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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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伊丹万作の「故郷」

暇つぶしにyou tube動画をあれこれ見ていたら、偶然、伊丹万作監督の「故郷」1937という映画に遭遇しました。

予備知識などまるでない(と思っていた)未知の映画だったのですが、これ幸いとまずは鑑賞しました。

実は、ここのところ、最新映画というやつを何本も立て続けに見てきたために少々食アタリ気味というか、「いわゆる最新映画」を見ることに対して行き詰まりを感じていて、そのパサパサに渇いた「得るものなし感」が徒労感となって積みあがり、無性に疲れてしまったということはありました。

これ以上、苛立ちが募ってきたら「かなりヤバイことになるぞ」という強迫観念というか遣り切れない不安にさいなまれている感じです。

そういうときには、いつもすることなのですが、目先の変わった「古い映画・映像」を見て気持ちを落ち着かせるということをやっています、戦前のサイレント映画や国策映画など、その辺はなんでもいいのですが、古色蒼然たる映像を求めてyou tubeの森を彷徨っていたところ、この伊丹万作の「故郷」に出会ったというわけです。

そうそう、「古い映像」というのは、例えば、リュミエール兄弟が世界各国の珍しい風景や風習を撮って観光を見世物みたいにして商売にしようとしたその国のひとつに日本も含まれており、派遣されたフランス人映画技師が原日本人たちを撮って廻った映像というのが何本か残されていてインターネットで見ることができます。

例えば、街路を往来する真っ黒に日焼けした背の低い多くの男たち・女たち(着物はだらしなく着崩れ、顔は真っ黒に汚れ、髪はボウボウで、ほとんどみな半裸の状態です)が、据えられたカメラを物珍しそうに何度も振り返る姿を写したフィルムがあって、その顔はどれも照れたような奇妙な薄笑いを浮かべており、抑えられない好奇心でカメラのレンズをわざわざ覗き込んでいくというあの姿にたまらない感銘を受けました。

あるいは、戦争直後、多くの日本のやせ細った子供たち(まさか、戦災孤児なんかじゃなかったと思います)が、進駐軍の栄養の行き届いたアメリカ軍人にまとわり付いて口々に「チョコレート、ギブミーしてんか!」と叫びながら必死に異国の軍人に群がりネダっている姿を見ると、屈辱的な浅ましさよりも生きることにどこまでも純粋なその活力に圧倒され、深い感銘を受けるということもあったかもしれません。

それらのフィルムに映し出されている日本人の彼らは、誰もがひとしなみにみすぼらしく、薄汚れていて、極貧のなかでその日の食うものにも事欠くありさまのように見えても、それでも薄笑いを絶やすことなく、とんでもない活力に満ちていて、向けられた異国人のカメラのレンズを物珍しそうに覗き込む好奇心だけは溢れかえるほど持っていたという、そういう「熱」に圧倒されたくて、自分は、フィルムのなかに「古色蒼然」を求めていたのだと思います。

そして、今回の伊丹万作の「故郷」に出会ったという次第です。

いわば「お口直し」を期待して見た映画という感じだったでしょうが、でも、はたして期待したような「お口直し」となり得たかどうかは、大いに「疑問」としなければならなかったかもしれませんが、しかし、「突っ込みどころ満載」という意味でなら、このダレた自分の活性化には大いに役に立ったということはできると思います。

ただ、この映画、見ているうちに、どうしてこうも面白くないのだという思いが幾度も萌して、その退屈さは集中を止切らせ、散漫になった気持ちの隙に雑念が入り込んできたのかもしれません。(しかし、この「雑念」のほうが、この映画なんかよりよほど面白かったので、後述しようかとは思っています、お楽しみに!)

たぶん、この映画、作品自体の面白味に欠けるため、顔は映画の場面に向けられてはいたものの、メリハリのない緩慢な物語のスジを追うのに疲れ果て、徐々に集中を欠いた意識はいつの間にかどこかにスッ飛んでしまったのだと思います。

そりゃあ、なにも東京の大学を出たからって「家業の手伝いくらいするのは当たり前だろ(そもそも東京で職に就けなかったのに、なんで田舎にそれがあると思って帰省してきたのかが理解できません)」など誰が考えても当然のことを、たいそうな「教訓」のようにこれでもかと平然と描くその白々しいストーリーに、われならずとも観客はみな疲れ果ててしまったのだと思います。

都会の大学を卒業し帰省した酒屋の娘(夏川静江)が、東京で就職できなかったものが、まして田舎で「大学出」にふさわしい職などあるわけもなく、彼女が期待を寄せていた有力者のコネも失い、かといって家業の酒屋にもなじめずに、ただ悶々鬱々と日を過ごしているという状態です。

大学を卒業しても行き場も定まらない厳しい現実に、ただ焦るばかりでどうすることもできない妹は、自分のそうした鬱屈を一向に理解しようとしない兄に対して、内心では「所詮、教養のない田舎者は、せいぜい目先のことばかりに拘って愚かにも先が見通せないのだ」と軽蔑しています。

兄は兄で、逼迫した家業の苦境を知っているのに手助けをしようともしない妹に苛立って「身分不相応の教育など、かえって身の毒だ」と決め付けて、互いを罵りあうこの兄妹の軋轢の言葉の数々は、しかし、どれもが実感のないお座なりな説明の域を出ない死んだ言葉にすぎず、仲の良くない兄妹なら世間によくある想定内の凡庸な言葉の応酬でしかない以上、その一連の場面もまた空疎感から免れるわけではありません。

家業を手伝おうともしない妹のそうしたダレた生活ぶり(兄・坂東簑助には「そう」見えました)に苛立ち、ことあるごとに叱責せずには居られない兄との衝突を繰り返すうちに、妹のつい口走った抗弁と突っかかるような生意気な態度に激昂した兄は、はずみで妹の頬を張ってしまうということがおこります。

そのとき兄は、妹を東京の大学にあげるために田畑を売り払ったことを憤懣やるかたなくナジリ、「こんな役立たずになるくらいなら、なにもお前を大学になんぞにやるんじゃなかった」と悔いて罵ります。

打擲を受けたうえに罵倒された妹は、売り言葉に買い言葉で「もう、兄の世話にはならない、家を出る」と捨て台詞を吐いて家を飛び出します。

家を出てから一年後、妹は意気消沈して故郷の駅にふたたび降り立ちますが、この場面、都会に出てから彼女がどのように苦労したのかまでは一向に説明されず、演出者の意識と興味は、むしろその先の「怒っている兄と妹がどのようにして和解するか」にすっかり前のめりに入れ込んでしまっているので、妹が経験したかもしれない苦労などには興味を示さず、それどころか「そりゃあ、いわゆる苦労だよ、わかるだろう」みたいに端折り、単なる概念としてしか考えていないことはミエミエで、そういう突き詰めのない「概念」だけのパッチワークのようなツギハギだらけのこうした映画が、はたしてどこまで観客を引き付け感銘を与えることができるのかという疑問に捉われてしまいました。

しかし、飛び出して行った先の東京で彼女がどのような辛酸を嘗めたのか、どのような過酷な目に遭遇しなければならなかったのかは、この物語にとっては、そのディテールはとても重大で是非とも説明しておくべきものだったはずです。

さしずめ溝口健二なら、都会に出た妹は、やくざな男にすぐに引っかかって騙され、果ては売春までさせられたあげく、ついには悪い病気を背負い込んで鼻が落ち、麻薬にも蝕まれたすえに使い物にならなくなって棄てられ、さらに肺病にかかったうえでやっと性転換して故郷に舞い戻ってきたとかなんとか、そういう「重き履歴」を観客に具体的・重層に的に示すことで、リアリズムは一層の厚みを獲得していくものだと思えば、この伊丹万作作品は「リアリズム」とは別のものを目指していたと思うしかありません。

それはこの物語が単に舞台の戯曲だから仕方ないのかと考えたとき、突然あの「雑念」に囚われたのでした。

そもそも、それがどこに書いてあったかまでは思い出せなかったものの、市川崑監督(当時は伊丹監督の助監督だったそうです)が伊丹万作の映画を見て

「伊丹さんは、シナリオはうまいが、演出は下手だね」

と言ったという言葉を思い出したのでした。

まさに言い得て妙の、目からウロコが落ちるような至言です、こういうのを透徹した直感というのだなと思いました。

しかし、そうは言うものの、この映画を見て一箇所だけ感心した部分がありました。

決して家業に馴染もうとしない娘に母親はさびしそうに語り掛けます、「あんたは、東京に行って、すっかり変わってしまったね」と。

それは母親が娘に会いに東京の大学に行ったときの思い出です。

母親が大学内で娘の姿を見つけて笑顔で合図したとき、そのときの母親の姿が、見るからにみすぼらしく恥ずかしくて母親だとは言えずに、娘は思わず友だちには「あれはうちの婆やよ」と言ったことが聞こえてしまったと、さびしげに母親が娘に語る場面です。

しかし、この含蓄に富んだ衝撃的な母の言葉は、その後、イメージを膨らませることもなく、また、どのような演出的な展開を見せるでもなく、気抜けするくらい孤立したままの単なる「いいセリフ」というだけで立ち消えてしまいました。

伊丹万作は、この傑出したセリフを強烈な映像で印象づけようとするわけでもなく、この悲憤に満ちた母の言葉に娘がどういう表情をして反応したのかを追うことも・作り上げることもなく、あたかもそこには最初から何もなかったかのように、この「セリフ」を終わらせてしまっています。

市川崑監督ならずとも、これは本当に「伊丹さんは、シナリオはうまいが、演出は下手だね」だったのだなと感心しました。

そういうことなら、是非ともこの記事の在り所を確かめたいという気持ちが猛烈に沸き起こってきました。

そうですか、そうですか。それならば手持ちの資料に当たりますか。

最初はまず、岩波書店の「講座・日本映画」から見ていくことにしましょうか。

あっ、そうそう、その前に邦画で「故郷」というタイトルのつく映画がどれだけあるか、検索しておきますね。

Jmdbによると、

1 溝口健二 1923
2 木村荘十二 1931
3 伊丹万作 1937
4 山田洋次 1972
5 向井 寛 1999

の4本がヒットしました。

そのうち
①岩波書店「講座・日本映画」に掲載されている作品は、
溝口健二監督作品 1923
伊丹万作監督作品 1937
山田洋次監督作品 1972   の3本でした。

②田中純一郎の「日本映画発達史」では、
溝口健二監督作品 1923
山田洋次監督作品 1972  の2本が掲載されていて、

③佐藤忠男の「日本映画史」には、
山田洋次監督作品 1972  の1本だけが掲載されていました。

このように邦画のうちで「故郷」とタイトルされた作品がどれほどあるかとまず調べた理由は、「故郷」というタイトルが、日本人の観念上もっとも親しみやすいテーマ(望郷)に違いないという連想から、それだけに当然膨大な量の同名作品が作られているはずという思い込みがあって、その多くの作品のなかから伊丹作品を特定して検索・チョイスするための利便をあらかじめ考えてしまおうと思ったからでした。

しかし、調べてみれば、なんてことはありません、結果は意外に少なくて、まったくもって拍子抜けした感じでしたし、各冊を調べていくうちに、この同じタイトルを持った作品のなかで、映画史からまずは最初に消えていくべく作品の順序みたいなものも、なんだか分かってしまったような感じを受けました。

つまり、伊丹万作作品「故郷」が幾つかの映画史本の中から他の作品に先立ってまずはひっそりとその姿を消した過程を実際に見てしまったような。そして、それはその映画自体の持つある種の「欠落」が起因したために。

実は、この伊丹万作作品を調査している過程で岩波書店の「講座・日本映画 第3巻」にそのものズバリの記事、「伊丹さんの演出」(佐伯清筆)というのが収録されていることにはずっと以前から気がついてはいました。

この小文なら以前にもすでに読んでいることも記憶していますし、その内容のニュアンスというのもなんとなく自分の中に残っていました。そういう意味でなら、自分にとってこの伊丹作品「故郷」に予備知識が皆無だったという部分は訂正しなければなりません。

ぼくたちの知っている佐伯清は、多くの高名な仁侠映画を撮った監督として記憶しているのですが、彼は中学を卒業するとすぐに同郷の伊丹万作を頼って彼の門下生として弟子入りしていて、そして師匠が肺結核で死ぬまで師事したというくらいの人だったので、当然、恩ある伊丹監督への敬愛と尊敬の念は、そりゃあただならぬものがあったでしょうから、そういう人の書いた師匠についての論評「伊丹さんの演出」のなかに、まさか伊丹演出をアタマから下手だと腐した市川崑監督の辛辣な直言など掲載されていようはずがない、検索してみたところでどうせ無駄骨になるに違いないという確信から、この論評の調査だけは省きました。

しかし、いざ目を通してみれば、すぐにでも見つかるような冒頭のごく近い箇所にその記述はしっかりとありました。

それはこんなふうに記されています。

《伊丹さんは大変お洒落な人でした。舶来ものの衣服、帽子、靴、そのどれをとっても一流品です。それが似合うかどうかは別のことで、鼻下に髭を生やした伊丹さんの貴族的ともいえる白皙の顔は、哲学者というか、文学者というか、およそ活動屋の世界では珍しい存在でした。無口で鋭い目をして、対象を、または人間を見つめる伊丹さんの顔は、ときに怖いようでさえありました。その証拠に、今日巨匠などと言われている市川崑が、むかし、私のセカンドで伊丹さんについたとき、
「俺、いやや、伊丹さん怖い」
と言って、僕にこぼしたことがありました。その崑ちゃんが、伊丹さんはシナリオは上だが、演出は下だと言っています。つまり下手糞だと言うわけです。さあ、どうでしょう、兎に角伊丹さんは、我々の世界では異例の紳士でありました。》(講座・日本映画 第3巻157頁下段)

ごく素直に読み流しても、とても違和感の残る一文です、師匠・伊丹監督について褒めていることといえば外見のお洒落な身なりについてだけで、肝心の「演出」については持ち上げるどころか(自分の口から語ってはいないものの)、市川崑の言として「伊丹さんの演出は下手糞だ」と言い切ったそのままの言葉を、なんの注釈も否定の言葉も付すことなく掲載しています。

自分にはそれが「意地悪さ」とか「悪意」とかに読めてしまって仕方ありませんでした。さらに続く「さあ、どうでしょう」も随分だと思いました。

つまり、ここには師匠・伊丹万作を、手放しで一方的に信奉している門下生という視点など微塵もない、それとはまた別の、少し突き放した客観的で辛らつ眼差しの観察者か、同業の批判者しか存在していないように思えてなりません。

例えば、「無口で鋭い目をして、対象を、または人間を見つめる伊丹さんの顔は、ときに怖いようでさえありました。」という一文に続いて、セカンドの市川崑がそういう伊丹監督を怖いと言ったとしながらも、すぐにも「伊丹さんの演出は下手糞だ」と続けています。

それならあの伊丹監督が演出時にみせていた「無口で鋭い目をして、対象を、または人間を見つめた」あの怖い顔は、いったいなんだったんだ、あたかも真に迫って演出しているかのように見せていたのは、ひたすらスタッフの視線を意識して「巨匠」を演じただけの、ただの薄っぺらな演技・ポーズにすぎなかったのか、そういえば、その少し前に書いてあるあのお洒落な「舶来ものの衣服、帽子、靴、そのどれをとっても一流品」と、「怖いような無口で鋭い目」の一文は等価だと仄めかされていて、伊丹監督の演出など、中身などまるでない人目を意識しただけの、意識過剰のただの見せ掛けのポーズにすぎなかったのだと、どうしてもそう読めてしまって仕方ありませんでした。

まさかそこに「揶揄」の気持ちまでは存在しているとは思いませんが、否定の気持ちを真正面から表明することなく、第三者の口を借りて「こういう意見もありますよ」的に真意を隠しながらも巧みに示唆した責任逃れの、いささか屈折した気持ちを抱えた底意地の悪さと、秘められた狡猾さという印象をどうしても拭えませんでした。

そうした気持ちで、この佐伯清の論評「伊丹さんの演出」をアタマから読んでいくと、文中のエピソードのなかにも、このタイプの違和感は随所に見出すことができます。

まず最初のエピソード、撮影所の食堂でスタッフが談笑していたとき、誰かが「えらいこっちゃで、いまオープンで万さんと稲監が喧嘩しとる!」と息せき切って駆け込んでくるという描写のあとに、こんな描写があります。

《「ええ?」と言って、総立ちになった一同の口から突いて出た言葉は
「ついでや、殴ってしまえ、稲監を!」
「そうや、やったれ! やったれ!」
でした。ということは、万さんこと伊丹万作さんは、自分の側の人間で、稲監こと稲垣浩さんは敵側の人間であったということ、伊丹さんは「万さん」と親しまれ、稲垣さんは、「稲監が、稲監が」と、案外嫌われていました。》(講座・日本映画 第3巻158頁上段)

