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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ビリー・ワイルダー( 5 )

自分は、よく人から「おまえは、なんでも小津監督にこじつけるよな」とからかわれます。

そう言われることについて、だいたいは「満更でもない」という気持なのですが、その本当の意味するところが誉め言葉でもなんでもなく、単なる「揶揄」であることくらいは十分に承知していながら、内心では、結構嬉しがっています。

そういう経緯もあり、「おい、またかよ」と言われるのを敬遠し、臆する気持もあるので人前ではずっと公言を避けていたのですが、「ビリー・ワイルダーと小津監督って、どこか似てるよね」という思いを長いあいだ抱きつづけてきました。

なんとなく感じていたこのふたりの相似の印象というのは、正直最初は、単なる直感にすぎませんでしたが、しかし、最近になってその「直感」に共通するものを見つけました、つまり、そもそもの「出だし」(エルンスト・ルビッチからの影響)もそうなのですが、このふたりの巨匠のその後の「変化の仕方」みたいなものが、なんだか似通っているのではないかと思い、自分の直感がそれほど誤っていなかったのだと思い至ったのです。

ざっくり言って、戦前の小津監督の諸作品の延長線上に、誰が「東京物語」のような抒情性にみちた静謐な作品を予想できたでしょうか。特に、ここでいう「戦前の諸作品」というのは、「非常線の女」のような乾いた荒涼とした犯罪映画を想定しています。

「そりゃあ、あんた、それが作家の『成長過程』というものだよ、どの作家にもあることだろうよ。あれこれといろんな分野を試しながら自分の行くべき途を手探りで模索していくってやつさ。そんなふうに試しながら作家性を深化させていって、徐々に『自分の本質(たとえば東京物語)』ってやつを掴み取る、そこに至るまでの模索というか、過程の習作みたいなものなんだよ、『非常線の女』とかはね」

いままでの自分なら、反論の論拠を見いだせないまま、「いや~、そうかなあ」と頼りない生返事で疑問を呈するくらいがせいぜいで、あとに続く言葉など思いつきもしなかったのですが、もし、あのとき、この「深夜の告白」を見ていたら、「それを言うなら、ビリー・ワイルダーはどうなんだよ」と言い返すことができたかもしれません。

小津監督が、「非常線の女」を撮ったずっとあとに、きわめて静謐な「東京物語」を撮ったように、ビリー・ワイルダーもフィルムノワールの古典的名作「深夜の告白」を撮ったずっとあとに天才的な艶笑コメディ「お熱いのがお好き」を撮っているじゃないですか。

しかしそれにしても「Some Like It Hot」を「お熱いのがお好き」と訳すとは、なんという快訳! 2度繰り返して使われる「お」の字が十分に生きていて淫猥の「みだらな熱」をいかんなく発していて、その「あえぎ振り」には、いつもながら感心させられます。ここだけの話ですが、はっきり言って「お」の字は、おしなべて猥褻です、思春期にこのタイトルに出会い、妄想を掻き立てられ・煽られて欲情し、「お」の字の意味をはっきりと悟りました。まさにこれはギリギリのヰタ・セクスアリスです。実際のところ、あのモンローに馬乗りされて腰のあたりなぞをモゾモゾまさぐられ、キスなどを迫られた日にゃあ、そりゃあ堪りませんぞ。

「なにそれ? あなたの言わんとしていることが、よくわからんのよ」

「いや、ですからね、ヒッチコックがね」

「えっ、ヒッチコック? 飛びますか、ヒッチコックに。この話の決着がまだついていないというのに?」

「かのヒッチコックがですよ、デビュー映画第1作「快楽の園The Pleasure Garden」1925をドイツの撮影所で撮っているのを、あなたご存知ですかてんだ」

「はいはい」

歴史的な説明を始めると少し長くなるので、末尾に「参考」として掲げますが、当時のイギリスにあっては映画館で上映する作品といえば、金をかけた華やかなアメリカ映画にことごとく席巻にされ、映画館にかかる映画といえば、ほぼアメリカ映画、あるいは「その他の国の映画」に占められていたという状況でした。

その間にも僅かながら製作されていた自国の作品もあるにはあるものの、それらの作品を上映する場も機会もなく(占領されたアメリカ映画を押しのけるだけの魅力も活力もありません)、貧相なイギリス映画(英国民自身がそう認識していました)は完全に駆逐されてお蔵入りになり、だからその作品がさらにまた「古びてしまう」という悪循環に陥っていました、そうした危機的状況を憂慮したイギリス政府は、強制的に自国の映画を無理やりにでも上映させようと法令で定めて、国の力で映画を守る(強引に見せる)という強硬策に打って出るという凋落ぶりを示しました。

