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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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<   2019年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

8月に戦争映画の放映が多いのは、「終戦記念日」があるからですが、これを契機に戦争で死んだ英霊のミタマを悼む厳粛な気持ちにならなければと思うより先に、惰性で繰り返される固定化・マンネリ化した戦争映画の放映というお約束の「企画」自体が、いつもながら随分と安直な発想だなとシラケ返り、げんなりさせられ、イマイチ厳粛な気持ちになれないでいました。

だいたい、「戦争映画」とひとくちにいっても、そのスタイルや内容がさまざまであるように見えて、実は、作られ方自体は画一化されていて、迎合するにしろ反発するにしろ、「ご時勢(権力者から大衆まで)」の微妙な鼻息を窺いながら作られているという独特のクサミがどうしても鼻について、素直に見ることができませんでした。

それは、たとえばサキの大戦を懐古する好戦的な映画から、人道主義を持て余したどっちつかずの中途半端な映画まで、いやいや「反戦映画」といわれるタグイの作品群においても、おしなべてそれはいえることのような気がします。だいたい「反」とはいっても権力へ擦り寄る媚態という部分ではなんら変わらない、隠微なシナを作ったオモネリの姿勢はみえみえで同質、結局それはどこまでもただの免罪符とか踏み絵でしかなく、だから一層いかがわしい印象を拭えないまま嫌悪さえもよおし、いずれにしても自分としてはこの「戦争映画」一色に染められた「戦争映画月間」というダレた季節を、どちらにも組みすることもできないまま、落しどころのない苛立ちを抱えて、どうにかやり過ごさなければならないというのが、この「8月」の毎年の過ごし方でした。

もし、キューブリックやオリバー・ストーンの戦争映画を知らないで、これらの低レベルな邦画に晒され続けたとしたら、辛抱の足りない自分などは、とっくのむかしに、きれいさっぱり映画へのこだわりなど放棄できていたと思います。

しかし、そんな作品群のなかにもたったひとつの例外、いわば「救い」という意味での例外的な作品というのはありました、岡本喜八の「独立愚連隊」です。

「戦争」という忌避の固定観念から「アクション映画」という視座を得て切り込み、従来の硬直した贖罪と被虐趣味に隷従していたストーリーを解き放ち、自由な発想とスタイルをもって免罪符でも踏み絵でもない映画、客観的に「戦争」を別の角度から照射してそこにこそ「何もの」かを気づかせてくれることのできた作品、欺瞞に満ちた嘘八百の「深刻さ」ではなく、もちろんベタベタのお涙頂戴の「被虐趣味」なんかでもなく、むしろ「諧謔」や爽快な「誇張」によってしか表現し得ないそのスタイルによって、より「真実」に近づくことのできた映画、それが岡本喜八の「独立愚連隊」でした。日本においては本当に稀有なことですが、スタイルの発見というかたちで「作家性の発揮」を僕たちに見せ付けてくれた数少ない作品だったと思います。

この作品の公開当時、作品に浴びせられた大方の批判(はっきりいって「非難」ですが)は、描き方に対する「戦争に対する不謹慎」という罵声でした。

しかし、その非難は、そのまま発言の批判者自身でさえ気がつかなかっただけの(「戦争」はかく描くべきと断じ偏執した愚にもつかない囚われ)、薄汚れた日本的情緒を持て余していた従来の日本映画なら決して作りえなかった作品、優れて突出した異質な作品に対する驚愕と動揺と条件反射的に異物を排斥せずにおられない狭小で愚劣な情動の証しにすぎなかったことは、この国の映画史がとっくのむかしに証明してしまっていることでもあります。

とまあ、こんな感じで今年も「独立愚連隊」でも見て、せいぜいすっきり救われようかと月間プログラムを楽しみに開いたのですが、なんと「独立愚連隊」の放映予定などどこにもアップされていませんでした。なんだよ、全然わかっちゃねえなあと心底がっかりしてしまいました。

