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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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このところ「映画について書く」というモチベーションが著しく低下しているのが自分でもはっきりと分かります。

「このところ」というのを、期間で限定すれば、「韓国・平昌で開かれたオリンピックの一連の競技をテレビで観戦していた期間」ということになるでしょうか。

そして、その期間で見た映画というのを具体的にあげれば、例えば「猫なんか呼んでもこない」とか「ラ・ラ・ランド」、「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」「プリズン・エクスペリメント」(これなんか無理して見続けたことさえ後悔しています)、「コードネーム:ホレッツ」(前作で既にキレていたので、こちらは途中で見るのをやめました。なにも無理して見ることもありませんし)で、そうそう、見たということを記憶・記録として書き留めておくことさえ嫌悪を感じる「珍遊記」というのもありました。

まあ、「珍遊記」に関して言えば、その少し前に中国映画「人魚姫」という破天荒な作品を見てそのハチャメチャ振りに抱腹絶倒、あそこまで徹底していればもはや「芸術の域」に達したも同然と関心した余韻もあり、このジャンルの映画に対してとても無防備になり過度な期待をもってしまいました、これはそもそも柳の下に2匹目の泥鰌を期待した自分の方が悪いので、文句を言う筋合いではないのかもしれませんが、よりにもよってあんな愚劣な映画「珍遊記」など作らなくたっていいだろうという腹立たしさというか、いずれにしても結局は「嫌悪感」に行きついてしまうという惨憺たる映画でした。

でも、ここにあげた鑑賞リストのなかには、オスカー受賞作やメディアで大きく取り上げられた話題作「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」(いつもの自分ならトレンディな「宮沢りえ」ネタでなにかちょっとしたものを書けたかもしれませんが、映画自体は、宮沢りえに肝っ玉かあさんは似合わないだろうという印象にとどまりました)もあるわけですから、すべての作品に対して「嫌悪感」とか「愚劣」とかがあてはまるわけではないのですが、いずれにしても、どの作品も自分のモチベーションをあげるのには正直もうひとつなにかが足りなかったという感じでした。

あっ、そうそう、1本だけリストに入れるのを忘れていた作品がありました、たまたまインターネットで佐藤祐市監督の「シムソンズ」2006を流していたので、加藤ローサが懐かしくて見てみました(しかし彼女、決して過去の人なんかじゃなくて、タントCMに出ていることをあとで知りました)、その見た理由というのは、「懐かしさ」というのもひとつありますが、むしろ平昌オリンピックで銅メダルを獲得したカーリング女子の吉田夕梨花選手がエキストラとして出演していると聞き、ぜひその場面を見てみたいというのが主たる動機です。

結果は、残念ながら彼女を発見することはできませんでしたが、しかし諦められず、ネットで「ヒント」となるものを探しまわったのですが、やはり的確な情報を見つけることはできませんでした、その代わりに2006年というと彼女が13歳くらいだと知り、いまの成人したイメージに捉われていたために見つけ出せなかったのかと遅ればせながら納得しました。

自分をその映画「シムソンズ」に引き寄せたものは、今回の平昌オリンピックのカーリング女子、日本対イギリスの3位決定戦でイギリスの最後の一投が微妙にズレ日本の石がナンバーワンになるというあの奇跡の絶叫「ナンバーワンは、日本だ!」から影響されたものなのですが、この銅メダルに至るまでの彼女たちの選手としての軌跡がすこぶる陰影に富んでいて、あまりにもドラマチックなのと(もちろんブームに乗った部分もありますが)、you tubeなどで彼女たちのことを部分的に知るにつれて、この期間に見た映画という映画(「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」)がことごとく色あせて見えてしまったことと、あるいは関係があるかもしれません。

吉田知那美と吉田夕梨花が姉妹であることと、彼女たちの母親がカーリング選手だったので、この姉妹が小学生から自然にカーリングに親しんだことはTV中継のなかで幾度も紹介されていました。

そして、彼女たちが中学生のときに結成した「常呂中学校ROBINS」(吉田姉妹のほかに同級生の小野寺佳歩と鈴木夕湖)が、日本カーリング選手権に出場し、トリノオリンピック日本代表だった「チーム青森」に予選リーグで勝ち星を挙げて大々的に報じられ中学生旋風を起こしたことは薄っすら記憶しています。ちなみに、ロコ・ソラーレ現コーチの小野寺亮二は、小野寺佳歩の父親です。

敗れた「チーム青森」の小笠原歩選手も常呂町出身で、自分が育成した「常呂中学校ROBINS」の少女たちを「末恐ろしい中学生」とコメントしています。その「チーム青森」には本橋麻里も在籍していて、「常呂中学校ROBINS」に負けた瞬間の場面をいまでもyou tubeで見ることができますが、そこには勝利を喜ぶ吉田知那美や鈴木夕湖の背後で、呆然とたたずむ小笠原と本橋の姿が映し出されていました。

その本橋の呆然とした表情なら、もう一つ見た記憶があります、LS北見がオリンピック代表選考戦で中部電力に敗れた場面、敗れた本橋麻里が表情を硬くして、勝利し満面笑みをたたえた中部電力のスキップ・藤澤五月と顔を背け合って氷上ですれ違う場面です、勝負に生きる者なら当然のことですが、やはり、時を経てやがてオリンピックで共に銅メダルを獲得し、抱き合って喜びを分かち合っていた姿を知っている現在から見ると、いずれもとても違和感のある場面です。

しかし、その本橋の表情には、「負けたショック」とともに、「常呂町」出身者同士が郷土の誇りとは違う部分でぶつかり合わなければならない状況への割り切れない戸惑いが窺われるような気がします、そこには、やがて本橋麻里が常呂町に戻ってロコ・ソラーレを立ち上げる動機のようなものが潜んでいたのかもと見るのは、都合のいい思い込みかもしれませんが。

その「常呂中学校ROBINS」の生徒たち、吉田知那美・小野寺佳歩・鈴木夕湖らを担任していたのは、のちにチームメイトとなる藤澤五月の父親で、また、ROBINSの選手・鈴木夕湖と藤澤五月とは、父親が従兄弟同士のはとこにあたるなど、知れば知るほど奇縁で結ばれており、まるでご都合主義のフィクションのようで、you tube閲覧にもついつい熱が入り嵌まり込んでしまいました。
 
いえいえ、これだけなら傑作・秀作・名作の「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」を差し置いて「ロコ調査」に熱中なんかしやしません。

