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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:久松静児( 6 )

妖精は花の匂いがする

う~ん、「妖精は花の匂いがする」・・・ですか、原作どおりのタイトルだそうですが、それにしても、こういうタイトルをつけられた日には、作品として、それだけで充分マイナス・イメージになってしまうでしょうね。

しかも、この小説、ジャンル的にはユーモア小説に分類されているとのことですが、こんなふうに粗筋だけ忠実になぞって描かれると、まるで「清純」をエロ・グロ・ナンセンスで汚すところを晒して見せて、荒廃した世相の人身御供にするというか餌食にするみたいないかがわしい姿勢が見え見えで、その映画自体の「もの欲しげ」な受け狙いの姿勢は、下手するとカストリ雑誌的な節操のない世相へのおもねりのレベルに堕してしまいそうな危惧さえ感じました。

ただでさえ、それはもう目を覆いたくなるような惨憺たるストーリー(ひとりの教師をめぐる女学生の駆け引きと葛藤の物語に友情が絡みます)なので、この暗い物語のどこに「ユーモア小説」の要素があるというのか疑問に思ったくらいです。

それに、久我美子の役どころというのが、病身の姉を抱えてバイトに明け暮れる、授業料も満足に払えない貧乏な女学生という役なのですが、しかし、当時にあって、久我美子が貴族院議員だった侯爵・久我通顕の娘であり、そういう旧侯爵家の姫君が下世話な映画女優になったというのですから、それだけでもう充分なスキャンダルだったことは想像に難くありません。

〔久我(こが)家は、村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする平安朝の前期(10世紀)から続く公家の名門であり、当時の朝廷が藤原氏一色だった時代に、師房は、他の姓にもかかわらずに、右大臣、太政大臣になった人物で、公家の家格には、第一等の「摂家」から、順に「清華家」「大臣家」「羽林家」「名家」など、久我家は、その第二等に位する「清華家」の家格が与えられ、しかも「清華家」の九家の中においては筆頭に上げられる。〕

1946年、久我美子は、学習院女子中等科在学中に、東宝第一期ニューフェイスに合格します。

同期には三船敏郎、堀雄二、伊豆肇、若山セツ子、堺左千夫らがおり、その翌年の1947年、学習院を中退した彼女は『四つの恋の物語』で映画デビューを果たしています。

考えてみれば、ヌードモデルになって学校中が大騒ぎになるこの映画も、なんだかずいぶん暗示的だったんですよね。

それに加えて、その旧侯爵令嬢を、あえて授業料にも事欠く苦学生・小溝田鶴子として描いた設定の面白さはあったかもしれませんが、如何せん、強力なライバルとして描かれる金持ちの令嬢・米川水絵を演じた木村三津子のおどおどした上ずった薄い演技を前にした久我美子の落ち着いた気品が、なおさらに浮かび上がってしまう感じで、その鷹揚さを保ったまま借金の言い訳や金の無心をするというのですから、その辺の事情に痛いほど熟知・精通している自分などからすると、苦笑ものの「お嬢様芸」にしか見えませんでした・・・とはいえ、しかし、ちょっと待ってください。

別に、いぜん侯爵だったからといって、太宰の「斜陽」にもあるように、戦後の諸改革に晒された華族が、「借金の言い訳や金の無心」とまったく無縁だったかというと、あるいは、「そう」ではなかった可能性の方がむしろ大きかったのではないかと思います。

とすると、零落した高貴な者が「借金の言い訳や金の無心」をするについてのあの演技もまた、「鷹揚さ」を捨てきれない旧公爵家の令嬢の羞恥と悲しみの表現であったと考えられなくもないと思えてきました。

もしかして、彼女の「女優志願」も、そういうことと無縁ではなかったかも、としたら、その後、久我美子が日本映画史に残した名演の数々は、その「鷹揚さ」が時勢の変遷によって突き崩され、あるいは、自ら捨て去ろうとした痛ましさの記録だったかもしれません。

あ、そうそう、もう1回「ちょっと待ってください」です。

このコメントを少しずつ書いては読み返し、書いては読み返して書き継いできたのですが、突然、いま、あることに気がつきました。

うかつにも、この稚拙な作品を、その稚拙さゆえに、かなり初期の作品と思い込み、そういう前提で書いてきてしまいましたが、久我美子のデビュー作はオムニバス作品「四つの恋の物語」1947の第1話・豊田四監督の「初恋」だったし、それに黒澤監督の「醉いどれ天使」1948もある。溝口監督の「雪夫人絵図」1950だってあるわけだし、今井正監督の「また逢う日まで」1950だって忘れるわけにはいきません。

さらに黒澤監督の「白痴」1951があるじゃないですか、市川崑監督の「あの手この手」1952だってあるわけだし。

しかも、自分としては、久我美子という女優の印象が物凄く強烈な木下惠介監督の「女の園」1954は、この「妖精は花の匂いがする」の翌年に撮られているとすると、同じような学園騒動ものだけに、なんだか感無量な思いがします。

そう、たしか映画は映画史の流れの中で見ろ、といったのはゴダールでしたよね。

と、ここまで書いてきて、最近読んだ小説の中に、たまたまこの映画とイヤに符号するクダリがあったことを思い出したので、書き留めておきますね。

その小説は、矢川澄子が書いた「受胎告知」(新潮社刊)という小説の第2章「牧子のモノローグ」の部分です。

父親とずっと二人きりの生活をしてきた父子家庭の牧子は、ある日、心から打ち解け合っている親友の絵美に自分が妊娠したこと、そのための結婚もしないことを告げます。

とっさに「それって父親との子?」と反応する絵美に対して、怒った牧子は、絵美の人間としての下品さ・愚劣さを語気を荒げて一方的になじります「あんたの頭、どうかしてんじゃないの」と。

しばらく黙って聞いていた絵美は、牧子の非難をひととおり聞いたあとで言い返します。

「あんた、まだ時間あるの? いいよ、そんならこっちも、ついでに言いたいこと言わせてもらおう。ちょうどいい機会だ。」

そして、逆ギレした絵美の反論が始まります。

貧しさの中で成長した娘が、自分より遥かに恵まれた環境の中で生育した「お嬢さん」に対して苛立ちをもって憤りをぶつける僻みと鬱憤の激しい言葉の数々は、この映画と不思議に共鳴するものがありました。

