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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:千葉泰樹( 8 )

夜の緋牡丹 ふたたび

作家志望の貧しい青年・小熊隆介(伊豆肇が演じています)は、酔った勢いで金もないのに座敷遊びをし、アプレ芸者・たい子(島崎雪子が演じています)を呼んで夜通し騒ぎますが、酔いが醒めたあと、支払う金など持ち合わせていない隆介は、たい子に事情を話して詫び、花代を踏み倒して、その場を逃がしてもらいます。

これが、ふたりの出会い。

それから少し経ったあと、隆介が、その日暮らしの貧乏生活の中からどうにか工面して僅かな金額を送金してきたことから、彼の律儀さに好感を抱いた彼女が、少しずつ隆介に惹かれていく様子が描かれています。

しかし、たい子が隆介に惹かれていく理由というのは、彼のその真っ正直な「律儀さ」にというよりも、むしろ、彼の「インテリ」の部分に惹かれているらしいことが、たい子の、あまり幸せではなかった生い立ち(幼い頃サーカスで働いていた過去など)が語られることで分かります。

いままで満足な教育を受けてこられなかったという彼女の負い目が、隆介の「インテリ」性に惹かれる理由でもあることが徐々に明かされていきます。

しかし、そうした未熟なたい子からの思いは、小説の執筆に集中できない隆介にとっては、むしろただ煩わしく、彼女の天真爛漫さは却って彼の神経を逆なでし、彼女との放縦な暮らしは、彼の焦燥感を煽るばかりです。

それに、たい子が、隆介への愛の証しに「隆介いのち」と二の腕に刺青を彫りたいなどという希望を聞かされたりすると、彼女の価値観がとうてい理解できず、むしろ嫌悪しか感じることのできない隆介は、彼女の間違った生き方を必死に解き聞かし、刺青など強く否定・拒絶しますが、しかし、これだけのスッタモンダの葛藤がありながら、たい子は後日、二の腕に彫り込んだ刺青「隆介いのち」を何事もなかったかのように大らかに見せつけます。

それに対する隆介の反応が映画の中では別段描かれていたかどうか確たる記憶がないのですが、たとえあったとしても、「刺青」という行為を非難・激怒した最初ほどの印象はなく、なんだか全体的なストーリーの流れからするとずいぶんと「未処理」の印象が強く感じられました。

しかし、隆介が、暴走するたい子の奔放さに対して、もはやお手上げ状態で為すすべがなく、彼女に対して制御不能に陥ったと痛感し、彼女の矯正をほとんど放棄した「無作為無反応」を表現したという演出意図なら、あるいはそれも「有り」かな、と一応は納得しましたが。

男女の愛情関係においては「対等」こそが理想であり望ましいと考えている隆介にとって、たい子が、とりたてて罪悪感もなく売春をし、それで得た不浄な対価で自分の生活が支えられており、そういうたい子との生活をなにごともないかのように送ることの苦痛や、「愛の証し=刺青」を彫るという善良な市民感覚からかけ離れたたい子のヤクザな価値観を見せ付けられることは、彼には、とても耐え難かったに違いありません。

だからなおさら、やがて、懸賞小説に同時受賞する夏川美樹(月丘夢路が演じています)という志を同じくする女性に出会ったことで、たい子との生活では決して満たされることのなかった(文学的雰囲気にカツえていた)隆介の空虚な思いが、急速に彼女に傾いていったであろうことは無理なく理解できました。

しかし、ここまでなら、この作品が、コンニチまで伝説的に語り伝えられるなどということは、おそらく、なかったでしょう。

隆介があれほど望んだ、自立心を持った女流作家・夏川美樹との知的な同棲生活において、満たされるはずだった隆介の理想はアエナク空転し、どんどん煮詰まっていく過程が、映画の後半に描かれています。

この作品におけるもう一人の主人公、作家志望の夏川美樹の境遇として、まず最初に描かれているのは、不倫関係にあった北大講師・谷川(北澤彪が演じています)の不実をなじって別離を切り出したために、激昂した谷川に切りつけられて負傷するという修羅場です。

確たる愛情もなく、ただ功利・栄達のために結婚しただけだと嘯く谷川は、その現在病床にある妻とはすぐに別れるから一緒になろうと言いながら、実はその裏で、何人もの女を騙しては棄てているではないかという不実をあげつらって美樹はなじり、この関係を終わらせたいと谷川に申し向けたことで、激昂した谷川の凶行を誘っています。

確かに、谷川という男は、美樹の言うように、なじられても当然なくらいの卑劣漢であることは、おそらく確かです。

女にだらしなく、関係が深みにはまってこう着状態におちいり、身動きがとれなくなって手に余れば、相手のことなど構わずに関係を強制的に終わらせてしまう(棄てる)という短絡を繰り返しています。

しかし、考えてみれば、男女関係にあって、こんなことは別に特異なことでもなんでもない、こんなトラブルなら普通でも有りがちなことだし、また、こじれた関係をこんなふうに対処する人間なら自分の周りにもザラにいるような気がします。

しかし、彼らがそのようにするのは、別に「狡猾さ」からとはどうしても考えられない、むしろ自分と他人との距離を測ることができず、引き際を見極められないままズルズルと深みにはまり、ある日突然、深刻などん詰まりで回復不能な「破綻」を突きつけられ、はじめて驚愕し、うろたえ、仕方なく激怒するという、単に処世に疎い、極めて不器用な人間なのであって、それは美樹を諦められずに付きまとい、罵られても追いすがり、果ては、絶命させるほどの激しい第二の凶行に及ぶという運命に翻弄されるばかりの谷川の一連の行為を見ても明白です、そして、それは決して「狡猾」などという種類のものではない。

そういえば、隆介もまた谷川と同じように、別れを切り出した美樹をどうしても諦め切れず彼女を追いかけています。

それ以前にも、美樹は、キャバレーに出入りする客・吉岡社長(田崎潤が演じています)からの誘いを巧妙にはぐらかし、適当に煙に巻いている。

はたして美樹という女は、男を迷わせ、破滅させる毒婦なのか、それとも悪女なのかといえば、決してそんなことはありません。

美樹が毒婦でも悪女でもない証拠の幾つかのシーンが、この作品には散りばめられています。

ひとつは、作家志望の夏川美樹が、キャバレー勤めをする理由を、友人に「小説執筆のための人間観察だ」と語っている場面、それはこの現実を女ひとり「小説」を書いて生きていく、そのためには色恋などにかかずらわっている暇などないという並々ならぬ彼女の決意が語られているシーンです。

そして彼女のその生き方のクールな姿勢は、宣言どおり終始一貫しているということができます。

しかし、それに引き換え、隆介はどうだったか、あれほど「文学的雰囲気」を求め、たい子との生活を棄てて望みどおりの生活を手に入れたというのに、結局、彼が求めていたものは、美樹の作家として生きていこうという熾烈な決意とはまったく無関係の、「日常的な安らぎ」にすぎなかったことを思えば、結局それは、たい子が求め、そして彼に与えてくれたものと同じものではないか、という結論に達します。

すべての夢破れ、泥酔してたい子の元に帰ろうとしていた凡庸の人・隆介のそのときの表情が、いったいどんなだったのか、いまはどうしても思い出すことができません。

(1950銀座ぷろだくしょん・新東宝)監督・千葉泰樹、製作原作脚本・八田尚之、撮影・鈴木博、美術・下河原友雄、音楽・早坂文雄、制作補・島村達芳
出演・伊豆肇、島崎雪子、千明みゆき、田崎潤、月丘夢路、龍崎一郎、山本禮三郎、北澤彪、勝見庸太郎、高堂國典、澤蘭子、志村喬、小島洋々、菊地双三郎、山室耕、伊藤雄之助、冬木京太、
1950.12.08 11巻35mm 2,890m 105分 白黒
by sentence2307 | 2013-03-03 17:51 | 千葉泰樹 | Comments(2)

夜の緋牡丹

京橋のフィルムセンターでは、1月6日から約1ヵ月かけて、1949年~1960年に製作された「新東宝映画」作品をニュー・プリントで特集上映しています。

それらの作品は、今回新たに収集され、いままで見ることのできなかったもので、新しくライブラリーに加えられる作品だそうです。

そうそう、特集のメイン・タイトルには「映画保存のための特別事業費によるよみがえる日本映画」とあるとおり、ナニシロ国家予算がらみの重々しい公的プロジェクトと銘打つ真摯な企画で、思わず膝を正したくなるような仰々しい取り組みですが、しかし、上映作品されるという当の作品が新東宝作品というところが、ちょっと笑っちゃうじゃないですか(当然笑ったりしてはいけませんが)。