「ロコ・ソラーレ」加入に至る選手たちの軌跡が、これまたさらにドラマチックなのです。

まず、いかにもアイドルみたいな容貌の創設者・本橋麻里、かつて、カーリングという競技に対してではない部分で「カーリング・ブーム」が巻き起こった際、メディアの関心のされ方に違和感と危惧と反発を漏らしていた彼女の印象が、もうひとつリアルさに欠けているという印象を持ったのは、彼女の「化粧好き」にあったのかもしれません。

「なんだか言っていることと、していることと矛盾してね」という感じです。

オリンピック期間中、藤澤五月のことを天才スキップと称されていたことが紹介されていましたが、それを言うなら中学生にしてオリンピック代表「チーム青森」を倒した吉田知那美だって十分に天才だと思いますが、しかし、ひとつの信念から無の状態のチームを立ち上げ、わずか10年たらずでオリンピックのメダル獲得にまで到達させた本橋麻里の手腕は、選手としても経営者としても管理者としても、まさに天才といってもいい業績だったと思います、少なくとも実業団チームでは為し得なかった快挙です。実業団チームが為し得たことは、実力ある選手を戦力外として見放し、使い捨てて、その管理者としての無能ぶりを後世に伝え世界の笑いものになることくらいがせいぜいだったわけですからね、北海道銀行さん。

そして、「ロコ・ソラーレ結成」から今回の「凱旋会見」まで、今回you tubeをいやというほど見て、はじめて気が付いたことがありました。

数々のタイトルをとり、華々しい戦歴を重ねて十代でオリンピック出場を果たして、その「オリンピック出場・メダル獲得」という視点は常にぶれることなく、もうひとつのコンセプト・郷土愛(「正解」のような気もしますが、スポーツの世界にあっては、ローカルにこだわることは資金面や人的資源からみて、とてもリスキーな賭けでもあります)を前面にだして「ロコ・ソラーレ」を結成して、マイナーな場所(常呂が「聖地」といわれながら、それを本気にしている人など誰一人いなかったのではないかと思います。)にこだわって出発した彼女にとって、「化粧」は、その「微笑」や「涙」と同じように、他人から不安や本心、素顔や内面を読まれないようにシャッタアウトするための仮面=武装なのだと。彼女にあって、たとえそれが「号泣」や「歓喜」や「驚愕」のように見えても、いや、故郷から遠く離れ、故郷を失ったうえで、他国で勝利の栄光をあびることの無意味と空虚と苛立ちを、彼女の「化粧」が、しっかりと覆い隠していて、本当の部分までは分からない、どこか冷めている印象を受けるのは、たぶんそのためだったと思いますし、メダル獲得後に「芸能プロダクションと契約してブームにのって荒稼ぎ」という噂を一蹴したのも、彼女のブレのなさと強い意志とを感じました。

吉田知那美がソチ・オリンピック終了直後、コーチからキミは来季の構想にないと戦力外を言い渡され、その直後の会見で、「私が能力以上の場所に身を置けたのは自分の貴重な財産ですし・・・」と話しながら、突然絶句し、言葉を発せられないくらいの嗚咽に身を震わせはじめる映像でもっとも印象的なのは、その明らかにブザマな嗚咽を取り繕うかのように瞬間にみせる彼女の不自然で痛ましい微笑です。そのとき、その無防備な嗚咽は、まるでいじめにあった弱々しい中学生という印象を受けました。実は、その通りだったのですが。

郷里の凱旋会見で「いまは、ここ(常呂)にいなければ、夢は叶わなかったと思います」というコメントは、故郷にいたのでは夢は叶わないと一度は故郷を捨て、しかし、都会で企業から使い捨てという過酷な仕打ちを受けてすべてを失い、追い立てられるように失意の中で帰省した彼女の、しかし、その逆境を跳ね返した以前とは打って変わった力強い本音だったからこそ、多くの人に感銘を与えたのだと思います。

笑顔こそが最強の武装・武器になると本橋麻里から学んだ吉田知那美の「悟り」だったのだと思いました。

中部電力のスキップ時代の藤澤五月の映像を見ていると、今回の平昌オリンピックの氷上でプレイしている見違えるくらい美しい藤澤五月が、同一人物とは到底思えないくらいの違和感を覚えます。

重圧のもとで投げられた最後の一投が軌道をはずれ、目指す石に掠ることもなく、むなしく流れる石の行方を呆然と見つめるあの素顔の悲痛な表情は、平昌オリンピックの氷上ではどの試合においても見つけ出すことはできませんでした。

自信にあふれ、追い詰められた局面でも微かに微笑み、氷の状態をもういちど仲間と確認し、とにかくゆっくり投げ出せば、リードとセカンドがスウィーピングでいい位置に運んでくれるという余裕さえうかがえます。

そこには、かつて中部電力時代に、責任をひとりで抱え込み、仲間の慰めを拒むような切迫した孤立感で氷上に呆然とたたずむ彼女の姿は、平昌オリンピックにおいては、もうありませんでした。

失敗を引きずらない強さと、チームワークと世界を振り向かせた美しさ(の武装)もまた、本橋麻里から学んだものに違いありません。

この小文は、北見市で行われた凱旋パレードをyou tubeで見ながら書きました。北見市でおこなわれた凱旋パレードのあと、市民会館の報告会で、吉田知那美は、パフォーマンスではなく、カーリング選手としての自分たちの姿を見て欲しいと涙ながらに訴えた姿が印象的でした。




by sentence2307 | 2018-03-21 17:22 | カーリング | Comments(0)

【1986年】本橋 麻里
北海道北見市(旧常呂郡常呂町)で生れる。


【1991年】藤澤 五月
5月、北海道北見市美山町で生れる。
【1991年】吉田知那美
7月、北海道常呂郡常呂町(現:北見市)で生れる。
【1991年】鈴木 夕湖
北海道常呂郡常呂町(現・北見市)で生まれる。チームメイトの藤澤五月とは父親が従兄弟同士のはとこ。
「夕湖」という名前は母が妊娠中によく見に行っていたサロマ湖の夕陽に由来し、夕陽のようにきれいに育って欲しいという想いから名付けられた。身長145㎝と非常に小柄であり、「カーリングちび部部長」を自ら名乗っている。


【1993年】吉田 夕梨花
7月、北海道常呂郡常呂町(現在の北見市常呂町)で生まれる。
母と姉の影響で、5歳でカーリングを始める。


【1996年】藤澤 五月
藤澤五月がカーリングを始めたのは5歳のとき。北見市立常呂中学校の教員で、元カーリング選手にして長野オリンピックの最終候補選手に選ばれていた父にカーリングリンクに連れていってもらったのがきっかけだった(3人きょうだいの末っ子で、兄姉も父の影響でカーリングを始めていた)。同年代の子どもと比べ体が大きく、重さ約20kgの大人用ストーンを操れる天性の技術を既に持っていた。姉曰く、子ども時代から既に「負けん気がすごかった」という。姉と同じ、地元・北見のチーム「ステイゴールドII」でプレーするようになる。
中学1年生のとき、父は「感覚よりも理論を重視する」藤沢の素質を見出し、姉と交代する形でチームの作戦を立てるスキップを任せるようになった。後にチームメイトになる吉田知那美は、練習試合で藤澤のチームと対戦したときに「同い年と聞いたけど、私たちとは比べものにならないくらいうまかった」と思ったという。


