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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:マイケル・ムーア( 5 )


その辺で拾った素材集

インタビュー:「あなたは、小学生がクラスメートを射殺する現場にいた女教師が悲しみのあまり言葉に詰まらせた時、彼女を抱きしめましたが、報道はもっと客観的であるべきではないですか?」という質問に
「じゃあ、彼女を黙って見てろってのか?」ムーアは訊き返した。

「僕はレポーターじゃない。
ニュースを読み上げるだけのTVキャスターとも違う。
僕は何よりもまず人間だ。
目の前で教え子を殺された記憶に思わず胸ふさがれて絶句する女性教師をただ冷酷に見ているだけなのがジャーナリストのあるべき姿だってのなら僕は失格だ。
しかし、僕はマシーンなんかじゃない、血の通った人間だ。
見ていられなくて、とっさに彼女を抱きしめずにはいられなかった。
それを撮影して映画に使うべきではない、という人もいるだろうけど、しかし同時に僕は映画作家なんだ。
作品に自分の思いを込めるのは当然だろう。
言いたいことを言うのは当たり前じゃないか。
それがドキュメンタリーの命だろ。」

ヘストンに「なんで銃を持つ必要があるのか?」と聞いたら、「いろんな人種がいるからな」と答えた。

つまり銃は白人以外のいろんな人種を撃つためのものらしい。

「実はアメリカの国民1人当たりの銃の所有率はカナダやスイスを下回る。
でも、アメリカではカナダの百倍以上も銃で人が殺されている。
なぜか? 恐怖のせいだ。
人は普通、貧しい人を見ると可哀そうだと思うが、アメリカ人は貧しい人たちを見ると何かされそうで怖いと思う。
ひどい個人主義だ。
たとえば、健康保険。普通の国では貧しい人が医療を受けられるように健康保険てものがある。
アメリカには国民健保はない。
貧しい奴等の医療費まで金持ちが払ってやることはない、貧乏人を一度甘やかすと、奴等どこまでも凭れ掛かってくるからなというのがその理由。」

1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えました。

人々は仕事に励み、大統領は、国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校の生徒2人は朝6時からボウリングを楽しんだあと、教科書の代わりに銃を学校に持ち込んで、笑いながら12人の友達と1人の教師の射殺し、そしてその薄笑いを絶やすことなく今度は自分の頭を同じ銃で撃ち抜きました。

図書室に乱入した彼らが、まるでスポーツのようにこの無差別の殺戮を始めたとき、ほどなく自分が殺されるかもしれないという恐怖の予感に気が動転しながら、しかしただ床に這いつくばって「待っている」しかなかった生徒は、まだずっと向こうで、伏せている生徒たちの後頭部や心臓のあたりを狙い定めて銃弾の打ち込みに熱中しながら、彼らが何ごとかを問い掛けていたと証言しています。

それが何と言っているのか分からなくとも、遠くかすかに聞き取れるその言葉の響きは、とても優しく穏やかで、まるで「愛しているよ」とでも言っているふうにも聞き取れたといいます。

やがて彼らが至近距離まで迫って来たときに、その言葉は、はっきりと聞き取れました。

彼らは、おびえる少女に「死にたいか?」と優しさく語り掛けたあとで3発の銃弾を頭と腹に撃ち込み、少女に生涯にわたる半身不随の余命をプレゼントしました。

また、別の証言によると、殺人者の死の問いに、勇敢にも「死にたくない」ときっぱり言い返した少女は、幸いにも命は救われたものの、すぐそばにいた親友の黒人の少女が身代わりに撃ち殺されました。

「白い肌」というただそれだけの理由で生き残った偶然に、彼女は今でも苦しめられているそうです。

しかし、彼らがなぜ、あの殺戮を敢行することとなったのか、彼女には、いまだに分かっていません。

マスコミが書き立てるバイオレンスの氾濫とか、家庭の崩壊とか、高い失業率やアメリカ建国以来の暴力など、そのどれもが、不随になった自分の半身の理由としてはふさわしくないように思われるとその被害者の少女は述懐しています。

アメリカ白人の他民族に対する根深い恐怖と、伝統的な暴力の歴史を説いて銃の必要性を強く主張する人々(例えば、NRA)が、銃規制に反対する論拠となっているのが以下に掲げるアメリカ合衆国憲法修正第2条(国民の武器・武装権)です。

この条項を掲げてアメリカ市民が銃を持つのは憲法で保障された当然の権利だとNRA(米国ライフル協会)はじめ銃規制反対派は主張しています。

そして、アメリカ人でも、その通りだと信じている人が多いと聞いています。

ARTICLE TWO
 A well regulated militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear arms, shall not be infringed.

