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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:今村昌平( 7 )

GYAOからメールマガジンの配信を受けているのですが、今日だったか、昨日だったかに着信していたメールを読まずに放置していました。

しかし、そこには、いまGYAOで、かつてキネマ旬報ベスト・テンに入ったような名作を70本も立て続けに無料配信すると書いてあったらしいのです、たまたま回転寿司で会った近所の知り合いのオヤジが教えてくれました。

「70本はすごいよ。なにしろ、すべてタダなんだからさ」

タダという言葉の響きにめっぽう弱い自分などは、おもわず立ち眩みがして、うわずった大声をあげてしまいました。

「ほ、ほ、ほんとですか!!」と。

話をよく聞けば、この企画、ここ1月に始まったばかりらしいので、まあ、そんなに慌てなくてもよくて、まだまだ先は長いみたいだよ、というオヤジの言葉に一応は安心したものの、さっそくタブレットを取り出して検索してみました。

なるほど、これですね、ありました。

ありましたけれども、アナタ、このリストのなかで、もう既に期限が過ぎてしまっている作品てのが何本かあるじゃないですか、そのなかでもまず最初に目についたのが「セデック・バレ」、えっ、なんだよお、これだけは絶対見たかったのにい、アレマ~。

この映画を見る前は、「首狩り族」なんて、とても怖くて薄気味悪く、むかしの現地台湾において生首をいっぱい並べてニッコリなんて写真を見せられると、とてもじゃありませんがおぞましくって、見るのはおろか、ただ聞くのでさえも嫌だったのに、あの映画「セデック・バレ」を見たあとでは、すっかり慣れて平気になっていて、ああ、これがその国の文化を知るってことなのかなあと変な感心をしたのを覚えています、わけ分かりませんが。

まあ、とにかく、GYAOのホームページに載っていたリストを貼っときますね。でも、貼りながらざっと数えてみたら、54本しかないので、このあとまだまだ追加されるということですよね(全70本ということですから)、いまから楽しみですけれども、反面、意識しすぎて「期限切れ」に追いまくられる日々を考えると、見る暇がなくて返却期限がきてしまったレンタルビデオみたいで鬱陶しい強迫観念に待ち伏せされているような気がしないでもありませんが。
以上、こういう経緯があるので、締切日の早いものから見る必要があります、ホームページに載っていたものを、便宜上、締切日の順に組み替えました。ほとんど自分ためだけの必要に迫られた作業にすぎませんが。


≪以下が放映リストです≫

大鹿村騒動記【日本映画/2011年2位】配信期間:2019/1/7~2019/1/13
セデック・バレ【外国映画/2013年4位】配信期間:2018/12/15~2019/1/16
ペコロスの母に会いに行く【日本映画/2013年1位】配信期間:2019/1/8~2019/1/21
岸辺の旅【日本映画/2015年5位】配信期間:2019/1/9~2019/1/22
まほろ駅前多田便利軒【日本映画/2011年4位】配信期間:2019/1/8~2019/1/28
松ヶ根乱射事件【日本映画/2007年7位】配信期間:2019/1/16~2019/1/29
ノー・マンズ・ランド(2001)【外国映画/2002年2位】配信期間:2019/1/1~2019/1/31
灼熱の魂【外国映画/2011年9位】配信期間:2019/1/4~2019/1/31
下妻物語【日本映画/2004年3位】配信期間:2019/1/18~2019/1/31

チェイサー(2008)【外国映画/2009年4位】配信期間:2019/1/3~2019/2/2
川の底からこんにちは【日本映画/2010年5位】配信期間:2019/1/22~2019/2/4
チルソクの夏【日本映画/2004年9位】配信期間:2019/1/11~2019/2/10
キャタピラー【日本映画/2010年6位】配信期間:2019/1/28~2019/2/10
GONINサーガ【日本映画/2015年6位】配信期間:2019/1/12~2019/2/11
さらば、わが愛~覇王別姫~ 【外国映画/1994年2位】配信期間:2019/1/14~2019/2/13
サッド ヴァケイション【日本映画/2007年4位】配信期間:2019/1/31~2019/2/13
ディア・ドクター【日本映画/2009年1位】配信期間:2019/1/25~2019/2/14
0.5ミリ【日本映画/2014年2位】配信期間:2019/1/17~2019/2/16
冷たい雨に撃て、約束の銃弾を【外国映画/2010年6位】配信期間:2019/1/18~2019/2/17
花様年華【外国映画/2001年2位】配信期間:2019/1/21~2019/2/20
苦役列車【日本映画/2012年5位】配信期間:2019/2/1~2019/2/21
黒衣の刺客【外国映画/2015年5位】配信期間:2019/1/23~2019/2/22
御法度【日本映画/2000年3位】配信期間:2019/1/24~2019/2/23
愛のむきだし【日本映画/2009年4位】配信期間:2019/2/11~2019/2/24
JSA【外国映画/2001年5位】配信期間:2019/1/26~2019/2/25
隠し剣 鬼の爪【日本映画/2004年5位】配信期間:2019/2/15~2019/2/28
道(1954)【外国映画/1957年1位】配信期間:2019/1/29~2019/2/28

血と骨【日本映画/2004年2位】配信期間:2019/2/18~2019/3/3
キャロル【外国映画/2016年2位】配信期間:2019/2/5~2019/3/4
ぐるりのこと。【日本映画/2008年2位】配信期間:2019/2/20~2019/3/5
母べえ【日本映画/2008年7位】配信期間:2019/2/21~2019/3/6
嫌われ松子の一生【日本映画/2006年6位】配信期間:2019/2/21~2019/3/6
マッチポイント【外国映画/2006年10位】配信期間:2019/2/8~2019/3/7
私の男【日本映画/2014年7位】配信期間:2019/2/22~2019/3/7
GO【日本映画/2001年1位】配信期間:2019/2/22~2019/3/7
おみおくりの作法【外国映画/2015年10位】配信期間:2019/2/9~終了日未定
桐島、部活やめるってよ【日本映画/2012年2位】配信期間:2019/2/23~2019/3/8
8 1/2【外国映画/1965年1位】配信期間:2019/2/9~2019/3/8
ハート・ロッカー【外国映画/2010年5位】配信期間:2019/2/23~2019/3/8
イル・ポスティーノ【外国映画/1996年1位】配信期間:2019/2/11~2019/3/10
ミリオンダラー・ベイビー【外国映画/2005年1位】2019/2/11~2019/3/10
小さいおうち【日本映画/2014年6位】配信期間:2019/2/25~2019/3/10
凶悪【日本映画/2013年3位】2019/2/12~2019/3/11
フェリーニのアマルコルド【外国映画/1974年1位】配信期間:2019/2/13~2019/3/12
クライマーズ・ハイ【日本映画/2008年8位】配信期間:2019/2/27~2019/3/12
戦場のピアニスト【外国映画/2003年1位】配信期間:2019/2/14~2019/3/13
ピンポン【日本映画/2002年9位】配信期間:2019/2/14~2019/3/13
ミッドナイト・イン・パリ【外国映画/2012年5位】配信期間:2019/2/15~2019/3/14
<39>刑法第三十九条【日本映画/1999年3位】配信期間:2019/3/1~2019/3/14
野火【日本映画/2015年2位】配信期間:2019/2/16~2019/3/15
クラッシュ(2004)【外国映画/2006年9位】配信期間:2019/2/16~2019/3/15
愛、アムール【外国映画/2013年1位】配信期間:2019/2/17~2019/3/16
ブルージャスミン【外国映画/2014年5位】配信期間:2019/2/23~2019/3/22
レスラー【外国映画/2009年5位】配信期間:2019/2/23~2019/3/22


