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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:村上春樹( 3 )

ひとの犯す過ち

村上春樹が、フィッツジェラルドの翻訳にこだわっていることを知ったとき、「そうだったのか」と思い当たるものがありました。

あのシニカルで乾いた、独特の理屈っぽい村上春樹の文体は、自分にとって、そこがまたたまらない魅力を感じるところだったのですが、それが1920年代(~1930年代も)のフィッツジェラルドの古風な文体の影響だったと知ったときの意外は、なかなか受け入れられるものではありませんでした。

しかし、今回出版された村上春樹編訳の「ある作家の夕刻」(フィッツジェラルド後期作品集というサブタイトルがついています)を読んだとき、影響を受けたのはむしろ「文体」ではなくて、その文体に染み込んでいる晩年のフィッツジェラルドの「絶望感」だったりとか「蒼ざめた諦念」や「虚無の自嘲」、もうどうだってかまわないとでもいうような「投げやりさ」などにあるのだなと、へんに納得するものがありました。

村上春樹が、ヘミングウェイではなく、むしろフィッツジェラルドに魅せられたことが、なんだかとても好ましく感じました、あえていえば無防備な優しさに対するみたいな「救い」だったかもしれません。

富も名声も、そして自尊心までも充たした輝かしい人生の果てで、さらに虚栄心を満たすかような自殺で締めくくったヘミングウェイに対して、世間から忘れ去られ冷笑を浴びせられながら惨憺たる晩年を不運のなかで過ごしながら、ヨワイ40歳という若さで、まるで老いた憐れなアル中みたいに(事実まさにそのとおりだったのですが)無様に野たれ死んだフィッツジェラルドに魅せられたということに、たまらないシンパシイを感じたのだと思います。

この「ある作家の夕刻」の帯には、このようなコピーが記されていました。

「巧みに、軽妙に、時には、早すぎる死を予期したかのように―翳りのなかにあって揺るぎなく美しい1930年代の名品群」そして「華やかな喧騒の日々から一転、三十代半ばにして迎えた不遇の時代。妻ゼルダの失調、経済的逼迫、アルコール依存、作家としての窮状さえも、フィッツジェラルドは見事に小説に結実させていった。」
この本に収載されている小説は、「異国の旅人」「ひとの犯す過ち」「クレイジーサンデー」「風の中の家族」「ある作家の午後」「アルコールに溺れて」「フィネガンの借金」「失われた十年」の八編、エッセイは、「私の失われた都市」「壊れる」「貼り合わせる」「取り扱い注意」「若き日の成功」の五編で、これらのなかには、今回新たに訳し直されたものもあるということです。

のちのちの自分の「覚え」のために解説を抜書きしました。

★「異国の旅人」(「サタデー・イヴニング・ポスト」誌1930.10.11号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《アメリカを離れ、1920年代のヨーロッパを自由に優雅に旅行する裕福な若い夫婦。ハンサムな夫と、美しい妻。イノセントで幸福な彼らの身に、異国の地でいったいどんなことが起こったのか? 来るべき長編小説「夜はやさし」1934の先触れとなるような、静かで巧妙な不穏さを秘めた物語だ。主人公たちのモデルになっているのは、もちろんスコットとゼルダだが、ヨーロッパにおける二人の友人、富裕なジェラルド・マーフィー夫妻の姿もそこに混じり込んでいる。そのへんもまた「夜はやさし」と同じだ。セーヌ川のボート上のパーティーも実際にマーフィー夫妻が主催したもので、その新奇な趣向と優雅さでパリ中の話題を呼んだという。》
旅行者として訪れたヨーロッパの地で若きアメリカ人夫妻が取り澄ましたイギリス人たちとのなかで「ささやかなトラブル」に巻き込まれ、そのとき異邦人としての違和感と孤立感とを描いた作品ですが、自分の印象では、「伝統」とか「身分」とかに対する劣等感ではなく、金にあかせて「洗練」をいかに身にまとおうとも、そうした付け焼刃を「都会人(イギリス人)」からすべて見透かされ冷笑を浴び罵られた「田舎者(アメリカ人)」の屈辱感が描かれているのではないかと感じました。ゼルダの実際の写真を見たときの印象は、自分にはいかにもアメリカの田舎娘だなという印象だったことも拭えません。そして、この感覚は、やがて零落したフィッツジェラルドが、アメリカでしたたかに味わうことになった冷ややかな「軽侮」と「冷笑」と同じものではなかったのだろうかと思いました。