【1998年】本橋 麻里
12歳の時に、常呂カーリング協会初代会長・小栗祐治に誘われてカーリングを始める。
【1998年】吉田知那美
常呂町が日本カーリングの本場でもある環境もあり、小学校2年からカーリングを始め、4年次から大会に出るようになる。
【1999年】鈴木 夕湖
小学校2年生からカーリングを始め、このころから同級生の吉田知那美と、その2歳年下の妹である夕梨花姉妹とは一緒にプレーしていた。


【2000年】本橋 麻里
3月、第13回常呂町ジュニアカーリング選手権大会優勝。

【2001年】本橋 麻里
第9回北海道ジュニアカーリング選手権:3位(マリリンズ)

【2002年】本橋 麻里
1月、第10回日本ジュニアカーリング選手権大会優勝。(「マリリンズ」所属・スキップ)。
第19回日本カーリング選手権:2位
3月、第15回世界ジュニアカーリング選手権に出場(スキップ)。最終順位は10位(最下位)。しかし本橋個人はリンク上、またリンクを離れた場所におけるスポーツマンシップの奨励を目的とした「スポーツマンシップアワード」を受賞(出場選手から構成される委員会における投票により、男女各1名が選出される)。

【2003年】本橋 麻里
「河西建設女子」にリザーブとして加入。
第11回日本ジュニアカーリング選手権:2位(マリリンズ)
第22回北海道カーリング選手権大会:優勝(河西建設女子)
11月、第13回パシフィックカーリング選手権大会:優勝。
【2003】吉田知那美
北見市立常呂中学校入学後、2歳年下の実妹である吉田夕梨花、同級生の小野寺佳歩・鈴木夕湖らと共に『常呂中学校ROBINS』を結成しスキップを務める。
常呂中学での担任は、のちにチームメイトとなる藤澤五月の父で、藤澤五月は同じチームの鈴木夕湖とは父親が従兄弟同士ではとこにあたる。

【2004年】本橋 麻里
2月、第21回日本カーリング選手権(女子の部):3位(河西建設女子)
4月、第26回世界カーリング女子選手権大会:最終順位7位。
第14回パシフィックカーリング選手権:優勝

【2005年】本橋 麻里
2月、「青森県協会(「チーム青森」)」から負傷によりチームを一時離脱した目黒萌絵に代わり、第22回日本カーリング選手権(女子の部):2位(青森県協会)
3月、引き続きチーム青森に帯同して第27回世界女子カーリング選手権出場。最終順位は9位。この結果、2006年トリノ五輪カーリング競技における日本女子チームの出場権(同選手権における過去3年間の国別ポイントの累積によって決定される。この場合は03~05年の累積。)を獲得。
4月、青森明の星短期大学に入学。それに伴い「チーム青森」に正式加入。
社団法人日本カーリング協会(JCA)の強化指定選手に選出される。
11月23日、オリンピック冬季競技大会日本代表(女子)選考会に出場。第1戦目で「チーム長野」に勝利し、同五輪カーリング競技日本代表権を獲得。

【2006年】本橋 麻里
2月、トリノ冬季オリンピックカーリング競技女子の部に出場(セカンド)7位入賞。
3月、第23回日本カーリング選手権・優勝。同選手権終了後、「チーム青森」から小野寺歩(スキップ)、林弓枝(サード)の両名が離脱(公式声明発表、同年5月17日)。
5月19日、主力メンバー(小野寺、林)の離脱に伴う「チーム青森」の戦力低下を考慮した日本カーリング協会が、協議により「チーム青森」、「チーム長野」の両者による2007年世界女子カーリング選手権大会日本代表チーム選考会の開催を決定。
5月31日、「GALLOP」(長野県カーリング協会)の山浦麻葉が「チーム青森」に加入。ポジション編成の刷新が行われた同チームにおいてサードに就任。
11月、第16回パシフィックカーリング選手権出場・最終順位3位。
12月17日、2007年世界女子カーリング選手権大会日本代表チーム選考会出場。「全5戦中3勝したチームが代表権を得る」という条件の下、3勝2敗で代表権を獲得。
【2006年】吉田知那美
3月、日本カーリング選手権に常呂中学校ROBINSとして出場し、トリノオリンピック日本代表だった『チーム青森』に予選リーグで勝ち星を挙げ中学生旋風を起こした。
中学卒業後は北海道網走南ヶ丘高等学校へ進学。常呂中学校時代の仲間と共に『常呂中学校ROBINS』からチーム名を『常呂JJ』に改め、引き続き同じチームでプレー。しかしメンバーの進学先が異なっていたこともあり、チーム練習の時間が思うように取れず、中学校時代のような成績を挙げることは出来なかった。
【2006年】吉田 夕梨花
北見市立常呂中学校入学、2歳上の姉(吉田知那美)、姉の同級生だった小野寺佳歩・鈴木夕湖らと共に『常呂中学校ROBINS』を結成。
カーリング映画『シムソンズ』に選手としてエキストラ出演する。
【2006年】鈴木 夕湖
北見市立常呂中学校で吉田姉妹、小野寺佳歩らと共に常呂中学校ROBINSを結成する。中学時代の2006年(第23回大会)と2007年(第24回大会)には北海道代表として日本カーリング選手権大会に出場し2年連続で3位入賞を果たした。カーリングのほか、中学の部活動ではバスケットボール部に所属していた。