後年、日本やドイツの軍事ファシスト政権下での「政府の介入」とは別次元ながら、また、思想の根本も大きく異なってはいるものの、これもやはり「政府の介入」には違いなく、しかし、軍部の指導のもと、国民の戦意高揚のために金に飽かせて作られた景気のいい国策映画が、皮肉にも日本やドイツの映画技術の向上に多大な貢献をはたしたことを考えれば、その国の映画にとって「自由」とはいったいなんなのかと考えさせられてしまう、これは深刻な問題をはらんでいますよね。

そうした状況下で、ヒッチコックは、そのデビュー作をドイツで撮ることになるわけですが、ヒッチコックを魅了した当時のドイツ映画界の隆盛ぶり(むしろ、ナチスが登場するまでの「爛熟ぶり」といった方がいいかもしれませんが)をどう表現すればいいか、しばらく考えてみたのですが、恐怖と幻想と犯罪の三位一体の世界を描いた「ドイツ表現主義」(カール・ハインツ・マルティンの「朝から夜中まで」1920、ロベルト・ヴィーネの「カリガリ博士」1919、パウル・ヴェゲナーの「巨人ゴーレム」1920、フリッツ・ラング「死滅の谷」1920など)を真正面から論じ立てるよりも、むしろ、その後にアメリカに移植されるこれらの異才たちが、ハリウッドにどのような重大な影響をおよぼしたか、その快挙と壮観さを例証した方が、よほど効果的に実感できると思い当たりました。

つねに世界の才能を注入することで、量的にも質的にも規模を広げていったハリウッドが、これらドイツの傑出した才能を放っておくわけもなく、彼らに食指を延ばしたとしても、しごく当然のことだったと思います。

もともとハリウッドの創設者たちが東ヨーロッパから移民してきたユダヤ人だったということも考えれば、ハリウッドがヨーロッパの映画人を受け入れることについて、なんらの抵抗もなかったと思います。

それに、そこには、まず先達エルンスト・ルビッチの成功がありました。

1923年にハリウッドに招かれたルビッチは、ウィットに富んだ「結婚哲学」や「禁断の楽園」など、多くのアメリカ人の憧れのマトだったヨーロッパの香りをもった艶笑喜劇で圧倒的な支持を受けています。

そうしたルビッチの成功もあり、ハリウッド各社は、ドイツを中心に多くの監督、カメラマン、ライター、俳優をハリウッドに招き入れます。

ドイツからは、パプスト、ムルナウ、デュポン、パウル・レニといった監督をはじめエリッヒ・ポマーやアレクサンダー・コルトなどの俳優が大挙してハリウッド入りしてきます、つまり、これは「ドイツ表現主義」そのものが同時にハリウッドに上陸してきたことを意味していました。

そして、この一群には、すでにドイツ映画界で圧倒的な人気を得ていたグレタ・ガルボがいたことも忘れるわけにはいきません。

ガルボ自身はスウェーデン人で、ほぼ同時期に同国からは、ヴィクトル・シェストレームと、モーリス・ステイルレルもハリウッドにやってきています。

ヴィクトル・シェストレームの残した諸作品、とくに「波高き日」1917の抒情詩的な線の太さ、「生恋死恋」1918の雄大な自然描写、「主人」1920の重厚なリアリズム、「霊魂の秘密」1921の二重露出を駆使した神秘主義などは高く評価され、エイゼンシュテイン以前の世界最高の映画芸術作品といわれました、彼は1923年にハリウッドに入りしています(残念ながらトーキーのハードルを越えることはできませんでしたが)。

なお、余談になりますが、「世界映画人名事典・監督(外国)編」(キネマ旬報 昭和50.12.21)のシェストレームの項に、当時の「北欧派映画の特徴」というのが箇条書きで書かれており、大変面白く読んだので筆写しておきますね。

1.「人生は何か?」という純真な問い掛けとそれに伴う神秘主義
2.カメラを屋外へ持ち出して映画に動きと空間的な広がりを与えそれによって風景描写をテーマの象徴の地位まで高めたこと、並びに新鮮な構図美
3.大胆なエロティシズムと愛欲描写

なるほど、なるほど、さすが、かのベルイマンを生んだスウェーデンだけありますね、むかしからそういう生真面目なお国柄だったんだなあと感心をしてしまいました。

ほかには、オーストリアからは、エリッヒ・フォン・シュトロハイムとジョセフ・フォン・スタンバーグがハリウッドにやってきたことも忘れるわけにはいきませんが、なんといっても、ハリウッドに多大な影響を与えたもっとも重要な人物といえば、やはり、チャップリンをおいてほかにはいないかもしれません。

サイレント映画全盛期の1920年代後半、東ヨーロッパの映画界から多くの逸材が流れ込み、「ハリウッドは、もはやアメリカではない」という言い方をされたことがありました。たぶん、その半分は本当で、あとの半分は誇張だったと思います。