★「ひとの犯す過ち」(「サタデー・イヴニング・ポスト」誌1930.1.18号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《原題のTwo Wrongsは、人の犯す過ちに、過ちをもって対しても、決してよい結果は生まないという意味だ。ここでは夫婦の間の危機が描かれているが、それは現実にフィッツジェラルド夫妻の身に起こったことだ。スコットの浮気と、ゼルダの不貞。一種の「楽園追放」とも言うべき出来事であり、それはスコットの飲酒を促進し、ゼルダの精神を無残に蝕んでいくことになる。この頃からフィッツジェラルドの書く小説は否応なく、後戻りのきかない絶望を、そして深い傷を負った心からにじみ出る独特の美しさを含むようになる。それは「夜はやさし」という長編小説の中に見事に結晶していくわけだが。》
この小説のタイトル「ひとの犯す過ち」が、とても気に入って、この小文のタイトルに(ちゃっかり)採用させてもらいました。ここに描かれているのが「自己顕示欲」とか薄っぺらな「うぬぼれ」であったとしても、さらにその奥には、どのようにしても他人とコミュニケーションがとれない孤絶と苛立ちがあって、自分のその不全と無力感に対して「どうしてなんだ」と問い続けるフィッツジェラルドの素直な愚かさに、処世巧者のヘミングウエイなどは、たまらない苛立ちを感じたのだなと思いました。苛立ちのあまり「罵倒のひとこと」くらい発することを抑えられなかったかもしれません。

★「クレイジー・サンデー」(「アメリカン・マーキュリー」誌1932.10号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《現在ではフィッツジェラルドの傑作短編のひとつとされているが、当時は十を超す数の雑誌に掲載を断られ、「アメリカン・マーキュリー」というあまりぱっとしない雑誌でようやく日の目を見た。フィッツジェラルドが筋の改変と短縮を、断固拒否したためだった。この作品には、フィッツジェラルドが1930年代初めにハリウッドで仕事をしているときに経験した幾つかの出来事が、材料として用いられている。フィッツジェラルドは、女優ノーマ・シアラーと、その夫である映画界の大物アーヴィング・タルヴァーグの主催するパーティーで、実際に主人公と同じような失敗を犯したといわれている。抑えようのない自己顕示欲が、この人の個人的な泣きどころだった。》

★「風の中の家族」 (「サタデー・イヴニング・ポスト」誌1932.6.4号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《竜巻に巻き込まれた南部の田舎町、才能と学識に恵まれながらも、なぜかアルコール依存症で人生を誤ってしまった医師。その外科医の姿は「夜はやさし」の主人公、ディック・ダイヴァー医師の辿った運命を思い起こさせる。なんといっても、巨大な竜巻の描写が実に見事だ。ジョゼフ・コンラッドの名作「颱風」における嵐の描写を彷彿させる。自然の圧倒的な暴力をリアルに描きながら、視線がどこまでも精密で、大げさにぶれることがない。僕(村上春樹です)は高校生のときにこの作品に出会って、その筆力に深く感心したことを記憶している。そういう意味でも個人的に好きな作品だ。今回ようやく翻訳することができて、嬉しかった。》

★「ある作家の午後」(「エスクァイア」誌1936.8号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《この作品を書いた当時、フィッツジェラルドは娘のスコッティーと二人で、ボルティモア市内のアパートメントに住んでいた。精神を病んだゼルダが当地の病院に入っていたためだ。仕事は思うように進まず、体調は優れず、多額の借金を抱えていた。商業誌は彼に、むかしと同じような洒落た都会風恋愛小説を求めていたが、苦境にある今の彼には、そんなお気楽な小説を書こうという気はとても起きない。そのギャップが彼を悩ませていた。そのような薄暗い日常を、フィッツジェラルドは「私小説」的に淡々と描写していく。体裁はあくまでフィクションだが、そこに描かれた心情はほとんどフィッツジェラルド自身のものだろう。そのとき彼はまだ四十歳にもなっていないのだが。》

★「アルコールに溺れて」 (「エスクァイア」誌1937.2号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《いまから四十年近く前に僕(村上春樹)は、この作品を「アルコールの中で」という訳題で訳出したことがある。ずいぶん昔のことなので、今回改めて訳し直した。この小説の舞台となった街の名は明かされていないが、バスが人種別の席になっているところを見ると、南部であることが分かる。たぶん彼が静養していたサウス・カロライナ州アッシュヴィルではないかと思われる。彼はそのホテルで滞在し、なんとかアルコール依存症から立ち直ろうと苦闘していた。リアルで暗い内容の話であり、普通の商業誌ならまず引き受けそうもないが、「エスクァイア」の編集長アーノルドギングリッチは、フィッツジェラルドの信奉者であり、その作品を進んで掲載することで、晩年の彼を精神的に、経済的に支えた。》

★「フィネガンの借金」 (「エスクァイア」誌1938.1号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《一種のユーモア小説と呼ぶべきなのだろうか。借金で首の廻らない自らの生活を、フィクションの形で戯画化している。どんなことだって片っ端から小説の材料にしてしまう作家フィッツジェラルドのタフさ(貪欲さ)に、改めて感心させられることになる。そしてまた、彼が採用している小説スタイルの驚くべき多彩さにも。どんなスタイルで書いても、この人の文章はうまい。原文の巧妙にもってまわったユーモアの感覚が、うまく日本語に移し変えられたいたら嬉しいのだが。スクリプナー社の編集長マックスウェル・パーキンズと、文芸エージェントのハロルド・オーバーが、明らかに登場人物のモデルになっているわけだが、二人はこの作品を読んでおそらく頭を抱えたに違いない。あるいはただ苦笑したか・・・。》