「あんたに、前々から一度言おうと思ってたんだ。
お父さんと親友だっていま言ったね。
そこんとこだよ。
それ以上のこと、あたしが邪推してたんだったら、そりゃ謝るよ。
ごめんなさい、だよ。
だけど、あんた、あんたみたいな東京の文化人家庭のお嬢さんたち、考えたことあるの? 
それ、まったく、インテリの特権なんだよ。
あんた、自分がどんなに特権階級だかなんて、考えてもいないでしょう。
ね、あんたの考えてることなんて、インテリにしか通じないんだよ。
あんたも、あんたのお父さんも、死んだお母さんも、みんなインテリ、インテリずくめなんだよ。
インテリなんて、お互いどうし分かっているだけで、部外者にはぜんぜん思いやりがないの。
あたしが、小学校のとき、どういう暮ししてたか、わかる? 
あすこの家買って、東京には出てきたけど、うちのお父ちゃん半年もしないうちに、出てってほかの女と暮しはじめたんだよ。
はじめのうちは羽振りがよくて、二つの家にお金入れてたんだけど、だんだん傾いてきちゃってさ。
月々のものをうちに送ってこないんだよ。
うちのお母ちゃんは、それをあたしに取りに行かせるの。
まさか旦那が次の女と暮しているところへ、自分は行けやしないでしょう。
あたしはあの頃、毎月弟の手をひいて、お父ちゃんのいる家へお金をもらいに行ってたんだよ。
うちのお父ちゃんなんて、マンガしか読んだことないんだよ。
札束で面ひっぱたいたる、っていうのがお父ちゃんの口ぐせだったけれど、そんな親を持ってごらん。
それこそ目に一丁字もないんだよ。
あんた、自分では気がついてないんだろうけど、もうはじめっから、インテリ弁でしか話していないんだよ。
インテリどうしでしか通じない世界におさまってるんだ。
お父ちゃんと親友ってことも、そりゃよくわかるよ。
いまではあたしも傍目にはいっぱしのインテリだからね。
でも、あんたみたいに、インテリの家に生まれたからそうなったんじゃない。
あたしは、なりたくてなったインテリだよ。
でもそのまえの、札束で面ひっぱたいたるっていう親の次元だって知ってるんだよ。
あんたひとりの罪じゃない、あんたみたいな子って山ほどいるよね。
何も知らないくせして、自分がどんなに得なところに生まれたのかも気がつかないで、大きい顔して、お父ちゃんと親友だなんてほざいてるんだ。
そのいやらしさがわかる? 
ああもう、情無くなっちゃうよ。
ほんと、あんたなんて東京のインテリのお嬢さんの代表みたいなものだよ。
みんな、そんなの嫌がってるよ。
あんたなんて、その嫌がられてることにも気がついてないんでしょう。
だけど世の中、そんなものじゃないよ。
そんなものと思ってたら大間違いだよ」
じっさい、絵美のいう通りだった。わたしはそれまで、漠然と、うちと世間とは違うようだと考えていたものの、その違いが何によってもたらされているのかにはまったく無頓着で、そこがインテリと世間並みとの相違だなんて思ってもみなかったのだ。
絵美がいま、それをはっきり言い渡してくれたことによって、わたしははじめて自分が生まれながらの特権階級であることに思い至ったのだ。」

この「妖精は花の匂いがする」という作品全体に対する自分の思いが、込められているような一節でした。

(1953大映京都)企画・浅井昭三郎、原作・藤沢桓夫、脚色・田中澄江、若尾徳平、監督・久松静児、撮影・竹村康和、音楽・斎藤一郎、照明・島崎一二、美術・小池一美、録音・海原幸夫、
出演・久我美子、木村三津子、根上淳、森雅之、千秋実、羅門光三郎、青山杉作、上田寛、原聖四郎、伊達三郎、石原須磨男、船上爽、北見礼子、杉山道子、小柳圭子、浪花千栄子、毛利菊枝、岩田正、玉置一恵、由利道夫、滝川潔、清水浩、仲上小夜子、宮田暁美、谷口和子、前田和子、戸村昌子、中目順子、嵯峨野静、竹内陽子
1953.02.19 11巻 2,496m 白黒
by sentence2307 | 2012-09-02 17:12 | 久松静児 | Comments(1)

渡り鳥いつ帰る

去年、キネマ旬報社から刊行された「高峰秀子」の表紙には、ふたつのサブタイトルが付されていました。

ひとつは「高峰秀子自薦13作」、もうひとつが「高峰秀子が語る自作解説」というものです。

そう聞いてしまったら、それこそすぐにでも読んでみたくなるのが映画ファンというものですよね。

数多くの名作に出演した名優・高峰秀子が、自身どういう作品をベストだと考えていたのか、また、個々の作品について、どうコメントしているのか、是非にも読んでみたくなる心憎いばかりの宣伝文句じゃありませんか。

まあ、刊行から随分時間も経っていることですので、エッセンスだけでも、ちょっとばかし引用させてもらおうかなと虫のいいことを考えました。

すこし書くだけなら、まさか営業妨害にもならないだろうと勝手に考えることにして、佳作「渡り鳥いつ帰る」について少しだけ書いてみることにしますね。

ちなみに、これが永井荷風作品の初めての映画化作品なんだそうですってね。

印象としては、もっと多くの映画化作品を思い出せそうな気もしたので、これは意外でした。

引用してみるのは、「高峰秀子が語る自作解説」の方からで、その正式のタイトルは「女優・高峰秀子の航跡」です。

そこに書かれている多くの作品についてのコメントは、僕たちが抱いてきた作品の印象とは、すこし違う高峰秀子の率直なものいいに出会うことが多く、それだけに一層リアルな感じを受けたのかもしれません。

例えば、その最たるものが作品「渡り鳥いつ帰る」についてだったような気がします。

高峰秀子は、「渡り鳥いつ帰る」について、こんなふうに記していました。

この作品の「スチールなんか私が主役みたいに写っているけど、実は私はワンシーンしか出てないの。多分この作品がちょうど『浮雲』のあとだったので、私が出るとお客が入るっていうわけで、急に台本に私の場面を書き足したのね。でも話しの筋には全然関係ない役だからね。」

この部分を読んだとき、実は物凄いショックを受けました。

自分が邦画を鑑賞するうえで座右に置いて常に参考にしているガイドブックに、ずっと以前キネマ旬報社から刊行された「日本映画作品全集」(刊行は1973年と書いてあります)という本があるのですが、その「渡り鳥いつ帰る」の項には、こんなふうな解説が掲載されていたのでした。

「女将に田中絹代、相手に森繁久彌が扮するほか、久慈あさみ、淡路恵子、桂木洋子といったスターが艶を競い、なかでもお目見え娼婦を演じる高峰秀子のちゃっかりぶりが面白さを際立たせた。」

それには僕も、まったく同感でした。

そしてこのクダリなら、この本を購入したときから現在に至るまで、幾度となく読み返している部分なので、自分のなかには、もうほとんど固定観念のように定着していて、この作品の自分自身の評価でもあるといっても過言ではないという考えも揺ぎ無いものになっていると思います。

それに、この作品における高峰秀子の存在感の大きさも、まさに、ここに書かれているとおりの見事に「面白さを際立たせた」存在であったと感じていました。

この作品に登場する他の娼婦たちが、ただ「可哀想なだけの女たち」として描かれているのに対して、高峰秀子が演じた街子は、あきらかに距離をとった客観的な描かれ方をしており、それこそがこの映画を哀れで重苦しいだけの閉塞感から観客を救い、あるいは一挙に開放感を与える役割を担っていると感じました。

ですから、高峰秀子の演じたあの幾分ふてくされた娼婦・街子が、もしこの作品に描き込まれていなければ、この映画は、虐げられ絶望のなかで自壊していく哀れな女たちばかりが描かれるというナントモ均衡を欠いた惨憺たる被害妄想映画となってしまったに違いありません。

高峰秀子自身が言及していたスチール写真も、確かに「高峰秀子」を前面に押し出した取り上げられ方をしていて(ネットで確認しました)、しかし、この扱いにいままで不自然に感じたことがないくらい、この作品における街子=高峰秀子の存在を、必然的な役どころと感じていただけに、高峰秀子のあの「ひとこと」には虚を突かれたような意外感をもったのだと思います。

哀れな女たちがそれぞれに破滅する運命を描いた悲しい本筋からは少しはずれて設定された高峰秀子=街子のこの役は、だからこそ、演出の明確な意図としての効果をねらった計算されつくされたものとして、あるいはまた、その効果も十分に発揮されたものと考えてきた自分にとって、あの高峰秀子の「ひとこと」はショックだったのだと思います。

「『浮雲』のあとで、私が出るとお客が入るっていうので、急に台本に私の場面を書き足したの。話しの筋には全然関係ない役だから。」という述懐の本質にあるものは、興行的な配慮からなされた「適当さ」にすぎません。

それはまさに、長年培ってきた僕の固定観念を根底からくつがす衝撃発言でした。

しかし、冷静になって、その問題のワンシーンをあらためて見直してみると、これが興行的な配慮から急遽付け足されたなどとは、やはり到底信じることができない、田中絹代との緊迫したやり取りが交わされていることを改めて確認しました。

