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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ジェシカ・ラング( 1 )

女優フランシス


「フランシス・ファーマー」という言葉自体が、ハリウッドでは、「何かにつけてタテつく女優」というような一種の変人に対して向けられる象徴的なスラングとして使われているそうです。

イメージとしては、体制に収まり切れず、協調性にも欠け、ことごとく反抗的な態度で過激な言動を繰り返し、自分を抑え込もうとする力に対しては世間体や体裁など構うことなく髪振り乱してでも徹底して闘おうとする、まあプロデューサーやディレクター泣かせというばかりでなく仲間内のスタッフ・キャストに至るまで、ひたすらお手上げな従順さを欠いた扱いにくい女優を指しているのだと思います。

この映画「女優フランシス」という作品には、この女優の過酷な人生の影に、「赤狩り」の時代的な影響をほのめかす部分もありますが、しかし、それにもまして強烈に描かれているのは、周囲との軋轢など些かも意に介することなく何がなんでも自分の意思を通そうとするひとりの女優と、その彼女(娘)を、親権をたてにとって自分の意のままに従わせようとする母親とのぶつかり合いを描く壮絶な葛藤の姿です。

母親は、自分に従わせるためには、娘を精神病院に隔離し、果てはロボトミー手術を施すことも厭わず、娘が完全に自分に屈服することを強います。

母親の言うことなら何でのよくきく「いい子」にさせられるために、フランシスは前頭葉の神経の一部を切断されて「穏やかな人格」を得て、やっと「従順」でいられる静かで平穏な日常生活をおくることができるようになりました。

ここには、体制に歯向かう者はすべてこうなるのだと、見せしめの生贄として廃人同様にさせられたあの「カッコーの巣の上で」の象徴的なジャック・ニコルソンの悲痛な姿が思い浮かびます。

しかし、僕が注目したいのは、この映画が描くもうひとつの側面、ハリッドが押し付けてくる女優像が、自分の理想とするイメージや演技とあまりにもかけ離れているために、幼い頃から育んできた「演技」(フランシスにとって演技とは、生きてきた証しとでもいうべきもの・人間としての「誇り」といってもいい崇高なものだったと思います)とのギャップをどうしても埋めることができない潔癖さ、演技というもの・役者として生きることの観念のあり方みたいなものが、ハリウッドという魔窟を背景に浮き彫りにされてゆくシーンです。

そこには、かつて「キングコングの恋人役」を演じさせられた過去を、ハリウッドから受けた屈辱のように拒否し、決して許さず、受け入れようとしないジェシカ・ラングの演技に対する潔癖さも同時に感じてしまいました。

例えば、かつて、日本のある新劇女優が、あえて「芸術のためなら脱ぐ」と宣言しなければ、スクリーンにその胸をあらわにできなかったという逸話を思い出しました。

「芸術的演技」にこだわるジェシカの潔癖さには、彼女の強さと同時に弱さをも感じ取らずにはいられません。

しかし、またそれが一種の痛ましいハングリー精神のひとつの現れ方だとするなら、彼女がこれまで歩んできた人生の厳しさ痛ましさを示唆しているのでしょうか。

むかし聞いたあるエピソードを思い出しました。

アメリカで精神病院に入院している女性を退院させるかどうかの判断基準は「化粧をちゃんとしているかどうか」を見極めるのだそうです。

社会に向けて「女」の顔をちゃんと作り上げているかどうかが、正常と異常の分かれ目として判断の基準とされているそうなのです。

あえて「女」であることを拒んだジェシカ・ラングを、僕は「化粧をしない女優」と記憶しようと思いました。

こう見ていくと、対極的に位置するタイプの女優として思い浮かぶのが、マリリン・モンローということになるでしょうか。

会社やプロデューサー、そして監督や大衆が抱いていた欲望をすべて受け入れ、まさに「セックス・シンボル」の性的妄想としてのイメージそのままを従順に自己実現して生き抜き、やがて、まさにその「セックス・シンボル」であり続けたがゆえに、その限界点で自らの命を絶たねばならなかった女優というイメージが、マリリン・モンローにはあるような気がします。

架空の人格になりきり、嘘の人生を生き続けるという意味において、仮に女優という職業に「虚妄」という言葉を当て嵌めることが出来るとすれば、マリリン・モンローこそは、まさにそれにぴったりの女優だったでしょう。

しかし、これは、多かれ少なかれ、きっとすべての女優に求められていたことでもあったと考えれば、女優フランシス・ファーマーの例外性は、とりわけて顕著に際立っていたかもしれません。

さて、僕のメモのなかに、「キングコング」を演じたジェシカ・ラングについて以前書いた小文があり、上述のふさわしい部分へ挿入しようと考えていたのですが、時間もなく適わなかったので、そのままのかたちで以下に付け足しておきます。
いずれは、ひとつにまとめたいとは思っているのですが。



ときどき、コンパの席などで映画の話で盛り上がり、好きな女優の代表作を並べて楽しむなんてことありますよね。

例えば、ジェシカ・ラングが話題にのぼり、彼女の代表作は何かという話が出て、まあ、常識的な線で言うと、共演のジャック・ニコルソンが絶賛して演技派としての評価が定まったといわれる「郵便配達は二度ベルを鳴らす」81とか、あまりに善良すぎ生きることも不器用で、いつも幸せを逃してしまう薄幸な女を演じて助演女優賞を得た「トッツィー」82も、とても人気があります。

サム・シェパードと共演した「カントリー」84もいいですしね。

また、好き嫌いを厳密に糺されるとちょっと困る硬派の作品「ミュージック・ボックス」89とか「ブルースカイ」94を挙げる人もいます。

いろいろな評価のなかで、しかし、等しく皆の一致する否定的な意見は、ジェシカ・ラングがそのデビュー作で演じた「キングコング」76の恋人役への悪評です。

あの役を演じたことのダメージから脱するため、彼女自身、長い間どんなにか苦しんだか、僕も資料を読んで知っていました。

厳しいオーディションを経て、この役をやっと手に入れた時、彼女は既に26歳程だったでしょうから、決して早いデビューとはいえませんし、出演作品を選んでいる場合ではない年齢的な焦りが、そうした役にさえ応募していったことも感じられます。

実は、ジェシカ・ラングを話題に上らせた時の僕の念頭には、その否定的に言われることの多い「キングコング」があってのことでした。

僕には、「キングコング」の彼女が、主演女優賞を得た「ブルースカイ」の情緒不安定な人妻の演技よりも下に位置するとは、どうしても思えません。

それは、あのキングコングが、ずぶ濡れのジェシカ・ラングを手の平にのせて息で吹き乾かしたあと、大きな指で彼女を撫ぜ廻しながら徐々に衣服を剥いでゆくというあの魅力的な場面が、ただ扇情的なだけの取るに足りないシーンと無視することがどうしてもできないのです。

きっと身をくねらせて体の線を露わに見せるだけのヌ―ド・ショーのような仕草を、女優の正当な演技として評価すべきでないことは、皆のいうとおりなのかもしれませんが、具体的に言葉にはできないけれども、もうひとつ割り切れないものが僕のなかには確かにあるのです。

マリリン・モンローのことが頭にちらつきながらも、しかし、自分の気持ちを具体的に説明する適当な言葉も見つけられずに、結局その場は聞き役に徹しました。

「演技」とは何なのか、分からなくなりました。
by sentence2307 | 2005-05-03 09:05 | ジェシカ・ラング | Comments(161)