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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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<   2019年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

パソコンの前に座ると、最近、まず、することといえばyou tube動画をひとわたりチェックするということになります。

地上波テレビの間延びした(そのくせ内容空疎な)バラエティ情報番組より、よほど気が利いていて、作る側の「見せる努力と意欲」も十分に感じられ、大変すがすがしく、ダレたテレビなどより、よほど信頼できるというものです。

オレオレ詐欺の犯罪者集団だかなんだか知りませんが、陰ながらその筋からお小遣いを頂戴してほくそえみ、テレビでは善人に見せかけて世間を欺きふんぞり返っているような、くそ面白くもないお笑い芸人が馬鹿ヅラした馬鹿笑いが癇にさわって仕方ありません。謹慎くらいで済ませるなという感じです。しかも、さも新ネタみたいに自慢げに吹聴している話にしても、そこらの芸能週刊誌にいくらでも載っていそうな陳腐な話題の焼き直しなのはミエミエで、その思い上がった愚劣な馬鹿騒ぎに付き合うくらいなら、活力とアイデア、ナマの声に満ち満ちたyou tube動画を見ていた方が、まだしも有益で新鮮、短くとも充実した時間を過ごせるというものです。

テレビには、つくづく愛想が尽きました。あんなもの。

草の根的なyou tube動画の隆盛は、荒廃したテレビの在り方そのものを脅かしているというのに、そして、いまのままではカナラズヤ近い将来、確実に大衆から飽きられ、テレビの存在価値そのものが根底から覆されて、消滅しかねないと危ぶまれているというのに、この激動の「変革期」もカイモク理解できず相も変わらず愚劣な番組を十年一日量産し垂れ流している思い上がった無知と醜態にはもうこれ以上耐えられません。というか、自分などはもう何年も前からとっくに見放していて、せいぜい見るものといえば、映画かスポーツくらいです。

とまあ、そんな感じでここのところyou tube動画を見ているのですが、これも日常的に見ていると、なんだかひとつの傾向みたいなものを感じるようになりました。

それってまさか、例えばあの、見ているうちになんだか自然とコーラが飲みたくなってしまうみたいな「心理的誘導操作」が巧みに仕組まれているとかいう「あれ」なんがではないとは思いますが、最近、そんな感じでwebの森をさまよっていて感じたことがあるので、そのことについて若干書いてみますね。

you tube動画といえば、すこし前までは、北海道のインターアーバンさんという方が製作した、北海道の各本線をたどりながらすべての駅を自動車で走破するというyou tube動画に嵌っていました。

北海道の各線・各駅が必ずしも国道・道道に整然と平行して走っているわけではないので、ときには、とんでもない脇道を迂回しなければならなかったり、人も通わない狭い田んぼ道や雑木林に迷い込んだりと、北海道の原野をこれでもかというくらい堪能できるスグレモノの動画で、傍らに置いた北海道鉄道路線図の各駅にチェックを入れながら日々見ていくうちに全ての駅にチェックが入ってしまいました。

新幹線が停車することによって華麗に整備された駅とか、大都市をひかえた近郊で乗降客が増えて急に手狭になるなど、そういう幸運な駅は、むしろ例外で、ほとんどの駅は、特急列車にスルーされて、停車する電車は日に2~3本くらい、それもだいたいは無人駅で、乗降客は日に数人(その人数に合わせて停車しているらしいのですが)、過疎化が進む辺境の地にあれば、端から徐々に秘境駅となり、やがてバタバタと廃駅となるというのが北海道の鉄道の運命と進行形の現状なのだなと感じさせられるスグレモノの動画です。

そうそう、この動画に出会ったのは、あのカーリングの聖地・北見市常呂町がどういう町かと検索し、また「北見駅」がどういう駅かと眺めていたときに、そのままの流れで「石北本線」の各駅をめぐるこの動画に出会ったのでした。もうほとんど秘境駅という感じの「西女満別駅」とか、「下白滝駅」から「上白滝駅」にかけての荒涼とした原野にある駅が廃駅となる前後の経緯を描いたドキュメンタリー番組を絡めて見たこともありました。

なんといっても実際の自然の風景や街路のたたずまいなど、世界の隅々まで居ながらにして見せてくれるこの手の「ストリートビュー動画」は、インターネットのすぐれた特性だと思います。

北海道の原野の魅力にすっかり魅入られてしまったので、二回目、三回目のインターネット北海道周遊を再びする可能性は大だと思います。こう考えると四国八十八ヶ所巡礼の魅力というのも、こういう感じなのかもしれません。全部のお寺を踏破するリアルな動画というのは存在するのでしょうか、たいへん興味があります。

しかし、この一連のyou tube動画は、見たい動画をピンポイントで語句指定して特定して見ていたわけですが、現実はなにもそんな律儀なことをしているだけではなくて、多くの場合、特に目的も指定もすることなくナニゲに見流す(こんな言葉はありませんが、昔風にいえば、いわばネットサーフィンです)目の前にある面白そうな動画を次々とたどっていくというダラダラした感じがむしろリアルです。

そしてこの場合の「興味を引く」というそのキモの部分は人それぞれに異なると思いますが、自分の場合は、「ものすごく気持ち良くしてくれる」ということが最優先のポイントということになります。

この「ポイント」に当たる動画を具体的に個々に上げていかなければ、「ものすごく気持ち良くしてくれる」という抽象の説明にはならないと思うので、まあ、キリがありませんが、そのうちの2~3を上げてみることにしますね。

そのひとつには、なんといっても「外人さんの日本褒め」という動画があります。

とにかく、日本好きの外人さんが日本のことをやたら褒める。

長い間日本に憧れていてやっと観光で来たという人から、もう何年も住み着いてしまっている人まで、それも欧米人、アジア人、中近東からアフリカまで、それこそ多種多彩の人種がいて、それこそ、やれ財布を落したら無事に返ってきただの、中身の金も手付かずだっただの、道に迷っていたら親切なタクシーの運転手さんが空港まで送ってくれて飛行機に間にあったうえに料金も受け取らなかっただの、日本では黒人なのに差別をされなかっただの、日本で生まれた黒人の少女が渡米したら始めて差別を知って差別されない日本社会に改めて感激しただの、いわば日本人の善良さ・規律正しさをあげるものとか、いやいや、まだありました、日本の風景(サクラとか)をベタほめし、温水洗浄トイレに喜声をあげ、スクランブル交差点と竹下通りと歌舞伎町、築地市場や浅草寺をレンタル着物でさまよい歩き、秋葉原のメイドカフェをのぞき、林立する自動販売機の数を数え、モノレールに乗り、新幹線のスピードにびっくりし、日本食の美味さ加減に大仰にのけぞってみせ(それも寿司や神戸牛、スキヤキや天麩羅ならともかく、お好み焼き・たこ焼き・ラーメンのたぐいにまでデリシャスやトレビアンの連発なのですから、そこまでいくと揶揄されているのではないかと疑心暗鬼になるのは当然で、それにしてもなにがなんだかわけがわかりません)、そして、ツアーのコースにでもなっているのか必ず伏見稲荷の赤鳥居のトンネルを嬉々としてくぐり、奈良公園の鹿に餌をあげてお辞儀をさせ、大仏を見て喜ぶという、そうした動画が延々累々と続きます。

まあ、来日観光客数というのが年々増大しているということですから、この動画のすべてが「眉唾」とは思いませんが、「本当かよ」という気持ちは、どうしても拭えません、それほどのことなのかよ、とこうなります。ならざるを得ません。

しかし、そう思いながらも、この似たような動画を飽きもせずに延々と見ることができるのは、やはりそこに「外人さんの日本褒め」の心地よさがあることは確かです。とにかく日本人は外人さんに褒められることにとても弱くて、だから大好きなのだと思います。自分も含めてね。それは日本人の中に業のように根深い外国コンプレックスとかがあって(だからいつまでたっても英語が喋れないのかもしれません)、外人に褒められると罪を贖われたように感激して、なんでも許してしまえる部分があるからだと思います。それを外人さんは日本人の善良さと誤解しているフシもあって、その双方のボタンの掛け違え感がまたなんとも言えない心地よさなのです。

そして、この流れで延々と動画を見ていくと、やがて「究極の動画」というのに行き着きます。つまり、いわゆる極め付け、それが「舞妓さんウォッチ」です。

これも日本観光ツアーのコースになっているのではないかと思うくらい、外国人観光客がぞろぞろと四条通りから花見小路あたりのお茶屋さんや置屋さんの前をなんとなくぶらついて、あきらかに舞妓さんや芸妓さんが通り掛るのを待ち伏せしてタムロしているふうで、そして、突如、舞妓さんが「出現する」(実際は、お茶屋さんに出向くだけなのですが)となると、まるで「怖いもの見たさ」で遠目からチラミをする遠慮深い人から、すれ違いざまに至近距離でカメラを向け、それでも飽きたらずに血相変えて追っかけまわすという正直にずうずうしい人までいろいろいて、この様子を見ているだけでも外人さんたちの「舞妓さん」に向ける興味と感心の高さがうかがわれます。聞くところによると、このずうずうしい追っかけの観光客の誰もが必ずしも善人というわけではなく、後ろからカンザシや髪飾りを引き抜いて盗んだり、ひどいのになると襟からなにかを入れたりするというとんでもないやつもいるとかで、舞妓さんたちもいい迷惑で、いくら注目の的になっているからといって、必ずしも善良に受け止めて悦に入っている場合ではない油断ならない部分もあるそうなのです。