それなら高峰秀子の語った「ワンシーン出演」の発言は、なんだったのか、と考えたとき、ふっと思いついたことがありました。

もしかしたら、「あれ」は、高峰秀子がよく口にした照れ隠しの一種だったのではないかと。

他者の悪意や狡猾さに対してなら決して辛らつさを隠さず、どこまでも攻撃的にならずにおられない彼女なら、自分自身に対してもそこは容赦なく、ヤイバを自らに突き立てずにおかない人という印象を持っていました。

前作の成瀬作品「浮雲」で高い評価を得た彼女が、ただのチョイ役なのに、会社側の意向を一身に受けて広告媒体に破格の扱いをされたことへの、他の出演者たちへの配慮というか、むしろ遠慮や気兼ね、更には負い目のようなものが彼女にあのように言わせたのではないかと思えてきました。

高峰秀子は、他人の誠実さに対しても射抜くような透徹した眼差しを持っていた人だったと思います。

いかなるときも決して大女優ぶることなく、自分を貶めることを十分すぎるくらいに心得ていて、自己卑下をこそ最も得意とした人だったように見受けました。

だからこそ、「渡り鳥いつ帰る」の自分の演技について、あんなふうな言い方をせずにいられなかったのではないのでしょうか。

しかし、高峰秀子が演じた「渡り鳥いつ帰る」のあのワンシーンは、決して手抜きでも生半可なものでもありません。そう感じました。

強欲な女将を見事に演じる田中絹代をむこうに回して、一歩も引けを取らない娼婦・街子のすれっからし振りを演じてみせる彼女が、その場にいる者たちを煙に巻いてしまうという圧巻の印象的な場面です。

女将が「むかしと違って今は、あんたたちを前借で縛るなんてことがない、あんたたちは何しようと自由さ」と言うと、その言葉を受けて、「そう、民主主義ですからねえ~」と高峰秀子の娼婦が、そのままの言葉を受けて繰り返す場面です。

幾分不貞腐れ気味に語られるそのひとことには、「もしそれが民主主義なら、随分とひどい民主主義もあったもんだ」とでもいうように、その「民主主義」という言葉の裏に隠された女将の強欲と、寄ってたかって自分を食い物にするこの下劣な現実と社会に対して反吐を吐きかけるような嫌悪と揶揄、皮肉と憤り、非難と軽蔑が、総体としてのバイタリティとなって噴出した「決して負けない女」の強烈な表出だったと感じました。

僕が、長年読み親しんできたあの解説「お目見え娼婦を演じる高峰秀子のちゃっかりぶりが面白さを際立たせた。」は、決して誤解でも錯覚でもなかったことを今回改めて確認した次第です。

虐げられつづけた日本女性に対して、希望を与えるようなエールのごとき演技を見せてくれた名女優・高峰秀子さんのご冥福をお祈りします。

しかし、この「渡り鳥いつ帰る」を語るにあたり、卓越した演技を見せた女優という意味でなら、それは娼婦・栄子を体当たりで演じた淡路恵子をあげないわけにはいきません。

生活費を稼ぐために過酷な売春によって、ついに心臓病を悪化させ休養を申し出た同僚の娼婦・民江(久慈が抑制されたいい演技を見せています)に対して、強欲な女将は、聞こえよがしに「いまどきの女たちは、体を売ることなんてなんとも思っちゃいないのよ。むしろ、好きなことをして、そのうえお金まで貰えるんだから、こんなにいい商売はないくらいに思っているさ」などと嫌味なことを毒づきます、そして、同僚・民江へ向けられた身勝手な女将のその暴言を、栄子は憤りを抑えながら聞いています。

立場の弱いものをどこまでも食い物にしようとする酷薄な女将への栄子の内に秘めた憤りが、やがて女将の愛人で娼家の亭主でもある伝吉(運命に弄ばれる哀れな男妾を森繁久彌が見事に演じています)の報復のような誘惑につながっていきます。

さっさと離婚届にハンコを押して一緒にどこかへ逃げようと誘う栄子の誘惑に、別れた女房や子供にどこまでも未練を残す煮え切らない態度をひきずる伝吉へ、栄子はついに怒りを爆発させます。

「はっきりしないのね、トオサンは。子供には会いたいし、藤村のカアサンとは別れられないし。そうなんでしょう。うそ、やっぱり今の家業に未練があるのよ、女の血を搾り取る魔窟がさ。なんだい、淫売屋の亭主が。私はね、たとえ一日でも二日でも、あんたを従わせてカアサンにべそかかせたら、それで気が済んだのよ。いったい子供子供って人並みなことが言える男なの、あんたは。なんて顔よ、それりゃ。つまらない男ったらありゃしない。カアサンに言っといてよ、体を売って大した事じゃないなんて思っている女なんかいないんだって、むかしもいまもね。分かったら早く出ていってよ!グズクズしていると水引っ掛けるわよ」と栄子は、蔑まれたことの憤りを高揚させ、怒りを炸裂させて、伝吉に水をぶっ掛けます。

栄子が怒りを爆発させるこの修羅場の切っ掛けとなっているのが、伝吉が大事そうに上着のポケットから取り出す小鳥の死骸です。

たとえ死んでしまっても、長いあいだ可愛がっていた小鳥を捨てきれない伝吉の未練と煮え切らなさ、なにひとつ現状を変えることができずにただ立ち往生するだけしかできない男の不甲斐なさを目の当たりにした娼婦・栄子の怒りのありどころを見せ付けた淡路恵子生涯最高の圧巻の演技を示した秀逸なシーンでした。

「渡り鳥いつ帰る」から2年後の1957年、淡路恵子は「下町」と「女体は哀しく」の演技によってブルー・リボン助演女優賞を受賞します。

千葉作品「下町」において、療養中の夫を助けるために体を売るという善良な女を演じ高い評価を得たあの素晴らしい演技につながるものが、すでにこの「渡り鳥いつ帰る」で窺い知ることができると確認することができました。

ちなみに、この同じ年のブルーリボン新人賞は、石原裕次郎に贈られています、いままさに日本映画が黄金時代を迎えようとしている幕開けを告げるような年だったのでしょうね。

ついでといってはなんですが、「高峰秀子自薦13作」というのを以下に記しておきますね。

①山本嘉次郎監督「馬」
②山本嘉次郎監督「春の戯れ」
③豊田四郎監督「雁」
④木下恵介監督「二十四の瞳」
⑤成瀬巳喜男監督「浮雲」
⑥野村芳太郎監督「張込み」
⑦稲垣浩監督「無法松の一生」
⑧成瀬巳喜男監督「女が階段を上る時
⑨松山善三監督「名もなく貧しく美しく」
⑩松山善三監督「山河あり」
⑪成瀬巳喜男監督「放浪記」
⑫増村保造監督「華岡青洲の妻」
⑬豊田四郎監督「恍惚の人」

(1955東京映画・東宝)監督・久松静児、製作・滝村和男 三輪礼二、原作・永井荷風「春情鳩の街」「にぎりめし」「渡り鳥いつかへる」、構成・久保田万太郎、脚本・八住利雄、撮影・髙橋通夫、玉井正夫、美術監督・伊藤熹朔、美術・小島基司、音楽・團伊玖磨、録音・西尾昇、照明・今泉千仞、企画・佐藤一郎、助監督・板谷紀之、
出演・田中絹代、森繁久彌、高峰秀子、久慈あさみ、淡路恵子、岡田茉莉子、水戸光子、桂木洋子、太刀川洋一、織田政雄、富田仲次郎、春日俊二、植村謙二郎、藤原釜足、左卜全、浦辺粂子、藤原釜足、月野道代、加藤春哉、春日俊二、中村是好、深見泰三、植村謙二郎、勝又恵子、二木てるみ
1955.06.21 13巻 128分・35mm・3,515m 白黒
by sentence2307 | 2011-03-05 10:48 | 久松静児 | Comments(2)