この当時、ハリウッドを支えていたアメリカ生え抜きの監督と言えば、グリフィス、デミルといった大御所から、キング・ヴィダー、クラレンス・ブラウン、ヘンリー・キング、ジェームス・クルーズ、ジョン・フォード、ラウォール・ウオルシュといった監督を挙げることができると思いますが、やはり、ヨーロッパからきた映画人の果たした功績なくしては、1920年代後半のハリウッド映画の隆盛を語ることは到底できないことは明らかです。

やがてトーキーの時代が到来すると、ヨーロッパからやってきた映画人の多くが、故国に帰っていきました。

その理由はといえば、外国人としての言葉の障碍があったことがひとつにはありますが、映像を存分に駆使してストーリーを語るという、映画本来の作り方が通用しなくなったという、音を得た新たな映画形式に適応できなかったというのが本当の理由だったかもしれません。

しかし、そうしたなかでもトーキーの到来などにひるむことなく、果敢に映画作りに邁進した映画人もいました。

ルビッチやスタンバーグなどもそうですが、1920年代後半にハリウッドへやってきたウィリアム・ワイラー(フランス)、マイケル・カーティス(ハンガリー)、ルイス・マイルストン(ウクライナ)らは第一線にとどまり、映画作りに健闘した映画人でしたし、彼らの洗練されたスマートな東ヨーロッパの雰囲気が、豊かな「ハリウッド」とうまく融合して、のちに(とはいっても「すぐに」ですが)アカデミー賞を総なめにするほどの実力をつける偉大な監督に成長していきます。

一説では、この「サイレント映画の終焉とトーキー映画の始まり」の境をもって、「ドイツ表現主義とハリウッドの蜜月は終了する」とした見解を以前読んだことがあるのですが、自分としては、すこし納得できないものがありました。

そう考えた契機となったのが、このビリー・ワイルダーの「深夜の告白」です。

前述したとおり、「ドイツ表現主義」の象徴的な雰囲気を、「恐怖と幻想と犯罪の三位一体の世界」だとすれば、このフィルムノワールの古典といわれる「深夜の告白」は、まさに「ドイツ表現主義」の尻尾をはっきりと残している正統的な作品なのではないかと感じた次第です。

この作品「深夜の告白」は、当時の世評も高く、第17回(1944)アカデミー賞作品賞にノミネートされたほどの評価を得ましたが、なによりも脚本賞(レイモンド・チャンドラー、ビリー・ワイルダー)にノミネートされたことが、ビリー・ワイルダーにとって手応えを感じた大きな収穫だったに違いありません。その他のノミネートとしては、主演女優賞(バーバラスタン・ウィック)、撮影賞・白黒(ジョン・F・サイツ)、録音賞(ローレン・L・ライダー)、作曲賞(ミクロス・ローザ)がありました。

このとき、主演女優賞にノミネートされたバーバラ・スタンウィック、結局は受賞とはならず、主演女優賞を獲得したのは、「ガス燈」に主演したイングリッド・バーグマンでした。しかし、当のスタンウィックは、自身がイングリッド・バーグマンのファンクラブに入っているほどのバーグマン・ファンだったので、自分が賞を逃したことなどそっちのけで、バーグマンの受賞を我がことのように心から喜んだと伝えられています。

ちなみに、このとき特殊効果賞を受けたのは、「東京上空30秒」(撮影A・アーノルド・ギレスピー、ドナルド・ジャーラス、ウォーレン・ニューカム、音響ダグラス・シアラー)という作品でした。

このアカデミー賞授賞式が行われたのは、1945年3月15日、ハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ劇場でしたが、アカデミー賞授賞式に先立つ3月9日夜には東京が大空襲され江東区が全滅、実に23万戸が焼失して12万人の死傷者が出るという大惨事がおこっています。さらに、アカデミー賞が行われた前日の3月14日には大阪が空襲され13万戸が焼失するという無残な背景がありました。日本人にとっては、なかなか複雑なものがありますよね。

さて、ビリー・ワイルダーは、「深夜の告白」の翌年に「失われた週末」を撮ります。ときあたかもヒトラーが自殺し、広島と長崎に原爆が投下され、ドイツと日本が降伏して長い戦争が終結したという年でした。

そしてこの、売れない作家がアルコール中毒で幻覚と妄想に苛まれる姿を描いた「失われた週末」によって、ビリー・ワイルダーは、アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞(チャールズ・ブランケットとともに)を同時に受賞して、いよいよハリウッドの一流監督の仲間入りを果たします。主演したレイ・ミランドも主演男優賞を受賞しました。

この第18回(1945)アカデミー賞の授賞式において、いまだに語り草になっている3つの話題があります。

1つは、前回の17回アカデミー賞では、「我が道を往く」が、作品賞・監督賞・脚本賞、主演男優賞、助演男優賞を受賞し、圧倒的な強さを見せつけたレオ・マッケリー監督でしたが、18回のアカデミー賞では、まったく逆の結果になってビリー・ワイルダーが圧勝したこと。