いえいえ、なにもメジャー作品が良くて、新東宝作品などマイナー作品が悪いなんていっているわけではありません。

むしろ自分は、新東宝作品大好き人間で、しばしばチャンネルnecoなどで珍しい作品が放映されていれば、積極的に録画して見るようにしているくらいですが、もっとも、同じ時間帯で他社の未見作品などが放映されていたりすると、あっさりと宗旨替えしてしまう程度の信用のおけない大いに薄いファンではありますが。

まあとにかく、見てみなければ分からないというタテマエと、一方経験則から、だいたいは「期待」が裏切られ肩透かしを食わされるに違いないことを前提にそれなりに身構えたうえで、一作ずつ慎重に見ていきたいと考えています。

しかし、そうはいうものの、新東宝映画をこだわって見てきたおかげで分かったこともありました。

「映画とは、こういうものでなければならない」という頑なな思い込みというか、狭い固定観念(芸術的でなければならないとか、勧善懲悪でなければならないとか、深刻的でなければならないとか、道徳的でなければならないとか)から解放され、自由な立場で映画をもっと気楽に見てもいいのだ、というか、「もっと芸術的な作品を見たい」という欲求と、「もっと淫乱な映画を見たい」という欲求は、それほど隔たったものでないことが分かりました。

いまでは、それが映画を見る上でのぼくの指針です。

要は、見るこちら側の問題に過ぎないのであって、映画は、芸術的であろうと、淫乱であろうと、それらはそのままで全然構わない、その総体こそが映画という生きものであることに気づかせてくれたような気がします。

今回の上映作品は、以下のとおりですが、このなかでは、島崎雪子のデビュー作であり、また、「島崎雪子失踪事件」で話題になった千葉泰樹監督の「夜の緋牡丹」が入っていて、ぜひ見たいと思っている作品です。

ちなみに、フィルムセンターのこの「新東宝」カタログの第一面の表紙は、「夜の緋牡丹」のスチール写真が使用されており、それは、島崎雪子が真っ白い太ももをあらわに天井から逆さにブラ下がって(それだけでもズイブン変態的で異様です、とっさに衝撃的な体位なのかという妄想にとらわれました)、いままさに伊豆肇と接吻しようという扇情的・官能的な場面です。

島崎雪子のプロフィールには、「島崎雪子失踪事件」前後の事情についてこんなふうに紹介されています。

《25年、新東宝製作【山のかなたに】のフレッシュガール募集に応募し、トップで合格。【青い山脈】の原節子の役名を芸名とし、オキャンな女子軍団の1人に扮し十数名のグループの中の1人だったが存在感を示した。
藤本プロダクション専属となり、続いて【夜の緋牡丹】に出演が決まった。
当初、主役の「芸者・たい子」に抜擢されたが、突然、轟夕起子に変更になるとの報道が流れ、その後スタッフ・会社間のゴタゴタなども起こり、一連の騒動に島崎雪子は精神的なショックを受けて失踪した。
これが有名な『島崎雪子失踪事件』だが、事件は新聞の三面記事で大きく扱われ一時騒然となったものの、結局のところ藤本プロデューサーが仕組んだ新人売出作戦だったともいわれ、ほかにも共演者の伊豆肇が島崎雪子に恋をしたなどというゴシップもアエテ流したらしい。
当の島崎雪子は、騒動中、撮影所近くのアパートに潜んでいたという。
ていよく利用されたカタチとなった轟夕起子は大いに激怒したが、島崎雪子の謝罪で納まったらしい。
結局、無事「たい子役」を得た島崎雪子は、伊豆肇を相手に大いに官能的演技を披露した。》

当時ポスターに使われた宣伝惹句は、
・泥まみれの愛! ぎりぎりの欲! 屋根裏に燃えあがる熱っぽい女の体質
・男を殺す眼! 狂わせる肢体! ぎりぎりの愛欲が火と燃える!
・娼婦の肉体と少女の感情を持つダンス芸者・瞬間の刺戟を求めて男を漁る奔放女性
・泥まみれの恋情が火と燃える!! 
・晩秋のエクランを飾る芸術巨篇! 日本版「情婦マノン」!! 
・赤裸々になげだされた女の体臭と真実! 胸打つ情炎の大メロドラマ!
という「これ以上もうない」というくらい相当なものでした。

(1950銀座ぷろだくしょん・新東宝)監督・千葉泰樹、製作原作脚本・八田尚之、撮影・鈴木博、美術・下河原友雄、音楽・早坂文雄、制作補・島村達芳
出演・伊豆肇、島崎雪子、千明みゆき、田崎潤、月丘夢路、龍崎一郎、山本禮三郎、北澤彪、勝見庸太郎、高堂國典、澤蘭子、志村喬、小島洋々、菊地双三郎、山室耕、伊藤雄之助、冬木京太、
 1950.12.08 11巻35mm 2,890m 105分 白黒