これではまるで野鳥観察ではないかとも思ってしまうのですが、しかし、残念ながら「品」と「距離感」と「好奇心の質」の面においては、「舞妓さんウォッチ」の方は、はるかに「品」に欠け「危険な距離感」で「善良さに欠ける好奇心」によって、美しく見せるために無抵抗なのに付け込まれ、それをいいことに盗みや小暴力の危険や被害にさらされるという実に生々しい人間的な善悪の彼岸にいることを感じました。

自分がこの一連の動画を見ていて直感したのは、むかし、小売店の開店祝いの宣伝のために近所を賑やかに練り歩いた白塗りの顔のチンドン屋のあとを子供たちがぞろぞろとついて歩いていたあの景色でした。なによりも子供心には、あの「白塗りの顔」の物珍しさというのは、非日常のヨコハマメリーさん風な「異様さ」と同じものだったと思います。むかし、天井桟敷や状況劇場の芝居をみたとき、「白塗り」の顔を異様と受け止めたあの感性と同じものを見たのだと感じました。

いやいや、「チンドン屋」の白塗りと「舞妓さん」の美しい白塗りを比較するなんて、なんという不見識だとお叱りを受けそうですが、子供心に思ったことなので、なにとぞお許しください。

考えてみれば、自分がいままで舞妓さんの白塗りを、そうした美しさの面から見たことがまったくなくて、むしろ「異様さ」からしか見ていなかったという、それくらい遠い世界の存在だったということなのだと思います。

ですので、多くの舞妓さんたちが語る「舞妓さんになろうと思った動機」が、修学旅行のときに美しい舞妓さんを見て自分もなりたいと思ったというコメントなど、自分的にはどうにも実感の伴わない空疎なものに聞こえてしまって仕方ありませんでした。

そういえば、この「はるかに遠い存在」感は、水田伸生監督「舞妓Haaaan!!!」2007や周防正行監督「舞妓はレディ」2014を見たときも、「なぜ、いまさら、舞妓さんなんだ?」という唐突さと違和感しかなく、正直「意味、分かんねえ」という思いしか抱けませんでした。無理もありませんよ、遠い祇園のお茶屋遊びのことなど空想するにも手掛かりがなく「無」の状態だったのですから、興味がどうのこうのという段階にさえ至ってなかったわけで、ですから「舞妓さん」など、存在それ自体が現実とは考えられない存在だったのはしごく当然のことだったと思います。

その意味でいえば自分など、あの「善良さに欠ける悪意の好奇心に満ちた観光客」にもおよばない、それより以下の日本人にすぎませんでした。


(注)劇場版映画は以下のとおり。
舞妓はんだよ全員集合!!(1972年 松竹 ザ・ドリフターズ、吉沢京子主演)
舞妓はん(1963年、松竹、橋幸夫、倍賞千恵子主演)
舞妓物語(1987年、松竹、岡本舞子主演)
舞妓物語(1954年、東宝、峰幸子主演)(ストーリーは上とまったく違う)
祇園小唄絵日傘(1930年、マキノプロダクション、桜木梅子主演)
祇園囃子(1953年、大映、若尾文子主演)
祇園囃子(1934年、松竹、飯塚敏子主演)
おもちゃ(1999年、東映、宮本真希主演)
SAYURI(2005年、松竹配給、チャン・ツィイー主演)
舞妓Haaaan!!!(2007年、東宝配給、阿部サダヲ、堤真一、柴咲コウ主演)
舞妓はレディ(2014年、東宝配給、上白石萌音主演)


そんな感じで、外国人観光客の「舞妓さん追っかけ動画」を見ていたのですが、しかし、その手の動画のなかには、なにも興味本位のものばかりとは限らず好意的に舞妓さんや芸妓さんを美しく撮ろうという好事家の撮った動画もあることに気がつきました。満開のサクラの下での撮影会とか。奉納舞とか。イベントとか。

そこで驚天動地の、とてつもなく美形の芸妓さんを見つけてしまいました、さっそく名前をメモりました。そこには、祗園東の「つね桃さん」と書いてあります。とにかく、ものすごい美人。というか、そのキップの良さは、どう見ても柳橋とか赤坂芸者のイメージで、上品でおとなし目の芸舞妓さんが多い京都らしからぬ鋭さがあって、そのことを本人も一向に隠そうとしない明け透けなところが却って清々しく、好感を持ちました。どうすれば自分を美しく見せられるか(髷で白塗りの裾引き)を熟知しているプロに徹した賢さと自信と開き直りも、見るものを安心させるものがあります。

さっそくアレコレと検索をかけてみました。


山口県萩市出身 1987.2.6生
2002 祇園東「繁の家」に仕込みさんとして入る。
2003.3.3 舞妓さんとしてデビュー、桃の節供にちなんで「つね桃」に。
2008.11.28 21歳で襟変え(ということは、1987年生まれということですか)


なるほど、なるほど。検索していくにつれて、このヒトが、「超」のつく売れっ子芸妓さんということは、画像と動画の多さからでも容易に分かりました(むしろ、知らなかったのは自分だけだったのかという気分にさえ段々なってきたくらいです)が、そんなふうに調べ進むうちに、新しいコメントの調子が、なんだか過去形で書かれているようなのが少し気に掛かり始めたとき、「つね桃さんの結婚式」という記事に遭遇しました。どうも結婚を機に引退されたような感じです。

なるほどね、そりぁそうですよ、なにしろこの美形です、男たちが放っておくわけがありません。
外国人観光客が、舞妓さんの追っかけくらいでは気が納まらず、舞妓さんに成り切るコスプレ(和装レンタルと髷と白塗りの化粧がセットになっています)まで結構繁盛している意味もこれでよく分かりました。




●京都五花街の舞妓さん・芸妓さん名前一覧  2019.04.17 現在しらべ

★祇園甲部
【舞妓】
小純 こすみ 廣島家
鈴乃 すずの 福嶋
まめ樹 まめじゅ 多麻
豆結 まめゆい ニンベン
美羽子 みわこ 西村
佳つ笑 かつえみ 小田本
槇里子 まりこ 西村
市紘 いちひろ 中支志
小奈都 こなつ 中支志
あすか あすか つる居
菜乃葉 なのは 多麻
豆誉 まめよ 新井
瑞乃 みずの 福嶋
佳つ桃 かつもも 小田本
佳つ春 かつはる 小田本
豆沙弥 まめさや 柴田
多都葉 たつは 多麻
ゆり葉 ゆりは 多麻
豆珠 まめたま イ
小なみ こなみ 中支志
朋子 ともこ 西村
小花 こはな 枡梅
美月 みつき つる居
まめ衣 まめきぬ 多麻
佳つ花 かつはな 小田本
小衿 こえり 廣島家
まめ春 まめはる 多麻
【芸妓】
まめ柳 まめりゅう 多麻
茉利佳 まりか つる居
市晴 いちはる 中支志
紫乃 しの 福嶋
実佳子 みかこ 西村
佳つ江 かつえ 小田本
豆純 まめすみ 亻
市十美 いちとみ 中支志
佳つ雛 かつひな 小田本
豆六 まめろく 新井
恵里葉 えりは 多麻
真咲 まさき 美の八重
佳つ智 かつとも 小田本
紗月 さつき つる居
章乃 ふみの 福嶋
千紗子 ちさこ 西村
豆まる まめまる 柴田
小芳 こよし 廣島家
つる葉 つるは 多麻
紗矢佳 さやか つる居
小扇 こせん 廣島家
市有里 いちゆり 中支志
槙子 まきこ 西村
有佳子 ゆかこ 西村
真生 まお 美の八重
小愛 こあい 廣島家
満友葉 まゆは 多麻
【引退】
紗貴子 さきこ 西村
亜矢子 あやこ 西村
まめ章 まめあき 多麻
豆こま まめこま 柴田
真希乃 まきの 美の八重
豆千佳 まめちか 新井
清乃 きよの 福嶋
知余子 ちよこ 西村
佳つ扇 かつせん 小田本
由喜葉 ゆきは 多麻
夢乃 ゆめの 福嶋
まめ藤 まめふじ 多麻
まめ菊 まめきく 多麻
佳之介 かつのすけ 小田本
杏佳 きょうか つる居