結局、この「ご注進」は早とちりのガセだったので、「すぐそのあと、笑って話し合いながら入ってきたお二人の姿を見て、なんや、ということで、ちょんになりましたが、ざっとこんな具合でした」と収束させています。

しかし、「この際だから」と、稲垣浩監督の日頃の悪評判をこれでもかと開陳し、さらに「案外嫌われていました」を付け加えるなど、随分じゃないか、これじゃあまるで鬱憤晴らしだと感じました。そう考えると、この「悪評判」だって、仲間内で本当に一般化されたものだったのか、それとも個人的な見解にすぎないものだったのではないか、区別がつきません。

それに、この騒動の切っ掛けとなった「ご注進」が、そもそもガセだったわけですから、この「開陳」だって本来は不要の見当違い・場違いな意見表明にすぎず、すぐさま修正か削除の処置を必要としたはずのものでしかなく、ここにも巧みに機を捉えてみせたかすかな「悪意」とか「作為」の気配を感じないわけにはいきませんでした。

つづくエピソードは、「新しき土」をアーノルド・ファンクと共同監督したクダリです。

それは、こんなふうに始められています。

《このあと伊丹さんは乞われてJOへ移り、ドイツの山岳映画の巨匠アーノルド・ファンクとの共同監督「新しき土」の仕事、これが半年以上一年近くの大仕事になり、精神的肉体的に随分と伊丹さんを苦しめたんだと思います。一旦決めてやり始めたことについて、不平不満は一切口に出さない人です、そのことは、先の「忠治売出す」で、何回も同じ演出をやらされながら、ぶつっとも愚痴をこぼされなかったことでもお分かりでしょう。》と。

そして、ファンクと伊丹万作のお互い天才肌の強い個性がぶつかりあっても、決して譲り合おうとしない「確執」が描かれています、人間関係が煮詰まり、絡まりあっても、その打開策をみずから講じることのできない伊丹万作は疲れきって、佐伯清にほとんど任せて、実体は仕事を投げ出した状態だったと記されています。

この記述で伺われることは、伊丹万作という人の天性の虚弱体質というものはもちろんあったでしょうが、人間関係が一旦こじれると自分から折れて打開策を講じることができない性格の卑弱さ(これを「繊細さ」と表現しても一向にかまいません)が顕著で、事態が収拾できないとなると、さっさと自分の殻に逃げ込んでしまうという負の部分もあったのだなということが分かります。

彼が、現象的にみれば「不平不満は一切口に出さなかった人」だったかもしれませんが、逆にいえば「弱みをさらけだして誰に対しても自分から心を開けなかった人見知りで頑なな人」という見方もできるわけで、そのあたりが本当のところだったのでないか、それは、まさに自身が「演出力のない監督である」ことを自認・自覚していた何よりの証拠で、また、それは衣服や容貌など外見を気にするスタイリストと共通するとの認識からは、演出者として劣等感があったからではないかと勘繰りたくなってしまいます。

そうしたことのすべてを見てきた身内の人間・佐伯清でなければ表現しえない伊丹万作との微妙な「距離感と確執」がそこにはあったのだと考えてしまいました。

三つ目にエピソードは、いよいよ「故郷」の撮影現場での事件が描かれています。

アル中気味だった小笠原章二郎(子爵の御曹司と書かれています)という役者が、酔ったまま現場に入ってきて、どうしてもセリフが出てこずに撮影が中断してしまい、これを伊丹監督が激怒したという顛末が書かれている部分です。

酒に酔ったまま現場に入り、セリフもつかえて演技ができず撮影を中断させるなど、考えなくとも、役者としてはなんとも弁解しようのない、もってのほかの失態で、伊丹監督が激怒したというのも無理からぬこととは思いますが、佐伯清がこのアル中役者を説明するクダリのなかに気になるひと言が書き込まれているのを発見しました。

こんな感じです。

《助十に小笠原章二郎、小笠原長生子爵の子息、軽演劇でちょっと売り出していたのを連れてきたわけです。ところがこの人がちょっとアル中気味で、伊丹さんの諧謔精神がなかなか理解できず、少々自棄になったのか、仕事中昼間から酒を飲んでセットに現れるようになりました、私を含め裏方はたびたび彼の傍らに行きますから、このことを早くから気づいていましたが、伊丹さんは彼から離れてキャメラの傍らにおりコンテとか演技に対する注文とかは、私が伊丹さんの意見を彼に伝えるようにしていましたので、その彼に気づいていたかどうか、あるいは知っていて知らぬ振りをしていたのか、私も何度か彼に注意しようと思いましたが、東京からわざわざ京都へ来てもらっている人だし、芝居さえきちんとやってくれるなら、少々のことはしばらく辛抱しよう、いずれ彼自身も気づくであろうと黙っていました。それが、ある日、最悪の事態となって、えらいことになりました。》

幾度かのテストを繰り返しているうちに、酔っていたその役者はセリフも出せずにそのまま座り込んでしまいます。

《ステージの中はシンとして咳ひとつなく、ただ黙って章二郎さんを見つめるのみ、その間何分くらいあったでしょう、私はチラと伊丹さんを見上げ、章二郎さんに声をかけました。
「さあ、もう一度テストをやりましょう!」》

そのとき、伊丹監督から
「お前は、黙っとれ!!」と、突然怒鳴られたと書かれています。怒鳴られたのは後にも先にもこれが初めてだったと付け加えられてもいました。

怒り心頭の伊丹監督は、座り込んでいる役者に歩み寄り顔をぶん殴ってステージから立ち去ったとあります。

しかし、そのあとすぐに佐伯清助監督が追って「出すぎた真似をしてすみません」と謝り、走り込んできた小笠原章二郎も平伏して詫びたと記されていました。

しかし、なにがこれほどまでに伊丹万作を激怒させたのか、これだけのことじゃないはずという疑問が残りました。

だって、「怒鳴られたのは後にも先にもこれが初めてだった」というくらい寛容で通してきた伊丹監督です、役者への指示はすべて助監督が伝えたと書いてあるのですから、まずは見せしめ的に助監督をスタッフの前で叱責したうえで、使えない役者など(幾らでも代りのきく端役です)さっさと交代させてしまえばそれで済むことで、なにもそんなに向きになった逆上しなくともいいじゃないか、という気持ちがいつまでも残りました。

それでこんなふうに考えてみました。

単に、酔って演技ができなかった役者に激怒したというよりも、彼が日頃から「伊丹さんの諧謔精神がなかなか理解できず、少々自棄になったのか、仕事中昼間から酒を飲んでセットに現れるようになった」ことを知り、侮辱されたと感じた伊丹監督が、彼がセリフにつまった機会を捉えて「激怒」を浴びせたのではないかと考えてみたのですが、やはり、それでも激怒の動機づけとしては、もうひとつ「弱い」と感じ、さらに考えました。

そして、こんなふうに考えられないか、というある考えにたどり着きました。

撮影もスケジュールの半分を過ぎたあたりで、監督ならこの映画がどう仕上がるのかくらいは、とうに見当がついていて、その鬱積したストレスがちょっとした契機を捉えて暴発したのではないかと。

(1937製作=J.O.スタジオ、配給=東宝映画)製作・森田信義、監督・伊丹万作、脚本・伊丹万作、原作・金子洋文、撮影・三木茂、美術・高橋庚子、録音・中大路禎二、照明・上林松太郎、衣裳・橋本忠三郎、小道具・山本保次郎、結髪・都賀かつ、床山・濱田金三、監督補助・毛利正樹、松村四郎、尾崎橘郎、撮影補助・荒木秀三郎、直江隆、音楽・ポリドール・レコード、現像・J・O現像所、製作・ゼーオー・スタヂオ
出演・坂東簑助(和田堅太郎)、夏川静江(妹喜多子)、藤間房子(母おとく)、船越復二(弟剛)、五條貴子(歌子)、三木利夫(兄信四郎)、永井柳太郎(人夫八兵衛)、山田好良(県会議員某)、常盤操子(妻)、深見泰三(校長)、石川冷(庄屋)、沢井三郎(村の青年)、丸山定夫(訓導野間彦太郎、父)、高堂國典(深見泰三)
1937年5月1日公開・日本劇場 84分(10巻 / 2,294メートル) / 現存版 84分(NFC所蔵)フォーマット : 白黒映画 - スタンダードサイズ(1.37:1) - モノラル録音(発声版トーキー)



by sentence2307 | 2019-04-28 13:58 | 伊丹万作 | Comments(0)

禁じられた遊び

最近、映画を立て続けに見ていてよく感じることがあります、そこそこ上手に作られている映画なのに、記憶に止まらずにすぐに忘れてしまうということが度々あって、なんだか戸惑っています、「オレも、そろそろアレかな」と。

しかし、実際に当の映画を見てみれば、見たか見ないかくらいはすぐに判断できるので、やっぱ自分がボケているわけじゃないんだなと安堵したり気を取り直したりしているわけですが、しかし、それにしても多くの作品の印象が薄いというのは事実なので、それって、そのまま、いまの作品に強烈なインパクトが欠けているからなのだとか、それに映画のタイトルからして、内容を象徴するような、すぐにも「あれだな」と連想させるだけの絶妙なタイトルというのが少なくなっていて(タイトルと内容のミスマッチ)、責任回避みたいな原タイトル流用という弊害からもたらされたものなのではないかなどと、ぐずぐずと自分のまだらボケをすっかり棚に上げて(やっぱ、そうじゃん!)、タイトルにまで八つ当たりしようというのですから、ほんとにもう我ながら「末期症状」の入り口に足を踏み入れているのかもしれません。


すこし前に、旧い友人と酒を酌み交わしながら、そのことについて話したことがありました。
しかし、すぐに「そりゃあ、むしろ受け手側の感性の鈍化が原因だわな」と即座にバッサリやられてしまいました。

いえいえ、もちろんそれは「ボケ」の話とかじゃなくて、我々の世代のもっている感性というやつが、現代の映画へコミットするだけの取っ掛かりを失ってしまって無力化しているうえに、映画のほうも「ある種の情感」を持った内容の作品がごく少なくなったということもあるかもしれません。

「映画」に対する思い入れも現代の感覚とは、少しずつズレが生じているからじゃないかなというのが彼の意見です。いわば「時代遅れ病」とでもいうのでしょうか。ホント、「ばっさり」です。

そして彼は、なんの脈絡もなしに突然、ルネ・クレマンの「禁じられた遊び」を語り始めました。

そりゃあ、自分だってあの「禁じられた遊び」が映画史に残るほどの重要で素晴らしい作品であるくらいは十分に承知しているつもりですし、そのことに関してはまったく異論もありません。彼と同じように1ミリもたがわず十分に名作だと思っています。

しかし、その「名作」の方はいいとしても、この「なんの脈絡もなしに突然に話しはじめた」がずいぶん唐突すぎて、どういう切っ掛けでそうなったかが不明なので、熱く語りはじめている彼には大変申し訳ないのですが、その話の腰を折り、あえて「なぜいま『禁じられた遊び』を?」とその理由を尋ねてみました。

しかし、あらたまって聞いてみると、その理由なんて、なんてことありません。

wowowのオンデマンドの配信リストの中に、たまたまこの「禁じられた遊び」があったので、だからそれを見たというだけのことでした。

そうそう、言い遅れましたが、彼は自分とは違い、いまだ現役で仕事を続けていますので、昼間はそれなりに多忙で映画などのんびり見ている場合じゃないと(彼に言わせると「なんたってこっちは、オタクみたいに遊んでいられる身分じゃないからね」というのが口癖です)、ですので仕事を終えて夕食も済み、そのあとの就寝までの時間を、ネット配信の映画を見るのを楽しみにしているということで、wowowのオンデマンド配信もそのうちのひとつのツールとして活用しているらしいのです、もっぱらパソコンでオンデマンド配信の映画を楽しむという生活スタイルをもっている御仁です。

その配信リストに最近「禁じられた遊び」がアップされていたので見たということでした。

まあ、いざ聞いてしまえばなんてこともありません。

しかし、自分にしてからも映画のテレビ放映を同時的に視聴するということは大変マレで、やはり映画鑑賞はもっぱらネット配信を利用している一人ですが、ただひとつ難を言わせてもらえば(wowowの場合です)、最新映画に比べてクラシックな名作映画の放送枠がとても少ないということがあって、とても残念な思いをしています。まあ、それがwowowの売りであることも十分に承知しているので、思わず彼に「へえ~、wowowで『禁じられた遊び』とは、そりゃまた珍しいね」と思わず彼に同調しました。

そんな感じで、その夜の酒宴は、彼が久しぶりに見た「禁じられた遊び」の感銘を熱く語る独壇場となりましたが、しかし、彼のその話、よくよく聞いてみると、「懐かしさ」という部分での感銘の再現(思い起こし)というだけで、なにもリアルな感銘とか、リアルな「賛辞」とかというのとは、またひとつ違うみたいなのです、その微妙な温度差が少し気になったので、彼がひととおり語り終えたタイミングをつかまえて「それで、今回の場合はどう感じたわけ?」とあえて突っ込んで聞いてみました。

「それがさ、久しぶりに見てね、変なところばかりが気になって仕方がなかったんだよ」と彼は、意外にも少々うんざりしたような醒めた真顔で話し始めました。

まず冒頭、パリの戦火を逃れて避難する群衆(そこにはポーレット一家も含まれています)にドイツ軍の戦闘機が襲い掛かってきて機銃掃射でポーレットの両親が撃たれて死ぬという場面、自分の飼犬のことばかりに気を取られているポーレットは、制止する両親の手を振り切って逃げた犬を追い橋の中央に飛び出していきます、あわてて娘を追った両親は、その場で戦闘機の機銃掃射の狙い撃ちにあって射殺されてしまいます。

犬を抱き締めながら、ポーレットは、すでに死んでいる母親の顔を撫ぜながら「ママ、ママ」と問いかけますが、すでに死んでいるので反応などありません。

その場面で彼は、「むかしだったらさ、きっとこの場面で泣いたんだろうなと思ったね。死の意味も分からないくらい幼いポーレットがとても哀れでさ」と言い、「でも今回はね」とさらに続けて語りました。

この過酷な時代に、いくら幼いからとはいえ、ああした迂闊な行為は家族すべての死につながる危険で切実な重要事なわけなのだから、その戦時下、両親は子供に「死」がどんなものか常日頃しっかりと説いて聞かせておかなくちゃダメだったんじゃないのかな、厳しく叱りつけるくらいにね。それに、あの時代、いくら子どもとはいえ「死」がどういうものか、ドイツ軍が迫ってくるフランス市街の緊張感とか、もしかしたら身近にもリアルな「死」があったかもしれない、そういう状況下で、あのポーレットの無知で無邪気すぎる設定がずいぶん無理があって、作為に満ちた「カマトト」みたいに見えてしまって仕方なかったよ。なんだか「小綺麗でいたいけな可哀そうな少女の視点」をあえて作り上げるために、まわりを、虚偽のリアリズムで飾り立てたみたいな気がしてね。

オレたちはいままでテレビ報道なんかで子供を巻き込んだ多くの戦争と、その悲惨な戦禍(無差別爆撃によって手足を失った血まみれになった子供たち)を嫌というほど見せつけられてきて、そのうえでこの「ポーレットの無邪気さ」をあらためて考えると、なんだか机上の空論というか、巧みに組み上げられた「悲劇」のためだけの「設定」に見えてしまって、今回はずいぶんと「苛立たしく腹立たしい」ものを感じてしまったんだよね。

そうそう、あの場面で唯一「リアリズム」を感じさせたシーンは、両親を失い一人で道端にたたずんでいたポーレットを、可哀そうに思った行きずりの一家が彼女を荷車に抱え上げたとき、その中年女がポーレットの抱えている犬を見て「それ、もう死んでるよ」とか言って取り上げ、無造作に川に投げ捨てる場面だね。

少なくともあれが、いつどこで自分だって死ぬかも分からない極限の戦時下に、人間が当然持つに違いない「ありふれた死」に対して、反射神経を弛緩させ麻痺させてみずからを防御する感覚を鈍化させる庶民の生活の知恵というか、認識のかたちだと、あの部分だけは妙に納得できたくらいかな。
シビアな現実に直面したとき、人間は生き延びるために感性を必要なだけ鈍化させて適応してしまえる逞しさを持っている生き物だと。そうやって人間は、あらゆる極限状態を耐えてやり過ごし生き延びてこられたんだと。

