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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:スチュアート・ローゼンバーグ( 2 )

暴力脱獄

最近は、原題の横文字をそのまま使うことが多くなりましたが、とんでもない邦題をつけて顰蹙をかうよりは、まだその方がいいのかもしれません。

でも、横文字をそのまま使うことで、作品に対するイメージがつかめず、印象が幾分薄れてしまうのではないかという懸念も片方であるので、きっとむかしみたいに素晴らしい邦題がつけば、状況も一変するかもしれません。この話は、きっとどこまでいっても「安直な原題の流用に偏りすぎるのはいかがなものか」みたいなものとツイで論じられることが多いでしょうから、白か黒かなどというすっきりとした結論を期待しない方がむしろいいのかもしれません。

例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「Cool Hand Luke」を「暴力脱獄」と暴走ぎみに意訳した感覚には、手放しで敬服しているひとりです。

「平時」にあっては、とても普通の感覚では考え付かない命名だと思いませんか。

内容からは、遥かにかけ離れたこのタイトル「暴力脱獄」は、なにしろゴロがいいです。

何となく「暴力革命」という超危険な語感を連想させ、思わずゾクゾクッときてしまう、あの感覚ですよね。

世界的な潮流を受けて日本の学生たちも叛乱に向けて徐々に動き始めた1967年というまさにそういう時代につけられたタイトルに僕たちは不思議な胸騒ぎみたいなものを感じたのだと思います。

そして、この叛逆のテーマを演じ続けてきたポール・ニューマンという俳優が、不服従という反抗を貫き通すことによって、ひるむことなく魂の自由を求め続け、そのためには破滅さえ厭わないのだという演技をデビュー以来一貫して演じ続けてきたことに対する共感でもありました。

アクターズ・スタジオ出身の演技者としてモロに意欲をみせようとしたテネシー・ウイリアムスものや円熟の域に達したといわれる最近のキュートな作品もそれなりの意味があるのかもしれませんが、やはりなんといっても「傷だらけの栄光」から始まって「暴力脱獄」で完結する一連の系列の作品こそポール・ニューマンらしい役どころがあり、スタートからすでにそのカリスマ性を形成したのだと思っています。

しかし、「左ききの拳銃」、「ハスラー」、「ハッド」など、アンチヒーローと呼ばれたそれら主人公像は、当時、NYアクターズ・スタジオ出身の先輩マーロン・ブランドのコピーにすぎないと書き立てられ、ポール・ニューマンもそのことを随分嫌がっていたという記事を読んだことがあります。

同じスタジオで演技指導を受けたために似かよった部分が出来上がってしまったのは仕方のないことだったのか、あるいは、芸能ジャーナリズムが勝手に作り出した単なる偏見にすぎなかったのかもしれませんが。

例えばこの「暴力脱獄」の惚れ惚れするような一場面、どうにもならない絶望的な状況に追い込まれ窮地に立った時に、ルーク=ポール・ニューマンが浮かべる敵を更に挑発するようなあの「不敵な薄笑い」を指すのでしょうか。

ごく初期のマーロン・ブランドも確かに人を小馬鹿にしたような薄笑いを常に浮かべていましたが、ポール・ニューマンが演じようとしていた反逆者とはまるで違う場所を目指していたと思います。その表れのひとつが「暴力脱獄」だったと思います。

内容的には、邦題のタイトルから受けるイメージ「暴力による脱獄」という印象は、ちょっと違うかなというのは、この映画、むしろ「脱獄」に失敗して捕まる度に「暴力」をふるわれるというのがこの作品のストーリーだからです。

看守たちのリンチに耐え、怯むことなく、なおも自由を求めて脱走し続けるというガッツが描かれていて、まあ、殴られて耐えるのを「ガッツ」といえるかどうかは分かりません。

むしろ、後年主演男優賞争いで敗れる「ガンジー」の無抵抗主義を思わせてしまうあたりは皮肉ですが。そして、ルークの前には、絶対的で強力な権力を持っている所長や看守たちが立ち塞がり、どうすることもできないという絶望的な状況がそこにはあります。