「おいおい、そんなところでガッカリしてないでさ、こっちきて寿司でも一緒に食べようや」などとオヤジが手招きしています、寿司でも食おうやってアナタね、ここで寿司のほかになに食うつもり? えっ。ほかにったって、ほかなんてねえじゃねえかよ、ここは寿司屋だバカとか思いながら、仕方なく隣に座りました。

そうそう、よくいるじゃないですか、回転寿司の席に座るやいなや店のタブレットを独り占めして、自分の好みの握りをひととおり注文しておいて、あとはオモムロにゆっくりと食べ続けるだけみたいな人。何を隠そう、このオヤジというのが、まさにそのタイプなのです。

しかし、自分などは、あえて注文なんかせずに回ってくる寿司のなかから、自分の好みをチョイスするという(たとえ好みでなくたって、とりあえず目の前にあるもので空腹を満たすという現実容認主義の焼け跡闇市派です)堅実なタイプなので、このオヤジとはどうも波長が合いません。

あちらは、注文した握りがこないうちは手持無沙汰なので、コチラの迷惑も考えず、つまり、コチラは集中して食べたいというのに、そんなことは一切無視して、べらべらと一方的に喋りまくるわ、無理やり同意と返答を要求する無茶ぶりをするわで、落ち着いて食べているような状況じゃありませんし、やがて、オヤジの方に注文のブツが届いてコチラがやっと喋れる段になると、やっこさん、食うのに夢中で、最初のうちは気のない生返事をしていますが、そのうちついに「いま食べてるんだから、うるさいよ!」とぶち切れるという身勝手さです、とてもじゃありませんが、やってられません。

食べ疲れ、話し疲れてゲンナリして黙りこくっている自分の横で相手は活力に満ちて黙々と食べつづけているという実に惨憺たる図柄ですが、しかし、そんな状況でも、自分の話は自然にいつもの「黒澤明のデルス・ウザーラ論」になっていました。

やっと食べ終わったオヤジは、ティッシュで口を拭いながら、

「いままで話をきいているとさ、なんだかんだ言っても、結局オタクは黒澤監督のことが大好きだってことだわな」とバッサリ言われてしまいました。「でもさ、『デルス・ウザーラ』を、なんで『七人の侍』みたいに撮ってくれなかったんだと、いまさら嘆いてみても、そりゃ無理な話だよ」

この黒澤明論、自分が何度も蒸し返すので、もういい加減にしてくれよと言わんばかりのウンザリした顔です。

しかし、そのあとでコチラの気持ちをオモンパカッテか、こう付け加えてくれました。「でもね、その気持ち、大いに分かるよ」

それを契機に、それからのひととき≪あの監督にこそ、こういう作品を撮ってもらいたかった≫という無い物ねだりの空想ファンタジー・ゲームに花が咲きました。

そこで、自分は開口一番、「小津監督に『七人の侍』なんての、どうかね」と。

「おい、またかよ。あり得ねえだろ、もういい加減にしろよ」と、あからさまに嫌な顔をされてしまいました。あり得ないことを、あれこれ空想して楽しもうとしているんだから、いいじゃねえかと思ったりするのですが。

ともかく、それから次々と名匠・巨匠監督の名前をあげて、その監督に「こういうのを撮ってもらいたかったな」という小説とかノンフィクションを次々と挙げつらいながら楽しんだわけですが、そうこうしているうちに、今村昌平監督の名前になったとき、いままでテンション・マックスで声高にワアワア騒いでいたオヤジが、大げさにトーン・ダウンして声を潜め、秘密の重大事でも打ち明けるみたいにこう言いました。

「これはずっと考えていたことなんだけどもさ、今村監督にはぜひ撮って貰いたかった作品ってのがあったんだよ」

相手のペースにつられて、つい自分もひそひそ声になってしまいました、「なにそれ、なになに」

「宮本常一の『土佐源氏』」

「な~んだ、やめてよ、そういうの」

オヤジ、むっとして「なにがよ」と、幾分けわしい顔つきでにらんできました。

「だってさ、それって例の『忘れられた日本人』の宮本常一でしょ。しかもオレ読んだことあるし」

「オタクの読んだのは、高尚でご清潔な岩波文庫版。おれの言ってるのは全然ちがうの」

「えっ、なに、なんなの。早く言えよ、言えってば。言わないかこのタコ」

「まあまあ、そう興奮しないで」となだめるオヤジ。「オタク、相対会って知ってるだろ」

「うんまあ、キンゼイ報告みたいな?」

「あんたね、相対会報告に比べたらキンゼイ報告なんて、ごく「最近」の毛唐の無害な健康診断書みたいなママゴトにすぎないよ。こちとらはずっと歴史があって、もっともっと生々しいんだから。なにしろ1910年代の日本の話だからね。それにその社会的な影響を考えれば、いまでもそこらに出回っている地下出版の春本の原型と基盤(事実、「土佐乞食のいろざんげ」は、「地下発禁文庫シリーズ」(昭和57年)の一冊として刊行されたとのこと)になったという意味では格が違うんだ。オレなんかさ、若いときは『赤い帽子の女』や『田原安江』にはずいぶんとお世話になったもんよ」

