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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:周防正行( 4 )

前回、周防監督作品「変態家族 兄貴の嫁さん」の自分のコメントに、CB400Fさんから
「(吉本新喜劇風に)な、な、なんじゃそら!?」
と強烈なツッコミを入れられてしまい、その一言を胸に秘めながら、ただただ反省と悔恨の日々を過ごしました。

自分のあのコメントは、結論をはぐらかした、はっきり言って苦し紛れの「逃げ」のコメントだと言われても仕方ないくらいの支離滅裂さで失速し、中途半端に頓挫したわけですので、CB400Fさんのあのツッコミは、当を得た至極当然な発出だったと思います、しかし、弁解がましくなりますが、自分的には、本題へのアプローチに若干の齟齬をきたしたというだけで(結果的に、です)、目指した方向性とか姿勢に関しては、それほどの間違いをおかしたわけではないという気持ちが強いので、今回もまたその辺のところを含めながら書いてみたいと思います。

いま思えば、自分の反省としては、「オマージュ」と「パロディー」とを取り違えて論を始めようとした迂闊さに、そもそもの原因があったのだとはじめて気が付きました。

周防監督作品「変態家族兄貴の嫁さん」は、決して「『雪国』文体模写シリーズ」のような「パロディー」を目指したものなんかじゃなかったことは、夜の床で周吉が百合子(あっ、「紀子」じゃない!)に「夫婦のしあわせ」について語り掛ける場面の、オリジナル作品の「なぞり方」の忠実さと誠実さを見れば明らかです、これこそ「オマージュ」以外のなにものでもないのだと思いました。

周吉「そりゃ、結婚したって初めから幸せじゃないかもしれないさ。結婚していきなり幸せになれると思う考え方がむしろ間違っているんだよ。幸せは待ってるもんじゃなくて、やっぱり自分たちで創り出すものなんだよ。結婚することが幸せなんじゃない。新しい夫婦が、新しいひとつの人生を作り上げていくことに幸せがあるんだよ。それでこそ初めて本当の夫婦になれるんだよ。お前のお母さんだって始めから幸せじゃなかったんだ。長い間いろんなことがあった。台所の隅っこで泣いているのを、お父さん幾度も見たことがある。でも、お母さんはよく辛抱してくれたんだよ。お互いに信頼するんだ。お互いに愛情を持つんだ。お前が今までお父さんに持ってくれたような温かい心を、今度は佐竹君に持つんだよ、いいね?」

この日本映画史上特筆すべき高潔なセリフを周防監督は、別段茶化して言わせているわけでもないし、あえて曲解を招くような特異なシチュエーションのもとで話させているわけでもありません。

少なくとも、このセリフの「なぞり方」は、「『雪国』文体模写あそび」とは、まったく異質なものだと改めて感じました。
しかし、自分は、この「あえて曲解を招くような特異なシチュエーションのもとで話させているわけでもない」という部分に、とても深い違和感を覚えました。

そもそも、この映画を成り立たせている物語の骨格は、新たに家に迎えた肉感的な兄嫁に対する家族の並々ならぬ性的関心の物語です、カテゴリー的にいえば、「近親相姦・総当たりトーナメント」みたいなSMを絡めた「なんでもアリ」の艶めかしい雰囲気につつまれた家族映画です。

ですから、義父・周吉が嫁・百合子に語りかけるあのしんみりとした夜の床の場面でも、嫁はすでに夫(周吉には息子)に逃げられていることでもあり、義父と嫁の「(性的な)絡み」の機は十分に熟したと見ている観客にとって、ここは当然、義父・周吉が、すきを見て嫌がる嫁・百合子を強引に引き寄せたりなんかして、「いいじゃないか百合子さん、キッスくらい、なっ、なっ」てなことを言いながら、タコの吸出しのように口をとがらせて真っ白な肌(興奮で薄っすら赤味がさしています)の百合子にキッスを迫り、勢いで顔をなめまわし、かたや百合子は、誘うように身をくねらせ弱弱しい抵抗をみせながら「いやいや、いけませんわ、お父さま。ウ~ン、ダメェ、あっあー・ソコ」みたいな、そういった煽情的な場面を大いに期待しているにもかかわらずですよ、見せられたものは例の「そりゃ、オマエ、結婚なんてものはね」とかなんとか、実に興ざめなシャチホコばった長セリフが登場するわけですから、そりゃあ、観客の違和感たるや相当なものがあったわけですが、しかし、考えてみれば、周吉に好意を寄せていたバー「ちゃばん」のママとの「関係」にしてもなんら深められることなく、あっさり長男・幸一に横取りされてしまうというシチュエーションなども考え合わせれば、「あっ、これがオマージュってやつなんだよな」(汚れなき義父です)と変に納得してしまいました。