★「失われた十年」 (「エスクァイア」誌1939.12号)
小扉の解説では、このように要約されています。
《これも「フィネガンの借金」と同じように自らの置かれた逼迫した状況を、フィクションとして戯画化した作品だ。駆け出し編集者の若者らしいイノセントな目を通して、ひとりの「謎の人物」が語られる。その人物が、この十年間に彼のたどってきた道のりが、少しずつ、あくまで曖昧にではあるけれど、読者にも示唆されていく。とても軽妙な文体で、短く軽い作品として仕上がっているのだが、そこで示されている内容には、深い絶望と、失われてしまったものに対する憧憬のようなものがうかがえる。フィッツジェラルドの「文章芸」を愉しむための小さなショーケースとなっている。》

★「私の失われた都市」
小扉の解説では、このように解説されています。
《1932年7月に執筆されたが、発表されたのは死後のことだった。この作品も「アルコールに溺れて」と同じく、40年近く前に訳出したのだが、(そのときのタイトルは「マイ・ロスト・シティ」)、今回新しく訳し直した。個人的に好きな作品なので、少しでもよりこなれた、より正確な訳にしたかった。フィッツジェラルドはここで、ニューヨークというひとつの都市を軸として、自分の人生を語る。当時の彼はヨーロッパから引き上げてきたばかりで、妻ゼルダは精神を病み、入院と退院を繰り返していた。アメリカは暗い不況時代を迎え、20年代の浮かれ騒ぎはもう過去のものとなり、フィッツジェラルドの小説スタイルも時代遅れなものと見なされていた。しかし、その都市と自らを語る筆致は精密で逞しく、またリリカルだ。彼は頭ではなく、ペン先で深く考えをめぐらせているように思える。文章の説得力はおそらくそこから生まれてくるのだろう。》

★「壊れる」「貼り合わせる」「取り扱い注意」(「エスクァイア」誌1936.2.3.4号)
小扉の解説では、このように解説されています。
《この三篇のエッセイを引き受けて掲載しただけでも、「エスクァイア」の編集長アーノルド・ギングリッチの功績は賞賛されるべきだ。僕(村上春樹)はこの三篇のエッセイが個人的に大好きで、昔から何度も読み返してきた。自分でも訳したかったのだが、それはもっと年齢を重ねてからの方がいいだろうと思って、今まで手を出さずに大事にとってきた。でもまあそろそろ良い頃合いではないかと思いなし、本書のために訳出した。
僕(村上春樹)はもちろんフィッツジェラルドの小説を愛好しているが、彼の小説から何か具体的な、技術的な影響を受けたかというと、それはあまりないと思う。精神的な影響を受けたということはあっても・・・。しかしエッセイに関しては、ある程度具体的な影響を受けてきたかもしれない。長いエッセイを書くときには、僕(村上春樹)はいつもこの「壊れる三部作」と「私の失われた都市」を頭に思い浮かべるようにしているから。ヘミングウェイに「女々しい」と罵られたこのエッセイの美しさを、そしてそこに隠された芯の強さを、皆さんにも味わっていただけたらと思う。》


実は、すこし前にBSでジョン・フォードの「タバコ・ロード」1941を見てそのハチャメチャぶりに驚いたことがありました。

あの「これでもか」というアメリカ南部の農民の愚かさのキワミのような描き方には、心底うんざりさせられるものがあったのですが、しかし、逆に、あの飾り気のない人間の活力を凝視し、その奥にあるものを描き出すことのできるチカラこそ「アメリカ文学」の魅力であり真髄なのかもしれないと感じた部分もありました。

さらに加えて、「怒りの葡萄」や「わが谷は緑なりき」に続く作品ということを知って、前の二作からジョン・フォードが「社会主義者」の傾向があるのかという噂を払拭し、「アメリカ文学」の信奉者であることの流れの中にある作品であることも知りました。
あ、いつものことながら軽薄に思い立って、さっそく「計画と挫折を前提にしたような読書目標」として「安直・アメリカ文学リスト」を急ごしらえしてみました。