「はあ」

「『赤い帽子の女』なんかさ、芥川龍之介が裏の名前で書いたんじゃないかって言われるくらいの名文なんだから。いまどきのガキに比べたら豪儀なもんだよ、なにしろこっちゃあ芥川龍之介センセイの名文でシコシコやってたわけだからヨ」

下品で大胆不敵なその大声に、恐怖と羞恥に縮み上がり、全身の毛という毛が総毛立って、思わず周囲に近所の知ってる人がいないかと、とっさに見回してしまったくらいでした。

「うっもう~、そんな大きな声で・・勘弁してくださいよ」ボケて声量の調節までおかしくなってしまったのかよお、まったく。

オヤジは、そんなリアクションなどお構いなしに、興に乗ってつづけます。

「でね、ちょっとさ、そのタブレット、貸してみなっての」

タブレットをひったくり、パッパッパツと、ある画面を出しました。

「これよ」とオヤジが画面を出したタブレットをもどしてきます。「それが宮本常一の土佐源氏の原型ってやつだよ」

「えっ? みやもとって・・・、さっきのあの話、まだ続いてたの」

「あったりまえだろ、アンタ、いままでなに聞いてたのよ。ちょっとこれ、読んでみ」

タブレットの画面に映し出されていたのは、読書感想文を日記風に綴ったある方のブログで、そこに≪名作・土佐源氏、幻のオリジナル?≫との見出しのページがあり、まず岩波文庫版「忘れられた日本人」の「土佐源氏」冒頭頁の複写が掲げられたあとに、「週刊新潮」(平成15年6月12日号)の数頁にわたる記事の切り抜きが貼ってありました。

記事の総見出しにあたる部分は大きく切り取られていて、判読もなにも手掛かりとなりそうなものなどまったくありませんが、最初の文字が「ポルノ」で始まり、最後が「土佐源氏」で終わっているらしいことくらいはどうにか分かりました。

「それが宮本常一の『土佐源氏』の原型といわれる『土佐乞食のいろざんげ』の一部分らしい」と、さっきのはしゃぎぶりをすっかり失ってしまったオヤジは、なんだか厳粛な低い声でそうつぶやきました。自分がやましくなると、逆に厳粛な顔になる人って世の中にはいますから。

「岩波文庫に収載するときに、差しさわりのある猥褻な個所を自主的に割愛したということだろうな」言下にその「いろざんげ」の書き手も宮本常一自身であることは間違いないと言っているのだなと感じました。

オヤジとの回転寿司店での話は、なんだか尻切れトンボの感じがしましたが、しかし、それでその話は終わりました。

自分は帰宅してすぐに、岩波文庫「忘れられた日本人」を開いて、ブログの「土佐乞食のいろざんげ(週刊新潮・平成15年6月12日号)」との逐語的な照合を試みました。

過激に色っぽい場面のほかは、完全に一致することを確認しました。

そういうことを考えれば、岩波文庫に収載するにあたって、直接的な猥褻な表現の個所を学術的な意味において不要だと判断し割愛したことは、そりゃあ確かにあったと思います。

しかし、そのことと表現の自由がどうのこうのというのとは、また別の次元の問題のような気がしました。

この週刊新潮に掲載された部分を読んで感じることは、読者受けする煽情的で淫らがましい箇所はたしかに積極的に採用・掲載されてはいるけれども、民俗的に貴重な学術的部分は、退屈さを理由に、あえて割愛しているようにも読めました、不自然なくらい話が飛んでいる箇所があり、それは双方がそれぞれに意味の通じない不全な個所を抱え持っているというのが、正直な印象につながっています。

これじゃあ、どこまでいっても同じことではないか、という気がします。

矛盾やリスクを分散して、おのおのがその分野にふさわしい部分だけをもっぱら引き受けて、その結果、お互いがお互いのテリトリーを犯さないようにして自己保身をはかっている、それが共棲するための契約とか取引みたいなご都合主義に見えて仕方ありません。

あらゆる戦時下において市民社会の健全な秩序を守るための口実として公営売春施設を考え出すいかがわしさに通じるような印象をどうしても禁じえないのです。

民俗学の本質は、人畜無害な「土佐源氏」のなかなどにはなくて、おそらく、「土佐乞食のいろざんげ」のなかにこそあるのだろうなということくらいは自分にもかろうじて分かります。



by sentence2307 | 2019-01-20 16:35 | 今村昌平 | Comments(0)

赤い殺意

「毒される」とまでは言いませんが、映画解説書に断定的に書かれている評言というのは、映画を実際に見るうえで邪魔にこそなれ、いままで感心したり共感したりという覚えが全然ありません。

評言で自信満々に語られる「断定口調」というのが、見る者にとっていかに多大な影響を及ぼすか(それを先入観とか固定観念といってもいいかもしれませんが、いずれにしてもそういうものはマイナスに作用するしかありません)ということをつくづく思い知ったのは、今村昌平監督の「赤い殺意」を見たときでした。

ある解説書には、この作品について、こんなふうに書かれていました。

「夫の留守中、強姦された主婦がその男と関わっていく中で、夫の本家を中心とする封建的な「家」の倫理に苦しめられていた妻・貞子が、いつのまにか強い女に成長していく。強盗からの暴行を機縁に、肉体の深部から目覚めた庶民の女が、『性』の悦楽のなかから強靭な存在に成長していくのを今村昌平監督は見事に結実させた秀作である。」

また、別の評文には

「夫の出張中に、押し入った強盗から犯され、その後も執拗に付きまとわれながら、意に添わない性的関係を強要されるうちに、いつしか妻は、それまでの愚鈍で奴隷的な「妻」とは違う、確かな自己存在を自認した「女」として変貌をとげ、男たちを従え、家を支配する女になるという物語である。」

とありました。

このふたつの評文が語るそれぞれのニュアンスには多少の違いはあっても、最後の「強靭な女に成長していく」というあたりは共通しています。

しかし、はたして「そう」でしょうか。

小説の方では、このあたりをどのように描いているのか、いま手元に本がないのですぐに確かめようもありませんが、映画を見る限り、そこまで言い切っていいのだろうかという疑問を持ちました。

自分を強姦したうえ、さらに恋情まで抱いて執拗につきまとってくる男(ストリップ小屋のドラマーです)に対して、その執拗さに危機感をつのらせた妻は、ついに思い余って男を殺害しようと決意し、男の言葉に従うかに見せかけて東京への逃避行を共にします。

しかし、殺害を果たせないままに続けられた逃避行の雪道で、たまたま男が持病の心臓病によって急死し、さらに、ふたりの後を尾行していた夫の情婦(妻の座を狙っている彼女は、妻の浮気現場を捉えようとカメラ片手に必死です)も、思わず撮影に夢中になっているところをダンプカーに轢かれて即死します。

