世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2017年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

右太衛門の忠臣蔵

先日、テレビのニュースを見ていたら、ある外食産業が例年開店していた正月の営業を取り止めると発表していました。

ああそうか、いままで当たり前に思っていましたが、これってバブル期の名残りだったんですね、改めて感じました。

「働き方改革」っていうと、なんだかつい最近の新政策みたいに思っていましたが、実はすでに現実の方が大きく変わってしまっていて、「政策」が慌てて綻びた現実の手当に動いたということなのかもしれません。

元日でも家にじっとしていられず、とにかくどこかに出かけたい人間にはちょっとさびしいことになるのかもしれませんが、この「イケイケの正月開店」という強引な考え方自体が、「少子高齢化による売り上げ減」とか「超過勤務」とか「シャッター通り」とか、最早いまの現実には合わない働き方になってしまっていたんでしょうね、

考えてみれば、自分の子供時代だって、正月三が日は、どこの店(個人商店です)も閉まっていて、寒風に晒されながら広っぱで凧揚げやコマ回しをした記憶がありますが、しかし、いま思えば、あれってそうするしかほかにできることがなかったから仕方なかったという面もあったのかもしれません。

だって、大型スーパーだとか、24時間開店しているコンビニができるまでの夜道は、それこそ真っ暗でした。

つまりこれなんかは、「昔なくて、今あるもの」ですが、「昔あって、今ないもの」の象徴みたいなものといえば、年末に必ずと言っていいくらい上映していた「忠臣蔵」ではないかと思います。

最近ではすっかりすたれてしまいましたが、むかしは年末ともなると、年中行事のように、決まってどこかの映画会社が必ず「忠臣蔵」を作って上映していたものでしたよね。

子供のころ、年の瀬には親に連れられて実に様々な「忠臣蔵」を見た記憶があります。

何かの拍子にふっと蘇ることがあって、そんなときは、なんだか切なくなったりしますが、まさに年中行事という感じだったと思います、そういう印象があります。

しかし、そんな感じで毎年のように見てきた「忠臣蔵」ですが、その数があまりにも多くて、どれがどれやら作品の区別などさっぱりつかない混濁した状態なのですが、しかし、その特定できないというモヤモヤ感が、ある意味、ある種の「郷愁」を形成して、少年期の懐かしい記憶のひとつになっている気もします。

たぶん、この誰もが持っている「懐かしさ」が、いまではすっかり新作の製作の途絶えた現在でも、CS放送などで旧作の「忠臣蔵」上映をうながす隠れたパワー(というか「圧」)になっているのかもしれません。

まあ、いずれにしても、懐かしい「忠臣蔵」を見られるということは実に嬉しいかぎりで、自分もその貴重な機会を逃さないように、ここのところ、日常的に「忠臣蔵」の放送情報なんかをこまめにチェックしてネット検索に励んでいます。

そんなふうに検索の毎日をおくっていたとき、ネットの「Q&A」でこんな質問に遭遇しました。

「よろずある『忠臣蔵』や『赤穂浪士』を題材にした映画のうち、どれがお勧めでしょうか」とか、あるいは、「忠臣蔵の傑作を教えてほしい」という質問です、見ていくとこの手の質問が結構あることに気が付き、ついつい読みふけってしまいました。

たとえば、「傑作ってどれ?」という「Q」に答えた「A」というのにこんなのがありました。

《なんといっても、12月10日に時代劇専門チャンネルで放送される、市川右太衛門が大石内蔵助を演じた昭和31年公開の東映オールスター映画『赤穂浪士 天の巻・地の巻』が注目作です。
これは、数ある忠臣蔵映画の中の最高傑作という評価がある大佛次郎の同名小説を映像化したもので、脚本の出来の良さもさることながら、実際の内蔵助もこんな人だったんじゃないかと思わせる、茫洋とした雰囲気を前面に押し出す右太衛門の抑えた芝居が何より見どころです。
やはり右太衛門は、十八番である『旗本退屈男』シリーズ以外(なぜ? 原文ママ)がいいんですよ。
可能であれば、ぜひとも視聴してください。
なお12月3日には、東映チャンネルで創立10周年記念を謳い昭和36年に公開された片岡千恵蔵主演の『赤穂浪士』が放送されますが、これは同じ大佛の小説を原作にしていながら、31年版の足元にも及ばない駄作です。》

なるほど、なるほど、右太衛門の忠臣蔵ですか、こりゃあ面白いじゃないですか、とにかくこちらも嫌いな方じゃなし、今日のところはやたら暇でもあるしで、勝手ながらさっそく混ぜてもらうことにしました。それにしても、片岡千恵蔵じゃなくて、なぜ右太衛門なんだという思いはありますよ、トーゼン。

実は、千恵蔵の方の「忠臣蔵」を今年の夏だかに見たばかりなので、ちょっとこの「駄作」発言には引っかかるものがありました。

もし、そう考える要素のひとつとして、千恵蔵のあの独特のセリフ回し(聞き取りにくい?)というのが入っているのだとしたら、「だって、あれがいいんじゃないですか」くらいの突っ込みを入れたくなる誘惑に駆られたりします。

しかしまあ、それはともかく、右太衛門が出演した「忠臣蔵」作品をjmdbで調べてみました、なんせこちらは、すこぶる暇ですし。暇ついでに右太衛門には★マークなども入れてみました。

こう調べてみて、右太衛門が溝口健二の「元禄忠臣蔵」に出ていることを知り、ちょっと意外でした。



赤穂浪士快挙一番槍(1931市川右太衛門プロダクション・松竹キネマ)
監督・白井戦太郎、脚本・行友李風、原作・行友李風、撮影・松井鴻
出演・★市川右太衛門、大江美智子、高堂国典、武井龍三、伊田兼美、正宗新九郎
1931.01.31 帝国館 8巻 白黒 無声


忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻(1932松竹キネマ・下加茂撮影所)
忠臣蔵 後篇 江戸の巻(1932松竹キネマ・下加茂撮影所)
企画・白井松次郎、大谷竹次郎、企画補助・白井信太郎、城戸四郎、井上重正、監督・衣笠貞之助、監督補助・渡辺哲二、大曽根辰雄、森一、脚本・衣笠貞之助、原作・衣笠貞之助、撮影・杉山公平、撮影補助・真々田潔、加藤武士、作曲指揮・塩尻清八、演奏・日本新交響楽員、作曲選曲・杵屋正一郎、長唄・杵屋六、杵屋六徳、杵屋六栄、三味線・杵屋六祥、杵屋六佐喜、杵屋六加津、杵屋六美代、杵屋六祥次、杵屋六喜栄、杵屋六弥太、鼓曲・望月太明蔵、笛・住田又三久、小鼓・望月太明蔵、大鼓・望月太意四郎、太鼓・六郷新之助、囃子・望月太明七郎、望月太計夫、望月幸一郎、洋舞・江川幸一、邦舞・尾上菊蔵、舞台意匠・吉川観方、設計・香野雄吉、舞台装置・尾崎千葉、高橋康泰、装飾・光谷義淳、八田務、橋本博、録音・土橋武夫、録音補助・中西進、松本辰吉、河野貞樹、西村滋、杉山政樹、中岡義一、照明・今島正人、高倉政史、山根秀一、衣裳・松竹衣裳部、殺陣・林徳三郎、字幕・望月淳、顧問・大森痴雪、
配役・阪東寿三郎(大石内蔵之助)、林長二郎(浅野内匠頭長矩、吉田沢右衛門)、★市川右太衛門(脇坂淡路守、垣見五郎兵衛)、岩田祐吉(大野九郎兵衛)、藤野秀夫(千阪兵部)、上山草人(吉良上野介)、高田浩吉(大石瀬左衛門)、堀正夫(原惣右衛門、草間格之助)、尾上栄五郎(小林平八郎)、坂東好太郎(勝田新左衛門)、野寺正一(堀部弥兵衛)、武田春郎(大久保権右衛門)、新井淳(家老斎藤宮内)、押本映治(笠原長太郎)、島田嘉七(上杉綱憲)、結城一郎(加藤遠江守)、阪東寿之助(矢頭右衛門七)、実川正三郎(大野九十郎)、小笠原章二郎(間十次郎)、関操(小山源五左衛門)、志賀靖郎(大竹重兵衛)、坪井哲(片岡源五右衛門)、風間宗六(伊達伊織)、高堂国典(上杉家家老)、斎藤達雄(不破数右衛門)、小林十九二(外村源左衛門)、日守新一(幇間狸六)、大山健二(大高源吾)、宮島健一(梶川与惣兵衛)、岡譲二(柳沢出羽守)、小倉繁(碇床主人)、滝口新太郎(大石主税)、喜曽十三郎(奥田孫太夫)、高松錦之助(進藤源四郎)、小泉嘉輔(大野家用人)、中村吉松(清水一角)、山本馨(内蔵助下男八助)、中村政太郎(朝倉喜平)、小林重四郎(堀部安兵衛)、沢井三郎(多門伝八郎)、広田昴(韋駄天の猪公)、井上晴夫(間瀬孫九郎)、宇野健之助(家老左右田孫兵衛)、永井柳太郎(千阪家用人)、静山繁男(大石家用人)、森敏治(上杉の刺客)、百崎志摩夫(講釈師)、小川時次(中村勘助)、長嶋武夫(武林唯七)、山路義人(江戸ッ児熊公)、柾木欣之助(臆病武士)、日下部龍馬(早水藤左衛門)、竹内容一(萱野三平)、青木弘光(赤埴源蔵)、高山雄作(吉良家附人)、和田宗右衛門(矢頭長助)、三井一郎(小野寺幸右衛門)、千葉三郎(吉良の用心棒)、冬木京三(神崎与五郎)、芝一美(吉良の附人)、中村福松(貝賀助右衛門)、土佐龍児(垣美の附人)、大崎時一郎(幇間仙八)、市川国蔵(お坊主)、木村猛(下男斗助)、・来留島新九郎(お坊主)、・石川玲(江戸ッ児留公)、・石原須磨男(大野派の梶村)、矢吹睨児(上杉の刺客)、南部正太郎(上杉の刺客)、津田徹也(瓦版売り)、頼吉三郎(お坊主)、三井秀男(碇床小僧)、阿部正三郎(碇床小僧)、突貫小僧(餓鬼大将)、菅原秀雄(大三郎)、市川右田三郎(芝居の師宣)、嵐若橘(塩冶判官)、嵐巖常(大名)、片岡孝夫(大名)、嵐橘利之助(大名)、嵐巖太郎(大名)、阪東助蔵(大名)、竹本菊勢太夫(浄瑠璃)、重沢延之助(三味線)、川田芳子(大石妻理玖)、飯田蝶子(不破の妻縫)、鈴木歌子(おるいの母親)、八雲恵美子(浮橋太夫)、田中絹代(八重)、川崎弘子(瑤泉院)、岡田嘉子(おるい)、柳さく子(戸田局)、千早晶子(勝田妻光)、飯塚敏子(芸者小妻)、井上久栄(大野九十郎の妻)、河上君栄(芸者信香)、千曲里子(芸者小桜)、北原露子(芸者力弥)、中川芳江(七兵衛七の母親くに)、
前編1932.12.01 東京劇場 10巻 2,995m 109分 白黒
後編1932.12.01 東京劇場 10巻 2,818m 103分 白黒