これをどこまで読めるのかは分かりませんが、こうしてリストを作ること自体の意義というものだって別にないわけじゃありません。

でも、これってやっぱ「計画フェチ」とでもいうのでしょうか。

以下は、時系列など無視した「五十音順」のアメリカ文学のリストです。


☆アーサー・ミラー『世界の創造とその他のこと』『セースルマンの死』『るつぼ』『橋からのながめ』
☆アースキン・コールドウェル『タバコ・ロード』『神に捧げた土地』
☆アーネスト・ヘミングウェイ『誰がために鐘はなる』『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』『移動祝祭日』『海流のなかの島々』
☆アリス・ウォーカー『カラーパープル』『メリデ ィアン』
☆アレックス・ヘイリー『ルーツ』。
☆アレン・ギンズバーク詩集『吠える』『キャディシュ』『変化』『アメリカの夜』
☆アン・ビーティ『ラヴ・オールウェイズ』
☆アン・ブラッドストリート『第十番目の詩神』
☆イシュメル・リード『自由な葬儀人足』
☆ウィリアム・インジ『帰れ,愛しのシバ』『バス・ストップ』
☆ウィリアム・エラリー・チャニング
☆ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ『ペイターソン』
☆ウィリアム・カレン・ブライア ント詩集『ブライアント詩作集』「死生観」
☆ウィリアム・H・ギャス 『アメリカの果てに』
☆ウィリアム・サロイヤン『空中ブ ランコに乗る勇敢な若者』『我が名はアラム』
☆ウィリアム・スタイロン『闇の中に横たわりて』。
☆ウィリアム・ディーン・ハウェルズ『サイラス・ラバムの良心』
☆ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』
☆ウィリアム・フォークナー『アブサロム,アブサロム』『サートリス』『響きと怒り』
☆ウィリアム・ブラッドフォード『ブリマス植民地』
☆ウォーレス・スティーブンス詩集『ハルモニューム』
☆ウォルト・ホイットマン詩集『草の葉』
☆ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』『アーダ』
☆エイミ・タン『ジョイ・ラック・クラブ』。
☆エズラ・パウンド『版画』『詩篇(カントーズ)』
☆エドガー・アラン・ポウ短編『黒猫』『黄金虫』『アーサー・ゴードン・ビム』『アナベル・リー』『ユリイカ』
☆エドガー・L・ドクトロウ『ニューヨーク万国博覧会』『ビリー・バスゲイト』など。
☆エドガー・リー・マスターズ『スプーン・リヴァー・アンソロジー』
☆エドゥイン・アーリントン・ロビンソン『ザ・マン・アゲインスト・ザ・スカイ』
☆エドワード・アルビー『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』
☆エドワード・オルビー『海辺の風景』 。
☆T.S.エリオット『荒地』『四つの四重奏』
☆エリザベス・ビショップ『詩集―北と南,冷たい春』
☆エルマー・ライス『街の風景』『計算機』など。
☆カースン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』『結婚式のメンバー』など。
☆カート・ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』『青ひげ』『母なる夜』『ローズウォーター氏に神の祝福を』『屠 殺場 5号』
☆E.E.カミングズ詩集『チューリブス・シムニーズ』
☆クリフォード・オデッド『レフティを待ちつ つ』『月へのロケット』
☆ゲィリー・スナイダー『亀の島』。
☆ケン・キージー『カッコウの巣』
☆コットン・マザー『アメリカにおけるキリストの大いなる御業ニューイングランド教会史』
☆サミュエル・シューアル『日記』
☆ジェームス D.サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』『フラニーとズーイ』『大工たちよ,屋根の梁 を高く上げよ,シーモア・序章』
☆ジェイムズ・ジョーンズ『地上より永遠 に』。
☆ジェイムス・T・ファレル『若きロニガン』『審判の日』
☆ジェイムズ・フェニモア・クーパー 革脚絆物語―『鹿猟師』『モヒカン賊最後の砦』『道を開く者』『開拓者』『大草原』
☆ジェイムズ・ボールドウィン『山に登りて告げよ』『ジョバンニの部屋』『もう一つの国』『チャーリイ氏の ためのブルース』
☆ジェイムス・ミッチナー『トコリの橋」
☆シドニー・キングスレイ『白衣の人々』『デッド・エンド』
☆シャーウッド・アンダソン『オハイオ州ワインズバーグ』『貧乏白人』
☆ジャック・ケルアック『路上』『禅ヒッピー』
☆ジョイス・キャロル・オーツ『国境の向こう』『ベルフロール』『光の天使』『マラヤ,一人の人生』『彼ら』『愛の車輪』
☆ジョゼフ・ヘラー『キャッチ 22』
☆ジョナサン・エドワーズ『意思自由論』
☆ジョン・アーヴィン『ガーブの世界』『ホテル・ニューハンプシャー』『メアリー・オウエンに祈りを』
☆ジョン・アシュベリー『凸面鏡に映った自画像』
☆ジョン・アップダイク『帰ってきたウサギ』『金持ちになったウサギ』『さよならウサギ』『イーストウィックの魔女たち』『走れウサギ,走れ』『ケンタウロス』『カップル ズ』
☆ジョン・ウールマン『私記』
☆ジョン・ウィンスロップ『ニューイングランドの歴史』
☆ジョン・オハラ『サマーら〔ラ〕の町で会おう』