このふたつの事故によって、妻の抱いていた危機感はすべて解消され、物語的には、
「いつしか妻は、それまでの愚鈍で奴隷的な「妻」とは違う、確かな自己存在を自認した「女」として変貌をとげ、男たちを従え、家を支配する女になるという物語」
といってもいい方向に向かっているかに見えますが、しかし、その後、出張から帰ってきた夫が、亡き情婦の撮影したフィルムを妻に示して
「これはお前だろう、一緒に写っている男は誰だ」
と執拗な尋問を続ける場面から、強引に籍を入れることで姑からさんざん嫌味を言われる場面まで、そして、それらを受けて、ちゃっかり(解説氏にすれば、そのように浮かれ気味の表現にしたいに違いありません)本家におさまるという図式には、客観的にみれば、女中上がりの妻がついに本家におさまって積年の恨みを晴らすという晴れやかな印象が伴っても一向におかしくないのに、しかし、このラストに映し出される蚕の世話をする妻の表情には、そのような「明るさ」の気配など微塵も伺うことができません。

なにしろ、この場面の直近には、嫉妬深い夫による相も変わらぬ執拗な尋問と折檻が描かれていて、その次の場面では、意地の悪い姑による差別的な嫌味と侮蔑の言葉責めが描かれているのですから、「本家」におさまったからといって、家族が優しくなり彼女の生活が一挙に改善するという楽観を許すものなど、この画面からは、なにひとつ見い出すことができません。

実は、この暗さはいったいなんだろうという「訝しさ」だけをたよりに、この短文は書き始められました。

鈍重で愚鈍な女中(設定は、きっと食い詰めた貧乏な百姓家の娘かもしれません)が、雇われて看病していた好色なドラ息子に手篭めにされ、妊娠したので仕方なく、一応はカタチだけ「妻」のように扱われながら、しかし籍を入れてもらえるわけでもなく、年がら年中「馬鹿だ間抜けだ」と罵られつづけるという描写が、あの「強姦」の場面の前と後とにカットバックで挿入されています。

そうした状況のすべてを引きずって、たまたま成り行きで本家に入るというだけのことなので、それを「強靭な女に成長していく」と即断するのは、いささか軽薄で、随分無謀な決め付けなのではないかと訝ったのです。

むしろ、彼女にとって、心臓病みのドラマーから「強姦」されるのも、夫からの詰問や「鈍重の間抜け」と蔑まれるのも、姑から「無知」と罵られるのも、すべて同じものだったのではないかと仮定してみました。

妻は、それら強姦男や夫や姑の「働きかけ」のすべてを頑なに否定します、否定し続けて、ついには「ない」ものに捻じ伏せ、彼女の「安定」(にっぽん昆虫記には繰り返しこの言葉が語られています)に組み込んでいくとしても、しかし、はたして彼女は「自由」を得られたのだろうかと感じました。

今村監督の「赤い殺意」を見るたびに、いつもきまって思い出すフレーズがあります。

「強姦されるという衝撃的な経験を経た女が、むしろ逆に強さを獲得して自由になる」という一文です。

長い間、この文章が頭の中に刷り込まれていて、てっきりこの文章は「赤い殺意」を評したものに違いないと思い込んでいました。

いやむしろ、このフレーズは、そのまま、それ以後の時代、「日活ロマンポルノ」の隆盛と凋落に至る時代を象徴するような、日本映画の諸作品が依拠し、あるいは根底から支えた思想的な「標語」でさえあったのではないかと思ってきました。

しかし、あるとき、佐藤忠男の「日本映画史」を読んでいたら、「豚と軍艦」について書かれた箇所でそのままの一文に遭遇し、やっと自分の勘違いに気づきました。

その「豚と軍艦」を受けて「赤い殺意」を論じるに至る箇所には、こんなふうに書かれています。

「強姦された女が逆に強く自由になるというのは前の『豚と軍艦』でも見られたモチーフであり、それは、あるいは、敗戦によって日本文化の純粋性(原文は、傍点です)といった虚妄の観念を外国から力ずくで打破された国民的な経験の逆説的な表明であるかもしれない。」

なるほどなるほど、「強姦されて逆に強く自由になる」というのは、日本という国自体を示してもいたのかと気づかされました。

しかし、この「気づき」を獲得できたからといって、「赤い殺意」という衝撃的な作品の魅力に近づけたかどうか、自分にはどうしてもそうとは思えません。

芸術作品をその時代に結びつけ「理解を高めたり深めたり」するということが、批評の主たる仕事=作業なのだとしたら、むしろ作品の暴力的でアナーキーな魅力を減じてしまうだけにすぎないのではないか、「理解を高めたり深めたり」して無理やり「時代」に定着・固定することの「罪深さ」を、最近実感するようになりました。

こんな気になったのは、むろん自分の天邪鬼によるものもありますが、むしろこの作品が固有にもっている枠に嵌めることのできない暴力的でアナーキーな魅力、「おざなりの理解」を拒絶するものがあるからだろうと思います。

佐藤忠男は、「日本映画史」のなかで、今村監督の「赤い殺意」についてこう記しています。

「戦後の日活から現れた最も重要な監督は今村昌平である。『にっぽん昆虫記』1963で、最下層の農民出身の、無知で恥知らずであるが、それなりのモラルや信仰や向上心を持たないわけではない女の生き方を、昆虫を観察するようなリアリズムで追及して、溝口健二のリアリズムの後継者ともいえる立場を確立した」
と前置きしてから、
「ひきつづき下層社会における“母なる大地”のような女性像の探求をつづけ、次の『赤い殺意』1964で早くもひとつの頂点を極めた」と述べています。

(1964日活)監督脚本・今村昌平、原作・藤原審爾、脚本・長谷部慶治、撮影・姫田真佐久、音楽・黛敏郎、企画・高木雅行、美術・中村公彦、編集・丹治睦夫、録音・神保小四郎、スチール・斎藤耕一、照明・岩木保夫
出演・西村晃(高橋吏一)、春川ますみ(高橋貞子)、赤木蘭子(高橋忠江)、加藤嘉(高橋清三)、北村和夫(高橋清一郎)、橘田良江(高橋波江)、北林谷栄(高橋きぬ)、宮口精二(宮田源次)、露口茂(平岡)、楠侑子(増田義子)、近藤宏(新田)、山之辺潤一(渡辺主任)、北原文枝(狩原久子)、加原武門(質屋の旦那)、糸賀靖雄(田村英二)、小沢昭一(田丸和幸)、殿山泰司(楽士ベレー)、井東柳晴(楽士ギター)、漆沢政子(小使ばあさん)、久松洪介(高屋敷町役場・戸籍係)、三船好重(温泉の女将)、
1964年6月28日公開 日活配給 12巻 4,104m 白黒 ワイド
by sentence2307 | 2014-04-12 15:24 | 今村昌平 | Comments(1)