★祇園東
【舞妓】
満彩尚 まさなお まん
叶久 かのひさ 叶家
叶千代 かのちよ 叶家
富千英 とみちえ 富菊
涼真 りょうま 栄政
満彩野 まさの まん
叶紘 かのひろ 叶家
【芸妓】
雛佑 ひなゆう 岡とめ
富津愈 とみつゆ 富菊
富多愛 とみたえ 富菊
まりこ 岡とめ
美晴 みはる 岡とめ
つね有 つねゆう 繁の家
つね和 つねかず 繁の家
満彩希 まさき まん
涼香 りょうか 榮政
豊壽 とよひさ 榮政
美弥子 みやこ 叶家
【引退】
満佐子 まさこ まん
雛菊 ひなぎく 岡とめ
文音 ふみね 岡とめ
満彩美 まさみ まん
つね桃 つねもも 繁の家
富久春 ふくはる 岡とめ
叶菜 かのな 叶家
駒子 こまこ 岡とめ
叶笑 かのえみ 叶家

★宮川町
【舞妓】
とし菜穂 としなほ 駒屋
とし菜希 としなぎ 駒屋
叶笑 かなえみ 川久
ふく典 ふくのり しげ森
君咲 きみさき 本城
小晶 こあき 花傳
ふく友梨 ふくゆり 堀八重
君萌 きみもえ 利きみ
とし七菜 としなな 駒屋
とし菜実 としなみ 駒屋
千賀染 ちかそめ 駒屋
菊咲奈 きくさな 花ふさ
ふく那 ふくな 河よ志
ふく香奈 ふくかな 河よ志
ふく千華 ふくちか 堀八重
富美梗 ふみきょう よし富美
小えん こえん しげ森
菊弥江 きくやえ 花ふさ
千賀明 ちかさや 駒屋
千賀遥 ちかはる 駒屋
ふく弥 ふくや 河よ志
とし恵美 としえみ 駒屋
叶幸 かなゆき 利きみ
ふく珠 ふくたま しげ森
叶子 かなこ 川久
ふく朋 ふくとも 堀八重
小はる こはる しげ森
【芸妓】
ふく音 ふくね 河よ志
とし純 としすみ 駒屋
小梅 こうめ 花傳
里春 さとはる 川久
ふく兆 ふくちょう しげ森
田ね文 たねふみ 高よし
富美夏 ふみか よし富美
君綾 きみあや 本城
弥千穂 やちほ 花傳
ふく恵 ふくえ 河よ志
ふく紘 ふくひろ しげ森
小ふく こふく しげ森
美恵雛 みえひな 春富
ふく尚 ふくなお 石初
ふく鈴 ふくすず 石初
ふく光 ふくてる 堀八重
とし真菜 としまな 駒屋
とし夏菜 としかな 駒屋
とし輝 としてる 駒屋
菊志乃 きくしの 花ふさ
里香 さとか 川久
【引退】
君さ代 きみさよ 本城
ふく英 ふくはな しげ森
富美苑 ふみその よし富美
富美芳 ふみよし よし富美
小凛 こりん 花傳
君有 きみゆう 本城
君とよ きみとよ 利きみ
君ひろ きみひろ 利きみ
ふく乃 ふくの 河よ志
小よし こよし しげ森
千賀すず ちかすず 駒屋
とし桃 としもも 駒屋
ふく苗 ふくなえ しげ森
美恵菜 みえな 石初
ふく真莉 ふくまり 堀八重
とし日菜 としひな 駒屋
とし智 としとも 駒屋

★先斗町
【舞妓】
秀眞衣 ひでまい 雅美家
秀華乃 ひでかの 雅美家
市愛 いちあい 舛之矢
市すみ いちすみ 山口
市沙登 いちさと 舛之矢
もみ香 もみか 山口
光はな みつはな 丹美賀
市結 いちゆう 勝見
市彩 いちあや 舛之矢
【芸妓】
多香 たか 山口
久桃 ひさもも 井雪
もみ福 もみふく 山口
あや野 あやの 山口
久鈴 ひさすず 舛之矢
市福 いちふく 舛之矢
【引退】
市奈菜 いちなな 山口
もみ陽菜 もみひな 丹美賀
市照 いちてる 舛之矢
あや葉 あやは 勝見
市駒 いちこま 丹美賀

★上七軒
【舞妓】 
尚舞 なおまい 中里 
市梅 いちうめ 市 
市ぎく いちぎく 市
勝貴 かつき 大文字
梅たえ うめたえ 梅乃
ふみ幸 ふみゆき 勝ふみ
市彩 いちあや 市
梅ひな うめひな 梅乃
市多佳 いちたか 市
【芸妓】
尚絹 なおきぬ 中里
尚可寿 なおかず 中里
【引退】
梅叶菜 うめかな 梅乃
勝音 かつね 大文字
市まり いちまり 市
梅なな うめなな 梅乃
梅はな うめはな 梅乃
梅ちえ うめちえ 梅乃
市こま いちこま 市
市知 いちとも 市
尚あい なおあい 中里
勝奈 かつな 大文字
勝也 かつや 大文字
梅蝶 うめちょう 梅乃
梅咲久 うめさく 梅乃
勝瑠 かつる 大文字



by sentence2307 | 2019-06-25 19:45 | 徒然草 | Comments(0)
伝記映画が好きなので、目の前に「パニック映画」とか「冒険活劇」、「西部劇」、「オカルト映画」があって見る選択をしなければならないときに真っ先に見るのは、やはり「伝記映画」ということになります、加えてそれが「歴史もの」となれば躊躇する理由などいささかもありません、でも考えてみれば、映画って多かれ少なかれ「伝記映画」みたいなものかもしれませんね。なので、今回は問題なく、どの作品よりも優先して「チャーチル ノルマンディーの決断」を見ることにしました。

この「ノルマンディー上陸作戦」なら、ぼくたちの映画の鑑賞経験からいっても、幾らでもド派手に作ることのできるオールスター・キャストが可能な超大作映画になる題材なのに、「イギリスが作るとなると、こうなるか」の見本みたいな、自分たちのバラ色の固定観念の横っ面を思い切り張り倒してくれたスコブル後味の悪い、常人にはちょっと理解しがたい映画を見てしまいました。

それは、結局、どんな題材でもシェイクスピア風にまとめてしまうという「お座敷芸」といってしまえばそれまでですが、はっきり言ってそれは彼の国の「悪弊」以外のなにものでもありません。とくに映画にとってはね。

それにしてもこれってひどくないですか、自分では金科玉条だと固く信じ込んでいるその方法、いくらご立派な「シェイクスピア方程式」かもしれませんが、あらゆるストーリーにこれをそのまま当て嵌めることができるかどうか、この現代にあってはおのずからホドってものがありますから。これじゃあまるで後先のことも考えずに目先の利害と威信だけにこだわってEUを離脱してしまおうという「あの考え方」と同質のものを感じます。後世、国民投票が愚衆政治につながってしまういい例として残ってしまうかも。

いわばこれが、むかしからイギリスが持っている融通のきかない頑なな歴史的認識というものかもしれません、たとえそのために映画という「絵空事」であることで救われる良質な部分を損ない、時間の経過がようやく癒し固定できたはずのものが、一方的な認識によって淡色で描いて成立した気安さを一向に理解できず、相も変わらず深刻ぶって蒸し返しぶち壊すことで悦に入っているものの、その実体は実に薄っぺらでバレバレな自己正当化でしかない例のアレですよね。

特に、あの戦争で米英ソに標的にされ、きたない罠にはめられて痛い目にあった極東の島国の子孫にとっては、実にミエミエな「アレ」にすぎません。

この映画の違和感は、あのチャーチルが、かつて自分の作戦のために多くの死者を出してしまった「ガリポリの戦い」の失敗の記憶に捉われ・苛まれ、まるで悩めるハムレットのように煩悶・悲嘆し、アメリカの提案するノルマンディー上陸作戦(膠着状態にある戦局を一挙に覆し好転させようという捨て身の画期的な作戦です)に対しても「そんなことをしたら、多くの若者の命が失われるではないか」などと難色を示し、グズグズと反対する苦悩が描かれ続けます。戦争の端緒はどうであれ、多くの戦争を指揮してきた指導者の態度としては「それってどうなの?」という理解不能の実に煮え切らない驚くべき醜態です、「んなわけないだろう」という。

傑出した指導者・政治家なら、国を守るための戦争で一定の死者がでるのはハナからあたりまえのことで、いまさら悩むなどありえません、いい加減にしろと。

黒かったり黄色かったりする肌の色の民衆の自主独立の悲願を踏みにじり、散々に弾圧してきて(それも自分の手を汚さずに現地人同士を戦わせ弾圧・互いに殺戮させるという実に狡猾にして悪辣な悪魔の施策です)、そうした植民地経営の圧制のもとで殺戮の限りを尽くしてきたあの大英帝国(「大映」帝国ではありません)の指導者たるもの、悩むにしても、もうちょっと「戦略的な」深みがなければコタビの戦争で痛い目にあった東洋の黄色い観客のひとりとしては納得することなどできません。「ヒューマニズムだと」なにをいまさらほざきゃあがるんでい、片腹痛いわ、このやろう、こんな映画、到底信用するわけにはいきません。

しかもこの映画、ご丁寧にも、まさに明日、天候が回復したらノルマンディー上陸作戦が決行されようかという前夜、チャーチルは、多くの死者を出すくらいなら、むしろ、作戦が決行できないほどの嵐がくるように神に祈る場面さえ僕たちは見せつけられます。

えっ~!? あのチャーチルが!?  まさか、そんなことするわけないだろうが!?

