世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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若い頃、通勤にはずっと私鉄を使っていたので、結婚して郊外に引っ越してJRを使うようになり、はじめて知って意外に思ったことに「整列乗車」というのがありました。

文字通り駅で電車を待つ乗客が整然と3列に並ぶというアレです、それまでこのJR「整列乗車」という慣行をまったく知らなかった自分(私鉄族)には、実に奇妙で堅苦しい(というか、押し付けがましい)決め事に思えました。

そのへんのところは、まったく自由だった「私鉄族」には、この慣行は「強制」以外の何物でもない息苦しさしか感じられませんでした。

私鉄では、あんな習慣はもちろんありませんでした(今でもそうか、現状がどうなっているのかは知りません)、駅で電車を待つ乗客は、三々五々その辺に立っていて、電車が到着すれば、「おっ、来た・来た」なんて感じで、次第に速度を緩める電車の、乗り込もうとアタリをつけたドアに目星をつけて、なんとなく蝟集し、まだ動いているドアと並歩し(「並走」という言葉があるくらいなのですから「並歩」もアリかなと)、徐々に速度を落としていくのと微妙にタイミングを合わせて移動しながら、止まってドアが開けばさっさと乗り込むという感じでした。

その「なんとなく」感が、まさに私鉄の「自由気ままさ」を象徴していた気楽さということだったんだなと、いまにして思います。

でも最近は、少しずつ考え方がJR的に変化しているのもまた、事実です。

私鉄では今でもやはり、朝の通勤ラッシュの混雑時には、我先になんとなく雑然と、つまり先を争って無秩序な乗り込み方をしているのだろうか、もし、そうなら当然乗客同士のトラブルは必至で、小突き合い・蹴り合いくらいは避けられないだろうなと。

それに比べたらJRの規制の効いた乗り方は、だから実に穏やかで、いまではすっかり「JR」の慣行に馴染んでしまっている自分です。

「整列乗車」の長所が、この乗客同士のトラブル回避というところにあるのと、もうひとつは、列の位置取りさえ間違わなければ、必ず座れるというところでしょうか。現状「座れる率」は、ほとんど99%です。

実は、自分が乗り込むターミナル駅では、15分ごとに電車の最後尾に新たに5輌増結される電車があります(合計15両編成の通勤快速電車というのは、日本で最長の通勤快速電車だと聞いています)、まさにそれが優に小一時間はかかろうかという通勤時間のあいだ、座ってのんびり居眠りをしていられる理由です、ずっと立ち続けてモミクチャにされることを考えれば(つい数年前までは、そうでした)、まさに雲泥の差です。

それに、何年か前に「上野・東京ライン」というのが開始されて、以前は上野駅か日暮里駅で乗り換えねばならず、通勤客でごったがえす超混雑の階段をひしめき合って上り下りしなければならなかったものが、いまではストレートに東京駅まで乗り入れるという、自分の通勤環境は、これによって激変しました、「通勤時間短縮と、座われて居眠り」と、それに、隣にウラ若い女性が座るなどという幸運なオマケ付きなんてことも時にはありますし。

まさにこの「通勤時間短縮」が、時間の余剰をうみ、たとえ座れなくとも、さらに15分待てば、次の電車でも座れるというシナジー効果・好循環を生み出したというわけです。

しかし、この「通勤時間短縮」と「座れる」というところまでは、同時に自分の願望でもあったのですが、「居眠り」の方は、単に「座れる」という状況に伴うだけのことで、あえていえば自分の「希望外」のことにすぎません、子供のころから自分は電車に揺すられていると、そのうち猛烈な眠気が差してきて目を開けていられなくなってしまいます、もしかすると、なにかのビョーキかもしれませんが。