元禄忠臣蔵 前篇(1941興亜映画・松竹・京都撮影所)
総監督・白井信太郎、演出者・溝口健二、演出助手・渡辺尚治、酒井辰雄、花岡多一郎、小川家平、脚色者・原健一郎、依田義賢、原作者・真山青果、撮影・杉山公平、撮影助手・松野保三、中村忠夫、吉田百人、作曲・音楽監督・深井史郎、演奏・新交響楽団、指揮者・山田和男、美術監督・水谷浩、建築監督・新藤兼人、建築助手・渡辺竹三郎、装置者・六郷俊 大野松治、装置助手・小倉信太郎、襖絵装飾・沼井春信、伊藤栄伍、装飾者・松岡淳夫、荒川大、大沢比佐吉、装飾助手・西田孝次郎、録音者・佐々木秀孝、録音助手・杉本文造、田代幸一、木村一、照明者・中島末治郎、三輪正雄、中島宗佐、編集者・久慈孝子、速記者・山下謙次郎、普通写真撮影者・吉田不二雄、服飾者・川田龍三、奥村喜三郎、服飾助手・加藤信太郎、技髪者・高木石太郎、技髪助手・尾崎吉太郎、福永シマ、現像者・富田重太郎、
字幕製作者・望月淳、
〔考証者〕武家建築・大熊喜邦(文部省嘱託・工学博士)、言語風俗・頴原退蔵(京都帝国大学講師・文学博士)、民家建築・藤田元春(第三高等学校教授)、時代一般・江馬務(風俗研究所長)、能・金剛厳(金剛流宗家)、史実・内海定治郎(義士研究家)、風俗・甲斐荘楠音(旧国画創作協会同人)、造園・小川治兵衛(「植治」)、素槍・久保澄雄(立命館大学範士・貫流)
配役・河原崎長十郎(大石内蔵助)、中村翫右衛門(富森助右衛門)、河原崎国太郎(磯貝十郎左衛門)、嵐芳三郎(浅野内匠頭)、坂東調右衛門(原惣左衛門)、助高屋助蔵(吉田忠左衛門)、瀬川菊之丞(大高源吾)、市川笑太郎(堀部弥兵衛)、市川莚司(武林唯七)、市川菊之助(片岡源五右門)、山崎進蔵(大石瀬左衛門)、市川扇升(大石松之丞・主税)、市川章次(瀬尾孫左衛門)、市川岩五郎(早水藤左衛門)、市川進三郎(潮田又之亟)、坂東春之助(井関紋左衛門)、中村公三郎(生瀬十左衛門)、坂東みのる(大塚藤兵衛)、坂東銀次郎(岸佐左衛門)、 嵐徳三郎(奥野将監)、筒井徳二郎(大野九郎兵衛)、加藤精一(小野寺十内)、川浪良太郎(岡嶋八十右衛門)、海江田譲二(堀部安兵衛)、大内弘(萱野三平)、大川六郎(近松勘六)、大河内龍(奥田孫兵衛)、羅門光三郎(井関徳兵衛)、小杉勇(多門伝八郎)、三桝万豊(吉良上野介)、清水将夫(加藤越中守)、坪井哲(進藤築後守)、山路義人(梶川与惣兵衛)、玉島愛造(深見宗近左衛門)、南光明(近藤平八郎)、井上晴天(久留十左衛門)、大友富右衛門(大久保権右衛門)、賀川清(田村右京太夫)、粂譲(稲垣対馬守)、沢村千代太郎(関久和)、中村進五郎(津久井九太夫)、嵐敏夫(登川得也)、市川勝一郎(石井良伯)、★市川右太衛門(徳川綱豊)、三浦光子(瑶泉院)、滝見すが子(浮橋)、岡田和子(うめ)、山路ふみ子(お喜世)、京町みち代(お遊)、中村梅之助(吉千代)、三井康子(おくら)、山岸しづ江(大石妻おりく)、
1941.12.01 国際劇場 11巻 3,066m 112分 白黒


赤穂浪士 天の巻 地の巻(東映・京都撮影所)
製作・大川博、企画・マキノ光雄、山崎真市郎、坪井与、大森康正、玉木潤一郎、辻野力弥、岡田茂、監督・松田定次、助監督・松村昌治、脚色・新藤兼人、原作・大仏次郎、撮影・川崎新太郎、音楽・深井史郎、美術・角井平吉、森幹男、録音・佐々木稔郎、照明・山根秀一、編集・宮本信太郎、時代考証・甲斐荘楠音、色彩担当・岩田専太郎、進行・栄井賢、スチール・熊田陽光、 
配役・
★市川右太衛門(大石内蔵助)、片岡千恵蔵(立花左近)、月形龍之介(吉良上野介)、薄田研二(堀部弥兵衛)、堀雄二(堀部安兵衛)、原健策(片岡源五右衛門)、片岡栄二郎(毛利小平太)、植木基晴(吉千代)、清川荘司(渋江伝蔵)、百々木直(梶川与惣兵衛)、神田隆(小平太の兄)、月形哲之介(武林唯七)、時田一男(三国屋番頭清吉)、団徳麿(八助)、大文字秀介(深井伝四郎)、植木義晴(大三郎)、尾上華丈(原惣右衛門)、小金井修(三村次郎左衛門)、遠山恭二(菅野三平)、森田肇(吉田吉左衛門)、葉山富之輔 (間瀬久太夫)、近江雄二郎(潮田又之丞)、河村満和(近松勘六)、熊谷武(菅谷半之丞)、原京市(富森助右衛門)、小金井勝(奥田孫太夫)、源八郎(村松喜兵衛)、人見寛(室井左六)、舟井弘(泉岳寺の僧)、小田部通麿(岡林埜之助)、山村英三朗(戸村源右衛門)、近松龍太郎(玉虫七郎右衛門)、津村礼司(赤垣源蔵)、有馬宏治(早水藤左衛門)、大丸厳(寺坂吉右衛門)、上代悠司(前原伊助)、河部五郎(権太夫)、中野市女蔵(伊達左京亮)、中村時十郎(真野金吾)、加藤嘉(小野寺十内)、河野秋武(目玉の金助)、龍崎一郎(脇坂淡路守)、進藤英太郎(蜘蛛の陣十郎)、中村錦之助(小山田庄左衛門)、大友柳太朗(堀田隼人)、東千代之介(浅野内匠頭)、小杉勇(千坂兵部)、宇佐美淳(柳沢出羽守)、三島雅夫(丸岡朴庵)、三条雅也(大高源吾)、高木二朗(片田勇之進)、高松錦之助(穂積惣右衛門)、明石潮(安井彦右衛門)、楠本健二(神崎与五郎)、青柳龍太郎(近藤源八)、水野浩(藤井又左衛門)、堀正夫(中村清九郎)、加藤正男(江戸の商人E)、山内八郎(町人B 多吉)、中野文男(平谷新兵衛)、富久井一朗(町人A 三次)、小田昌作(江戸の町人A)、舟津進(江戸の町人B)、矢奈木邦二郎(江戸の町人C)、浅野光男(江戸の町人D)、若井緑郎(江戸の町人E)、東日出夫(駆けて来る男源太)、藤木錦之助(伝奏屋敷の番士)、石丸勝也(巡礼A)、村田宏二(巡礼B)、丘郁夫(関久和)、葛木香一(牟岐平右衛門)、伊藤亮英(三国屋五平)、中野雅晴(磯貝十郎左衛門)、岸田一夫(朴庵の弟子)、香川良介(大野九郎兵衛)、沢田清(将軍綱吉)、吉田義夫(石屋の源六)、藤川弘(清水一学)、杉狂児(松原多仲)、加賀邦男(小林平七)、東宮秀樹(上杉綱憲)、三浦光子(大右妻りく)、高千穂ひづる(お仙)、田代百合子(さち)、浦里はるみ(お柳)、植木千恵(おくう)、吉井待子(しのぶの女中)、毛利菊枝(宗偏の妻)、赤木春恵(長屋のお内儀)、吉田江利子(京の料亭仲居 おさん)、六条奈美子(弥兵衛の妻 若)、鳳衣子(京の料亭仲居 お米)、松浦築枝(十内の妻 丹)、八汐路恵子(京の料亭仲居 お菊)、星美智子(安兵衛の妻 幸)、千原しのぶ(夕露太夫)、喜多川千鶴(お千賀)、伏見扇太郎(大石主税)、
1956.01.15 15巻 4,136m 151分 イーストマン・カラー