【2007年】本橋 麻里
1月、2007年冬季ユニバーシアードトリノ大会カーリング競技出場・最終順位3位。
1~2月、軽井沢国際カーリング選手権大会2007出場。最終順位3位。
2月、第24回日本カーリング選手権優勝(女子の部):優勝(チーム青森)
3月、青森明の星短期大学卒業。
3月、第29回世界女子カーリング選手権大会・最終順位8位(タイ)。
4月、八甲田ホテル(青森市)入社
6月、同社を退社。
7月、NTTラーニングシステムズ株式会社と所属契約を締結(2010年6月までの3年契約)。
「チーム青森」リーダーに就任。但し、第29回世界女子カーリング選手権終了までは寺田桜子が主将、目黒萌絵がスキップをそれぞれ務めている。また、チームにおけるリーダーの定義・役割は明らかにされていない。
11月、第17回パシフィックカーリング選手権出場・最終順位2位。 なお予選リーグ終了時の成績が中国チームと同一であったため、両チーム各4人がストーンを投げ、ハウスの中心までの距離を合計した結果を競う「チームドロー」が行われた。その結果、予選リーグ2位となった日本チーム(「チーム青森」)は、大会ルールにより同3位の韓国チームと世界選手権出場チーム決定戦を行い、これに勝利し、日本女子チームの第30回世界女子カーリング選手権(2008年開催)への出場権を獲得した。
【2007年】藤澤 五月
北海道北見北斗高等学校に進学。スキップを務めて、高校1年生(2008年)、2年生(2009年)の2年連続で、(「チーム北見(ステイゴールドII)」)日本ジュニアカーリング選手権優勝、世界ジュニアカーリング選手権出場を果たす(また、パシフィックジュニアカーリング選手権でも日本ジュニア代表として2大会連続優勝を果たしている)。このときには既に、「天才」の称号を欲しいままにする存在になっていた。
【2007年】吉田 夕梨花
第24回日本カーリング選手権では常呂中学校旋風を起こして3位に入賞。吉田はこの時13歳で当時の日本選手権最年少出場者だった。


【2008年】本橋 麻里
2月、第25回日本カーリング選手権・優勝(チーム青森)。同年3月に開催される第30回世界女子カーリング選手権の日本代表権を獲得した。
2月、軽井沢国際カーリング選手権大会2008・準優勝。
3月、第30回世界女子カーリング選手権出場・最終順位4位。
4月、アドミッションズ・オフィス入試により日本体育大学体育学部に入学。
第18回パシフィックカーリング選手権: 3位
【2008年】藤澤 五月
パシフィックジュニアカーリング選手権・優勝
世界ジュニアカーリング選手権・7位


【2009年】本橋 麻里
軽井沢国際カーリング選手権大会2009: 3位
第26回日本カーリング選手権: 優勝 (チーム青森)
【2009年】藤澤 五月
パシフィックジュニアカーリング選手権・優勝
世界ジュニアカーリング選手権・10位
【2009年】吉田知那美
高等学校卒業後にバンクーバー(カナダ)へ留学。当初の留学目的は語学研修だったが、現地での下宿先が日系人カーリングコーチであるミキ・フジ・ロイ邸であったこともあり、改めてカーリングを学び直す。
【2009年】吉田 夕梨花
北海道常呂高等学校進学後、姉の知那美らと共にチーム常呂のメンバーとして第19回日本ジュニアカーリング選手権に出場して2位となる。
【2009年】鈴木 夕湖
化学エンジニアを目指し旭川工業高等専門学校物質化学工学科へ進学。旭川高専ではバレーボール部に所属し、週末は北見へ戻りカーリングを続けた。同校の富樫巌教授に指導を受け、卒業研究のテーマは「クロカビと黒色酵母に対するラベンダー精油の防カビ効果」。



【2010年】本橋 麻里
第27回日本カーリング選手権: 優勝 (チーム青森)
2月、バンクーバー冬季オリンピックカーリング競技女子の部に出場(セカンド)・8位入賞。
3月、第32回世界女子カーリング選手権出場。サードスキップを目黒、フォースを本橋が務めることもあった。最終順位11位。
5月1日、札幌市で行われたイベントで、2014年ソチ冬季オリンピックに向け現役継続を示唆した。
6月10日、自身の24歳の誕生日に所属のNTTラーニングシステムズと2年間の契約更新を発表し、2014年のソチオリンピックを目指す意思があることを明らかにした。
8月16日、記者会見にてチーム青森からの脱退を発表した。同時に新チーム『ロコ・ソラーレ(太陽の常呂っ子を意味する造語)』を結成すること明らかにした。チームは常呂町を拠点とし、メンバーにはいずれも常呂町のカーリングチームである「ECOE」の馬渕恵と江田茜、「ROBINS」の吉田夕梨花と鈴木夕湖の4人が参加する。
【2010年】藤澤 五月
高校卒業と同時に故郷を離れ、長野県を拠点とする中部電力に入社。職員として勤務しながら、同社に結成されたカーリング部の創設メンバーとなる。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・3位
【2010年】吉田 夕梨花
高等学校2年次にはオリンピック選手の本橋麻里が北見で結成した『ロコ・ソラーレ(LS北見)』に参加した。
【2010年】鈴木 夕湖
7月、高専在学中、本橋麻里が地元・北見市を拠点に結成したロコ・ソラーレに創立メンバーとして参加。のちに「この時マリちゃん(本橋)に誘われてなければ、カーリングを辞めていた」と述懐している。結成初年度には道内の大会で優勝した。



【2011年】本橋 麻里
第28回日本カーリング選手権: 3位 (LS北見)
【2011年】藤澤 五月
入社直後からスキップを務めて、主将の市川美余らと共に、日本カーリング選手権大会を4連覇、また2011年のパシフィックカーリング選手権に日本代表として出場した。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
パシフィックカーリング選手権・4位



【2012年】本橋 麻里
第29回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
【2012】藤澤 五月
中部カーリング選手権・優勝)
日本カーリング選手権・優勝
【2012年】吉田知那美
日本へ帰国後、故郷の先輩であり、日本代表として二大会連続五輪出場の実績を持つ小笠原歩からの誘いを受け、北海道銀行フォルティウスに加入。北海道銀行嘱託行員として銀行業務の仕事もこなしながらのプレーであった。フォルティウスでは主にリード(先鋒)を務めていた。この間、中高生時代の仲間で愛知県の中京大学に進学していた小野寺もフォルティウスに加入、再びチームメイトとなる。
【2012年】吉田 夕梨花
東海大学国際文化学部国際コミュニケーション学科へ進学し、学業と競技を両立させながらの活動を続ける。
【2012年】鈴木 夕湖
第29回日本カーリング選手権では準優勝を果たしたが、結成から3年ほどは全国レベルの大会では好成績を残せなかった。
3月に旭川高専を卒業し、4月に北見工業大学工学部バイオ環境化学科へ3年次編入学。北見工大ではキノコの研究を行い、食品研究室に所属。佐藤利次博士に指導を受け、「組換えシイタケによるラッカーゼの発現とウルシ(Toxicodendron vernicifluum)からのラッカーゼ遺伝子の単離」を共同執筆している。