いやいや、理由を書かずに、すぐ納得なんかしてしまうと、また、CB400Fさんから「(吉本新喜劇風に)な、な、なんじゃそら!?」と言われてしまいますので、もう少し時間稼ぎをしてみますね。時間稼ぎとかじゃないだろ。あっ、はい。自問自答

自分は、「忠臣蔵」の大ファンで(お、おい、全然違う話が始まっちゃってるけど、大丈夫なの? まかしてください、大丈夫です)、御園京平の「映画の忠臣蔵」(講座・日本映画)という記事を座右に置いて常に繰り返し愛読しています。いつか、この記事をパクッて(お、おい!)、「大忠臣蔵列伝」を完成させたいと思っています。ちょっと考えただけでも、日本映画史を縦断・横断する物凄いものができるに違いありません。ぞくぞくしますよね。

こんな自分なので、タイトルに忠臣蔵と付いているだけで、なにを置いてもその作品は真っ先に見ることにしています、特に変種のものには、目がありません。むかし、「ワンワン忠臣蔵」なんてのもありました。

最近も、白竜主演の「極道忠臣蔵」(2011監督・片岡修二)という作品を見ました。

縄張り争いのゴタゴタもあって、侮辱されたことで逆上した組長が相手の組長に切りかかったことで本部から破門され、さらには陰謀によって雇われ殺し屋に暗殺され、そして若頭・白竜が出所してきて、苦難の末に親分の仇をとるという物語です。さしずめ、白竜が「大石内蔵助」です。

もし、タイトルに「忠臣蔵」となければ、すこぶる淡白に見過ごした可能性があります、第1回ピンク大賞監督賞を受賞した片岡修二監督作品といえどもね。

あっ、この場面は、「あの場」だと、いちいち記憶と照合する楽しみがあってこその「忠臣蔵」なのです。

そして、こういうことが「オマージュ」というものではないのかなと感じた次第です。


極道忠臣蔵
(2011)監督・片岡修二、企画・山本ほうゆう、プロデューサー・渋谷正一、脚本・片岡修二、撮影・河中金美、
出演・白竜、小沢和義、本宮泰風、武蔵拳、河本タダオ、國本鍾建、木村圭作、Koji、BOBBY、堀田眞三、松田優、加納竜、原田龍二



by sentence2307 | 2017-07-28 19:58 | 周防正行 | Comments(0)

変態家族 兄貴の嫁さん

少し前、古い友人と会ってお酒を飲んでいたとき、話のはずみで周防監督の「終の信託」の話になりました。

「それでもボクはやってない」の捜査官(副検事だったかも)の熾烈な取り調べの場面は、実にリアルで、恐ろしいくらいでしたが、「終の信託」の検察官(大沢たかおが憎々し気に演じていました。)もまた、それに劣らぬ「権力」というものの存在感を露骨に見せつけて(薄気味悪いくらいでした)、かなりの衝撃を受けたことを覚えています、そのことについて話しました。

時代劇なんかによくあるじゃないですか、お奉行さまの取り調べが佳境に入ったりすると、突然「役目によって言葉を改める」とかなんとか豹変して威儀を正し、一切の反論は絶対に許さない、ただ、お前は黙って罪を認めておればそれでいい、みたいな強硬なあの手の場面ですが、「終の信託」における大沢たかお演じる検察官も、かなり強引で冷ややか、恐ろしいくらいの名演でした。

リアルに「役人」というものが「権力」の一部であることを露骨に気づかせ、スクリーンでまざまざと見せつけました、いままで、あんなに「権力」を誇示した冷厳な役人像は、あまり見た記憶がありません、だから一層衝撃を受けたのだと思います。

そう思わせるくらい、「権力」を後ろ盾とした、あからさまな「検察官像」だったと思います(それもこれも周防監督の演出力の力量を示したものに違いありませんが)、あの場面を見ていて、「権力の走狗」という言葉が(最近は、あまり耳にしませんが)、自分の中から自然に沸き上がってきたくらいですから、それはもう大変な演出力でした。