それならいったいなにがあるんだと見たところ、やっぱ派手派手のあの「日本のいちばん長い日」1967は、しっかりとアップされていました。

しかし、それにしても、これはどう贔屓目にみても原田眞人作品を引き立たせるための刺身のツマみたいな扱いにすぎません、もっともそれは「よく言えば」の話なので、実のところは、コタビの岡本作品のアップは「先様を褒めるために、こちらを貶す」というまるで噛ませ犬の扱いです、今後もこんな感じで作家性の希薄な「日本のいちばん長い日」は、こんなふうにして戦争懺悔の「8月の場」に引きずり出されることになるに違いありませんが、はっきりいってこれって随分と「無礼であろう」扱いです。

さんざんコケにされておきながら、いまさら「無礼であろう」もありませんが、そうとでも言わなければ貸した金をネコババしておいて空とぼけシカトを決め込むつもりのずうずうしいあの愚劣な劣等民族に分からせる方法がこれくらいしかないのですから、これもまあ致し方ありませんか。南も北も他国の財産をなにかと因縁をつけ、あるいは脅しをかけてきてこそこそと掠め取ることしか知らないコソ泥根性の恥知らずの国家という意味ではよく似ています。民族でもなんでも統一して共に破綻するという浅慮を早いところ実現させて世界をすっきりさせてほしいものです。

しかし、どちらにしても作家性などなかなか込める余地のなかった超大作映画「日本のいちばん長い日」ですから、作家性不在などとそれほどカリカリする必要もありません。

なにしろ、この作品を撮ってストレスをいちばん強く感じたのは岡本喜八自身で、翌年、この大作の鬱憤晴らしのような低予算作品「肉弾」1968を撮って、「日本のいちばん長い日」で撮ることのできなかったもの、自分は本当のところなにを撮りたかったのか、みたいな作品を残しました。

「独立愚連隊」が当時不謹慎と非難されたように、「日本のいちばん長い日」も当時あれこれと批判されたことは記憶しています。

自分の手元にも、当時の代表的な批判という評文の複写というのが手元にあるのですが、迂闊にも出展を明記しておかなかったので、今となっては、これがいつ頃のどこからの引用かを明記できません、とても残念ですが、出展不明というかたちで引用させてもらいますね。

そこには、「日本のいちばん長い日」について、こんな感じで書かれていました。

《シナリオが戦争を賛美しているわけではない。(この少し前に「橋本忍のシナリオはさすがだ」と褒めています)演出も太平洋戦争が愚挙だったことを否定していない。戦死者200万人、非戦闘員の死100万人との字幕と重なって、戦争の惨禍を表すスチールが映され、仲代達矢の「この同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、日本人の上に再びこのような日が訪れないことを念願する」とのナレーションで映画は終わる。これが作者の観点であり、この限りでは作者の認識は間違っていない。だが軍国主義者やファシストの他民族への加害性や侵略性を批判する視点は希薄である。最重要事項を描かずにディテールだけを切り取って描くと、真に大事なものが漏れてしまう。》

なるほど、なるほど。

日本の安定政権が一瞬揺らいだ間隙をついたアダ花みたいな、言ってみれば当時のアサハカな「流行」として、かつて日本が戦争を起したことによってご迷惑をおかけしたアジアの諸国民に対して徹底的に謝り倒すという「はやり」があったわけですが(そのアトサキを考えない幼稚で偽善的で無責任な放言のツケを払うために窮々としている現在です)、この評文なんかもほとんどその「ながれ」に迎合した駄文にすぎないと「うっちゃって」もいいところでしょうが、まあ、その辺は「良識」から非難もせず沈黙を守っていたところ、岡本喜八自身の論考「体験的戦争映画・試論」のなかに目からウロコの落ちるようなクダリを発見しました。「やっぱ、あったじゃ~ん」という感じでしょうか。
岡本喜八は、こう書いています。

《1000万円映画は論外としても、日本の映画作りは、並べて、製作費にユトリが無いのだが、戦争映画作りは特にユトリが無い。
拙作の中でいわゆる大作は二本しかないのだが、「日本のいちばん長い日」では、準備中、俳優費の計算に追われ、「沖縄決戦」では、白兵戦を、彼我夫々一個分隊単位でしか撮れなかったものである。
従って、現場体験から言えば、「部分で全体を・・・」、言い換えれば、「戦略的な規模を狙わず、戦術的な手法を使う」といった、素材選びと処理法の方が、より「戦争」に噛りつき易いと思う。
尤も、製作費にユトリのある筈のアメリカ映画でも、超大作「史上最大の作戦」より、小品「攻撃」に、より「戦争」を感じたところを見ると、製作費の多寡にかかわりなく、「部分で全体を・・・」しか手のないほど、「戦争」という奴は、やっぱり巨大な怪物なのかも知れない。》