★フィルムセンター 新東宝作品上映作品
1 【流星】(1949新東宝)(監督脚本)阿部豊(原作)富田常雄(脚本)館岡謙之助(撮影)山中進(美術)進藤誠吾(音楽)服部良一(出演)山口淑子、大日方傳、山村聰、若原雅夫、野上千鶴子、千明みゆき、伊澤一郎、中村彰、鳥羽陽之助(82分・35mm・白黒)
2 【湯の町悲歌(エレジー)】(1949新東宝)(監督)野村浩將(脚本)佃血秋(撮影)横山実(美術)梶由造(音楽)古賀政男(出演)山根壽子、近江俊郎、清川荘司、田中春男、宮川玲子、千石規子(60分・35mm・白黒)
3 【恐怖のカービン銃】(1954新東宝)(監督)田口哲(監督脚本)浅野辰雄(撮影)井上莞(美術)吉山雅治(音楽)伊藤宣二(出演)天知茂、三原葉子、村山京司、加藤章、三砂亘、児玉一郎、上野綾子、有馬新二、倉橋広明、川部守一、近藤宏(45分・35mm・白黒)
4 【帰國 ダモイ】(1949新東宝)(監督)佐藤武(監修)渡邊邦男(脚本)岸松雄(撮影)山崎一雄(美術)伊藤寿一(音楽)飯田信夫(出演)井上正夫、野上千鶴子、和田信賢、堀雄二、大日方傳、莊司肇、山室耕、田中春男、山口淑子、堀越節子、泉麗子、池部良、藤田進(90分・35mm・白黒)(90分・35mm・白黒)
5 【憧れのハワイ航路】(1950新東宝)(監督)斎藤寅次郎(原作)サトウ・ハチロー(脚本)八住利雄(撮影)友成達雄(美術)加藤雅俊(音楽)上原げんと(出演)岡晴夫、美空ひばり、花菱アチャコ、キドシン、古川緑波、柴田早苗、吉川満子、清川玉枝 (78分・35mm・白黒)
6 【夜の緋牡丹】(1950銀座ぷろだくしょん)(監督)千葉泰樹(原作脚本)八田尚之(撮影)鈴木博(美術)下河原友雄(音楽)早坂文雄(出演)伊豆肇、島崎雪子、田崎潤、月丘夢路、龍崎一郎、山本禮三郎、北澤彪、勝見庸太郎、高堂國典(105分・35mm・白黒)
7 【桃の花の咲く下で】(1951新東宝)(監督脚本)清水宏(脚本)岸松雄(撮影)鈴木博(美術)鳥井塚誠一(音楽)服部良一(出演)笠置シヅ子、日守新一、柳家金語樓、花井蘭子、中川滋、大山健二、北澤彪、鳥羽陽之助、清川玉枝、伊達里子、堀越節子、江戸川蘭子、花岡菊子(73分・35mm・白黒)
8 【惜春】(1952新東宝)(監督脚本)木村惠吾(撮影)小原讓治(美術)下河原友雄(音楽)飯田三郎(出演)上原謙、山根壽子、笠置シヅ子、齊藤達雄、清水将夫、田中春男、伊藤雄之助、東野英治郎(97分・35mm・白黒)
9 【ハワイの夜】(1953新東宝・新生プロ)(監督)マキノ雅弘、松林宗惠(原作)今日出海(脚本)松浦健郎(撮影)三村明(美術)進藤誠吾(音楽)渡辺弘(出演)鶴田浩二、岸惠子、水の江滝子、御園裕子、水島道太郎、三橋達也、小杉勇、江川宇礼雄、横山運平、田中春男、滝花久子(84分・35mm・白黒)
10 【アジャパー天國】(1953新東宝)(監督)齋藤寅次郎(原作)サトウ・ハチロー(脚本)八住利雄(撮影)友成達雄(美術)加藤雅俊(音楽)服部正(出演)花菱アチャコ、伴淳三郎、古川緑波、田端義夫、堺駿二、清川虹子、南壽美子、高島忠夫、田中春男、星美智子、キドシン、トニー・谷、泉友子、柳家金語楼(84分・35mm・白黒)
11 【もぐら横丁】(1953新東宝)(監督脚本)清水宏(原作)尾崎一雄(脚本)吉村公三郎(撮影)鈴木博(美術)鳥井塚誠一(音楽)大森盛太郎(出演)佐野周二、島崎雪子、日守新一、宇野重吉、若山セツ子、森繁久彌、和田孝、片桐余四郎、千秋實、磯野秋雄、杉寛、田中春男、堀越節子、天知茂、尾崎士郎、壇一雄、丹羽文雄(93分・35mm・白黒)
12 【戰艦大和】(1953新東宝)(監督)阿部豊(原作)吉田満(脚本)八住利雄(撮影)横山実(美術)進藤誠吾(音楽)芥川也寸志(出演)藤田進、舟橋元、高田稔、佐々木孝丸、小川虎之助、見明凡太朗、伊沢一郎、片山明彦、高島忠夫、三津田健、中村伸郎、宮口精二、竜岡晋(101分・35mm・白黒)
13 【日本敗れず】(1954新東宝)(監督)阿部豊(脚本)館岡謙之助(撮影)横山実(美術)進藤誠吾(音楽)鈴木靜一(出演)早川雪洲、藤田進、山村聰、柳永二郎、齋藤達雄、小川虎之助、髙田稔、小笠原弘、舟橋元、沼田曜一、細川俊夫、丹波哲郎、宇津井健、北沢彪、安部徹、佐々木孝丸(102分・35mm・白黒)
14 【忍術児雷也】(1955新東宝)(監督)萩原遼、加藤泰(脚本)賀集院太郎(撮影)平野好美(美術)鈴木孝俊(音楽)高橋半(出演)大谷友右衞門、若山富三郎、田崎潤、瑳峨三智子、新倉美子、利根はる惠、大河内傳次郎(80分・35mm・白黒)
15 【逆襲大蛇丸】(1955新東宝)(監督)加藤泰(脚本)賀集院太郎(撮影)平野好美(美術)鈴木孝俊(音楽)高橋半(出演)大谷友右衛門、若山富三郎、田崎潤、瑳峨三智子、新倉美子、利根はる恵、大河内傳次郎(70分・35mm・白黒)
16 【番場の忠太郎】(1955新東宝)(監督)中川信夫(原作)長谷川伸(脚本)三村伸太郎(撮影)岡戸嘉外(美術)伊藤壽一(音楽)淸瀨保二(出演)山田五十鈴、若山富三郎、桂木洋子、森繁久彌、鳥羽陽之助、阿部九州男、伊澤一郎、三井弘次、滝花久子、光岡早苗、花岡菊子、坪井哲、冬木京三(86分・35mm・白黒)
17 【母の曲】(1955新東宝)(監督)小石榮一(原作)吉屋信子(脚本)笠原良三(撮影)岡戸嘉外(美術)朝生治男(音楽)飯田三郎(出演)三益愛子、安西郷子、宇津井健、田中春男、增田順二、淸川玉枝、花岡菊子、坪井哲、上原謙、木暮実千代(98分・35mm・白黒)
18 【アツカマ氏とオヤカマ氏】(1955新東宝)(監督)千葉泰樹(原作)岡部冬彦(脚本)笠原良三(撮影)西垣六郎(美術)朝生治男(音楽)三木鶏郎(出演)小林桂樹、上原謙、久保菜穂子、三原葉子、遠山幸子、花井蘭子、細川俊夫、井上大助、上田みゆき、相馬千恵子、森繁久彌、三遊亭金馬、美舟洋子、沢村昌之助、関三十郎(85分・35mm・白黒)
19 【風流交番日記】(1955新東宝)(監督)松林宗惠(原作)中村貘(脚本)須崎勝彌(撮影)西垣六郎(美術)黑澤治安(音楽)宅孝二(出演)小林桂樹、宇津井健、加東大介、多々良純、丹波哲郎、高田稔、志村喬、安西郷子、阿部寿美子、野上千鶴子、花岡菊子、千明みゆき、英百合子、御木本伸介、天知茂(91分・35mm・白黒)
20 【リングの王者 栄光の世界】(1957新東宝)(監督)石井輝男(脚本)内田弘三(撮影)鈴木博(美術)小汲明(音楽)齊藤一郎(出演)宇津井健、池内淳子、中山昭二、細川俊夫、鮎川浩、小髙まさる、若杉嘉津子、伊沢一郎、林國治、米山廣人、旗照夫、天知茂(75分・35mm・白黒)
21 【女の防波堤】(1958新東宝)(監督)小森白(原作)田中貴美子(脚本)小山一夫、村山俊郎(撮影)岡戸嘉外(美術)鳥居塚誠一(音楽)古賀政男(出演)小畑絹子、荒川さつき、筑紫あけみ、細川俊夫、三原葉子、城実穂、万里昌代、鮎川浩(87分・35mm・白黒)
22 【黒線地帯】(1960新東宝)(監督脚本)石井輝男(脚本)宮川一郎(撮影)吉田重業(美術)宮沢計次(音楽)渡辺宙明(出演)天知茂、三ツ矢歌子、三原葉子、細川俊夫、瀬戸麗子、矢代京子、魚住純子、鮎川浩、宗方祐二、大友純(80分・35mm・白黒)
by sentence2307 | 2012-01-09 22:44 | 千葉泰樹 | Comments(278)
千葉泰樹監督作品「下町」を見ていて、まず最初に思ったことは、行商する親とともに各地を廻っていたという幼い頃の作家・林芙美子(ほとんど「放浪」に近かしいものだったとされています)のことでした。

この映画の主人公・矢沢りよ(山田五十鈴が演じています)は、いまだシベリアに抑留されている生死の別さえ分からない夫の帰りを待ち続けながら、お茶の行商をしてその日暮らしの生活をおくる子持ちの中年女です。

一家のあるじを欠いた家庭を女手ひとつで遣り繰りしていくには、日々の暮らしはあまりにも厳しく、それは極貧といってもいいくらい逼迫した生活の様子が描かれています。

いまは知り合いの女性(村田知栄子が演じています)の家の一室に間借りしているのですが、なにやらいかがわしい仕事をしている彼女から、そんな儲からないお茶の行商などやめて、人の妾にならないかと誘われたりしています。

男の庇護がないために屈辱的な辱しめを受けながらも日々の暮らしにどうにか耐えて、切羽詰った毎日を行商を続けているりよは、ある下町で、気のいい親切な男・鶴石(三船敏郎が演じています)と出会います。

幾たびか彼の小屋(工事現場の番小屋ふうに見えます)でお昼の弁当を使わせてもらっているうちに、彼の寄せる好意と、その朴訥さに次第に心引かれていき、やがて、りよもまた燃え上がるような恋心を抱きはじめます。

結局その恋は、運命のいたずらのような「すれ違い」と、鶴石の突然の事故死によって、あまりにもあっけなく終わってしまうのですが、しかし、この悲恋物語の発端の、切っ掛けになる出会いの場面を見ているうちに、なんだか不意に、幼い林芙美子が親に連れ回されながら行商して歩いていた頃の「切実な思い」みたいなものが、ふっと浮かび上がってきたのでした。

おそらく、幼い芙美子は、行商をする母親が、行く先々で販売の声を掛けるそのたびに、住民たちから冷ややかに拒絶され、ののしられ、追い立てられる哀れな姿を幾たびも見てきたに違いありません。

しかし、同じように貧しい暮らしを強いられている下町で生活している人々もまた、食うや食わずの毎日の生活に追われており、贅沢品でしかないお茶など買う余裕がないというのも、それもまたひとつの現実だったことを、賢い少女・芙美子は、貧乏人がどうモガイテも、この極貧と言う苦境から逃れようもない無限の悪循環地獄のような閉塞を悟ったに違いありません。