にっぽん昆虫記

「七人の侍」において、野武士たちに拉致され、ひたすら男たち嬲られ弄ばれる農婦を痛々しく妖しく演じた(あるいは、求められた)女優・島崎雪子の印象を書いて以来、黒澤作品における「女優」の扱われ方について、少しだけ考えてみました。

もともと男たちの物語を力強く濃密に描く黒澤作品ですから、登場場面が限られている女優というだけで否応なく印象に残ってしまうという過重を抱え込む定めにあるのは、あるいは避けられないことだったかもしれません。

問題はその、男の視点から強引に作られていく女性の「印象」の在り方です。

野武士に拉致され、性の奴隷となって粗野な男たちによって辱めを受けた農婦が、逢いに来た夫の救いの手を拒んで、彼の目の前でみずから死を選ぶという設定の、いわば説得度みたいなものでしょうか。

夫に顔向けができないほど穢れた自分は、せめて操をたてて(操を立てるにしては、この自死は遅すぎるような気がしますし、もし夫にあんな形で逢わなければ、果たして彼女は死を選んだだろうかという疑問とか、逆にそういう妻を夫は果たして非難しただろうかという交錯した疑問が縷縷残ってしまいます)潔く死を選ぶという設定でした。

黒澤明が描く誇り高い男たちなら、それこそ「辱めを受けるくらいなら、潔く死を選ぶ」という生き方(死に方)は、ごく真っ当な在り方だったに違いありません。

しかしまた、そういう在り方・ある意味卑弱な倫理観を女性の側、つまり農婦=女優に求めたあたりが、黒澤明という映画監督の限界だったような気もします。

その否定的な視点(死も選ばない、絶望もしない、性交を強いられたくらいのことで、あるいは強姦された程度で汚されたなどとは思わないというしたたかな考え方)を教えてくれたのが、今村昌平作品との出会いでした。

つまり、「にっぽん昆虫記」との出会いだったと言ってもいいかもしれません。

貪欲で狡猾な男たちから、たとえどんな「犯され方」をされるにしろ、そして、体内に精液をたっぷりと注ぎ込まれたにしろ、その男たちの悪意に満ちた毒を取り込んだ女たちは、それこそ、それを栄養に変えてどんどん強くなっていく姿が今村作品には描かれていました。

踏まれても、蹴られても、捻じ伏せられて強姦されても、再び立ち上がって歩き始める、現実に生きる庶民も、きっと「そう」だったに違いありません(今村監督が「逞しさ」と描いた部分が、庶民にしてみれば「死ぬ選択などハナから持たない」という切実なものだったにせよ)。

きっと当時の僕が本当に欲しかったものが、黒澤監督作品のような絵に描いた「理想」などではなく、リアルな「現実」に向かっていく負の活力を欲していた気持ちとぴったりと合致したからだと思います。

そんな気持ちで、久しぶりに見返したこの「にっぽん昆虫記」でした。

今村監督が、かつて松竹の助監督から、その映画人生のスタートを切ったとはいえ、作品から「松竹らしさ」を見つけ出すことは、とても困難なことだと思っていました。

今村作品は、どこから見てもコテコテの日活作品に間違いありません。

どの時代に撮られたどの作品も、しっかりとした「日活作品」です。そう思い続けてきましたし、いまでもその気持ちは変わっていません。

知識としてなら、松竹時代に助監督として「麦秋」、「お茶漬の味」、「東京物語」についたということを知っている程度で、そのことの影響を今村作品のなかに感じることは、たとえ「きざし」といえども有り得ないと感じてきました。

作風が天と地ほども異なる今村昌平と小津安二郎です、どうこじつけても、それらの作品に松竹色や小津調の影響・共通性をみつけることは、到底考えられないこととずっと感じ続けてきました。

しかし、今回この「にっぽん昆虫記」を見直していて、家族から馬鹿にされる知恵遅れの父親に向けられた娘・左幸子の、愛情溢れる憐憫の思いが、これほどまでに濃厚に描かれていたのかと、ちょっと意外でした。

以前見たときは、きっと近親相姦的な印象が強烈過ぎて(子供の頃、お風呂屋さんの脱衣場に張ってあったポスターは、父親に胸を吸わせている左幸子の半裸の衝撃的な写真が使われていたので正視できなかったことをいまでも覚えています。)、その「父と娘」の関係の部分まで注意がいかなかったのかもしれません。

そして、もしかすると、この作品は、今村昌平にとっての「晩春」なのではないかという突然の思いつきに、雷に打たれるような思いがしました。

中小企業の社長の妾になり、一方では悪辣なコールガールの元締めに上り詰める左幸子の吐く印象的な言葉に「わたし、安定したいの」というのがあります。

どこへ行っても、どのようにもがいても、決して「安定」などできない彼女の帰る場所が、結局は父親の元にしかないことが、今回この作品を見てよく分かりました。

この作品「にっぽん昆虫記」は、今村昌平にとっての「晩春」なのだ、そうに違いないと思い始めています。

(63日活)監督脚本・今村昌平、脚本・長谷部慶次、企画・大塚和、友田二郎、撮影・姫田真佐久、音楽・黛敏郎、美術・中村公彦、編集・丹治睦夫、録音・古山恒夫、スクリプター・斎藤耕一、照明・岩木保夫、
出演・左幸子、岸輝子、佐々木すみ江、北村和夫、小池朝雄、相沢ケイ子、吉村実子、北林谷栄、桑山正一、露口茂、東恵美子、平田大三郎、長門裕之、春川ますみ、殿山泰司、榎木兵衛、高緒弘志、渡辺節子、川口道江、澄川透、阪井幸一朗、河津清三郎、柴田新三、青木富夫、高品格、久米明
by sentence2307 | 2008-02-28 22:54 | 今村昌平 | Comments(1)