☆ジョン・ガードナー 『キングス・インディアン』『オクトーヴ〔バ〕ア・ライト』など。☆ジョン・スタインベック『二十日ねずみと人間』『怒りの葡萄』『エデンの東』『怒りの葡萄』
☆ジョン・スミス『ヴァージニアとイングランドとサマー諸島の一般史』
☆ジョン・チーヴァー『短編集』
☆ジョン・ド・クレヴクール『アメリカ農夫便り』
☆ジョン・ドス・パソス『三人の兵士』
☆ジョン・ハーシー『アダノの鐘』『ヒロシマ』など。
☆ジョン・バース『キメラ』『サバティカル』など。
☆ジョン・バース『氷上オペラ』『路の果て』『タバコ商人』『山羊少年ジャイルズ』
☆シルヴィア・プラス詩集『エアリアル』『冬の木立ち』 。
☆シンクレア・ルイス『メイン・ストリート』『バビッド』
☆スーザン・ソンタグ『エッセイ』『私のエトセトラ』『隠喩としての病エイズとその隠喩』
☆スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』 。
☆スティーブン・クレイン『街の女マギー』『怪物』
☆セオドア・ドライザー『シスター・キャリー』欲望三部作『財界人』『巨人』『克己の人』『アメリカの悲劇』
☆セオドア・レトキ詩集『目覚め』『風に向かっての言葉』
☆ソートン・ワイルダー『我が町』
☆ソール・ベロー『学生部長の 12月』『オーギー・マーチの冒険』『雨の王ヘンダーソン』『ハ ーツォグ』『サムラー氏の遊星』
☆チャールズ・ブロックデン・ブラウン『ウィーランド』『エドガー・ハントレー』
☆デイヴィッド・マメット『シカゴの性的倒錯』『グレンギャリー・グレン・ロス』。
☆テネシー・ウィリアムズ『イグアナの夜』『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』『バラの刺青』『熱いトタン屋根の上の猫』
☆ドス・パソス『U.S.A.』三部作『北緯 42度 線』『1919 年』『ビッグ・マネー』 。
☆ドナルド・バーセルミ『罪深き愉 しみ』『パラダイス』『帰っておくれ,ガリガリ博士』『白雪姫』『都市生活』
☆トニー・モリスン『青い目がほしい』『ソロモンの 歌』『タールベイビィ』『ビラウド』
☆トマス・ウルフ『天使よ故郷を見よ』『時と川について』
☆トマス・ジェファスン『ヴァージニア覚書』
☆トマス・ビンチョン『重力の虹』『ヴィインランド』『V.』『競売ナンバー 49 の叫び』
☆トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』『冷血』『遠い声,遠い部屋』 。
☆ナサニエル・ウェスト『パルソー・スネルの夢の生活』『いなごの日』
☆ナサニエル・ホーソーン『緋文字』『トワ イス・トールド・テールズ』
☆ニール・サイモン『カリフォルニア・スウィート』『ブライトン海岸のメモリー』Come Blow Your Horn,Bare Foot in the Park,The Odd Couple ,The StarSpangled Girl, Plaza Suite ,Last of the Red Hot Lover。
☆ノーマン・メイラー『死刑執行人の歌』『女性とそのエレガンス』『古代の夕べ』『裸者と死者』『バーバリの岸辺』『鹿の園』『ぼく自身のための広告』『アメリカの夢』『なぜ僕ら はヴェトナムへ行くのか』
☆ハート・クレイン詩『ブリ ッジ』
☆ハーマン・ウォーク『ケイン号の反乱』。
☆ハーマン・メルビル『白鯨』
☆フィリッブ・フレノー『サンタクルズの美しい人』
☆フィリップ・ロス『さようならコロンバス』『ポートノイの不満』『解き放たれたザッカーマン』など。
☆フラナリー・オコナー『賢い血』。
☆フランク・ノリス『マクティーブ』小麦三部作『オクトバス(たこ)』『小麦取引所』『狼』
☆フランシス・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』『偉大なるギャッツビー』
☆ベルナルド・マラマッド『魔法の樽』『アシスタント』『もう一 つの生活』『フィクサー』。
☆ベンジャミン・フランクリン『貧しきリチャードの暦』『自叙伝』
☆ヘンリー・アダムズ『アメリカ合衆国史』『ヘンリー・ アダムズの教育』
☆ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』『使者たち』『黄金の盃』
☆ヘンリー・デービッド・ソロー『森の生活』
☆ヘンリー・ミラー『北回帰線』『南回帰線』『サクセス』『ネクサス』
☆ポール・オースター『ガラスの都市』『最後の者たちの国で』など。
☆ポール・グリーン『アブラハムの胸』
☆A.S.マーウィン『エイシアン・フィギュア』 。
☆マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』
☆マイケル・ウィグルワース『最後の審判の日』
☆マクシン・ホーン・キングストン『チャイナタウンの女武者』など。
☆マクスウェル・アンダスン『ウィンターセット』『上院下院』
☆ユージン・オ ニール『氷人来る』『カリブ島の月』『地平線の彼方』『毛猿』『楡の木陰の欲望』
☆ラルフ・ウォルド・エマソン『自然論』『アメリカの学者』『神学部講演』『代表的人物論』
☆ラルフ・エリスン『見えない人間』
☆リチャード・ライト『アメリカの息子』『アウトサイダー』
☆リリアン・ヘルマン『子供の時間』『子狐たち』
☆レイモンド・カーヴァー『大聖堂』『僕が電話をかけている場所』など。
☆ロナルド・スーキニック『小説の死』
☆ロバート・フロスト『ボストンの北』『証の樹』


