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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:瀬々敬久( 3 )

ずっと見る機会のなかった周防監督の伝説の映画「変態家族 兄貴の嫁さん」のテープを、酒の席の雑談でたまたま友人が所有しているのを知ったときのその驚きと喜び(そのとき瞬時に「これは借りられるな」と思いました)は、いまでも忘れることができません、日を置かずにさっそく借りて見ることができて、これでやっと積年の願いが叶いました。

実は、そのとき同時に借りたテープというのがあります、瀬々敬久監督の「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」1994、「牝臭 とろける花芯」1996、「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」2001の3本です。

いまでこそ、「64-ロクヨン-前後編」などメジャーな作品を立て続けに撮っている瀬々敬久監督ですが、かつては「ピンク映画四天王」の一人といわれて数多くの傑出した作品を残しています、今回借りたこの「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」も「牝臭 とろける花芯」も「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」も、この「分野」では、いずれも高い評価を受けた作品と聞いています。

あの酒の席での雑談で、友人に、かつて自分が「黒い下着の女 雷魚」のコラムを書いたと話したことを覚えていて、それで今回わざわざ貸してくれたのだと思います、

しかし、それにしても、これらの作品、その内容からは遥かにかけ離れた、相当物凄いタイトルです。

ピンク映画会社の集客のための営業戦略とはいえ、それぞれの作品に付されたこの淫靡で過激なタイトルから、その内容を憶測することは、ほとんど不可能です。

このコラムを書こうと思い立ってからの自分も、いくら頑張っても、ついに結びつきができないので、仕方なく、タイトルと簡単な内容とを対照したカンニング・ペーパーを作ったくらいでした。

ピンク映画のタイトルといえば、それこそ、オナニーやら強姦やら近親相姦やら、思わず目を背けたくなるような淫語の大パレードなわけですが、しかし、それも「掴み」のコツさえ分かってしまえば、なんてことありません。

使われる用語とその組み合わせは、意外なほどに単純でパターン化されているので、「ピンク映画」のもつ独特のタイトルの限定的な発想(淫語の種類などタカが知れていて、セイゼイその限られた熟語の組み合わせにすぎません)に慣れてしまえば、異様な性的意匠の外見や挑発的な用語にたじろぐ必要など毛頭ないことがだんだん分かってくると思います、いわば「慣れ」ですよね。

逆に、そのパターン化・記号化された単調さのために、かえって縁もゆかりもないタイトルから作品の内容がどんどん欠落・剥離し、タイトルが本来課せられているはずの内容を象徴する機能と役割を十分に果たせなくなっている印象です、いや、むしろ、その結び付けの試みを頑なに放棄しているようにさえ見えるくらいです。

例えば、「変態家族 兄貴の嫁さん」の描く世界は「近親相姦」の話ですが、このタイトルから、そのまま現にこの社会に存在する深刻で生々しいリアルなノンフィクションと思う人などは、まずなく、場数を踏めば、ただの妄想・とんでもない欲望ファンタジーみたいなものだと自然に「読み替え」ができるようになると思うのですが、しかし、一般の観客にとっては、「そう」はいきません。

お隣の妙齢なお嬢さんと世間話をしながら「ローマの休日」について話すみたいには、これらの作品(「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」や「牝臭 とろける花芯」のお噂)をタイトルをあげて話すことなど、やはり躊躇し、憚られるものがあります。

しかし、それもこれも、見る者を厳しく選別する一種の「業界用語」みたいな記号だと分かってしまえば、その作品が持つ真正な価値をきっと見失うこともないだろうと信じながら、書くべきことを箇条書きに整理し始めました。

そして、だんだん分かってきました。

もしかすると、これって最初から、そういうチャラチャラした層の観客を拒絶する戦略的意味合いもあったのかと。

ピンク映画においては、固定客(リピーター)以外の観客などハナから相手にしないどころか、「イチゲンさん、お断り」みたいに拒絶する・切り捨てるという戦略で、「分かる人だけが見に来てくれればいい」という立ち位置こそ、一般の価値観から距離をとって作ることができる本来の「ピンク映画」の在り方なのかもしれないと。