しかし、たとえわずかの間でも、通勤時間を読書に当てて有意義に使いたいと思っている自分なので、当然そこには知的な葛藤が生まれというわけです。

すぐに眠気が差してきてうたた寝をしてしまうにしても、せめて僅かな間だけでも何かを読もうと「足掻き」ます。考えてみれば諦めのわるい実にみみっちい話です。

なんか、この状態をむかしの映画のイメージに当てはめるとすると、ブリジット・バルドー初期の作品「わたしは夜を憎む」1956みたいな感じかなと。記憶が定かではありませんが、アレって夫婦間の夜のsexが怖い若い女性の作品だったのだとしたら、眠気で読書ができないこととは、相当な違いがあるのかもしれません。

ちょっと話が飛びますが、淫乱な痴女ものより、病的な潔癖さでsexを嫌悪し拒否する処女ものの方が、よほどエロティックですよね、例えばポランスキーの「反撥」とかあるじゃないですか。(なんの話してるんだよ、飛びすぎだろ)

で、通勤時間には必ず文庫本(でなくともいいのですが、これが一番軽いので)を携帯していきます。行き返りの通勤時間でしか読まないので読むペースは遅々としか進まないのですが、それでも持っていれば安心するお守りみたいになっていて、活字中毒の自分です、たとえそれでもいいじゃないかという気持ちでいます。

ここのところ読んでいる文庫本は、帚木蓬生の「三たびの海峡」という小説です。

予備知識なくたまたま手に取った本でしたが、読んでみてびっくりしました、なんと戦前の朝鮮人強制連行を描いた実に深刻で重苦しい小説です。なにしろこちらは通勤時間に軽く読めるものを念頭においてチョイスしたつもりだったのですが、この拭いがたい民族的憎悪と怨念に満ちた壮絶な小説には、わが「眠気病」も吹っ飛んでしまいました。どうみても、朝の通勤時間の暇つぶしのために読み飛ばせるような軽快な小説ではありません。

それでも毎日少しずつ辛抱強く読み進めていくうちに次第に作者の語り口にも慣れてきて読む調子みたいなものも掴めてきたある朝のことでした、案の定座席にも座れて、おもむろに文庫本を開きました。右隣には妙齢の美しい女性、「今日もラッキー」という気分で朝の読書にかかりました。

この小説「三たびの海峡」は、全編を通して壮絶な民族差別への怒りの告発と、だから一層切ない望郷の念に貫かれながらも、愛する者を失うという(あえていえば、このふたつのうち、どちらかを失わなければ、もう片方は得られないという哀切なジレンマのもとで生きいかなければならなかった過酷な運命に引き裂かれた男の物語です)そういう小説なのですが、朝鮮半島から強制連行されて炭鉱で働かされ、虐待に耐えかねて監禁場所から脱走する際に見張りの労務担当を絞め殺してしまい、それでも逃げ切り、朝鮮同胞からの助けを受けて終戦を迎えて、やがて朝鮮に帰還できたものの、その際に日本で親密になった日本人女性を伴ったことによって逆に祖国でもまた民族的憎悪にさらされて、意に反して日本人女性との引き裂かれる別離を強いられる(そこには言い出せない過去の殺人の事実に立ちふさがれ、もう一歩女性を追えなかったことが、なおさら女性の側に不可解な思いを残すという)終始重厚な物語なのですが、ただの1箇所、実に色っぽい描写の部分があります、朝鮮人男性と日本人女性がお互いに好意を持って惹かれ合い、密会して熱く性交する場面です、繰り返して言いますが、この小説でそういう描写があるのは、ただのその1か所で、たまたまその朝にそのクダリを読む感じになりました。