【2013年】本橋 麻里
第30回日本カーリング選手権: 4位 (LS北見)
9月、どうぎんカーリングスタジアムで行われた全農カーリングソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで3勝3敗、タイブレークとなった中部電力との試合で2-10と敗れて、4チーム中3位となり、3大会連続のオリンピック出場を逃した。
【2013年】吉田知那美
12月のソチオリンピック世界最終予選に臨みオリンピック出場決定戦でノルウェーに逆転勝ちし、オリンピック出場を決めた。このときフィフス(リザーブ)であった吉田は、「(出番がくるのは日本のピンチなので)最後まで出番がなくてよかったです」と笑顔で話した。
【2013年】藤澤 五月
ソチオリンピック出場をかけた9月の世界最終予選日本代表決定戦で、「追われる立場。負けられないプレッシャー」に屈する形で、小笠原歩率いる北海道銀行フォルティウスに敗れて出場を逃した。藤澤にとって、「どうしたらいいかわからなくなった」と思うほどの大きな挫折だった。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
世界女子カーリング選手権・7位


【2014年】本橋 麻里
第31回日本カーリング選手権: 3位 (LS北見)
【2014年】吉田知那美
2月のソチオリンピックでは競技開幕直前に小野寺がインフルエンザにかかったため、代わってセカンドを務めた。
憧れていたカーリング選手スイスのミリアム・オットに高校時代手紙を送り、返信を貰ったことがあり、ソチオリンピック出場時にはその手紙を持参し、オットのスイスと対戦して勝利した。
予選リーグでは9試合中8試合(リード2試合、セカンド6試合)に出場し5位入賞に貢献した。
ところが、ソチオリンピックの日程終了後、まだソチの選手村にいる段階で北海道銀行フォルティウスからの戦力外通告を受けた(最終戦終了後、五輪公園の会議室で通告されたという。)。通告を受けた時には「リンクに上がることさえ嫌(になる状態になった)」「思い出すと涙が出る悔しさ」と語り、ひとり金沢・富山・軽井沢・東京と一人旅を続ける中でさまざまな出会いを得て、「自分の人生はまだまだこれからだ」と自信を取り戻すことができたという。
3月、北海道銀行を退職。吉田自身が「何もない状態で帰って来ました」という失意のもと郷里の常呂へと戻った。無所属となり、大きなショックを受け一度カーリングから離れる決断もしていたが、地元の先輩である本橋麻里から「一緒に日本代表を目指してもう一回やろう」と誘いを受ける。
6月、当初は断ったが、熟慮の末に本橋が率いるチーム、ロコ・ソラーレに加入した。チーム参加を決断した際には「人生を賭けて、このチームで終わってもいいと思うくらいの覚悟でもう一度戦おうと思いました」という。勤務先はネッツトヨタ北見で、オフシーズンには系列の携帯電話販売店での接客業務などを担当する。
【2014】藤澤 五月
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
【2014年】鈴木 夕湖
3月、同大学を卒業。学位は学士(工学)。
大学卒業後は網走信用金庫へ就職したが、業務と競技の両立に悩み、入社から半年での退職を余儀なくされた。郷里の図書館でのアルバイトを経て、ロコ・ソラーレを支援していた北見市体育協会へ就職した。こうした競技続行への不安や失業を経ていることから、その3年後の2018平昌五輪にて銅メダル獲得直後のインタビューでは「(五輪でのメダル獲得を)当初は全く、全く想像してなかったですね こんなこともあるんですねえ、フフフ」と回答している。
同じこの年に、吉田知那美がロコ・ソラーレに加入した。



【2015年】本橋 麻里
第32回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
【2015年】藤澤 五月
3月末、中部電力を退社した。「地元の北海道北見市での活動を検討している」と報道された。
失意を抱きながら故郷の北見に帰った藤澤は、本橋麻里(ロコ・ソラーレの創設者)と会食の機会を持った。その席で、「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という本橋の言葉に心を動かされて、ロコ・ソラーレへの移籍(入団)を決心した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行うようになる。
しかし、移籍後しばらくは練習に思うようについていけず、試合に勝てない日々が続いた。そんなあるとき、「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」という本橋の言葉がきっかけで、前向きな気持ちを持てるようになっていった。そして、ロコ・ソラーレのチームメイトと共に練習や試合を積む過程で、自分が先頭に立ってチームを引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい、頼れる仲間に出会えているから「ひとりじゃないんだ」と考えることができるようになり、自信を取り戻せたという。
パシフィックアジアカーリング選手権・優勝
【2015年】吉田 夕梨花
LS北見のメンバーとして第25回パシフィックアジアカーリング選手権の日本代表決定戦で勝利し、カザフスタンのアルマトイで開催されたパシフィックアジアカーリング選手権本大会に日本代表として出場して中華人民共和国の10連覇を阻止して日本に2005年以来の優勝をもたらした。
【2015年】鈴木 夕湖
藤澤五月がチームに加入してからはセカンドのポジションで出場し、2015年パシフィックアジアカーリング選手権では、優勝をはたす。



【2016年】本橋 麻里
第33回日本カーリング選手権: 優勝 (LS北見)
2016年世界女子カーリング選手権大会: 準優勝 (日本代表)
【2016年】吉田知那美
ロコ・ソラーレでは主にサードを務め、世界女子カーリング選手権大会で準優勝。
【2016年】藤澤 五月
藤澤が自信を取り戻したことで、ロコ・ソラーレは快進撃の道を歩むようになっていく。日本カーリング選手権大会で優勝し、2016年世界女子カーリング選手権大会で準優勝(銀メダル)に輝いた。この世界選手権決勝のスイス戦では、第9エンド終了時点で6-7と相手に1点リードを許した日本代表(LS北見)が後攻で迎えた最終第10エンド、スキップの最終投擲がNo.1に入れば7-7の同点となりエキストラエンド(延長戦)突入という場面で、藤澤が投じたラストストーンがハウスを通過する痛恨のミスショットとなってスイスの前に敗戦を喫して優勝を攫われた。その試合後に藤澤は「最後のショットを決められなかったのは私の責任」と悔恨のコメントを残した。
日本カーリング選手権・優勝
パシフィックアジアカーリング選手権・3位
世界女子カーリング選手権・準優勝
【2016年】吉田 夕梨花
LS北見のメンバーとして2月の第33回日本カーリング選手権で優勝し、世界女子カーリング選手権の日本代表に自動的に選出されると、3月の2016年世界女子カーリング選手権大会では優勝決定戦まで勝ち上がり、スイスとの大会三度目の対決となった優勝決定戦では最終第10エンドまで死闘を演じながらわずかの差でスイスの前に敗れて準優勝となった。
【2016年】鈴木 夕湖
第33回日本カーリング選手権大会で優勝を果たす。2016年世界女子カーリング選手権大会(カナダ・スウィフトカレント)では決勝戦まで勝ち上がり、スイスとの決勝戦では最終第10エンドまで激しい攻防を繰り広げ惜しくも敗戦を喫したが準優勝に輝いた。