だけど、「死」を理解できないポーレットは、川に流れ去っていく犬の死骸を追って、このストーリーを展開させ、やがて、死を弄ぶ「墓遊び」にまでストーリーを広げながら、巧みに「駅の雑踏に迷子として呑み込まれる痛切なラスト」にまで引っ張っていくわけだけど、ひとむかし前なら気にも留めなかったその巧みさが、つまり、この「可哀そうなポーレットちゃん」のお話の「組み立て方」がどうにも鼻について仕方なかったんだよ。

さらに続けて、彼は、ここに描かれているフランス農民の愚かな狡さとか、事務的にすぎる官憲や意地の悪そうな修道女の冷ややかさとか、「可哀そうな」な迷子のポーレットを呑み込む駅の雑踏が象徴する酷薄な民衆の不自然な描き方などについても語ったのですが、それらはすべて「可哀そうな孤児の物語」を誇張するために人間を歪めて描く必要からそうしたまでのことで、リアリズムとは何の関係もない作為と悪意に満ちた誇張にすぎないと、いささか憤慨気味(そう見えました)に彼は語っていました。

あの設定がもし仮に、ポーレットを可哀そうに思う愛情深い善意の農民だったり、温情溢れる官憲だったり、愛情深い修道女だったりしたなら、この物語はもっと違う物語になっていたかもしれないよね、でもそれじゃあ観客を感銘させることはできない・悲しませることはできない、そのために巧みに「脚本」をこねくり回しているうちに、「名作」には仕上がったかもしれないにしても、その無理がたたって随所にほころびができているのが気になって仕方なかったんだよな。

ポーレットが「ミシェル! ミシェル!」と泣き叫びながら雑踏の中に消えていくあのラストを盛り上げるためだけに、あきらかり無茶ぶりとしか思えないこの観念の倒錯の必要から、信仰心のあつい敬虔な信者・少年ミシェルを、まるでポーレットに隷従する「墓標盗人」に豹変させる奇妙で強引なストーリーが作られていったのだなと。

この倒錯したミシェル像が矛盾して描かれる切っ掛けとなっているシーンは、ポーレット自身が、もはや用無しになった犬の死骸をまるでゴミのように無造作に投げ捨てる場面に込められていると言いました。前半の犬への執拗なこだわりを、後半の死を弄ぶ「墓遊び」につなげるにはとんでもない飛躍がどうしても必要になってしまって、その矛盾した乖離を収束する辻褄合わせのために、ポーレットに、あれほど執着し、取り戻すことにこだわっていた「犬の死骸」をいとも無造作に捨て去るという奇妙な行為をとらさなければならなかったのだと。
「悲劇」をでっちあげるために、この現実に悪意ある作為をほどこすこの「捻じ曲げ感」は、ちょうど不自然なまでにいじめ抜かれる「おしんストーリー」(あの冨樫森作品も顕著に「それ」は感じました)のヘドが出るような悪質な嘘(映画の堕落)と同じタイプのものだと。

これはつまらない蛇足ですが、今回、自分もかなり冷静にこの作品を改めて見直してみたのですが、ラストのポーレットが駅の雑踏に呑み込まれる場面は、その少し前に修道女がポーレットの首に名札を掛けているシーンがあるので、一時は迷子になったとしてもすぐに連れ戻される可能性もあったことに気が付いたことも付け加えておきますね。

まあ、こんな感じで、自分はただ彼の話にほぼ相槌を打つということに終始しただけだったのですが、しかし、この「ただ相槌を打つだけ」という態勢からイメージするような消極的で受け身だったわけではありませんでした。

彼の話を聞きながら、自分にもいささか思い当たるフシがあったので、帰宅してさっそく書棚から、まずトリュフォーの「映画の夢 夢の批評」(山田宏一・蓮實重彦訳、たざわ書房1979.401.2刷、276頁、1600円)を取り出しました。

その夜、彼が話していることを聞いているうちに、それって、もしかしたらトリュフォーの「受け売りじゃん」という気がしてきたからです。

だって、ほら、ヌーヴェル・ヴァーグの初期っていうのは、フランス映画界の大御所にトリュフォーが噛みついたってところから始まったっていうじゃないですか。ただし、その大御所たちが誰々で、彼らのなにが悪くってトリュフォーがあんなにもむきになって噛みついたのかまでは、すっかり忘れているので、ここはいい機会です、パラパラと走り読みしながら、久しぶりにフランス映画史でも勉強してみますか。酔って帰った真夜中に、よりにもよって始めるようなことじゃありませんが。

しかし、残念ながら、この本からは該当の記事を発見することはできませんでした。ただ、トリュフォーの書いた「あとがき」には、ヤマダと話し合い、パリで出版した自分の映画評論集「わが人生の映画たち」(1975、フラマリオン社刊)のなかの全5章を三つに分割して逐次日本で刊行しようという計画が合意されたと書いてありました。

具体的にいうと、

【第1段階】(いま読んでいるこの本です)
第1章 大いなる秘密+「批評家は何を夢みるか」(書下ろし)

【第2段階】
第4章 異邦人たち
第5章 ヌーヴェルヴァーグの仲間たち+<日本映画賛歌>「溝口健二、木下恵介、市川崑、中平康」

【第3段階】
第2章 トーキー時代の映画作家(1)アメリカ映画の監督たち
第3章 トーキー時代の映画作家(2)フランス映画の監督たち

ということで、目指す記事はどうも
【第3段階】第3章 トーキー時代の映画作家(2)フランス映画の監督たち
のようです。

そこには、錚々たる監督名が列記されていて、トリュフォーがこのうちの誰をけなし、誰を持ち上げたのかまでは分かりませんが、そのリストのなかに、確かにルネ・クレマンの名前がありました。

それらの監督名は、以下のとおりです。

クロード・オータン=ララ、ジャック・ベッケル、ロベール・ブレッソン、ルネ・クレマン、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジャン・コクトー、サッシャ・ギトリ、アルベール・ラモリス、ジャン=ピエール・メルヴィル、マックス・オフュルス、ジャック・タチ、


このあとに、さらにこうも書かれていました。

「・・・というところまでヤマダと話し合ったのだが、もちろん、これは、まず本書が出版されて成功したらの話である。そのためにも、ぜひ本書が成功してくれることを祈りたい。」

なるほど、この本が、はたして「成功」したのか否か(つまり条件を満たして次段階の出版が叶ったのかどうか)までは、調べている時間はもうありません、そんな悠長なことをしていたら、そのうち夜が明けてしまいます。

もうこれ以上、この本につきあっている暇はありません、時間切れです。次に、やはりヤマダつながりで「トリュフォーの手紙」平凡社(山田宏一)2012.7.25.1刷、493頁、2400円、を引っ張り出しました。

この本、時系列で書かれているので、たいへん探しやすく、ありました、ありました、

「・・・と、のっけから総括的、断定的、攻撃的な喧嘩口調だ。『これでいいのか』と体制に、既存の支配勢力に、一気に食って掛かるような勢いだ。」(123頁)

という、実に嬉しくなるような牙をむきだした一文が燦然と輝いて、向こうからこちらの目のなかに飛び込んできたじゃないですか。これですよ、これ、不良少年にして怒れる狂犬トリュフォーなら、こうでなくっちゃいけません。噛みつけ噛みつけ、コノヤロー、片っ端からぶっころしちまえってんだよ。

いやいや、勝手に興奮している場合じゃありません。その先の一節を読んでみますね、キイワードを見つけて、その前後をこうして広げていくという読み方は、邪道であっても結構有効で合理的な方法です、「早わかり」のためには最適です。

「フランス映画の進歩とは、要するに脚本家と脚本の進歩、すなわち文学の名作(アンドレ・ジッドの小説「田園交響楽」、レイモン・ラディゲの小説「肉体の悪魔」等々)を映画化するための大胆な脚色法(それは文学と「等価」の映画的表現形式があるという傲慢な確信に基づいて「原作を裏切らずに、その文学的精神に基づいて創造する」というものである)、そして、ふつう難解とみなされる主題(とくに宗教的な問題にかかわる)にきわめて積極的に敏感に対応し、その(みせかけの)真摯さゆえに大衆が簡単に受け入れてくれることへの絶対的な確信にもとづくものなのである。」

なんだ、なんだ、こんな括弧ばかりあちこち挿入した文章なんて、読みにくくって意味が掴めないじゃないか、これじゃあまるでオレの書いたものと同じだっての、いったいお前は、なにを言いたいんだ(それに加えて、どういうヘタレな訳なんだこりゃ)などと鼻白んでいる場合じゃありません。

要するに「原作の主題を忠実に生かすようにすれば、失敗ない」といっているのだと思います。原作(の主題)を忠実・完全に脚本に写し取って再現できれば、原作のチカラ(主題)に守られて、映画も大過なく大衆に受け入れてもらえ、成功できるに違いないと、いままで名作といわれた映画は、そういうふうに作られてきたわけだけれども、はたして「それでいいのか」とトリュフォーは言っているのだと思います。「そんなもんは、映画なんかじゃねえや、バーロー」と。(誰彼構わず「噛みつく」トリュフォーだったら、これくらいの言い方がふさわしいかもしれません)

そして、そのあとには、こうも書かれています。

「そして、これらの大御所の脚本家たちの大胆で真摯な脚本の欺瞞に満ちた美徳を告発し、なで斬りにしてよくできた脚本によるよくできた映画を、ということは戦前からのフランス映画の良質の伝統を受け継ぐ、つまりはフランス映画の主流を、徹底的に批判し、過激に、まさに急進的に作家主義を主張しつつ、ヌーヴェル・ヴァーグを予告する、いわば革命前夜の論文であった。」

つまり、脚本をなぞるだけのものではない「映画のための映画」を作るべきだと言いたいわけなのでしょうね。なんだか、こうして文脈を追っていくだけでは、なんだかわけが分からなくなってしまいました。

そもそも、「禁じられた遊び」よりも「大人は判ってくれない」が決して優れている作品とは、どうしても思えない「信仰心」を欠いた自分などには、この気負った幼稚な文章の数々が見え透いてしまい、どこまでも「嘘っぽい」ものとしか感じられないから、もうひとつ分からないのかもしれませんが。

また旧友と会うことがあったら、今度は言い返してやろうと心に決めました、かれ、きっと逆上すると思います、なにしろヌーヴェル・ヴァーグ大好きの敬虔な信者ですから、カレ。やれやれ

(1952)監督・ルネ・クレマン、脚本・ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト、ルネ・クレマン、原作・フランソワ・ボワイエ『Les Jeux inconnus』、製作・ポール・ジョリ、音楽・ナルシソ・イエペス、撮影・ロベール・ジュイヤール、編集・ロジャー・ドワイア、
出演・ブリジット・フォッセー(ポーレット)、ジョルジュ・プージュリー(ミシェル・ドレ)、リュシアン・ユベール(ミシェルの父ジョゼフ・ドレ)、シュザンヌ・クールタル(ミシェルの母)、ジャック・マラン(ミシェルの長兄ジョルジュ・ドレ)、ロランス・バディ(ミシェルの姉ベルト・ドレ)、アメデ(ベルトの恋人フランシス・グアール)、ルイ・サンテヴェ(司祭)、ピエール・メロヴェ(ミシェルの次兄レイモン・ドレ)、アンドレ・ワスリー(フランシスの父グアール)、





☆☆ ☆

この小文を少しずつ書いていたここ1週間にさまざまな事件が起こりました。

そのもっとも大きな事件といえば、やはりパリの世界遺産「ノートルダム大聖堂」の消失でしょうか。

屋根の部分が大きく炎上し、猛烈な炎に煽られた尖塔が、またたくまに崩れ落ちるというリアルな光景は、あのツインタワービルの崩壊の瞬間を思い出させるほどの惨状を連想させて大きなショックを受けました。

記事によると、ノートルダム大聖堂が今の形になるまでには1163年の着工から、さらに200年を要したというのですから、内部の装飾の贅の凝らし方がいかに壮大で華麗なものだったかは、この「かかった時間」からでも想像できると思います、今年が何年であり、引き算が正確にできさえすれば、その加減乗除の法則によって、建築年数などすぐにも算出できるというものです。(できないのかい!?)

しかし、世界遺産に指定されたこれほどの建築物をいとも簡単に焼失させてしまうなんて、「いったい管理体制は、どうなってんだ」という怒りと苛立ちにまず最初に捉われたとき、現場に駆け付けたというマクロン・フランス大統領が記者の質問に答えている姿が、テレビの画面に大写しになりました。

彼は言いました「世界に呼びかけて大聖堂を再建する」と。

えっ~!?と、思わず拍子抜けし、つづいて、「このバカ、アホちゃうんか」と、思わず口走ってしまいました。条件反射的に「不意」に発してしまった生理的嫌悪の雄叫びだったので、もし仮にこの失礼な言葉を不快に思われる方がいらっしゃったとしたらどうぞお許しくを願いたく存じます。ついつい本音が・・・。

だって、そうですよね、重要文化財のこれだけの大火災です。まずは「けが人は?」と気遣い、テロの可能性も含めたうえでの故意の放火だったのか(厳戒態勢の緊急手配)、それとも不慮の失火だったのか(捜査)の両面から、それらを想定した防火体制の管理に不備はなかったか(他の文化財の防火管理体制は大丈夫かの緊急確認手配)、それとも人為的なミスだったのか、いや、そもそも最初から「管理」などという金のかかる余計なものなんてやってなかったのではないか(例の仕分け、あの大衆迎合・人民裁判の大いなる恥さらし、日本でもありました。その大罪を犯した仕掛け人がいまでもしゃあしゃあと政治家としてのさばっているのが理解できません)、工事規則なんてものは最初からなくて業者のやりたい放題に任せていて、燃えやすい木製の危険極まりないチープな足場を組んだその近くで、意識の低い工事関係者がタバコか煙の出るものをスパスパやらかして火のついている燃えかすをそのままポイ捨てしたとか、芋でも焼いたりしていなかったかなど工事人のモラルも含めたセキュリティの両面で調査・究明していくと、まずは言明するのが、一国の元首たる者のタシナミだと思うのに(なにも緊急性のない「再建」の話など、誰が考えてもずっとあとでいい話です)、金に取り憑かれた頭の回転も鈍そうなこの呑気な大統領は、言うに事欠いて、開口一番「世界から金を集めて再建しま~す」とかなんとか寄付金を募っている始末ですから、もうなにをかいわんやです。

こんなテアイしか一国の元首として据えられないような国民は、まったくもって不運というしかありません。だいたい発想自体が、植民地経営の大国気分が抜けきらない、どこまでも東洋人から富をかすめ取ることしか考えていない「ゴーン」的発想なんだよな。自分の財布と他人の財布の区別がつかず、ショーグンだかシャチョーだか知らないが、日本をナメタ勝手な名前をちゃっかり盗品に付けて澄ましているあのコソ泥のいかさまヤローを最初のうちは庇い立てていたこと(献金の鼻薬が効いていて首を横に振ることがどうしてもできなかったという事情もあったのでしょうが)を極東の島国のわれわれ東洋人はいまだ忘れていませんから。まったくあきれ返ってものが言えません。とにかくサイテーだよ、お前ら。一発そのドタマを張り倒して「ゴ~ン」とでもうたわしたろかい、オンドレ。除夜の鐘じゃねえや、ばかやろー。

わたしは言いたい、日本企業からネコババした金でこそこそ買った豪華クルーザー「社長号」に、えげつないリストラで失業に追いやられ、いまも苦しい生活を余儀なくされている元・社員たちの家族を、どうか・どうかその「社長号」とかに招待して乗せてあげてくださいませな。お願いしますよ、拘置所のゴ~ンさん!!