誰がどう見たって、オールスターキャストの総花的なダレきった「史上最大の作戦」より、上官への反抗と射殺というショッキングな事件を描いた「攻撃」のほうが、より優れた作品であることは自明の理です、なにが「大状況」だよ、という感じでしょうか。



by sentence2307 | 2019-08-22 12:37 | 岡本喜八 | Comments(0)
8月10日の夕刊の一面に、「水の都へ、清きお濠に」という見出しで、皇居の外堀と内堀の汚染が著しいので、玉川上水に接続して抜本的に浄化しようという案が報じられていました。

記事によると現在のお濠は下水道とかにもつながっていて、夏場はとくに汚染が激しく藻や悪臭が発生するそうなので、玉川上水とつないで循環させ、浄化してお濠をきれいにしようという案だそうです。

この唐突な見出しを見た当初は、何十年もほったらかしにしておいて、「なにをいまさら」という気持ちしかありませんでしたが、よく読むと、それもこれも2020年・東京オリンピックをめどにして、それ以後に具体化するということです、そうと分かると「はは~ん、なるほどね」とようやく納得することができました。

まあ、こういうことも婉曲的にはですが、「オリンピック効果」のひとつといえるわけで、当然「是とすべきもの」と思いますが、かつて猥雑な東京を国家的な突貫工事によってまたたくまに高速道路網を完成させ、東海道新幹線も走らせ、驚異的な速さでカラーテレビを普及させた(これについては退位したさきの天皇のご成婚時が契機だったという説もあります)あの1964年のオリンピックのときと比べると、もはや施設やインフラ、そしてソフトの面でも完成されてしまっている観のあるいまの東京では、最早することなどごく限られてしまい、為すべきものも尽きていて、仮にもしあるとしてもせいぜい「補修」とか「修繕」くらいしか考えられないので、この「玉川上水連結」など、施策担当者が「仕事はないか」と必死に探したあげくに、やっとひねり出した「妙案」だったのかも、などと感心しながら、その一方で、それにしてもずいぶんと突飛なアイデアだなと思わずクスッと笑ってしまったほどでした。

だって、お堀の水など汚れている方がむしろ重厚なくらいで風格もあっていいじゃないかと思うのですが、しかし、考えてみればあの満開の桜の散る季節、花びらが滂沱と滝のように降り注ぐ千鳥が淵の荘厳な光景を思い起こし、毎年のおびただしい落花が何年にもわたって堆積し、そのままに放置されているわけで、積り積もった堀の底は手の施しようもないくらいのヘドロの層になっていることも想像され、やはりここは玉川上水を回流させるという大鉈を振るう施策というも必要なことなのかもしれないと思えてきました。などと記事を読みながら、一人このような妄想にふけりながら、また別の思いにも捉われていました。

「玉川上水」といえば、すぐに連想するのは、そこで情死をとげた太宰治のことです。

つい最近の映画でも、たしか「人間失格」とか「ヴィヨンの妻」が映画化されて、太宰治の根強い人気を再認識させられた印象が鮮明に残っています、

しかし、自分としては、どうしてもイマイチ好きになれない作家のひとりです。

自らの「不具」(社会的不適応もそのひとつですが)をことさらに誇張し、見せびらかし、売り物にして「オレはこんなにダメな人間なのだ」と同情を誘いながら、「でも、こんなオレのことがアンタは好きなんだろう? な?」みたいな、他人に媚びへつらうような取り入り方にどうしても嫌悪が先立ち、その開き直った傲慢な卑屈さには、どうにも耐えがたいものがありました。