【2017年】本橋 麻里
第34回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
9月、アドヴィックス常呂カーリングホールで行われた第23回オリンピック冬季競技大会(2018平昌)平昌オリンピック日本代表決定戦で中部電力を3勝1敗で降し、3度目のオリンピック代表権を獲得。
【2017年】藤澤 五月
2月の札幌冬季アジア大会カーリングでは銅メダルにとどまるが、2017年9月の平昌オリンピック代表決定戦では自身の古巣である中部電力に勝利して、自身初めてのオリンピック出場を叶えた。このとき藤澤は、「4年前に負けてカーリングをやってていいんだろうかと思いました。このメンバーで戦えて幸せ者だなと思います。私以上に周りの人が信頼してくれ、チームメートに支えられたし、五輪に出ていない悔しさがありました。ここからまた五輪まで成長できれば」と涙を流しながら述べた。また、「中部電力がいたからこそ、私たちの成長があった」と古巣に感謝の言葉を述べている。
【2017年】鈴木 夕湖
9月、平昌オリンピック日本代表を賭けた中部電力カーリング部との最終5番勝負の決戦を3勝1敗で制し、ロコ・ソラーレをオリンピック出場に導いた。



【2018年】本橋 麻里
2月、平昌オリンピックではチームキャプテン・リザーブとしてチームを支え、予選を4位で突破した。準決勝では大韓民国に敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初、また冬季五輪史上初のママさんメダリストとなる銅メダルを獲得した。
【2018年】吉田知那美
2月の平昌オリンピックにサードで全試合出場し、日本勢で初めて予選を4位で突破した。準決勝では韓国に敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。
【2018年】藤澤 五月
平昌オリンピックに臨むにあたり、「勝てなくても憧れられる、尊敬されるカーラー」を目指すと心に誓い、「折れない心」を身に付けるためのメンタルトレーニングに取り組み続けてきた。迎えた本番で、藤澤がスキップを務める日本は、開幕3連勝を飾ったが終盤2連戦で藤澤のミスが続き連敗を喫し自力突破が無くなった一方、4位争いをしていたアメリカが破れた為に、結果的にかろうじて予選を4位(5勝4敗)で突破、予選最終戦の対スイスでミスから大敗した為「正直、複雑」と答える。準決勝で韓国に敗れ3連敗となるも3位決定戦でイギリスに勝利し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得。「考えるカーリング」が結実しての銅メダル獲得であることと共に、藤澤は自身が目指した、メダルの似合う「グッドカーラー」になることを叶えた。
平昌オリンピック・3位
【2018年】吉田 夕梨花
2月の平昌オリンピックに出場し、予選を4位で突破した。準決勝では開催国の韓国と対戦して敗れたがイギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。
平昌オリンピックでは試合中に明るく発する北海道方言の「そだねー」が大きな話題になり、「そだねージャパン」の愛称で呼ばれた。
2018年時点では北見市内の医療法人「美久会」に勤務している。同法人の理事長はLS北見のスポンサーのほか馬主としても著名な人物であり、平昌五輪後に自身の馬に「ソダネー」と命名した。
3月、日本ミックスダブルスカーリング選手権に協会推薦枠で男子五輪代表の両角友佑とペアを組んで出場。初戦で敗れるなど、苦戦の連続の中白星を重ねたが、最終戦で妹背牛協会に大逆転負けを喫し、予選リーグ敗退となった。
【2018年】鈴木 夕湖
2月の平昌オリンピックでは、予選リーグを4位で突破した。鈴木は当大会参加のカーリング選手の中で最も身長が低かったが、予選リーグ韓国戦の第8エンドで「4秒間に19往復」させたスイープ力は高い評価を得た。準決勝は韓国との再戦となり延長戦の末敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制しオリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。なお、同大会中では試合中に戦術検討する際に発する「どれくらいだい?」や「そだねー」などの北海道方言での会話が話題となり、「そだねージャパン」の愛称で呼ばれた。特に「~だい?」や「~かい?」という言い回しは鈴木が多用する。




by sentence2307 | 2018-03-21 17:19 | カーリング | Comments(0)

ラジオ体操第一・花柳流

昨日が、ちょうど4月異動の1か月前ということで、多くの会社で「ひそかな内示」があったみたいですね。

自分の所でも、昼休みには、社員食堂やトイレの入り口などで悲喜こもごもの表情の社員たちが、怒気や渋面をあらわにして盛んに立ち話をしている姿(ひそひそ声です)をよく見かけました。

まあ、いつものことで、困難な営業の現場の状況を無視した一方的な人事部の幼稚で身勝手なタライ廻し異動をいくら毒づいてみても、結局は従うしかないのですが、長い時間をかけて汗水たらしてやっと築き上げてきた他社との人間関係やネットワークを一挙に失ってしまううえに、その異動によって生ずる厄介な家族や子供の学校の問題も控えているので、たとえ目先で「地位や給料」がアップしたとしても、そのすべてが暗雲に包まれたような憂鬱な気分になるのは、自分にも覚えがあります。

まるで、神の啓示みたいに下されるこの人事異動が、ただの机上で考えられただけの機械的な人間循環にすぎないという実態を知ったら、きっと誰もがびっくりしてヤル気を失うと思います。

それは、例えば、転勤先で待っている煮詰まった仕事の厄介な後始末とか、ますます深刻化している取引先とのトラブルの解決策のための捨て駒に使われる役を担わされるらしいとか、まるで罠のような人格無視のポストに身を置かなければなかない「憂鬱」だったり、その突然の転勤に伴う家族の難問題も控えた「憂鬱」(「幼児」や「老親」を抱えている人など大変です)でもあるので、そうした事情を知っている者にとっては、内示後、社内に一瞬動揺が走り、周囲には「渋面」ばかりが目につくばかりで、まるで「満面の笑み」などひとつとしてないというのも、そりゃあ、当然といえば当然の話だと納得できます。

以前、人事の人間と飲んだ時にその辺のところを聞いてみたのですが、彼が言うには、たとえ各社員の現場で長年培ってきたネットワークを犠牲にしても、そんなことは会社にとっては取るに足りない小さな損失で、むしろ、その期間に積み上げられた関係他社との負の滓(彼は、そのままの言葉でそう言ってました)、つまり個人的な利益と副作用としての業者との馴れ合い・癒着を断ち切り(これは目先では不利益と見えても、長い目で見れば、結局会社にとって大きな利益となって「健全なセキュリティ」が会社に返ってくるのだから)、その異動によって生じるであろう社員の不満や不利益・犠牲などは、会社のためなら無視すべき低次元のリスクにすぎない、それらすべてを織り込んだうえでの異動なのだといっていました。それが人事の仕事というものだと。