★赤穂浪士(1961東映・京都撮影所)
製作・大川博、企画・坪井与、辻野公晴、玉木潤一郎、坂巻辰男、監督・松田定次、脚本・小国英雄、原作・大仏次郎、撮影・川崎新太郎、音楽・富永三郎、美術・川島泰三、録音・東城絹児郎、照明・山根秀一、
配役・片岡千恵蔵(大石内蔵助)、中村錦之助(脇坂淡路守)、東千代之介(堀部安兵衛)、大川橋蔵(浅野内匠頭)、丘さとみ(お仙)、桜町弘子(お咲)、花園ひろみ(桜)、大川恵子(北の方・瑤泉院)、中村賀津雄(伝吉)、里見浩太郎(上杉綱憲)、松方弘樹(大石主税)、柳永二郎(柳沢出羽守)、多々良純(佐吉・蜘蛛の陣十郎)、尾上鯉之助(武林唯七)、明石潮(原惣右衛門)、戸上城太郎(小林平八郎)、阿部九州男(片田勇之進)、加賀邦男(赤垣源蔵)、原健策(猿橋右門)、長谷川裕見子(千代)、花柳小菊(おりく)、青山京子(楓)、千原しのぶ(浮橋太夫)、木暮実千代(おすね)、大河内伝次郎(立花左近)、近衛十四郎(清水一角)、山形勲(片岡源五右衛門)、薄田研二(堀部弥兵衛)、進藤英太郎(多門伝八郎)、月形龍之介(吉良上野介)、大友柳太朗(堀田隼人)、★市川右太衛門(千坂兵部)、
1961.03.28 12巻 4,122m 150分 カラー 東映スコープ



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by sentence2307 | 2017-12-30 09:44 | Comments(0)

忠臣蔵

いよいよ年の瀬になりました、昨夜は、各課合同の会社の納会も終わり、いよいよ一週間の正月休暇です。

この期間に、まとまった旅行でもすれば有意義に使えるのではないかと、いつも思うのですが、現実問題として考えれば、はずせない定番の家庭のイベントがいくつかありますし、そのための用事がちょびちょびあり、毎年、あとから振り返れば、家庭人としてそれなりに必要とされているので、そのすべてを放り出しての「正月旅行」というのは、今のところ自分的にはちょっと考えられません、しばらくは家庭サービスのためにもこの期間を開けておこうと思っています。

それにほら、よく言うじゃないですか、旅行はあれこれ計画しているときが一番楽しいって。

そして実際、旅行会社にあちこち連れまわされる総花的な定番ツアーのあとの、あの義務を果たしたときに感じるような疲労感というか徒労感(そうした旅の思い出も、あとから考えれば、なんだかカタログ的です)しか残らない虚しさを思えば、やはり正月旅行は、近い将来には果たしたい「夢」として持ち続け、先送りしている状態の方が、なんだか正解のような気もしますし。

しかし、この期間に自分の時間がまったく持てないかというと、そんなことはありません。

なんといってもサラリーマンの武器は、「早起き」の習慣です、すっかり「休暇」に緩みきって、午前中はゆっくり寝ている家人に比べたら、自分は日頃からとんでもない早朝に起きる習慣が身についている筋金入りのサラリーマンです、目覚まし時計などセットしておかなくとも、「その時間」ともなれば1秒たがわずパッチリ眼が開いて、今の時期は日の出までまだまだ1時間は優にあろうかという時刻ですが、体の方はもうすっかり目覚めていて、もはや積年あこがれの「二度寝」など考えられないような覚醒状態にあり、家人が起き出してくるまでの数時間は、読書をしようが、ゲームをやろうが、you tubeに嵌まろうが、なんだってできる、まさに自分だけの解放区なわけですよね。Webで見られるお手軽映画なら、優に2本はいけそうな時間です。

さっそく「クリック・クリック」で検索を始めました。

ハハーン、gyaoで大曾根辰保の「大忠臣蔵」がアップされていますね、こりゃまた面白そうじゃないですか、画像には、討ち入りの衣装を着込んだ大石内蔵助の写真が大きく掲載されています、市川猿之助ですか。へぇ~めずらしいなというわけで、スタッフとキャストの記事をチェックしたら、「出演: 高田浩吉, 有馬稲子, 山田五十鈴, 松本幸四郎(初代・松本白鸚), 市川染五郎(九代目・松本幸四郎)」とだけあって、主役のはずの猿之助の名前がありません、これじゃあまるで「松本幸四郎(初代・松本白鸚)」が主役で大石内蔵助を演じているみたいじゃないですか。

松本幸四郎主演の忠臣蔵といえば、名作の誉れ高い「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」のはずです。おかしいじゃないですか、今日は一日中、暇なことでもありますので、ここはじっくり調べてみることにしました。
この1950年代に撮られた大曾根辰保監督「忠臣蔵」といえば2本あって、1957年製作がこの猿之助主演の「大忠臣蔵」で、松本幸四郎作品は、1954年に製作された「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」みたいですよね、まあ、せっかく調べたことでもありますので、その調査結果を以下に掲げておきますね。


忠臣蔵 花の巻、雪の巻(1954松竹・京都撮影所)総指揮・大谷竹次郎、製作・大谷隆三、高村潔、製作補・高木貢一、市川哲夫、監督・大曾根辰夫、脚本・村上元三、依田義賢、撮影・石本秀雄、音楽・鈴木静一、
配役・松本幸四郎・初代松本白鸚(大石内蔵助)、高田浩吉(浅野内匠頭)、滝沢修(吉良上野介)、鶴田浩二(毛利小平太)、北上弥太郎(岡野金右衛門)、高橋貞二(多門伝八郎)、田浦正巳(大石主税)、山内明(片岡源五右衛門)、近衛十四郎(堀部安兵衛)、水島道太郎(不破数右衛門)、薄田研二(堀部弥兵衛)、河野秋武(原惣右衛門)、大坂志郎(武林唯七)、柳永二郎(柳沢出羽守)、坂東鶴之助(矢頭右衛門七)、山田五十鈴(大石妻りく)、月丘夢路(瑤泉院)、淡島千景(浮橋太夫)、桂木洋子(しの)、瑳峨三智子(つや)、幾野道子(安兵衛妻こう)、
1954.10.17 25巻 6,401m 白黒