これじゃあまるで、就寝前、宿題をしていないことを思い出した小学生が焦りまくり、翌日、突如台風がきて学校が休みになってください、あるいは、世界が破滅してみんなも死んで学校もなくなってしまいますようにと必死になって祈るようなもんじゃないですか、このチャーチルの浅はかな描き方には、心底呆れ返ってしまいました。結局、嵐も来ることなく、世界も破滅しなければ、せいぜい腹痛とかの仮病をかたってズル休みをしてしまおうという、これはその程度の低次元の貧しい発想と想像力によって撮られた、冷笑にも値しない(そんなことをしたら「冷笑」の品位が穢れます)、このところついぞ見たことも聞いたこともないぶざまなシーンでした。

少し前、自分はこのブログで、チャーチルの名言に感銘し、その幾つかを取り上げたことがありました。

例えば、
「上手な演説というのは、女性のスカートのようでなければならない。大事な点をカバーするだけの十分な長さが必要だが、興味をかき立てる程度に短くなくてはならない」
というものなのですが、無骨な「スピーチ」を論じるにあたりで、そうなのかなと思っていると、突如「スカート」を引き合いにだしてきて、「大事な点」という硬直のはずのイメージを一挙に艶めいて色っぽく変化させてしまうという言葉の魔術、言葉が有しているイメージをアクロバット的に重ねる言葉のモンタージュによって見える景色(映像)を一変させてしまう才能への驚きと衝撃の経験を書いたものでした。眼前には突如ミニスカートから覗くムチムチ・テラテラの太ももが現出し、官能的にうごめき、こすり合わされ、想像力は強引にスカートのさらにその奥、なにやらもやもやしたエロスの極致へとムラムラっと誘われます、う~ん、まったくもう。これじゃあイザナワレナイわけにいきませんから!! 

このような機知は、すぐれた一握りの政治家以外、並みの人間には到底できることではありません。彼らは「言葉」によって民衆を動かすことのできるプロなのだと思います。そしてまた、民衆はすぐれた政治家になら思うままに動かされてみたいと常に渇望し望んでいる存在なのだとも思います。

チャーチルに動かされる民衆もいれば、ヒトラーに動かされる民衆もいて、それは必ずしも幸とか不幸とかの問題ではなくて、政治家への「酔い方」のカタチのような気がします。しかし、その酔いは、いずれ大きな「代償」を払わされる「悪酔い」となるか、あるいは「果実」を受け取れる「夢」となるのかの違いであって、その「選択」可能の猶予の時期に民衆がどのような質の「酔い」を持ったのか拒んだのか、それはそれら民衆が経てきた歴史的資質が問われる問題でもあることは、たとえば某国の大衆迎合に溺れ込み愚民政治に奔走しウツツをぬかしたあげく、土下座外交で媚びへつらった北朝鮮から剣突をくらって無能な馬脚をあらわし、もはや世界からも相手にされず、ついに国を傾けてしまった憐れで愚かな政治家の例をあげるまでもありません。地位を利用した身内びいきで、私利私欲に走り公金を横領して、私腹を肥やしたこの国の多くの先達と同じように、このイカサマ野郎の将来もまた入獄か自殺かの悲惨な末路がすぐそこに待ちうけているなんてことは容易に予想することができます。

さて、この映画に描かれているチャーチル、最後には、周囲からの奥さんとか、秘書官やうら若きタイピストから諌められてようやく国民の指導者としての責任と冷静さを取り戻し、「ノルマンディー上陸作戦」を承諾して、あの史上名高い戦意鼓舞の感動のラジオの名演説に至るというラストになるわけですが、ただ、この映画の冒頭に出てくるチャーチルが移動の自動車の中でスピーチの文案を考えているという場面、秘書官はあれこれと言葉の言い回しや選択等の助言するのを、あるいは撥ね付けたり、あるいは渋々受け入れたりする描写が出てくるのですが、あの場面にもなんだか違和感を覚えました、チャーチルが自らの演説のああした細々とした言葉づかいに対して、あのような神経質なチェックをしただろうかという疑問です。

チャーチルなら、前述した「スピーチ」を「スカート」に例えたような、演説をいかに民衆に分からせることができるかと細心に注意し、様々な機知に思い巡らせたとしても、まさか「細々とした言葉づかい」までも神経を尖らせていたとはどうしても思えません。そういうチェックは、それ以前に秘書官の仕事であって、チャーチルはもっとその先の民衆に分かりやすい皮肉と諧謔に富む「譬え」に思いをめぐらせていたに違いないと思うのが、自分のイメージです。公文書として残るタイプ文書ならともかく、場の勢いを必要とする演説です、そこは「もの」が違うと思いました。

さて、この映画の中で、さらにひどいと感じたテイタラクな場面があります。

「ノルマンディー上陸作戦」をチャーチルが拒んだ驚くべき理由(もうこれ以上若者の死体を見るのはこりごりだ)によって反対の意思を示唆した連合国軍最高司令官アイゼンハワーから、「あんたの意見なんか求めていない。オレは軍人として、やるべきことをやるだけだ」ときっぱり、時代遅れのジジイは引っ込んでろと無視されます。

喧嘩の流儀として売り言葉に買い言葉というものがあるなら、ここは「これでも自分は一国の指導者だぞ、コレコレの理由で反対するのだ、ばかやろう」くらいのことは当然言わなければならないところでしょうが、この映画においてチャーチルの持っている札は、なにせ「弱々なヒューマニズム」だけなのですから、反論もへったくれもありません。

ですので、この映画に描かれているチャーチルは、自分が知っているチャーチルとは、似ても似つかないマガイモノの人物というしかありませんでした。

ただひとつだけ、書いておかなければならないことがあります。

この映画の感想を読んでいたら、チャーチルの奥さん「クレメンティーン」を演じたミランダ・リチャードソンを評価した記事を幾つか見かけました。まあ、コトは「見かけました」程度ですので、評価とまでいえるかどうか疑わしく、むしろ正確にいえば「違和感のある演技なので目についた」程度と考えたほうがいいかもしれません。

自分としても、この妻が宰相チャーチルを心から愛し、尊敬し、信頼して、陰ながら身をもって尽くすという良妻賢母のタイプの「演技」というわけではなく、すこし違う「妻」を演じていたことは気がつきました。

むしろ、たとえば、面倒くさい上司(課長)の下に配属させられてしまった「課長補佐」が、ふて腐れてか開き直ってかして、職務だからすべきことは仕方なくするけれども、それ以上のことはしないからね、それに理不尽な命令なら面と向かって言い返すくらいに冷たく見据え、「あんたのために、なんでオタクの失敗を自分が背負い込まなくちゃならないわけ」と突き放している感じは持ちました。

実は、このミランダ・リチャードソンのデビュー作というのを自分は見ています、その作品を、当時、高く評価した記憶が鮮明によみがえりました。

ですので、多くの方々が持ったかもしれない彼女の演技への「違和感」は、自分のそれとはちょっと質の異なったものでした。

その映画の題名は「ダンス・ウイズ・ア・ストレンジャー」、イギリス最後の絞首刑を受刑した女性ルース・エリスの実話を映画化したもので、ロンドンの酒場でホステスをしていたルースが、自分を真剣に愛してくれる男がいるのに、名家の御曹司の遊び人に入れあげて一方的に付きまとったあげく、無視されて彼を射殺してしまうまでを描いた衝撃作でした。カンヌ映画祭でヤング映画賞というのを受賞したそうです。