あるいはまた、多感な少女は、以下のような「現実」も、ひとつの本能的な「怯え」として幼心に感じ取っていたかもしれません。

みすぼらしい身なりをした行商女といえども、それでも女であることに変わりなく、貧しすぎて有り余る性欲をもてあました野卑で好色な下町の男たちから、性欲処理の対象としてその肉体を常につけ狙われ、そのカラダを舐め回されるような淫靡な眼差しにあぶられ、そして、現実にそうした危機的な場所に幾度も足を踏み入れたに違いありません。

品物は売りたいけれども、しかし、だからといって、けだもののような下卑た男たちの一時の「慰みもの」などになってたまるか、という警戒心も、当然りよは、経験知として持っていただろうし、その警戒心を幼い芙美子にも話していたかもしれません。

以上のことを当然あるべき前提として考えると、冒頭のりよと鶴石の心温まる出会いの場面には、そのりよの警戒心も、鶴石の「欲情」もなく、見ている方が拍子抜けしてしまうくらい清潔感に満ちた「爽やかな出会い」の場面であることが、どうしても不自然に感じてしまいました。

事実、林芙美子が本当にこのように書いた場面だったとしても、それなら尚更に不自然です。

あの猜疑心に満ちた女流作家・林芙美子が、こんな善良な人間を書くでしょうか。

たとえ書いたとしても、彼女が心底、人間をそんなふうに信じていたなどとは、到底思えません。

りよと鶴石の二人を除いたこの映画に登場するすべての人々は、自分の利益のためなら、徹底的に他人を利用し、騙し、貶めようとする悪意に満ちた人々です。

善意に満ちた人など、ただの一人も登場してはいません。

それが、女流作家・林芙美子が描いてきた人間像でしたし、あるいは、当のご本人さえ、そのように「毒」を吐き散らしながら生きたことを僕たちは、すでに知っいます。

だからこそ、この主人公・りよと鶴石の善良さが、とりわけ不自然に思えるのです。

しかし、よく考えてみれば、この不自然な非現実性は、まるで現実離れした「突飛な」非現実だとまではいえないような気がしてきました。

とても「ありえない夢」とか「ありえない願い」ではあるとしても、不可能とまではいえない、かすかな可能性まで否定することはできないくらいのボーダーライン内には辛うじて位置しているくらいのものなのかもしれません。

そのかすかな可能性というのは、「もしかしたら、ある日突然、苦境にある自分たちに善意を寄せてくれる人が現れる」程度の、かすかな「現実」として・・・とここまで考えてきたとき、突然分かったのです、この「かすかさ」こそ、貧しい行商人の娘として、厳しい現実の辛酸をなめつくした少女・芙美子のささやかな夢・せめてもの願いだったのではないかと。

みじめな自分たちを、この惨めでむごたらしい境遇から救い上げてくれる善良な「おじさん」が、ある日突然自分たちの前に立ち現れ、救いの手を差し伸べてくれる「夢」と「願い」とが、この冒頭の現実離れした部分に描き込まれているのだと。

この少女のつかの間の夢が描かれた映画「下町」こそは、それはまた、一方では、厳しい現実に絡め取られ、決して逃れるスベのないことを痛いほど分かっていた貧しい行商人の娘・芙美子の(常に末尾は破綻で終わるしかなかった)絶望の記憶でもあったのだと思います。

しかし、この映画を見終わったあとの、更なるこの後味の悪さは、尋常ではありません。

それも単なる「少女の絶望?」

いやいや、そんな綺麗ごとではすまされない更なる何かが、この映画に潜んでおり、観賞後感とでもいうべきものを、とても後味の悪いものにしているのだと本能的に感じました。

ラスト、鶴石の死を知らされ、将来へのかすかな夢をも打ち砕かれたりよが、絶望のどん底で、何台ものトラックに追い抜かれながら、土手の道を放心して悄然と歩みを進めていく場面で、この映画は終わっています。

そういえば、これと似た場面を、以前どこかで見たことがあると思っていたら、そうそう、デ・シーカの「自転車泥棒」のラストシーンです。

仕事に就くために、どうしても必要な自転車を盗まれてしまった父親が、町中を必死になって探し回ったけれども、ついにその自転車を見つけ出すことができず、思い余って、スタジアムの駐輪場で他人の自転車を盗もうとして見咎められ、罵倒され、こづきまわされ、まさに警察に突き出されようとしたあの場面に続くシーン、父親と息子とが悔恨と絶望と悲しみとの只中でふたりして帰路に着くあの場面です。

スタジアムの駐輪場において群集から罵られ、小突き回される泥棒になりさがった惨めな父親に息子は泣きすがり、群集に「父を許してほしい」と訴え懇願します。

父親の罪を知り、群集の罵る意味も十分に理解したうえで、それでも父親を許して欲しいと泣きながら群衆に必死に訴える胸打つシーンでした。

父の弱さと浅はかさ、父親の犯した罪、それらをすべて十分に認識したうえで、それでも家族のために苦しんだ父親の誠実さを知っている子供は、群集に父親の放免を泣きながら懇願したのです。

厳しい現実に苦しみ、そして、傷つきながらも家族のために懸命に生きた父親の、その卑弱さを見つめる少年の眼差しはどこまでも優しく、父の犯した罪をともにすべて受け容れた子供は、たぶんその時、愚かしい概念だけの「正義」を乗り越えて、父と子の真実の絆を得たのだと、絶望の中で放心して歩き続ける父親の傍らをつかず離れずして心配そうに父と歩みを伴にする息子の姿を見て痛感したラストシーンでした。

しかし、それに引き換えて、「下町」のラストで描かれたこの母子の関係は、どうだったでしょうか。

愛する人の突然の死によって、つかの間に灯った希望を打ち砕かれ、惨憺たる絶望のなかで母親は、歩き続けています。

少し遅れがちに歩く息子には、母親がなぜ悲しみ落胆しているのかを察することができないどころか、いま母が悲しんでいる状態にあることすらも分からないようにさえ見えます。

その証拠に、彼は、帰らぬ父親を連想させる「異国の丘」を歌い続けています。

その歌は、もしかしたら、いまの母親にとって、打ち砕かれ閉ざされた将来を暗示させるもっとも聞きたくない歌だったかもしれません。

そんなことはお構いなしに、息子は、無邪気に、そしておおらかに歌い続けています。

母親は苛立ち、親の苦境を察しようとしない暢気すぎる息子に敵意の眼差しで憎々しげに睨みつけますが、すぐに思い直して、燃え上がる怒りを押し殺しながら、「諦めるより仕方がない」とでもいうように、能天気に歌い続ける息子を抱き寄せて歩み去ります。

しかし、息子を抱き寄せるこの場面からは、残念ながら息子に対する一片の愛情すらも感じ取ることはできませんでした。

たぶん、そういうふうには、描かれていなかったからでしょう。

むしろ、まるでこの場面は、彼女にとって、息子もまた、自分に対して無関心で冷ややかに接するにすぎない他人の一人と描いているようにさえ思えました。

もしそうなら、「自転車泥棒」の父に寄り添う息子と比較するまでもなく、それではあまりにもさびしすぎます。

そうなのです、冒頭の鶴石との出会いが、少女・芙美子の夢に発する歪んだ妄想にすぎなかったように、もしかしたらこの場面もまた、他人をまっすぐに見ることの出来ない芙美子の被害妄想からの歪んだ視点が生んだ産物だったのかもしれません。

しかし、同時に、そうした被害妄想をイッタイ誰が非難できるだろうかという思いに囚われました。

他人から寄せられるあらゆる行為、それがたとえ善意からのものであったとしても、思わず身構え、疑心暗鬼に囚われてしまうこの被害妄想の原初は、やはり彼女の幼少期において、過酷な環境にあって他人からいかに傷つけられたかの忠実なバロメーターだったのだとしたら、この芙美子の疑心暗鬼を一概に非難することなどできるはずがないという暗澹たる思いに囚われた映画でした。

(1957東宝)制作・藤本真澄、監督・千葉泰樹、原作・林芙美子、脚本:笠原良三、吉田精弥、撮影・西垣六郎、音楽・伊福部昭、美術・中古智、照明・石井長四郎、金子光男、録音・小沼渡
出演・山田五十鈴、三船敏郎、田中春男、村田知栄子、亀谷雅敬、多々良純、淡路恵子、馬野都留子、沢村いき雄、鈴川二郎、中野トシ子、土屋詩朗、広瀬正一、佐田豊、五十嵐和子、中山豊、岩本弘司
by sentence2307 | 2011-02-12 12:56 | 千葉泰樹 | Comments(4)