ちょっとそのクダリを書き写してみますね。


《陽焼けした肌とキラキラ光る目が近づき、柔らかい唇が私の口をおおった。私は彼女を抱きしめ、目を閉じる。彼女のよく動く舌が私の舌をとらえる。私は歓びが全身に広がるのを感じた。
唇を離すと、彼女は私の作業着の胸ボタンをはずした。裸の胸元に頬をくっつけ「あなたを好きだったの」と呟いた。
私は彼女の上着の紐をまさぐった。上体を起こして胸をはだけたのは彼女の方だった。白い豊かな乳房を私はしっかりと視野に入れ、口に乳首を含んだ。大きく柔らかな乳首を口の中でころがす。千鶴が細い声をあげるのを聞き、片方の乳首からもう一方の乳首に唇を移した。工事現場で彼女を見かける時、いつも視線が吸い寄せられた胸だった。その中味を味わっているという歓喜が、身体の内部にひろがっていく。
「下の方も脱いで」
千鶴は冷静に言い、私から上体を離した。私がズボンの紐をはずすのを待って、彼女は私のものに手を添える。顔に時折霧のような雨がかかり、彼女の背後に灰色の空が見えた。
「ちょっと待って」
という彼女の声を、海の音と一緒に聴いた。
「河時根」
彼女はもう一度私の名を呼んだ。大きく目を見開いた彼女の顔がすぐ近くにあり、下半身に彼女の肌を感じた。やがて彼女の右手が私のものを誘導し、身体がその一点で重なった。
「千鶴」
「河時根、好きよ」
熱い吐息がかかり、私は再び目を閉じるしかなかった。彼女の髪が私の顔を覆う。私は両手で彼女の動く尻と背中をしっかりと支えた。
生まれて初めて味わう感触だった。これ以上甘美なものは世の中に存在しないのではないか。
「いい」
彼女が私の首にすがりついて言うのに、私は何度も同意する。波の音が遠ざかり、彼女のあえぎと身体の動きが激しくなり、私は自分が昇りつめていくのを知った。喜びが私の身体を揺らし続け、それから波がひくように、動きをおさめた。
「このまま動かないで」
千鶴は私の胸に顔を押しあてて呟いた。再び海の音が届きはじめる。風の揺らぎとともに霧雨が顔に降りかかった。
「寒くない?」
私は訊く。
「大丈夫。お願いだから、まだこのままにしていて」
千鶴は私の目をみつめて微笑する。私は彼女のむき出しになった下半身を撫でる。私のものに触れている部分の温かみとは裏腹に、背中の窪みから尻の膨らみにかけての皮膚は冷たかった。
頭を起こして彼女の唇を求めた。二人の身体が再び上と下で固く結びつき始めるのを感じた。今度は私が腰を動かす番だった。
千鶴は驚き、私にしがみつく。私は彼女の体を抱きかかえたまま砂の上をころがった。
「待って」
彼女は手を伸ばし、脱ぎ捨てていたモンペを身体の下に押し込む。上体を立てた私から離れまいとして、彼女もまた首を起こして私の胸にしがみついた。くの字に重ね合わせた身体を私は無我夢中で動かし続けた。喉を鳴らして荒い息を吐き、最初に昇りつめたのは千鶴のほうだった。何秒かして私にもその歓びがきた。
私は動きを失った身体をそのまま千鶴の上に落とし、息を継いだ。
「千鶴、好きだ」
私の声に、彼女は目を閉じたままで頷く。》


一気にこの緊張した艶めかしい濡れ場のクダリを読み終わり、張り詰めた気持から解き放たれて、ふぅーっと自分の中で溜め息をついたとき、右からの視線をふいに感じたので、ひそかに目だけを動かして隣をそっとうかがいました。

そのかすかに横に動かした自分の不意の視線に反応し、あわてて逸らしかけた隣の女性の視線とが、虚空でかすかに交錯する瞬間がありました、その驚きと戸惑いの表情から、いまのいままで彼女が自分の開いている頁を黙読していたことは明白です。

自分は一度視線を戻し、改めてチラ見したその彼女の横顔には、明らかに自分に対する「いやらしい」という嫌悪の色がありました。

いままで傍らから自分の本をじっとのぞき見して、黙読していたのは明らかです。

これは、実にショックでした。これじゃあ自分がまるでエロ本を愛読している(いやらしい本を読んでいるところを若い女性にわざと見せつけて、嫌がるのを楽しむ露出狂の)変態みたいじゃないですか。

繰り返しになりますが、この小説はとても重厚な作品で、炭鉱で働かせるために強制連行してきた朝鮮人の苦難が全編に描かれている小説で、とくに前半の差別と虐待の描かれている部分は壮絶で、後半はその深い傷を負った主人公がそれまで目をそらしてきた憎しみの記憶に立ち向かっていくという回顧から構成されているのですが、上記の「濡れ場」はこの部分だけ、460頁ある中のほんの2頁にすぎないのです。