人間蒸発

かなり以前、あるひとつの疑問に囚われたことがありました。

今村昌平の「人間蒸発」は、はたしてドキュメンタリーなのだろうか、それともフィクションとして分類されているのだろうかと。

そんな疑問を抱いた当時に、もしインターネットというものがあったら、早速検索していたに違いありませんが、しかし、その当時でも、きっと自分が抱いた疑問に満足のいくような回答を与えてくれたとは思えない、いまと同じように、きっと失望したと思います。

最近、とみに痛感するのですが、「ネット」は、本当に僕の疑問に答えてくれたことがないのです。

教えてくれるのは、せいぜい「あらすじ」程度のものでしかありません。

この今村作品は、とても挑発的な作品です。

勘繰れば、被写体の出演者たちが、この映画が作られたとき、プライバシーの侵害や名誉毀損で騒いだということさえ、仕組んだ「やらせ」の一部だったのではないかと疑いたくなるくらいです。

それを裏付ける証言も2、3残されていると聞いたことがありました。

「あの母親とかいうのは、実は、新宿の飲み屋のおばさんだぞ」とか「オトトヤの兄ちゃんは、れっきとした俳優なんだぞ」とか。

それにこの作品が作られた当時、テレビを通して失踪者を探す番組が矢鱈に流行していたそうです。

そういう「風潮」を巧みに捉え、シチュエーションだけを拝借して、今村昌平はまんまと、アクの強い作品を「ドキュメンタリー」と称して作ったのではないかと勘繰りたくもなります。

いままで、なんとなくこの作品に近寄り難かったのは、まさにその「事実らしき横顔」をこの作品が持って身構えていたからかもしれません。

しかし、「ドキュメンタリー」という障碍がなくなり、純粋に仕組まれた今村作品だとするならば、かなり楽な気持ちでこの作品にアプローチできるような気がしてきました。

現代から見ると(テレビが煽り立てていた当時にあっては、それほどの違和感はなかったと思いますが)失踪した婚約者を探す早川佳江という女の設定は、少し強引すぎるような気がします。

自分の婚約者が、いったいどんな理由で自分の前から姿を消したのかと考えれば、きっとそこには自分を傷つけずにはおかないような知りたくもないことが潜んでいるに違いない、それは少なくとも「いいことのはずがない」と想像するのはきわめて普通のことかもしれません。

その想像=恐怖感が、あえて探そうとする気持ちを頓挫させたとしても、それほど不思議な気がしません。

しかし、早川佳江は気丈にも「失踪した婚約者」を探して回ります。

探し回るうちに、次第に撮影の同伴者・俳優露口茂に心を動かしたり、あるいはまた、姉が自分の婚約者と肉体関係を持っていたのではないかと疑念を持ち始め、幼い頃から確執し続け、反発してきた「ふしだらな姉」に対して「真実」を明かすように声を荒げて早川佳江は姉に詰め寄ったりします。

男を引き寄せずにはおかない姉の不潔な媚は、同時に人間的な魅力でもあることを十分に知っている早川佳江とって、男から避けられてばかりの自分の不器用さが呪わしく、悔し泣きする姿もこの映画は捉えています。

しかし、こうして映画のさきゆきが奇妙な捻れをみせ始めたところで、この「ドキュメンタリー」作品は、唐突に終わってしまいます。

この映画を通して見れば、まるで、妹の婚約者と肉体関係ができてしまった姉が、思いあまって彼を殺し、密かに死体を始末してしまったかのような悪意に満ちた印象を受けざるを得ません。

そして、その悪意の影は、したたかに言い逃れきる姉を最後まで覆いつくし、次第に悪魔のような不適ささえ見せてしまうくらいです。

この結末は、はたして、単に「煮詰まってしまった」だけの結末だったのでしょうか。

僕は最初、失踪した婚約者を探す早川佳江という女の設定は、少し強引すぎるような気がすると書きました。

しかし、あれは単なる「強引さ」だけではなかったのかもしれないと思えてきました。

すべてを知らなければ気がすまない女だからこそ、知らなければそれですんでいたかもしれない過酷な人生の寄り道に足を踏み入れ、そのために無残にも無意味に傷つき、そのように自ら「不運」を呼び込んでしまう結果になってしまっても、しかし、今村昌平が描く女たちは、そして早川佳江もまた、過酷な境遇にめそめそと押し潰されるような女などでは決してなく、肉親であろうと他人であろうと、掴み掛かっていって、あらゆる不条理さえも自分のものにしてしまう負の活力を漲らせている、そういう女を今村監督は描きたかったのだという気がしてきました。

この作品のなかで取り交わされる言葉のひとつひとつが耳に残ってどうしても消えません。

消えないのならば、せめてその言葉の赤裸々な響きにしばらくは身を委ねていようかと思っています。

「どう解釈したらいいのって、私、大島さんじゃないから分からないけど、私は会ったことないわよ。本当、心外よ。そういうこと言われるっていうの。」

妹をはじめ(妹だからなのか)いかなる他人の追及も頑として撥ねつけ拒み続ける早川サヨの否定に次ぐ否定の強靭さのなか、かつて己がカラダをひさいで底辺の社会を生き抜いてきたきらりと光る早川サヨのしたたかさに、今村昌平は、もしかすると却って心引かれ、すっかり魅せられてしまったのではないかと思えてしまうくらいです。

「どうとったらいいのって、覚えがないもの。・・・だけど、私覚えがないもの。・・・全然ない。・・・そんな覚えがないもの!・・・ないないないないないないいない」


(67製作・今村プロダクション、ATG、日本映画新社)監督企画・今村昌平、撮影・石黒健治、音楽・黛敏郎、録音・武重邦夫、編集・丹治睦夫、協力・浦山桐郎
出演・早川佳江、早川サヨ、露口茂
1967.6.25白黒/スタンダード/35mm/130分
by sentence2307 | 2007-08-03 22:57 | 今村昌平 | Comments(262)
「エロ」という言葉が持っていたしたたかな反社会性が、いまではもうすっかり失われてしまっているとしても、なにも驚くほどのことではないのかもしれません。

かつては裏の社会で使われていたはずのスラングの多くが、いまではすっかり市民権を獲得し、日常の場でごく普通に使い廻されていることを思えば、いかなる「言葉」も、その運命付けられているイメージの寿命みたいなものから逃れることが出来ないのかもしれません。

どんなに過激な言葉も、人々の間で使われていくうちに商品として「エロ可愛い」的に流通し、生活のなかにどんどん取り込まれることで衝撃性が薄まり、結局単なる「記号」に貶められる運命にあるからでしょうか。