たとえば、小説「晩年」のなか、最初の「葉」の冒頭部分などは、本気なんだか、それとも傷心をよそおって読者の感心を煽るもの惜しげなテクニックだかなんだか知りませんが、どちらにしても、とても嫌なものを感じてしまいます。

こんな感じです。

《死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が折り込められていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。》(「晩年」の「葉」冒頭部分)

こんな感じのものなら、まだまだあります。

小説「姥捨」の冒頭、小説の書き出しとしては、読者の意表をつく「そのとき、」という前後になにひとつ脈絡もなく突飛な言葉で不意に始められる(奇を衒うという意味で)とても有名な冒頭部分です。

《そのとき、(原文では、この言葉を際立たせるために、すぐに改行されています)
「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」
変わった声で呟いたので、
「それはいけない。お前の覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでいくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神様だって許してくれる。」
ふたり、厳粛に身支度をはじめた。》(「姥捨」の冒頭部分)

こんなふうに書いていたら、むかし、ある酒の席で、話の勢いの成り行きから、その「太宰嫌い」を披露しなければならない局面に立たされたことを思い出しました。

そのとき、たまたま隣に座っていたごく若い神経質そうな文学少女に猛烈に反発され、執拗に食って掛かられたことがありました。《あなたがいまウダウダ非難した「それ」こそが、太宰治の人間的な魅力なのだと》

しかし、どのようになじられても、自分としては太宰の人格的な歪みについてはどうしても受け入れられず、とうてい理解できるものではないことを繰り返すしかありませんでしたが。

まあ、そういうことがあったあとでも懲りずに太宰作品は、折りに触れて少しずつ努めて読むようにしていますが、やはり、どうしても、そして、いつまでたっても自分には太宰治(人間と作品)に馴染めないということが、ますますはっきりしただけでした、それくらいが努力した読書の成果というか、収穫といえば収穫ということになります、いわば「不毛な収穫」だったわけですが、いざこうして「不毛な収穫」などと文字にしてみると「収穫」と「不毛」とは、いかにも矛盾し相反する言葉の組み合わせであることが、いまさらながら奇妙な感じです。しかし、これが自分の実感でした。

自分の「嫌悪」は、太宰の世の中に対する甘ったれた姿勢もそうですが(こうストレートにいってしまうと、またまた、揚げ足をとられて非難されそうですが)、むしろ、文体とか語り口のスタイルの方にこそあったのではないかと。そもそも太宰治に馴染めないのは、どうもあの独特の「おんな言葉」で語られる軟弱な独白口調(女性独白体小説)にあるのだと、あるとき、天啓のように気がついたのです、この「気がついた」というのは、ごくごく最近のことで(自分は硬質な文体を好むので、とくにそう感じたのかもしれません)ちょっとそのあたりのイキサツを書いてみようと思います。

自分のいつもの散歩コースの重要な一部に駅前の書店をのぞくというのがあります。

住んでいるところは、なにせものすごい田舎です、そこにある唯一の書店なので(一度つぶれて、いまの店は代替わりした二代目ということになります)、毎日のぞいてみるといっても昨日と今日の品揃えに特別の変化があるかもしれないという懸念などいささかも必要ありませんが、自分の日常的な散歩の定例コースにあたるので、どうしても立ち寄ってしまうという事情があるくらいです。

そして、のぞく売り場というのも、おもに「小説」と「映画」のところと限られているので手間もかかりません。「映画関係」のコーナーは、スペースからいえば普通です、新宿・紀伊国屋書店の売り場(別館の方)と比べても、三分の二くらいは確保されているのではないかという、それなりの扱いになっていますが、しかし、「品揃えのセンス」からいえば比べものにならないくらいの格差を感じます。そりゃあ、あなた、それは単に購買客の資質を反映しているにすぎないよと言われてしまえば、返す言葉もありません。