下町(ダウンタウン)

なにも成瀬巳喜男監督だけが林芙美子の小説を映画化したわけではなかったことを、他の監督が撮った林芙美子原作の映画化作品に接するたびに、あらためて気づかされます。

でも、そういうふうにして「気づかされた」としても、少し時間が経ってしまえば、いつの間にかまた元の「林芙美子原作の映画化は成瀬だけ」みたいな先入観に戻ってしまうのは、それだけ成瀬巳喜男の繊細な演出が際立って素晴らしく、林芙美子の小説のエッセンス(悲壮感や諦念、それらを覆った悲観主義など)を絶妙に汲み取って描きあげることができたからだと思います。

そこに成瀬巳喜男演出というスタンダードが屹然とそびえていたからこそ、他の監督がどのようにして林芙美子の小説を「料理」したのかという興味も湧いてくるわけですが、そんなふうに考えていたあるとき偶然に、成瀬巳喜男が長い低迷期を脱する契機となった「めし」1951(実に16年ぶりにキネ旬ベストテン入りの第2位となって「名匠」の名を不動のものとし劇的な復活をとげた作品といわれています)の映画化が、最初は千葉泰樹監督が当たるはずだったというイキサツ(千葉監督の急病で代役に成瀬監督が起用されたそうなのです)があったことを知りました。

「めし」1951は、映画監督・成瀬巳喜男を考えるとき、とても重要な位置づけにある作品です。

「低迷脱出」だけでなく、林芙美子原作「めし」に出会うことによって映像作家として安定した上昇気流に乗ることができ、それによって一層の成熟を果たし、最高傑作「浮雲」に至る道筋をも定めることができた重要な契機となった作品といわれているからでしょう。

この作品「めし」によって、従来、ともすると甘ったるい叙情に流されがちといわれた成瀬が、何気ない生活の細部に心理のアヤを的確に表現できる日常のリアリズム描写力を、ついにマスターしたとされています。

もし、その「めし」の映画化を千葉泰樹監督が当たったとしたら、成瀬のその後の「稲妻」1952「妻」1953「晩菊」1954「放浪記」1962などという秀作群が果たして存在したかどうか、戦後日本の映画史を考える上でも大きな分岐点であったことは間違いなく、成瀬監督の「めし」が作られていなかったとしたら、この現在に僕たちは少し毛色の違った「成瀬巳喜男作品」を見せられていたかもしれません。

そもそも、この小説は、朝日新聞に連載中に映画化の権利を松竹と争い、東宝が落としたという経緯がありました。

しかし、林芙美子の急逝により、未完となった小説の最後をどのようにするかで脚色に当たった田中澄江(林芙美子側)と井出俊郎(藤本プロ側)は、当初、夫婦関係の破綻で終わるという脚本を書いたとされています。

しかし、その結末を、「よりを戻す」ことに変えたのは、会社側が女性客を意識しての興行的判断からだったからだと伝えられています。

たとえ倦怠期であろうと円満な夫婦関係を選択した妻の、自分を殺して日常の平穏に戻る女の抑制的な諦念の要素が欠けていたとしたら、はたして成瀬巳喜男の特色が十分に発揮できたかどうか、きわめて疑問だったといわざるをえません。

「もし、林芙美子が、急逝せずに結末に夫婦の破綻を書いてしまっていたら」

「もし、千葉監督が急病にならなかったら」

「もし、成瀬が松竹に留まったままだったら」

いくら「もし」を連ねても、なんの意味もないことは、十分に承知しているつもりですが、運命とか巡り合わせって、なんだか不思議な感じがしますよね。

林芙美子が急逝したのは、1951.6.28、そして、「めし」の封切りは1951.11.23でした。

林芙美子の死の年に、彼女の小説を映画化することによって、成瀬巳喜男は映画作家として飛躍のスタートを切ったということだって、相当に鳥肌ものだと思います。

映画化された林芙美子作品というのを、ちょっと調べてみました。

木村荘十二監督『放浪記』(1935 PCL)夏川静枝・堤真佐子
豊田四郎監督『泣虫小僧』(1938東宝)林文雄・逢初夢子
渋谷実監督『南風』(1939松竹)田中絹代・佐分利信
成瀬巳喜男監督『めし』(1951東宝)上原謙・原節子
池田忠夫監督『あわれ人妻』(1951松竹)若原雅夫・角梨枝子
原研吉監督『うず潮』(1952松竹)月丘夢路、佐田啓二
成瀬巳喜男監督『稲妻』(1952大映)高峰秀子・浦辺粂子
堀内真直監督『真珠母』(1953松竹)淡路恵子・三橋達也
成瀬巳喜男監督『妻』(1953東宝)上原謙・高峰峰子
森一生監督『絵本猿飛佐助』(1953新東宝)水島道太郎・喜夛川千鶴
成瀬巳喜男監督『晩菊』(1954東宝)杉村春子・沢村貞子
久松静児監督『放浪記』(1954東映)角梨枝子・岡田英次
酒井辰雄監督『若き日の誘惑』(1954松竹)大木実・藤乃高子
成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955東宝)高峰秀子・森雅之
千葉泰樹監督『下町』(1957東宝)山田五十鈴・三船敏郎
久松静児監督『女家族』(1961東宝)新珠三千代・三益愛子
成瀬巳喜男監督『放浪記』(1962東宝)高峰秀子・田中絹代
斎藤武市監督『うず潮』(1964日活)吉永小百合・奈良岡朋子
大庭秀雄監督『稲妻』(1967松竹)倍賞千恵子・藤田まこと

こう見てくると、やはり成瀬巳喜男の林芙美子作品の映画化に対する充実振りがうかがわれることが分かります。

さて、だいぶ寄り道が過ぎてしまいましたので、急いで本題の「もし、他の監督が林芙美子の小説を撮ったら」に返りますね。

因縁話めきますが、そういう意味でも千葉泰樹監督の「下町」は、成瀬監督作品と比較するうえにおいて、もっとも相応しい作品といえるような気がします。

しかし、その前に、僕が千葉泰樹監督の名前を強烈に意識した作品「鬼火」を生み出した当時の日本の映画界の状況から話し始めなければならないかもしれません。

日本映画の全盛期、昭和30年代に、邦画各社が中短編映画を数多く製作しはじめ、新人監督や脇役俳優の格好の活躍の場となりました。

まず1952年、松竹は「シスター映画」と呼ばれる中篇映画の製作をスタートさせます。

上映時間はおもに40分~50分程度の作品で、これを併映作として2本立ての封切りのローテイションを維持しようとしました。

ネーミングの「シスター映画」とは、姉妹篇を意味するSister Pictureからきていて、俗に「SP版」とも呼ばれています。

第1作は西河克己監督のデビュー作「伊豆の艶歌師」1952で、その後も、新人監督を起用して断続的に製作されていきます。

そして、このシステムから小林正樹監督の「息子の青春」1952、野村芳太郎監督の「鳩」1952が作られ、それぞれデビューをはたしています。

その後、松竹では路線として「SP版」というのはなくなっていくものの、中篇映画の製作は継続され、「愛と希望の街」1959で大島渚、「二階の他人」1961で山田洋次がデビューしています。

つまりこれは、監督昇進への登竜門ともいうべき一応の成果をあげることのできたシステムでした。

この、松竹の「SP版」に続いて、各社も中篇映画の製作に追随するかたちで開始します。

1954年には東映が2本立てに踏みきり、その併映用作品として「娯楽版」と銘打った子供向けの連続活劇ものの中篇映画を製作します。

まず「真田十勇士」3部作を第1弾に、「新諸国物語・笛吹童子」3部作、「里見八犬伝」5部作、「新諸国物語・紅孔雀」5部作などが製作され、なかでも「笛吹童子」「紅孔雀」は、大ヒット映画になり、ここから中村錦之助や東千代之介といった新たなスターが生まれます。

1956年に入ると日本映画6社がこぞって2本立てを実施することになり、東宝でもこの年、1956年から名匠・名優を惜しげもなく起用して「ダイヤモンド・シリーズ」と銘打った力のこもった併映用中短編を次々に製作していきますが、その第1作で、しかもシリーズ代表作とも評価されているその「鬼火」が、千葉泰樹監督作品でした。