しかし、それにしても内容を象徴できないタイトルなんて全然意味がないと思うし、作り手の立場からすると、随分残酷な話のようにも思います。

以前自分がコラムに書いた「黒い下着の女 雷魚」のタイトルならまだしもです、このタイトルなら映画の内容も鮮明に想起することができますからね。

しかし、「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」や「牝臭 とろける花芯」や「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」のどこに、自立してその内容を瞬時に想起させることができる象徴性というものがあると言えるでしょうか、もはやスレスレの域を超えて、きわめて疑問と言わざるを得ません。

ピンク映画において「撮る自由」を獲得できた若き映像作家たちは、その見返りとして、内容を象徴するタイトルの「命名権」を失ってしまったのではないか、剥奪されてしまったのではないかと思えるくらいの無残な印象です、しかし、これってとても重要なことだと思いませんか。

習作時代の作品のタイトルを問われ、つい口ごもる彼らは、タイトルを失っために「作品」そのものも失ったことをそのとき気づくのではないかと。

でも、「自由」を獲得できるということは、本来そういう本質的なものの犠牲と喪失のうえに成り立っているものなのかもしれません、そんな気がしてきました。

さて、自分にとって、これだけの前振りがないとピンク映画の感想が書けないのかというと、そんなことはありません。

タイトルが内容の象徴的機能を果たせないのならば、かわりに「比喩」でその作品の全貌を言い表せないか、考えてみました。

まず「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」の印象です。

全編死の影に覆われたその殺伐とした風景描写(精神の荒廃も表しています)から、仮に「ゴダール風」と仮定してみましたが、しかし、ゴダールの描く人物像は、いずれもクールで淡白、極く乾いた印象で、こんなにも濃密に人間が人間にかかわろうとする関係(愛憎によって人を殺すに至るまでの激しい情感)を描いたものなどかつて見たことがないので、まずこれは違うなとすぐに否定し、しばし考えたのちに、ぴったりと重なる映画に思い当たりました。ミケランジェロ・アントニオーニの「さすらい」1957です。ラストの墜落自死ばかりでなく、風景の荒廃が魂の荒廃を映しているところなど、ぴったりなのではないかと思いました。

そして「牝臭 とろける花芯」は、直感的にロベール・アンリコの「冒険者たち」1967を連想してしまいました。底抜けの明るさに照らされながら、しかし、それは単に不吉な予兆にすぎず、「明日」に怯えている喪失感の不安みちた切迫感が作品全体を引き締めている、その感じが、思わず自分に「ロベール・アンリコ」を連想させたのだと思います。



そして、「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」は、断然ベルイマンだと思いました。絶えず「死の時間」を問いながら「死」を生きる者たちの緊張感に満ちた映像体験ができました。


冒頭、「生まれる前の時間と、死んだ後の時間って、どっちが長いと思う?」という問いからこの映画は始まります。

それは、この世に生まれ出るまでの待機の時間(そんなものが、果たしてあるのかと思う)と、死んだあとに無限に続く喪失の時間の長さを比較しようという、考えてみれば、なんと奇妙で空しい問いかと一瞬あきれてしまいます。

たとえ、それがどのような「時間」であろうと、空虚と化した自己にとってはもはや無縁以外のなにものでもない「時間」のはずです、それをあえて数えようという苦痛の虚無行為に、人はどれだけ耐えられるのかと思います。

しかし、この「ふたつの不在」を問う問いとは、つまり、そのまま、いま頼りなく生きているリアルな時間の卑小と無意味を問いただすことでもあるのだと気が付きました。

「死ぬまでどう生きるかはお前の自由だ」という悪魔の囁きも、荒廃した「現在」の限られた時間を、不確かでなんの拠り所もなく怯えて生きることの不安のどこに、「自由」などと呼べるものがあるのかという過酷な反語以外のなにものでもないような気がします。