大忠臣蔵(1957松竹・京都撮影所)総指揮・城戸四郎、製作・白井和夫、監督・大曾根辰夫、脚本・井手雅人、撮影・石本秀雄、音楽・鈴木静一、美術・大角純一、録音・福安賢洋、照明・寺田重雄
配役・市川猿之助・猿翁(大石内蔵助)、市川団子(大石主税)、水谷八重子(大石妻お石)、高田浩吉(早野勘平)、高千穂ひづる(おかる)、坂東簑助(加古川本蔵)、山田五十鈴(戸無瀬)、嵯峨三智子(小浪)、北上弥太郎(浅野内匠頭)、有馬稲子(あぐり・瑤泉院)、石黒達也(吉良上野介)、大木実(清水一角)、永田光男(千崎弥五郎)、市川小太夫(原惣右衛門)、名和宏(片岡源五右衛門)、森美樹(桃井若狭助)、片岡市女蔵(斧定九郎)、野沢英一(与市兵衛)、毛利菊枝(おかや)、小夜福子(戸田局)、戸上城太郎(不破数右衛門)、近衛十四郎(寺坂平右衛門)、市川染五郎(矢頭右衛門七)、嵐吉三郎(落合与右衛門)、伴淳三郎(幇間)、松本幸四郎(立花左近)、
1957.08.10 松竹中央劇場 17巻 4,248m カラー 松竹グランドスコープ


こんな感じです、しかし、「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」に比べて、こちらは「シネマスコープ・総天然色」が売りなだけで、出来としては、やや精彩を欠いた作品とはいわれているものの、渋みのある市川猿之助主演ですから、これもまた大いに楽しみです。

当時、映画批評家・北川冬彦は、「大忠臣蔵」について、こんなふうにコメントしています。
「この『大忠臣蔵』には新たな解釈などいささかもない。これははっきり仮名手本で、歌舞伎的な場面が充満している。映画と歌舞伎との、あまり見事ではないがまあカクテルの味があった。シナリオにはごたごた無駄があったが映画を見て大曾根辰保のシネスコ的コンテの作り方に感心した。それに映画と歌舞伎のカクテルになり損ねていたり、名優猿之助や幸四郎に精彩がなかったのは考えさせられた。映画の演技として右太衛門、千恵蔵に及びもつかないのである。八重子もセリフははっきりしているが表情がいただけない。歌舞伎と映画とが割合ミックスした場面、例えば、一力茶屋の場は画面が充実していてシネスコ的演出を感じた。」(キネマ旬報186号)

まあ、べた褒めというわけにはいきませんが、しかし、こういう批判もまた映画を楽しむためのひとつの材料にはなりますよね、いや、それどころか、一層楽しみが増すってものじゃないですか。

しかし、このとき、ちょっとショッキングな記事も見つけてしまいました。自分が、「名作の誉れ高い」と思っていた「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」が、「それほどのものか」という疑問が投げかけられている記事です。

「この忠臣蔵はあくまでも仇討ではなく、お家の再興という点を強調して描かれた。大石が討入りを決心するのは、決行の5日前くらいとなっている。
4時間に及ぶ長尺だが、いたるところに疑問を感じながら観た記憶がある。とくに大きな矛盾は、大石が討入りすることをすべての人々が知っていて、討入りを決意するのは5日前くらいとなっているが、その間どうして討入り道具が揃ったのか、新解釈もところどころボロを出している。幸四郎の大石もこのときは重厚な演技とはいえなかった。」(御園京平「映画の忠臣蔵」)



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by sentence2307 | 2017-12-29 11:23 | 映画 | Comments(0)

見憶えのある場所

誰しもそうだと思いますが、出勤前の限られたわずかな時間のなかで、素早く支度ができて、しかも忘れ物をしないようにと、あれこれ工夫してきた経験値が積み重なり、なんとなく定着した自分なりの準備のシステムがあります。

靴下・ワイシャツ・ズボン・コート(上着は、すぐに着られるように、すでにコートの中に納まったままです)は、着る順に並べておいて、さらに通勤定期券と財布と携帯電話のセット、それに通勤途中スタンドでコーヒーを買うための小銭(特別に用意しておかないと、その場になって小銭探しで慌ててしまうので)も、ジョギング用キャップの中にまとめておきます。

これで、服を着る流れ作業のなかで、通勤必須の小物も各ポケットへ滞りなく収められますし、あとはカバンを肩にかけて、いざ出発、「いってきま~す」というわけです。

こうすれば、駅の改札口まできて胸の内ポケットをまさぐり、はじめて通勤定期券を忘れてきたことに気がついて愕然とするなんてこともありません。

なにしろ限られた毎月の小遣いなので、そのたびにキャッシュで電車賃を払っていたら、それこそたまりませんものね(モロ昼食代に影響します)。

これは幾度かの過去の痛い経験がつちかった朝の習慣といえますが、大げさに言えば、経験が生んだ個人的な「文化」みたいなものでしょうか。

あっ、そうそう、もうひとつ忘れていました。なにしろ自分は極度の「活字中毒」なので、なにか読むものを携帯していないと落ち着きません、必ずカバンのなかには本を入れておきます。電車に乗っているときなどのちょっとした空き時間でも、ぼんやりしているのがなんだかもったいない気がして、本を開いて活字を追っていると、その方がとても落ち着くのでそうしているのですが、それならスマホでもいいじゃないかというと、そうはいかないのです。

最初からただの情報収集というのが目的なら、そりゃあ、あのぶつ切りの味気ない記事(針小棒大・白髪三千丈みたいなツギハギ・デッチあげの得意なライターの顔が見えるようです)を次々と読む空しさにはどうしても耐えられません、活字になにを求めるかという問題なので、なにも空しさを感じないというのであれば、なにもわざわざ自分だって「活字中毒」なんぞにならなかったと思います。

さて、そんなある朝、さあ出かけるかというときになって、カバンの中の本が昨日読了したものであることに、そのときになってはじめて気がつきました。しまった、チェックするのを忘れていた! という感じです。

もはや本棚の本をあれこれ選んでいられるような状況でもないので、著者名なんて確かめることもなく、なるべく薄くて軽そうで、表紙のデザインも明るめの本を選びました。

たまたま手にしたその本の表紙は、なんだか、いわさきちひろ風な絵で、見るからにホンワカした印象の本です、薄さも十分、これなら、あとであらためて精選する次に読む本のツナギには十分だろうという感じでカバンに収めました。

電車に乗り、その日は運よく座席に座れたので、さっそく仕込んできた本を取り出しました。

著者は安達千夏、未知の作家です、そして書名は「見憶えのある場所」(集英社、2007.2刊、140頁)となっています。

この本を買った記憶が、まったくないので、たぶん妻が、読んだあと自分の本棚に勝手に並べた本だと思います。

パット見、乱雑に見えるかもしれませんが、自分なりの分類法はあり、それなりの整理をしているつもりの本棚です、勝手にそういうことされると困るんだよな、とかなんとか思いながら読み始めました。