もし、ルイ=フェルディナン・セリーヌが生きていたら、「まあ、いずれにしても今回の大聖堂消失は、ずさんな安全管理の欠如か、それとも堕落したフランス社会に神がくだした鉄槌だな」とでも、きっと爽やかな毒を吐くに違いありません。(最初は、「天罰だな」と書いてみたのですが、そこまで言うなよと言われそうなので「鉄槌」に書き直しました。)



by sentence2307 | 2019-04-19 15:16 | ルネ・クレマン | Comments(0)

教誨師

前回のブログでドキュメンタリー映画「マーロン・ブランドの肉声」の感想を書いた際、オードリー・ヘップバーンのデビューまでのエピソードを主題の導入部として迷わず使いました。

自分的には、この「迷わずに」という選択はごく普通の感覚だったので、そのことについて特に説明することもないと思っていたのですが、しかし、あらためて読み返してみると、やはり、この部分の「唐突感」はまぬがれません。

ヘップバーンもブランドも同時期に彗星のように現れ、同じように衝撃的なデビューをはたした稀有なスターという印象が強かったので、2人をつなぐためのことさらな「接続詞」など、ハナから不要と考えていたというのが、説明を端折った主たる理由です。

しかも、その生涯と、そして生涯の最後も、ともに、決して平穏だったり幸福だったりしたわけではなかったにしろ、生育したシビアな境遇と環境に精一杯あがらい、その生き難さを、あえて自ら求めて生きた部分は、同じ人間として尊敬に値するものと考え、どうしてもこのふたりの生きざまを並列的に書いてみたかったのだと思います。

それらは、ともに、あえて求めなければ、波乱にも不運にも見舞われることもなかったはずのもので、だから一層無残な思いにさせられたのですが、その一方で、(自分もふくめて)そのような困難などあえて求めることなく、無難な場所で平穏に幸福に暮らしている人なら幾らでもいることの理不尽さに反発を感じた部分も確かにありました。

しかし、この「マーロン・ブランドの肉声」という作品に出会ったのは、そもそも録画の予約を間違えての偶然(それにしては、ずいぶん不甲斐ない「偶然」ですが)から見ることになった映画なので、それを思えば最初からモチベーションなど不在の不甲斐ない経緯であったことには間違いなく、それについては猛省しているところです。

なにしろ、その期間で、意識的に見たまともな作品といえば、ジャ・ジャンクーの「一瞬の夢」1997くらいだったので、いかに自分が、いま現在の同時代映画に嫌気がさし始めていて「現実ばなれ」をおこしているかが分かろうというものです。

そんな感じでいたときに、早世した大杉漣の遺作「教誨師」をまだ見ていないことがずっと前から気に掛かっていたので、この機会に見てみることにしました。

この映画、終始、拘置所の面会室において、死刑囚たちとの会話のやり取りだけで展開する教誨師のお話です、まあ、異色と言えば異色の作品ですが、「映画なら、もうひとつ、そのさきを見せてほしい」という正直な感想を持ちました。

ここには、6人の死刑囚が登場し、日々それぞれに何気ない会話が交わされる場面が延々と続いていくわけですが、しかし、演出にしても観客にしても、緊迫感を欠いたその「何気なさ」に流されてしまうと、そこには単なる「なにものでもない映画」を見てしまうことになるのではないかという危惧を感じました。

ここに登場する6人の人間は、かつて(その切っ掛けが不運か凶悪かはともかく)殺人事件を起こし、裁判で死刑判決を受けて拘置所に拘禁され、いつ不意に死刑執行を言い渡されるかも分からない不安な極限状態に身を置いていて、日々「その瞬間」がやってくるのを恐れながら、その恣意的な「確実」をじっと待つしかないぎりぎり日常生活のなかで、日常的行事のひとつとして「教誨師」との面談があり、その「局面」(教誨師との面談)を自分の生き延びる数少ない、いや、もしかするとこれが唯一の突破口=手立てかもしれない「彼」を、いかに取り込み利用できるかと必死になって考えているはずです。

自己中心的な若者・高宮(玉置玲央)、おしゃべりな関西の中年女・野口(烏丸せつこ)、お人よしのホームレス・進藤(五頭岳夫)、家族思いで気の弱い父親・小川(小川登)、心を開かない無口な男・鈴木(古舘寛治)、気のいいヤクザの組長・吉田(光石研)。

おもねるとか、泣き落すとか、だますとか、脅し付けるとか、奇策としては虚を突いて真情を吐露するとか、あるいは駄弁によって主題をはぐらかし、韜晦をもって相手を篭絡するとか(おっと、これはわがブログの基本方針でした)。

一方の教誨師は、「受刑者の心の救済につとめ、彼らが改心できるように導く」という職務の大前提があって(映画ではそう言っていました)、したたかな死刑囚たちが秘める前述の企みとのその乖離のなかで、虚々実々とまではいいませんが、彼らの「命の利害」がかかった土壇場の必死の駆け引き(この次元で、もはやこの設定自体が「軋轢」です)にさらされ、あるいは挑まれたとき、教誨師はどう対応するのか、はたして「受刑者の心の救済に務め、彼らが改心できるように導く」というきれいごとのタテマエだけで対応して課せられた職務が全うできるだろうかというのが、この作品を見ながらずっと考え続けたことでした。

そして、作品を見終わったあと、やはり、これは教誨師という仕事を誠実に対応しようとしたひとりの男の困難を描いた映画なのだろうなという最終的な印象を持ちかけたとき、いや、待てよと、自分の中でその印象を拒む思いを払拭できないものがあることにも気が付きました。

この教誨師の主人公が為したこの映画で描かれている一連のいきさつを、たとえ「困難」と描かれていたとしても、なにも「失敗」したわけではありません、たとえ、面談したそれぞれの死刑囚たちにやり込められ、なにもコクらなくてもいいような過去まで思わず告白し、恫喝されておびえ、戸惑い、うろたえながらも、この教誨師の主人公は実に立派に、これら不特定な「彼」の死刑執行の時までどうにか間を持たせ、とにかく時間を稼ぎ、死刑台に送ることができたのですから、彼の仕事は「成功」したと言ってもいいのではないかと思えてきたのです。

それこそが、死刑囚たちのしたたかな「手練手管」に対する教誨師の精一杯の、そして、計算しつくされたしたたかな「手練手管」だったのではないかと。

しかし、この映画自体は残念ながら、そこまで描いていたわけではありませんでした。というか、そういう終わり方はしていませんでした。

お守りのように大切に持っていたグラビアページ(水着アイドル)の片隅に書き込まれた死刑囚のメッセージ、それは文字を書けなかった彼が、生れてはじめて書いたメッセージで、「あなたがたのうち、だれがわたしに、つみがあるとせめうるのか」と書かれていて、しかし、それをどのように解釈したらいいのか、呆然として歩み去るその場面の教誨師の表情をどうしても読みとれず、「残念」だけが残ってしまった自分には、判断できようはずもありませんでした。

死刑執行に失敗し、心神喪失状態におちいった死刑囚に、彼自身(そもそも自分がなにものであるのか)と彼の犯した「犯罪」を思い出させるために(「心神喪失状態」だと死刑執行は停止されます)、その犯罪を犯さなければならかった無残な「過去」へとたどり、日本の抑圧と差別の爛れた歴史をあからさまにして、国家権力の支配と抑圧のシステムを巧みにあばいた大島渚の「絞死刑」が自分の中に強く刻印されているかぎり、これからもずっと、この手の中途半端に不全な作品には、同意できようはずもありません。

(2018)監督・脚本・原案・佐向大、エグゼクティブプロデューサー・大杉漣、狩野洋平、押田興将、プロデューサー・松田広子、撮影・山田達也、照明・玉川直人、録音・整音・山本タカアキ、美術・安藤真人、衣装・宮本茉莉、ヘアメイク・有路涼子、編集・脇本一美、助監督・玉澤恭平、制作・古賀奏一郎、製作会社・TOEKICK☆12、ライブラリーガーデン、オフィス・シロウズ
出演・大杉漣(教誨師・佐伯保、少年時代・杉田雷麟)、玉置玲央(高宮真司)、烏丸せつこ(野口今日子)、五頭岳夫(進藤正一)、小川登(小川一)、古舘寛治(鈴木貴裕)、光石研(吉田睦夫)、青木柚(佐伯健一)、藤野大輝(長谷川陽介)、




【参考 日本編「著名教誨師」列伝】 by wiki

★留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。牧師、教誨師。東京家庭学校、北海道家庭学校の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。
留岡自身は「感化」という呼称や概念を「不遇ゆえに触法に追い込まれてしまった子どもに対する、大人と子どもという力の上下関係を元にした、卑しい意味での慈悲のあらわれ」と嫌っており、自身の事業は「個人の考え方を論も無く押し付けて変えさせる『感化』などではなく、子どもに家族の在り方や人としての愛情を対等の立場から共に論を立てて教え学び合うための『家庭教育』である」としている。
<生涯>
備中国高梁(現・岡山県高梁市)に生まれる。吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として生まれ、生後まもなく、留岡家の養子となる。留岡家は、米屋を営んでいた。子供同士の喧嘩で武家の子供を怪我させ、商いに支障が出て、養父から厳しい折檻を受け、家出。高梁にある日本基督組合教会のキリスト教会に逃げ込み、その伝で福西志計子の元に匿われ、さらに福西により岡山市にいた金森通倫の元に保護され、のち18歳で上代知新牧師より正式な洗礼を受ける。
徴兵検査は不合格、1885年(明治18年)同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学。新島襄の教えを受ける。京都での学生時代、徳富蘆花と交友を結ぶ。彼の小説『黒い眼と茶色い眼』の中に登場する「邦語神学の富岡君」は留岡がモデルだといわれる。1888年(明治21年)卒業後、福知山で教会牧師となる。
1891年(明治24年)北海道市来知(いちきしり)の空知集治監の教誨師となる。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけてアメリカに留学。コンコルド感化監獄で実習、その後、エルマイラ感化監獄ではブロックウェーに直接指導を受ける。
帰国後、国内でも感化院(家庭学校)の設立のために奔走する。1899年(明治32年)、ようやく資金の目処もつき、巣鴨に土地を購入し、家庭学校を設立。留岡は、また牧会者として霊南坂教会に所属し、「基督教新聞」の編集を行った。
感化院としては、これ以前に1885年に高瀬真卿の東京感化院、その翌年1886年の千葉県仏教各宗寺院連合の千葉感化院がある。前者は神道、後者は仏教精神によるもの。(それ以前にも池上雪江の活動も挙げられる)ただし上述の通り留岡自身は「感化」という概念を嫌い、それとは異なる感化概念の構築を目指したため、それ以前の「感化教育」と家庭学校以降の「感化教育」(家庭教育ないしは児童自立支援教育)を同一のものとして扱うべきかは意見が分かれる。
1900年(明治33年)、最初の妻であった夏子と死別。のち高梁時代の伝で順正女学校卒業後、巣鴨家庭学校に就職していた寺尾きく子と結婚。
1914年(大正3年)、北海道上湧別村字社名淵(かみゆうべつむら、あざしゃなぶち)に国有地の払い下げを受けて、家庭学校の分校と農場を開設。1915年(大正4年)11月9日、藍綬褒章を受章(『官報』第993号、大正4年11月23日)。
1922年(大正11年)には神奈川の茅ヶ崎にも家庭学校の分校を作るがこちらはまもなく関東大震災で建物が倒壊して、1933年(昭和8年)閉校となる。留岡はこの間、北海道と巣鴨を行き来しながら、二つの学校を指導監督する。
1931年(昭和6年)巣鴨の家庭学校本校で、奉教五十年を祝う感謝の会が開かれ、彼は徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れる。1933年(昭和8年)にきく子夫人が死去。留岡は家庭学校の名誉校長に就任し、現場から退く。二代目の校長に就任したのは、牧野虎次である。1934年(昭和9年)2月5日、旧友・徳富蘆花の住まいに程近い東京・上祖師谷の自宅で死去。
留岡の死後34年経って北海道家庭学校は、1968年(昭和43年)社会福祉法人の認可を受け、東京の家庭学校から分離、独立した施設となった。
<親族>
三男 留岡幸男(内務官僚・警視総監・北海道庁長官)
四男 留岡清男(北海道大学教授・北海道家庭学校長)
<留岡幸助を扱った作品>
『大地の詩 -留岡幸助物語-』2011年4月9日公開の日本映画。留岡幸助を村上弘明が演じる。監督は山田火砂子。
<参考文献>
同志社大学人文研究所編『留岡幸助著作集』全5巻、同朋舎、1978年
高瀬善夫『一路白頭ニ到ル 留岡幸助の生涯』岩波新書、1982年
室田保夫『留岡幸助の研究』不二出版、1998年
二井仁美『留岡幸助と家庭学校 近代日本感化教育史序説』不二出版、2010年
兼田麗子『福祉実践にかけた先駆者たち-留岡幸助と大原孫三郎』藤原書店、2003年
倉田和四生『留岡幸助と備中高梁 石井十次・山室軍平・福西志計子との交友関係』吉備人出版、2005年

★藤井恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師(東京監獄〈のちの市ヶ谷刑務所〉の教誨師。更生保護施設の創設に尽力した。刑務教誨事業研究所〈刑務教誨司法保護事業研究所の前身〉の設立・育成もその一つである)。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。
<経歴>(『真宗人名辞典』290頁)
1878年(明治11年)広島県福山市の浄土真宗本願寺派正光寺生れ。
1900年(明治33年)本願寺大学林(現在の龍谷大学)卒業。
1902年(明治35年)京都監獄での教誨実習生に任ぜられ、その後、本願寺派遣の内務省警察監獄学校留学生となる。市谷監獄の教誨師であった河野純孝を訪ね、大きな感化を受ける 
1904年(明治37年)台南監獄教誨師事務嘱託に就き、1909年(明治42年)以降、高松(1909年〈明治42年〉)、小菅(1915年〈大正4年〉)、東京(1918年〈大正7年〉)、豊多摩、市谷の監獄や刑務所の教誨師を歴任。
1936年(昭和11年)東京保護観察所の保護司。
1938年(昭和13年)東京保護観察所の保護司退官。
1939年(昭和14年)法務大臣官房保護課事務嘱託(司法保護委員の指導)。
1940年(昭和15年)司法大臣表彰。
1950年(昭和25年)藍綬褒章受章。
この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる(『真宗人名辞典』290頁)。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した(山下存行『更生保護史の人びと』275-281頁、『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺112頁、『龍谷大学論集』242-243頁)。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳(『死刑囚物語』1951年、160頁)。
<更生保護施設の創設>
a)両全会(現、更生保護法人 両全会)
日本を代表する更生保護施設のひとつ。1917年(大正6年)、東京監獄(後の市ヶ谷刑務所)の教誨師であった藤井恵照により創設された女性のための更生保護施設。女子釈放者のために自分の官舎自室を事務所として解放。収容保護も自室をあてる。更生のための収容保護と指導を始めたのが起源。1926年(昭和元年)に新宿区信濃町に2階建て木造一棟を購入し収容保護施設を開設。家族と共に入居し、1952年(昭和27年)還化まで施設にとどまる。(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 112-124頁)1998年(平成10年)、現在の渋谷区代々木神園町に新築、移転。
b)帝国更新会(現、更生保護法人 更新会)
1926年(大正15年)、「起訴猶予者・執行猶予者の更生保護団体」として大審院検事の宮城長五郎と教誨師の藤井恵照によって、起訴猶予者と執行猶予者を対象に、東京芝区(現港区)田村町に創設。経営責任者。日本刑事政策史としても大書に値する画期的保護事業。1931年(昭和6年)、思想部を併置して、思想事犯者の保護開始。1945年(昭和20年)、西早稲田に本部を統合(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 124-125頁)。1996年(平成8年)、更生保護事業法施行に伴い「財団法人」から「更生保護法人」に法人名を変更。
c)和敬会(現、社会福祉法人 和敬会)
両全会の姉妹団体。1937年(昭和12年)に和敬会母子寮と和敬保育園の創設。刑務所在所中の者の家族に対する保護。
d)刑務教誨事業研究所
設立育成。のちに刑務教誨司法保護事業研究所を発足。
<信念>保護の裏付けなくして刑務教誨の徹底は期し得ない(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺120頁)。
<その他>両派本願寺は何かにつけ、ややもすると対立的傾向にあったとみなされるなかにあって、刑務教誨に関する限り、同心一体の姿で事に当たり、業績を上げたことも、同氏の宗我を離れた政治的手腕によるものである(『教誨百年』下巻 浄土真宗本願寺派本願寺 真宗大谷派本願寺 120頁)。
<著作>『死刑囚物語』(百華苑)、月刊誌「刑務教誨」発行