神阪四郎の犯罪

人間が4人いれば四通りの真実がある、と描くこの久松静児監督作品「神阪四郎の犯罪」のストーリーの奇抜さは、以前から聞いてイメージしていた評判ほどのものではなかったというのが、まずは最初の印象でした、きっとそれを失望と言い換えても、いいかも知れません。

例えば、この作品が躍起になって証明しようとしているものといえば、神阪四郎が「金にだらしなく、女には手が早い」という証人たちの証言が、どこまで真実かという程度のことで、脛に傷を持つ者たちの悪意に満ちたタクラミが背後にあったとしても、それがいったい何ほどのものなのか、という気持ちしか残念ですが持てませんでした。

「神阪四郎の犯罪」は、長い間、いつかは見てみたいと気に掛けていた作品です。

作品の出来如何はさておいても、あるいは、鼻につく森繁久弥の大仰な演技を差し引いたとしても、自分が長い間「見てみたいと願い続けてきた思い」が叶っただけでも、いつもなら、その達成感によって、過剰な思いを作品の評価にまで及ぼして作品を過剰に褒め倒すという性癖が、確かに自分にはありますし、否定もしませんが、それも映画を見る楽しみのひとつと考えている自分にとって、それなら、よりにもよって、なぜ「神阪四郎の犯罪」だけは、どうしても受け入れることができなかったのか(その感情は、むしろ腹立たしさといった方がニュアンス的には、ふさわしいかもしれません)、「あらゆる映画を弁護する」ことができなかったのか、しばらくは自分にも分かりませんでした。

この作品を見たのは、「日本映画専門チャンネル」です。

今年の5月から、いよいよ「裁判員制度」が始まるというので、日本映画専門チャンネルでは、いわゆる「裁判もの」の映画を特集しています。

それら類似の裁判映画を何本も見ている中で「神阪四郎の犯罪」も見たわけですが、この作品と同時に「それでもボクはやってない」を見たことが、僕の苛立ちの原因だったかもしれないと思えてきました。

「それでもボクはやってない」は、突然ある事件に巻き込まれた平凡な青年を主人公にした作品です。

朝の通勤電車の中で痴漢の嫌疑をかけられ、駅で身柄を拘束されます。

そして検察庁で取調官から、罪を認めて謝ってしまえば、無罪放免になるのだから、「した」と認めてしまえと言われたとき、「していない」青年は、「自分はしていないのだから、したとは言えない」と言い続けて、ついには裁判に掛けられてしまうというストーリーです。

この作品のダイナミックなところは、彼が「痴漢をしたのか・しなかったのか」が追求されていく後半よりも、むしろ、「したと言ってしまえば、許してやるぞ」と検事から恫喝される前半にあったのだと思います。

この裁判が進行していくに連れて、次第に明らかにされていくものが、本当は、彼が痴漢をしたか否かではなく、「認めなかった」ことによって問われている「罪」なのだと分かり始めてきます。

青年は、あるとき不意に痴漢と名指しされ、彼がその嫌疑を否定すればするほど、普段なら気づかない強権の不気味な存在が徐々に姿を現わしてきます。

権力の機関から一旦「犯罪者」と決め付けられてしまったからそこ、たとえそこで権力自身が誤りだと気がついたとしても、もはや後戻りできるわけもなく、また、決してミズカラ非を認めようともしない権力というシステムの硬直を、「それでもボクはやってない」という作品は描いています(一方では、自ら「罪」を認め形式的な謝罪さえすれば、すぐにでも社会復帰できるという実に心地よい免罪の甘やかで姑息な誘惑装置も兼ね備えています)。

しかし、この作品「それでもボクはやってない」において描かれていた「屈辱的な免罪」を拒むという意思は、なにも英雄的な反抗とか、ましてや権力に対してひれ伏すことを拒む「不服従」などという荒唐無稽の大袈裟なものではなく、いわばただの「痴漢行為=破廉恥罪」だったからこそ、僕たち観客を心から感動させることができたのだと思います。

そして、「自分はやっていないのだ」と訴え続ける持続の行為が、実は権力者のメンツに象徴される機構の虚妄と弱点を痛烈に突くことになり、だからこそ的確に権力の逆鱗にも触れてしまい、ひとりの無辜の市民を、なにがなんでも「犯罪者」に仕立てあげずには置かない微かな誤謬によるシステムの深刻な硬直が見事に明かされたのだと思います。

それは権力が、無力な一般市民を威信に掛けて断罪の場に引き摺り出し、とりあえず「犯罪者」に仕立てあげなければ、権力のメンツがつぶされ、また、ただの隠蔽の機能しか果たし得ない「裁判」というものの根源的な問いが発せられてしまうという危機感の現われでもあったからだと思います。

きっと「それでもボクはやってない」という作品は、権力の横暴を憎む人間を怒りへと駆り立てる限りないパワーを有している作品なのだと思いました。

それに比べれば、神阪四郎が、本当に「金にだらしなく、女には手が早い男」だったのか程度の「真相」を探求するこの作品に、「それでもボクはやってない」を見、テンションをMAXまで上げてしまった身からすると、当然この「神阪四郎の犯罪」は白け返らざるを得ず、作品に対する興味をいっぺんに失ってしまいました。

会社の金を横領し発覚を恐れた神阪四郎が、その穴埋めのために文学少女の指輪の詐取をねらい、心中に見せ掛けた行為を糾弾する裁きの場で、たとえそれが濡れ衣だったとしても、しかし、神阪四郎を演じる森繁の演技の過剰さと芸達者振りは、彼を罠に陥れようとした男たちが、世事に長けた神阪を今なんらかの手段で葬ってしまわなければ、今度は逆に自分たちの身が危なくなるぞという連想を容易に許すだけの強烈な演技力であり、それが却って、どちらにしても同じ穴の狢ではないかと思わせてしまう、作品自体に対する逆効果の役割を果たしてしまった皮肉な印象しか持てませんでした。

前述した僕の感じた失望や憤りは、もしかしたら、すべて森繁の過剰な演技に帰すべきものだったかもしれません。

しかし、こんな不幸な遭遇しかできなかったことに対する悔いもないわけではありません。

この映画「神阪四郎の犯罪」を、もうすこし落ち着いてから、雑念を払ったところで、独立した作品として、再度見直してみようかなと思いはじめています。

もしかしたら、俳優陣の過剰な演技(森繁が五通りの人格を演じ分けています)を楽しむことこそが、この作品の本当の価値を理解するための重要な要件だったのではないかと遅まきながら思えてきました。

(1956日活)監督・久松静児、製作・岩井金男、原作・石川達三、脚色・高岩肇、撮影・姫田真佐久、音楽・伊福部昭、美術・木村威夫、録音・八木多木之助、照明・岩木保夫、
出演・森繁久彌、新珠三千代、二木まこと、左幸子、金子信雄、高田敏江、宍戸錠、清水将夫、深見泰三、宮坂将嘉、伊達信、下条正巳、宮崎準、杉幸彦、若原初子、新井麗子、藤代鮎子、渡規子、広岡三栄子、轟夕起子、滝沢修、竹内洋子、大森暁美、柳瀬志郎
1956.02.25 12巻 3,468m 白黒
by sentence2307 | 2009-03-18 17:08 | 久松静児 | Comments(2)

女の暦

むかし、久松静児の「女の暦」は、「東京物語」に匹敵する作品なのだと言い張って、その言葉に反撥した小津ファンから取り囲まれ、総攻撃されたことがありました。

なんでそんな挑発するみたいな無謀で軽率なことを言ってしまったのか、実は、その切っ掛けというのも、はっきりと記憶しているのです。

雑談のなかで、好きな映画監督と、その代表作を幾つか上げていこうという話の流れになって、まずはじめに庶民を描くことに卓越した映画監督を幾人か上げていったとき、たまたまほんのツイデみたいに久松静児監督の名前が出て、誰かが言った「代表作といっても、『警察日記』くらいしかないだろう」という言葉にカチンときて(相手も不機嫌だったのかもしれませんが、そのとき当方としても相当ムシの居所が悪かったのだと思います)、とっさに上記の「『女の暦』は、『東京物語』に匹敵する作品だ」という断定の言葉が出てしまいました。