映画「それでもボクはやってない」でも、取調官の手元には、すでに事件についての調書(下書きかも)が用意されていて、実際の対面での取り調べは、単にその作文をなぞって確認するだけの「復習=復唱」にしかすぎず、被疑者が「その部分は事実と違う」と必死に抗弁しても、「余計なことを言うな! お前は、本官が尋問したことだけ答えればいい」と一喝され、そうした恫喝のもとで成立した検察官の調書(たとえそれが脅迫によって捏造されたものであっても)を認め、署名捺印でもすれば、それで権力のメンツは立ち、そのあとで、「罪を認めれば許してやるぞ」的な「寛容な恩情」によって「二度とやるなよ」と放免されるという国家権力の「裁きのシステム」を、周防監督は、あの作品によって如何なく白日の下に暴き出したのだと思いますし、その指摘が「冤罪」を生み出すシステムであったことにも気づかせた結果、司法を痛撃し、国を動かしたことも事実だったと思います。

いや、まずい、まずい、酒の席で、ついテンションをあげてしまい、こんなカチンコチンの硬派な話をしてしまって、久しぶりの貴重な邂逅の時間を台無しにするところでした。

なにも、こんな陰気で深刻な話をするつもりなど、さらさらなかったのですが、つい場の勢いでこんな話になってしまいました。

その責任の一端は自分にもありますので、あわてて話を周防監督のデビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」に捩じ向けました。

この作品の話なら、深刻にも陰気にも、なろうはずはありません。

これは実にいい機転だったのですが、いかんせん、周防監督のこのデビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」を、自分はまだ見ていませんでした、この時点ではね。

しかし、この作品、小津監督へのオマージュ作品としての評判だけなら、むかしから嫌というほど聞かされていたので、作品の方向性というか、「作られ方」みたいなものの見当はだいたいつきます、「見てない」ことはぼかしながら、ひたすら小津監督サイドから話を向けていけば、なんら問題はなしと、適当に話を合わせていたのですが、そのうちに作品の細部についての「同意」の要請に対して幾たびか口ごもり・失敗し、やがて自分がこの作品を「見てない」ことが、ついにバレてしまいました。

そうなれば、ここはふてぶてしく開き直るしかありません、長い会社人生、いままでだって自分はそうやって立派に生きてきました、自分で言うのもなんですが。

まあ、そんなふうに頑なにならなくたっていいのですが、言ってしまえば気が楽になり、「見てないことのどこが悪い」と逆に居直り、あとはひたすら聞き役に回りました。

そして、聞いているうちに、彼がそのテープを保有していることが分かりました。

「えっ、あるの?」、「なら貸してよ」と図々しくおねだりし、その次の飲み会のときに、ついに周防正行監督デビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」を入手しました・できました。

そして、見終わったのが、いまのいまなのですが、う~ん、この作品にどのような「感想」を自分が抱いたのか、実のところ戸惑っています。

最初は、話の筋を忠実にたどってみました。

しかし、そこに、どのようなヒントも隠されていないことは、明らかです、「そういう」映画として作られた映画ではないわけですから。

あっ、そうそう、自分が読んだエピソードの中に、「こんな奇妙な作品を撮って、映画会社が激怒した」なんていうのがありました。

煽情的な場面を期待してピンク映画館にやってきた客も、会社と同じように大方はきっとそうだったに違いありません。

小津監督の整理された画面、整理された時間、整理された枠組みを模倣するとなれば、当然そこには如何なる「情動」も入る余地がないということになるのかもしれません。ですので、こうして小津的に規制されて撮られた作品によって「エッチの気持ち」になりたいなどと願うこと自体、どだい無理な話だったのです。

しかし、自分がいままで経験した「オマージュ作品」っていうものは、もう少しデフォルメされていて、ときおり「自分」の作家性をも気づかせるために、オリジナルから少し必要な距離をとっている、その絶妙な距離感が「オマージュ」だと信じていたので、この「変態家族 兄貴の嫁さん」の「そのまんま」には、たとえそれが単なるパロディだったとしても、逆に「解釈」が必要なのではないかと悩んでしまいました。

つまり、この「距離感のなさ」を自分的に納得しなければ、この作品を「どう楽しめばいいか」ということも分からないのでないかと考えたのかもしれません。

そのとき、ふっと「あること」を思い出したのです。

ずっとむかし、和田誠の著作に、川端康成の「雪国」の出だしの文章を、当時の流行作家たちが書いたらどうなるか、というパロディ本があったことを思い出しました。

書名はちょっと思い出せませんが、実にユニークな着想で、感心し、腹を抱えて笑ってしまった記憶だけは鮮明に残っています。

さっそく「和田誠」をキーワードにして検索してみました、まずは国会図書館のサイトから。

そこでは、なんとヒット数は3744件、その中には、再版・重版(刊行日が違っても、それを1とカウントしているみたいです)も含まれているみたいなので、実数としてはもう少し少ないかもしれませんが、3744件とは、これはまた驚きました。