★本多まつ江(ほんだ まつえ、1889年(明治22年)12月25日 - 1969年(昭和44年)4月26日。教師であり、僧侶夫人、司法保護司、教誨師(名古屋拘置所の教誨師。晩年は『死刑囚の母』と讃えられた)。旧姓は赤羽。
<来歴>
長野県東筑摩郡神林村字下神(現・松本市)に赤羽吉弥の五女として誕生する。神林尋常小学校卒業。長野県立松本高等女学校を卒業したのち、東京九段の和洋女子専門学校(現和洋九段女子中学校・高等学校)に進学。卒業後は、市立松本女子職業学校、新潟県立長岡高等女学校経て、埼玉県立久喜高等女学校に奉職。久喜高女時代は、国立療養所多磨全生園で、見習い看護婦として勤労奉仕をしている。
川島芳子の養父で、同郷の川島浪速に請われ、1916年(大正5年)4月に芳子の家庭教師となる。当時、東京・赤羽(現在の十条あたり)にあった川島邸に、まつ江は住み込みで芳子の教育にあたった。家庭教師を始めた頃、芳子は、豊島師範附属小学校に入学している。
1921年(大正10年)川島一家が東京の家を引き払い、浪速の故郷である信州松本に転居した年の3月、まつ江は名古屋市中村区岩塚町「林高寺」の住職・本多恵孝と結婚。本多まつ江となる。しかし、挙式後1ヶ月した頃にアメリカのコロンビア大学に単身留学をし、3年後の1924年(大正13年)に帰国するまで、夫とは別居生活をする。
1933年(昭和8年)「大日本連合女子青年団満州視察団員」として中国大陸へ渡り、芳子と再会している。日中戦争の間は、アジアからの留学生の援助をしていた。1938年(昭和13年)司法保護司を委嘱される。
1960年(昭和35年)名古屋拘置所の教誨師となり、晩年は『死刑囚の母』として讃えられた。癌性腹膜炎のため79歳で逝去。
<人物とエピソード>
川島芳子に対し、利害関係なく愛情を注いだ数少ない人物である。
芳子からは『赤羽のお母様』と呼ばれて親しまれ、芳子が甘えられる数少ない人物であった。
利発な芳子のことを考え、単なる家庭教師には終わりたくない気持ちもあり、まつ江は謝金を断ったという。
芳子は食事の時、まつ江の好物が膳に乗っていると、「わたし、これ嫌いだから赤羽のお母様召し上がって」と言って押し付けたという。芳子は何でも気のつく優しい子供だったそうが、ひねくれた愛情を見せる子だったのであろう。
まつ江は、当時にしてはインテリな女性であり、また国際的視野を持つ人物と思われる。
結婚直後に3年間の留学生活に入るという、行動力の裏には、僧侶である夫の絶大な信頼関係があったからであり、その信頼関係は終生変わらなかったという。
1933年(昭和8年)の再会の時は、芳子は事前にまつ江に手紙を出し、「久しぶりにお母様に会へると思ふと、飛びあがりたくなるようにうれしゅうございます。お出での時には、栄泉堂の最中と甘納豆をドッサリ買って来てね」と書いている。
戦後、逮捕された芳子の獄中からの書簡の中に、「このわたしが死んだと聞いて、悲哀の涙にかきくれ、心から歎いて下さるのは、赤羽のお母様だらう」という、赤羽まつ江に関する記述がある。
蒋介石夫人の宋美齢とは、コロンビア大学で同じ留学生クラブだった。
芳子が戦後、軍事裁判で漢奸として処させると知るや、芳子の助命活動を始める。まずは松本の浅間温泉にいた芳子の養父・川島浪速を訪ね、散在している松本高女の卒業生を訪ね、東奔西走ののち、3千名以上の署名を集めた。その趣旨は「芳子はすでに日本人であるから、漢奸として扱うべきではない」というものだった。食糧難、交通難の中、親戚友人から寄せられた資金で上京。長年親交のある大妻コタカを訪ねて落ち着くと、政界の各方面に足を運んで援助を要請した。まず社会党の松岡駒吉、長野・愛知県選出の国会議員、川島浪速と懇意の頭山満の三男・頭山秀三、GHQの幹部などに再三訪問した。しかし、多大な協力によりいよいよ北京へ飛ぶ段取りがついた時、ラジオ放送で芳子の処刑を聞いて、精根尽き果てたまつ江は卒倒したという。
<栄典・表彰>
1962年(昭和37年)11月 日本宗教連盟理事長より表彰
1966年(昭和41年)7月 名古屋矯正管区長により感謝状授与
1969年(昭和44年)4月26日 勲六等瑞宝章
<関連文献>
本多まつ江顕彰会『松風の跡』本多まつ江顕彰会(非売品)1971年
渡辺龍策『川島芳子 その生涯 見果てぬ滄海』番町書房 1972年(単行本)
渡辺龍策『川島芳子 その生涯 見果てぬ滄海(うみ)』徳間文庫1985年
上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』文藝春秋1984年(単行本)
上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝』文春文庫1988年 
上坂冬子『女たちが経験したこと 昭和女性史三部作』中央公論新社(新版)2000年

★田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1月9日 - 1957年〈昭和32年〉7月24日)は、チベット語に訳された仏教文献の精査解読とそれに基づくチベット訳と漢訳の仏典対照研究の先駆けとなった仏教学者。大正大学教授。真言宗豊山派大僧正。教誨師(花山信勝の後を受けて巣鴨プリズンの教誨師になる。『代受苦』〈地蔵菩薩の身代りの徳〉の活動が多くの戦犯者から感謝され、『巣鴨の父』と慕われた)。
大正末期、日本におけるチベット語の先駆者河口慧海に師事しチベット語を修得。昭和初期にフランスに渡りソルボンヌ大学に留学。チベット訳の『大日経』や曼荼羅の研究に学績を残した。
また大戦後、花山信勝の後を受けて巣鴨拘置所の教誨師となり、刑場に臨む戦犯に寄り添い処刑に立ち会うとともにBC級戦犯の助命減刑嘆願にも奔走した。その「代受苦」(地蔵菩薩の身代りの徳)の活動が多くの戦犯から感謝され、「巣鴨の父」と慕われた。
田嶋が出版に尽力した『世紀の遺書』(1953、巣鴨遺書編纂会)は大きな反響を呼び、その益金の一部によって東京駅前広場(丸の内南口)に「愛(アガペ)の像」が建てられ、巣鴨で処刑された戦犯らの平和への想いの象徴となった。「愛の像」のなかには本書が納められた。
<経歴>
1892年(明治25年)1月9日、栃木県下都賀郡(現在の栃木県栃木市都賀地域)で農家の四男に生れ、13歳の時、栃木市満福寺(当時、新義真言宗智山派)の長澤泰純のもとに入室。生来頭脳明晰で、常用経典の読誦や、弘法大師の主著『十巻章』や漢籍の素読に目を見張るものがあった。14歳の時、永見快賢(後の護国寺貫首)に随い得度。
1911年(明治44年)上京し、護国寺の豊山中学(現・日本大学豊山中学校・高等学校)・豊山派尋常学院に学ぶ。豊山中学を卒業後、護国寺の援護のもと、1919年(大正8年)豊山大学(現・大正大学)本科を卒業。同時に研究科(今の大学院)に進み、教授・荻原雲来の薦めにより河口慧海に師事しチベット語並びにチベット訳仏教文献を学び、『大日経』のチベット訳と漢訳の対照研究に励んだ。
1922年(大正11年)研究科を修了。その時の論文が後に出版される『蔵漢対訳大日経住心品』である。同年、豊山大学講師。1925年(大正14年)、満福寺の新師・長澤泰隆の長女フミと結婚。1927年(昭和2年)、大正大学助教授。1928年(昭和3年)、同大学教授。折しも『中外日報』紙上で、師の河口慧海が高野山大学教授・栂尾祥雲の『曼荼羅の研究』(1927、高野山大学出版部)の問題点を指摘。師の後を受け論拠を挙げて批評したところ、栂尾も田嶋の『蔵漢対訳大日経住心品』を厳しく批判。お互いに譲らず真摯な学術論争が半年続いた。
1931年(昭和6年)ソルボンヌ大学に留学。1934年(昭和9年)3月、弘法大師1100年御遠忌を機に、パリ東洋語学校のポール・ドミエヴィルやハーバード大学のセルゲイ・エリセーエフなどの協力のもと、ギメ東洋美術館新講堂で記念講演を行い、続いて「弘法大師の教義と両部曼荼羅」と題しての連続講演を行った。これを縁に東洋学のシルヴァン・レヴィやアルフレッド・フーシェと知遇を得、その指導のもとで仏文の『大日経の研究』を上梓し学位論文とした。4年10ヵ月の留学中、折からパリに滞在していた『放浪記』の林芙美子や考古学者の森本六爾たちとの交遊もあった。
1936年(昭和11年)帰国し、師・長澤泰隆の後継として高平寺(現・栃木市岩船地域)に入る。1941年(昭和16年)、宗教関係者や代議士らとともに渡米し、日米開戦回避と平和維持をアメリカ各地で訴える。1942年(昭和17年)、東京江戸川区小岩の正真寺(真言宗豊山派)に移る。
戦後、1945年(昭和20年)から、大正大学文学部長・図書館長・仏教学部長・真言宗研究室主任などを歴任。1949年(昭和24年)、花山信勝の後を受け巣鴨拘置所の教誨師となる。大学の講義中、突然会いに来たアメリカ兵から受諾を要請されたという。
1951年(昭和26年)教誨活動・助命減刑嘆願・戦犯遺族との連絡・世界宗教者会議への提訴・国連軍への輸血協力等々による過労のため巣鴨拘置所で倒れ、以後亡くなるまで肢体言語不自由の闘病生活となる。
1952年(昭和27年)巣鴨拘置所において田嶋の還暦祝賀会が行われ、「教誨師の還暦を祝う会が獄舎で行われたことがあるだろうか」「日夜、死と対決して生きる苦しみに悶える死刑の友を、生きる喜びに導いた<菩薩の変化(へんげ)>と思われる最高の師」といわれた。
1953年(昭和28年)田嶋の尽力により、戦犯と家族の遺書・遺稿701篇を集めた『世紀の遺書』が刊行され、その益金によって、1955年(昭和30年)、東京駅丸の内南口広場に「愛(アガペ)の像」が建てられた。「愛」の字を田嶋が揮毫している。
1957年(昭和32年)65歳で遷化。葬儀には旧戦犯やその家族、巣鴨プリズン関係者らが多く参列した。
弟子に柴崎徳純(栃木市太山寺)、釈昭純(東京葛飾区普賢寺、葛飾区議会議員)、義弟に長澤實導(仏教学者、大正大学教授、智山教化研究所初代所長、文博、真言宗智山派満福寺第29世)がいる。
<関連資料>
田嶋隆純『蔵漢対訳 大日経住心品』新興社(1927年)
田嶋隆純『仏文 両部曼荼羅及密教教理』田嶋隆純遺著刊行会(1959年)。新版1984年
『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(1953年)
大岡昇平『ながい旅』新潮社(1982年)。新潮文庫、角川文庫で再刊
田嶋信雄『田嶋隆純の生涯』隆純地蔵尊奉賛会(正真寺、2006年)。著者は後任の住職

★花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年(明治31年)12月3日 - 1995年(平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧侶。東京大学名誉教授。教誨師(1946年〈昭和21年〉2月から巣鴨プリズンの教誨師となり、東條英機ら7名のA級戦犯の処刑に立ち会った)。

<概要>
石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年(昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。
1946年(昭和21年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋』1952年(昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)
<家族>
長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。
次男の花山勝友は仏教学者、武蔵野女子大学副学長を務めたが、父の後を追う形で同じ年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録。
<著書>
『聖徳太子御製法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933
『聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936
『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937
『日本の仏教 内閣印刷局』(国体の本義解説叢書), 1942
『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943
『日本仏教』 三省堂, 1944
『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944
『白道に生きて』 北方出版社, 1948 (顕真叢書 ; 1)
『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949
『「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」』 中公文庫, 1995
『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949
『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982
『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982
『太平洋戦争とお念仏』 国際真宗学会, 1986
<訳註・校訂>
『法華義疏 聖徳太子』 岩波文庫上下, 1931-33 改版 1975
『往生要集 源信』 小山書店,1937 岩波文庫(旧版),1942、復刊1988、復刻版一穂社,2004 
『勝鬘経義疏 聖徳太子』 岩波文庫, 1948、復刊1988ほか/改訂新版吉川弘文館 1977
『維摩経義疏 聖徳太子』 百華苑, 1971 改訂版 1980
『上宮聖徳法王帝説』 狩谷エキ斎(棭齋)證註、岩波文庫(共注),1941 復刊1988

★加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として尽力したので『モンテンルパの父』と慕われた。
<概要>
1901年1月5日、岡山県真庭郡落合町の極楽寺に生まれる。落合尋常小学校を卒業後、おなじ落合にある木山寺に入り、住職の高藤秀本に師事し漢籍・経文を習った。1929年、真言宗京都大学を卒業して真言宗の僧侶となる。宝蔵院の住職をつとめたのち、高野山東京別院の副主監となる。
1949年11月4日、フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。当初、6ヶ月の任期であったが、自ら無給で残ることを決め、死刑判決を受けて、処刑の瀬戸際に立つ日本人戦犯の助命活動にたずさわる。ダグラス・マッカーサー元帥などの、当時の日本の指導者たちに助命嘆願書を提出するも、1952年1月19日には、明らかに無実の者もいる日本人BC級戦犯14名の処刑に立ち会う。3月半ばのある日、戦犯たちと会議をもち日本への世論喚起のため、歌の作成を提案する。こうして完成した歌は、死刑囚である代田銀太郎作詞で、同じく死刑囚の伊藤正康作曲の『モンテンルパの歌』と題がつけられて日本へ郵送された。
そして、この歌はNHKラジオ「陽気な喫茶店」で紹介され、たまたまゲストとして出演していた歌手の渡辺はま子の目にとまった。そして当時、鎌倉にあった自宅に帰ると、すぐにピアノで試し弾きをやってみて、望郷と帰国の念に駆られる感じ漂う哀しいリズムの歌であることを知った。そして、自分がかつて、戦争協力者として台湾や中国大陸各地の前線や基地、軍の病院を歌で慰問して巡っていた頃の自分を責め、生涯をかけてこの歌を歌っていこうと心に決めると、さっそく曲の手直しと編曲にとりかかった。具体的には当初、5番から成っていたものを2番削除して3番構成とした。そして曲名も『あゝモンテンルパの夜は更けて』と改められて発表された。レコードも宇津美清とのデュエットで吹き込んだものがビクターレコードから発売され、20万枚の売り上げを記録するなど大ヒットする。当時のローマ法王のピウス12世に協力要請を行い、フィリピン大統領へのメッセージが実現し、フィリピン大統領との会見が実現する。1953年5月、当時のフィリピン大統領エルピディオ・キリノと面会した。そして、このときに『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールをプレゼントする。大戦末期に行われたマニラ市街戦で、妻や子を日本軍に殺害されていたキリノ大統領も、オルゴールの中の曲の作詞作曲が2人の日本人戦犯であることを加賀尾氏より知る。そして、会見から1ヶ月後の6月27日、日本人戦犯の釈放が決定される。こうして1953年7月7日、フィリピン独立記念日の日、晴れて日本人戦犯の全員特赦と帰国が実現し、7月15日、処刑された戦犯兵士の遺骨17柱と、戦犯としてニュー・ビリビッド刑務所に収容されていた108名の元日本人兵士同胞とともに、現地時間の午後2時過ぎに帰還船「白山丸」(日本郵船所属の貨客船)でマニラを出港し、7日後の7月22日朝、横浜港大桟橋着で日本に帰国する。
その後、日本国内で僧侶として活躍しながら、『13階段と平和』と題して講演活動を行う。1973年には、日比親善に功労があったとして、勲三等旭日中綬章を授与された。
1977年5月5日朝、岡山県井原市の自坊で3度目の脳出血を発症して倒れる。倉敷市の倉敷中央病院に入院するも、5月11日重篤に陥り、3日後の5月14日午前12時22分、死去する、享年76歳。
<演じた人物>テレビドラマ・・・小日向文世『戦場のメロディ 〜108人の日本軍兵士の命を救った奇跡の歌〜』(2009年9月12日、フジテレビ)薬師丸ひろ子演じる渡辺はま子が主人公となっているものの、処刑立会いのシーンや歌作り提案の場面など、加賀尾秀忍が登場する重要な場面も少なからずある。
<著作>
モンテンルパに祈る 1953年 富士書苑

★道城 重太郎(どうじょう じゅうたろう、1905年(明治38年)5月26日 - 1980年(昭和55年)2月6日)は、牧師、日本イエス・キリスト教団の第2代目委員長。教誨師(神戸刑務所教誨師)。
<生涯・初期>
福岡県京都郡蓑島村に生まれる。1923年(大正12年)に日本メソジスト教会行橋教会で求道を始め、梶原景虎牧師の指導を受ける。
<入信・献身>
伝道会で沢村五郎の説教を聞いて新生を体験する。1923年11月フィリップ宣教師より洗礼を受ける。1925年(大正14年)日本伝道隊御影聖書学舎(現、関西聖書神学校)に入学し、神学を学ぶ。
<日本伝道隊牧師>
1926年に神学校を卒業して岡山独立教会へ赴任する。1930年(昭和5年)に小林静英と結婚する。1935年(昭和10年)正教師の按手礼を受ける。翌年、明石人丸教会に赴任する。
<日本イエス・キリスト教団>
1951年(昭和26年)に日本イエス・キリスト教団が創設される時に教団の設立に参与する。1958年(昭和33年)まで教団の副委員長として、小島伊助委員長を補佐する。1958年より日本イエス・キリスト教団第2代目委員長として、1965年(昭和40年)まで教団を指導した。
1961年(昭和36年)には日本イエス・キリスト教団代表として新改訳聖書刊行協力会に加わる。
神戸刑務所教誨師、関西聖書神学校の講師としても活躍した。1980年(昭和55年)に現職のまま死去する。
<参考文献>『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年