毎朝、自覚的・習慣的にエロ本を常に読んでいて、そのことを軽蔑されるならともかく、朝鮮人強制連行と虐待を告発したゴクまじめな硬派な小説に人知れず真摯に取り組んできた458頁分の苦労をですよ、たったの、それもたまたま遭遇した艶めかしい2頁のために軽蔑されるなんて実に堪え難いものがあります。

その女性にこの文庫本の全頁をペラペラと開き示して、この小説がいかに全編を通して真摯なものであるのかを弁解したいくらいでした。

しかし、あの部分

《「ちょっと待って」
という彼女の声を、海の音と一緒に聴いた。
「河時根」
彼女はもう一度私の名を呼んだ。大きく目を見開いた彼女の顔がすぐ近くにあり、下半身に彼女の肌を感じた。やがて彼女の右手が私のものを誘導し、身体がその一点で重なった。
「千鶴」
「河時根、好きよ」
熱い吐息がかかり、私は再び目を閉じるしかなかった。彼女の髪が私の顔を覆う。私は両手で彼女の動く尻と背中をしっかりと支えた。
生まれて初めて味わう感触だった。これ以上甘美なものは世の中に存在しないのではないか。
「いい」》

う~ん、まあ、本当に感じなかったのかといえば、やはり嘘になりますか。


それからの小一時間は、いままで経験したことのない気まずく苦痛に満ちた時間でした。



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by sentence2307 | 2018-04-19 10:00 | Comments(0)
つい先日、平昌オリンピックで銅メダルを獲得したカーリング女子の吉田知那美選手が、インスタグラムに、5人の選手たちがリラックスしている写真をアップしたことがさっそくmsnのニュースで取り上げられていたので、ついつい見入ってしまいました(https://www.instagram.com/chinami1991/)。

そして、その記事には、日本中から寄せられた多くの反響も掲載されていて、まだまだ、彼女たちの人気が熱く続いているのがこのことからでもよく分かります。

最近では自分なども、パソコンのスイッチを入れて最初にすることといえば「ロコ・ソラーレ」検索なのですが、期待に反してなかなか更新されない情報を繰り返して見たりして、優に小一時間は費やしてしまいます。

とにかく、このフィーバーのなかでも、彼女たちが「大都会・東京・銀座」などに色目を使うことなく、また、パレードで使うクルマも市のトラックを強引に改造したものだし(それでも清掃車なんかじゃなくてホント良かったと思うくらいの勢いです)、パレードのコースも北見市のメイン通りなんかではなくて、たぶん普段は人通りの途絶えた狭い道の商店街(ニュースでは、その「普段」のシャッター通りの寂れ具合も紹介していました)と、手を振る先には知り合いが何人もいるらしい顔見知りの北見市民という、その和やかな徹底した「地元感覚」にはとても好感が持てましたし、また、アスリートとしての潔さにも痛快なものを感じました。

you tubeでアップされていた当地のテレビ番組もローカル色満載で、よくぞ地元の活性化のために尽くしてくれたという手作り感満載のアットホームな感じと、故郷の地にしっかりと足を付けて活動する選手たちへのリスペクト感が顕著で(選手たちを前にして感無量になった市長の号泣もですが)見ていて大変気持ちよく、トレンディな話題を片っ端から使い捨てていく中央メディアの冷ややかな客観視とか歪んだ揶揄とか、意地の悪い批評家の愚にもつかない皮肉にすっかり慣れてしまっている「中央・東京」なんかに関わり合っていたら、なかなかこうはいかなかっただろうなといった思いを強くしました。