新宿・紀伊国屋書店の「映画本」売り場で斬新な選択の魅力的な書籍に囲まれながら、それを片っ端から読みとばし世界映画史を跳梁しつくすという快楽の時間は1~2時間くらいではとうてい満足できるものではありません、3~4時間は優に必要で、実際もそうさせてもらっていて、それこそザラにあることです(立ち読みの分際でこんなことを言うのも気が引けますが、それでも時間は足りません)、それに比べてわが町の書店の「映画本」売り場などというものは、ものの3分もあれば十分通過することが可能な腐界にすぎません。なんでこんなにも韓国人俳優やタレントの愚劣な本を律儀に揃えなきゃいけないのだ、いったいこんな愚劣なものを誰が読むんだと一瞬辺りを見回して些か憤り、この見事に低劣な品揃えに心底うんざりして店をあとにしながらも、しかし、「明日」もまたここに立ち寄ることになるわが囚われの哀れな習慣が、なんだかとても可哀想になってきました。ほんとにもう、という感じです。

そんな感じで、この週末、いつもの散歩の定例コースをたどって書店に入りました。

そして、いつものように「小説」の売り場をゆっくり眺めながら歩いていたとき、一冊のオレンジ色の装丁の本が目に止まりました。最近ではついぞ見かけなかった本なので、思わず手に取りました。

背表紙には、大きな活字で「だれも知らぬ」と書かれています。そして、さらにその上に小さな活字で、「太宰治・女性小説セレクション」とあります。いったいこりゃあなんなんだと、ペラペラと頁をめくると、目次には、見知った太宰治の小説のタイトルが羅列されています。さらに本文をパラパラ走り読みすると、どうも収録されている作品の多くは、いままで自分が敬遠してきたあの「おんな言葉」で書かれた女々しい小説が、かなりの割合で収録されている印象です。なるほど、だから「太宰治・女性小説セレクション」なんだなと。

★井原あや編・太宰治女性小説セレクション「だれも知らぬ」(春陽堂書店)2019.7.10.1刷、317頁、2700円

生誕110年とあるこの本は、どうも太宰治の旧作を集めたアンソロジーのようですね。まあ、太宰治亡き今となっては、どの作品も旧作には違いありません。

出版社が、出版物のアイデアに枯渇すると、苦肉の策として名前の通った作家の旧作を集めてアンソロジーを出すということは、よくあることだと耳にします。それなりの売上げがあり、安定的に投入した資金の回収がみこめるからだと思いますが、それにしても、なんでいまさら太宰治なんだと訝しく思いながら、巻末の編者(井原あや)の「解説」を読んだとき、自分の抱いていた積年の疑問が一気に氷解したのでした。

この本に収録されている小説と、掲載された雑誌名・掲載年月号、そして太宰独特の意表をつき、既知の場所から突然動いているストーリーを始めるように読者の関心をダイレクトに掴み取る見事な書き出しを添えて以下に書いてみますね。


