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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:村上春樹( 2 )

自分の主たる関心事は映画なので、ブログに何かを書き込むというと、どうしても「そっち系」の記事になってしまいます。

ここ最近の書き込みを見ても、結果的には「アカデミー賞」関係の記事がズラズラっと並び、まるで映画賞の追っかけみたいな感じになっていますが、自分の生活実態にそくしていえば、決して「映画中毒」的な生活を送っているわけではありません。

クラシック音楽を聴くのも好きですし、ジャズも大好きです。むかしから生ギターで謳いあげる黒人ブルース(シカゴ・ブルース)とかが好きなので、以前はその系統のLPレコードを集めていて、そこでマディー・ウォーターズと出会い、そこからはごく自然にレオン・ラッセルとかローリング・ストーンズとか、無理なくエルトン・ジョンも受け入れることができました。

ビートルズがでてきた当初、同じイギリス出身ということもあってローリング・ストーンズと混同していた友人もいましたが、ローリング・ストーンズがシカゴ・ブルースの影響をモロに受けたアメリカ南部風のコテコテのロックンローラーであるのに対して、ビートルズは、クラシック音楽のテイストをもった純ヨーロッパ系の異色のグループだとすぐに見分けがついたことを覚えています。

そんな感じでつい最近までLPレコードを愛聴してきたのですが、ここ最近は、とくに聴くための装置がなくても、だいたいの音楽はyou tubeで気軽に聴けてしまうので、それに満足さえできれば、とくに聴くための立派な装置など必要としないし、そもそもLPレコード自体を保有する意味も失われてしまったような感じがしていました。

「物質」からその「必要性」がなくなってしまえば、あとに残るものといえば長い間保有してきたこと自体の「愛着」(むしろ、こちらの方が厄介な問題なのかもしれません)とどう折合いをつけるかだけの話ですが、自分を納得させられるメンタル手続きというか操作というか、その「愛着」の中に幾らかは占めているに違いない「物欲」を遠心分離器にかけて抜き取ってしまうという方法を試みてみました。

もしかしたら、「愛着」と「物欲」を取り違えているのかもしれませんし、さらに、「愛着」なんて「物欲」の錯覚で、むしろイコールなのかもしれないじゃないですか、それって大いにあり得ることだと思います、そこのところを確かめてみたいと考えて、ある方法を試みました。

しかし、なにもこんなふうに理屈っぽく考えなくたって、かさ張るLPレコードはそれなりの専用の保存場所を必要として、それでなくとも狭い空間に身を縮めて生活していかなければならない自分のような平凡な生活者にとっては、日常生活を狭めている物質の処理というものは切実な問題なのだという事実だけで、自分を納得させるのには十分な理由のはずなのですが。

その「ある方法」というのは、去年あたりからですが、徐々に近所のリサイクルショップへLPレコードを売り払い始めました。メンタルを納得させるための「荒療治」です。

そして、今年初頭にバスクラリネットのエリック・ドルフィーの名盤「アット・ザ・ファイヴ・スポット Vol.1」を最後に、ついにすべてのレコードの処分が完了しました。

この処分計画をする直前に、もし、手元から所有していた「物」がすべてなくなるという状態になったら、ものすごい空虚感に襲われるかもしれないと想像していたのですが、実際に最後の一枚を手放したときも、それほどの喪失感には見舞われませんでした。

たぶん、ひとつには、その買取り価格がものすごく安かったことにあったからかもしれません。

以前、LPレコードがまたブームになっているというニュースを聞いたことがありましたが、どこの世界の話だと思うくらいの惨憺たる「安値」でした。

その「安値」は、いまでは誰一人聴きもしないような時代遅れのレコードを後生大事に持ち続けていた自分の滑稽さを教えてくれました、それがひとつと、買取りの査定をした若い店員が、そのレコードを手に取って、同僚に「エリック・ドルフィーって、知ってるか」と聞いている無邪気な姿に、かえって救いを感じたのかもしれません、時代は移ろい、マイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもアール・フッカーも「誰だ、それ?」と聞き返される時代に自分もそろそろ生きはじめているのだなということを実感した瞬間でした。

それから「読書」というのも、自分の生活習慣の重要な部分を占めています。

ただ、少し前と現在では、習慣としての自分の「読書スタイル」に大きな変化がありました。

これはなにも自分に課していた規制というほどのものではないのですが、以前は、一冊の本を完全に読了しない限り次の本を読むということが、性格的にどうしてもできませんでした。