当時のこの映画のイメージを思い出すためと、もちろん懐かしさというものもありますので、そのときのコラムを以下に引用してみますね。

《【ダンス・ウイズ・ア・ストレンジャー】(2004. 11. 12)
マイク・ニューエルのこの作品、確か公開時の宣伝コピーは、「1955年、イギリスで最後に絞首台にのぼった女ルース・エリス」だったと思います。
イギリスでは、現在は、死刑制度が廃止されているという社会的な背景が前提になっています。
そして、これは、ふたりの恋人の間で苦悩した末に、憎悪の対象であるとともに最愛の恋人でもあった男を射殺するに至る女の生々しい情念を痛切に描いた傑作です。
僕自身がもっている「女性の愛し方というもの」についての固定観念を根本から揺るがすような、ものすごいショックを受けた作品でもありました。
そういえば、かつて、邦画で同じような感想を持った作品があったことを思い出しました。
吉村公三郎の「越前竹人形」です。
竹細工師の父親が世話をしていた遊女・玉枝を、父の死後、独りぼっちになった女への同情心から、息子が妻として娶ります。
彼は、その美しさを愛でるように玉枝に似せた竹人形の製作に打ち込みます。
「美しいままの存在」で満足している息子に対して、成熟した肉体をもつ玉枝は、何もないままの夫婦生活に欲求不満をつのらせ、偶然に昔の馴染み客(記憶では、西村晃演ずる行商人)と情交をもって不倫の子を宿してしまい、堕胎に失敗し絶命する、という悲劇でした。
若尾文子が官能的に演じたその女は、最初、強姦とも言える無理矢理の情交を強いられたのち、ずるずると続けられる泥沼のような情事にのめり込んでゆく中で、次第に意に反するような肉体の悦楽を覚えてしまいます。
女は、気持ち的には貞淑な妻であろうとし、また、夫を心から愛してもいながら、肉体がどうしようもなくケダモノのような男を求めてしまう肉欲の在り方に、僕は、強い衝撃を受けたのだろうと思います。
心情的には深く夫を愛し、貞淑であろうとする気持ちと、道ならぬ情交の相手の肉体を貪欲にまさぐるという剥き出しの欲望とが、ひとりの女性のなかで違和感なく一体のものとして同時に存在できるという「性欲」の発見は、僕にとって女性の見方を一変させるほどの衝撃だったのだろうと思います。
「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」の中で、そのことを象徴するようなシーンがあります。
ナイトクラブの雇われマダム・ルースが、ひと目惚れした客の青年ディヴィッドと店の二階で性交にふける場面です。
そばには、連れ子の赤ん坊が激しく泣いています。
泣き続ける赤ん坊をほったらかしにして、欲望のままに相手の体を激しく求めるというこの描写は、何もかも棄てて、破滅に至ることさえも厭わない彼女の愛欲のあり方をそのまま象徴しているシーンでもあります。
彼女には、親身になって心配してくれる恋人デズモンドがいて、新しい生活の建て直しを決意する度に、ディヴィッドがあらわれて、すべてをメチャクチャにしてしまいます。
「女」が欲しくなればルースの体だけを求めにやって来るディヴィッドと、彼が現れれば、何もかもが壊されてしまうことが分かっていながら、そして憎しみながらも、彼に体を許してしまうルース。
デズモンドとの暮らしの中でも、彼の目を盗んでディヴィッドに逢いに行くその繰り返しの中で妊娠し、途端に逃げ腰になるディヴィッドとの地獄のような関係を清算するために、ルースは、ディヴィッドを射殺します。
ふたりの間に超えがたい階級差別がさり気なく描かれていたことも忘れられません。
この作品は、1985年カンヌ国際映画祭ヤング大賞を受賞した忘れがたい1作です。
Dance with a Stranger
(1985イギリス)監督・マイク・ニューウェル、脚本・シェラ・デラニー、製作・ロジャー・ランドール=カトラー、音楽・リチャード・ネヴィル・ハートレー、撮影・ピーター・ハナン、編集・ミック・オーズリー、美術・アンドリュー・モロ、衣装デザイン・Pip Newberry
出演・ミランダ・リチャードソン(ルース・エリス)、ルパート・エヴェレット(David Blakely)、イアン・ホルム(Desmond Cussen)、ジョアンヌ・ウォーリー(クリスティーン)、マシュー・キャロル(Andy)》


この映画のミランダ・リチャードソンの印象が強烈で、見た当時は衝撃に似た感銘を受けたのですが、その印象を結局忘れてしまったのは、以後の話題作に恵まれなかったからなのかと、彼女の出演作を改めて検索してみました。

なるほど、なるほど。そうですか。

いままでの出演作を以下にリストアップしてみたのですが、このうち見た作品は幾つかあるのに、まったく印象にありません。不思議です。

まだ、これはという作品とか、はまった役に恵まれないということでしょうか。

役柄を深く掘り下げたくとも、それにふさわしい役に恵まれないまま、掘り下げなくともいいような役を重く演じてしまったために、かえってそれがアダとなり、観客に負担を抱かせて、あえてスルーさせるものがあったというか、あるいは、ずばり忌避だったのか、そんな感じだったのかもしれません。

つい最近見た「ボストン ストロング 〜ダメな僕だから英雄になれた〜」の母親役は、まさにそんな感じでしたよね。



★ミランダ・リチャードソン出演作・カッコ内は、役名

1985
ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャーDance with a Stranger(ルース)
ひと夏の青春The Innocent(メアリー・ターナー)
アンダーワールドUnderworld(オリエル)

1987
金持ちを喰いちぎれEat the Rich(DHSS Blonde)
太陽の帝国Empire of the Sun(ヴィクター夫人)

1989
ベーゼ/崩壊の美学El sueño del mono loco(マリリン)

1991
魅せられて四月Enchanted April(ローズ・アーバスノット)ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門) 受賞

1992
クライング・ゲームThe Crying Game(ジュード)
ダメージDamage(イングリッド)英国アカデミー賞 助演女優賞 受賞

1994
愛しすぎて/詩人の妻Tom & Viv(ヴィヴィアン・エリオット)
ファーザーランド〜生きていたヒトラー〜Fatherland(シャーロット・マグワイア)テレビ映画

1995
欲望の華The Night and the Moment(ジュリー)

1996
カンザス・シティKansas City(キャロライン・スティルトン)
夕べの星The Evening Star(パッツィ・カーペンター)

1997
鉄の枷The Scold's Bridle(サラ・ブラックネイ)

1999
アリス・イン・ワンダーランド/不思議の国のアリスAlice in Wonderland(ハートの女王)テレビ映画
王様と私The King and I(アンナ)声の出演
第一の嘘The Big Brass Ring(ディナ)
スリーピー・ホロウSleepy Hollow(ヴァン・タッセル夫人)

2000
チキンランChicken Run(ミセス・トゥイーディ)声の出演
追撃者Get Carter(グロリア)

2001
スノーホワイト/白雪姫Snow White(エルスペス)

2002
スパイダー/少年は蜘蛛にキスをするSpider(イヴォンヌ/クレッグ夫人)
めぐりあう時間たちThe Hours(ヴァネッサ・ベル)

2003
ロスト・プリンス 〜悲劇の英国プリンス物語〜The Lost Prince(メアリー王妃)テレビ映画
フォーリング・エンジェルスFalling Angels(メアリー・フィールド)

2004
プリティ・ガールThe Prince & Me(ロザリンド女王)
チャーチルズ・ウォーChurchill: The Hollywood Years(エヴァ・ブラウン)
オペラ座の怪人The Phantom of the Opera(マダム・ジリー)

2005
ナターシャの歌にGideon's Daughter(ステラ)テレビ映画
ハリー・ポッターと炎のゴブレットHarry Potter and the Goblet of Fire(リータ・スキーター)

2006
パリ、ジュテームParis, je t'aime
サウスランド・テイルズSouthland Tales(ナナ・メエ・フロスト)

2007
ブラザーサンタFred Claus(アネット・クロース)

2009
ヴィクトリア女王 世紀の愛The Young Victoria(ケント公爵夫人)

2010
ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1 Harry Potter and the Deathly Hallows - Part 1(リータ・スキーター)

2014
マレフィセントMaleficent(ウラ女王)

2017
ボストン ストロング 〜ダメな僕だから英雄になれた〜Stronger(パティ・ボウマン)
チャーチル ノルマンディーの決断Churchill(クレメンタイン・チャーチル)



★チャーチル ノルマンディーの決断
(2017イギリス)監督・ジョナサン・テプリツキー、脚本・アレックス・フォン・チュンゼルマン、撮影監督・デヴィッド・ヒッグス、美術・クリス・ループ、音楽・ローン・バルフ、編集・クリス・ギル、衣装・バート・カリス、ヘア&メイクアップ・ケイト・ホール、
出演・ブライアン・コックス(ウィンストン・チャーチル)、ミランダ・リチャードソン(クレメンティーン・チャーチル)、エラ・パーネル(ミス・ギャレット)、ジョン・スラッテリー(連合国軍最高司令官アイゼンハワー)、ジェームズ・ピュアフォイ(英国王ジョージ6世)、ジュリアン・ウェイダム(モンゴメリー将軍)、リチャード・ダーデン(Jan Smuts)、ダニー・ウェブ(Marshal Brooke)、



by sentence2307 | 2019-06-16 18:55 | ジョナサン・テプリツキー | Comments(0)

お茶漬けの味

先日、BSで小津作品「お茶漬けの味」1952を放映していたので、久しぶりに見てみました。

「お茶漬けの味」は、自分のなかの位置づけとしては、とても微妙な作品です、いままで何をさし置いても「是非とも見る」という作品では、必ずしもありませんでした。

ですので、たまたまのTV放映は、ある意味(他動的な)とても貴重な機会といえるかもしれません。

戦後の小津作品を単純に年代順に並べてみると、興味と評価についての比重は、どうしても「シリアス」な作品に傾いてしまうというのは、誰もがきっと同じだろうと思います、インパクトからみれば、それは致し方のないことと自分でも思っていますし、そうした傾向を「善し」とする部分が自分の中には確かにあります。

しかし、それらシリアスな作品(「風の中の牝鶏」「晩春」「宗方姉妹」「麦秋」そして「東京物語」や「東京暮色」)と同じ乗りで、この「お茶漬けの味」を見ることができるかというと、どうしても抵抗を感じてしまうのが、いままでの自分の状態でした。

この「お茶漬けの味」を、それこそはっきりと「喜劇」と仕分けしている解説書もあるくらいですから、そういう影響を受けてしまうのは避けられません、なので軽妙洒脱な「お茶漬けの味」という作品を受け入れるためには、どうしても特別の覚悟と気分の切り替えの心的手続きを必要としたのだと思います。