2つ目は、主演女優賞にノミネートされたベテラン・ジョーン・クロフォードが、式直前、おびえのあまり仮病をつかって授賞式を欠席したところ、ふたを開けてみれば受賞となって大騒ぎとなったこと。(まるで映画みたいだ、といわれました)

3つ目は、「緑園の天使」で、幼いエリザベス・テイラーの母親を演じ助演女優賞を得たベテラン・アン・リヴェアは、やがて「赤狩り」が始まると「ハリウッド・テン」を支持したためにワシントンの聴聞会に呼ばれ、仕事の場を奪われ、俳優生命を断たれます。

いずれにしても、公式に実力を認められたビリー・ワイルダーは、さらに高みを目指して撮った作品が、いわゆる内幕ものの「サンセット大通り」でした。そういえば、あの「失われた週末」だって内幕ものといえなくはありません。

いまでこそ撮影所からは相手にされていないとはいえ往年の大女優がカンバックを夢見て、売れない脚本家を抱え込み自分好みの脚本を書かせるという「サンセット大通り」が売れない脚本家の話なら、「失われた週末」は、売れない作家の話ですものね。華やかなハリウッドの世界にも、日の当たらない場所で燻っている人たちをビリー・ワイルダーは、実感を込めて描いたのだと思います。

しかし、結果はさんざんでした、第23回アカデミー賞において、オリジナル脚本賞のほかは、ノミネートどまりで主要な賞をことごとく逃します。

そして、1951年、ワイルダーは、プロダクションを立ち上げて起死回生の、まさにフィルムノワールの色濃い「地獄の英雄」を撮りました。

アル中のために大新聞社をしくじり、地方新聞社に流れてきたチャールズ(カーク・ダグラス)は、インディアン洞窟に生き埋めになった男の事故に遭遇し、これを大々的な事件として仕組み、救出をわざと遅らせ、全米にセンセーションを起そうと企てます。そして、その捏造したスクープをうまく利用して一流新聞への返り咲きを図ります。思惑通り、メディアに踊らされた群衆が集まってお祭り騒ぎとなります。上へ上へと這い上がることしか考えていないチャールズは、つねに「不幸なニュースが一番売れる。良いニュースなんてニュースじゃない(Bad news sells best. Cause good news is no news.)」というのが信条でした。

しかし、この企ても内部から崩壊し、すべてが破綻します。

この作品は、ジャーナリストと大衆を痛烈に描きすぎて、アメリカン・ドリームの暗黒部分を突いたために、公開当時、観客にもアカデミーにも忌避されました。クリント・イーストウッド監督の『ジャージー・ボーイズ』で、カーク・ダグラスが女性の頬を張り倒す強烈なシーンが引用されていたのが、この映画でした。

そして、ワイルダーは、この「地獄の英雄」の決定的な不評によって、もはや従来の「フィルムノワール」のストレートな手法では、アメリカ社会に通用しなくなっていることを痛感します。

それに、「サンセット大通り」製作までのワイルダーの関心事が人間そのものだったのに対して、「地獄の英雄」では、初めて矛先を社会に向け、アメリカ社会のマスヒステリーを容赦なく弾劾しました。

しかし、人間に対する辛辣は許されても、アメリカ社会に対する辛辣は決して許されないことをこの「地獄の英雄」の失敗で悟ったのだと思います。

言い方を変えるならば、ワイルダーは、もうすこしで地雷(アメリカ社会のタブー)を踏みそうになったのだ、ということができるかもしれません。「深夜の告白」「失われた週末」「サンセット大通り」を許容したアメリカも、「地獄の英雄」を許しはしませんでした。

これらの作品に共通していえることは、サイレント映画の迫力を秘めた鬼気迫るおどろおどろしい描写の根底にあるのは、怪奇幻想映画(ドイツ表現主義のなごり)に通ずるものがあったといえますが、しかし、これ以後、ワイルダーは、その作風を大きく転換することとなります。

もちろん、これらの方針転換は、下院非米活動委員会の「赤狩り」が大きく影を落としていることはいうまでもありません。

いずれにしても、自分としては、ビリー・ワイルダーの「地獄の英雄」をもって「ドイツ表現主義とハリウッドの蜜月は終了」したといいたかったのです。

こう見てくると、世界が「東京物語」を発見したあのとき、欧米人がこの黄色い肌をした極東の、奇妙なこだわりを持って風変わりな相似に貫かれた作品を残した東洋の映画監督・小津安二郎に、ドイツ表現主義の系譜を受け継ぐ者として小津監督を認識したのではないかと、チラッと妄想してみたくなりました。



