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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ジュゼッペ・トルナトーレ( 3 )

先日、若手のA君が風邪をひいて急に欠勤したので、A君が担当している得意先回りを急遽中堅のB君に頼んで回ってもらったことをすっかり忘れていました。

もし、雑談の中で復帰したA君が、そのことに触れなければ、おそらくずっと思い出さずにいたかもしれません。

常日頃、外回りで疲れて帰ってくる営業には、努めて慰労の言葉を掛けるように話しており、また自分でも声掛けを励行している手前、こんなポカをやらかすと、どうも気になってしかたがないのです。

B君は、35歳を少し超えた独身で、仕事に取り組む一生懸命さは伝わってくるのですが、リキが入りすぎて空回りしてしまう、どちらかというと営業マンには向かないタイプかもしれません。

とても誠実ですが、お得意さんの出方次第で臨機応変に対応していかなければならない融通性も要求される営業マンにとって、行き過ぎた誠実さは、ただの邪魔でしかない場合もあります。

そんなわけで「誠実さ」にこだわって泥沼にはまり、逆にお客さんとトラブって、にっちもさっちもいかなくなってしまうそういう彼が、ただ鬱陶しく感じる局面もでてきたりして、「確かにそうなんだけれどもさ」なんて、頑なな彼を説得しなければならないことも、たまにはあります。

営業という仕事には、「誠実」というレッテルは必要かもしれませんが、「本物」などを持ち出されたら、まるっきり仕事にならない部分もありますしね。

会社内でのこんなギスギスした利害関係だけの結びつきではなく、どこかの「趣味の会」ででも知り合えていたら、もっといい関係が作り出せたかも知れないなと思うことがよくあります。

そんなシャイで大人しく目立たないB君です。

さて、彼に余計な仕事をしてもらったうえに知らん顔をしてしまったお詫びと、遅ればせながらの感謝の意味もあって、帰りに駅前の飲み屋に誘いました。

「悪かったねえ~。別に忘れていたわけじゃなかったんだけどね。(実は、しっかり忘れていたのですが)まあ一杯いこう。」

長年の付き合いですから、彼の趣味や好みは散々聞いて十分に知っているので、お互いに「何をいまさら」という気持ちが強いためか、もうひとつ話が盛り上がりません。

こんなときは、早く切り上げるに限るなんてぼんやり考えながら、何気なく「慣れない場所で迷っただろう?」と社交辞令で聞くと、少し酔い始めたB君から意外な答えが返ってきました。

あの地域は彼が中学まで過ごした生まれ育った場所だというのです。彼は訥々と話し始めました。

《仕事で来たのですから、最初は用が済んだらさっさと帰ろうと思っていたのですが、駅前の商店街をゆっくり歩いているうちに、そこで過ごした子供時代から思春期までの当時の自分が鮮やかに甦り、懐かしさにたまらない気持ちになって、遠い記憶を辿りながら方々を歩き回りました。

自宅(いまは、小さなマンションが建っています)から小学校への道など、当時はとても長い距離に感じていたのが嘘のような近さです。

記憶の中でイメージしていた子供の頃の「広大な世界」が、こんなにも狭いみすぼらしい場所だったのかとひとつひとつ確かめてしまったことが、きっと懐かしさを失望に変えて自分を滅入らせることになってしまったのでしょうか。

でも、懐かしい誰かに会えば、きっと気も晴れるかと思い歩き続けたのですが、一向に知った顔に会うことはありませんでした。

歩いていた道は、中学校への通学路だった道です。

そのとき不意に、当時毎日連れ立って一緒に帰った「彼女」のことを鮮明に思い出しました。

毎日毎日いろいろなことを二人で話しました。

教師の悪口、将来の夢、好きなタレントのこと、それとなく聞き出す関心のある異性の噂話、妊娠して退学した同級生のこととか、いま思えば、誰かとあれほど多くの会話を交わした記憶がないくらい彼女とは、とても多くのことを話しました。

彼女は、ある事情から高校進学を諦めて近くのデパートに就職し、自分は、その地域では一応名前の知れた進学校に進みました。

卒業してから幾度か会いましたが、もう二人の間には共通の話題がないことが、すぐに分かりました。

働いている彼女の話すことがたまらなく低俗に聞こえて、どうしても話を合わせることができず、気まずい沈黙が幾度かあって、いつの間にか会うこともなくなりました。

僕がその土地から引っ越したことも、会えない理由にするのには好都合だったのかもしれません。

そして今まで、それらのことを悔恨めいて思い出すことなど一度としてなかったのですが、こうして彼女とたどった通学路を歩いているうちに、彼女の可愛らしい仕草や舌足らずな喋り方が鮮明に思い出され、どうしようもなく彼女に会いたくなりました。