時間軸が交錯し(というよりも「錯綜」し)「来たるべき死」は、予告されると同時に過去において決行され、頼りなげな幾つもの「生」は絶えず「殺意」に脅かされながら、生きる意味も見失い、動揺し、またたく間に「不条理な死」に強引になぎ倒される。

地下鉄サリン事件、東電OL事件、天安門事件など重くのしかかる時代の不安を核に、幾組かの男女の過去と未来、生と死、そして暴力と殺人の物語が交錯しながら描かれます。

やはりこれは、ベルイマンだなと思いました。


(時系列の整理、しときますね)
1995年、バイクに乗っていたケンヂ(石川裕一)は、街に散布された毒ガステロに遭い、この世を去ります。その死の瞬間、以前付き合っていた恋人ハルカ(佐々木ユメカ)を思い出します。
1997年、そのハルカは、父親へのトラウマから昼はOL・夜は娼婦という生活をしています。ある夜、ウサギの着ぐるみを着たサンドイッチマンの男とラブホテルに入り、そして、その死神を名乗るそのサンドイッチマンの男に、ホテルで撲殺されます。
1995年、ケンヂが死んだ日、ハルカと偶然町で擦れ違ったトシロウ(伊藤猛)は妻がいながらOLの真知子(佐々木麻由子)と不倫を重ねており、二人はSMプレイに溺れますが、事後トシロウは出産間近の妻の元へ急ぎます。
1989年、ケンヂのアパートにはバンド仲間のハギオ(佐藤幹雄)とミチ(奈賀毬子)、シンイチ(川瀬陽太)とアユミ(えり)が住んでおり、友人の葬儀の夜、それぞれ互いの恋人を相手に秘密で性行為に耽ります。翌日、シンイチは拳銃でアユミの頭を撃ち抜きます。
2002年、死んだケンヂとハルカは生まれ変わって再び出会い、やがて安らぎに満ちた新しい物語が始まろうとしています。



★高級ソープテクニック4 悶絶秘戯(迦楼羅の夢)
(1994国映)監督・瀬々敬久、企画・朝倉大介、脚本・羅漢三郎(瀬々敬久、井土紀州、青山真治)、撮影・斎藤幸一、照明・金子雅勇、編集・酒井正次、録音・銀座サウンド、助監督・今岡信治
出演・伊藤猛(イクオ)、栗原早記(メイコ)、下元史朗(トミモリ)、葉月螢、滝優子、夏みかん、小林節彦、サトウトシキ、上野俊哉、山田奈苗
製作=国映 配給=新東宝映画 1994.04.22 62分 カラー ワイド

★牝臭 とろける花芯
(1996)企画・朝倉大介、脚本・井上紀州、瀬々敬久、監督・瀬々敬久、撮影・斉藤幸一、編集・酒井正次、録音・シネ・キャビン、助監督・榎本敏郎
出演・穂村柳明、槇原めぐみ、川瀬陽太、伊藤清美、下元史朗、伊藤猛、小水一男
製作=国映 配給=新東宝映画 1996.07.26 61分 カラー ワイド

★トーキョー×エロティカ 痺れる快楽
(2001国映)監督脚本・瀬々敬久、企画・朝倉大介、プロデューサー・衣川仲人、森田一人、増子恭一、助監督・坂本礼、撮影・斉藤幸一、音楽・安川午朗、録音・中島秀一、編集・酒井正次、監督助手・大西裕、
出演・佐々木ユメカ(ハルカ)、佐々木麻由子(小谷真知子)、えり(アユミ)、奈賀毬子(ミチ)、石川裕一(ケンヂ)、下元史朗(サンドイッチマンの男)、伊藤猛(来生トシロウ)、佐藤幹雄(ハギオ)、川瀬陽太(シンイチ)、佐野和(ウサギ)、
製作=国映=新東宝映画 配給=国映=新東宝映画 2001.08.31 77分 カラー ワイド




by sentence2307 | 2017-07-30 22:30 | 瀬々敬久 | Comments(0)