by sentence2307 | 2019-07-25 11:41 | 村上春樹 | Comments(0)
自分の主たる関心事は映画なので、ブログに何かを書き込むというと、どうしても「そっち系」の記事になってしまいます。

ここ最近の書き込みを見ても、結果的には「アカデミー賞」関係の記事がズラズラっと並び、まるで映画賞の追っかけみたいな感じになっていますが、自分の生活実態にそくしていえば、決して「映画中毒」的な生活を送っているわけではありません。

クラシック音楽を聴くのも好きですし、ジャズも大好きです。むかしから生ギターで謳いあげる黒人ブルース(シカゴ・ブルース)とかが好きなので、以前はその系統のLPレコードを集めていて、そこでマディー・ウォーターズと出会い、そこからはごく自然にレオン・ラッセルとかローリング・ストーンズとか、無理なくエルトン・ジョンも受け入れることができました。

ビートルズがでてきた当初、同じイギリス出身ということもあってローリング・ストーンズと混同していた友人もいましたが、ローリング・ストーンズがシカゴ・ブルースの影響をモロに受けたアメリカ南部風のコテコテのロックンローラーであるのに対して、ビートルズは、クラシック音楽のテイストをもった純ヨーロッパ系の異色のグループだとすぐに見分けがついたことを覚えています。

そんな感じでつい最近までLPレコードを愛聴してきたのですが、ここ最近は、とくに聴くための装置がなくても、だいたいの音楽はyou tubeで気軽に聴けてしまうので、それに満足さえできれば、とくに聴くための立派な装置など必要としないし、そもそもLPレコード自体を保有する意味も失われてしまったような感じがしていました。

「物質」からその「必要性」がなくなってしまえば、あとに残るものといえば長い間保有してきたこと自体の「愛着」(むしろ、こちらの方が厄介な問題なのかもしれません)とどう折合いをつけるかだけの話ですが、自分を納得させられるメンタル手続きというか操作というか、その「愛着」の中に幾らかは占めているに違いない「物欲」を遠心分離器にかけて抜き取ってしまうという方法を試みてみました。

もしかしたら、「愛着」と「物欲」を取り違えているのかもしれませんし、さらに、「愛着」なんて「物欲」の錯覚で、むしろイコールなのかもしれないじゃないですか、それって大いにあり得ることだと思います、そこのところを確かめてみたいと考えて、ある方法を試みました。

しかし、なにもこんなふうに理屈っぽく考えなくたって、かさ張るLPレコードはそれなりの専用の保存場所を必要として、それでなくとも狭い空間に身を縮めて生活していかなければならない自分のような平凡な生活者にとっては、日常生活を狭めている物質の処理というものは切実な問題なのだという事実だけで、自分を納得させるのには十分な理由のはずなのですが。

その「ある方法」というのは、去年あたりからですが、徐々に近所のリサイクルショップへLPレコードを売り払い始めました。メンタルを納得させるための「荒療治」です。

そして、今年初頭にバスクラリネットのエリック・ドルフィーの名盤「アット・ザ・ファイヴ・スポット Vol.1」を最後に、ついにすべてのレコードの処分が完了しました。

この処分計画をする直前に、もし、手元から所有していた「物」がすべてなくなるという状態になったら、ものすごい空虚感に襲われるかもしれないと想像していたのですが、実際に最後の一枚を手放したときも、それほどの喪失感には見舞われませんでした。

たぶん、ひとつには、その買取り価格がものすごく安かったことにあったからかもしれません。

以前、LPレコードがまたブームになっているというニュースを聞いたことがありましたが、どこの世界の話だと思うくらいの惨憺たる「安値」でした。

その「安値」は、いまでは誰一人聴きもしないような時代遅れのレコードを後生大事に持ち続けていた自分の滑稽さを教えてくれました、それがひとつと、買取りの査定をした若い店員が、そのレコードを手に取って、同僚に「エリック・ドルフィーって、知ってるか」と聞いている無邪気な姿に、かえって救いを感じたのかもしれません、時代は移ろい、マイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもアール・フッカーも「誰だ、それ?」と聞き返される時代に自分もそろそろ生きはじめているのだなということを実感した瞬間でした。