☆雌に就いて「若草」1936年5月号《これは後述します》
☆喝采「若草」1936年10月号《書きたくないことだけを、しのんで書き、困難と思はれたる形式だけを、選んで創り、・・・》
☆あさましきもの「若草」1937年3月号《こんな話を聞いた。たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがゐた。》
☆燈籠「若草」1937年10月号《言へば言ふほど、人は私を信じて呉れません。逢ふひと、逢ふひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていつても、なにしに来たといふやうな目つきでもつて迎へて呉れます。たまらない思ひでございます。》
☆I can speak「若草」1939年2月号《くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪へか。わかさ、かくて、日に虫食はれゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。》
☆葉桜と魔笛「若草」1939年6月号《桜が散って、このやうに葉桜のころになれば、私は、きつと、思ひ出します。と、その老夫人は物語る。いまから三十五年まへ・・・》
☆ア、秋「若草」1939年10月号《本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。》
☆おしゃれ童子「婦人画報」1939年11月号《子供のころから、お洒落のやうでありました。》
☆美しい兄たち「婦人画報」1940年1月号《父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。》
老ハイデルベルヒ「婦人画報」1940年3月号《八年前のことでありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過ごしたことがあります。》
☆誰も知らぬ「若草」1940年4月号《誰も知ってはいないのですが、と四十一歳の安井夫人は少し笑って物語る、可笑しなことがございました。私が二十三歳のハルのことでありますから、もう、かれこれ二十年も昔の話でございます。》
☆乞食学生「若草」1940年7月号~12月号《一つの作品を、ひどく恥かしく思ひながらも、この世の中に生きていく義務として、雑誌社に送つてしまつた後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになつてゐない筈である。》
☆ろまん燈籠「婦人画報」1940年12月号~1941年6月号《八年まへに亡くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変つてゐるやうである。》
☆令嬢アユ「新女苑」1941年6月号《佐野君は、私の友人である。私のはうが佐野君より十一も年上なのであるが、それでも友人である。》
☆恥「婦人画報」1942年1月号《菊子さん、恥をかいちやつたわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻つて、わあつと叫びたい、と言つても未だ足りない。》
☆十二月八日「婦人公論」1942年2月号《けふの日記は特別に、ていねいに書いて置きませう。昭和十六年の十二月八日には日本のまづしい家庭の主婦は、どんな一日を送つたか、ちよつと書いて置きませう。もう百年ほど経つて日本が紀元二千七百年の美しいお祝ひをしてゐる頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしてゐたといふことがわかつたら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。》
☆律子と貞子「若草」1942年2月号《大学生、三浦憲治君は、今年の十二月に大学を卒業し、卒業と同時に故郷へ帰り、徴兵検査を受けた。極度の近視眼のため、丙種でした、恥ずかしい気がします、と私の家に遊びに来て報告した。》
☆雪の夜の話「少女の友」1944年5月号《あの日、朝から、雪が降つてゐたわね。もうせんから、とりかかつてゐたおツルちゃん(姪)のモンペが出来上がつたので、あの日、学校の帰り、それをとどけに中野の叔母さんのうちに寄つたの。》
☆貨幣「婦人朝日」1946年2月号《私は、七七八五一号の百円紙幣です。あなたの財布の中の百円紙幣をちよつと調べてみて下さいまし。或るいは私はその中にはひつてゐるのかも知れません。もう私は、くたくたに疲れて、自分がいま誰の懐の中にゐるのやら、或るいは屑籠の中にでもはふり込まれてゐるのやら、さつぱり見当も附かなくなりました。》

リストの中でいちばん掲載の多い雑誌「若草」について、編者は「右に挙げた一覧のうち、「若草」という雑誌については、ここで少し触れておきたい」と、とくに解説を加えています。

《「若草」は、宝文館の「令女界」の姉妹雑誌として刊行された文芸雑誌である。その後、次第に男性読者・投書家も増えていくのだが、たとえば「雌に就いて」が掲載された前後の号には、「令女界でもよくみかけました」、「令女はサヨナラなさったの?」というように「令女界」や少女雑誌を経て「若草」にたどり着いたという読者の声もあり、創刊時の性格も踏まえて今回ここに収録した。》

そして、太宰治もこのリストの一番最初にあげられた小説「雌について」の冒頭で、「若草」という雑誌に小説を掲載するについて、言い訳がましくこんな書き出しで始めています。

《その若草という雑誌に、老い疲れたる小説を発表するのは、いたずらに、奇を求めての仕業でもなければ、読者へ無関心であるということへの証明でもない。このような小説もまた若い読者たちによろこばれるのだと思っているからである。私は、いまの世の中の若い読者たちが、案外に老人であることを知っている。こんな小説くらい、なんの苦もなく受け入れてくれるだろう。これは、希望を失った人たちの読む小説である。》

なるほど、なるほど。

この本に収録されている太宰治の「女性小説」といわれる作品が、そもそも女性読者を想定したこうした女性文芸雑誌に合うように努めて書かれたのだということがよく分かりました。そうですか、はじめて知りました、そういうことなら了解できますよね。

そして、思えばそれは商業誌としてならごく当然の話ですよね。注文のあった雑誌社の方針や当の雑誌の傾向に合わせて、それなりの作品を太宰は書こうとしたのだと思います。原稿料で食べていかなければならない以上、誰しもそれは「継続的にお仕事をもらうため」には、あるていど当然の判断だと思います。作家は、なにも書きたいものだけを書いていけるわけではなく、発注者の意向をできるだけ忖度して、自分の考え方と先様の要望との兼ね合いのなかで、作品を書くことがプロの作家というものなのだと。