結論からいうと、びっくりしました、物凄い書き手です、母と娘のどろどろの深刻な葛藤を、まさに辣腕で読者を物語の渦中にぐいぐい引き込みます。

退屈な通勤時間を埋めればそれで十分という思いで手に取った軽めの読み物という先入観があったので、衝撃はなおさらだったかもしれません。

心覚えのために、ちょっとあらすじを書いてみますね。

母親・菜穂子は、以前、一流商社に勤めていた元バリバリのキャリアウーマン、結婚し娘ができたことで仕事を辞めなければならなかったことを悔い、そのことをひどく腹立たしく思っています。

こんなに優れた自分が、よりにもよって自分より遥かに劣ったこんなつまらない男=夫・三樹夫やぐうたら娘・ゆり子のために、輝くような自分の将来を犠牲にさせられたことに苛立ち、ことあるごとに家族を罵しります(もうひとり息子がいますが、我関せずの態度の彼には、なぜかホコサキは向かず、彼女からの罵倒の非難を免れています)。

最初、夫に向けられていた執拗な非難は、ついに妻・菜穂子の「出ていけ!」という罵りの最後通牒により、夫が家を出ることで一応終結し、次なる罵りの対象は娘に向けられることになります。

物語は、ここから始まっている感じです。
親の期待にことごとく応えることのできなかった娘は、さらにシングルマザーとなって、娘をひとり抱えながらスーパーのアルバイトで食いつないでいる始末で、このことも母親の苛立ちをさらに募らせています。

スーパーで働いている間、子供を母親のもとに預けているゆり子は、毎夕、母・菜穂子の家に娘を引き取りに行き、そのたびに辛辣な嫌みをいわれますが、彼女はただ薄笑いを浮かべて耐えるしかありません。

劣った娘という負い目があるうえに、彼女には、母親から受けた暴力・虐待の記憶があって、それがトラウマとなっていて、完全無欠の強い母親にどうしても言い返せないでいるのです。

しかし、ある夜、娘・ゆり子は、このままではいけないと自立するために、母・菜穂子への反抗を決意します、その母娘が言い争う迫真の場面を、ながくなりますが、心覚えのために以下に写しておきますね。


《菜穂子が、眉根を寄せた。
「あれだけしてやったのに、どこに不満があるっていうのよ」
「してやったこと」を並べ立てる。正月や七五三の晴れ着、盆の花火大会の浴衣に学芸会の手作りのドレス、欠かさなかったお誕生会、春夏冬のまとまった休みには泊まりがけの旅行、プールに海水浴に遊園地に動物園、ハロウィン、クリスマス、そして、世間では流行っているものなら、頼まれなくても買い与えてやった。
「よその家でやるようなことはすべてしてやったわ」
そうね、してやった。ゆり子は即座に認め、でも、と穏やかに切り返す。
「あなたは私を殴った。蹴った。踏んだ。罵った。嫌みも絶妙よね。楽しそうにしてたり、喜んでたりする時に、挫くの。嫉妬に狂ったら、相手を惨めな気持ちにさせなゃ気が治まらない。ああそうそう、私の笑ってる顔が大嫌い。見てるとむしょうに腹が立つ、って真顔ではっきり言ってたものね? 一生の汚点だ、産むんじゃなかったと後悔してる、って。なにしに来たのとさっき訊いたわよね。この話をしに来たの」
さっきまで私自身もよくわかっていなかったけど、とゆり子は胸の内に呟いた。菜穂子はしきりと瞼をしばたたかせ、白っぽいストッキングの脚を組み替えると、「なによ」とちいさく、震え声で言った。ゆり子は声を荒げもせずに続ける。
「百点の答案を持って帰ると無視して、機嫌がわるくなって、九十点ならバカだブタだイヌだと罵って上機嫌に自慢話してたよね、さっきみたいに。自分は頭がいい、勉強なら誰にも負けない、いつだって一番、って千回も聞いた。こんな試験私なら間違いなく百点しかとらないわ、って小学生相手に敵愾心燃やしてたの憶えてる? どうして、そんなにも劣っている娘がライバルなの? どうして、私を陥れなければ安心できないの? 私なら私なら、って、もう聞き飽きた。昔話はいいから、なにができるかやってみせてよ」
淡々とゆり子は語った。仕事のことだけど、と視線を背けている母親の顔を、ゆっくり覗き込む。
「千草を食べさせるためならなんでもする。私にはこんな家はないし、生活費を振り込んでくれる夫もいない。今の仕事は、待遇に満足とはいえないけど、誰かがやるべきことを誇りを持ってやろうって思ってる。でもあなたは私と違う。TOEICとか国家資格とかご立派な試験を受けて、優秀さを証明して、30年も前に辞めた商社の海外駐在員だの、テレビの気象予報士だのになれる日を夢見てたらいい。私は止めないから。ただし、成田の到着ロビーで、外タレの来日待ちしてニュースに映り込むなんてことは恥ずかしいからやめてください」
ぶん、と勢いよく腕を振り抜いてから菜穂子は驚く。娘を殴った手の、しびれる痛みにまで気がまわらず、殴られた娘の姿を見てなにをしたか悟る。ゆり子は頬をかばうこともせず、体勢を戻して、それから、とひるまずに言葉を継ぐ。
「他人の仕事を馬鹿にするのも結構だけど、どうして私なんかと比較して、勝った勝ったって喜べちゃうの?」
私はあなたのネガとして育てられたのに。斜めにうつむけた頬と唇には、乱れた髪が張りついている。ねえ母さん、と呼ぶ下唇から細く血が伝った。
「完璧な家庭を作れ、なんて誰があなたに頼んだ? 誰もこんな家になんか興味はないのよ」
二発目は、それと意識して手を出した。忌まわしい分身を力いっぱい殴りつけ、打ち砕きたかった。頬を張り、左手で首根っこをつかむと右で喉首を、体重をかけひと息に床へ押し倒し、とにかくつかまえておこうと夢中で両手に力を込める。息が詰まりゆり子はあえいだ。もがく脚がテーブルを蹴り上げ、横倒しになった天板のガラスが派手な音を立てて割れる。苦しさから逃れようと、首をしめつけてくる手指を引きはがし、身体ごと抜け出そうとしたゆり子は勢いあまって、木製の電話台に肩をしたたかに打った。電話機が床へ落ち、切手シートが見開きの状態で膝に載る。
乙女チックなラブシーンのスチールを、ゆり子は咳き込みながら見下ろし薄笑いを浮かべた。菜穂子にはそう見えた。乱れ髪をつかみ、激しく揺さぶり、引きずり倒し、まるで昔のように、肩といわず腰といわず足蹴にした。
憤りが昂じれば昂じるほど、激しく責めたならそれだけ、ゆり子は菜穂子のなすがまま、逃れようと試みはするが、殴られても蹴られても決して刃向かおうとはしなかった。両腕で頭をかばい、壁際へ後退って、背を丸め、そうしていればやがて消えてしまえるとでもいうように、ちいさくちいさく四肢を引きつけ縮こまる。幼い頃にも、今も、娘は無力で、泣き叫びもしないそのさまがますます菜穂子の熱をあおった。突き飛ばすなり、腕や脚をはらいのけるなり、哀願や、逆襲すら可能だろうに手も足も出そうとせず、なにも起きてはいない、痛みはなにも変えないといわんばかりに身を晒し、菜穂子を否定する。
「虫ケラのくせに。馬鹿にしやがって、どいつもこいつも、私を見くびって馬鹿にしてる」
この娘は、私を否定するために生まれてきた。
「思い知ればいい。なにものでもないって、生きていてもしようがないって。こんな女、誰も相手にしない。いても、いなくても、誰も気づきもしない」
ゆり子を罵る言葉は、そのまま、菜穂子がひた隠しにしてきた想いだった。ゆり子にはそれがわかった。涙が溢れた。哀しくて、それも、自分自身のことではなく菜穂子の言動が憐れでならないから、別離の痛みにじっと耐えていた。もう、この人とうまくやっていこうなんて思うまい。だが菜穂子は、謝りなさい、と吼えるように命じている。さあ顔を上げなさい、謝るのよ、言うことを聞かぬのならと菜穂子が腕を伸ばし、ゆり子の髪をつかみ頭を引っ張り上げようとした時、けたたましい電子音が空気を震わせた。》