しかし、一冊の本を読み切るためには、一本の映画を見るみたいに2時間やそこいらで済む話ではありません、ゆうに何日も何十日もかかる行為です。

村上春樹の「騎士団長殺し」1部・2部を読んだ時など、正直、1か月かかりました。

それでなくとも、むらっけの多い自分など、一冊の読書にかかりきりになっているその間、どうしても当初の緊張感がうすれ、次第に意識もはなれ、徐々に別の本に興味が移っていて、それがそのときの自分の正直な気持ちの実態なのに(それだって大切な「モチベーション」であることには違いありません)、それでも無理やり一冊の本の読書に自分を縛り付けていたということを繰り返してきました。

考えてみれば、これって、すごくおかしな話ですよね。しかし、かといって、そのとき読んでいた本を放棄して別の本に切り替えてしまったら、それこそ本末転倒の話になってしまいます。

そこで、こんなふうな方法を編み出しました、「複数冊・同時読書」です。

「あんた、そりゃあ邪道だわ。いわば読書の禁じ手」などと言われそうですが、しかし、この方法、自分にはピッタリと嵌まった実に功利的な方法でした。なにしろ、ダラダラ読むよりも、短い箇所を読むことになるので、よほど集中力が増しました、一行一行を集中して読み取ることができるようになりました。

そして、読むのに飽きたら、そのページのその行に付箋を貼っておいて、そのときその瞬間にいちばん読みたいと思っているまた別の本を手に取って読み始めます、「興味優先」のこの方法にはつまらない罪悪感すら入り込む余地などいささかもありません。

それは映画においても同じことだなと気が付きました。興味があるものを、そのときに、あるいは、その部分を集中して少しずつ見る・遅々として読む、というのが、もっとも理にかなった方法であることに気が付いたのでした。

まあ、これは自分だけの方法なのであって、あまり人様にはお薦めできませんが。

そうそう、「付箋」といえば、自分は、読書するときには、片手に付箋を持って読み始めます、以前は、鉛筆で傍線を引いていたのですが、読了後、見直すことを考えたら、付箋を貼るほうが、よほど効率的なのでそうしているのですが(当然、「傍線」の付箋と、「読みかけ」の付箋とは、色違いで区別しています)、前述した村上春樹の「騎士団長殺し」1部・2部のときも、「傍線」付箋を貼りながら読んだのですが、意外に付箋の数はほんのわずかしか貼られることはありませんでした。

たぶん、以前なら、多用される村上春樹独特の「それはまるで○○のような」に感銘を受けていたのに、いまではすっかりその言い回しに慣れてしまい、たぶん飽きてもしまっていて、あえてスマートだと思うこともなく、だから心を動かされることもそれほどではなくなってしまったからかもしれません。

それに、読んでいる最中は面白いと感じた言い回しも、それから何日か経った読了後に読み返してみると、どこが面白いと感じて付箋をつけたのだったかも、すっかり分からなくなってしまっている状態で、意味の失われた付箋をひとつずつ剥がしていった結果、残った付箋はたった一か所、「第2部 遷ろうメタファー編」528ページのこの部分だけでした。


「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」と私は言った。「でも少くとも何かを信じることはできる」


しかし、これだって、時が経てば、なんでこんな言葉に感銘したのだったか、前後の脈絡を失っていく過程で、いつしか貼り付けた付箋の意味さえ分からなくなってしまうに違いありません。しかし、これはなにもネガティブな意味で言っているのではありません。いままさに読んでいるという読書の瞬間のダイナミズムを損なうものではいささかもないことを言いたかったのです。



by sentence2307 | 2019-03-10 10:28 | 村上春樹 | Comments(0)
たまたま時間ができたので映画でも見ようかと思い、さてどれがいいかなというような時、差し当たりこれはという作品が思いつかないときなど、とりあえずは「話題作」を選んでしまいます。

それと同じように、読む小説を選ぶ際にも、なんとなく話題作を追っかけて読んでいるうちに、それらの作品が感覚的にあまりに「最先端」すぎてついていけなくなるくらいに疲れてしまい、読み継いでいくのが堪らなく辛くなり、こんな気持ちになってまで小説を読む意味なんて果たしてあるのかみたいな「読むスランプ」状態に追い込まれて、かなりの間、生理的に拒否反応を起こして小説離れをしてしまうほどのダメージをこうむることってありませんか。

その辺が、小説と映画との違うところでしょうか。

他人の言葉に導かれて自分の中に深く降りていかなければならない小説の場合、余程自分の好みというものをはっきり持っていないと、その作家の過激な活力(話題作というものが、往々にしてその作家が全力を傾注し、そしてそれゆえに評価を受けて話題になるという場合が多いと思います)によって強引に引きずり回されるままに終わってしまう結果を幾度か経験しています。