刑務所という国家権力の武力装置システムに「拘束する」という強制を、「脱獄」する手段で対抗する権力者を辱める反抗の姿勢はマーロン・ブランドでさえ持ち得なかった演技の深みがあったのだと思います。

再三の脱獄に失敗し、懲罰房に入れられて徹底的に痛みつけられたルークは、その後、看守たちの走り使いなどをして、権力の暴力に屈したかに見え仲間から軽蔑の眼差しでみられる場面などもあるのですが、しかし、それは、再度の脱獄の可能性を残すためも無抵抗のカモフラージュだったことが後で分かり、囚人仲間がルークのガッツにあらためて感嘆するという場面なども用意されています。

あの軽蔑と感嘆の振幅のなかには、不服従の弱さのイメージと信念を貫き通す強さのイメージとを、あえて同列に置いてみせた設定が、とても新鮮に思えました。

俳優としてのポール・ニューマンの生き方も髣髴とさせるものがありました。

しかし、ただそれだけで、この「暴力脱獄」が、伝説の映画たり得るための要件を満たしているとは思えません。

この映画の魅力は、なによりも、ルークを、「今は亡き」既に伝説の中の男、囚われの男たちの「希望」そのものとして描いているところにあったからだと思います。

ジョージ・ケネディが遠い目をして「いまは亡き彼の伝説」を話し始めるあの郷愁のニュアンスです(この演技でジョージ・ケネディはアカデミー助演男優賞を獲得しています)。

クールなルーク(coolとlukeじゃスペルが違うので洒落じゃないと思いますが)の物語が語られ始めるとき、それは既に遠い思い出の郷愁のなかで語られるジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」とかロバート・マリガンの「アラバマ物語」の、あのなんとも知れん感覚を思わせますね(ここはどうしても淀長さん風でやらないと感じがでません)。

失われたものを振り返るある胸が締め付けられるような郷愁に満ちた思い出の中に生きるルークの薄ら笑いが、負け惜しみの薄ら笑いではなく、彼の後を着いて行きたくなるような生きること自体にすこぶる挑発的な薄ら笑いなのだなとそのとき思いました。

しかし、あの役を、もしマーロン・ブランドとかデニス・ホッパーがやっていたら、観客をこんな深い思いに導くカリスマ性が演じられたかどうか、疑問だと思います。

ポール・ニューマンは、つねづね、まずスターであるよりも、アクター(演技者)であるとともに、家庭を大事にすることを心がけていると公言し、自他共に「最も偉大な普通人」と呼ばれていることは有名でした。

ハリウッド的な考え方を嫌い、愛想も振り撒かないし、サインもしない。

東部に住居を構え、ハリウッドに反旗を翻しながら、しかし、追放される(デニス・ホッパーのように)こともなく、作品を選び続けられる位置を確保している(彼が拒否した作品として知られているのが「オール・ザット・ジャズ」「普通の人々」「ロマンシング・ストーン」です)。

これは、大変なことだったと思います。

こういうギャップが、彼を「本当の大人」に見せてしまうのでしょうか。

しかし、僕の場合も、かつては、優等生のポール・ニューマンよりも、永遠の問題児デニス・ホッパーが好みだと言って仲間内でのウケ狙いに走っていた時期もありました。

しかし、タイプがまるで違うこのふたり、実は共通していることがあります。

それは、共にブロード・ウェイのアクターズ・スタジオで学んでいること、そして共にジェームズ・ディーンに逢っていること、そして両極端という意味でハリウッドのスターらしからぬことでしょうか。