そして、そのあとの「映画十字軍」の総攻撃に対して自分がどう答えたのかは、全然記憶にはありません。

きっと僕のことですから、相当な詭弁を弄して反論したに違いありませんが、しかし、いまにして思えば、「女の暦」が「東京物語」に匹敵すると言ったのには、まったく根拠がなかったわけではないと、最近になって論証できるような気がしてきました。

「東京物語」は、老夫婦が東京で暮らす子供たちを訪ねて行く話ですが、久松静児の「女の暦」は、小豆島で暮らす二人の姉妹の元に、東京や大阪で離れて暮らしている三人の姉妹が両親の法事のために戻ってくるという物語です。

「東京物語」の老夫婦は、親として期待していたのとは裏腹に、実は東京で厳しい生活を強いられている子供たちから邪険にされ(子供たちが「そう」しなければならなかったことを十分に理解したうえで)、落胆と失望の気持ちを抱えて故郷・尾道に帰ります。

「女の暦」の、それぞれに都会の暮らしに疲れ切った姉妹たちは、両親の法事に集まり懐かしい昔話に興ずることで元気を取り戻し、再び都会へ帰っていくというラストでした。

子供たちへの期待がことごとく裏切られ、失望し、まるでその代償のように掛け替えのない伴侶さえも失うという絶望の果ての孤独のなかで閉じられる「東京物語」と、厳しいけれども微かな希望が暗示されるという終わり方をする「女の暦」とに、なにか「共通するものがある」と見るのか、「まるでない」と見るのか、「小津ファンからの総攻撃」に逢ってから、ずっと考えてきたことでした。

そして、最近、少しだけ見えてきたものがあるのです。

このラストの終わり方は、両監督の資質の違いというよりも、ストーリーをどこから語り始め、そして、どこで断ち切るかという、最初から求められていた「作品」のタイプによって選択されたその違いだけだったように思えてきました。

こう書くと、なんだかまた論客の方々に反論されそうです。「あなたねえ、芸術作品の『東京物語』と、たかがプログラムピクチャーの『女の暦』とが、『最初の選択』ということだけで出来あがるとでも思っているんですか」と。

もし「ええ」とでも言ったら彼らの憤怒逆上する顔が見えるようですが、僕はやっぱり「ええ」と言うしかありません。

そうなんですよ、小津安二郎が映画会社から求められていたもの・許されていたものが「東京物語」であったように、端的にいってしまえば、久松静児が映画会社から求められていたもの・許されていたものこそが「女の暦」だったのだと思います。

求められていたものが違っていて、描き方、括られ方が違っていただけであって、描こうとしていた本質は同じものだったのではないか。

「東京物語」のラストで、伴侶を失い一人きりになってしまった失意の老父が遠い眼差しを虚空に投げかけ、虚脱してじっと座り続けているその姿が、まさに、徐々に迫り来る死を待つしかない諦観そのものだったように、一見希望に満ちたラストをもつ「女の暦」もまた、姉妹たちの和気藹々とした交歓の華やぎを大きく覆っているものが、既に死んだこの世にいない5人の亡き姉妹たちの眼差しに絶えず捉われていることを思えば(存命の5人姉妹の意識には亡き5人の姉妹の思い出が、まるで霊のように絶えず甦ってきます)、やはり、久松静児の「女の暦」は、「東京物語」に匹敵する作品なのだ、といっても言いすぎではないという気がしてきました。

(1954新東宝)製作・坂上静翁、監督・久松静児、原作・壼井栄「暦」、脚本・井手俊郎、中河百々代、撮影・鈴木博、音楽・斎藤一郎、美術・下河原友雄、録音・片岡造、照明・小山正治、助監督・小野田正彦
出演・杉葉子、香川京子、田中絹代、十朱久雄、花井蘭子、三島雅夫、轟夕起子、細川俊夫、大谷伶子、鮎川浩、新井麗子、永井柳太郎、三好栄子、小高まさる、清川玉枝、鳥羽陽之助、藤村昌子、舟橋元
1954年日本映画 上映時間:1時間39分 
by sentence2307 | 2008-12-28 11:44 | 久松静児 | Comments(4)

月夜の傘

この久松静児作品について書く前に、ひとつだけ告白しておかなければならないことがあります。

実はこの作品、タイトルに「月」とある日活作品で、田中絹代の名前もあったりということで、すっかり田中絹代の第2回監督作品「月は上りぬ」と思い込んでしまい、実際にこの作品を見るまで、そのことに気づきませんでした。

田中絹代の第1回監督作品「恋文」は、製作に至るまでの周辺事情があまりにもスキャンダラスすぎて(なにしろ絹代をめぐる溝口健二と小津安二郎と成瀬巳喜男が絡む人間臭丸出しのゴタゴタなので、どうしてもソチラに気を取られてしまい)、作品それ自体の評価の方はどうしても置き去りにされてしまった感じで、当時の評価を見ても、あまり芳しいものはなかったように記憶しています。

しかし、僕としては、男の身勝手な思い込みに傷つくあの繊細な女の描き方は、あまりにも「卑屈すぎる」という酷評を遥かに超える、「死んでも見返してやる」みたいな、閉ざされた時代と男たちに強いられる屈従を、死を賭して抗する力強い女の意地を感じました。

すでに田中絹代の生き様を知っている僕たちにとって、久我美子の熱演に絹代を二重写しにしてしまうハンディを差し引いたとしても、この「恋文」は僕の気持の深い部分にグサリと届く力作です。

そんな印象を持っている絹代の第2回監督作品という、深刻な錯覚を抱え込んで見ようとしているわけですから、当然に襟を正し、正座をするくらいの緊張感をもって、この「月夜の傘」を見始めたのでした。

(僕の勘違いを、ひとこと弁明させてもらうと、この2作品は同じ1955年の製作で、「月は上りぬ」は1月8日封切り、「月夜の傘」の方は8月21日の封切りですので、たとえこれが見当違いだったとしても、滅茶苦茶な勘違いだったわけではないと思うようにしています)

久松静児作品の真骨頂が、「軽さ」と「哀しみ」(ひとことで片付けてしまってすみません)だとすると、それを絹代作品の深刻さと比べるとき、この落差は物凄いものがあると思います。

なにしろこの映画、4人の女性たちが井戸端に集まって洗濯に精を出しながらペチャクチャと井戸端で世間話に興ずるという、いわば井戸端会議に始まって井戸端会議に終わるような作品です。

もっとも、各家庭がそれぞれ少しばかり深刻な問題を抱え込みながら、そして迷いながらも、停滞し、葛藤を重ねて、それぞれがどうにか解決の途を模索していくというホームドラマということが出来るかもしれません。

ただ、僕がとても面白いなと感じたのは、《いわば井戸端会議に始まり、井戸端会議に終わる》というシチュエーションでした。

ああでもない・こうでもないとペチャクチャと交わされる猥雑な世間話のおびただしい「雑談」のなかから、ひとつひとつストーリーが枝分かれしながら、ふたたび井戸端の世間話のなかに収束されていく、とても斬新で新しいスタイルのように感じました。

どんなに深刻な話も、どんなに軽い話も、「井戸端の世間話」に取り込まれてしまうという、残酷ではありながら自浄効果も併せ持っているという、浮世を生き抜く技術みたいなものをそこに感じました。

それぞれが自分なりの根深い不幸を抱えながら、しかし、他人の不幸を客観的に語ることの気楽な楽しみにふける庶民の「泣き笑い」の、洗練された点描画を見る思いがしました。