修正第2条
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であり、人民が武器を保蔵しまた武装する権利は、これを侵してはならない。
by sentence2307 | 2004-11-14 18:26 | マイケル・ムーア | Comments(1)
この「ボウリング・フォー・コロンバイン」に、かなり手酷い悪評がついて回っていることも知っています。

いや、もしかしたら、そちらの方が多いかもしれない。

マイケル・ムーアの売名行為に、なぜ高潔な映画が利用されねばならないのか、あんなことはテレビで十分だろうみたいな「良識」ある映画人の怒りの声です。

例えば、老残のチャールトン・ヘストンをあそこまでズケズケ・ねちねちと問い詰め散々にこき下ろす場面を見ていると、たとえ見るからに悪っぽい全米ライフル協会会長とはいえ、これまで数々のヘストンの映画に親しんできた映画ファンにとっては,ちょっと辛いものがありますし、「銃」問題にしても、むかしから西部劇が大好きだった者にとっては、なんだか唐突な感じがして何をいまさらという感じは拭えません。

なんといっても大昔からアメリカといえば、イコール「銃」のイメージだったのですから。

僕とても、なんの疑問も抱かず、子供の頃はおもちゃのガンベルトを腰にまいて早撃ちの練習に打ち込んだ者のひとりです。

ヘストンがどうあれ、ムーアのあの取材態度には,いやな感じを抱いた人も結構いたのではないかと思います。

生粋の映画人なら、TVマン・マイケル・ムーアの味方にはちょっとなりにくい心情的な違和感がきっとあると思います。

そして、その辺から、あの言葉、「なぜ、あんなものが『映画』でなければならないのか」という非難がでてきたのでしょう。

ムーアが、映画をただの売名行為の道具としか考えていない権力亡者としか見えない人には、許しがたい行為という憤りを抱いたかもしれません。

そこには高潔な映画の世界に土足で踏み込んできたようなテレビ業界人ムーアへの嫌悪と怒りが感じられます。

しかし、一方で、例えば、銃の乱射事件があるたびに、痛ましい犠牲者がでたその地にわざわざ赴き、「圧力に屈することなく、決して銃を手放さないぞ」と被害者の神経を逆撫でするようなスピーチを絶叫する全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンの異常さを見せ付けられると、そのギャップを自分自身どう納得すればいいのか、ただただ戸惑うばかりです。

僕たちの固定観念や常識を突き崩していくマイケル・ムーアのアプローチの方法が極めて素直で正攻法だと分かる格好の場面だと思いました。

僕たちが「ボウリング・フォー・コロンバイン」から受ける感動が、その素直さによるものであることは言うまでもありません。

しかし、映画はそれほど高潔か、映画人は高潔なのか、と問うムーアは、さりげなく社会福祉事業を食い物にし貧乏人の上前をはねるダーティなDJディック・クラークにあえてアポなし取材を敢行し、取材拒否の醜態をキャメラに収めるべく見え見えの挑発もしていました。
by sentence2307 | 2004-11-14 18:25 | マイケル・ムーア | Comments(0)
この映画を見ていると、繁栄するアメリカ経済を支えているのは、もしかすると政府やマスコミから常に脅迫まがいの吹込みによって煽られる市民の絶え間ない「恐怖心」から成り立っているのではないかと思えてしまうほどです。

ムーアが語るアメリカ白人の歴史とは、つまるところ、インディアンが、黒人が、日本人が、ソ連が、ヒスパニック系が、イランが、そしてイラクが襲ってくるぞという恐怖の歴史だったということでしょうか。

それを突き詰めていけば、隣人とていつ襲ってくるか分からないという恐怖です。

鍵を閉めろ、銃で武装しろ、自分の命は自分で守れ、殺られる前に殺ってしまえ。

つねに敵を必要として成り立っている「アメリカの正義」という恐怖と悪意と憎悪の連鎖のなかで必然のように繰り返されてきた有色人種に対する暴行とリンチという最悪の悪循環のなかで、政府とマスコミによって吹き込まれた「恐怖心」に支えられた消費により、軍事産業とともに巨大な発展を遂げたアメリカ資本主義の根本的な歪みを、ムーアはこの作品で簡潔に解析してくれたのです。