この時期に撮られた印象深い作品としては、ほかに丸山誠治「憎いもの」1957、山本嘉次郎「象」1957、堀川弘通「琴の爪」1957、筧正典「新しい背広」1957、そしてこれから感想を書こうとしている「下町」もあるのですが、こう見ていくと、東宝では松竹と異なり、新人ではなくベテラン監督を起用し、豪華な俳優陣で、力のこもった作品を投入していたことが分かりますね。

さて、自分としては、成瀬巳喜男演出ではなく、「もし、他の監督が林芙美子の小説を撮ったら」というテーマを設定して、千葉泰樹監督の「下町」について書くつもりだったのですが、書くうちにどんどん論旨は横道に逸れまくりで、許された時間も使い果たし、もはや自分のチカラでは、この一文を本題に戻すことが絶望的になってしまいました。

千葉泰樹監督の「下町」論は、後日改めて書き直したいと思いますので、あしからずご了承ください。

では、また。

(1957東宝)制作・藤本真澄、監督・千葉泰樹、原作・林芙美子、脚本:笠原良三、吉田精弥、撮影・西垣六郎、音楽・伊福部昭、美術・中古智、照明・石井長四郎、金子光男、録音・小沼渡
出演・山田五十鈴、三船敏郎、田中春男、村田知栄子、亀谷雅敬、多々良純、淡路恵子、馬野都留子、沢村いき雄、鈴川二郎、中野トシ子、土屋詩朗、広瀬正一、佐田豊、五十嵐和子、中山豊、岩本弘司、
by sentence2307 | 2011-02-06 16:10 | 千葉泰樹 | Comments(114)

大番・四部作

なぜか最近、「鬼火」をはじめ、めずらしい加東大介の出演作品が立て続けに放映されているような気がします。

なにか特集でもあるのでしょうか。

もしそうだとしたら、そうした企画の流れのなかのひとつとして、この「大番」四部作が放映されたのかもしれません。

とにかく、さっそく録画しておきました。

といっても、この作品が未見の作品というわけではありません。

子供の頃、この「大番」フィーバーのあったこと(なんとか景気の株ブームだったのだと思います)や、この作品を親に連れられて見にいった記憶もあります。

当時、子供の目で見たこの映画の印象を思い返してみると、なぜか、「しんどん」を演じた仲代達矢の印象が鮮明に残っています。

いま改めて見ると、ギューちゃんのことを半生にわたって献身的にサポートしているのに、その割には、あまり感謝されていないのがなんだか不思議です。

そういえば、同じように、彼のために献身的に尽くしたおまきさん(淡島千景が演じています)に対する描き方も、随分淡白なのではないかと、少し驚かされました。

きっと、僕のなかの淡島千景といえば「夫婦善哉」のおばはんの濃厚な「つくす女」の印象が色濃く残っているからかもしれません。

しかし、その淡白さの理由は、伯爵夫人を一途に思う丑之助の純情という理由が、ちゃんと用意されているのですが、それにしても「しんどん」も「おまきさん」も、これではちょっと可哀想すぎるような気がします。

せめて報われない者同士、最後には寄り添うようにして一緒させてあげるなどという工夫はなかったのでしょうか。

そして、実はもうひとつ、見ている途中で、話の先回りをして、自分なりに物語を勝手に妄想した筋立てがありました。

ギュウちゃんが、相場で失敗し、財産のすべてを失って、最後には、苦悩ののちに自殺を遂げるという悲惨な結末です。

しかし、これも見事に期待はずれとなりました。

なんだか僕は、この映画を見ながら、横道に反れよう反れようとしていたみたいですね。

もともとこういうサクセス・ストーリーというやつが肌に合わないということもあったでしょうが、あるいは、加東大介たるもの、こんな役をやってはいけなかったのではないかという、これは僕なりの拒否反応だったのかもしれません。

手元の資料によれば、この千葉泰樹監督の「大番」が、加東大介の代表作だと書かれていました。

獅子文六が、かれのために書いたのではないかと思えるほどに、ぴったりの役と書いている解説書もあるくらいです。

そういえば、加東大介の主演作というのも、あまり聞いたことがありません。

記憶がないというよりも、もっぱらバイ・プレイヤーに徹していたんじゃなかったっけ? という感じです。

こういう主演作があったこと自体、むしろ意外なくらいでした。考えてみれば、主演作といえば、少し前に見たあの「鬼火」と、この「大番」くらいしか、いまのところ思いつきません。

しかし、それにしても、せっかくの主演作を得たことが、以後の役者生活にどういう意味をもったのか、考えさせられてしまいました。

この作品が、自分のもうひとつの可能性を見据えて、主役を張れるようになるかもしれないというチャンスと考えたのか、そう考えることがキャリアアップにつながったのか。

しかし、この「大番」四部作が「最初で最後」という位置づけで納得づくの、お遊びとみなした作品に過ぎないとしたのだったら、それはそれでちょっと失望してしまいますが。

とにかく、そんな気持ちで、「大番」四部作を見はじめました。

そして、一気に完結篇までの4本を通して見終わった後の印象は、この程度の役なら、なにもわざわざ加東大介を起用しなくともよかったのではないか、という感想を持ちました。

大ベストセラーの映画化(なにしろ、わずか足掛け2年という短期間に四部作が作られたことを思えば、大変なヒット小説だったことは、容易に推測できます)に際して、会社が、この役のイメージに加東大介を想起した理由というのが、太目の体型というただそれだけの連想だったとしたら、演技者として幸運というよりも、むしろ災難みたいなものだったのかもしれません。

この役を引き受けたことによって、加東大介は役者として随分と損をしてしまったのではないか、そんなふうな自分なりの感想をずっと持ち続けていました。

「大番」の主人公・赤羽丑之助ことギュウちゃんは、底抜けに悪気のない男です。

そして、この底抜けな悪気のなさによって、相場では無心に桁はずれの大金を稼ぎまくり、手当たり次第に多くの女たちと関係を持ち、その一方でただひとりの女性を生涯にわたって思い続けるという一途な純情が、当時の大衆に指示されたのだと想像できます。

桁違いの大金を無心に稼ぎ出し、手当たり次第に女たちを自分のものにし、また、成り上がり者としてなんの衒いもなく、身分違いの伯爵夫人を庇護しようとするそうした邪気のなさに、当時の大衆が、妬みや嫉みではなく、この人物の一途さに喝采をおくり支持したという理由がそこにあったのだと思います。

それは、大衆もまた同じように好景気・高度経済成長の上り坂を息せき切って駆け上っていたからでしょう。

ギューちゃんの価値観こそ、当時の大衆が抱いた価値観でもあったことのなによりの証明だったのだと思います。

しかし、この単純明快、豪快でひたすらエネルギッシュな相場師の、しかし、それは、裏返せばただ無神経で、あまり人間的な深みや微妙さも演技的には必要としないこのような単純な人物像をもってして、加東大介という俳優のイメージが、大方の観客に刷り込まれ、固定されてしまったとしたら、以後の役者生活を考えるうえにおいて、俳優としては、むしろハンディだったのではなかったかという気がしてきました。

自分としても、この加東大介という俳優について考える場合、彼が唯一主演したというこの「大番」を彼の代表作として思い浮かべることでいいのだろうかと考えたとき、それはちょっと違うだろうと否定したい思いに駆られました。

成瀬監督の「おかあさん」において、父親が急死したあとのクリーニング店を支え、通い職人をしてくれていた父親の友人(加東大介が演じていました)が、母の再婚相手として近所で噂になったとき、潔癖な長女の嫌悪と拒否にあって、やむなく身を引く初老の男の孤独な影を、実に感慨深い演技で示した傑出したあのシーンに打たれたこの身にとって、この加東大介の演技と、たとえ撮影に長大な時間をついやしたかもしれない「大番」四部作の演技とを比較すること自体、どだい無理な話というしかありません。

大番(1957東宝)製作・藤本真澄、監督・千葉泰樹、監督助手・小松幹雄、脚色・笠原良三、原作・獅子文六、撮影・完倉泰一、音楽・佐藤勝、美術・中古智、録音・下永尚、照明・金子光男、編集・大井英史、スチール・副田正男、製作担当者・森本朴、
出演・加東大介、谷晃、沢村貞子、上野明美、仲代達矢、淡島千景、原節子、佐田豊、太刀川洋一、多々良純、三木のり平、清川玉枝、山田巳之助、柳永二郎、河津清三郎、瀬良明、手塚勝巳、加藤茂雄、山田彰、岩本弘司、中山豊、中村是好、平田昭彦、有島一郎、東野英治郎、三条利喜江、小野松枝、堺左千夫、若宮忠三郎、山本廉、小林桂樹、田中春男、河美智子、越後憲三、笈川武夫、杉浦千恵、広瀬正一、生方壮児、榊田敬蔵、清水元
1957.03.05 12巻 3,212m 白黒
by sentence2307 | 2010-08-14 17:56 | 千葉泰樹 | Comments(261)