(55日活)監督・久松静児、製作・坂上静翁、原作・壷井栄、脚本・井手俊郎、撮影・姫田眞佐久、音楽・斎藤一郎、美術・木村威夫、録音・中村俊夫、照明・大西美津男
出演・田中絹代、宇野重吉、渡辺鉄彌、真塩洋一、加藤淳子、轟夕起子、三島雅夫、茂崎幸雄、飯田蝶子、坪内美詠子、二木てるみ、新珠三千代、三島耕、伊藤雄之助、桜井真、宍戸錠、杉幸彦、東山千栄子、新井麗子、加原武門、高田敏江、大森曉美、光沢でんすけ、須田喜久代、丘志摩子、竹内洋子
129分・モノクロ1955.08.21 14巻 3,492m



★姫田眞左久〔ひめだ・しんさく〕1916(大正5)年11月19日兵庫県生まれ。37(昭和12)年、東京帝国美術学校を中退、日活多摩川撮影所に撮影助手として入社。39~42年軍籍、42年大映に復帰。48年『母紅梅』で撮影者に昇進。54年日活に移籍、78年以降フリー。主に、小石栄一、久松静児、舛田利雄、今村昌平、中平康、西村昭五郎、神代辰巳などの作品の撮影を担当。生涯に162本の映画作品を撮影した。1997(平成9)年7月29日、心不全のため死去。享年80歳。

<撮影作品>

1949(昭和24)年
1)母紅梅 監督/小石栄一 出演/三益愛子、三条美紀
2)母三人 監督/小石栄一 出演/水戸光子、入江たか子
3)流れる星は生きている 監督/小石栄一 出演/三益愛子、三条美紀

1950(昭和25)年
4)母椿 監督/小石栄一 出演/三益愛子、菅井一郎
5)一匹狼 監督/小石栄一 出演/藤田進、三条美紀
6)拳銃の前に立つ母 監督/小石栄一 出演/三益愛子、植村謙二郎
7)三悪人と赤ん坊 監督/小石栄一 出演/藤田進、三条美紀
8)午前零時の出獄 監督/小石栄一 出演/岡田英二、宇野重吉

1951(昭和26)年
9)暴夜物語 監督/小石栄一 出演/藤田進、乙羽信子
10)飛騨の小天狗 監督/小石栄一 出演/菅原謙二、荒川さつき
11)江の島悲歌 監督/小石栄一 出演/宇佐見淳、久我美子
12)奴隷の街 監督/小石栄一 出演/堀雄二、久我美子

1952(昭和27)年
13)群狼の街 監督/小石栄一 出演/菅原謙二、久我美子
14)死の街を逃れて 監督/小石栄一 出演/水戸光子、細川ちか子
15)母子鶴 監督/小石栄一 出演/三益愛子、若尾文子
16)街の小天狗 監督/吉村廉  出演/菅原謙二、三条美紀

1953(昭和28)年
17)新・江の島悲歌 監督/小石栄一 出演/南田洋子、根上淳
18)続々 十代の性典 監督/小石栄一 出演/若尾文子、南田洋子

1954(昭和29)年
19)心臓破りの丘 監督/木村恵吾 出演/根上淳、宇野重吉
20)心の日月 監督/木村恵吾 出演/若尾文子、菅原謙二
21)こんなアベック見たことない 監督/小松原力 出演/星光、神楽坂はん子
22)神風特攻隊 監督/小石栄一 出演/宇佐見淳、堀雄二

1955(昭和30)年
23)警察日記 監督/久松静児 出演/三國連太郎、森繁久彌
24)おふくろ 監督/久松静児 出演/望月優子、木村功
25)春の夜の出来事 監督/西川克巳 出演/三島耕、伊藤雄之助
26)月夜の傘 監督/久松静児 出演/田中絹代、新珠三千代
27)続・警察日記 監督/久松静児 出演/伊藤雄之助、大坂志郎

1956(昭和31)年
28)朝やけ決戦場 監督/マキノ雅広 出演/大坂志郎、北原三枝
29)神坂四郎の犯罪 監督/久松静児 出演/森繁久彌、滝沢修
30)雑居家族 監督/久松静児 出演/轟夕起子、左幸子
31)志津野一平シリーズ・謎の金塊 監督/野口博志 出演/河津清三郎、日高澄子
32)逆光線 監督/古川卓巳 出演/北原三枝、香月美奈子
33)牛乳屋フランキー 監督/中平康 出演/フランキー堺、市村俊幸

1957(昭和32)年
34)フランキー・ブーチャンのあゝ軍艦旗 監督/春原政久 出演/フラ
キー堺、市村俊幸
35)ジャズ娘誕生 監督/春原政久 出演/江利チエミ、石原裕次郎
36)殺したのは誰だ 監督/中平康 出演/菅井一郎、青山恭二
37)江戸の小鼠たち 監督/冬島泰三 出演/長門裕之、津川雅彦

1958(昭和33)年
38)心と肉体の旅 監督/舛田利雄 出演/南田洋子、葉山良二
39)母三人 監督/久松静児 出演/山田五十鈴、仲代達矢
40)美しい庵主さん 監督/西川克巳 出演/小林旭、浅丘ルリ子
41)知と愛の出発 監督/斎藤武市 出演/芦川いづみ、川地民夫
42)星は何でも知っている 監督/吉村廉 出演/岡田真澄、丘野美子
43)赤い波止場 監督/舛田利雄 出演/石原裕次郎、北原三枝
44)果しなき欲望 監督/今村昌平 出演/長門裕之、中原早苗

1959(昭和34)年
45)女を忘れろ 監督/舛田利雄 出演/小林旭、浅丘ルリ子
46)今日に生きる 監督/舛田利雄 出演/石原裕次郎、北原三枝
47)男が爆発する 監督/舛田利雄 出演/石原裕次郎、北原三枝
48)その壁を砕け 監督/中平康 出演/長門裕之、小高雄二
49)ゆがんだ月 監督/松尾昭典 出演/長門裕之、芦川いづみ
50)にあんちゃん 監督/今村昌平 出演/長門裕之、松尾嘉代

1960(昭和35)年
51)鉄火場の風 監督/牛原陽一 出演/石原裕次郎、北原三枝
52)海から来た流れ者 監督/山崎徳次郎 出演/小林旭、浅丘ルリ子
53)邪魔者は消せ 監督/牛原陽一 出演/赤木圭一郎、清水まゆみ
54)海を渡る波止場の風 監督/山崎徳次郎 出演/小林旭、浅丘ルリ子
55)霧笛が俺を呼んでいる 監督/山崎徳次郎 出演/赤木圭一郎、芦川いづみ
56)闇を裂く口笛 監督/森永健次郎 出演/沢本忠雄、笹森礼子

1961(昭和36)年
57)俺の血が騒ぐ 監督/山崎徳次郎 出演/赤木圭一郎、笹森礼子
58)豚と軍艦 監督/今村昌平 出演/長門裕之、南田洋子
59)紅の拳銃 監督/牛原陽一 出演/赤木圭一郎、笹森礼子
60)生きていた野良犬 監督/舛田利雄 出演/二谷英明、葉山良二
61)用心棒稼業 監督/舛田利雄 出演/宍戸錠、二谷英明
62)太陽、海を染めるとき 監督/舛田利雄 出演/小林旭、浅丘ルリ子
63)太陽は狂ってる 監督/舛田利雄 出演/浜田光夫、川地民夫
64)暗黒街の静かな男 監督/舛田利雄 出演/二谷英明、白木マリ
65)ずらり俺たちゃ用心棒 監督/松尾昭典 出演/二谷英明、和田浩二