(1967ワーナーブラザース)監督・スチュアート・ローゼンバーグ、脚本・ドン・ピアース、フランク・ピアソン、製作・ゴードン・キャロル、音楽・ラロ・シフリン、撮影・コンラッド・L・ホール、編集・サム・オースティーン
出演・ポール・ニューマン(ルーク・ジャクソン)、ジョージ・ケネディ(ドラグライン)、J・D・キャノン(ソサエティ・レッド)、ルー・アントニオ(ココ)、ロバート・ドライヴァス(ラウドマウス・スティーブ)、ストローザー・マーティン(刑務所所長)、ジョー・ヴァン・フリート(アーレッタ)、クリフトン・ジェームス(カー)、ハリー・ディーン・スタントン(トランプ)、
by sentence2307 | 2013-05-06 11:06 | スチュアート・ローゼンバーグ | Comments(60)

暴力脱獄

最近は、原題の横文字をそのまま使うことが多くなりましたが、とんでもない邦題をつけて顰蹙をかうよりは、まだ罪は軽いかもしれません。

でも、こう横文字をそのまま使うことで、作品に対するイメージが幾分薄れてしまったのではないかという気持ちも片方にあるのは、きっと素晴らしい邦題も多いからでしょう。この話は、「安直な原題の流用に偏りすぎるのはいかがなものか」みたいな意見とツイで論じられることが多いのはそのためだと思います。

例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「Cool Hand Luke」を「暴力脱獄」と暴走ぎみに意訳した感覚には、手放しで敬服しているひとりです。

「平時」にあっては、とても普通の感覚では考え付かない命名だと思いませんか。

内容からは、遥かにかけ離れたこのタイトル「暴力脱獄」は、なにしろゴロがいいです。

何となく「暴力革命」という超危険な語感を連想させ、思わずゾクゾクッときてしまう、あの感覚ですよね。

世界的な潮流を受けて日本の学生たちも叛乱に向けて徐々に動き始めた1967年というまさにそういう時代につけられたタイトルに僕たちは不思議な胸騒ぎみたいなものを感じたのだと思います。

そして、この叛逆のテーマを演じ続けてきたポール・ニューマンという俳優が、不服従という反抗を貫き通すことによって、ひるむことなく魂の自由を求め続け、そのためには破滅さえ厭わないのだという演技をデビュー以来一貫して演じ続けてきたことに対する共感でもありました。

アクターズ・スタジオ出身の演技者としてモロに意欲をみせようとしたテネシー・ウイリアムスものや円熟の域に達したといわれる最近のキュートな作品もそれなりの意味があるのかもしれませんが、やはりなんといっても「傷だらけの栄光」から始まって「暴力脱獄」で完結する一連の系列の作品こそポール・ニューマンらしい役どころがあるのだろうと思っています。

しかし、「左ききの拳銃」、「ハスラー」、「ハッド」など、アンチヒーローと呼ばれたそれら主人公像は、当時、NYアクターズ・スタジオ出身の先輩マーロン・ブランドのコピーにすぎないと書き立てられ、ポール・ニューマンもそのことを随分嫌がっていたという記事を読んだことがあります。

同じスタジオで演技指導を受けたので似た部分があるのは仕方のないことだったのか、あるいは、芸能ジャーナリズムが勝手に作り出した単なる偏見にすぎなかったのかもしれませんが。

例えばこの「暴力脱獄」の惚れ惚れするような一場面、どうにもならない絶望的な状況に追い込まれ窮地に立った時に、ルーク=ポール・ニューマンが浮かべる敵を更に挑発するようなあの「不敵な薄笑い」を指すのでしょうか。

ごく初期のマーロン・ブランドも確かに人を小馬鹿にしたような薄笑いを常に浮かべていましたが、ポール・ニューマンが演じようとしていた反逆者とはまるで違う場所を目指していたと思います。その表れのひとつが「暴力脱獄」だったと思います。

内容的には、邦題のタイトルから受けるイメージ「暴力による脱獄」という印象は、ちょっと違うかなというのは、この映画、むしろ「脱獄」に失敗して捕まる度に「暴力」をふるわれるというのがこの作品のストーリーだからです。

看守たちのリンチに耐え、怯むことなく、なおも自由を求めて脱走し続けるというガッツが描かれていて、まあ、殴られて耐えるのを「ガッツ」といえるかどうかは分かりません。