その意味で自分にとってこの「お茶漬けの味」はたいへん「微妙」な作品で、それが「敬遠」というカタチに現れてきたのかもしれません。この作品を見たのは今回が二度目、しかも数十年ぶりの鑑賞でした。

たぶんに思い込みというのもあったと思います、自分にとっての「お茶漬けの味」は、いわゆる「分かりやすい作品(だから、もう見なくていいか)」という位置づけで「ワキ」に押しやった作品といえます、思えば、随分と勝手な話ですが。

つまり、最初見たとき、なんの根拠もなく、「これは、こういう作品なんだよな」と決め付け、完全に理解したつもりになって、それ以後、二度と見直すことも、思い返すこともなくなってしまった映画として、「お茶漬けの味」という作品はありました、いわば「封印」状態にしてしまった作品です。

最初に見たのは、おそらく「並木座」か「文芸地下」あたりの「小津監督作品特集」の一本として「お茶漬けの味」を見たと思いますが、当然、他の小津作品と比較して見て、その「衝撃度」がすこぶる弱く、ずいぶん淡白な作品だなあと失望し、だから「封印」したのだと思います。

なにしろ、この映画の内容というのが、熟年夫婦が喧嘩して和解するまでを描いた映画にすぎません、親しく出入りしていた姪が、「見合いなんか、絶対に嫌」と見合いの場から逃げ出したことから、その世話をした妻が身勝手な振る舞いをした姪に怒りを向けると、夫のほうは「かばう」という立場になって夫婦仲もぎくしゃくし始め、やがて険悪になってしまいます。

この夫婦もまた見合い結婚で一緒になっていて、夫婦のあいだが疎遠なのはそのためなのかと感じ始めるあたりから、次第にお互いの積年の不満が噴出してぶつかり合うというストーリー展開です。

自分がこの作品を見るのは今回で二度目なのですが、姪が「お見合い」に疑問を感じたことと、熟年夫婦の間にくすぶる「疎遠」の原因が「見合い結婚」に端を発していたのではないかと思い始める物語の構図が、端正な整然とした相似形をなしていることに今回はじめて気がついて、とても感心しました、これが小津作品の楽しみ方というものなのかと。

「いまさら、なに言ってんだ」と叱られそうですが。

姪の見合い話がこじれたことが切っ掛けとなって、気まずくなった夫婦が、やがて和解に至るまでを描いた映画なのですが、これをもし「風の中の雌鶏」などと一緒に見たとしたら、シリアス好みの自分には、やはり落胆するしかなかったに違いないことは、容易に想像できます。

なにしろ、「風の中の雌鶏」は、夫が出征中に子供が急病になり、切り詰めた生活のなかでは治療費に当てる経済的余裕がなく、思い余った妻は売春してしまい、そのことを知った夫は激怒して妻を殴るわ蹴るわの、現代ではもはや製作することはおよそ困難な、「戦争直後」という逼迫した時代が作らせた凄まじい壮絶なDV極限的映画です。

しかし、かたや「お茶漬けの味」は、裕福な家庭の夫婦の気持ちをかすかな行き違いと、ささやかな和解とを描いた上品な映画です、そもそもの喧嘩の原因が「お嬢様育ち」の有閑マダム(現在では完全に「死語」ですが)のわがままと思い上がりが根底にあり、彼女のささやかな改心によって和解するという気持ちの微妙な行き違いをさざなみのように描いた、別段なんということもない映画です、当時の自分が、「風の中の雌鶏」に心奪われ、「お茶漬けの味」に失望したとしても、一向に不思議ではありません。

子供の命を救うためには売春するしか方法のなかった切羽詰った主婦の苦悩を描いた「風の中の雌鶏」を見たあとで、この気まぐれな有閑マダムの反省と改心の物語「お茶漬けの味」を見たら、まあ、こんな自分のことですから(いまから思えば、若気のいたりにすぎませんが)、落胆を通り越して、手抜き作品以外のなにものでもない、こんな作品を小津監督がわざわざ撮る必要があるだろうかという「悪印象と嫌悪」すら持ったかもしれないことは、容易に想像することができます。

ですので、そのとき自分が持ってしまった「烙印」は、今回、この作品を見るときも残っていて、もう「見なくてもいいかな」的な印象の中で、今回、BSでこの「お茶漬けの味」の放映を受けて、それほどの期待も抱かずに見たというわけです。

しかし、この「お茶漬けの味」の内容のすべてを忘却して、「知識」が皆無だったというわけではありません。

叔母・木暮実千代が、自分の夫のことを女友だちの前で(いずれも有閑マダムです)あまりにも悪し様に言う姿に、津島恵子演じる姪が嫌悪し、「見合い結婚」というものに幻滅し、見合いをすっぽかす動機になるという断片だけは鮮烈な記憶として持っていました。

この印象のカケラは、決して誤りというわけではありません、また、ストーリーの重要なキモを押さえていることもその通りなのですが、今回、この作品を改めて見て、そのニュアンスが若干異なっていることに気がつきました。

生活に余裕のある有閑マダムの妻・妙子(小暮実千代)は、同じようにひまを持て余している有閑マダムの友だちと修善寺旅行に行くこと約束し、夫・茂吉(佐分利信)には、友だちが急病になったから見舞いに行くと嘘をついて旅行を承諾させます。

この一連のやり取りから、この夫婦のカタチが想像できるような気がします。

一流商社に入った男が、その優秀さを上司に見込まれ、娘と見合いさせられてめとる、しかし、都会育ちの妻は、無骨な田舎出の男の所作のいちいちが癇にさわり、何もかもが気に入らない。

そういう思いを鬱積させている妻は、修善寺の夜も、やはり友だち相手に、面白くもない夫の生真面目さ・無骨さを酒の肴にして笑いものにして楽しんだ挙句のその翌朝、宿の池に放っている鯉に餌をあげながら、もそもそして餌を逃してしまう動きの鈍い鯉を鈍重な夫になぞらえて「鈍感さん」と呼び、友だち皆で散々に笑いものにしますが、自分の印象では、ここで姪の節子(津島恵子)が、夫を人前で笑いものにする妻・妙子に対する嫌悪をもよおし非難したとの記憶があったのですが、まったく違いました。

姪の節子も同じように皆のからかいに同調して(とまではいかないにしても、否定することもなく)穏やかな笑顔でその場の雰囲気に溶け込み、楽しんでいたことは確かです。

むしろ、妙子が夫をからかい悪口を言い募りながら突如不機嫌になって、つぶやくように、「あんなやつ(とは言っていませんが)どこへでも行っちゃえばいいのに」と吐き捨てるように言い、それから思いつめた表情でじっと黙り込む鬼気迫る表情は、修復不可能な夫婦の深刻な亀裂と、彼女の絶望感を示唆している衝撃的なシーンでした。

それは自分の記憶の中には、欠落したまるで存在していない「表情」です。

そして、自分の記憶の中にあった姪・節子の反発と怒りの言葉「お見合いなんか、絶対にいや」は、もう少しあとの場面の、実家で無理やりお見合いさせられることになったと叔母・妙子に訴えにきたときの会話のやり取りのなかで発せられています。

姪・節子は、叔母・妙子も見合いで結婚したと聞かされ、「だからふたりは合わないんだわ」ときめつけ、妻が夫に嘘をつくこと、亭主のことを人前でからかい笑いものにすること、そういう夫婦でいることで「幸福なのか?」と妙子に問い詰めます。

「私は幸福よ」

「真っ黒な、もそもそした鯉を叔父様だなんて、お気の毒だわ」

「余計なことよ」

「いいの、結婚したって、旦那様の悪口なんて絶対に言わない。私、自分で探します。お見合いなんて大嫌い。」

「困った人ね、そのうち分かるわよ」

「分かりたいとは、思いません。人の前で旦那様のこと、『鈍感さん』なんて、決して言いませんから」

姪・節子の本音が、ここで十分すぎるくらいに語られているのに、それに反して、彼女から激しい言葉を浴びせられた叔母・妙子の本音は、それほど十分に語られているとはいえない、と自分は長いあいだ思い込んできました。

しかし、妙子は、実家の千鶴(三宅邦子)や山内直亮(柳永二郎)から節子の見合いの話を聞き(前夜に説得し、渋々承知させたこと)、見合いの席である歌舞伎座への同行を依頼されたときも、前日の節子とのつきつめた話はいささかも仄めかすことなく、まるで何事もなかったかのように平然と同行を承諾しています。

この一連のシーンを見たとき、これが妙子の本音なのだなと思い当たりました。

だってほら、妙子は、姪の節子との会話の中で、こう語っていましたよね、「困った人ね、そのうち分かるわよ」と。

妙子が自ら語ってしまった「そのうち分かるわよ」の意味は、夫に嘘をついて気ままな旅行をしたり、好き勝手に遊びまわり、鈍重な夫を陰でからかい、「結婚なんて、しょせんそんなものだ」とうそぶいて、一瞬捉われるかもしれない自己嫌悪を適当にやりすごし、はぐらかして夫婦のあいだによそよそしい溝を作り、顔をそむけ合い、当然の孤独を抱えて暮らすことが、そのうちに分かる「結婚」の実体なのだ。結婚なんて「それ以外の、なにがあるの?」と。