その時の気持ちは、なんだかいちばん大切なことを伝えていなかったことに気が付いたみたいなそんな気分です。

彼女の家はよく知っています。しかし、その場所は小さな駐車場に変わっていました。

探そうと思えば探せたのでしょうが、怖くてそこまで出来ませんでした。

彼女の方にその気があれば、今迄だって連絡出来たわけですしね。》

彼の話は、これで終わりました。

文章にすると、B君が、なんだか滅茶苦茶落ち込んで喋った感じを受けるかもしれませんが、別段そういった感じはなく、むしろ、営業報告をするみたいに淡々と話しただけです。

報告を受ける僕の方も「その場所には、君がかつて思春期を過ごしたことを証し立てるものが、なにひとつ残っていなかったと、こういうわけだったんだね。」くらいにまとめることさえ不自然ではない雰囲気だったと思います。

前置きが長くなってしまいました。

不謹慎かもしれませんが、僕は、こんなふうに人から聞いた心動かされた話に映画のタイトルをつけてしまう妙な性癖があります。

まあ、「映画おたく」が進化した変種と笑っていただいて結構なのですが、帰りの電車のなかで、この話に相応しいタイトルをずっと考えていました。

きっと、B君は、この現実に失望し深い喪失感を抱えたまま身動きできずにいた時に、偶然過去へつづく入り口に出会い、楽しかった記憶を懐かしんで、その懐かしい土地をさまよったに違いありません。

結果的には、あまり芳しいものではありませんでしたが。

思い浮かんだタイトルは、ふたつ。

標記のタイトル「ニュー・シネマ・パラダイス」のほかに、実のところ「異人たちとの夏」でもよかったかなと迷いましたが、B君の話に救いがなかった分、どうしても救いのあるファンタジーの要素のある作品を選択したかったというのが本音です。
by sentence2307 | 2006-05-04 11:39 | ジュゼッペ・トルナトーレ | Comments(0)

明日を夢見て

トルナトーレが、シチリアという土地に対して、はたしてどういう感情を持っているのか、「ニュー・シネマ・パラダイス」を見ただけでは、もうひとつ判断がつきません。

ここに描かれている望郷とか懐古という思いの込められた甘美な回想は、しかし、それらを一層美しいものに飾り立ててしまうに違いない故郷を捨てた者の後ろめたさがそうさせているのでしょうから、ただセンチメンタルな部分だけを強調してしまうと、何かトルナトーレの言いたいことの半分しか理解できてないような、著しくバランスを欠いた過ちを犯している気がして仕方がないのです。

故郷を捨てたサルバトーレは、アルフレードの死の知らせがなければ依然として島に帰ることはなかったでしょうし。

しかし、そこにあるシチリアを疎ましく思う気持ちの正体が、ただ単に恐れとか嫌悪という、そうした感情だけのものなのか、どうしても確信がもてません。

それは、この「明日を夢見て」を見るよりも先に「海の上のピアニスト」や「マレーナ」を見てしまったこととも大きく関係していると思います。

「マレーナ」を「ニュー・シネマ・パラダイス」の延長線上に置いて見るべきではないとは思いながらも、この「マレーナ」からうかがわれるシチリアの土地と人は、きわめて絶望的な気持ちにさせられてしまうシビアで閉鎖的ないやらしい面だけが強調されているように見て取れます。

これがトルナトーレが言いたかったことだったのでしょうか。

戦争で夫を失った(と思いこんだ)マレーナが、人目を惹くほどの豊満な姿態を持っていたために男たちに付きまとわれ、言い寄られ、追い詰められて、果ては娼婦にまで堕ち、終戦のとき商売柄ナチス協力者として暴行を受けて屈辱的に町を追われる、という救いのないなんとも陰惨な結末でした。

マレーナのどこが悪くて、このような目に遭わなければならないのか、そしてまた、彼女は、なぜ再びこの土地に舞い戻ってきたのか、かつて彼女を迫害したシチリアの女たちが一切の謝罪なしに彼女を受け入れる素振りを見せていることも、僕には不可解でした。