鬼火

僕たちは、きっと千葉泰樹監督の「鬼火」よりも、ルイ・マル監督の「鬼火」のほうを、何十倍もよく知悉して育ってきた世代だと思います。

もちろん僕もそのひとりでしたし、むしろ、千葉泰樹監督に「鬼火」のような硬派な作品があること自体、まるで知りませんでした。

この邦題名を見たとき、ちょっと嫌な感じを受けたのは、世間によくあるポピュラーな題名だけを被せて、「小判いただき」みたいな、姑息というか、知名度に便乗して観客の微妙な錯覚におもねるような、よくある集客狙いの作品のひとつなのではないかという先入観を最初から抱いてしまったからかもしれません(実は、ルイ・マル作品の方が、千葉作品よりも後年に作られたことをあとで知りました)。

しかし、それらの危惧は、実際に作品を見ることによって見事に裏切られました。

これは、実に真摯に映画づくりに取り組んだ卓越した作品だと思います。

きっと、自分の無知を棚に上げて、最初から眉に唾つけ、タカをくくって見始めたというヨコシマな偏見が、ものの見事に裏切られた衝撃で、なおさらその「真摯さ」を実感して、印象深く感じたものと思います。

ルイ・マルの「鬼火」は、この世に絶望した青年が、二日後の自殺を決意し、それまでの猶予の日々を非日常者として過ごすという、極限の時間帯を描いた作品です。

もうすぐ自分は、この世界から去るのだという切実な思い(「切実な」というよりも、むしろ「すでに遠い」死者の視点でもって世界を見るという突き放した感じかもしれません)が、この世のあらゆることや、自分の周囲で明日もまた繰り返されるであろう日常のささいな出来事のことごとくが、疎外されているための特別な輝きをはなって見えてしまう。

しかし、すでに生きることを放棄した自分には、もはやそれは、ことごとく無縁なものでしかないという虚無感と疎外感を、ルイ・マルが繊細と切迫のなかで描いた作品でした。

そうした青春の挫折と自死へのひたすらな意思が、まだ若かった自分にはたまらなく心地よいものだったのだと思います。

きっと、その「心地よさ」の根底には、自分は他の人間とは違う特別な存在なのだという強烈な自意識と、こんな愚劣な世の中などいつでもドロップアウトしてみせてやるという自滅衝動につながる社会から排除されていることを、逆に陰性の選民意識に置き換えた思いを微妙にくすぐるなにかが、あったのかもしれません。

つまり、世に入れられない若者たちを惹きつける「なにか」が、この映画にはあったのでしょう。

小説でいえば、きっとこの映画は、いまでは、まったくの死語になってしまいましたが、純文学のようなジャンルに属する作品なのだと思います。

解説書によると、原作者のドリュ・ラ・ロシェルは、第一次大戦に従軍して傷つき、復員後失意のなかですさんだ生活を続けたあと、絶望の中でシュールレアリスム運動に参加したあと、満たされない苛立ちのなかで更に虚無と絶望を克服するためにファシズムに接近して対独協力者となり、フランス解放後の1945年3月に追い詰められるようにして自殺したと記されていました。

現実変革をめざす多くのシュールレアリストたちが、コミュニズムに傾斜していったのに対して、ドリュ・ラ・ロシェルは、あの毒舌家ルイ・フェルディナン・セリーヌと同じように、まったく対極の生き方・右傾化をしていった特異な作家です。

「左傾化」ということですぐに思い浮かぶサルトルへの失望と対比すると、その苛立ちの意味は、明確に浮かび上がってきます。

高邁な哲学を、現実の政治活動に具体的に当て嵌めていく過程で、ヒューマニズムを標榜することの凡庸さをことさらに露呈してしまうチャチさみたいなものへの失望です。

「嘔吐」を書いたサルトルが、左傾化していく過程で見せた凡庸さへの失望と嫌悪感は、シュールレアリストとしての明らかな堕落と見えるに違いない、そのうえでのファシズムへの接近は、「いさぎよさ」の意味において、むしろ相応しかったのではないかという感慨をもったことを思い出しました。

それなら、千葉泰樹監督の「鬼火」が、ルイ・マル作品に比べて、タイトル倒れの似ても似つかない作品だったのかといえば、決してそんなことはありません。

ルイ・マル作品が生きる意欲を失った男の絶望の物語だとするなら、千葉泰樹は、生きることになんも疑問を持っていない、すさまじい意欲に満ちた男の物語です。

世界について、そして人間について語るうえで、悲観的に語ることだけが芸術的で、楽観的に語ってしまうとそうでなくなるのだという考え方は、すでに多くの作品が否定的に証明していると思います。

この千葉泰樹監督「鬼火」の主人公・ガス集金人(加東大介が演じています)は、自分の仕事に対して誇りと自負とを持っている男です。

ガス代金の取立てなら、誰にも負けません。

ですから、自分が貧乏な地域を担当させられたことも、別段左遷されたとは思っない、かえって、集金しづらい貧乏人から、強引に取り立ててみせることを、自分の能力の証明であるとさえ思っています。

しかし、この千葉作品の魅力は、この男自身も決して豊かでなく描かれているところにあるかもしれません。

食うや食わずのその日暮らしの貧乏人から、少しはマシな貧乏人が小さな権力をチラつかせて強引に集金し、それをミズカラの能力の証明として自負するという構図は、たとえそれが現実なのだとしても、とてもやりきれない凄惨な構図には違いありません。

この映画をひとことで要約するとすれば、きっとこんなふうになるかもしれません。

「7年間もカリエスで寝たままの夫を、ガス代にも事欠く極貧の中で、妻は必死に看病しています。あるとき、支払いの滞る妻に、ガス集金人は、ガス代の支払いを猶予する代償にカラダの要求を持ちかけますが、一度は了承した妻も、しかし、その屈辱に耐え切れず、その場を立ち去り、身を売るよりもむしろ死を選ぶことを決意して、夫を殺して自分も縊死します。様子を見に来たガス集金人は、凄惨な現場に遭遇して動転し、驚愕の叫び声をあげながら転げるように走り去りました。」

要約しながら分かったことですが、多くの言葉を省略しながら、どうしてもはずせない言葉というものがあることに気がつきました。

どうしてもはずせなかった言葉というのは、「屈辱」と「驚愕」のふたつです。

そして、そこに共通しているものは、おそらく「貞操感」という観念だろうと思います。

金のためにカラダを売ることを妻が受け容れられなかったのは、夫の看病というつらい義務を放棄できなかった観念と共通しています。

そして、その「屈辱」の意味を、ついに理解できずに「驚愕」するという貧困のなかにもある階層。

生んだ自分の子供に食べ物を与えたり、老いた自分の親を最後まで看取ったりすることを、疑いもせずにする観念と共通しているのです。

この時代の日本なら、子供を何か月も見捨てて餓死させる親などいなかっただろうし、親が行方知れずになっていても気にかけない子供もいなかったかもしれません。

ましてや、ちょっとしたお小遣い稼ぎのために嬉々としてオヤジをナンパする女子高校生なんていうのもいなかったと思います。

この作品は、東宝が、ダイヤモンド・シリーズと銘打ち、一流作家の代表小説から取材して、良質の作品の製作した文芸映画の一編です。

(1956東宝)監督・千葉泰樹、原作・吉屋信子、脚本・菊島隆三、撮影・山田一夫、音楽・伊福部昭、美術・中古智、録音・藤好昌生、照明・大沼正喜、編集・大井英史、製作・佐藤一郎、監督助手・小松幹雄、
出演・加東大介、津島恵子、宮口精二、中村伸郎、中田康子、清川玉枝、中北千枝子、堺左千夫、笈川武夫、三條利喜江、如月寛多、佐田豊、広瀬正一、熊谷二良、鈴木孝次、榊田敬二、上遠野路子、岩本浩司、熊谷二良
1956.07.05 5巻 1,271m 46分 白黒
by sentence2307 | 2010-08-08 09:35 | 千葉泰樹 | Comments(1116)