鈍感と夫をなじり、大人気ないと姪を非難し、お茶漬けを下品にかき込む夫に「そんなご飯の食べ方、よして頂戴!」となじりながら、妙子は、それら非難の積み重ねのひとつひとつに、自分の非を少しずつ同時に気づき始めています。

この「積み重ね」が彼女の中になければ(そして、そのことを観客が理解できていなければ)、その夜、飛行機の故障によって夫が突然帰宅し、夫婦が和解をとげるという唐突感は、あるいは免れないかもしれません。

妙子が、腹立ちまぎれに実家に帰ってしまい、その間、突然、夫に海外出張の辞令が下りて、急遽旅立たなければならないとの連絡を受けても、それまで、怒りを高揚させたまま収束できない自分の頑なさにこだわっているあいだに、夫を空港に見送ることをあわや逸しかけたことも、妙子は反省し、深く傷ついたに違いない「積み重ね」を辿れなければこの夫婦の和解は十分に理解できないかもしれない、そんな危惧を感じました。

実は、自分も、夫婦の和解がなぜ「お茶漬け」なのか、という疑問をずっと抱いてきたひとりでした、この実感のなさもこの映画が「敬遠」につながったひとつの原因かもしれません。

夫婦の気安さの象徴というのが「お茶漬け」なのだろうかとも考えてみましたが、もうひとつピンときません。

そのときふっと中学校(相当むかしの中学校です)の若き女教師の言った言葉を思い出しました。


英語というのは、ごく短い文章で多くの情報を瞬時に伝えることのできる優れた言語です。それに引き換え、この日本語はどうですか、でれでれと長たらしいばかりで、結局、最後まで肯定しているのか否定しているのかさえ分からない曖昧さ、グズグスと持って廻った実に煮え切らない下等な言語です、と彼女は日本語で熱く語っていました。

そしてまた、アメリカの食べ物というのは、栄養満点の高カロリーで、だからああした立派で逞しい肉体が形成されるのです。それに引き換え、日本の食事の貧しさ・みすぼらしさはどうですか。日本人の貧弱な肉体が証明しています、実に恥ずかしい限りです。漬物とか納豆とか、得体の知れない臭さ、なんですかあれは。なぜ、あんな奇妙な物を食べなきゃいけないんですか、と。

欧米の優れた文化を賞賛・崇拝するために、できる限りの想像力と弁舌を駆使して彼女は「日本」を卑下しまくっていました。

いまでは、日本文化を愛する外国人が、へたな日本人よりも日本語を流暢に喋り、受け継ぐ者がいないような伝統文化に興味を持ち、着物はおろか日本髪を結いたくて、そのためにわざわざ来日し、あるいは帰化する人たちさえいて、納豆も漬物も健康的な食品であることを熟知している脂肪太りの外国人たちは、なんの抵抗もなく食べている時代です。

あの女教師の「日本」卑下を思い返すとき、この「お茶漬け」を撮ったときの当時の日本の風潮(アメリカナイズ)の時代背景を考えるべきで、この作品は、小津監督の時代への批判が込められていたのではないかと考えた次第です。

(1952松竹・大船撮影所)監督・小津安二郎、脚本・野田高梧・小津安二郎、製作・山本武、撮影・厚田雄春、美術・浜田辰雄、録音・妹尾芳三郎、照明・高下逸男、現像・林龍次、編集・浜村義康、音楽・齋藤一郎、装置・山本金太郎、装飾・守谷節太郎、衣裳・齋藤耐三、巧藝品考撰・澤村陶哉、監督助手・山本浩三、撮影助手・川又昂、録音助手・堀義臣、照明助手・八鍬武、録音技術・鵜澤克巳、進行・清水富二
出演・佐分利信(佐竹茂吉)、木暮実千代(佐竹妙子)、鶴田浩二(岡田登)、笠智衆(平山定郎)、淡島千景(雨宮アヤ)、津島恵子(山内節子)、三宅邦子(山内千鶴)、柳永二郎(山内直亮)、十朱久雄(雨宮東一郎)、望月優子(平山しげ)、設楽幸嗣(山内幸二)、小園蓉子(女中ふみ)、志賀直津子(西銀座の女)、石川欣一(大川社長)、上原葉子(黒田高子)、美山悦子(女店員)、日夏紀子(女店員)、北原三枝(女給)、山本多美(女中よね)、山田英子(給仕)、谷崎純(爺や)、長谷部朋香(見合いの相手)、藤丘昇一(事務員)、長尾敏之助(社長秘書)、
劇場公開日 1952.10.01 12巻 3,156m 115分 白黒 スタンダードサイズ(1.37:1)
毎日映画コンクール男優主演賞受賞(佐分利信)




by sentence2307 | 2019-06-09 17:01 | 小津安二郎 | Comments(0)

野菊の如き君なりき

ここ数日間、木下恵介監督作品「野菊の如き君なりき」1955に、サブタイトルが付いていなかったか、すこし調べています。

もし付いていたとしたら、イメージ的には、「思い出の君はいつまでも美しく」みたいな、そんな感じのものだったのではないかという記憶が薄っすらとあるので、そのあたりを確かめたくて、あれこれ検索を試みたのですが、結局確認するまでには至りませんでした。

でも、仮にこの惹句が木下恵介作品「野菊の如き君なりき」のものだったとしたら、作品の要点を巧み言い当てている、いかにも相応しいサブタイトルだと感心していたので、別の作品と取り違えて覚えていることも含めて調べてみたのですが、どうもうまくいきませんでした。

この伊藤左千夫の書いた「野菊の墓」は、明治期、いとこ同士の淡い初恋が、大人たちの過干渉によって破綻させられるという実に切ない胸の詰まるような悲恋物語です。

むかしこの映画の作品解説には、「いとこ同士の初恋とその破綻」を「封建的な道徳観を持った大人たちによって無理やり引き裂かれ」みたいに説明したものを読んだことがあって、そのたびにものすごい違和感を覚えていました。

もし、この映画に描かれているその「初恋の破綻」の部分を説明するとしたなら、そんな大括りな紋切り型の説明ではなく、むしろ、「狭い村社会の好奇な目」とか、「悪意と嫉妬の告げ口」とズバリ言ってしまうのがもっとも相応しく、なにも遠まわしに「明治という時代の悪弊のため」などと時代のせいにするなどという事大主義は、なんか如何にも日本的だなとずっと考えていました。

この「初恋の破綻」は、なにも明治の時代的な特徴なんかではなくて、いまだって初恋くらいは十分に破滅させることができる普遍な「悪意ある好奇と嫉妬」とを、まずは挙げるべきではないかなと。

いまでもよくある小中学生とか高校生の自殺に伴う「いじめ報道」の記事の定番に、いじめられた側の自殺者がどんなに苦しんで自殺に至ったかを異常なほどの執着でもって掘り下げネチネチと報道する記事に対して、それに引き換え、死に追いやった加害者たちに関する糾弾がまるでない記事などに接すると、「いじめ」の実態を、まるで最初から、避けがたい「天災」かなんかみたいに扱われているのが不思議でなりません。まるで「遭遇してしまったことは、仕方なかったことなのだ。こんなことで自殺するなんて君が弱すぎたんだよ」と言わんばかりの姿勢には、いかにも日本的な迎合の姿勢を感じ、不快で、思わず湧き上がる怒りを禁じえません。

確かに、自殺者は弱く、だからこそ弱い者とみると寄ってたかっていじり回し、いじめずにはおられない愚劣な者たちのターゲットになってしまうわけですから、ここにある「いじめ」のシステムを解明しないかぎり、いつまでたっても弱者たちは高層ビルから飛び降りるか、家に引きこもるしかして、逃げ回るしかないということになります。

マスメディアは、権力悪におもねるようなマゾヒスティックな報道の姿勢をいい加減改めて、むしろ、いじめ抜いて自殺まで追い詰めたあげく、しおらしく反省ヅラしたその腹の中では、きっとちゃっかり舌を出して薄笑いしているに違いない、そして、その後ものうのうと好き勝手に新たなターゲットを物色している「やり得」の加害者たちをのさばらせないような立ち向かう報道の姿勢が必要です。

しかし、木下恵介作品「野菊の如き君なりき」は、とても優れた作品には、違いありません。

明治期の農村の自然のなかで成長した従姉弟同士の少年と少女の淡い初恋が、その若さと年齢差ゆえに、家族や肉親、そして世間の冷たい目にさらされ、悪意ある干渉に追い詰められ、引き裂かれて破綻するという物語です、少女は泣く泣く初恋を諦めて他家に嫁ぎますが、やがて病死するという伊藤左千夫原作のなんとも遣り切れない哀切な悲恋物語で、その死の床の枕下には、忘れられない少年の手紙が大切にしまわれていて、少女の秘めた健気な思いが死後に分かり涙を誘うという、この作品を越えるようなピュアな悲恋物語は、いまだ作られていないのではないかと思うくらいの傑作には違いありません。