1962(昭和37)年
66)黒いダイス 監督/牛原陽一 出演/二谷英明、和田浩二
67)キューポラのある街 監督/浦山桐郎 出演/吉永小百合、浜田光夫
68)太陽と星 監督/牛原陽一 出演/二谷英明、和泉雅子
69)当りや大将 監督/中平康 出演/轟夕起子、長門裕之
70)若くて悪くて凄いこいつら 監督/中平康 出演/高橋英樹、山内賢
71)激しい河 監督/牛原陽一 出演/高橋英樹、和泉雅子

1963(昭和38)年
72)危いことなら銭になる 監督/中平康 出演/宍戸錠、浅丘ルリ子
73)空の下遠い夢 監督/牛原陽一 出演/和田浩二、山内賢
74)アカシアの雨がやむとき 監督/吉村廉 出演/高橋英樹、浅丘ルリ子
75)現代っ子 監督/中平康 出演/中山千夏、鈴木やすし
76)その人は遠く 監督/堀池清 出演/山内賢、芦川いづみ
77)にっぽん昆虫記 監督/今村昌平 出演/左幸子、北村和夫

1964(昭和39)年
78)美しい十代 監督/吉村廉 出演/西尾三枝子、浜田光夫
79)赤い殺意 監督/今村昌平 出演/春川ますみ、西村晃
80)大日本コソ泥伝 監督/春原政久 出演/長門裕之、藤村有弘

1965(昭和40)年
81)拳銃無頼帖・流れ者の群れ 監督/野口晴康 出演/小林旭、宍戸錠
82)日本列島 監督/熊井啓 出演/芦川いづみ、二谷英明
83)明日は咲こう花咲こう 監督/江崎実生 出演/吉永小百合、三田明

1966(昭和41)年
84)帰ってきた狼 監督/西村昭五郎 出演/山内賢、ジュディ・オング
85)「エロ事師たち」より・人類学入門 監督/今村昌平 出演/小沢昭一、坂本スミ子
86)放浪のうた 監督/野村孝 出演/小林旭、広瀬みさ
87)涙くんさよなら 監督/西村昭五郎 出演/ジュディ・オング、山内賢
88)愛と死の記録 監督/蔵原惟繕 出演/渡哲也、吉永小百合
89)私は泣かない 監督/吉田憲二 出演/和泉雅子、山内賢

1967(昭和42)年
90)青春の海 監督/西村昭五郎 出演/吉永小百合、浅丘ルリ子
91)終りなき生命を 監督/吉田憲二 出演/和泉雅子、岡田英次
92)波止場の鷹 監督/西村昭五郎 出演/石原裕次郎、丹波哲郎

1968(昭和43)年
93)かぶりつき人生 監督/神代辰巳 出演/殿岡ハツエ、丹羽志津
94)「経営学入門」より・ネオン太平記 監督/磯見忠彦 出演/小沢昭一、西村晃
95)星影の波止場 監督/西村昭五郎 出演/浜田光夫、和泉雅子
96)青春の風 監督/西村昭五郎 出演/吉永小百合、山本陽子
97)東シナ海 監督/磯見忠彦 出演/田村正和、内田良平

1969(昭和44)年
98)野獣を消せ 監督/長谷部安春 出演/渡哲也、藤本三重子
99)夜をひらく・女の市場 監督/江崎実生 出演/小林旭、山本陽子
100)極道ペテン師 監督/千野晧司 出演/フランキー堺、伴淳三郎
101)刺客列伝 監督/西村昭五郎 出演/高橋英樹、大辻司郎
102)華やかな女豹 監督/江崎実生 出演/浅丘ルリ子、二谷英明

1970(昭和45)年
103)戦争と人間 第一部・運命の序曲 監督/山本薩夫 出演/滝沢修、芦田伸介
104)トラ・トラ・トラ! 監督/舛田利雄 出演/山村総、三橋達也
105)いちどは行きたい女風呂 監督/江崎実生 出演/夏純子、浜田光夫
106)女子学園・悪い遊び 監督/江崎実生 出演/夏純子、岡崎二朗

1971(昭和46)年
107)戦争と人間 第二部・愛と悲しみの山河 監督/山本薩夫 出演/芦田伸介、浅丘ルリ子
108)未帰還兵を追って 監督/今村昌平 TVドキュメンタリー

1972(昭和47)年
109)濡れた唇 監督/神代辰巳 出演/谷本一、絵沢萠子
110)白い指の戯れ 監督/村川透 出演/荒木一郎、伊佐山ひろ子
111)真夏の夜の情事 監督/藤井克彦 出演/白川和子、高橋明
112)官能地帯・哀しみの女街 監督/村川透 出演/青山美代子、谷本一
113)一条さゆり・濡れた欲情 監督/神代辰巳 出演/一条さゆり、白川和子
114)官能教室・愛のテクニック 監督/田中登 出演/田中真理、絵沢萠子
115)OL日記・牝猫の情事 監督/加藤彰 出演/中川梨絵、山田克郎
116)哀愁のサーキット 監督/村川透 出演/峰岸隆之介、木山佳

1973(昭和48)年
117)戦争と人間 完結篇 監督/山本薩夫 出演/北大路欣也、吉永小百合
118)恋人たちは濡れた 監督/神代辰巳 出演/大江徹、中川梨絵
119)四畳半襖の裏張り 監督/神代辰巳 出演/宮下順子、江角英明

1974(昭和49)年
120)濡れた欲情・特出し21人 監督/神代辰巳 出演/片桐夕子、芹明香
121)鍵 監督/神代辰巳 出演/観世栄夫、荒砂ユキ
122)四畳半襖の裏張り・しのび肌 監督/神代辰巳 出演/宮下順子、江角英明
123)不明
124)青春の蹉跌 監督/神代辰巳 出演/萩原健一、桃井かおり
125)赤線玉の井・ぬけられます 監督/神代辰巳 出演/宮下順子、蟹江敬三
126)宵待草 監督/神代辰巳 出演/高橋洋子、高岡健二

1975(昭和50)年
127)櫛の火 監督/神代辰巳 出演/草刈正雄、ジャネット八田
128)アフリカの光 監督/神代辰巳 出演/萩原健一、田中邦衛
129)東京エマニエル夫人 監督/加藤彰 出演/田口久美、村上不二夫
130)黒薔薇昇天 監督/神代辰巳 出演/谷ナオミ、岸田森

1976(昭和51)年
131)パリの哀愁 監督/出目昌伸 出演/沢田研二、クロディーヌ・オージェ
132)オイディプスの刃(未完) 監督/村川透(『オイディプスの刃』は一九八六年、成島東一郎監督、杉村博章撮影、角川春樹事務所製作で製作された)
133)女教師童貞狩り 監督/加藤彰 出演/渡辺外久子、三上剛
134)「妻たちの午後は」より・官能の檻 監督/西村昭五郎 出演/宮下順子、渡辺外久子
135)性処女ひと夏の経験 監督/蔵原惟二 出演/東てる美、堀井永子

1977(昭和52)年
136)悶絶!! どんでん返し 監督/神代辰巳 出演/鶴岡修、遠藤征慈
137)壇の浦夜枕合戦記 監督/神代辰巳 出演/渡辺とく子、風間杜夫
138)人間の証明 監督/佐藤純彌 出演/三船敏郎、岡田茉莉子
139)16歳・妖精の部屋 監督/加藤彰 出演/早瀬しおり、内田良平

1978(昭和53)年
140)順子わななく 監督/武田一成 出演/宮下順子、殿山泰司
141)野性の証明 監督/佐藤純彌 出演/高倉健、薬師丸ひろ子

1979(昭和54)年
142)復讐するは我にあり 監督/今村昌平 出演/緒形拳、三國連太郎

1980(昭和55)年
143)天平の甍 監督/熊井啓 出演/中村嘉葎雄、田村高廣
144)少女娼婦・けものみち 監督/神代辰巳 出演/吉村彩子、内田裕也

1981(昭和56)年
145)ええじゃないか 監督/今村昌平 出演/泉谷しげる、桃井かおり

1982(昭和57)年
146)飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 監督/木下亮 出演/名高達郎、竹下景子
147)誘拐報道 監督/伊藤俊也 出演/萩原健一、小柳ルミ子
148)赤い帽子の女 監督/神代辰巳 出演/永島敏行、クリスティーン・ファン・アイク