この中から、書名さえ分からない本を探すのは、至難のワザです。ましてや、(デジタル公開されていて内容が確認できるのならともかく)漠然としか分からない内容と、不明な書名とを勘で結びつけるなど、出来るわけがありません。

そこで、とっさの思い付きですが、苦し紛れにダイレクトで「和田誠 雪国」と検索してみました。

ありました、ありました。

なるほどね、最近になって重版されたみたいですね、この本。

書名は、和田誠「もう一度 倫敦巴里」とあります。(ナナクロ社刊、デザイン協力:大島依提亜、判型 :A5判上製176ページ、カラー多数、価格:2200円+税、発売:2017年1月25日)

そして、その内容の紹介には、

≪和田誠、1977年初版の伝説的名著『倫敦巴里』が、未収録作を加え、『もう一度 倫敦巴里』としてついに復活!
★川端康成の『雪国』を、もし植草甚一が、野坂昭如が、星新一が、長新太が、横溝正史が書いたとしたら。(『雪国』文体模写シリーズ)
イソップの寓話「兎と亀」をテーマに、もし黒澤明が、山田洋次が、フェリーニが、ヒッチコックが、ゴダールが映画を作ったとしたら。(「兎と亀」シリーズ)
ダリ、ゴッホ、ピカソ、シャガール、のらくろ、ニャロメ、鉄人28号、星の王子さま、ねじ式、007、「雪国」……数々の名作が、とんでもないことに!?
谷川俊太郎、丸谷才一、清水ミチコ、堀部篤史(誠光社)の書き下ろしエッセイを収録した特製小冊子付。(※丸谷才一さんのエッセイのみ、再録となります)
※本書は、1977年8月、話の特集より刊行された『倫敦巴里』に新たに「『雪国』海外篇」「雪国・70年2月号・72年11月号・73年12月号・75年2月号・77年2月号のつづき」を加え、再編集したものです。著者監修のもと、原画がカラーで描かれていた作品は、カラーで掲載しています。≫


とあり、かつて自分が読んだのが「★『雪国』文体模写シリーズ」だったんですね。

さっそく、この本を図書館から借りてきました。

せっかく借りてきたので、「もし村上春樹が『雪国』を書いたら」を転写しておきますね。


≪昔々、といってもせいぜい五十年ぐらい前のことなのだけれど、そのとき僕はC62型機関車が引く特急の座席に坐っていた。とびっきり寒い冬の夜だった。
機関車は逆転KO勝ちを決めようとするヘヴィー級ボクサーのようにスピードを上げ、国境のトンネルをくぐり抜けた。やれやれ、また雪国か、と僕は思った。
一日がガラス瓶だとすれば、底の方に僕たちはいた、果てしなく白い底だ。
信号所に汽車が停止したとたんに、「月光価千金」のメロディが聴こえた。向かい側の座席にいる女の子が吹く、澄んだ星のような音色の口笛だった。彼女は人目をひくほどの美人ではなかったけれど、おそろしく感じのいい女性だった。
彼女は立ち上がって、僕の前のガラス窓を落とした。雪の冷気がかたまりになって流れこんだ。
「駅長さあん、駅長さあん」
窓いっぱいに乗り出して、アルプスでヨーデルでも歌うみたいに彼女が遠くへ叫ぶと、闇の中から黄色い光を放つカンテラをさげた男がやってきた。光は闇の対極にあるのではなく、その一部なのだ、と僕は感じた。≫


転写に集中していたら、この「文体模写シリーズ」と「変態家族 兄貴の嫁さん」が、どのように繋がるのか、繋がりを持たせようとしたのか、そのアイデアをすかっり忘れてしましました。