しかし、たとえかつてはタイトルを口にするのさえ憚られたこの作品「エロ事師」という言葉自体の衝撃性が、そのように薄められたとしても、この映画が描いている「淫」の世界にひたすらに下降し続けようとする反社会的な姿勢、「スブやん」という人物が有している社会への同化を頑なに拒んでひたすら下降し続けようとする生き様の方は、いかに包容力に富むしたたかで寛容な「市民社会」といえども取り込み不能であることは、この作品がいまだ社会に対して一線を画しながら、その衝撃性を保ち続けていることでもよく理解できます。

それがつまり、「『エロ事師たち』より 人類学入門」が、あらゆる時代にたいして、いまだ、そして常に時限爆弾であり得ている理由だと思います。

初期の今村作品を川島雄三作品の影響下で作られたものという解釈で論じている小文を幾つか読んだことがありますが、川島雄三と今村作品との決定的に違いは、破滅性の欠如だと思います。

今村作品のなかから「さよならだけが人生だ」という突き放すような虚無感を探し出すことは、とても困難な作業です。

また一方、あるサイトでこの「『エロ事師たち』より 人類学入門」の感想を読んでいたら、ブルーフィルムの撮影方法を一生懸命論じている感想にぶつかりました。

《8ミリは基本的に複製が出来ないので、販売用のフィルムを作るときは最初から複数台のカメラを連結して撮影する。小型の8ミリカメラを横に8台連結させたものを2組用意し、撮影現場では二人の人間が同時にカメラを回すのだ。》とかなんとか、

これって、そういう映画だったのかとちょっと驚きました。

そのほか、「エロ事師とは、」から始まって「エロ本、エロ写真、エロテープ、エロ8ミリの製作販売から、売春の斡旋、乱交パーティーの主催に至る、ありとあらゆるセックスビジネス」の内容を微に入り細に亘り滔々と並び立てている批評もありました。

この作品が「そういう」ことを描いている作品なのか首を傾げてしまいました。

「スブやん」が手掛けている仕事は、男たちが抱く妄想の、つまりエロ本、エロ写真、エロテープ、エロ8ミリに託した「性欲」を煽り立てるための具現化=つまり道具づくりです。

言い換えれば、多くの人々が晴れがましい市民社会で「常識的」に生きていく自己欺瞞のために抑圧しなければならない「性欲」の補填物として求められているモロモロの小物です。

「スブやん」は、数々のエロい小物の製作を極めていく過程で人間の補填物としての「そのこと」に気づき始めます。

エロ事をどこまでも誠実に極めていこうとする「スブやん」の姿勢を支えているものは、性欲に対して誠実であるに違いない人間たちが、常に自分とその仕事を求めているに違いないという思いです。

そこには、人間に対する無防備で手放しの、頼りない一方的な信頼があるだけです。

だから、そこには性欲の抑圧を認めないまま不誠実に生きている人間たちへの想定外の欺瞞の裏切りにあって孤立するしかない「スブやん」の追い詰められた孤独な姿が描かれてもいるのだと思います。

しかし、このような絶望的な状況に追い込まれていく「スブやん」は、破滅するわけでも自殺するわけでもありません。

ひたすら下降し続けながらも、しかし、川島作品で見られる破滅や自殺を結論付けないという部分が、今村作品と川島作品の決定的な違いだと考えています。

(66今村プロ・日活)企画・友田二郎、監督脚本・今村昌平、脚本・沼田幸二、原作・野坂昭如、撮影・姫田真佐久、音楽・黛敏郎、美術・高田一郎、編集・丹治睦夫、録音・紅谷愃一、スクリプター・荻野昇、照明・岩木保夫、
出演・小沢昭一、坂本スミ子、近藤正臣、佐川啓子、田中春男、中野伸逸、菅井一郎、園佳也子、木下サヨ子、菅井きん、北村和夫、浜村純、中村鴈治郎、榎木兵衛、西村貞子、桜井詢子、殿山泰司、ミヤコ蝶々、甲田啓子、西岡慶子、小倉徳七、玉村駿太郎、福山博寿、福地登茂、西村晃、島米八、佐藤蛾次郎、加藤武、須藤圭子
1966.03.12 11巻 3,503m 白黒 ワイド
キネマ旬報主演男優賞(小沢昭一)、毎日映画コンクール男優主演賞(小沢昭一)、毎日映画コンクール女優主演賞(坂本スミ子)
by sentence2307 | 2007-02-03 09:29 | 今村昌平 | Comments(0)

復讐するは我にあり

榎津厳は少年時代、目の前で軍人から暴力によって屈服させられる父親の姿を見て、この社会で生きていくことの偽善と屈辱の意味を知ります。

右の頬を打たれれば、さらに左の頬を差し出すという強権を前にしたその卑屈さの影で、従順を装う者たちの狡猾と卑劣を見抜いてしまう彼は、その負け犬の傲慢さに抑えがたい憤怒を煮えたぎらせて、やがて社会に対する憎悪と殺意を育て上げていくこととなりますが、その憎悪が、ただ父親ひとりに焦点が絞られていくラストで、この作品の最も重要なテーマが浮き彫りにされていきます。

日本国中を経巡り「善良な市民」を手当たり次第に殺しまくった榎津が、最初に殺さねばならなかった人物こそ、まさに父親だったのだと仄めかされる執拗さは、今村昌平がこれまで一貫して描き続けてきた、嫌悪をもって戦後日本を見据えたその否定的の視点と同じ種類のものであることに気付かされます。

この連続殺人鬼・榎津を語り尽くそうとする今村昌平の意図には、意外にも不思議な共感の語調があって驚かされるのです。

結果的に榎津は、ゆきずりの卑力な庶民を殺しまわることしかできませんでしたが、この映画を支配する全体的なトーンは、贖罪感よりもむしろ父親を殺し得なかったことに対する彼の無念さの方に重点が置かれていて、僕たちもまた榎津の殺人に共感し、加担させられてしまっているような違和感を感じ唖然としてしまうかもしれません。

榎津が向ける敵意と殺意が、「もっと向こう」を見据えながら、「今ここでしか」為し得ない閉塞状況にあることは、例えば、馴染んだ浜松の情婦が榎津の目の前で彼女の旦那に陵辱されても、彼はなんの手出しもできないまま傍観しているシーンとか、あるいは、最も憎悪のヤイバを向けるべき人間に対して、なんの為すすべもなく、むしろ身近の自分に好意的な隣人を殺して廻るという数々のシーンによっても明らかです。