ひまわり娘

有馬稲子の東宝入社第一回作品、千葉泰樹監督の「ひまわり娘」1953年作品を見ながら、あることを思い出していました。

小津安二郎生誕100周年のとき、ある記念番組(たぶん、NHKだったと思います)のなかで、有馬稲子が久し振りに「東京暮色」を見て、いままで自分が思い込でいたほど酷い作品ではなかった、結構自分も頑張っているじゃないですか、というコメントを、インタビューに応じて快活に語っていたのを思い出しました。

その何気ないコメントには、彼女が「東京暮色」に出演したことで、その後、女優として随分彼女なりに苦しんできたのだなということが伺われました。

小津ファンが、多くの小津作品のなかでも、「東京暮色」を失敗作として最初に挙げるのが、なんだか定説みたいになっています。

それに、「東京暮色」以来、有馬稲子は、小津監督には二度と使われなかった女優のひとりでした。

ことさら女優に対して選り好みの強い小津監督だったとしても、彼女のどういうところが不味かったのか、それについての小津監督のコメントを読んだ記憶がありません。

公然と大根女優呼ばわりした岸恵子に対する軽妙な数々の冗談は、逆に、小津安二郎の岸恵子に対する思いやりの深さが感じられます。

そこには、確かに演技はいただけないが、彼女の人間性を深く愛した小津の優しさが伺われますし、また、そうした冗談を受け入れることのできた岸恵子自身の鷹揚さも、小津映画を愛するものにとっては、一種の救いだったかもしれません。

それにひきかえ、これは推測にすぎませんが、生真面目で頑なな有馬稲子には、彼女自身そういう揶揄を許すだけの精神的なゆとりも鈍感さも持ち合わせず、また、小津安二郎としてもそういう明晰な彼女に対して、作品の蹉跌から彼女を守るための軽口も吐けないまま、ただ「失敗作」という烙印と「演技の稚拙な女優」というふたつのイメージが、いつの間にか結びついて固定されてしまうのをどうにもできなかったのだと思います。

「東京暮色」に描かれた両親の不和と軋轢のなかで、屈折した思いに押し潰され自滅していく娘・明子は、そのまま小津監督が抱いた女優・有馬稲子そのもののイメージだったのではないかと、東宝入社第一回作品「ひまわり娘」を見ながら感じました。

この「ひまわり娘」は、普通の家庭に育った世間知らずの娘が、会社勤めを始めて社会の裏表や困難をいろいろと見聞きし、経験するというストーリーです。

それはあたかも、「本当の芝居をしたい」と宣言して宝塚歌劇団を退団し芸能界に飛び込んだ有馬稲子自身の思いとも重なるものがあるかもしれません。

しかし、映画「ひまわり娘」が彼女のその熱い思いを十分に満たすような映画だったかどうか、若くて美しい娘は、男たちから求愛され、そのぶん女性たちからは嫉妬されて、やがて最後には(彼女は、ただ待っていただけですが)もっとも愛する三船敏郎から求婚されて、幸せの予感とともにこの映画は終わります。

この作品ばかりじゃない、残念ながら、それから彼女が出演した多くの映画が、多かれ少なかれ「そう」だったのではないかと推測します。

そして、彼女が切望した「本当の芝居」をするチャンスが、「東京暮色」出演によって適えられそうになったそれ以後のことは、僕たちがよく知悉していることに繋がっていくのでしょう。

宝塚歌劇団で活躍していた頃の彼女を何も知らない以上、宝塚歌劇団で演じることが最も彼女らしかったのではないか、などと僕に言えるわけもありませんが。

(1953東宝)監督・千葉泰樹、製作・藤本真澄、原作・源氏鶏太、脚色・長谷川公之、撮影・山田一夫、音楽・黛敏郎、美術・河東安英、録音・小沼渡、照明・大沼正喜
配役・有馬稲子、清水将夫、村瀬幸子、井上大助、三船敏郎、三好栄子、伊豆肇、汐見洋、阿部寿美子、荒木道子、沢村契恵子、中村伸郎、千秋実、三津田健、杉村春子
by sentence2307 | 2008-07-19 14:40 | 千葉泰樹 | Comments(2)

好人物の夫婦

雄鶏さんの言葉に触発されて、小津監督の突き放したような独特の女性観について、「風の中の雌鶏」をベースにしながら書いているうちに、唐突ですが、実はある映画のことを同時に考えていました。

千葉泰樹監督が1956年に東宝で撮った「好人物の夫婦」という本当に奇妙な作品です。

これは、実に不思議な雰囲気を持った作品でした。

冒頭、池辺良演じる若い夫と、津島恵子演じる若い妻が、男性の放埓な性欲のことについて二人きりの部屋で静かに話し合っている場面から、この映画は始まります。

「あなたが一人で旅行に出たら、きっと商売女を買うに違いないわ。あなたは自分の欲望を我慢できるような人ではないもの」と若い妻が夫に疑いの問いを向けると、若い夫の方も「目の前にイイ女がいたら、性欲を抑える自信は俺にはないね」と答えます。

このセリフを聞いたとき、以前これに似たニュアンスの言葉を同じ職場の若い女性から聞かされたことがあったのを思い出しました。

まるで男の性欲が、飼い慣らすことの出来ない凶暴な野獣のように思っているその言葉には、同時に、性に未経験な彼女たちの願望的妄想をも込められているような印象を感じました。

残念ながら、きっと男の性はもっと繊細で儚く弱弱しいものにすぎず、性的妄想に恐れオノノイテ胸ときめかせている若い彼女たちを満足させるだけのものがあるかどうか、むしろ無残な失望を味あわせるだけのものなのかもしれません。

それはちょうど、男たちの欲望が思い描いている異性へのメンタルな憧憬を、現代の女性たちが応えるだけのものを既に失ってしまっていることとどこかで繋がっているという深刻かつ絶妙なバランスのうえで、今日の男女関係が成り立っているからなのかもしれませんしね。

さて、冒頭のセリフ「あなたが一人で旅行に出たら、きっと商売女を買うに違いないわ。あなたは自分の欲望を我慢できるような人ではないもの」と「目の前にイイ女がいたら、性欲を抑える自信は俺にはないね」というセリフが、この物語の重要な伏線となって、後半部で、妻の留守中にお手伝いさんが孕んだ事件をめぐる夫婦間のどろどろの疑心暗鬼が、繊細な心理的駆け引きとして描かれながら事態が進行するわけなのですが、しかし、次第に話しが謎解きめいてくると一転してこの映画はその魅力をすっかり失ってしまう事態にオチイリます。

きっと、あの夫婦のセリフは「伏線」などではなく、それはまさに、夫婦の寝屋におけるSEX前の隠微な睦言以上のなにものでもなかったからだと思います。

若い夫は、妻の嫉妬を煽るように浮気をほのめかす言葉を吐いてじらし、妻も夫の言葉によって嫉妬という性欲を煽られて夫にすがりついていくといった、まあある意味ではこれ以上ない繊細な演技の果てに、闇の中で密かに交わされる夫婦の濃厚なSEXが暗示されるという、ただそれだけの(それ以上の話は必要なかったし、またそれで十分だった)映画たったのだと思います。

さて、この作品の原作が志賀直哉だったのを、作品を見た後に知りました。なるほど、そのネチネチがいやに洗練されていて、結局魅せられた形になってしまったのは、そういうことだったのか、という納得した思いが残りました。

もうかなり以前から僕の中に小津安二郎→志賀直哉という線がひかれています。

とっさの印象で「好人物の夫婦」→「風の中の雌鶏」へと連鎖的にイメージが流れたとしても、あながち僕的にはそれほどの飛躍というわけではないのですが、きっと「風の中の雌鶏」を、「夫婦の寝屋におけるSEX前の前技的な睦言映画」などといったら、大方の小津作品ファンからはキツイお叱りを受けることとなるでしょうね。

(56東宝)監督・千葉泰樹、製作・佐藤一郎、原作・志賀直哉、脚色・八住利雄、撮影・山田一夫、音楽・伊福部昭、美術・中古智、録音・藤好昌生、照明・大沼正喜、
キャスト:池部良、津島恵子、中北千枝子、青山京子、有島一郎、石原忠、東郷晴子、市川かつじ、滝花久子、山田彰、立花満枝
5巻 1,369m 白黒 50分、1956.9.11
by sentence2307 | 2005-09-01 00:28 | 千葉泰樹 | Comments(1)