そして、その象徴が、まさに「銃」だったのでしょうね。

以下に参考書籍を掲げます。

ミスティ・バーナル著、三辺律子訳「その日、学校は戦場だった・ コロンバイン高校銃撃事件」インターメディア出版(2002)

明石紀雄監修「21世紀アメリカ社会を知るための67章」明石書店(2002)

越智道雄「幻想の郊外・反都市論」青土社(2000)

飯塚真紀子「そしてぼくは銃口を向けた」草思社(2000)

板東弘美・服部美恵子「海をこえて銃をこえて・留学生服部剛丈の遺したもの」風媒社(1996)

丸田隆「銃社会アメリカのディレンマ」日本評論社(1996)

砂田向壱「サイレントマーチ・息子を奪った銃社会」葦書房(1995)

ピート・ハミル、高見浩訳「アメリカ・ライフル協会を撃て」集英社(1994)
by sentence2307 | 2004-11-14 18:24 | マイケル・ムーア | Comments(1)
僕がいままで読んだ本のなかで「コロンバイン高校乱射事件」の事件現場の様子をもっともリアルに伝えているのは、飯塚真紀子著「そしてぼくは銃口を向けた」(草思社刊)でしょうか。

そこには、銃を持ったふたりの少年が学校の図書室で同年輩の生徒たちを次々と殺戮していく様子が、背筋の寒くなるような臨場感あふれる迫力ある描写で、ひとりひとり射殺されていく様子が記されています。

この部分を読んでいて、ふと思いました。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」でこの部分にあたるのが、防犯カメラに写されていた実写フィルムの箇所で、固定されたキャメラの前を、銃を小脇に抱えたふたりの少年が射殺すべきターゲットを追って幾度か小走りで横切っていくあの場面です。

あれは既に誰かを射殺したあとだったのか、あるいはこれから殺しに向かっているところなのか、どちらにしても、あの憑かれたような不気味な高揚感は、見ているだけで堪らなく恐い場面なのですが、ただ、ナマの事件記録を読んだりしていると、その部分の物足りなさがどうしても感じてしまうという印象でした。

その物足りなさとは何かというと、うまくは言えないのですが、非難を恐れず正直に自分の気持ちを言えば、たとえばフィクションのような「人が殺される瞬間」の凄惨な場面を見たかったのかもしれません。

きつと僕たちは、痛ましい人間の死に際しても、ある部分で、より迫力ある場面→フィクションを求めてしまう映画マニア病に冒されているのかもしれません。

そして僕みたいな視聴者が抱く歪んだ欲望を、さらに満足させようとするのが、例えば、マスコミのでっち上げるあの「やらせ」というものなのかもしれませんね。

政府の黒い力によって恐怖を煽られた市民が妄想する惨劇シーンを先取りしたマスコミが更にグレードアップして上手にでっち上げて市民に送り返すというこの構図を、マイケル・ムーアは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」によって暴き立て、巧みに見せてくれたと思います。

その政府=市民=マスコミの虚妄を突き破る手段が、例えば彼の「アポなし取材」の意味だったのかなと考えています。
by sentence2307 | 2004-11-14 18:23 | マイケル・ムーア | Comments(0)
卑近な話で恐縮ですが、マイケル・ムーアにそっくりな友達がいるのです。

体形ではなく、性格が、です。

ずけずけものを言う。

誰かとうまくやろうなんて最初から考えてもいないような無遠慮な質問も、あえて辞さない。

相手が傷つくことなんて端から気にしてないし、そのために自分も傷ついて窮地に立とうが一向に構わない。

「紳士協定」って言葉があるの知らねえのかコノヤロー、そういうヤツとは付き合いたくないと思い、こちらが避けても、そんなことにはお構いなしに、相手はどんどん攻めて来る。

僕としては、散々嫌な思いをしているので、もっともっと書けるのですが、とにかくスゴイんです。

しかし、この「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見て、なんだかそいつのこと、許せる気持ちになりました。