思い出したら、また書きますね、ごきげんよう。

(1984国映、新東宝)朝倉大介(企画)、周防正行(監督)、井上潔(監督助手)、富樫森(監督助手)、周防正行(脚本)、長田勇市(撮影)、滝影志(撮影)、周防義和(音楽)、TOJA2(演奏)、種田陽平(美術)、矢島周平(美術)、大坂正雄(音楽録音)、ニューメグロスタジオ(録音)、小針誠一(効果)、長田達也(照明)、豊見山明長(照明)、菊池純一(編集)、磯村一路(製作担当)、斉藤浩一(タイトル)、
出演・風かおる(間宮百合子)、山地美貴(間宮秋子)、大杉漣(間宮周吉)、下元史朗(間宮幸一)、首藤啓(間宮和夫)、深野晴彦(従兄・間宮秀三)、麻生うさぎ(「ちゃばん」のマダム)、原懶舞(九州の若夫婦)、花山くらら(九州の若夫婦)、

1984.06. 62分 カラー ビスタサイズ


by sentence2307 | 2017-07-22 08:27 | 周防正行 | Comments(1)

終の信託

少し前、定期購読をつづけていた「キネマ旬報」を、根っからの無精と怠け癖から読みきれないまま漫然と溜め込んでおいたことが「場所ふさぎ」と家人の猛抗議をかい、積ンドク本の一挙処分と「定期購読」の解約という猛烈な我が家の行政処分に見舞われました。

これから「キネマ旬報」は、主だったものをときどき(決算号は必ず購入するつもりです)買う程度にするということで一応示談に持ち込みましたが、読み終わった本はすぐに処分するか、読まないうちは次の号も買わないという無精者にはなんとも厳しい条件つきです。

そんなことがあってから、もう随分と月日が経って、そうした習慣にもいつの間にか自然と馴染み、どんなつまらない記事でも結構精勤して読めるようになりました(興味のもてない記事・つまらない記事を無理して読むということが、果たして意味のあることかどうかはこの際考えないようにしています)。

この新習慣について別段これといった不自由を感じたことはないのですが、ただひとつ、途切れた連載物を虫食いのまま飛び飛びに読むというのは、なんだか味気なくて結構なストレスになるものなんだなあと実感しているところです。

特に、その文中、筆者が「前回書いたように・・・」などとノタマワッタリすると、なんだか自分だけが仲間はずれにあったようで鼻白み、こんなさびしい思いをするくらいならいっそのこと読むのは止めだと、まるで登校拒否児のようにイジケて、いつの間にか連載物はあえて読むのを敬遠するようになりました。

しかし、いざ読まないとなると、気にかかる記事なら、やっぱりあります。

そのひとつが、川本三郎の「映画を見ればわかること」でした。

鉄道のレアな知識も関連づけたりして、引用する映画題名の豊富さはとても魅力的で勉強になります。

ノートを傍らに置いてメモをとりながら読むこともあり、その楽しさたるや替えがたいものがありました。

そういう読み方に結構ハマっていたので、「キネマ旬報」の定期購読中止は、その当初は、確かに応えました。

しかし、あるとき雑誌を読みに図書館に行ったとき、川本三郎の「映画を見ればわかること」が既に単行本になって何冊も出ていることを知りました。

分かってみれば、な~んだ、そりゃそうだよなという感じです。

さっそく借りて読んでみました。

雑誌に掲載してある記事の一部として、しかも途切れ途切れに読んでいるときには全然気が付かなかったことも、通して読んでみると、はっきりと分かることがありました。

これはあえて最初に申し上げておきますが、これから記すことは、決して悪気で言っているわけでないことをはっきりとお断りしておかなければなりません。

それにしてもこの川本三郎のコラムって、有り余る知識をただヒケラカシテいるだけの、毒にも薬にもならない実に軽い(くだらないとまでは言いません)記事であることにはじめて気が付かされました。

どうしてそのように感じたのかというと、きっと、自分の「雑誌を読む」という姿勢と、「単行本を読む」という心構えとかが、そもそも最初からすこぶる異なるために、川本三郎の「映画を見ればわかること」を、ほとんど小林秀雄や吉本隆明の論評と同レベル・同じ気構えで取り組もうとしていたことに起因すると気が付いたのです。

いわば、自分にとっての普遍的な「単行本を読むぞ!モード」で単行本「映画を見ればわかること」を読み、そして受けた失望は、ですから自分自身の読書姿勢のモードの問題なのであって、決して川本三郎の無能やヒケラカシに帰するものでないことをはっきりとお断りしておかなければなりません。

そして、このコラム「映画を見ればわかること」とは、そういう軽いコラムなのですから、でき得ることならこの手のものは雑誌掲載どまりにしておいて、晴れがましい単行本などはミズカラ遠慮し、読み捨て扱いにすべきものだったというのがボクの私見なのですが、そこはまあ出版各社のそれぞれのお家事情もあったりして、そこまで忖度すべきことではないとは知りつつも、しかしなんですよね、それもこれも結局は、あまりにも本が売れないことにすべての原因があるのかなあなどと考えたりしています。