どえらいエネルギーを抱えもち、日本中を騙し回り、荒らし回り、そして殺し回ったひとりの男を、今村昌平は、単にこの男の残忍さ、冷酷さ、狡猾さ、下劣さだけを感情移入を極力抑え卑劣な犯罪者の生き様を容赦なく描くことに徹します。

どす黒い感情の総てを抱え持ちながら、ただ「生きていく」方向にしか疾走するしかない人間のどうしようもない活力、悪とも正義とも区分けすることなどもとより不能な生命力というものの実体を暴こうとすることで彼の人間性に迫ろうとします。

思えば今村昌平ほど生命力を肯定的に描いた映像作家は日本映画史上稀有なのではないでしょうか。

日本の底辺社会にあって貧しさの中でその熱い欲望に焼かれながら、のたうち回り、そしてたとえ破滅の淵まで追い詰められようが、彼の映画には、あのお上品な自己嫌悪などという知識病に罹る人間などかつてひとりも登場したことがありませんでした。

どのような生き方をするにしろ、生きていくこと自体が善なのです。

どのような生い立ちの中で、どのように歪み捻じくれた生き方しかできなかったとしても、例えば榎津厳がそうであるように、その歪んで捻くれたまま、とにかくおのれを真っ直ぐに伸ばして生きていくことの人間の純粋さを、今村昌平は、そこに見据えていたのだと思います。

その絶対的に自分自身であろうとする生命力の炸裂が、あるいは、数々の犯罪や凶行に結び付いたとしても、それにしても人間とは、なんと執拗に自由であろうとする動物なのだろうか、という今村昌平の感慨をこの作品から聞かないわけにはいきません。

醜悪な父親への憎悪が、「人間」から榎津を遠く分け隔て、徹底的に孤立させ、しかし、そのたったひとりきりの異様な生存の「あかし」のような数々の凶行が、榎津を少しずつではあっても、人間らしくしたのかという悲しい皮肉を僕たちはこの作品のラストで見ることになるかもしれません。
by sentence2307 | 2004-11-14 15:00 | 今村昌平 | Comments(0)

赤い橋の下のぬるい水

大変申し訳ないのですが、僕はこの映画を見ている間中、あのフーテンの寅のバイの口上をずっと考えていました。

「ケッコー毛だらけ、ネコ灰だらけ、お尻の周りはクソだらけ」とか「オワイ屋の火事じゃないけどヤケクソだよ」という例のアレです。

あの口上のなかでどうしても耳について離れないひとつのフレーズがありました。

「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、イキなねえちゃん立ちションベン」という口上なのですが、つい、その衝撃的な光景をイメージしてしまい、どうしても聞き流すことができませんでした。

そんな不可能なこと、「ウソだろう」という気持ちの中に、全否定できない微かな妄想もあってのコダワリだったかもしれません。

そして、遂に出会いました、ポルトガル映画「階段通りの人々」という作品です。

その冒頭、この貧民街に暮らす娼婦が立ったまま道端で「ナニ」をするシーンを見てしまったのです。

何やら色づいてさえ見える水流まで映し出されていました。

自分の全くの認識不足でした、「それ」は女性にとって不可能なことなのではなく、ただ、しなかっただけなのだということが分かりました。

誤解されると困るのですが、このとき、異性を認識するに際し、彼女たちが「しないでいる」ことと「できない」ことの性差を認識する力を自分が欠いていること、を知りました。

そして、次に出会ったのが、この「赤い橋の下のぬるい水」のスーパーでチーズを万引きするサエコの足元に水溜りが広がっている場面でした。

寅次郎の「イキなねえちゃん」のイメージがまずあり、それから「階段通りの人々」の一場面が思い浮かびました。

久々に今村昌平のイメージの飛躍を目の当たりにする衝撃の予感に酔いました。

「楢山節考」で、倍賞美津子の開脚された股ぐらを覗き込み「観音様」を拝んでいた小沢昭一のあの衝撃的な姿以来でしょうか。

いやいや、畑の脇で義父の北村和夫に乳を吸い出してもらうために胸を肌ける「にっぽん昆虫記」の左幸子以来かもしれません。

今村作品の、素手で突然殴りかかってくるような数々の衝撃的な場面を見てきた僕たちが、この場面に対し、咄嗟にそう思い込んだとしても、それは無理からぬことだったと思います。

しかし、残念ながら、それは「ションベン」ではなく、「水」でした。

つまり、排泄ブツと、愛の行為のタマモノ程の違いなのですが、しかし、これは「くそリアリズム」と「メロドラマ」程の大きな違いです。

あるサイトで、この映画を全然いやらしく感じなかったとか、笹野が最後は純粋の愛に目覚めて感動した、といったタグイの感想が多いのに唖然としました。

「排泄ブツ」が「愛の行為のタマモノ」では、確かにそういう感想があって然るべきだったかもしれませんが、しかし、淫靡であっては何故いけないのか、欲情を煽るだけの「いやらしさ」が否定されるタテマエ(愛のフィルター)で映画が評されることを最も嫌悪していたのは今村昌平自身だったのではないかと認識していた僕には、とても残念です。

今村監督、あなたは「愛」なんか全然信用してなかった根っからの「どスケベ」なんでしょう? 僕は、そんなあなたのリアリズムがたまらなく大好きでした。
「まじめ」だったのかどうか、ということなら、僕は「そうじゃない」と考えています。

今村監督が描こうとしている「不まじめ」な性とは、つきつめれば、日常の中で飼い馴らされていない「性」ということだと思いますし、それはきっと、まっすぐに人間の生命力に直接つながっていくものでもありますよね。

ただ、日常から見る「性」は、安定と秩序を重んじる市民社会にとっては、ひとたびのめり込めば破滅さえしかねない途轍もなく危険な代物で、だから規制と管理が必要なのだというのが規範や「性教育」の存在理由なのだろうと思います。

しかし、一方で「性」をねじ伏せられることが、「生命力」をねじ伏せられることと感じる人もいるかもしれない、というメッセージが一時期の今村監督作品だったと僕は認識しています。

例えば、「『エロ事師たち』より人類学入門」は、まさに「そう」だとしても、「赤い橋の下のぬるい水」が、はたして「そう」なのかどうかは、ちょっと断言する自信がありません。

それは、今村昌平監督を、大監督などになってはいけない反対側に位置する映画作家だと思い込んでいた僕の正直な戸惑いだったんだなと今にして感じています。
by sentence2307 | 2004-11-08 23:22 | 今村昌平 | Comments(0)