そりゃそうでしょう、彼ら人事部の人間から、有無も言わせぬ「生贄異動」や「見せしめ異動」や「人身御供異動」や「恫喝異動」の辞令を突き付けられたことのある者なら、そんなことは十分すぎるくらいに承知しています。

人事部が、幸運を届けてくれる愛のキューピッドとか幸福なプレゼンターなどと能天気に信じているわけではありませんが、まさかそこまで「えげつなかったのか」とあきれ返り、白け、それ以後の彼との会話の問い掛けに対する返すべき相槌も、なんだかぎこちないものになってしまいました。

内示の際に、「いやなら拒否していただいて一向に構いませんよ」という柔和な人事部長の甘言に乗せられてつい拒否した同僚が、しかし、4月以降、彼に用意されたポストというのが、西日がやたらに強烈にさす壁際の隙間風の通り道のような寒々しい席で、別にこれといった仕事も与えられるでもなく、かかればすぐにでも終わってしまうようなささやかな仕事を小出しに与えられ、それが途切れるたびに、かつての部下だった年下の若い女性社員に敬語を使って次の仕事の支持を受けなければならないような(その「仕事」だって、苦心惨憺ようやく考え付いたようなつまらない整理仕事ばかりです)、そういう異動拒否に対する「罰のようなミセシメの仕事」に懸命に取り組むにせよ、あるいは、「給料さえ貰えればなんだっていい」と割り切ってサボって適当に流すにせよ、時が経てばそんな席にしがみ付いている自分がだんだん情けなくなって、それに気が付いた時にはすっかり精神の荒廃が深刻に進んでしまっていて(ストレスから深酒にのめりこんだり、そのために家族や友人との関係がうまくいかなくなったりしてはじめて、そのことに気づかされ)、いったい、自分は何をしているんだ、こんな愚劣な仕事にしがみついている価値など果たしてあるのかと自分を責め、その挙句結局は、半年くらいで辞表を提出するというのが定式だと聞いたことがありました。

つまり、これを、計算され仕組まれた「定式」にすぎないというなら、パワハラの「無茶振り異動命令」は、その当人の諾否に関係なく(いずれにしろ会社の利益につながるようにはなってます)、そのまま公式的な経営理論・経営戦略のひとつ、あるいは、偉い経済学者がすっかり計算した巧妙な労務管理のひとつなのではないかと勘繰りたくなるような、経営を無条件に好転させる伝家の宝刀「人員削減」に直結しているものなのだなと、なんだかへんな納得をしてしまった次第です。


さて、サラリーマンにとって、この過酷な異動の季節を迎え、いまふっと、ある人のことを思い出したので、今回は、そのことについて書いてみますね。

もうあれからどのくらい経ったのか、すぐには思い出せません。

その人の名を仮に「菊池さん」(そのときすでに定年間近でした)としておきます、しかし、これは根拠のないまったくの仮名というわけではなくて、彼の名「菊次郎」という名前から連想しました。そう、タケシの親父さんと同じ名前です。はじめて紹介された時、その名前には本当に驚かされました。なにしろ「菊次郎」ですから。

フツーの親が、そんな歌舞伎役者みたいな名前をつけるのかという驚きがひとつと、驚いて思わずその菊池さんの顔を改めてしげしげと見直してしまったときに感じたその艶めく名前とは裏腹の、激ヤセした菊池さんの顔は異様に青ざめていて、まるで文字通り病的な「うらなり瓢箪」という印象の強烈な覇気のなさ感、というのがもうひとつありました。

自分の狭い経験からいうと、親からすごく突飛で奇妙な名前(妙齢の女性だったら思わず顔を赤らめてしまうような名前もありました)を付けられながらも、馬鹿にされまいと発奮して大成する人と、その名前のためにカラカワレ虐められつづけ、すっかり委縮して被害妄想の化け物みたいな大人になるという2種類のタイプの人がいるとすると、菊池さんは、明らかに後者に属する人でした。

そうそう、友人の知り合いに女性で検察官になった人がいるのですが、その人の名前は、まるで錦糸町か亀有にでもいそうなキャバクラ嬢そのものという、(親なのにどうしてそーゆう名前を付けるかなーという)いかにも下品な、なんだかヤタラ物欲しそうなシモネタ名前なのですが、彼女、そんなプレッシャーなどものともせず、圧し潰されるどころか、司法試験に一発でパスして、いまでは痴漢男や下着泥棒男(常習累犯)相手に厳しく求刑し変態野郎を片っ端から監獄に送り込んでいるというツワモノなのですから、根っから強い人は強いのだなあと感心してしまいます。まあ、長い間、突飛な名前をずっと揶揄われてきたことの報復で、いま検事さんになって、さかんに揶揄ってきた世界に対していまこそ復讐しているという見方もできなくはありませんけれどもね。

さて、その菊池さんと、半年のあいだコンビを組んで、ある商品を売り出すための宣伝プロジェクトの準備に取り組むという仕事に従事することになりました。

商品のデザインは有名なデザイナーに依頼するとして、スーパー向けのキャンペーン計画とそのポスターのデザインだけは自分たちで考えてみようということになりました。

そのとき自分には、まだ「本務」というのがあって、その勤務時間を終えたあとに菊池さんの席に伺って、昼間のあいだ菊池さんが関係業者に手配した詳細をうかがったり、ポスター・デザインのアイデアの進捗状況を聞くという毎日を送りました、これは自分たちが勝手に会社に居残っているという体裁なので、もちろん残業手当などはつきませんし(いまでは居残りなどしていたら、会社と組合から厳しい指弾の挟み撃ちにあってしまいます)、こう書くとなんだかまるで自分が菊池さんのことを管理していたかのような印象を与えてしまうかもしれませんが、決してそうではなくて、当時自分が関わった仕事で契約上のトラブルがいまだ尾を引いている状態だったので、それが単に長引いていて抜けられなかったというだけのことでした。菊池さんとは、あくまでもフィフティ・フィフティの関係でずっと仕事をしました。

そんな感じで、昼間、菊池さんがポスターのアイデアを10種類程度考えてくれたのを二人で話し合って更なるアイデアに発展させるという弁証法的毎日(そうこうするうちに、だんだんこの仕事が楽しみになってきました)を送りました。