しかし、なぜ自分がこんな余計なことを考えたかというと、川本三郎先生の同シリーズの最新刊「映画は呼んでいる」を読んでいて、そこに周防正行監督の「終の信託」について書かれたクダリがあり、それがなんとスコブル「映画批評」めいていて、いわば薀蓄先生ここに豹変すという感じで、一挙に興ざめしてしまいました。

「電車が走って嬉しいな」くらいならまだしも、「映画批評」とは穏やかではありません。

その書き出しは、こんなふうになっています。

《国家権力の怖さ、より具体的にいえば、取調べ検事の、権力を笠に着た怖さに戦慄した。
周防正行監督「終の信託」の後半、医師の草刈民代は患者を死なせた容疑で東京地検に呼ばれ、検事の大沢たかおの取調べを受けることになる。
狭く暗い検事室での約四十五分間続く、この場面は、国家権力の怖さ、冷酷さ、非情をあますところなく突き付けてきて圧倒的な迫力がある。
むき出しの権力の前に、無防備な個人がさらされ、いたぶられ、「罪」へと追い詰められていく。
個人の感情、思い、心など一顧だにされず、法律の条文だけによって裁かれていく。
ことの裏側にあるものなど排除され、ただおもてに現れた事実だけが並び立てられていく。
いわば真実が事実の前に消えてしまう。
法律とはそもそもそういうものだといってしまえばそれまでだが、それが、国家権力によって裏付けられているというところが怖い。》

なるほどなるほど、しかし、なんですね、「個人の感情、思い、心など一顧だにされず、法律の条文だけによって裁かれていく」からいいものの、「法律の条文によらず、個人の感情、思い、心などで裁かれていく」のだとしたら北朝鮮みたいな暗黒恐怖社会になってしまいますよね、きっと。

「法の支配」とは、そういう恐怖から身を守るための無力な民衆が、多大な血を流しながら獲得してきたものなのだということをなんだとおもっているんだとちょっと憤りを感じてしまいました。

耳ざわりのいい毒にも薬にもならないような綺麗な言葉を並べたてて、たかがゴロ合わせのために、もっとも重要な理念をも否定してしまうような川本先生の軽薄と愚鈍とにカチンときたのです。

確かに、あの強引な検事の取調べの様子は、迫力に満ちていて近年まれにみる権力の暴走を描いた傑出した場面であることに違いはありません。

「権力の乱用」に対しての義憤と嫌悪感も覚えもしました。

しかし、それなら、多くの観客が、重篤な患者への延命治療を中止して死をもたらしたあの女医に果たして共感できたかどうか、あるいは感情移入するには、少なからず戸惑いを覚えたはずです。

女医・折井綾乃は主張します、患者・江木秦三は、過大な治療費のために、これ以上家族に経済的負担をかけたくない、迷惑をかけたくないという理由で、延命治療を望まなかったのだと。

やがて、患者の遺志の記されたノートが発見されて女医の医療行為は、かろうじて正当化・合法化されるのですが、それにしても観客の「女医に共感できたかどうか、感情移入するには、少なからず戸惑いを覚えた」その気持ちが晴れたわけではありません。

これがこの映画の至らなさです。そして権力批判にだけ夢中になるあまり、この映画の本質を見損なった川本三郎の愚劣な至らなさでもあります。

患者・江木秦三は、自分の病いのことよりなにより、家族のことを心配しています。

もうなにもしてあげられないままに、いままさに命の灯が途絶えようというときに、患者・江木秦三は、自分のことなどで家族に負担をかけるということを気にやんでいるのです。

そこからこそ「(金のかかる)延命治療などしないでほしい」という言葉が出てきたはずで、ここで重要なのは「延命治療」などではなく、「家族への迷惑」なのです。

しかし、トッチラカッタ女医は、早すぎた「延命治療の中止」に熱中するあまり、その不手際から臨終に立ち会う家族の前で、患者のいまだに残されている生命力を懸命になって断つという医者として本末転倒な行為によって、患者の苦しむ断末魔を、嫌というほど家族に見せつけています。

これが患者の望んでいた遺志だったのかという疑問が湧き上がってくるとともに、女医がこだわった「延命治療の中止」が、本当に患者の望んだことの反映の域内にあったと言えるのかどうか。