自分も前回、このブログで、まだまだ続く最近の熱狂ぶりを追いかけるかたちで、ネットやyou tubeで見聞きした「ロコ・ソラーレ」知識を自分なりにまとめてみたのですが、なにしろ5人の選手(本橋麻里・吉田知那美・藤澤五月・吉田夕梨花・鈴木夕湖)のそれぞれ違う人生が交錯しながら、「平昌オリンピックで銅メダルを獲得」という感動の一点に集約されていくことを整理するための苦肉の策として、5人それぞれの出来事を年度でまとめた「5人同時年譜」というのを作って、当初は、コラム「夢は常呂で結実した ロコ・ソラーレ(どれくらいだい)物語」を書くための単なる手控えだったのですが、我ながらあまりの出来栄えのよさに感心し、恐る恐るアップした次第です。

そして、結局、読み返すことが多いのは、この「5人同時年譜」の方で、そんなふうにこの年譜を何回か読み返していると、あることにふと気が付きました。

2010年に本橋麻里が、チーム青森を脱退して常呂町に戻り、「ロコ・ソラーレ」を立ち上げようとしたときの記者会見の様子(8月16日)をいまでもyou tubeで見ることができます。

そこで彼女は、こう言っています。

「私、本橋麻里は、約15年間活動させていただいたチーム青森を離れる決意をいたしました。同じ故郷の仲間と一緒にチームを組みます。」

カーリングの聖地と言われる常呂町で、なぜ選手が残れないのか、という彼女の素朴な疑問と望郷の思いが、こうして本橋麻里を故郷に帰らせたのですが、そのことに関して別の場所ではこうも言っています。

「いざ北見という大きな町から見ると、常呂町はそんなに賑わっていなかった。(選手を地元にとどまらせるだけの支援してくれるスポンサーがなかった)」と。

そして、チーム名・ロコ・ソラーレが、「常呂の子+solare」という言葉の組み合わせから命名されたということを聞くにおよび、当初、ロコ・ソラーレを立ち上げようとした本橋麻里の念頭に「常呂町」という意識はあっても、はたして「北見市」というところまであったのかどうかという疑問をもちました。

つまり、「LS北見」という呼称(または通称)は、常呂でのスポンサー探しに苦慮し、徐々に「北見市」まで交渉の幅を広げていかなければならなかった必要的・現実的な問題として「LS北見」という呼称が便宜的に生み出されたのではないか、と考えました。

自分が思うに、本橋麻里が常呂町に戻ってチームを作りたいと考えたとき、当初、彼女の念頭にあったものは、かつて、自分も所属していたオリンピック日本代表の「チーム青森」を倒した地元の(当時)中学生チーム『常呂中学校ROBINS』(小野寺佳歩、鈴木夕湖、吉田知那美、中川ともな、小笠原茉由、そして吉田夕梨花が所属していました)で、「常呂町にこだわったチーム」づくりを地元で結成すると表明したときの具体的なイメージとしてROBINSがあったのではないか、だから、その固有のチーム名としては「ロコ・ソラーレ」でなければならなかったというわけで、少なくとも、そのとき・そこにはまだまだ「北見」は想定されてなかったのではないかと思われて仕方ありません(つまり、「藤澤五月」の存在です)。

やがて、常呂町では有力なスポンサーが思うように見つからず、交渉先を北見市内まで広げていく苦心の過程で「LS」に「北見」を付け足さざるを得なかったという、いわば苦し紛れの「公武合体論」みたいなものだったのではないかと。

いまから見ると、「ECOE」の馬渕恵と江田茜はともかく、当時まだ学生だった小柄な吉田夕梨花と鈴木夕湖はいかにもひ弱な印象をあたえ、それにまだまだ動きもぎこちなく(いかにもマッチョないまから見ると実に隔世の感があります)、当時連覇を続けていた無敵のパワーチーム「中部電力」や「北海道銀行」には明らかに劣る、いかにも頼りないという印象を受けてしまいますが、本橋麻里の構想としてあった『常呂中学校ROBINS』再結成のコダワリを考えれば、とにかく彼女たちの将来性に賭けてみようとした本橋のその我慢の起用には納得できます。しかし、結局、彼女が「未熟さに賭けた」その分だけ、ソチ五輪世界最終予選日本代表戦には間に合わなかったということになるでしょうか。