それは、当然の結果として、ただ不快なだけの読後感とダメージしか自分に残すことがなく、しかし、どうしてそれが読書の愉しみといえるのか、最近そんな疑問を感じることが、しばしばあるのです。

つまり、小説が、ただ心地よいというだけのものでは何故いけないのか、という素朴な疑問です。

しかし、僕にとって例外がひとつだけあります。

村上春樹作品を読んでいるときの安らぎに満ちた時間です。

これほど安らげる贅沢な時間に浸り切ることができていいのかと思うくらいです。

村上作品を読んでいる間中、常に感じていることは、こうして夢中になって作品を読み進めていくことで、この自分にとっての至福の時間をどんどん自分から減らしてしまっているのだという矛盾した思いに苦しめられる、つまり夢中になってむさぼるように読む自分を、一方でそうさせまじとスローダウンさせようとする力にあがらいながら過ごす鬩ぎ合いの時間とでも言えばいいのでしょうか。

こういう蜜月的な幸福な思いは、僕たちがとっくの昔に失ってしまった子供のときにしか持ち得なかった感情のひとつだろうと思います。

村上作品は、その気持ちを、そしてその失われた時間を僕たちに思い出させてくれる貴重な世界観です。

さて、本当のところを言うと、小説を読むといっても、いままではただ漫然と読み飛ばしているにすぎませんでした。

感動した箇所とか気に入った言葉などに遭遇しても、特に抜書きしたり傍線を引くなどというようなこともしていません。

しかし、僕が映画の感想をなんとなく書き始めたときに、小説の本文中に、タイトルだけつければ立派に映画批評として自立する部分があることに気が付き、これは面白いなと思いました。

例えば、「海辺のカフカ」の中のこんな部分です。

《僕はそこからアドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本を選ぶ。
アイヒマンという名前はナチの戦犯としてぼんやりと記憶していたが、とくに興味があったわけじゃない。
たまたまその本が目をひいたから手にとっただけだ。
僕はそこでその金属縁の眼鏡をかけた髪の薄い親衛隊中佐がどれくらいすぐれた実務家であったかという事実を知ることになる。
彼は戦争が始まって間もなく、ナチの幹部たちからユダヤ人の最終処理―要するに大量殺戮―という課題を与えられ、それをどのようにおこなえばいいかを具体的に検討する。
そしてプランをつくる。
そのおこないが正しいか正しくないかという疑問は、彼の意識にはほとんど浮かばない。
彼の頭にあるのは、短期間にどれだけローコストでユダヤ人を「処理できるか」ということだけだ。
彼の計算によれば、ヨーロッパ地域で処理するユダヤ人の数は全部で1100万人ということになった。
何両連結の貨車を用意し、ひとつの貨車に何人のユダヤ人を詰めこめばいいか。
そのうちの何パーセントが輸送中に「自然に」命を落とすことになるか。
どうすればもっとも少ない人数でその作業をこなすことができるか。
死体はどうすればいちばん安あがりに始末できるか-焼くか、埋めるか、溶かすか。
彼は机に向かってせっせと計算する。
計画は実行に移され、ほぼ計算通りの効果を発揮する。
戦争が終わるまでおおよそ600万(目標の半分を超えたあたり)のユダヤ人が彼のプランに沿ったかたちで「処理」される。
しかし彼が罪悪感を感じることはない。
テルアビブの法廷の防弾ガラス張りの被告席にあって、自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びることになったのか、アイヒマンは首をひねっているように見える。
自分は、ひとりの技術者として、与えられた課題にたいしてもっとも適切な回答を提出しただけなのだ。
世界中のすべての良心的な官僚がやっているのとまったく同じことじゃないか。
どうして自分だけがこのように責められなくちゃならないのか。
静かな朝の森の中で鳥たちの声を聞きながら、僕はその「実務家」の物語を読む。
本の後ろの見開きに、大島さんが鉛筆でメモを残している。
僕はそれが大島さんの筆跡であることを知っている。
特徴的な字なのだ。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力から始まる。イエーツが書いている。in dreams begin the responsibilities-まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」》「海辺のカフカ」上巻226頁~227頁

この傑出した衝撃のドキュメンタリー映画「スペシャリスト―自覚なき殺戮者」に対して、これほど的確な批評を読んだ記憶がなかったため、自分としては初めて「抜書きしたい」という衝動を感じました。

こんなふうな抜書きなら、読書する励みにもなるし、われながらイケテル思いつきだと自画自賛です。

未熟なためのタイプミスはご容赦ください。
by sentence2307 | 2005-04-02 10:28 | 村上春樹 | Comments(2)