しかし、「家族へ迷惑」をかけたくない、自分の病気で家族をこれ以上苦しめたくないということだったのなら、「延命治療の中止」はいつの間にか変質してしまい、かえって家族を苦しめるという、患者・江木秦三の希望とは程遠いものとなり、女医が患者に施した措置も誤っていたというべきだったと思います。

前作「それでもボクはやってない」で描いたあの満員電車で女性の尻を触ったか触らなかったかという瑣末な真偽をつきつめることによって、国家権力のシステムの中枢に肉薄し、そのいい加減さを痛烈に暴きたてたあの爽快さは、この作品にはありません。

残念ながら、観客は、こういう的外れの映画には共感しないし、権力亡者・川本三郎の世迷言にも同調しない。

大衆は、あなたが考えているよりずっと賢いし、「チンチン・デンシャ」なんかもそれほど好きでないかもしれませんヨ。

(2012東宝)監督脚本・周防正行、原作・朔立木、エグゼクティブプロデューサー・桝井省志、製作・亀山千広、企画・小川泰、市川南、小形雄二、プロデューサー・土屋健、稲葉直人、土本貴生、堀川慎太郎、音楽・周防義和、撮影・寺田緑郎、照明・長田達也、美術・磯田典宏、録音・郡弘道、編集・菊池純一、エンディング曲・種ともこ 、 キリ・テ・カナワ、製作担当・島根淳、キャスティング・吉川威史、南谷夢、製作進行/プロダクション・マネージャー・前村祐子、助監督・片島章三、製作・フジテレビジョン、東宝、アルタミラピクチャーズ、製作プロダクション・アルタミラピクチャーズ
出演・草刈民代(女医・折井綾乃)、役所広司(患者・江木秦三)、浅野忠信(不倫相手・高井則之)、大沢たかお(検事・塚原透)、細田よしひこ(検事の助手・杉田正一)、中村久美(患者の妻・江木陽子)
by sentence2307 | 2014-01-18 18:48 | 周防正行 | Comments(0)
先日、会社のお偉いさんから、こんな「御触れ」がありました。

個人情報保護法関連で、今度の会計監査の時に、個人情報保護の管理についても監査があるかもしれないから、各課の責任者は「点検表」を完成させ、提出しておくようにというのです。

いままで経験したことがない監査だけに、どんなものになるのか予想もつきません。

きっと、パスワードの管理とか、顧客情報ファイルを鍵のかかるロッカーに収納して、しっかり管理しているかなどを滞りなく説明するくらいでいいのかとも考えたのですが不安は消えません。

いつまでもこんなふうに落ち着かないのは、そもそも一人で考えているせいだと気がついて、アフターファイブに第2課の統括をしている林さんを、ガード下の飲み屋に誘いました。

しかし、お互い初めての経験を前にしているという条件は同じなわけで、相手を喜ばせるような目新しい情報の持ち合わせなどあるわけもなく、結局、同じ状態なのだという、きわめて消極的な共通認識を得ただけだったのですが、そのときの林統括の表情が、心ここにあらずみたいな感じが気になりました。

それはアタカモ「そんなこと、たいした問題じゃないよ」といわんばかりの雰囲気ですので、どうしたの?と訊いてみました。

林さんは困惑した表情で、こんな話をしてくれました。

2課の女の子が、最近朝の電車で痴漢にあって以来、電車に乗るのが怖くなってしまい、ここのところずっと欠勤している、このままでは彼女退職するかもしれない、というのです。

「痴漢か」と相槌をうった僕たちの会話が、普通なら、ここからは当然彼女の傷ついた心のケアの心配とか、欠員となった場合の補充の見当とかが話題になるのでしょうが、映画オタクの二人の会話はひたすら迷走し、いつの間にか夢中になって周防正行監督の傑作「それでもボクはやってない」について議論していました。

ほどよい酔いが回り始めていたとはいえ、部下の身を気遣う気持ちなどこれっぽっちもない、実に不謹慎な話ではありますが。

林さんは言いました。「これは、映画以前の作品だよな」

当然悪い方の評価であることは咄嗟に分かりました、これは穏やかではありません。

近年では稀な、日本映画を代表する傑作といってもいい評価の高い作品です。

もし批判の理由に納得できないものがあったり、単なる理不尽な言い掛かりの類いだったら、邦画を心から支援している僕としては、それこそ「あなた、お言葉がちょっと過ぎますよ」くらいは言っておかなければなりません。