そして、ソチ五輪を迎えようとしたとき、彼女たちがそれぞれに経験した挫折によって、事態は大きく動き出します。

2013年9月、本橋麻里のLS北見は、どうぎんカーリングスタジアムで行われたソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで3勝3敗としてタイブレークとなった中部電力(スキップ藤澤五月)との試合で2-10と敗れて、4チーム中3位で、3大会連続のオリンピック出場を逃します。

この場面はyou tubeで見ることができて、氷上で顔を背け合って幾度かすれ違う二人(敗れて憮然とした本橋と勝利の笑みを噛み殺すような藤澤のツーショットがとても印象的です)の固い表情が忘れられません。

しかしそのソチ五輪出場の大本命といわれた中部電力の藤澤五月も、世界最終予選日本代表決定戦で「追われる立場、負けられないプレッシャー」に圧し潰され、小笠原歩率いる北海道銀行フォルティウスに惨敗し出場を逃します、藤澤自身「どうしたらいいかわからなくなった」というほどの大きな動揺と挫折を味わいます。

2014年2月、北海道銀行フォルティウスの補欠だった吉田知那美は、ソチ五輪において急病の小野寺に代わってセカンドをつとめ、予選リーグで9試合中8試合(リード2試合、セカンド6試合)に出場し5位入賞と大きく貢献したものの、その直後の選手村のその場所で北海道銀行フォルティウスから戦力外通告を受け、「思い出すと涙が出る」ほどの悔しさを味わいます。

そして3月、北海道銀行を退職した吉田知那美は、「何もない状態で」郷里の常呂町へ戻り、カーリングからの引退も考えていたときに、本橋麻里から「一緒に日本代表を目指してもう一回やろう」と誘いを受け、熟慮の末の6月、ロコ・ソラーレに加入します。

たとえ偶然が重なったとはいえ、吉田知那美の加入は、本橋麻里の「常呂中学校ROBINS再結成」構想に沿ったもので、吉田知那美の躊躇の数か月があったとしても、それを待つくらいはなんでもないほどに本橋の吉田知那美加入を求める強い思いは厳然としてあったと予想できます。たぶん、この関係をひとことで言えば「相思相愛の絆」で結ばれたものとでもいうことができると思います。

しかし、藤澤五月がロコ・ソラーレに加入する経緯を同じように考えると、なにかとても違和感があって、どこかに大変な無理があるような気がして仕方ありません。

ましてや、「相思相愛」などというイメージには程遠い、どこを探しても懐柔などあり得ない修復不能な関係のように思えて仕方ありませんでした(もちろん私見です)。

たぶん自分の頭の中には、あの残像(敗れて憮然とした本橋と、勝利の笑みを押し隠すように俯く藤澤の不自然な表情のふたりが顔を背け合って氷上ですれ違う姿)がいつまでも強く残っているからだと思います。

ロコ・ソラーレを結成した2010年以降、チームが低迷を続けてきたのは、大切な局面で常に藤澤五月のいた強力な中部電力が立ちはだかり、苦汁を飲まされ続けてきたからだといっても決して過言ではないくらい藤澤五月の存在は大きく、大切な場面で何度も彼女に負け続けてきたといってもいいくらいのロコ・ソラーレでした。

自分たち社会の一般常識からすると、そうした過去の経緯や悪関係を考えれば、本橋麻里が抱く藤澤五月に対する感情は、そう簡単には払拭できるような代物では決してなく、価値観が180度ひっくり返るような何か重大な転機とかが起こらなければ二人の間にできた積年の溝は、そう簡単には埋められないように感じていました。

ましてや、本橋麻里が元ROBINSの吉田知那美の加入を強く望んだようにして、はたして藤澤五月の加入を自分から強く望むだろうか、とても疑問です。それに藤澤五月の加入を求めるということは、自分のスキップとしての場所を譲り渡すことも同時に意味していたわけだし、それでも平昌五輪出場とメダル獲得という大義のために本橋麻里は大人の判断を下したのだろうか、という疑問に捉われていたときに、偶然ある記事に出会いました。

