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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:是枝裕和( 1 )

誰も知らない


「親」である必要など、彼女には何ひとつない、と思いました。

男と遊び歩くために、何ヶ月も子供たちを放ったらかしにして、平気で彼らの生命を危険に晒す彼女にとって、子供とは一体なんだったのか、このシビアな作品を見ながら絶望的な思いに囚われてしまいます。

体の関係を持ち、さらに子供まで産ませたうえ去っていった身勝手な男たちを思い出させる面影を持つこの子供たちは、彼女にとって自分の「間違い」や「あやまち」を執拗に思い出さずにおかない辛い「契機」だったはずですよね。

それならなぜ、最初の躓きのとき、その悲痛な「間違い」や「あやまち」(長男・アキラを産んだこと)を教訓とすることなく、まるでその愚を際限なく繰り返すみたいに次々と子供を産み続けたのか、泥沼にみずから踏み込んでいくようなこの彼女の破滅的な部分が、どうしても僕には理解できませんでした。

彼女は、子供たちを入籍することもなく、もちろん学校にも上げず、この「仮名の子供たち」をまるで禁じられたペットのように賃貸マンションの一室で密かに飼い続けています。

そのことを他人に知られることが、なぜまずかったかというと、入居を敬遠される母子家庭ということ以上に、きっと彼女の「幸せ探し」と密接に関係していて、幸せしてくれるはずの未知の男たちを自分に引きとめておくためには、奇妙な子連れだと具合が悪いだろうという、多分ただそれだけの理由のような気がします。

「まさか、それだけの理由で?」と意外に思われるかも知れませんが、おそらく人が、自分のだらしなさを正当化しようと取り繕うその行為は、きっとどこまでも当人のだらしなさから免れようがないものだからでしょう。

しかし、幸せになりたい一心の彼女の男漁りのために、子供たちがとても邪魔な存在(生活費を十分に与えず長期間子供を放置するということは、多分そういうことですよね)だったなら、彼女が子供たちを物凄く憎んでいたかとか、いっそ殺してしまおうとまで思いつめたかというと、そういうことでもないらしい、むしろ作品に描かれている彼女は、不可解ではあったにしろ、子供たちに対して、それなりに愛情らしきものを持っているみたいなのです。

つまり、その「愛情」と呼んでもいいものの延長線上に「親権放棄」という事件が起こるこの違和感に満ちたチグハグな構図を自分なりにうまく納得できなければ、この作品はどこまでいっても苛立ちを募らせるだけで終わってしまうことに気が付きました。

彼女は、ただ自分だけの幸せを求めて男たちと出会い、何の確信もないまま性交し、不用意な妊娠の末に棄てられ、何の手当ても施すことなく、ずるずると失意と絶望の痕跡のような子供を産み続けます。

そして、さらに再び新たな男を求めるというこの繰り返しのなかで、自分が求めようとしている「幸せ」も、現在の泥沼のような「不幸せ」も、彼女の生き方・愛し方自体がもたらしたもの、誰ひとり幸せにも安らぎを与えることもできない彼女のだらしなさに帰することに気づかないままでいます。

例えば、「どうして学校へ行かせてくれないんだ」と抗議する長男・アキラに、母親はこう言い返します。

「私は幸せになっちゃいけないの? 一番勝手なのはあなたのお父さんじゃないのさ。私達をほったらかして出て行って」

みんなお前の父親が悪い、みんな私を棄てた男たちが悪い、こんなに酷い目にあっている私を蔑む世間が悪い、私は少しも悪くない、あんたなんかにそんなこと、とやかく言われたくない、と声を荒げるそうした彼女の生き方や愛情のかたちを理解できなければ、子供たちを放置したまま親権を放棄する彼女が同時にそれなりの母性愛を併せ持つということを理解することは、難しいかもしれません。

この作品の衝撃性は、きっと子供たちを棄てる大人たちの「身勝手」な描写を抑えて、むしろ、棄てられた子供たちが、どういうふうに食べつないでいったか・そして食べていけなくなったかという描写に徹しているからだろうと思います。

身勝手な大人たちが、欲望のままに享楽にふけっているまさにそのとき、食べ物が尽きて徐々に衰弱していく子供たちの透き通った1年間の、惨たらしい「子供たちの時間」が描かれ、観客誰もが「子供たちにどんな責任がある」という苛立ちと憤りに囚われながら、その向こうに無責任な大人たちの実像がくっきりと浮かび上がってくるという鮮烈な映像的効果に僕たちは撃たれたのだろうと思います。

これがもし物語の視点を「身勝手な大人たち」にしぼり、都会の砂漠で生き惑う孤独な人間たちを描いて、ほんの微かでも理解の芽を観客に抱かせていたら、この作品が、こんなにも厳しい仕上がりにはならなかったかもしれませんね。

この世に生まれたこと、そしてこの現実を生きていることさえ認知されず、もとより誰からも愛される機会もなく、ただ社会から拒まれ続け、その生をただの一度も認識されることのないまま、人知れず葬られていった幼女と、彼女を葬った悲痛な兄の姿をこめて、この映画を「誰も知らない」とタイトルしたのでしょう。

微かな怒りと否定を遠慮勝ちに込めたこの拒絶の言葉の意味が、しばらくは僕を苦々しい感動で苛立たせるだろうなと思っています。

それはちょうど、ロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」を見たときの衝撃と似通っているような気がします。

監督・脚本・編集・製作・是枝裕和、撮影・山崎裕、録音・弦巻裕、美術・磯見俊裕、三ツ松けいこ、音楽・ゴンチチ、スチール・川内倫子、広告美術・葛西薫、
柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、韓英恵、YOU
by sentence2307 | 2005-06-12 10:54 | 是枝裕和 | Comments(0)