雷魚

これは、ピンク・ヌーヴェル・ヴァーグの一翼をになうと言われている瀬々敬久の確かな力量を感じさせる鮮烈な作品です。

社会から取り残されたような殺伐とした寒々しい工業団地を背景に、行き場のない男と女が「殺人」という行為を通して交差する荒涼とした映画です。

人妻の紀子は、入院中の病院を抜け出し、不倫相手の田辺を訪ねますが、会うことを拒まれます。

そして、その動揺に耐え切れずに、テレクラで知り合った相手・裕幸とホテルで性交します。

行為のあと、セックスの報酬のように金を渡された紀子は、隠し持っていたナイフで、無表情のまま裕幸をめった刺しにして殺します。

警察で聴取を受ける紀子の面通しをしたガソリンスタンド従業員・和昭は、事件当日に二人を見たにもかかわらず、嘘の証言をし釈放された紀子の後をつけて彼女と関係を結びます。

この物語の要約は、別に殺伐とした感じを強調する意図とかで、あえて形容詞をはぶいたり、感情の起伏を書かなかったりした訳ではありません。

映像もそのとおりの淡々とした描写に徹しています。

殺人のある浴室での夥しい血が流される場面も、感情を抑えた即物的な描写です。

しかし、それでもほんの僅かながら、彼らの生活史がほのめかされている部分もありました。

裕幸に子供が誕生したらしく幼児服を購入する場面が、奥さんの不在を狙って不倫相手を電話で物色する彼の一連の行為の中に描き込まれています。

紀子がラブ・ホテルの浴室で裕幸を刺し殺したあと、彼が持っていたその幼児服を見て彼女は泣きます。

紀子には、かつて愛人の子供を中絶した記憶の傷があり、そのことを和昭に話す場面は、同時に、和昭もまた、愛人によって自分の子供を焼き殺されたことを紀子に話す場面でもあります。

互いに子供の親になれないまま、生きる意味をも失ってしまった陰惨な過去を話すことで、彼らが社会から徹底的に拒まれ、彼ら自身も抱え持つ「ある欠落」によって、肉欲の関係などでは到底成り立ち得ない程の絶望的な孤独を悟らされます。

そして、和明が紀子に語りかける言葉は、当然愛の言葉などではなく、「人を殺すときの気分」を彼女に尋ねます。

やがて、行為のあと、死を望む紀子の願いを聞き入れて、和昭は紀子を絞殺し、死体を田舟に乗せ焼き捨てます。

この死体を焼く場面は、まるで害虫を焼いて処理するような、どうしようもない人間は焼き殺すしかない、とでも言うような自嘲を込めた寒々しいシーンでした。

人と人とのつながりをどう求めていけばいいのか。

一昔前なら純粋でほほえましい恋情として描かれるべき行為も、現代にあっては、すべての行為は風俗というフィルターを通した金で買える薄汚い「欲情」でしかないような、そんな時代を生きねばならないことを、瀬々は、この映画で描こうとしていたのではないのかと思えました。

奇しくも、この映画は、一般劇場で上映された後、ピンク映画館で「黒い下着の女」のタイトルでも公開されたということです。

象徴的な瀬々の素晴らしい挑発行為と考えていいと思います。

(97国映=新東宝映画)企画・朝倉大介 衣川仲人、プロデューサー・福原影、監督原案・瀬々敬久、助監督・坂本礼、脚本・井土紀州 瀬々敬久、撮影・斉藤幸一、音楽・安川午朗、美術協力・安宅紀史 丹治拓実、録音・シネ・キャビン、編集・酒井正次
出演・佐倉萌、伊藤猛、鈴木卓爾、穂村柳明、のぎすみこ、外波山文明、佐野和宏、岡田智弘、河名麻衣、佐々木和也、吉行由美、泉由紀子、
1997.05.31 75分 カラー ワイド
by sentence2307 | 2006-06-25 18:29 | 瀬々敬久 | Comments(1)