藤澤五月をスキップとしてロコ・ソラーレに迎えたいと望んだのは、コーチの小野寺亮二だったという記事です。
そのへんのイキサツをWikiはこう書いています。


2015年3月末、藤澤五月は中部電力を退社した。「地元の北海道北見市での活動を検討している」と報道された。失意を抱きながら故郷の北見に帰った藤澤は、本橋麻里(ロコ・ソラーレの創設者)と会食の機会を持った。その席で、「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という本橋の言葉に心を動かされて、ロコ・ソラーレへの移籍(入団)を決心した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行うようになる。
しかし、移籍後しばらくは練習に思うようについていけず、試合に勝てない日々が続いた。そんなあるとき、「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」という本橋の言葉がきっかけで、前向きな気持ちを持てるようになっていった。そして、ロコ・ソラーレのチームメイトと共に練習や試合を積む過程で、自分が先頭に立ってチームを引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい、頼れる仲間に出会えているから「ひとりじゃないんだ」と考えることができるようになり、自信を取り戻せたという。


なるほど、なるほど、誰が最初に声をかけたかとか、誰が折れて、誰が会食の席を設けたとか、アスリートには、そんなささいなこと、関係ないのかもしれませんね。

でも、これってなんだか坂本龍馬が仲立ちした薩長同盟結成の場みたいな感じもしますよね。


【年表・ロコ・ソラーレが藤澤五月に敗れ続けた日々】
2010年7月、元「チーム青森」で旧常呂町出身の本橋が関係者と共に新しい環境の元、同町の出身者5名(本橋・馬渕恵・江田茜・鈴木夕湖・吉田夕梨花)により結成。
2010年12月、オホーツクブロックカーリング選手権初優勝。
2011年1月、北海道カーリング選手権初優勝。第28回日本選手権への出場権を獲得。
2011年2月、第28回日本カーリング選手権に初出場。予選で全勝し1位でプレイオフに進出したが、プレイオフで敗れ、3位。
2012年2月、第29回日本カーリング選手権で初の決勝進出を果たす。決勝では藤澤五月率いる中部電力カーリング部に敗れ、準優勝。
2013年2月、第30回日本カーリング選手権で4位となり、ソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦への出場権を得る。
2013年9月、ソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦にて、決勝進出を賭けたタイブレークで藤澤率いる中部電力に敗れ、ソチ五輪出場権を得られなかった。
2013年10月、アドヴィックス常呂カーリングホールが落成。チームの活動拠点となる。
2014年6月、北海道銀行フォルティウスから、旧常呂町出身の吉田知那美が移籍加入。
2015年2月、第32回日本カーリング選手権で2度目となる決勝進出を果たしたが、決勝で北海道銀行フォルティウスに敗れ準優勝。
2015年4月、馬渕恵が選手活動を引退。
2015年5月、中部電力カーリング部から北見市出身の藤澤五月が移籍加入。
2015年11月、本橋の産休のため、第25回パシフィックアジアカーリング選手権(PACC)には帯広市出身の石崎琴美が参加。同大会で日本勢10年ぶりの優勝を達成。
2016年2月、第33回日本カーリング選手権大会にて、決勝でチーム富士急に勝利。3度目の決勝進出にして日本選手権初優勝を達成。世界選手権と翌シーズンのパシフィックアジアカーリング選手権の出場権を獲得。
2016年3月、世界選手権にて一次リーグを9勝2敗の2位で突破。決勝でスイスに敗れたが、日本勢初の準優勝。銀メダルを獲得。
2017年9月、平昌オリンピック日本代表決定戦(3勝先勝方式)で中部電力に3勝1敗で勝ち平昌五輪代表権を獲得。
2018年2月、平昌オリンピックに日本代表として出場。予選4位でカーリングの日本チームとして五輪初の準決勝に進出した。準決勝の韓国戦は延長戦の末7-8で敗れたが、3位決定戦でイギリスを5-3で破り銅メダルを獲得した。




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by sentence2307 | 2018-04-07 17:28 | カーリング | Comments(0)