーリーが、自分の分身を「殺した」あとで、突如としてコメディー風な乗りに変わっていくという部分には、あの分身が、後半で本人と入れ替わったと見ていいのかもしれません。

それがあの「転調」の意味だったのでしょうか。

しかし、たとえそうであったとしても、一体それが、この映画にとってどれほどの意味をもつのか疑問ですし、監督のその意図がどのあたりにあるのかも、はっきり言ってよくわからないのです。

仕事に行き詰まり、破滅寸前にまで追い込まれながら、自分だけの力ではそのどん詰まりの状況を打開できず、破滅の瀬戸際で男がその分身を生み出したのだとたら、それが自助幻想(その幻想には「肉体」が伴っているので、そうは言わないかもしれませんが)としての「救いとか逃避」ではあったとしても、決して「恐怖」には繋がらないように思いますし、少なくとも、その現象は「怖さ」からは最も遠くにある観念のような気がします。

だからホラー映画風に語り始める必要など少しもないと思うのです。

いくら彼の「分身」が、抑圧された欲望を解き放ち思いのままに行動に移し、「してはいけないことを彼に成り代わって悉くやってのける」暴走をしたとしても、「それがどうした」という思いしか実のところ持てませんでした。
by sentence2307 | 2004-11-09 23:32 | 黒沢清 | Comments(0)