1983(昭和58)年
149)OKINAWAN BOYS オキナワの少年 監督/新城卓 出演/藤川一歩、我那覇文章
150)嵐を呼ぶ男 監督/井上梅次 出演/近藤真彦、田原俊彦

1984(昭和59)年
151)海に降る雪 監督/中田新一 出演/和由布子、田中隆三
152)ルージュ 監督/那須博之 出演/新藤恵美、火野正平

1985(昭和60)年
153)きみが輝くとき 監督/森川時久 出演/西山剛史、三國連太郎

1987(昭和62)年
154)螢川 監督/須川栄三 出演/三國連太郎、十朱幸代
155)ハチ公物語 監督/神山征二郎 出演/仲代達矢、八千草薫
156)あぶない刑事 監督/長谷部安春 出演/館ひろし、柴田恭兵

1988(昭和63)年
157)極道渡世の素敵な面々 監督/和泉聖治 出演/陣内孝則、麻生祐未

1989(平成元年)年
158)マイフェニックス 監督/西河克巳 出演/富田靖子、宍戸開
159)花の降る午後 監督/大森一樹 出演/古手川祐子、桜田淳子

1990(平成2)年
160)飛ぶ夢をしばらく見ない 監督/須川栄三  出演/細川俊之、石田えり
161)マドンナのごとく 監督/門奈克雄 出演/名取裕子、加藤昌也

1991(平成3)年
162)ふたりだけのアイランド 監督/すずきじゅんいち 出演/中川安奈、荒井紀人
by sentence2307 | 2007-10-14 13:06 | 久松静児 | Comments(702)

つづり方兄妹


先週の朝刊で俳優の頭師孝雄さんご逝去の記事を読み、はじめて自分が弟の頭師佳孝と取り違えて認識していたことを知りました。

例えば、つい先日「日本映画専門チャンネル」で見た久松静児監督の「つづり方兄妹」58に次男の文雄役として出演していた俳優が、てっきり頭師佳孝だとずっと思い続けていたのもそのうちのひとつです。

あの映画「つづり方兄妹」は、小学校の映画教室で見たような記憶がうっすらとあったので、懐かしさから録画して見るのを楽しみにしていた作品です。

多分、それまでは山本嘉次郎監督の「綴方教室」と取り混ぜて記憶していたところもあったかもしれませんが、少し先立つフィルムセンターの「女優・高峰秀子特集」において既に「綴方教室」を見ていたので、「つづり方兄妹」の記憶だけが差し引かれたかたちで、かなり鮮明に小学生の頃の記憶を辿ることができたと思います。

しかし、いま見ると、こういう作品を小学生に見せて、どういう効果を子供たちに期待したのか、教育行政に携わった担当者の思惑にいまひとつ理解できないものがありました。

この作品は、極貧の家庭の子供たち兄妹が揃いも揃ってみな作文が上手で、幾度も表彰されて話題になったというエピソードがベースになっています。

この映画を見た小学生だった自分が、「貧しさ」と「作文で表彰される」ことの隔たりをどのような認識によって埋めようとしたのか、きっと苦労しただろうなと、どうしても考えてしまいます。

おそらく「貧しさ」と「作文がうまい」こととは、本質的にまったく別のものだからでしょう。

しかし、映画の随所に、取材に来た新聞記者たちが発する心無い言葉として「作文が上手な子供を持つといいよな。子供に稼がせて羨ましい限りだ。」というようなセリフが出てきます。

映画館で見るならともかく、学校で行われる映画教室でこのような大人の悪意を露わにするような映画を見せて、子供たちにどういう教育的効果を期待したのか理解に苦しみます。

実は、この小文を書こうと思い立った直接の動機となったある解説書のこんな一文がありました。

「貧しさにも苦しさにも悲しみにもめげず、清らかな心と、両親の愛情の中に育っていく子供の視点から生活体験が描かれている」というのです。

例えば、ここに描かれている父親というのがまったくといっていいくらい生活力のない男で、仕事につけないことを社会や他人のせいにし、また、あればあったで意に沿わいという口実をつけて結局働かず、家で酒ばかり飲んでゴロゴロしているような、そうした彼の生き方のどこを探せば「両親の愛情」などという誠実さのカケラでも見つけだせるのか、ちょっと躊躇してしまうかもしれない程の、ぐうたらで無責任な父親です。

そのような不当な「貧しさ」の中で育つ子供たちが、そういう父親でも「一般概念としての親」に向ける信頼を持ち続けながら、無防備な澄んだ眼差しでシビアな現実を精密に観察するという痛ましくも歪んだ結実が「作文」というかたちで表出され、さらにそれが公的に表彰されるということは、いったいどういうことなのか、汚物がいつの間にか清らかなゲテモノに捏造されてしまうそのような凄惨な意識構造が、きっと小学生だった僕のアタマをパニックに陥れたのだと思います。

これが教育というものなのかと、きっと訝しく考えたかもしれません。

貧しさの責任は、少なくとも子供たちにはない、と思います。

子供たちは、大人たちの社会のルールを懸命になって理解し読み取ろうとしています。

大人たちの世界の薄汚い歪みや矛盾もまるごと受け入れ、現実にそぐわない自分の「未熟さ」や「甘さ」を打ち棄てて、大人の世界の立派な一構成員になるために自分をある型に当て嵌め、汚物で全身を汚すことに躍起になっています。

その悲しい努力の結実たる「作文」が、もし多くの大人たちを感動させたのなら、その「感動」は、歪みが更に捻じれた反吐のようなものでしかないでしょう。

悪環境に晒され、より巧みに歪み捻じれることのできるテクニックを習得した子供たちの「優れた作文」を楽しむという異常な現実が、この「つづり方兄妹」には、(きっと、図らずも)描かれていました。

小学生から持ち続けていたはずのこの映画「つづり方兄妹」に対するかすかな記憶が、決して甘やかでも美しいノスタルジーでもなく、ただ僕を深く痛めつけた作品だったかもしれないことを自身の手で白日の下に晒してしまい、結果的に、多分大切にしていた映画の記憶を自分から消してしまったみたいで、いまは釈然としない気持ちでいっぱいです。

これは単なる期待的妄想なのですが、大島渚がこの映画を撮るなら、文雄の病死で終わるこの映画の結末を、きっと文雄の反逆的自殺で終わらせてしまうかもしれないななどと思いながら、せめてもの妄想的鬱憤晴らしに、ちょっとにんまりしてしまいました。

大島渚が、挑発的なデビュー作「愛と希望の街」を撮ったのは、ちょうどこの映画「つづり方兄妹」が作られた翌年の1959年だったと記憶しています。

(58東宝)製作・滝村和男、企画・松本常保、監督・久松静児、監督助手・板谷紀之、脚本・八住利雄、原作・野上丹治、野上洋子、野上房雄、撮影・高橋通夫、音楽・斎藤一郎、美術・北猛夫、安倍輝明、録音・西尾昇、照明・今泉千仞、製作主任・横田保、スチール・橋山愈

出演・織田政雄、望月優子、藤川昭雄、竹野マリ、頭師孝雄、藤川清子、上田智子、香川京子、津島恵子、森繁久弥、菅井きん、乙羽信子、左卜全、二木てるみ、池田栖子、小笠原恭子、長谷川茂、桑名亮輔、 森田哲章、徳田考、 国友和歌子、滝田裕介、中原成男、酒井茂、浜田寅彦、(1958.08.23 11巻 2,820m 白黒 東宝スコープ)
by sentence2307 | 2005-04-10 16:18 | 久松静児 | Comments(247)