★大谷 光照(おおたに こうしょう、1911年(明治44年)11月1日 - 2002年(平成14年)6月14日)は、日本の宗教家で浄土真宗本願寺派第23世宗主、伯爵。諱は光照。法名は勝如上人。院号は信誓院。 昭和天皇の従兄弟にあたる。教誨師。
<経歴>
第22世法主大谷光瑞(鏡如上人)の実弟大谷光明 (浄如上人)の長男として京都府京都市で誕生した。母は九条道孝の七女紝子(きぬこ)、紝子の姉は大正天皇皇后(貞明皇后)の節子。
1914年(大正3年)、西本願寺の疑獄事件に端を発して光瑞が法主の座を引退、弟の光明に継承権があったが、光瑞が遠慮を求めて光明も就任を辞退した。新々門であった光照は当時4歳であったため、大谷家側近(近松尊定、六雄澤慶など)が4代にわたり管長代理を務めた。1927年(昭和2年)に得度して第23世法主を継職。以後50年の間、本願寺派教団の陣頭指揮にあたった。
その後、旧制第一高等学校を経て1935年(昭和10年)に東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。1937年(昭和12年)4月、徳大寺実厚長女の嬉子と結婚。1977年(昭和52年)、門主を引退し前門となる。
<戦前戦中の活動>
青年法主光照は、昭和の戦時下の教団を指導した。1933年(昭和8年)には声明集の改定に取り組むなどする一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。国家神道と結びついた「戦時教学」を推進した。
特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。戦時中に発布された消息では、天皇のため命を捧げよと次のように説いている。 「凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候」
光照自身も度々軍隊慰問を行い、南京攻略戦直後には自ら南京に入城し犠牲者追弔会を行った。教団も戦争協力の名目で大量の戦時国債を購入し、戦後の教団財政の危機を招くこととなった。今日、「戦時教学」を推し進め、その指導的立場にあった光照らの戦争責任を問う声もある。
西本願寺は敗戦後GHQの指導のもとで、宗制の改革を行い、宗主の権限を縮小し、西本願寺の象徴的存在へと変更となる。1945年(昭和20年)まで、法主または門跡と呼称されたが、1946年(昭和21年)より、門主と改称される。
<戦後の主な活動>
1946年(昭和21年)管長制廃止などの教団制度改革を実施
1948年(昭和23年)蓮如上人450回遠忌法要
1961年(昭和36年)親鸞聖人700回大遠忌法要
1973年(昭和48年)親鸞聖人誕生800年・立教開宗750年慶讃法要
<主な職歴>
1952年(昭和27年)第2回世界仏教徒会議名誉総裁
1955年(昭和30年)全日本仏教会会長
1956年(昭和31年)全国教誨師連盟総裁
1961年(昭和36年)全日本仏教会会長(2回目)
1962年(昭和37年)財団法人全国教誨師連盟総裁
1969年(昭和44年)全日本仏教会会長(3回目)
1970年(昭和45年)世界宗教者平和会議京都大会名誉総裁
<人物>
門主在任中には、正信偈の改譜をはじめ、法式規範などを着々と整備していったことからも伺えるように、儀式儀礼には非常に厳格な面があった。
趣味は切手収集、テニス、ゴルフ好きでも知られた。
<著書>
『唐代の仏教儀礼』(有光社、1937年)
『「法縁」抄 : 勝如上人の九十年』(本願寺出版社、2002年7月

★古川 泰龍(ふるかわ たいりゅう、1920年8月23日 - 2000年8月25日)は、日本の真言宗の僧侶。教誨師(福岡刑務所の死刑囚教誨師。死刑囚の冤罪撤回運動に尽力した)。
<生涯>
真言宗の僧侶の子として、佐賀県に生まれる。
高野山専修学院を卒業し、佐賀県藤津郡塩田町の真言宗常在寺の住職となる。1952年より福岡刑務所で死刑囚教誨師を務める。福岡事件の2人の死刑囚と面会する。現場に赴き検証を進め冤罪と判断する。1961年より彼らの無実を訴えるため本格的に助命運動をはじめる。1975年に、完全無罪を主張している1人は、死刑執行となり、実行したが防衛行為であると主張している1人については、無期懲役となり、1989年に仮釈放となるが、古川泰龍は身元引受人となる。40年近く、福岡事件の真相を求める運動で、先頭に立つ。真相究明書『白と黒のあいだ』を、河出書房から出版する。
熊本県玉名市の立願寺に転居。1964年1月2日、冤罪救済支援のため訪ねてきた自称「弁護士」を、当時11歳の娘が強盗殺人指名手配犯の西口彰と見破り、警察に通報、翌日の逮捕に協力する(西口彰事件)。このいきさつが、フジテレビで1991年にドラマ化される(amazon.co.jp実録犯罪史・恐怖の24時間~連続殺人鬼~西口彰の最後)。このドラマでは、古川泰龍がモデルの人物を河原崎長一郎が演じる。逮捕後も、西口彰と手紙のやりとりを行い、書物の差し入れもする。
1965年、ベトナム戦争の泥沼化で、アメリカの戦争介入に反対する市民運動が世界各地に起こるが、「ベトナムに平和を!市民連合」の玉名の運動、「玉名ベ平連」の結成に家族で参加する(旧「ベ平連」運動の情報ページ-元「玉名ベ平連」の古川泰龍さん、8月25日に逝去)。1969年4月のベ平連九州地区懇談会の場所を提供するなどする。
1969年、「神戸シュバイツァーの会」会長の牧師の向井正からアルベルト・シュヴァイツァーの遺髪を授かり、1973年、「生命山シュバイツァー寺」を開山する。1986年に、この寺で生活したイタリア人神父のフランコ・ソットコルノラとの話で、カトリックの別院を設ける(与えられた死-シュバイツァー寺住職・古川泰龍、福岡事件再審請求を支える古川龍樹・龍桃さんに聞く)。
1984年、「日中戦争強制労働殉難者の慰霊塔」を建立する。中国に行き、南京大虐殺記念館での犠牲者の慰霊法要を行う(中華人民共和国駐日大使館-日本の友人が南京大虐殺犠牲者の慰霊法要)。
仏教の僧侶として、キリスト教関係者との対話も重視している。ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世とも3回面会している(福岡事件再審請求を支える古川龍樹・龍桃さんに聞く)。
2000年8月25日に死去。80歳没。
<著作>
『福岡、中国人闇ブローカー殺し殺人請負強盗殺人事件真相究明書 - 九千万人のなかの孤独』(コスモス社、1963年→花伝社、2011年)
『白と黒とのあいだ - 福岡誤殺事件』(河出書房新社、1964年)
『「死」は救えるか 医療と宗教の原点』(地湧社、1986年)
『歎異抄 - 最後の一人を救うもの』(地湧社、1988年)
『叫びたし寒満月の割れるほど - 冤罪死刑囚と歩む半生』(法蔵館、1991年)
『「他力」を明かす - 続歎異抄・念仏のこころ』(地湧社、1992年) 4-88503-093-5
<論文>CiNii>古川泰龍

★岡村 又男(おかむら またお、1931年 - )は、日本の牧師。横須賀中央教会担任牧師、日本聖書刊行会理事長、日本同盟基督教団顧問、久里浜少年院教誨師。群馬県生まれ。教誨師(久里浜少年院教誨師)。
1931年、群馬県出身。舟喜麟一が牧した福音伝道教団前橋キリスト教会が母教会。同盟聖書学院(第三期生)卒業後の1955年、日本同盟基督教団横須賀中央教会牧師となる。その後日本同盟基督教団理事、同理事長、東京基督教短期大学非常勤講師、東京基督教大学非常勤講師などを歴任。東京基督教大学教授の岡村直樹は息子。
2007年日本福音功労賞を受賞する。
<著書>
「主に喜ばれる教会生活」、「主に喜ばれる結婚と家庭生活」「教会員の手引き」「式文」

★鈴木 啓之(すずき ひろゆき、1955年11月-)は日本の牧師、ミッション・バラバ伝道者、NPO「人生やりなおし道場」の道場長、「ふるさと志絆塾」の塾長、教誨師(府中刑務所教誨師)。元暴力団員。2001年(平成13年)製の日韓合作映画『親分はイエス様』のコンセプトモデルとなった「ミッション・バラバ」(暴力団組員等の過去をもつ牧師を中心に結成されたキリスト教宣教団体)の代表者。
<経歴・初期>
1955年(昭和30年)11月大阪市天王寺区の病院で、製薬工場の経営者を父として生まれ、生野区で幼少期を過ごす(鈴木の父は、明治大学で考古学を専攻し、新聞記者などを務める。鈴木が生まれたころは製薬会社を経営していた。両親は創価学会の会員の教学の最高位の『教授』であり、鈴木も幼少期から大石寺の例会などに行っていた熱心な創価学会会員だった。
天王寺区の私立高興国高校商業科に進学する。中退して、ラーメン屋でバイトを始める、翌4月に経理学校に入学するが、半年で退学して、建設関係の仕事をする。
<暴力団員時代>
1972年(昭和47年)頃、暴力団とのトラブルに巻き込まれたことがきっかけになり、酒梅組5代目組長谷口正雄の甥の紹介で、酒梅系の組織に入会する。有名な博打打ちとして、大阪で暗躍し年間20億円以上を稼こともあり、週刊誌で紹介されたこともあった。
1975年(昭和50年)頃、暴力団同士の抗争の後に、警察の捜査を逃れるために瀬戸内海岸に潜伏し、砂利船の作業に従事する。半年後大阪に戻り、最初の結婚をする。1980年頃、警察に出頭し、暴行と器物損壊、ひき逃げの罪で実刑判決を受け、奈良少年刑務所で服役する。1985年頃、3回の抗争に関連して、凶器準備集合、暴力行為で2回目の実刑判決を受けて、大阪刑務所に収監される。
<博打打ち時代>
賭博で3億の借金を負ったことで、組に迷惑をかけまいと思い組に破門状を出してもらい、フリーの博打ちになる。組長から3000万を預けられ、抗争資金の捻出を依頼される。
2度目の、懲役刑が終わって出所した直後に、大坂のコーリャン・クラブで働いていた韓国人女性(現在の鈴木夫人)に出会う。その韓国人女性が不慮の事故で、膝の皿を割り全治三カ月と診断された。しかし、彼女自身と教会のいやしの祈りにより奇跡的に回復する。この奇跡を見て、キリストの力を博打で生かそうと思い自ら教会に出席するようになる。そして、1988年(昭和63年)12月5日の教会で結婚式を挙げる。
奇跡的に3億の借金を清算することができたが、1990年(平成2年)3月、他の組の親分から預かった活動資金を博打に使い込んだことから再び命を狙われる身となる。
大阪から逃亡し、東京都新宿の歌舞伎町に愛人と共に潜伏するようになる。逃亡生活のストレスで不整脈、慢性疲労症候群、自律神経失調症などを患い、通院するが、自殺を考えるほどに追い詰められる。逃亡生活から9か月目の12月に近所の新大久保にある東京中央教会という韓国人系の教会に駆け込む。駆け込んで3日目の礼拝でに日本人副牧師の平塚正弘から「誰でも変わることができる」と声をかけられて回心する。すぐに、新幹線で大阪に戻り妻と再会する。
<神学生時代>
1991年(平成3年)1月東京渋谷区本町の家で妻子と同居し、東京中央教会に通うようになる。
1991年4月に東京中央教会の東京中央神学院に入学する。神学の学びを続けながら、6月からは生活費のために神学校同級生と共に工事現場で働くようになる。7月に『ジェリコ・ジャバン』の聖歌隊に参加する。その時、メッセンジャーだったアーサー・ホーランドと松沢秀章の影響を受けて、新宿で路傍伝道をするようになる。その時、同じく新宿で伝道をしていたアーサー・ホーランドと親しくなり、十字架行進の話が決まる。1992年春の神学校2年生の時に、半年間の休学届を出し沖縄から十字架行進を始める。北海道宗谷岬まで行き、1992年のジェリコ・ジャパンの大阪集会で十字架行進は終了する。その後、杉並区下井草のマンションに住み、建設現場に復帰し、神学校の学びを再開する。
1993年(平成5年)の夏休みに韓国を訪問し、釜山から板門店まで十字架行進を行う。行進中に毎日韓国の教会で集会を開く。元従軍慰安婦などにも謝罪をする。また、夫人の実家にも訪れる。
1993年の暮れに、鈴木ら7人の元ヤクザとアーサー・ホーランドと松沢秀章らが「ヤクザ・フェローシップ」という聖書研究会を始める。それが、改称しミッション・バラバという伝道団体になる。2007年まで鈴木が代表を務める。
<牧師時代>
1994年(平成6年)3月神学校を卒業すると錦糸町にある韓国系教会『ハレルヤ東京教会』に牧師に迎えられる。1994年11月にはミッション・バラバのメンバーと北米の伝道旅行に出かける。その活動がアメリカ合衆国の日系人新聞『羅府新報』や『オークデール・リーダー』などのマスコミに取り上げられ、日本でも毎日新聞などで取り上げられる。
船橋市東船橋で支教会の開拓伝道を始め、ハレルヤ所望(ソマン)教会を発足させる。ハレルヤ教会の活動が軌道に乗ると、1995年頃から開拓伝道を始め、1995年10月31日にシロアム・キリスト教会が設立され、アーサー・ホーランド、小坂忠らに按手礼を受ける。
1998年3月アメリカ合衆国ワシントンD.C.のヒルトンホテルで開催された、ビル・クリントン大統領(当時)も出席する『朝食祈祷会』(英:National prayer breakfast)に出席し昼餐会でスピーチをする。
2001年に劇場公開された映画『親分はイエス様』では、鈴木がモデルの一人になった。2003年には、進藤龍也(現在・[罪人の友]主イエス・キリスト教会牧師)ら元暴力団員が住みこむ。そのことがきっかけになり、もと暴力団員らが、人生をやり直すための共同生活所の『やりなおしハウス』が誕生する。
2004年3月に鈴木は府中刑務所の教誨師に任命される。2008年9月にシロアム・キリスト教会は会堂を船橋市東船橋より千葉県柏市へと移転する。2009年3月にはNPO法人「人生やり直し道場」を設立し、道場長になり、2010年9月には柏市五條谷に新会堂を建設し、教会堂を移転する。
現在、シロアム・キリスト教会主任牧師、「人生やりなおし道場」の道場長、ふるさと志絆塾の塾長などで幅広い活動を行っている。
<教会のアクセス>
シロアム・キリスト教会は、千葉県柏市あけぼの3-9-3(国道6号水戸街道沿い呼塚交差点近く)にあり、同施設には「人生やりなおし道場」を併設している。そこから巣立った牧師・宣教師も多数いる。
また分教会として、北海道札幌市のすすきのに「シロアムクリストチャーチ」をオープンしている。
<著書>
「愛されて、許されて」(2000年10月、雷韻出版刊。
「誰だって人生をやり直せる」(2001年4月、飛鳥新社刊。
<参考文献>
アーサー・ホーランド『親分はイエス様』PHP研究所、1996年
鈴木『愛されて、許されて』雷韻出版、2000年
金沢泰裕『イレズミ牧師とツッパリ少年達』集英社、2000年
進藤龍也『極道牧師の辻説法』学研パブリッシング、2010年

★塩谷 直也(しおたに なおや、1963年(昭和38年)-)は、日本の神学者、青山学院大学法学部教授。教誨師(府中刑務所教誨師)。
<学歴>
1987年、国際基督教大学教養学部卒業
1992年、東京神学大学修士課程修了
<職歴>
日本基督教団中京教会副牧師
梅ヶ丘教会牧師・府中刑務所教誨師
青山学院大学法学部教授
<研究分野>
宗教学、組織神学
<著書>
迷っているけど着くはずだ(新教出版社 2000年)
忘れ物のぬくもり―聖書に学ぶ日々(女子パウロ会 2007年)