この話からは、トルナトーレがシチリアの土地と人とをどのように考えているのかまったく混乱させられてしまいます。

もし「明日を夢見て」を最初に見ていたら、この「マレーナ」、もう少し違った印象を持ったかもしれませんね。

コテコテのイタリア男のくせにジョーとかいう胡散臭いアメリカ名前を名乗ってケバい車でシチリアの村々をまわり、映画界での成功をエサに、中古のカメラによって使用済みフィルムを廻しながら貧しい人々に偽りのオーディションを受けさせ、そしてオーディション費用を騙し取るという詐欺師の物語「明日を夢見て」は、そのシチュエイションの素晴らしさに、まずは感嘆しました。

次々とファインダーに向かって語りかけてくる村人のどの表情も活き活きとして味わい深く、それがほとんど瞬間的なものにすぎなくとも、そのショットからは、彼らのそれぞれの人生観が十全に語られ、またその人生そのものも余すところなく鮮やかに描きつくされた素晴らしいシーンの数々でした。

このカメラのファインダーに写されたオーディションを受けた人々は、ほとんどが職業俳優だったのだろうと思いますが、僕がもっとも感動したのは、きっとそのうちに幾人かいたに違いないズブの素人たちに対してだったろうなという確信みたいなものがありました。

しばしば人を感動させることができるのは、訓練された職業俳優よりもズブの素人の存在感だったりする場合も往々にしてあるでしょう? それなのです。

まあ、誰がそうだという確信はないので特定することができないのが、とても残念なのですが。

そういえば、似たような感想をフェリーニ作品を見たときに抱いたことがありました。

フェリーニが、すぐれて個性的な素人を発掘して、その特徴ある外見や容貌によって登場人物の存在感をドラマチックに際立たせることに成功したように、トルナトーレは、そういう形でシチリアの人と風土を描こうとしたのではないでしょうか。

ボキャブラリイに乏しい自分には、あの「マレーナ」を迫害したシチリアの土地柄・気風みたいなものを言い表す言葉として、せいぜいのところ頑迷とか固陋とかという言葉を思い浮かばせるしかできませんが、その言葉が独自にもっている否定的なニュアンスを、トルナトーレは肯定的に考えようとしているのではないかと思えてきました。

シチリアの否定的な面をすべて吐露しつくしたあとで、その上でそれでもシチリアを愛していることを語り出そうとしているトルナトーレがなんとなく見えてきたように思えてきました。

そして、この作品は、フェリーニの「道」との共通点が随所にうかがえる作品です。

おそらく、この作品、フェリーニの「道」へのオマージュなのだろうなと思えてきました。
by sentence2307 | 2004-11-15 21:47 | ジュゼッペ・トルナトーレ | Comments(0)
この映画のラスト・シーンのあの物凄い感動は、いまでも忘れられません。

フィリップ・ノワレ演ずる映写技師アルフレードの映画に対する思いも含めて、失われたものに対する深い愛情が、このラストのキス・シーンだけをつないだフィルムの中に込められていました。

確かあれは、村の神父が、上映される映画の中でなされるキス・シーンなどの「不道徳な場面」だけをカットして集めたフィルムでしたよね。

現実では、なにもかも失われてしまっているのに、映画の中には、生き生きと存在しているものへの熱い郷愁が、その映画を見ていたまだ子供だった自分たちをも含めて、あのような愛の場面で表現されることの驚きと感動は、ジュゼッペ・トルナトーレ自身の映画への深い思い入れをも含めて、きっといつまでも忘れないことでしょう。

実は、僕も最近、似たような経験をしたのです。

ある映画をビデオで見ていた時のことなのですが、その映画のENDマークの後に、以前録画した別の映画のラスト・シーンが写っていたのです。

重ね録りをし続けているテープなので、そのラスト・シーンの次に、更にまた別のラスト・シーンが、というふうに次々ラスト・シーンだけが映し出されてきたのでした。

恋人たちの涙の抱擁があり、荒廃した戦場に呆然と立ち尽くす兵士あり、失った青春を回顧する孤独な老人ありで、これは思ったより、ひどく疲れる経験でした。

たとえ、優れたアイデアのもとで、情感たっぷりのラスト・シーンがあったとしても、やはり、それだけでは、なにものでもないのだなということがよく分かりました。
by sentence2307 | 2004-11-13 09:12 | ジュゼッペ・トルナトーレ | Comments(0)