ドッグ・スター

とにかく、この作品のラストの意味するところがよく分からなくて、その訳を数人の友人に聞いて回りました。

友人たちの答えは、そのまんま、人間になりたかった犬が、最後の最後に願いが叶って人間になれたっていう話なんだろう、というものでした。

それなら、やっぱりこの映画、唐突だったにしろ最後はハッピー・エンドで終わる単なるファンタジー映画と思っていればそれでよかったのか。

でも、それじゃあ、なんかおかしくないか。

その最後のシーンには、死んだはずの泉谷しげるまで出ていたぞ、あの親父、話の途中で確か車の屋根から落ちて死んだはずだよな。

しかし、僕の更なる疑問には誰も答えてくれずに、逆に友人たちは、「お前、こんな映画マジで見てるワケ?」って、ややアザケリ気味に言われてしまいました。

彼らは言うのです「とにかく、どっちだっていいじゃないか、そんなこと。まともに考えるような映画じゃないだろう」っていうわけなのです。

しかし、なんか気になって仕方ありません。

そこで、こういう疑問を持ったときに、いつもお邪魔している「あの映画のココがわからない・まとめサイト」というところでこの「ドッグ・スター」が掛かっているかどうか検索してみました。

疑問は提出されていましたが、答えの方はなにもアップされていません。

そうか、誰かが何かを疑問に思うにしろ、その答えを誰ひとり答えることのできない、これはそういう不思議な領域を持っている映画なのだ、となんか変な納得の仕方をしてしまいました。

これは決して皮肉ではありません。

ひとまず、パソコンの前に座りました。

この映画は、盲導犬が人間の姿をかりて(それを犬自身が本当に望んだことなのか、確かなことは画面からは判断できません)、むかしの飼い主の少女ハルカ(いまは成人していて井川遥が演じています)に会いに行くという物語です。

犬が少女に会いに行こうとしている動機は、きっとハルカが飛行機事故で両親ともに失いひとりぼっちになってしまった現在、元気で暮らしているかどうか、むかし可愛がられた犬が見極めようとしている忠犬映画なのだな、とは考えられます。

しかし、盲目の元ボクサーの飼い主・石橋凌に物語の中で「お前は老犬で、寿命もあと僅かで尽きる。そんなお前が彼女を幸福にすることなんて出来やしないんだ」と言われているように、豊川犬には最初から彼女を幸せにすることが出来ないという絶望的な条件を抱え持ってこの物語は始まっています。

悲恋物語には必須条件のこの絶望的な宿命を持った豊川犬という設定が、一定の緊張感をもって最後まで維持できるかどうかが、きっとこの映画を成功に導くか、そうでなくさせるかのこれが分かれ目だったと思いますが、僕にはある妄想がちらついて、その緊張感を保つことができませんでした。

それは、ハルカを探し求めるために豊川犬が、自転車のサドルに鼻を押し付けて臭いを嗅ぎ分けようとしている、見ようによってはちょっと扇情的な場面からの連想です。

以前、「伊東家の食卓」で、犬に吠え立てられたとき、その犬をおとなしくさせる裏技というのをやっていました。

答えは、人間の尻の臭いを嗅がせるという生々しいものです。

そのモデルさんには男性もいましたが、たしか女性もいたような気がします。

映像的にもちょっと放映の時間帯を間違えたような衝撃的で生々しく、妙齢の女性などとその番組を一緒に見てなくてホントよかったとそのときつくづく思った記憶が鮮明に残っています。

その記憶から、突如妄想は大むかし新宿ミラノ座に飛びます。

当時やたらに流行っていた「獣姦もの」とかいう映画に、この「ドッグ・スター」がぴったりと重なってしまい、もう、僕の中では、この「ドッグ・スター」という映画のイメージは、散々なものになってしまいました。

ホント、みんなは素晴らしいラブストーリーとか評価しているのに、よりにもよって「獣姦」なんかとダブらせてこの映画のイメージを目茶目茶にしてしまい、豊川悦司のファンの皆様、ならびに井川遥のファンの皆様におかれましては衷心より深くお詫び申し上げます。

しかしまあ、監督が瀬々敬久なので、きっと許してくれるだろうとは信じています。
by sentence2307 | 2005-03-19 17:18 | 瀬々敬久 | Comments(0)