まあ、とにかく、久々に読書に集中できた充実した通勤時間でした。幸い乗り過ごすこともありませんでした。



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by sentence2307 | 2017-12-16 14:48 | 徒然草 | Comments(0)



原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」と邦題「アイヒマンを追え!」では、見る前の観客に相当見当違いな、あるいは、誤った先入観を与えてしまったのではないかと危惧しています。

その副題の「ナチスがもっとも畏れた男」だって、原題の不正確さを補完するために慌てて付け足したかのような蛇足感をまぬがれません、かえってメイン・タイトルが言葉足らずなことを、逆に証明してしまっているようなもので、それだけでも責任ある命名者(興行者)として作品のイメージをそこない、さらに営業戦略としても、ずいぶんな失策だったのではないかと思いました。

自分の受けた感じからすると、これは単に「フリッツ・バウアー」(どうあろうと、この映画の主人公なのです)という名前を出すよりも、世間的に遥かに浸透している「アイヒマン」とした方が、宣伝効果があるに違いないという短慮から、このような見当違いな邦題の命名に至ったというなら、それは、この作品に対する根本的な認識不足というしかありません。

原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」を「フリッツ・バウアーをめぐる状況」とでも訳すれば、このサブ・タイトル「ナチスがもっとも畏れた男」の方だって、相当あやしいものになってくると思います。

だってそうですよね、この原題が指向しているものは、戦後、いまだに国内の司法にはナチの残党・抵抗勢力が残っているという中で、ナチの戦争犯罪を追及しょうというユダヤ人検事長の苦労話なわけですから、ここで描かれているものは、少なくとも「人=アイヒマン」なんかではなかったというのが本筋です。まあ、言ってみれば、アイヒマンという設定は、ユダヤ人検事長にとっての「困難な状況」を説明する単なる素材にすぎなかったわけで、タイトルに掲げられた「アイヒマン」を注視していた観客には、見当違いの道しるべを与えられたような、なんとも迷惑な話だったかもしれません。

それは、検事長の職務にあるフリッツ・バウアーが、ブエノスアイレス市民からの投書によって、アイヒマンが彼の地に潜伏しているらしいことを知り、それが本人であるという更なる確証を得たあとで、検事長としての権限でドイツ本国に連行し裁きを受けさせたいと上申したときに、強硬に拒否された抵抗勢力(当時のドイツ司法に占める多数の元ナチス党員や関係者たち)のことを「状況」と表現しているのですから、それを「アイヒマン」という見当違いな人名をタイトルの前面にだしてしまったら、タイトルに引きずられた観客が戸惑い幻惑されるのも、そりゃあ当然のことだったと思います、「作品を損なう」と言われても決して言い過ぎなんかではない、むしろ「暴挙」とさえ言い得るタイトルの命名だと思いました。

検事長フリッツ・バウアーがユダヤ人であるために国内で受けなければならなかった困難が、具体的な数字として残されています、つまり、当時の西ドイツ司法部(裁判官と検察官)には戦前からの元ナチス党員・関係者というのが、まだ1,118人いたと、東ドイツのキャンペーンの数字としてwikiには記載されています。(注)


(注)「だが実際には1945年のナチス党の解散時にナチス党員は約850万人、協力者は300万人以上にものぼっており(合計で当時のドイツ総人口の約2割)、また官僚や政治家、企業経営者など社会の中核をなす層にも浸透していたことから、ナチスの追及は敗戦で荒廃したドイツの戦後復旧を優先した結果としておざなりなものとならざるを得なかった。加えて直接の関係者はもとより親族などの反対もあり、ナチス追及は不人気な政策であった。
1950年代末には、西ドイツに対して「血に飢えたナチ裁判官」キャンペーンが東ドイツで行われている。そこでは元ナチス関係者(党員か協力者)の裁判官や検事など司法官僚が1,118人も西ドイツにはいると非難されており、これらの元ナチス司法官僚はナチスの追及に大きな障害となった。最終的に有罪になったナチス関係者は、罰金刑のような軽い罪を含めても6000人あまり、関係者全体の0.06%に過ぎない。」


当時のドイツにおけるこの元ナチの残党1,118人という数字が意味する「逆境」において、「ナチの戦犯を追及」することの困難と、公正な法の支配とその執行など、そもそも最初から望むべくもなかった状況にあったことは明らかでした。

だからこそ、フリッツ・バウアーは窮余の一策として、ドイツ国内法の「国家反逆罪」のリスクを負ってまで、秘密裏にイスラエルの秘密警察モサドに助力を仰がざるを得なかった、そして、この事実(第三国への協力と通報の行為)が明らかにされたのが、彼の死後数十年も経ってからのことだったと、この映画の最後で語られていました。