【参考】
1925年当時、サイレント末期のイギリス映画界は、世界から大きく後れを取っていました。イギリスのこの惨憺たる状況について、サドゥールは「世界映画史」のなかで、このように記述しています。
≪アメリカ映画が上映番組の90%を占有し、幾本かのイギリス映画は、外国映画によって独占されたスクリーンに割り込むために非常に長い間待たなければならなかったので、観客は、その女優の衣装がすでに流行遅れになっているのを嘲笑していた。映画製作は捗らなくなり、やがて中止され、外国(仏、伊、大英帝国自治領)におけるその位置を失ってしまった。・・・1924年には、イギリスは34本の映画しか製作しなかった。1925年には、その数は23本に減少し製作費もタレントもなくて製作されたこれらの映画は、外国のヒット作品をどうにかこうにか模倣したものに過ぎなかった。イギリス映画の製作は非常に低落したので、その保護者たちは、映画館に対して、1年間のうちにイギリス映画による番組を1回だけ上映するのを法的に義務づけることを要求しなければならなくなった。≫
製作はおろか、上映さえままならない惨状を呈していたイギリス映画界で最初の作品を撮ることを諦めたヒッチコックは、当時絶頂期にあったドイツ映画界においてデビュー作を撮ることになります。この経験は、後年のヒッチコックの映画(フィルムノワール)に多大な影響を与えたことを、ヒッチコック自身が認めています。



by sentence2307 | 2018-11-02 23:48 | ビリー・ワイルダー | Comments(0)
いままさに受験シーズンたけなわというところですよね。

自分の「習性」について、この時期になると必ず思うことがあります。

それは、きっと、かつて受験勉強で苦しめられた(考え方とかの)習慣が心の傷みたいに残ってしまったためかもしれないなと、最近になって気がつきました。

雑多に存在するものを整理し、体系づけして関連付け、一挙に覚え込んでしまおうとする整理のテクニックだけが身についてしまったようで、なにかの切っ掛けがあったりすると、「条件反射」的にというか、まるで病気の症状みたいにそれが表われ出てしまいます。

でも、この習性は、仕事では大いに重宝しているという、いい面もあります。

この観念の方程式に嵌ってしまうと、まるで際限のない妄想の連鎖の輪に囚われて、ある考えが次から次へと怖いみたいに勝手に発展・増殖を始めてしまいます。

「オレって大丈夫か」という感じです。

例えば映画です、似通ったテーマの作品を幾つも思い浮かべては共通点を探し出し、頭の中で串刺しにして延々と楽しむという観念の遊びみたいなものに浸りこんでしまうのも、そのひとつの兆候なのだろうなと気がついたのでした。

そういえば、このあいだも、この観念のトリップというやつを経験しました。

というのは、数日前にBS2でウイリアム・ワイラーの懐かしい作品「噂の二人」を放映していて、そのことを番組欄で知ったというのが、そもそもの発端でした。

このワイラー作品は、とても好きなタイプの作品です。

何度も繰り返しては見ているのですが、今回もまたしっかりと録画をしておきました。

しかし、何度見ても、可憐なあのオードリー・ヘップバーンが演じるにしては、シリアスすぎて余裕のない息詰まるような役なので、どう考えても彼女には似つかわしくないのではないかという気がして仕方ありません。

それくらい重厚すぎる作品です。

なにしろ、ストーリーというのが、根拠のない同性愛の噂を立てられた二人の女教師が、世間の偏見と固定観念に押し潰されていく物語なのですから。

シリアスな作品が得意な演技派の俳優なら、それこそハリウッドにはゴマンといるはずなのに、なにもよりによって、お姫様役がトレードマークのオードリー・ヘップバーンを起用しなくともいいのではないかという気がしました。

こういう言い方をしてしまえば、シャーリー・マクレーンの方だって相当なミス・キャスキかもしれませんが。

なにしろ「ローマの休日」でオードリーの魅力を余すところなく描き出した名匠ウイリアム・ワイラーですから(「噂の二人」は、「ローマの休日」からちょうど10年後に撮られた作品です)、きっと彼女の可能性を十分に見据えたうえでの起用だったに違いありませんが、なんだかもうひとつ納得できませんでした。

それなら、「ローマの休日」以外の彼女の主演作で、最もオードリーらしい華麗な作品といえば、なんだろうと考えてみました。

すぐに思い浮かんだのは、ビリー・ワイルダーの「昼下がりの情事」57です。

この作品だったら、僕だって躊躇せず、ただちに賛成のモロ手を上げられる作品です。

プレイボーイのゲーリー・クーパーに恋したウブなヘップバーンが、浮名をながすクーパーと対等に渡り合おうとして(彼の気を引こうとして、ですが)、精一杯背伸びをして「すれっからしの女」の振りをしてみせる純情な娘を演じていました。

プレイボーイのゲーリー・クーパーの方は、そんなふうに無理して背伸びをしているけれども、本当は世間知らずな娘の健気な思いに、すっかりまいって恋に落ちてしまうという捻ったストーリーによって、ヘップバーンの魅力を更に際立たせることのできた傑作でした。