それから「読書」というのも、自分の生活習慣の重要な部分を占めています。

ただ、少し前と現在では、習慣としての自分の「読書スタイル」に大きな変化がありました。

これはなにも自分に課していた規制というほどのものではないのですが、以前は、一冊の本を完全に読了しない限り次の本を読むということが、性格的にどうしてもできませんでした。

しかし、一冊の本を読み切るためには、一本の映画を見るみたいに2時間やそこいらで済む話ではありません、ゆうに何日も何十日もかかる行為です。

村上春樹の「騎士団長殺し」1部・2部を読んだ時など、正直、1か月かかりました。

それでなくとも、むらっけの多い自分など、一冊の読書にかかりきりになっているその間、どうしても当初の緊張感がうすれ、次第に意識もはなれ、徐々に別の本に興味が移っていて、それがそのときの自分の正直な気持ちの実態なのに(それだって大切な「モチベーション」であることには違いありません)、それでも無理やり一冊の本の読書に自分を縛り付けていたということを繰り返してきました。

考えてみれば、これって、すごくおかしな話ですよね。しかし、かといって、そのとき読んでいた本を放棄して別の本に切り替えてしまったら、それこそ本末転倒の話になってしまいます。

そこで、こんなふうな方法を編み出しました、「複数冊・同時読書」です。

「あんた、そりゃあ邪道だわ。いわば読書の禁じ手」などと言われそうですが、しかし、この方法、自分にはピッタリと嵌まった実に功利的な方法でした。なにしろ、ダラダラ読むよりも、短い箇所を読むことになるので、よほど集中力が増しました、一行一行を集中して読み取ることができるようになりました。

そして、読むのに飽きたら、そのページのその行に付箋を貼っておいて、そのときその瞬間にいちばん読みたいと思っているまた別の本を手に取って読み始めます、「興味優先」のこの方法にはつまらない罪悪感すら入り込む余地などいささかもありません。

それは映画においても同じことだなと気が付きました。興味があるものを、そのときに、あるいは、その部分を集中して少しずつ見る・遅々として読む、というのが、もっとも理にかなった方法であることに気が付いたのでした。

まあ、これは自分だけの方法なのであって、あまり人様にはお薦めできませんが。

そうそう、「付箋」といえば、自分は、読書するときには、片手に付箋を持って読み始めます、以前は、鉛筆で傍線を引いていたのですが、読了後、見直すことを考えたら、付箋を貼るほうが、よほど効率的なのでそうしているのですが(当然、「傍線」の付箋と、「読みかけ」の付箋とは、色違いで区別しています)、前述した村上春樹の「騎士団長殺し」1部・2部のときも、「傍線」付箋を貼りながら読んだのですが、意外に付箋の数はほんのわずかしか貼られることはありませんでした。

たぶん、以前なら、多用される村上春樹独特の「それはまるで○○のような」に感銘を受けていたのに、いまではすっかりその言い回しに慣れてしまい、たぶん飽きてもしまっていて、あえてスマートだと思うこともなく、だから心を動かされることもそれほどではなくなってしまったからかもしれません。

それに、読んでいる最中は面白いと感じた言い回しも、それから何日か経った読了後に読み返してみると、どこが面白いと感じて付箋をつけたのだったかも、すっかり分からなくなってしまっている状態で、意味の失われた付箋をひとつずつ剥がしていった結果、残った付箋はたった一か所、「第2部 遷ろうメタファー編」528ページのこの部分だけでした。


「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」と私は言った。「でも少くとも何かを信じることはできる」


しかし、これだって、時が経てば、なんでこんな言葉に感銘したのだったか、前後の脈絡を失っていく過程で、いつしか貼り付けた付箋の意味さえ分からなくなってしまうに違いありません。しかし、これはなにもネガティブな意味で言っているのではありません。いままさに読んでいるという読書の瞬間のダイナミズムを損なうものではいささかもないことを言いたかったのです。



by sentence2307 | 2019-03-10 10:28 | 村上春樹 | Comments(0)
たまたま時間ができたので映画でも見ようかと思い、さてどれがいいかなというような時、差し当たりこれはという作品が思いつかないときなど、とりあえずは「話題作」を選んでしまいます。

それと同じように、読む小説を選ぶ際にも、なんとなく話題作を追っかけて読んでいるうちに、それらの作品が感覚的にあまりに「最先端」すぎてついていけなくなるくらいに疲れてしまい、読み継いでいくのが堪らなく辛くなり、こんな気持ちになってまで小説を読む意味なんて果たしてあるのかみたいな「読むスランプ」状態に追い込まれて、かなりの間、生理的に拒否反応を起こして小説離れをしてしまうほどのダメージをこうむることってありませんか。