★進藤 龍也(しんどう たつや、1970年(昭和45年)12月23日- )は牧師、教誨師。元暴力団員。刑務所伝道になどに従事する。
<経歴・初期>
1970年(昭和45年)に埼玉県蕨市に生まれる。1973年(昭和48年)3歳の時、交通事故に会い、脳挫傷、脳内出血、頭蓋骨骨折の重傷を負うが九死に一生を得る。中学1年の頃から非行に走る。地元の暴力団の草野球チームに入団する。
<暴力団員時代>
17歳頃から池袋の暴力団の事務所に出入りして、1988年(昭和63年)にスカウトを受け、盃をいただいて正式に暴力団員になり、その後広域指定暴力団の武闘派の暴力団の組員になり、池袋をテリトリーとする覚醒剤密売人になる。18歳で西川口で傷害事件を起こして逮捕される。埼玉県警南警察署に留置所に拘留される。その後、浦和少年鑑別所(現さいたま少年鑑別所)に入れられるが、情状酌量を引き出し短期間で出所する。
1989年(平成元年)に、かまぼこ工場の社長の債権の取り立てをしている際に、不渡りを出した社長の自宅を占拠した理由で逮捕され、鑑別所送りを免れ、20日間、四谷警察署の留置場に拘留された後、処分保留で釈放される。
1992年(平成4年)に、執行猶予中に覚醒剤使用の容疑で逮捕される。浦和拘置所支所に収容された後、刑事裁判で1年2カ月の判決を受け、川越少年刑務所に収監される。3カ月の分類審査の後に、松本少年刑務所に懲役刑で収監される。執行猶予が付いていた1年2カ月を含めて2年4カ月収監される予定であったが、2カ月早く茨城の叔父が身元引受人になり、仮釈放される。
1994年(平成6年)に覚醒剤の譲り渡しの容疑で逮捕され、秋田刑務所に2年8カ月収監される。秋田刑務所内の受刑者向けの「キリストクラブ」で初めて福音を聞く。ミッション・バラバに関する鈴木啓之の著作と差し入れられた聖書を読み、キリスト教に興味を持つようになる。 秋田刑務所を出所後に、「ミッション・バラバ」の本を見つけ、鈴木牧師に電話をする。鈴木牧師に「ヤクザにつまづかないように祈っていて下さい」とお願いする。
1998年(平成10年)には、28歳で同系の他の組に移籍して組長代行になる。しかし、覚醒剤中毒で破門になる。
<回心>
2001年(平成13年)5月13日東京都日本橋で覚醒剤所持の容疑で逮捕され東京拘置所に留置される。その時鈴木啓之牧師から減刑の嘆願書を書いてもらう。また、内縁の妻から差し入れられた聖書を読み、旧約聖書のエゼキエル書33章11節を読んで回心する。刑務所の中では、月岡世光に手紙を書いて聖書の教えを学ぶ。その後、裁判で2年4カ月の実刑判決を受け松江刑務所で懲役刑に服する。月岡に紹介された国際聖書通信講座で聖書を学ぶようになる。
<神学生時代>
2003年(平成15年)に2年4カ月の松江刑務所での服役が終わると鈴木啓之牧師のシロアム・キリスト教会に住みこむ。鈴木牧師より洗礼を受けてクリスチャンになる。シロアム・キリスト教会に鈴木牧師を慕い、進藤ら元暴力団員らが住みこむようになり、教会の祈りと献金で「やりなおしハウス」ができる。そして、JTJ宣教神学校に入学して、牧師を目指す。
<開拓伝道・牧師時代>
2005年(平成17年)2年で全科目を終了しJTJ宣教神学校を卒業する。神学校の恩師中野雄一郎の紹介で、中野雄一郎、岸義紘、鈴木啓之、安田眞の4人の牧師に按手礼を受けて牧師になる。
川口の公民館を借りて土曜日に聖書研究を始めながら、単独で開拓伝道を始める。母親のスナックを会場に、土曜日に礼拝をすることになる。その教会をマタイの福音書9章13節に基づいて、「[罪人の友]主イエス・キリスト教会」と命名する。
<参考文献>
進藤龍也『人はかならず、やり直せる』中経出版
進藤龍也『極道牧師の辻説法』2010年
『クリスチャン情報ブック』いのちのことば社
鈴木啓之『イレズミ牧師どん底からの再出発方法』

★兼松 一二(かねまつ かつじ)生年不明。1971年(昭和46年)より活動歴あり。友愛キリスト教会の牧師。JTJ神学校講師、東海神学塾講師、教誨師(笠松刑務所の教誨師。中部教誨師会理事)。 友愛グループ牧会長
<経歴>
1971~1994岐阜県の同盟福音キリスト教会。 
笠松キリスト教会で牧師を務める。
1994 岐阜県各務原市にて開拓伝道を始め、今に至る。
2002法務大臣賞をいただく。
2006長年にわたる教誨師として奉仕した功績により、藍綬褒章を受章。
<現在>
宗教法人 友愛キリスト教会牧師。
JTJ宣教会神学部長として、講師を務める。
東海神学塾講師。
笠松刑務所で教誨師を務める。
中部教誨師会理事を務める。
岐阜県教誨師会副会長を務める。



by sentence2307 | 2019-04-11 10:42 | 映画 | Comments(0)
あまり見ることのなかったタイプの番組ですが、先週、BSの「ザ・プロファイラー」(司会は岡田准一)で「オードリー・ヘップバーン特集」を放送していたので、さっそく見てみました。「プロファイラー」的な側面からオードリー・ヘップバーンを見ようというのですから、ただ事じゃありません。ヘップバーンは、もっとも好きな女優のひとりなので、「聞き捨てできない」という思いで見ました。彼女のこと、ひどいこと言ったら承知しないぞという感じです。

そりゃあ「美しさ」だけのことなら、現代だって匹敵する美形の女優なら幾らでもいると思いますが、あの気品と天性の愛らしさを兼ね備えた女優というと、そうはいません、というか、正直言って、オードリー・ヘップバーンに匹敵し、ましてや超える女優など、いまだかつて見たことも聞いたこともないと言い切ってもいいくらいだと思っています。

少女期をナチスドイツ侵攻の圧制下のオランダで過ごしたヘップバーンは、飢えと死の恐怖を経験したことで、後年になってもずっと、同時代を同じ悲惨な状況で生き、そして殺されたアンネ・フランクの無残な死を胸に秘め、いつまでも忘れずにいたことや、あるいは、バレリーナ志望だったのに戦時中の栄養不良がたたって体力的にプリマになるのは到底無理と宣告され、それでなくとも男性よりも身長が高かった不運も重なりバレリーナになることを諦めたとか、今回はじめて知ったことが数多くありました。

それに、そもそも映画出演の切っ掛けというのが、「女優志望」でもなんでもなくて、ただ生活費を稼ぐためのほんのアルバイト気分にすぎなかったという部分も思わず失笑してしまいましたが、もっとも興味深かったのは、「ローマの休日」の主役が、当初はエリザベス・テイラーで企画が進められていたという部分でしょうか。

もし、あの主役が大女優エリザベス・テイラーになっていたら、それこそ美しさを鼻にかけた高慢な王女を演じるくらいがせいぜいだったでしょうし、共演した名優グレゴリー・ペックだって、みすみす一歩しりぞいて主役の座を女優に譲るなどという奥ゆかしさを見せることもなかったに違いありません。

ヘップバーンが、ほとんどそのデビュー作で(端役での小品出演というのがそれまでに何本かあったようですが)アカデミー主演女優賞を射止めたのですから、それこそ突如彗星のように出現した驚異的なデビューといっていいと思いますが、しかし、たとえあれほどの美形であって、それに「気品と天性の愛らしさ」を兼ね備えていたとしても、ただそれだけでは「アカデミー主演女優賞」受賞というのはあり得なかったと思っています。

そこにはスタッフやキャスト、そして時代を超えた新たなスターをずっと待ち望んでいた映画関係者やアカデミー会員の強いプッシュがあって意識的・好意的に「栄光への道」を作ってあげなければ、決してあの栄光に到達することはなかったはずです。

そんなことを、ぼんやり考えながら数日過ごしていたとき、迂闊にもビデオの予約を間違えて、考えてもいなかった映画を録画していることに気がつきました。

その作品というのは「マーロン・ブランドの肉声」という2015年のドキュメンタリー作品でした。

しかし、「オードリー・ヘップバーン」ならともかく、「マーロン・ブランド」では、はっきり言って自分としては「意識」して録画するような存在でも、自分好みの俳優でもありません。

ウィリアム・ワイラーやグレゴリー・ペックが、オードリー・ヘップバーンのか細く健気な彼女のために何とかしてあげたいと助力に努めるような妖精のごとき存在ならともかく、マーロン・ブランドの印象というのは、躁鬱の振れが激しく、すべてがやたらに重たくて扱いにくい泥沼のような存在でしかありません、道の向こうから彼がやって来るのが見えたりしたら、喧嘩でも吹っ掛けられて絡まれては大変です、面倒なトラブルに巻き込まれるより先に、あわてて横道にそれて逃げたくなるような厄介な存在です。

とにかく、この映画「マーロン・ブランドの肉声」を一応通して見てみたのですが、案の定、マーロン・ブランドの惨憺たる生涯をこれでもかというくらい徹底的に突き詰めて描いた救いのない悲惨な作品でした。

映画の冒頭、意表を突くようにデジタル画像されたマーロン・ブランドの顔が映し出され、

「マーロン・ブランドは多くの音声録音を残したが、これまで人の耳に触れることがなかった。」というナレーションのあとで、こんなふうに語り出されます。

≪録音を始める。モノラル録音で、マイクは1番を使用する。
それではまず説明をしよう。
私は頭をデジタル化した。レーザーをこう当てられてね。顔もデジタル化した。いろいろな表情をしたよ。しかめつらや笑顔、悲しげな顔も、すべてデジタル化される。生の役者ではなく、パソコンの中の役者だ、そういう時代がやってきたんだ。
これが自分の遺作となるかもしれない。≫

そして、さらに続けて

≪明日、明日、明日とは。
日一日と確かな足取りで忍び寄り、最後の歴史の一節へとたどりつく。
そして、昨日という日は、愚者がチリと化す道筋を照らす。
つかの間のロウソクは消え去るだろう。
人生は歩くつかの間の影でしかない。
下手な役者も、舞台で大げさに振舞ってはいても、すぐに姿を消す。
人生は愚者が語る物語。響きも感情もすさまじいが、そこにはなにものも存在することのない無意味なものだ。
これは、そんな私の生活に関するプライベートの記録といえるだろう。≫

「彼は過去に生きる男で、孤独の中で苦悩した人物に思える。困惑や悲哀、そして孤独や不満の状態に悩まされているようだ。社会生活が難しいほど傷ついていて機械人形のようになっている。自分への扱いに不満で怒りを抱いていたのかもしれない。映画の情報などをこうして集めて自分を理解しようとしていた。」

マーロン・ブランドの父親は、アメリカ各州を旅するセールスマンで普段は家におらず(旅先で飲んだくれて女遊びをしていたことは、ブランドの述懐のなかにあります)、たまに帰ってくると酔って母親を罵倒し殴りつけるようなアル中の横暴な父親でしたし、母親はオマハの地方劇団の女優をしていて、やはり家には寄りつかず、ときには酔って留置場にいるのをブランドがタクシーで引き取りにいったという話も映画のなかで紹介されています、この母親もまたやはり手の付けられないアル中でした。

しかし、この映画のなかで母のエピソードを語るマーロン・ブランドは、そういう母親との思い出を決して悪しざまには語ることなく、どこまでも深い愛を感じさせる同情的な述懐を展開していますが、しかし、彼が話すエピソードのどれにも母親の愛情を裏付けるような具体的な事実が提示されるわけではありません、まるで「そうあってほしい」というような(たぶん虚偽だから、なおさら)空虚な回想を聞き続けていると、そこには父親に対する絶対的な敵意(のちにそれが「殺意」であったことが仄めかされます)と絶望的な嫌悪のはけ口として、行き場のない感情が仕方なく母親の方に流れたというだけにすぎなくて、この母親もまたマーロン・ブランドにとっては、やはり「嫌悪」の枠内に位置していたことが次第にあかされます。

居場所のない家を早朝に抜け出し、孤独を持て余した少年マーロン・ブランドは誰ひとりいないオマハの町をさまよい歩きます。

≪心を漂流させよう。過去へ、遠いむかしへ。
まだとても若い頃、あの頃は、朝起きると皆が寝ているあいだに服を着て、オマハの町の舗道を歩いては、大きな楡の木の下に坐った。光の中で風が木の葉の影を揺らしていた。優しい夢で、柔らかな風が呼んでいるようだった。あの風だけは信じられるものだと思った。君は私の思い出そのもの≫

≪自由にならねばと一生をとおして強く思った。あの列車に乗ったとき私は自由だった。車両で立ってレールの音に耳を傾けた。こんなふうに変わったリズムだ。
ニューヨークに到着したときは靴下にも心にも穴があいていた。
酔って舗道に横になり、眠ったこともあったが、行き交う人は誰ひとり無関心でそんな男を気にとめる者などいなかった。
人にはとても興味があった。彼らのことを知りたくてしょうがなかった。道行く人の顔を長いあいだ眺めていた、タイムズスクエア近くのタバコ店にもよく行った。そして人の顔を3秒眺めて、その人の人柄を分析したりした。顔には多くのことが隠されている。人は何かを隠しているものだ。本人も気づいてないことを推測するのが面白かった。何を感じ、何を考え、なぜそう感じるのか。それがどのようにして、それぞれの振る舞いに至るのか。答えはなにか、いや、そもそもそこに答えなんかあるのか。
人は本心から望むこと、達成感を得られるようなもの、そういったものを望むものだ。
自分を無知な人間だと感じていた。ろくな教育も受けず、何の知識もない人間、劣等感がまるで糞のように喉元まで詰め込まれた無価値な人間、自分を愚かだと感じていた。≫

1943年の秋、マーロン・ブランドは、グリニッジ・ヴィレッジ12丁目にあるニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの演劇ワークショップに入学し、そこで演技指導者ステラ・アドラーと出会います。そして、ステラから運命のスタニスラフスキー・メソッドを学びました。

ニュースクールで学ぶために父親に学費を送金してくれるようブランドが頼んだとき、父親は「お前なんか、どうせろくなものにならんだろうから、期待などしてないがね」と嫌みを言われ、冷笑されたことに深く傷ついたことを生涯忘れませんでした。

ステラは、ブランドに絶えず「恐れるな、ありのままの自分を出して好きなように演じていいのよ。舞台では自分に正直であること。多くの感情を掘り下げ、愛や怒りをさらけ出して、あなたを苦しめている感情を表現に変えるの」と言いつづけます。

しかし、そのように役者として自分の感情を高揚させ爆発させるメソッドを教授され体得したとしても、しかし、その一方で、常識を備えた普通人として、高揚した感情を飼いならし、収束の方法までは教えてもらえなかったことが、やがてマーロン・ブランドの生涯を惨憺たるものに貶めたことは間違いありません。

人間の奥底にはなにかドロドロしたものがあるに違いない、そうでなければならないはずだと固く信じているマーロン・ブランドにとって、「普通の感情」や「普通の人間」という存在がどうしても理解できず、演じることもできないまま周囲との軋轢を生じさせつづけました。

≪誰もが人に言えないような逸話を持っている。過去を持たない感情では、現在を表現できない。われわれは早い段階で演技の術を得る。子供の頃にオートミールをこぼしたのも母の気を引くための演技だ。演ずることは生き残ることと同じだ。≫

≪ああ、私の母だ、その写真。母が40歳くらいの写真だ。母は、素晴らしい人だった。独創的で、芸術的な人だったよ。母をよく思い出す。酒の匂いがする息も大好きだった。すごく甘い香りだった、いい香りだ。母は、アルコール依存症で、住んでいた町は小さくて、母のことを皆が知っていた。母は、徐々に家に寄りつかなくなり、まったく姿を消してしまうこともあった。どこへ行っていたのか、時には拘置所に迎えに行ったこともあった。思い出すと今でも恥ずかしさで胸が震えて、怒りの感情で自分が抑えられなくなってくる、このまま気が狂ってしまうんじゃないかと思うこともあるよ。≫

≪金を得るためだよ。ずっと貧乏だった。父は巡回販売員だった。私は半年の仕事で、父の10年分の稼ぎを超えた。父の判断基準は金だった。出来損ないの息子の稼ぎを理解できなかったようだ。怒ることが必要なシーンでは、自分の中で怒りを表す仕組がいる、いわば「感情を高揚させるための手続き」というか、怒りに満ちた何かの仕組みだ。
父が母を殴った記憶がある。私は14歳だった。親父は強い男だ。バーでも喧嘩をした。自分への嫌悪も抱えていただろう。家に寄り付かず、中西部で飲んで女遊びをしていた。意味もなく私もよく殴られた、当時は父に怯えていた。とてもつらいことが起きると意識から消そうとする。忘れたいんだ。毎晩どこかへ出かけて行って、癇癪を起して一晩を過ごす。メチャクチャになるほど、泣いたり叫んだりする。これがかなりきつい。演じた役のイメージで見られる。床から物を食べたりしないとか、裸足で道を走ったりしないと信じてもらえない。イメージを忘れてもらうのは難しい。スタンリーとの共通点はないし、嫌いなタイプだ。嫌いだから感情移入ができなかった。ケダモノのように残酷で暗い役柄だったよ。カウンセリングも受けた。演ずることで正気を失うと心配されてね。≫