むかし、酒の席で年端のいかない文学少女と太宰文学をめぐって大人気なく言い争うなど、最初から無益なことだったことが、やっとこれで分かりました。

太宰が女性向けに書いた小説を若き女性がまっすぐに受け取り理解したそのことに関して、場外にいるにすぎない大人の部外者がなにもとやかく言う必要も、そしてその資格もなかっただと。

「軟弱な文学」からも、「硬派な文学」からも究極的に受け取る本質というものはきっとただひとつか、あるいは大差なくて、ただそこにあるのは、語り口調やスタイルの違いがあるだけのはなしで、なにもむきになって目くじらを立てることもなかったのかもしれません。

なんかこう書いてみると、太宰治を最初から予断を持って貶してばかりいたみたいですか、決してそんなことはありません。

一時流行のように新潮社や講談社や中央公論、そして文芸春秋社や集英社が、競って出していた「日本文学全集」のたぐいの「太宰治集」からでは、とうてい読むことができなかった作品群(作品の格としてインパクト的に弱く優先順位が劣っていたということはあったかもしれませんが)がこうして読むことができたということは、やはり収穫だったと思います。

今回は、太宰治のストーリー・テラーとしての多才ぶり・巧みな構成力にとりわけ感銘を受けたという一席でした。

なんだよ、ほめてんじゃん。



by sentence2307 | 2019-08-14 11:48 | 徒然草 | Comments(0)

東京暮色

BS放送で小津作品「東京暮色」を放映していたので、本当に久しぶりに、じっくりとこの作品を鑑賞することができました。

しかし、このように簡単に「じっくりと鑑賞することができた」などと言葉にしてしまうと、いままで自分がこの作品に対して抱いていた「気持ち」とか「印象」からは、ずいぶんと隔たりのある言い方になってしまうことに気づかされます。

あえて、「じっくりと鑑賞することができた」というなら、正確にはそれは、「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」のことと言うべきなのではないかと。

「東京暮色」は、その「救いがたい深刻さ」と「陰々滅々さ」において、多くの小津作品とは明らかに一線を画し、というか、他を圧して余りある作品ということができます。

多くの小津作品においてなら、たとえ徹底的な絶望や苦々しい諦念が描かれていたとしても、それでも、そのラストでは、必ずや微かな希望もまた同時に描き込むのを忘れることなく、本編で痛切に描かれている深刻さの割には、鑑賞後の印象はさほどでもなくて、たとえば「救いがたい深刻さ」や「陰々滅々さ」の代表格のようにいわれるあの「風の中の牝鶏」においてさえ、生活苦からやむなく売春に走った妻の一時の過ちを夫が徹底的に責め苛み(戦地に行っていた夫は、自分が不在のために逼迫した家族に何も為しえなかったという責任や負い目も当然あったと思います)お互いを傷つけずにはおられないという夫婦の壮絶な葛藤が描かれたあとの荒廃で、「これでやっと俺たちも、これからどうにか生きていけそうだ」と確認し合い抱擁するというラスト(贖罪感)が描かれていたことを考えれば、やはり深い部分で僕たちは「救い」を感じることができたのだと思います。

しかし、この「東京暮色」においてだけは、この最後の救いすら許されているとは、どうしても思えません。

どこを探してもこの作品には「そんなもの」は、最初からないのです。

次女(有馬稲子)を事故で亡くし、一時同居していた長女(原節子)も夫の元へ帰り、すべてを失った父・周吉は、一人きりの孤独のなかで生きていかねばならない姿がラストで素っ気無く描かれているだけです。

なるほど、なるほど、これがまさに、自分が、《「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」》と感じた、つまり長い間この作品を事実上「敬遠」してきたという本当の理由だったのだと思い至りました。

思えば、小津作品に描かれている人物たちに対して、そのラストにおいて微かにではあっても「救い」を感じられたのは、その絶望や失意の一端で、「しかし、これでも自分たちは、まだまだ幸せな方なのだ」とか「これでどうにか生きていけそうだ」と思い直す部分がわずかに残されていて、その多様性こそが日常生活を生きる庶民のせめてもの才覚であり姿でもあること、母親の死に直面し、深い悲しみに動揺しながらも同時に喪服の心配ができるという、以前の自分なら「失笑」をさそわれるという反応しかできなかったもの、その矛盾を生きる人間の「なにものか」が、この世を生き抜いていく庶民の処世であり活力であり「救い」であることに気づかされたということなのかもしれません。