その辺が、小説と映画との違うところでしょうか。

他人の言葉に導かれて自分の中に深く降りていかなければならない小説の場合、余程自分の好みというものをはっきり持っていないと、その作家の過激な活力(話題作というものが、往々にしてその作家が全力を傾注し、そしてそれゆえに評価を受けて話題になるという場合が多いと思います)によって強引に引きずり回されるままに終わってしまう結果を幾度か経験しています。

それは、当然の結果として、ただ不快なだけの読後感とダメージしか自分に残すことがなく、しかし、どうしてそれが読書の愉しみといえるのか、最近そんな疑問を感じることが、しばしばあるのです。

つまり、小説が、ただ心地よいというだけのものでは何故いけないのか、という素朴な疑問です。

しかし、僕にとって例外がひとつだけあります。

村上春樹作品を読んでいるときの安らぎに満ちた時間です。

これほど安らげる贅沢な時間に浸り切ることができていいのかと思うくらいです。

村上作品を読んでいる間中、常に感じていることは、こうして夢中になって作品を読み進めていくことで、この自分にとっての至福の時間をどんどん自分から減らしてしまっているのだという矛盾した思いに苦しめられる、つまり夢中になってむさぼるように読む自分を、一方でそうさせまじとスローダウンさせようとする力にあがらいながら過ごす鬩ぎ合いの時間とでも言えばいいのでしょうか。

こういう蜜月的な幸福な思いは、僕たちがとっくの昔に失ってしまった子供のときにしか持ち得なかった感情のひとつだろうと思います。

村上作品は、その気持ちを、そしてその失われた時間を僕たちに思い出させてくれる貴重な世界観です。

さて、本当のところを言うと、小説を読むといっても、いままではただ漫然と読み飛ばしているにすぎませんでした。

感動した箇所とか気に入った言葉などに遭遇しても、特に抜書きしたり傍線を引くなどというようなこともしていません。

しかし、僕が映画の感想をなんとなく書き始めたときに、小説の本文中に、タイトルだけつければ立派に映画批評として自立する部分があることに気が付き、これは面白いなと思いました。

例えば、「海辺のカフカ」の中のこんな部分です。

《僕はそこからアドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本を選ぶ。
アイヒマンという名前はナチの戦犯としてぼんやりと記憶していたが、とくに興味があったわけじゃない。
たまたまその本が目をひいたから手にとっただけだ。
僕はそこでその金属縁の眼鏡をかけた髪の薄い親衛隊中佐がどれくらいすぐれた実務家であったかという事実を知ることになる。
彼は戦争が始まって間もなく、ナチの幹部たちからユダヤ人の最終処理―要するに大量殺戮―という課題を与えられ、それをどのようにおこなえばいいかを具体的に検討する。
そしてプランをつくる。
そのおこないが正しいか正しくないかという疑問は、彼の意識にはほとんど浮かばない。
彼の頭にあるのは、短期間にどれだけローコストでユダヤ人を「処理できるか」ということだけだ。
彼の計算によれば、ヨーロッパ地域で処理するユダヤ人の数は全部で1100万人ということになった。
何両連結の貨車を用意し、ひとつの貨車に何人のユダヤ人を詰めこめばいいか。
そのうちの何パーセントが輸送中に「自然に」命を落とすことになるか。
どうすればもっとも少ない人数でその作業をこなすことができるか。
死体はどうすればいちばん安あがりに始末できるか-焼くか、埋めるか、溶かすか。
彼は机に向かってせっせと計算する。
計画は実行に移され、ほぼ計算通りの効果を発揮する。
戦争が終わるまでおおよそ600万(目標の半分を超えたあたり)のユダヤ人が彼のプランに沿ったかたちで「処理」される。
しかし彼が罪悪感を感じることはない。
テルアビブの法廷の防弾ガラス張りの被告席にあって、自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びることになったのか、アイヒマンは首をひねっているように見える。
自分は、ひとりの技術者として、与えられた課題にたいしてもっとも適切な回答を提出しただけなのだ。
世界中のすべての良心的な官僚がやっているのとまったく同じことじゃないか。
どうして自分だけがこのように責められなくちゃならないのか。
静かな朝の森の中で鳥たちの声を聞きながら、僕はその「実務家」の物語を読む。
本の後ろの見開きに、大島さんが鉛筆でメモを残している。
僕はそれが大島さんの筆跡であることを知っている。
特徴的な字なのだ。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力から始まる。イエーツが書いている。in dreams begin the responsibilities-まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」》「海辺のカフカ」上巻226頁~227頁

この傑出した衝撃のドキュメンタリー映画「スペシャリスト―自覚なき殺戮者」に対して、これほど的確な批評を読んだ記憶がなかったため、自分としては初めて「抜書きしたい」という衝動を感じました。

こんなふうな抜書きなら、読書する励みにもなるし、われながらイケテル思いつきだと自画自賛です。

未熟なためのタイプミスはご容赦ください。
by sentence2307 | 2005-04-02 10:28 | 村上春樹 | Comments(2)