このムーアに比べたら、まだまだ可愛い、こんな感じです。

普通の神経の持ち主では、ここまで突っ込んでアメリカの銃社会の根底にあるものを描き出せなかったのではないか、と実感しました。

狂信家チャールトン・ヘストンに対するには、やはり、狂信家マイケル・ムーアでなければ、ここまで核心に迫れなかっただろうと思います。

またまた、友人の話で恐縮なのですが(前のとは別人です)、繋がりのないいろんなことを、ただやたらめったらべらべらと取り留めなくしゃべり続けるヤツがいて、いまだかつて最後まで聞いてやったことがなかったのですが、この映画を見て反省しています。

ヤツの言うことをすべてを聞いたとしたら、もしかしたらトータルとして、ものすごいメッセージがあったのかもしれないな、と思えてきたのです。

ちょうど、この冗漫でいて、そしてシャープな「ボウリング・フォー・コロンバイン」のようにね。

この「ボウリング・フォー・コロンバイン」をめぐる(日本での)感想に接していると、二つの大きな特徴があると思いませんか。

ひとつは、銃偏重のアメリカ社会に対する「おお、怖い」的な反応(日本にあっては、これは「踏絵」でしかありません)、そして、もうひとつは、マイケル・ムーアという「スタンド・プレイ」男に対する嫌悪感です。

わざと顰蹙をかうような攻撃的なポーズを作っておいて、しかし、そのうらには、物欲しげな売名行為みたいな、つまり体制内的「求愛行為」なのではないかという非難です。

論理的には、前者の「踏絵」論はクリアできますが、自分が属する体制から、名を明かして当の体制自体を批判をすることの辛さ・難しさは、そんなにかっこいいものじゃないことくらい、ぬるま湯的体制にどっぷりと浸かっている僕たちにも理解できます。

でも、僕がこれから書こうとしていることは、「おお、怖い」と言って理解不能を装う日本人の無神経さと、孤立無援で闘うジャーナリスト・マイケル・ムーアに対する弁護です。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」の印象を「冗漫でシャープな作品」といったり、マイケル・ムーアについて、繋がりのない支離滅裂なことをただべらべらと取り留めなく話し続ける友人に例えたりしたのは、あとで持ち上げるための揶揄みたいなつもりで書いたのですが、見当外れもいいところなのに気がつきました。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」は、決していい加減な作品ではありません。

よく考え抜かれた緻密な構成で、チャールトン・ヘストンが象徴するターゲットを挑発し、苛立たせ、激怒させ、その動揺の間隙を突いて一気に追い詰めていくという手腕は、真摯な怒りによって貫かれていると思います。

ムーアのすっとぼけたナリが、この作品の息苦しいほどの緊張感から僕たちの眼を逸らさせ、「冗漫でシャープな作品」などという見当はずれの印象を抱かせたとしても、しかし、気がついてみれば、僕たちはいつの間にかアメリカの銃社会の深刻な重いテーマの核心のすぐそばまでマイケル・ムーアに引っ張り出されたことに気付かされるのです。

しかし、この傑出したドキュメンタリーの計算しつくされた緻密さは、コロンバイン高校乱射事件の本筋へと至るまでの数十分のプロローグの部分を見ただけでもよく分ります。

最初の場面は銀行、そこで預金の口座を新しく開くと銃がプレゼントされるという「なんだそりゃ」的なエピソードに「銀行で銃なんか渡してヤバクない?」というムーアのくすぐりが入り、クスッと笑わせた後で、すぐにムーア自身がミシガンで育った少年期に銃に夢中だったことが語られ、そして、全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンが同郷であることともに、武装したミシガンの市民がつくっている薄気味悪い私設軍隊が紹介されます。

銃を携えた武装した薄気味悪い民間人が軍事訓練の合間のインタビューに答えて確信もって言い切ります。

ここでは銃というものが、幼い頃から常に身近にあって、「侵入者から自を守ること」と「自分を守るために侵入者を射殺すること」がなんの不思議もなく銃に結び付いており、「自分の命は自分で守る。自分らは人種差別主義者でも極右でもテロリストでも過激派でもない市民だ。アメリカ国民としての自覚を持ち、この責任を全うするために武装する。」

その主張が、やがて全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンの演説へとオーバーラップしていきます。
by sentence2307 | 2004-11-14 18:22 | マイケル・ムーア | Comments(111)