しかし、僕の妄想は、ここから突然飛躍します。

「昼下がりの情事」が、なんだか小津安二郎の「晩春」にとてもよく似ているような気がしてきたのです。

「晩春」は、やもめの父の世話のために婚期を逸し掛けている娘を案じた父親が、一計を労して(父の再婚話をほのめかして、娘に結婚を決意させます)娘を結婚へと押しやる寂しさを描いた小津安二郎のピークを示した作品といわれています。

この作品の中で僕がもっとも印象深かったセリフは、娘・原節子が、結婚をすすめる父・笠智衆に向かって「だけど、私がいっちゃったら、おとうさん、どうなさるの」と必死に抗弁するセリフです。

ここでの娘は、なにも「お父さんなんか、私がいなけりゃ、なにも出来ないじゃないの」と言っているわけではありません。

「『わたし』という存在のかけがえのなさを、お父さんに分かってほしいの」と訴えているのだと思います。

それはさらに、「そんなことしたら、私たちはどうなるの」と言っているようにも聞こえます。

娘は、この「現在」がふたりにとって至上の状態だと信じています。

父親だって、きっとそうに違いないと信じています。

いまのままで十分満足なのに、この「ふたりだけの世界」を否定したり、壊したりする必要がいったいどこにあるのだと訴えているのです。

現在父との生活に充足している娘にとって、あえて幸福である現状を壊してまで「結婚」するということの意味が、理解も納得もできません。

どういうものかも分からない不安な「結婚生活」に賭けることの無意味を父親に訴え掛けています。

しかし、父親の方はどうでしょうか。

この「幸福」な状態の先にあるものが、やがてこの世にひとりだけでとり残されてしまう娘の痛ましい孤独な行く末に結びついていくことは、近い将来当然予想されることです。

娘の人生を、自分の都合だけで、そこまで引っ張っていって、彼女を不安な目に会わせることはできないと父親は考えています。

娘を早く結婚させてあげることが親として自分が為さなければならない務めだと考えています。

さて、この「晩春」と「昼下がりの情事」の、いったいどこに共通点があるのかという話に戻ります。

モーリス・シュバリエが演じる父親の方は、私立探偵という職業柄、クーパーのスキャンダルは知り尽くしており、娘には手を出さないでくれと頼みにいくくらいです(クーパーだって、オードリーを心から愛しているので、納得して彼女のために別れる決意をします)。

ですから、この時点では、結婚させたいと願っている笠智衆の父親と、「させたくない」モーリス・シュバリエの父親とは、まったく正反対の立場に置かれていると思われるかもしれませんが、別れの駅のラストシーンで、走り出す列車を追いかけ続けるオードリーを、どうしても別れられないクーパーが、彼女を車内に引っぱり込んで抱擁するのを柱の影から見つめているモーリス・シュバリエの心情(娘に幸福になってほしいという願い)からすれば、笠智衆の父親の「寂しさ」にかなり接近しているはずなのに、しかし、この二人の父親の思いがぴったりと重なったとは、どうしても思えないのです。

その決定的な違いがどこにあるのか、少し考えてみました。

答えは、すぐに思い当たりました。

オードリーがクーパーを心から愛しているように、原節子が結婚するであろう相手を同じように愛しているかといえば、そこにはとても深刻な疑問が残るかもしれません。

「昼下がりの情事」を見たあとの爽快感に比べたら、「晩春」を見たあとの重苦しさの差は、あまりに明確です。

きっとそれは、「昼下がりの情事」という巧みに作られたこのラブストーリーには、映画職人ビリー・ワイルダーの人生観などという厄介なものが少しも描き込まれていなかったからだと思いました。

同じような筋の物語を繰り返し撮り続けた小津安二郎は、「世の移り変わりと共に、人もみな変わってしまうものなのだ」という、ただそれだけを繰り返し撮り続けた映画作家だったと思います。

そして、繰り返し描かれることで、そこにあったはずの物語に奉仕するただの「効果」でしかなかった詠嘆や哀歓の調子が崩れ、やがて「変わって欲しくない」という小津安二郎自身の、まるで肉声のような核の部分にある「祈り」が見えてくるような気がします。

小津安二郎という人は、身内に限らず、周囲の人々をとても愛し気遣い大切にした人だったそうです。

それだからこそでしょうか、それらの人々との繋がりを失うということを、とても怖れ悲しんだように感じられました。

小津安二郎が、映画で描きたかったことに、それほど多くの物語のパターンを必要としなかったということは、映像作家として、とても驚くべきことだったと思いますが、しかし、それよりも、プログラムピクチャー全盛期の当時の映画界にあって、ただひとり自分の信条、つまり、愛する人々が周囲から次々と去り、死に別れ、生き別れる悲しみと喪失感と孤独とを、ひたすらに描くことを許された特権を与えられたことの方が、いまから考えると、よほど驚嘆すべきことだったように思われます。
by sentence2307 | 2008-01-20 15:21 | ビリー・ワイルダー | Comments(1)

サンセット大通り !!