この映画を見た当時、四隅を白いボカシで囲った場面がいかにも作り物めいていて、「ずいぶんだなー」と抵抗を感じた記憶があります、しかし、それでもすぐに、哀切きわまりない「木下」調に引き込まれて、見終わったときには、そうした画面への抵抗感や違和感もすっかり忘れてしまったのだと思います。

しかし、いま改めて映画のスチール写真を眺めると、やはり「これって、やりすぎじゃん!」という違和感は確かにあります。あらためて、これって木下恵介のずいぶん大胆な試みだったんだなあと思います、自分としては、いままであまりいい評判も聞いていなかっただけに、一種の「掛け」みたいな試みだったのかもしれません。

郷愁の感じをだすために四隅に楕円形のボカシを入れた手法っていうのは、大むかしに町の写真館の店先のショーウィンドウでよく見かけた家族写真とか出征兵士の写真とか、ああいうのによくありました、いずれにしても古い写真帖を一枚一枚めくっていくっていう「乗り」だったんでしょうね。撮った瞬間・見た瞬間から、最初から「思い出」となるように意識的に作られているのだと思います、「生前感」とか「郷愁感」とかを兼ね備えた・・・。

この独特な雰囲気を木下恵介監督は狙っていたでしょうし、それが木下監督の持ち味なので、見ていて違和感というものをあまり感じなかったのですが、自分の友人に、むかしから木下恵介を毛嫌いしているヤツがいました、彼の描く「抒情」とか「詩情」の正体は、実は、観客に媚る「女々しさ」にすぎず、絶対に受け入れられない、とよく言っていました。たぶん、嫉妬から民子と政夫を引き裂き、初恋を諦めさせたうえで、世間体を憚って他家に嫁入りさせて民子を病死まで追い詰めて破綻させる元凶の「家族」への指弾が一向に描かれていない「やられっぱなし」が気に入らなかったのだと思います、まるで、あの一面的な「いじめ報道」みたいな嫌悪と同じものをこの作品に感じていたのだと思います。

木下恵介容認派の自分などは、「こういうタイプの映画があってもいいじゃん」とつい考えてしまうのですが、この「野菊の如き君なりき」に一貫して流れている被虐趣味には耐えられず、どうしても許容できなかったのだと思います。

考えてみれば、「優柔不断」とか「どっちつがず」も「女々しさ」の延長線上にある感性なので、当然といえば当然な話かもしれません。

いまでも、この話になると、自分は内心「まさかね」と思いながらも、彼の熱弁に対してニヤニヤしながら適当に相槌をうって同調することにしていました。

しかし、最近、この「野菊の如き君なりき」を長年擁護してきた自分の思いを一挙にひっくり返すような、まるで天地を揺るがす新聞記事に遭遇しました。

自分的には新聞を読むという習慣は確かに「あります」が、時間としては、朝食をとるときに傍らに広げて読むという程度です、「その間の時間」だけ新聞に接しているということになるので、大きな事件などがあったときは、その関連の記事を集中的に読むことになるので、他の記事を読む余裕がなくなってしまうというそんな感じです、それでも、「テレビ番組表」と「人生相談」だけは欠かさずに目を通しています。

ただ、「人生相談」については、「相談」は読みますが、「回答」のほうは最初の1~2行を読んで、最後まで読み通すことは滅多にありません、きっとそれは、答えが容易に想像が付くからだと思います、たとえ「同調」でも「否定」でも「韜晦」であったとしてもね。

ですので、いずれにしてもその答えが「想定内」のものであることは長年の経験によって分かっているので最初の1~2行を読みさえすれば見当がついてしまうからだと思います。

ところが、自分の長年の固定観念を突き崩すような「回答」に遭遇したのでした。

「相談者」は80歳男性、むかし、結婚して間もなく、体形が不満で離縁してしまった女性への悔恨の思いを募らせています。(読売新聞朝刊2019.5.18、15面)

回答者は、ノンフィクションライターの最良葉月という人。

それにしてもこのまま記憶の闇に落として忘却してしまうには実に惜しい傑出した回答ですので、以下に転載しておきますね。


《【相談】
80代男性。52年前に離婚した相手の女性のことで悩んでいます。
結婚後、その女性の肩が張っていて、男性のような体形であることに嫌気がさしました。別れたいと思い、私は女性を無視しました。女性はいたたまれなくなって家を出て、7か月で結婚生活は終わりを迎えました。
いま思えば、なんて非情なことをしたのだろうと、深く反省する毎日です。体形が男性的だというだけで、相手を傷つけ不幸にしてしまいました。最近やたらと彼女のことを思い出し、悔やまれてなりません。
いまの妻は、非情にきつい性格で言葉遣いも悪く常に争いの日々です。だから余計に別れた彼女のことが残念でなりません。そして私には子どもがおらず、私の死後、墓が無縁仏になることについて、親に申し訳ないと思っています。
今後の残り少ない人生を、どのような償いの心構えで生きていけばいいのでしょうか。(東京・U男)

【回答】
あなたから見れば娘のような年齢の私に手紙が届いてしまいました。生意気を申し上げるようですが、一読して、元妻はあなたと離婚して本当によかったとつくづく思いました。
あなたが彼女にしたことは、今ではモラルハラスメントと呼ばれる精神的暴力です。自分が彼女を不幸にしたと考えるなんて不遜きわまりない。早いうちにあなたから逃れられたのは、不幸中の幸いだったといえるでしょう。彼女は彼女の人生をしっかりと歩んでおられると思います。
困ったのは、あなた自身です。現在の妻の欠点をあげつらい、家を継ぐ子ができなかったのが親に申し訳ないという。元妻への償いについての相談かと思いきや、いま一番気になるのは墓のこと。いや逆でした。こんな老後になったのはなぜかと考えるうちに、自ら切り捨てたもうひとつの人生が惜しくなったのでしょう。
遅きに失しましたが、それでも気がついてよかったと思います。ボランティアでも寄付でもいいのです。これからは天に徳を積むつもりで、人知れず善きことをなさってください。謝罪すべきは、あなたに与えられたかけがえのない人生に対してではないでしょうか。》


そうですか、そうですか、よく分かりました。

いえいえ、この傑出した「回答」を「民子さん」に当て嵌めようとか思っているわけではありません。だって、民子さんは、政夫からの手紙を後生大事に抱き締めて死んでいったわけですから、そりゃあ可哀想だったかもしれませんが、まだまだ「手紙」という救いはあったわけですから、この「回答」を適用することはできません、むしろ、逆です。

政夫は命永らえ、そろそろ死を思う老境に達したとき、「そういえば、ああいうこともあったっなあ」と、たまたま民子さんのことを思い出し、思い立って彼女の墓に野菊を供えに詣でた部分なんか、まさにこの「回答」はぴったりなのではないかと考えたとき、ふっと、民子さんがいやいや嫁いだという他家の「婿さん」という人は、この物語では、ついぞ顔を出さなかったことに思い至りました。

本当に可哀想なのは、もしかすると徹頭徹尾、言及されなかったこの婿さんなのではないかと。

今度うちに来た嫁さんはさあ、以前になんかあったみたいで、なんだかイワクありそうな人でね、ほんと大丈夫かなと思っていたら、案の定、家にも、婿であるこの自分にも一向に馴染もうとしないで、一日中部屋に閉じこもってめそめそと泣いてばかりいるかと思うと、そのうちに病気になってしまって臥せってしまい、あれよあれよという間に死んでしまったわけよ、でね、嫁さんの家族っていうのが大挙して押しかけてきて、枕の下からむかしの恋人の手紙を見つけて、突如「私らが悪かった」とかなんとか他人の家で大号泣がはじまったってわけ、おれなんていい面の皮だよ、まったく。なんなんだよあいつら、人のこと馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ。

あっ! 分かった、ボクの友人がこの作品をものすごく嫌悪し、苛立っていたのは、これだったんだな。

そういうことなら、なんか分かるような気がします。

夜、呑み屋にひとりで入ったら、ろくに注文なんか聴きにきもしないで、ホッタラカシの目にあっているちょんがーの身としたら、彼がこの作品を嫌がっている理由もなんだか分かるような気もします。なるほどね。孤独なんだなあ、みんな。

(1955松竹)監督・脚色・木下惠介、原作・伊藤左千夫(『野菊の墓』)、製作・久保光三、撮影・楠田浩之、音楽・木下忠司、美術・伊藤熹朔、編集・杉原よ志、録音・大野久男、照明・豊島良三、
出演・田中晋二(政夫)、有田紀子(民子)、笠智衆(老人)、田村高廣(栄造)、小林トシ子(お増)、杉村春子(政夫の母)、雪代敬子(民子の姉)、山本和子(さだ)、浦辺粂子(民子の祖母)、松本克平(船頭)、小林十九二(庄さん)、本橋和子(民子の母)、高木信夫(民子の父)、谷よしの(お浜)、渡辺鉄弥(常吉)、松島恭子(お仙)
昭和30年キネマ旬報ベストテン第3位、モノクロ。



by sentence2307 | 2019-06-05 09:38 | 木下恵介 | Comments(0)