むしろ、後年主演男優賞争いで敗れる「ガンジー」の無抵抗主義を思わせてしまうあたりは皮肉ですが。そして、ルークの前には、絶対的で強力な権力を持っている所長や看守たちが立ち塞がり、どうすることもできないという絶望的な状況がそこにはあります。

刑務所という国家権力の武力装置システムに「拘束する」という強制を、「脱獄」する手段で対抗する権力者を辱める反抗の姿勢はマーロン・ブランドでさえ持ち得なかった演技の深みがあったのだと思います。

再三の脱獄に失敗し、懲罰房に入れられて徹底的に痛みつけられたルークは、その後、看守たちの走り使いなどをして、権力の暴力に屈したかに見え仲間から軽蔑の眼差しでみられる場面などもあるのですが、しかし、それは、再度の脱獄の可能性を残すためも無抵抗のカモフラージュだったことが後で分かり、囚人仲間がルークのガッツにあらためて感嘆するという場面なども用意されています。

あの軽蔑と感嘆の振幅のなかには、不服従の弱さのイメージと信念を貫き通す強さのイメージとを、あえて同列に置いてみせた設定が、とても新鮮に思えました。

俳優としてのポール・ニューマンの生き方も髣髴とさせるものがあります。

しかし、ただそれだけで、この「暴力脱獄」が、伝説の映画たり得るための要件を満たしているとは思えません。

この映画の魅力は、なによりも、ルークを、「今は亡き」既に伝説の中の男、囚われの男たちの「希望」そのものとして描いているところにあったからだと思います。

ジョージ・ケネディが遠い目をして「いまは亡き彼の伝説」を話し始めるあの郷愁のニュアンスです(この演技でジョージ・ケネディはアカデミー助演男優賞を獲得しています。)。

クールなルーク(coolとlukeじゃスペルが違うので洒落じゃないと思いますが)の物語が語られ始めるとき、それは既に遠い思い出の郷愁のなかで語られるジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」とかロバート・マリガンの「アラバマ物語」の、あのなんとも知れん感覚を思わせますね(ここはどうしても淀長さん風でやらないと感じがでません)。

失われたものを振り返るある胸が締め付けられるような郷愁に満ちた思い出の中に生きるルークの薄ら笑いが、負け惜しみの薄ら笑いではなく、彼の後を着いて行きたくなるような生きること自体にすこぶる挑発的な薄ら笑いなのだなとそのとき思いました。

しかし、あの役を、もしマーロン・ブランドとかデニス・ホッパーがやっていたら、観客をこんな深い思いに導くカリスマ性が演じられたかどうか、疑問だと思います。

ポール・ニューマンは、つねづね、まずスターであるよりも、アクター(演技者)であるとともに、家庭を大事にすることを心がけていると公言し、自他共に「最も偉大な普通人」と呼ばれていることは有名でした。

ハリウッド的な考え方を嫌い、愛想も振り撒かないし、サインもしない。

東部に住居を構え、ハリウッドに反旗を翻しながら、しかし、追放される(デニス・ホッパーのように)こともなく、作品を選び続けられる位置を確保している(彼が拒否した作品として知られているのが「オール・ザット・ジャズ」「普通の人々」「ロマンシング・ストーン」です)。

これは、大変なことだったと思います。

こういうギャップが、彼を「本当の大人」に見せてしまうのでしょうか。

しかし、僕の場合も、かつては、優等生のポール・ニューマンよりも、永遠の問題児デニス・ホッパーが好みだと言って仲間内でのウケ狙いに走っていた時期もありました。

しかし、タイプがまるで違うこのふたり、実は共通していることがあります。

それは、共にブロード・ウェイのアクターズ・スタジオで学んでいること、そして共にジェームズ・ディーンに逢っていること、そして両極端という意味でハリウッドのスターらしからぬことでしょうか。
by sentence2307 | 2006-05-27 14:26 | スチュアート・ローゼンバーグ | Comments(104)