自分は、このナニ気に付け足された「彼の死後数十年も経ってから」という部分に強く惹かれました。

つまり、「数十年経たなければ」このユダヤ人検事長の犯したドイツにおける「国家反逆罪」の嫌疑は薄まることなく、ずっと有効だったわけで、いまになってやっと語られるこの「美談」風な衝撃の事実は、逆に、彼が生きている限りは容認されなかったし、彼が死に、さらにその影響が薄らぐまで語るのを憚られてきたということのアカシにほかならないと理解してみました。

このシチュエーションを日本に当て嵌めて考えてみれば、その「トンデモナサ」は明らかですが、フリッツ・バウアーのしたことは、「他国」と気脈を通じ、そして利するために「自国」を裏切るという背信行為なのであって、少なくとも、国家から国の秩序の安定をはかるために全面的に権力を託された検事長・公務員にとって(この全面的な権力の委託=なんでもできる強権を受諾する見返りが、国家への限りない忠誠でなければ)、その裏切り行為は、とても深刻な事態だというしかありません、たとえそれが「一民族の正義」のために行われたことだったとしても、みずからの属する国家を一蹴し、あるいは飛び越えるという違和感は、どうしてもぬぐえません。

それは「正義」のために躊躇なく決行した第三国への協力・通報の行為(裏切り)は、この映画にあっては、称賛されこそすれ、いささかも問題にされていないという視点です、そこに自分はこのストーリーにも、このフリッツ・バウアーという人物にも、嫌悪に近い限りない違和感をもちました、この映画には、わが意に反して生きなければならない者の、迷いや葛藤はことごとく無視され、「正義は我にあり」という被害者意識に満ちた踏み絵をかざし、讒言と密告も、そして国家ぐるみの誘拐も拉致も当然視され、そのうえでなされる裁判と処刑も、何でもアリという、目をそむけたくなるような思い上がりに対する、限りない嫌悪です。

それは、最後のこんな場面でも感じました。

フリッツ・バウアーが協力を要請した部下の検事・カールが、同性愛者のクラブ歌手との淫行(「彼女」に嵌められたのですが)の写真を盗撮されて当局に脅迫され、屈服しないカールはやがて自首します。

カール検事を拘束したと上席検事クライトラー(ナチ側です)からの報告を受けた検事長フリッツ・バウアーとの素っ気ない会話が、この映画のラストで描かれています。

カール検事拘束の報告を聞いて、検事長フリッツ・バウアーはこう言います。

「考慮したまえ。彼は猥褻行為に及んだが自首したんだぞ」

「本件に、なにか拘りでも?」

「ない、仕事に戻りたまえ」そして「覚えておけ。私は自分の仕事をする。私が生きている限り、誰にも邪魔をさせん」

たった、それだけ!? あんたねえ、仮にも無理やり協力を強いて働かせた部下なんでしょ、抵抗勢力を抑えてあれだけのことができたわけですから、検事長の権限でオカマの検事ひとりくらい助けるくらいわけなくできそうなものじゃないですか。

彼のこの冷ややかな対応は、「自分にもそのケはあり、国外でやらかすなら罪にならないぞと、だから国内ではアレは決してやるなよってあれほど言ったろう。ドジ・まぬけ・バカヤロー」くらいしか窺われません。

わが身可愛さで、結局彼は、のうのうというか、ぬけぬけと職務を全うしたっていうじゃないですか。

なんか他に言いようがないんですかね、言うに事欠いて「私は自分の仕事をする」だって?
アホか。
役に立たなくなった人間は、そうやってどんどん切り捨てて、戦犯追及の大義名分のもとに、ぬけぬけと自分だけ生き抜いていくというわけですか。なるほどね。あんたという人も、この映画も、よく分かりました。


この小文を書くまえに、手元にあるアイヒマンについて書かれた幾つかの論文に目を通しました。

そのなかのひとつ、広島大の牧野雅彦という人が書いた論文「アレントと『根源悪』―アイヒマン裁判の提起したもの―」(思想2015.10)のなかに興味深い部分があったので、どこかで活かせるかなと思いながら、念のためにタイプしておいたのですが、結局、活用する機会を逸してしまいました。

むげに捨てるのも、もったいないので、「参考」として記載することにしました。

「悪事をなす意図を前提として始めて法的責任と罪を問うことができる―意志を持たず善悪の弁別能力を持たない無能力者は処罰の対象にならない―というのが近代刑法の原則であるとするならば、アイヒマンの犯罪はそれを超えた―いやそれ以前の、というべきか―いわば世界とその法的・道徳的秩序そのものを破壊するような悪なのであった。そうした悪に対しては極刑をもって対する以外にない。アレントは仮想の裁判官に託してアイヒマンに対して次のような裁きを下している。

『君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては、服従と指示とは同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他の幾つかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む・あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように・政治を君が支持したからこそ、何人からも、すなわち人類に属す何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないと我々は思う。これが君が絞首刑にならねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。』」

あらためて読んでみると、論旨は至極まっとうで、やはり、自分のコラムのなかに、この文章を生かせる箇所は、なかっただろうなという思いを新たにした次第です。自分もやはり、当初、タイトルの「アイヒマン」に引きずられた被害者のひとりにすぎなかったことを示している見当違いな残骸を前にして、しばし呆然の感じでいたかもしれません。

(2015ドイツ)監督脚本・ラース・クラウメ、製作・トマス・クフス、脚本オリビエ・グエズ、撮影・イェンス・ハラント、美術・コーラ・プラッツ、衣装・エスター・バルツ、編集・バーバラ・ギス、音楽・ユリアン・マース、クルストフ・M・カイザー、製作・ゼロ・ワン・フィルム、原題・Der Staat gegen Fritz Bauer

出演・ブルクハルト・クラウスナー(フリッツ・バウアー)、ロナルト・ツェアフェルト(カール・アンガーマン)、セバスチャン・ブロムベルグ(ウルリヒ・クライトラー)、イェルク・シュットアウフ(パウル・ゲプハルト)、リリト・シュタンゲンベルク(ヴィクトリア)、ローラ・トンケ(シュット嬢)、ゲッツ・シューベルト(ゲオルク=アウグスト・ツィン)、コルネリア・グレーシェル(シャルロッテ・アンガーマン)、ロベルト・アルツォルン(シャルロッテの父)、マティアス・バイデンヘーファー(ツヴィ・アハロニ)、ルーディガー・クリンク(ハインツ・マーラー)、パウルス・マンカー(フリードリヒ・モルラッハ)、ミヒャエル・シェンク(アドルフ・アイヒマン)、ティロ・ベルナー(イサー・ハレル)、ダニー・レヴィ(チェイム・コーン)、ゼバスティアン・ブロンベルク(ウルリヒ・クライトラー)、


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by sentence2307 | 2017-12-09 17:50 | 映画 | Comments(0)