林さんは、この徹底した調査によって作られた現代刑事司法の不備を告発するこの映画のストーリーの余分なところをどんどんそぎ落としていけば、最後に残るのは、痴漢をされた傷ついた女子学生が、勇気をふるって「犯人はこの人です」と指差したために、被疑者が「それでもボクはやってない」と落胆のなかで抗議する部分に直結してしまう(最後には、ともに傷ついた被害者同士が、ともに憎しみ合うような構図が残されるために、その評価ほどには、与える感動は薄い)と言うのです。

その「そぎ落とした部分」というのには、当然、この映画の主要なテーマである、錯誤を犯した刑事司法が、その誤りを自ら軌道修正できないまま、開き直るように却って過誤を増幅・暴走させて冤罪を生み出していくという揺ぎ無い権力機構を描いた危うい部分も含まれています。

「それは暴論ですよ、林さん」この映画から、冤罪を生み出すという部分を外してしまったら、この作品そのものが成り立たなくなってしまいますよ。

「そこなんです」と林さんは言いました、だからこの映画は、「世の中には、まだまだこんな権力濫用の酷い事実がある」とか「悪を断罪すべき裁判も、時には誤って冤罪を生み出す」という告知(それを「告発」といっても一向に構いません)しただけのドキュメンタリーか、もしくは産業映画ではあっても、「ドラマ」では決してない、それが評価の割に観客に感動を与えられなかった理由だと林さんは言いました。

妙な間が、気まずい沈黙に変わってしまわない前に「でも、やっぱりこれって傑作なんでしょう?」と僕が聞くと、「たとえ感動できなくとも、それでも傑作ってあるんでしようか」と切り替えされてしまいました。

しかし、作品の出来はどうあれ、周防作品の中に小津安二郎作品の影を探す楽しみは残っています。

まず、主人公・金子徹平の住むマンションの管理人(竹中直人が演じています)の名前が、あの突貫小僧の「青木富夫」でした。

それから山本耕史の演じる徹平の親友の名前が、初期の小津作品に出演していた「斉藤達雄」です。

留置場で薄気味悪く徹平に言い寄る同房者(本田博太郎が演じています)の名前が「母を恋わずや」や「浮草」で印象的な演技を見せた「三井秀男」です。

徹平が「現行犯逮捕」されたときの悪意に満ちたお節介な目撃者(田口浩正が演じています)の名前が「月田一郎」

徹平の無実を知る目撃者(唯野未歩子が演じています)が、「その夜の妻」の「市村美津子」です。

それから、徳井優が演じた留置担当警察官の名前が、「出来ごころ」に出ていた「西村青児」でした。

大森南朋が演じていた取調べの担当刑事・山田好二は、「東京暮色」で警官役を演じていました。

そして、山田刑事の上司・和田精二(田山涼成が演じています)は、「東京暮色」で判事を演じた宮口「精二」の役名「和田」からの合成名くさいです。

そして、徹平を痴漢犯人として警察官に引き渡した駅員(石井洋祐が演じていました)平山敬三は、「東京物語」で大坂志郎が演じていた三男と同じ役名でした。

徹平の母親・もたいまさこの役名・金子豊子は、「東京物語」で杉村春子の長女・金子志げと、尾道の話し好きの隣家の主婦を演じた高橋豊子の、「東京物語つながり」の合成名ではないでしょうか。

しかし、どう足掻いても、こじつけられないのが、瀬戸朝香演じる弁護士・「須藤莉子」と、光石研演じる痴漢冤罪事件の被告人の「佐田満」でした。

明らかに「岡田茉莉子」と「佐田啓二」に繋がるキイワードがどこかにあるはずなのですが、ついに分かりませんでした。

ザンネン!

(2006東宝)監督脚本・周防正行、製作総指揮・桝井省志、製作・亀山千広、関口大輔、佐々木芳野、音楽・周防義和、撮影・柏野直樹、編集・菊池純一
出演・加瀬亮、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、田中哲司、光石研、尾美としのり、小日向文世、高橋長英、役所広司、竹中直人、正名僕蔵、小日向文世、柳生みゆ、鈴木蘭々、野間口徹、光石研、清水美砂、大和田伸也、益岡徹、田中哲司、唯野未歩子、田口浩正、大森南朋、田山涼成、本田博太郎、尾美としのり、北見敏之、高橋長英、石井洋祐、中村靖日、野元学二、本田大輔、矢島健一、大谷亮介、菅原大吉、
143分
by sentence2307 | 2008-05-31 14:23 | 周防正行 | Comments(0)