ステラは言った。「万全だと思えば8割の出来。体験が6割と思えば、4割の出来。体験が4割であれば、そのまま帰りなさい」と。

≪自由の叫びは、鎖で繋がれた証しでもある。
役者になれていなかったら、何をしていただろう。
詐欺師だったかもな。腕の経つ詐欺師だ。巧みに嘘をつき、思いどおりのイメージやそれらしいイメージをとおす。
まだ60年代前で皆が反逆を求めていた。時代のニーズと私の雰囲気が合っていたんだ。私自身が物語といえる。反逆のために反抗する。≫

≪自分を負け犬と感じることは誰もが経験することだ。私はずっと劣等感に悩まされていた。≫

いまをときめく若き人気俳優マーロン・ブランドをゲストに迎えた当時のテレビのインタビュー番組の一場面が映し出されます。ちょうど「徹子の部屋」か「新婚さん、いらっしゃい」みたいな感じでしょうか、まあ、いずれの番組にしてもやがてくる令和の御世をどこまで生き残れるか危ぶまれるところでしょうが。

その手のノリのサプライズという設定で、突如父親が現れてブランドの少年時代の思い出話を聞き出すというシチュエーションのこの一連の場面は、ここまでこのドキュメンタリー映画を見てきた観客にとっては、「痛切」とか「残酷」と言い募っても到底言葉足らずの感が払拭できないほどまでに拗れたこの父子関係の爛れ具合を、さらにもっと相応しく赤裸々に言い表せる言葉があれば、むしろ「そちら」の方を採用したくなるほどの二人の関係を生々しく映し出しています。

マーロン・ブランドがその少年時代に父親から受けたものといえば、ただ威圧され虐待されつづけた記憶しかなく、そもそも俳優として大成できたのは、そのいまわしい記憶のトラウマから逃れるため、父親の否定をバネにして自分を解放しようとした痛ましい演技の病的な「成果」にすぎなかったことを考えれば、テレビ放送の手前、ただ息子は優しいステレオタイプの息子の役を演じ、父親はただ愛情深い父親の役を演じたに過ぎない偽善に満ちたものでしかないことを十分知悉している僕たちはこの場面を見ることになるわけですが。

「お父さんが見えているそうですね。隠れているのですか? お呼びしましょう、お父さん~!」

父親(マーロン・ブランド・シニア)登場

「息子さんのことをいろいろ聞いてみましょう。こんばんは、ご自慢の息子さんでしょう?」

「役者としてはそうでもないが、人としては立派だと思う」

僕たちはこのドキュメンタリー映画のどこかで、父親の人間に対する価値観は「そいつがいくら稼ぐか」にかかっており、単にその金額のタカによって人間の価値が測られることをすでにブランドから知らされているので、父親のこの「人としては立派だと思う」が、単なるカネの問題でしかないことがすぐに分かり、つまり、父親の言葉の中には暗に「息子」の全否定が語られていることを察した司会者は、さらに父親に尋ねます。

「教えてください、扱いにくい子供でしたか?」

「いわゆる普通の子供でした」

その場に同席しているブランドの表情は、すでに仮面の微笑が貼り付けられた演技者の顔でしかありませんが、オレのことなど何ひとつ知らないくせに、あんたがオレにしたことは、酒と女の匂いをぷんぷんさせて、たまに帰ってきては母とオレを気ままに殴りつけて楽しんでいたことくらいだろう、という思いで父親の偽善の言葉を苦々しく聞いていたことは間違いありません。

「ただ、一般的な子供よりも親とのモメゴトは多かったでしょうな」

「公平に判断するために、あなたの言い分も聞きましょうか?」と司会者はブランドに話を振ります。

「いや、その必要はありません、オヤジには負けてませんから、大丈夫です」

この言葉を受けてナレーションは、<お互いの役割を演じた>と断じていましたが、むしろ、自分的には<これがふたりの精いっぱいの本音だった>というべきで、このよじれた親子がそれぞれににじり寄って表明することのできたせめてもの誠実さだったのではないかと思えました。

ブランドは言います。

≪あれは偽善そのものだったよ。子供時代に受け入れてもらえないと、受け入れられるアイデンティテイを探す。だから私は、役柄に幅があるんだ≫と。

この言葉の中には、表明していること自体の在り様と同時に、片方で、自分がどのように変われば父親に受け入れてもらえるのかと必死に模索しながら、徐々にみずから人格を歪めてアイデンティティを失うに至るマーロン・ブランドの心の破綻の過程が語られていきます。

≪子供の頃、芝刈りなどで小銭を稼いで映画を見に行き、すべてから逃げたかった。映画を見た高揚感で1週間を乗り切った。魔法の時間だったよ。
役者は、名前が新聞に載ったり、注目を集めることを好むものだが、私は成功の幻想によく悩まされ、色眼鏡で見られていると思い、人に会うのも面倒になった。特別扱いに疲れるんだ。動物園の動物や異国の生きもののように、奇妙な目で見られることをね。現実から切り離されてしまう、そのことが私には耐えられない。普通に暮らせないのが、こんなにもつらいこととは思わなかったよ≫

≪母が雇った家庭教師、美しい髪ときれいな肌をした東洋人で、彼女に寄り添って安らいだ記憶がある。彼女が結婚のために私から去っていった日、7歳の少年は棄てられたと感じた。私は母にも棄てられたと感じていた。アル中だったから。あの日を境に素行が悪くなり問題児となった。
愛された記憶のない人間は、真実の愛を見逃す。真実の愛を知らないから、ありそうな場所を探すだけだ。≫

≪赤ん坊の息づかいは覚えている。そして鼓動も聞いた。自分の手の中でこんな小さな子が生きているのかと思うと涙がでてきた。息子には絶対、父を近づけてはならないと思った、私と同じ目にあわせてはならない≫

ナレーションは問いかけます。「マーロン、過去のことを話してくれないか」

≪父は、酔っぱらいだった。強くて女好きで男臭い男だった。かなりキツかったよ。
母は、とても詩的な人だったよ。だが、やはり酔っぱらいだった。
流し台には汚れたままの皿が山のように残っていて、家は散らかり放題だった。それを見るたびに、自分だけを残して、本当はみんな死んでしまったのではないかと思い、とても怖かったよ。
あるとき、父が母を殴っていて、私は2階の部屋に行った。だが、そのときなにかが自分の中で崩壊し、怒りのアドレナリンが全身を満たし、熱く支配された怒りの衝動のままに父親を睨みつけ、「今度繰り返したら、お前を殺すぞ!」と怒鳴りつけた。≫

父への殺意をみなぎらせ、「お前を殺すぞ!」と威嚇した衝撃的なモノローグを受けたあと、瞬間に転換したシーンは、息子クリスチャン・ブランドが、妹シャイアンの恋人を射殺したという緊急通報を受けて全警官に「銃撃事件発生」という緊急招集が掛かった場面に、このドキュメンタリー映画は冒頭の場面に回帰していきます。

息子クリスチャン・ブランドは、両親の離婚による親権争いに翻弄されて神経の安定を失い、生育し、1990年5月16日、妹シャイアンの恋人ダグ・ドロレッツをマーロン・ブランド邸で射殺し10年の判決を受け5年服役して出所しています。

射殺した動機は、日ごろから妹にダグが暴力をふるっていたからだと主張しましたが、一方では、当時クリスチャンはひどい薬物中毒だったという噂もありました。

しかし、クリスチャン服役中の1995年に妹シャイアンは、タヒチで自殺します、当時25歳。

そして、そのクリスチャンも2008年1月26日にロサンゼルスの病院で肺炎のため死去し、悲痛な人生を閉じました、49歳でした。

生まれたばかりの息子を抱き上げて、「この子を自分と同じ目にあわせてはならない」と強く念じたマーロン・ブランドの祈りが神にどこまで通じたのか、痛ましくも皮肉な思いに捉われないわけにはいきません。

2004年7月1日、マーロン・ブランド死去、80歳。

≪運命からも世の中からも見放され、独りわが身の不遇を嘆く。聞く耳を持たぬ天を無益な叫びで煩わせ、わが身を眺めて不運を呪う。
朝、目覚めてこう思う。「まったくなんという人生だろう。なぜこんなことになってしまったのか。」
今年はキツかった。人には想像できないほどだ。できるだけ強くあろうとしても、誰もがあるとき、糸が切れるものだ。痛みには、対処しなければならない。これまで精神分析には莫大な金をつぎ込んできたが、連中はなにもしてくれなかった。脳にペンチやドライバーを差しただけだ。
人生に、より真実が見え、若き日の名残りと引き換えに手に入った自分自身で分析しなくては、とやっと気づいた。
内面が見えなければ、決して外側が見えるはずがない。
生れながらの悪人はいない。最初の10年で身についた悪い習慣を多くの人は乗り越えていく。
クリスチャンは情緒障害や精神的な混乱に悩まされていた。むかしの私と同じように。父とは違うと思っていたが、人はそれとはなしに、親に似てくるものなのだろう。
父が死んだとき、父が背中を丸くして永遠の世界に向かう姿を思い描いた。振り返って父は言った。
「私は努力したのだ」
私は父を許した。私は父のせいで罪人であった。父も罪人だった。父は4歳で母親に捨てられ、仕方なかった。
自分の心を振り返ってよく考えてみたことで、いわゆる人間らしい普通の人に近づいたように思う。だれもが人を憎むことができるし、人を愛することもできる。どちら側に進むかによって殺人者にも聖人にもなれる。
よく瞑想している。その結果、心は落ち着き、実に静かな時を過ごしている。
心はどんどん静かになっていく。至福の時が近づいている。
それではまた、次回まで眠ろう。・・・マーロン・ブランド≫

ドキュメンタリー映画「マーロン・ブランドの肉声」の各シーンをたどりながら、自分なりに理解を重ねてきたのですが、最後になって単純なひとつの疑問に捉われました。

生涯にわたって、これだけ父と子の葛藤に苦しみ、その苦悩を「演ずる」ことで理解し、できれば和解しようと努めたマーロン・ブランドが、なぜ、同じエリア・カザンの作品である父の子の葛藤の物語の象徴的な作品「エデンの東」の主演をジェームズ・ディーンに譲ってしまったのか、エリア・カザン作品を成功させた実績もあることを考えれば、あからさまな要望を表明しなくとも、少なくともオファーくらいはあったのではないか、このドキュメンタリー映画でこれまでに知ったブランドの心情から考えると、この父性を求める「キャル」こそは、どうしても演じてみたい役だったのではないかと思えて仕方ありません。それとも、そういうストレートな役柄だったからこそ、あえて「敬遠」したのか、その辺の事情をどうしても知りたくなりました。

そこで、調べるのなら、「エリア・カザン自伝」を見るのが最適と考え、さっそく図書館から大冊「エリア・カザン自伝」上・下巻を借りてきました。合わせると1000頁はゆうに越してしまうのではないかという、とにかくすごい大著です。この本を家まで運ぶだけでも大仕事で、歩いているうちに腕が痺れてきて、そのうち肩から腕が抜けるのではないかと不安になったくらいです。

ざっと見たところ、映画「エデンの東」に言及している箇所は、下巻の157頁4行目から163頁にかけて書かれていることを確認し、該当箇所をさっそくアタマから読んでみました。

なるほど、なるほど、要約すると、「欲望という電車」1951と「波止場」1954の成功によって、エリア・カザンは、撮る環境として最高の状態にあったときで、「エデンの東」1955の企画を会社に提出したときも、なんの条件も課せられることなく、現場のことはすべて一任するという状態でした、もし、カザンが「エデンの東」のキャル役をマーロン・ブランドでいくという意思があったのなら、それを阻むものなどなにひとつなかったわけで、むしろ「エデンの東」のキャル役を蹴ったのはマーロン・ブランドの方だなと思えてきました。

「エリア・カザン自伝」には、キャストもカザンに一任されてはいるものの、ジェームズ・ディーンという駆け出しの役者を一度面接してくれないかという依頼もあったので、カザンは半信半疑でジェームズ・ディーンに会います。

会ってみるとこれが、胸糞が悪くなるほどの生意気な小僧で、礼儀もなにもわきまえない不貞腐れた態度に不快を感じながら、カザンは、原作者のスタインベックの元へも面会にやります。そしてジェームズ・ディーンに面会したスタインベックの印象もエリア・カザンと同意見(不貞腐れた生意気な小僧)で、その場で「エデンの東」のキャル役のイメージにぴったりということで主役はジェームズ・ディーンと決定したのだそうです。

こうして読んでくると、エリア・カザンの側からも、どうしてもマーロン・ブランドでなければダメだというほどの積極的なオファーがあったという印象はどこにも見当たりませんし、それよりも、なにかとても寒々しい感じがしてなりません。

「波止場」でアカデミー主演男優賞をとったことが、なにか関係しているのかとも考えてみましたが、それならむしろ「恩」はブランドの方にあるわけだし、とは言っても、いまさら「どうか主役に使ってください」とは、あまりにも白々しすぎて言えないかもしれない。などなど、お互いに何も言い出せない膠着状態にあったのかもしれないなどと考えていたとき、wikiの「マーロン・ブランド」の項に、こんな記述を発見しました。


「1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。アカデミー賞の受賞により名実共にトップスターになる。
翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。
これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対してマーロン・ブランドが憤慨していたからという。この映画でジェームズ・ディーンがスターになった。」

1952年4月10日、エリア・カザンは、非米活動委員会の証言台に立った。しかし、それは委員会の小委員会による聴聞であって公開はされなかった。

赤狩りの膨大な資料集「裏切りの30年」を編集したエリック・ベントリーはこう書いている。

・・・委員会はエリア・カザンをやさしく取り扱った。カザンは、1952年1月14日の委員会の常任会議で証言したが、その証言内容はこれまで公表されていない。ここに掲載する証言(4月10日のもの)でさえ、カザンを聴衆から保護するため、本来は同様の会議が行われ、1日遅れて1952年4月10日に新聞発表されたものである。

その非公開聴聞会はこのように始まった。

小委員会の議長はフランシス・E・ウォルター議員、委員会の顧問弁護士であるフランク・S・タヴェナーがカザンに質問を始める。


タヴェナー カザンさん、あなたは1952年1月14日常任会議で委員会に証言しましたね?

カザン そのとおりです。

タヴェナー その聴聞のとき、およそ17年前、あなた自身が共産党員であったことと党内でのあなたの活動に関しては、完全に証言しましたね?

カザン そのとおりです。

タヴェナー しかしそのとき、他の人の活動に関するどのような資料も委員会に提出することを断り、党内でのあなたの活動に関係のあったほかの人びとが誰であるかを証言することも断りましたね?

カザン 他の人たちのほとんどについてです。幾人かは名前を挙げました。

タヴェナー しかしそのときは、全部の名前を挙げるのを断りましたね。

カザン そのとおりです。

タヴェナー さて、私の理解しているところでは、あなたは自発的に委員会に対して聴聞会を再開し、あなたが共産党時代に知っていた他の人たちについて、完全に説明する機会を与えてほしい、と要請しました。

カザン そのとおりです。私は十分かつ完全な陳述を行いたいのです。私が知っているすべてをお話ししたい。

タヴェナー それで、ここでの証言の準備のために、あなたは自分の持っている情報資料を思い起こし、整理するために大変な時間と努力を費やしましたか?

カザン そうです。大変時間がかかりました。

タヴェナー あなたの言う十分かつ完全な陳述を文書の形で用意していますか? 委員会に提出できますか?

カザン はい、そういうステートメントを準備しています。


カザンは、1952年4月9日付、非米活動委員会あてのそのステートメントを提出したが、このステートメントには長文の宣誓供述書をつけており、その口述書のなかで、自分が共産党に入り、かつそこから脱党したいきさつ、その間に接触した共産党員の名前をあげ、さらに自分が関係した演劇と映画の作品すべてについて、ひとつひとつ注釈と弁明をくわえている。

そのリストのなかには、マーロン・ブランドが出演した「欲望という名の電車」も「革命児サパタ」も含まれていた。


(2015)監督・スティーブン・ライリー、製作・ジョン・バトセック、R・J・カトラー、ジョージ・チグネル、製作総指揮・アンドリュー・ラーマン、脚本・スティーブン・ライリー、編集・スティーブン・ライリー、原題・Listen to Me Marlon
キャスト・マーロン・ブランド(声の出演)



by sentence2307 | 2019-04-04 23:02 | マーロン・ブランド | Comments(0)