今日は、年に一度の避難訓練の日です。

やることは毎年だいたい同じです。

午後3時ちょうどに近くの消防署に「避難訓練です。○○交差点角の△×商事ですが、3階更衣室から出火しました。至急出動願います。」と打ち合わせ通りの電話を掛け、のんびりとやってくる消防車の到着を待って、裏の駐車場に社員を集め(夏休み中なので、あまり人は集まりませんが、社長も顔を出すので、出勤しているのに雲隠れするような人はいません。以前エスケープがバレて、衆目監視の目の前で解雇寸前まで問い詰められた管理職をみんな知っているからです。ホントあの時は、避難訓練どころの騒ぎではありませんでした。)消火器の取り扱いについての説明と、訓練用の消火器を実際に使って、目的物に代わる代わる放水するというのが、だいたい今までの訓練の内容でした。

しかし、今回の避難訓練は少し違っていました。

いつもなら、出火を知らせる非常ベルが鳴り響き、各部屋の社員が単位ごとにその部屋の幹事?に誘導されて表玄関に避難し、幹事は隊長(この呼び名は正しいです)に「○班、異状なし!」と大声で報告したあとは、ゾロゾロと裏の駐車場に移動するというのが定番なのですが、今回は全員が2階会議室へと誘導されました。

会議室ならてっきり消防所長氏の訓示だろうくらいに思っていたのですが、それが大間違いでした。

扉を開けると、床一面に鮮やかな青色のビニールシートが敷かれていて、その上に2体の成人大の人形が仰向けに安置されています。

普通の成人男子の大きさに等しいその人形の、シャツの前ボタンがはずれて肌けて見えている胸が、それがまたリアルに作られていてドキッとするくらいでした。

訓練は、急病で意識のない人に、救急車が到着するまでの間AED(自動対外式除細動器)で停止した心臓に電気ショックを与えて蘇生措置を施そうという訓練です。

こりゃあ、植木の水やりのような安直な気分で、なんとかやり過ごせるようなヤワな訓練じゃありません。

消防署員の方がひととおり手順を説明してくれました。

①急病人に呼びかけて意識の有無を確認する。
②119番通報とAEDの搬送依頼、
③人工呼吸→心臓マッサージ、
④AEDによる電気ショックを施す、

これはあくまでも救急車が到着するまでのあいだに行う蘇生措置なのだそうで、この措置によって生存率がぐっと上がったという署長さんのお話でした。

このように書くと、手順は至極簡単なように見えますが、いざ大勢の社員が見ている前でやるとなると、あがってしまってそう簡単に問屋は卸しません。

手順を少しでも間違えると、すぐ傍らで監視している若い消防隊員さんの罵声(そんなことでは、急病人は助かりませんよ!!)が飛んできます。

さて、一番に指名されたのは、A本部長でした。

「いいきみだ」とほくそえんだ女性社員が、いたかもしれません。

良くも悪しくも、とにかくわが社の名物部長です。

携帯電話が発明されるよりも、ずっと昔から外回りの営業で叩き上げてきた根っからの苦労人です。

つい最近まで携帯電話なんか馬鹿にして決して持とうとしなかった人だったのですが、世の中から電話ボックスとか赤電話というものが絶滅してしまってので、仕方なく持つようにはなったものの、多分長年染み付いてしまった性癖なのだと思うのですが、外からケイタイを掛けるときも、公衆電話か赤電話のあった場所からでないと、どうしても落ち着いて掛けられないという人です。

部下のBさんが痔の大手術を受けるために一週間の有給休暇を悲痛な面持ちで申請しに来たとき、「痔なのか、四十九日(たぶん、「しょなのか」の駄洒落です)」なんていう実に笑えない駄洒落を言って、そのために人望をなくし、しかし、なくしたことなんか一向に気づくことなく平気で今まで生きてきたような教訓的な人でもあります。

メイクばっちり・高ビー・バリバリの秘書課の「詩織(しおり)さん」のことを、皆の前でわざと「おしりさん」と言い間違えて(これは結構拍手でしたが)、2年間も口を利いてもらえなかったこととか。

そんな本部長が、手順の厳しい「AED」です。

まず最初は、意識不明の人形に向かって「大丈夫ですか! 分かりますか!」と呼び掛けます。

「声が小さい! そんなことでは急病人は蘇生しませんよ!」と何度もやり直させられていました。

納得するまでやり直させるこの若い隊員の執念は、まるで溝口健二監督を思わせるほどです。

本部長としては、失敗する度に至近距離から引きつって裏返った大声で怒鳴られ幾度も遣り直させられるのですから、びくびくものになって、すっかり頭に血が昇り、もう完全にパニック状態です。