菊池さんは毎日、自分の前に、きちっきちっと10種類のアイデアを提出して説明しましたし、自分はその提出されたアイデアを別段気にとめるでもなく聞き役に徹しました。

そんなふうに、惰性みたいに菊池さんの説明をぼんやり聞き流していたある日、「毎日10種類」のアイデアを出すということが、相当しんどいことのはずなのに、それをなんということもなく繰り返すことができている菊池さんの行為にだんだん疑問が湧いてきました。

考えてみれば、実際問題として様々なポスターのアイデアを毎日10種類も次々に考え出すというのは、口で言うほど簡単なことではありませんし、というか、きわめて不自然な話です。いかにプロだってそんな無謀なアイデアの粗製乱造はできるはずもないし、するとも思えません。

そこで菊池さんに率直に問いただしました「なんでそんなに豊富なアイデアがあるんですか」と。さすがに「不自然じゃないですか」とまでは言えませんでしたが。

「あっ!」と菊池さんは一瞬息をのみ、「分かりました?」という感じで、ボクの顔を見上げるようにのぞき見しながら、背広の胸の内ポケットから1冊のノートを取り出して自分の前に置きました。

そのノートを手に取り、開いてみて、今度は自分の方が「あっ!」と言う番でした。

そこには、ミニチュアにされた映画ポスターがびっしりと貼られていました。「こ、これが菊池さんのアイデアの元ネタだったんですか!」

「ね、いいでしょう、今日のアイデアはコレから借りました」とページを繰っていくと、見開きページいっぱいにタルコフスキー作品のポスターがびっしり貼り込まれています、壮観です。目がくらみ、衝撃でちょっとよろけたくらいです。

そして、「今日」の菊池さんのポスターのアイデアを比べてみて、思わず笑ってしまいました。

なるほど、なるほど、菊池さんのにも、この「ノスタルジア」があります、アハハ、よく見れば、国会議事堂の前でうらぶれた田中角栄が横座りしているところ(まさかね)なんか、「廃屋の前で男が横座りしているコレ(ノスタルジアです)とそっくりそのまんまじゃん、なんで分からなかったかな~」悔しそうに思わず大声を出してしまった自分ですが、もうすっかり菊次郎ワールドに乗せられ、それどころか、このシチュエーションをすっかり楽しんでしまっているのを菊池さんに気付かれてしまい、ポスターの図柄検討などそっちのけで、いままで菊池さんが提出したアイデアの元ネタ探しに夜が更けるまで興じてしまいました。久しぶりに愛するタルコフスキーに思わぬ形で邂逅したという懐かしさもありましたが。

「このときは、黒澤明特集だったんですね、全然分からなかった、そうか、なんか悔しいな」とか「ヒッチコックがゴマフアザラシに変わっていたとは、さすがに気が付かなかったなあ」とか。

それ以来、僕たちの夜のお仕事は、本務そっちのけで、菊池さんが奇妙にデフォルメしたアイデアを提出し、自分がその元ネタの映画ポスターを言い当てクックッなどとこみあげてくる笑いを苦しくこらえたりして「ふたりだけの密かな夜の遊び」にふけりました。

しかし、結論から言うと、この「ふたりだけの夜のお仕事」は、開発の途上で他社と商標権問題が持ち上がり、さんざんにこじれ、販売は中止、このポスターの菊池さんとの検討会も1か月とちょっとであえなく廃止・解散となりました。

それ以来、菊池さんとは会っていません、どこかの地方の営業所に異動されたことまでは聞いていたので、てっきりそこで無事定年を迎えられたものと思っていたのですが、最近信じられない情報を耳にしました。

異動のあとすぐに、役所関係の取引で贈賄だとか収賄だとかの事件に巻き込まれたという当時の新聞記事を見せてくれた人がいました、全然知りませんでしたが日付を見ると、あの「ふたりだけの夜のお仕事」から何か月も経っていないことも知りました。

結局起訴まではされませんでしたが、そのこともあって定年を迎えずに退社されたということです、あんなに定年を楽しみにしていたのに、ご本人もさぞ残念だったと思います。

当時、このことを知っていたら、なにか自分なりのお手伝いができたかもしれないのに、いまとなっては、どうすることもできません。

知人を通じて菊池さんの消息を尋ねてもらったのですが、なんの手掛かりもありませんでした。自分に届いた唯一の消息は、「なにせ高齢なので、施設に入られたのではないですか」というなんの根拠もないただの憶測だけでした。

当時の菊池さんの年齢に近づくにつれ、あのとき、ともに楽しいとき過ごした「ふたりだけの夜のお仕事」をときおり思いだしています。

長い会社員生活を通して、ただうんざりするだけの多くの無意味な仕事を次々にこなすことを強いられ、また耐えることができたのは、自分がなにものにも囚われずに動ずることなく、その局面その局面をクールに処理してきたからだと自負する部分もありますが、あの夜の菊池さんとの遭遇は、「そういうことで本当にいいのか」と問うものがありました。

タルコフスキーやアンゲロプロスを見ることで、会社人間をつづけるために、誰にも知られたくない、社会との折り合いをつけるための素の部分の領域に属するものだったそこに、突如「菊池さんのタルコフスキー」が立ち現れ、「ああ、こういう人もいるのか」と心動かされたのだと思います。きっと、うまく言い表すことができないと思いますが、「タイプは全然違うけれども、同じような場所で必死に格闘しているもうひとりの自分」みたいな。うまく言えませんが。

菊池さんのことを考えていたら、あることを鮮明に思い出しました。

あの菊池さんと過ごした日々のどこかの夜で、なにかの話のついでに、自分が早朝のテレビ体操を習慣にしていることを話したら、菊池さんが特別な「ラジオ体操」を自分で考案したと話してくれました。

「見ます?」「ぜひともお願いします」というわけで、菊池さんが実演して見せてくれたのがこの「ラジオ体操第一・花柳流」というもの、自分が知っている「ラジオ体操」といえば、腕や足をこん棒のように無様に振り回すだけの野暮の真骨頂のようなものですが、菊池さんの演じる体操は、まさに「舞う」という表現がぴったりの日舞風な芸術体操です。

無骨な無様な「体操」が、こんなふうな振りで様変わりできるのかという、いわば官能的な感銘を受けてしまいました。

指先がまるで風にあおられる蝶のように舞い狂い、両の腕は蛇のようにしなやかに体にまとわりつき、流し目であやしく迫ってきたり、誘うようなしなやかさで焦らすように逃げたりと。

しばし幻想に囚われながら、自分の指先があのときの菊池さんの指の所作を真似るように微かに動きはじめようとしているのを感じました。



by sentence2307 | 2018-03-03 22:46 | 映画 | Comments(0)