何を言われても、どうすればいいのか判断が出来なくなっているのが脇で見ていてもよく分かりました。

「急病人に呼び掛けるときは、額に手を当てて、もう片方の手で肩を軽く叩いてあげるんでしたよね!」

若い隊員に言われるままに、わが本部長は、片方の手は急病人の額に、もう片方の手は肩に置いて人形に呼び掛けます。

「大丈夫ですか!」

そう叫びながら、軽く肩を叩く方の手が動くと、同時に額に置いておいた手も動いてしまい、急病人の頭をパンパン叩いてしまうのです。

両方の手が魔法に掛けられたみたいに同時に動いてしまうことをどうにもできない本部長は、若き溝口健二の狂気のような罵声(そんなことをしたら、病人が死んでしまうではないか!)に追い詰められながら、正気も理性もすっかり見失い、急病人の肩とともに、その病める繊細な頭を憑かれたように叩き続けていたのでした。

両の手を別々に動かすことができない本部長の目は、すっかり「いって」しまっていました。

そこには、まるでグロリア・スワンソンを思わせる鬼気迫るものが確かにありました。
by sentence2307 | 2006-08-10 22:44 | ビリー・ワイルダー | Comments(0)

サンセット大通り

僕もよく「そう」するのですが、映画の感想を書こうとするとき、ラスト・シーンから、話し始めた方が、その作品の理解の本筋に肉薄し易い、なんてことありませんか。

ワイルダーは、ドラマチックな余韻を残す終わり方にこだわる人ですし、しかも、どの作品もホント見事です。

失望した作品は、ほとんどありません。

そして、これだけの完成度を持つ完璧な作品「サンセット大通り」でさえ、BESTと言い切っていいものかどうか、珠玉の作品群の前で、なんか自信がないくらいの、それ程の充実した作品群です。

そういう中でのこの「サンセット大通り」、力いっぱいグロテスクに描かれるラスト・シーンは、ノーマ・デスモンド=グロリア・スワンソンのアップで終わっていますから、冒頭のシーンで、プールに浮かぶ射殺死体ウィリアム・ホールデンよりも、あるいは、重要な人物として扱われていると見ていいのかなという気もします。

確かに「サンセット大通り」をウィリアム・ホールデン・サイドから見ると、確かにそういう感想になりますよね。

「悪夢からの脱出失敗」みたいに。

でも、この映画にゾロゾロ特別出演している往年の役者たち、セシル・B・デミル、バスター・キートン、アンナ・Q・ニルソン、ヘッダ・ホッパーなどの顔ぶれをわざわざ登場させたことなどを考え合わせると、どうもこの映画、もう少し奥行きのあるメッセージがあるような気もします。

例えば、劇中、かつて映画監督でノーマの夫でもあったという執事役のエリッヒ・フォン・シュトロハイムは、現実でも、伝説的な「愚かなる妻」や「グリード」を撮って怪物的な監督として名声を上げながら、自我の強さから監督としては次第に無視され、俳優業に専念せざるを得ない状況に追い込まれていった中での、この役だったらしいのです。

監督として失速していく原因のひとつともなっている「ケリー女王」1928を演出した際の主演のグロリア・スワンソンと衝突したことによって本作が欧州公開のみせざるを得なくなってしまうそうした背景をもった顔合わせの妙などもあるようなのです。

あるいは、ビリー・ワイルダーとチャールズ・ブランケットの絶妙なコンビネーションのことなども機会があれば書いてみたいと思います。
by sentence2307 | 2004-11-12 21:15 | ビリー・ワイルダー | Comments(4)

お熱いのがお好き

この映画の最も重要な場面は、億万長者の御曹司に化けたトニー・カーチスが、豪華ヨットに売れない歌手モンローを誘い込み、濡れ場を演じるシーンでしょうか。

カーチスはしがないバンドマン、玉の輿を狙っているモンローに正体を知られれば、この恋が終わってしまうかもしれないことが分かっています。

さて、その「濡れ場」ですが、モンローの方は、何とかこの大金持ちの御曹司に気に入られようと懸命にアタックします。

すると御曹司が、自分は性的不能者だから、あっちの方は駄目なんだ、と告白すると、私に試させてと、濃厚な口づけを始めます。

不能者ですから、欲情の証は絶対みせるわけにはいきません。

モンローが、あらん限りの性技術を駆使して、「不能者」をその気にさせようと捨て身の献身をするのですから、これはもう、物凄いことになったんだろうな、と僕たちは自分の「状態」をも省みて実感します。

スクリーンで見たモンローのその集中力と熱心さは、もしかすると、その演技を、まるで性交のあれこれを工夫するかのように考えていたのではないのかな、などとと思えてしまう位いです。

ここの掲示板でモンローを「つくられたセックスシンボル」と書いたのですが、この映画を改めて見、また、ワイルダーが、女装のグロテスク度をできるだけ抑えるためモノクロとしたことに、モンローがクレームをつけたこと等を知り、必ずしもモンローが「つくられ」てばかりいた受身の女優ではなかったことに、認識をやや改めました。
by sentence2307 | 2004-11-07 11:32 | ビリー・ワイルダー | Comments(0)