「風の中の牝鶏」にあって、「東京暮色」に欠落しているもの、お互いが、お互いを決して許そうとしない家族のこの頑なな緊張関係が、自分が長いあいだ抱いてきた「東京暮色」への違和感であることにようやく気がつきました。

しかし、では何故よりにもよってこの作品にだけは、小津監督は「微かな救い」を織り込もうとしなかったのか、そんなふうに考えていたとき、今年の四月に出た「小津安二郎大全」(朝日新聞出版)の中にも「東京暮色」を製作したときの当時の状況の記述があるので、かいつまんで書いてみますね。

《1956年8月22日、骨髄性白血病で入院した溝口健二を京都府立病院に見舞った。これが最後の別れとなり、24日に溝口は亡くなった。58歳だった。当時としては特別早い死ではない。2年前には同じく交友のあった同年代の井上金太郎監督も亡くなっている。

9月から再び蓼科で過ごす。土地も人々も気に入り、小津も別荘を借り受けた。

そこを「無藝荘」と命名し、野田と「東京暮色」を執筆開始した。「彼岸花」を除いて、以降の作品は、蓼科で執筆することになる。

執筆中は毎日のように酒を飲んだが、酔った小津は「カチューシャ」「千葉心中」「不如帰」「婦系図」などを歌い踊った。ジョン・フォード「駅馬車」のモノマネを披露することもあったという。

11月末、「東京暮色」を脱稿した。

「東京暮色」は、小津監督最後の白黒作品である。画面の調子は暗く、悲劇的な内容だが、カラー作品が増えている当時にあって、小津監督は白黒でしか表現できない深みのある作品を撮ろうとした。

「晩春」以来共同で脚本を務めてきた野田高梧とは物語の内容をめぐって対立し、完成した作品にも批判的だった。

役を演じる俳優をあらかじめ決めて脚本を書く小津だが、想定していた役者に出演を打診した結果、ほぼ全員が想定通り決定したが、想定と異なる配役があった。ひとりは父親役に考えていた山村聰で、舞台出演の時期と重なったため出演不可となり、代わりに刑事役の予定だった笠智衆が父親を演じることになった。

また、主演の次女役には岸恵子を考えていたが、彼女が他作出演や仏国のイヴ・シャンピ監督(仏)との結婚の予定があって都合がつかず、こちらも出演不可となった。

小津は「早春」で岸を大変気に入っており、「俺がひとりの女優のために六ヶ月もかけて書いたシナリオなんだ。これは、君のために書いたんだ。君なんかよりもいい女優はたくさんいる。でも、これは岸恵子じゃなきゃできない役なんだ」と伝えたといわれる(浜野保樹「小津安二郎」)。

しかしその調整はつかず、次女役は結局有馬稲子が演じることになった。この頃の役者は皆喜んで小津作品に出演することを希望し配役には困らなかったという状況下では、これはたいへん異例のことだった。当然、キャスティングの段階で出鼻をくじかれた形になった小津監督に、なんらかの失望とダメージがあったことは否めない。

作品の下敷きになったのは、前作「早春」でも広告が写り込んでいたエリア・カザン監督の「エデンの東」1955である。小津はこの作品にたいへん入れ込んでいた。

偉大な父と、死んだと聞かされていた母、父親からの愛情を切望する次男などの人物設定に類似点がある。自分の境遇を下の子が苦しむ点、母親の働いている場所が社会的地位の低いいかがわしい場所・娼館や麻雀屋という点も同じだが、聖書を基調にしたこの欧米的なストーリーを日本の状況に強引に当て嵌めようとした設定には当然に無理があり、違和感は免れなかった。

時はまさに石原慎太郎が衝撃的な小説「太陽の季節」を書いて太陽族が流行し、映画化もされようかという時代。「大船調」を守っていた松竹の興行成績が、新作二本立てに踏み切って時代劇ブームを起した東映に抜かれ、二位に転落し、翌年には大映にも抜かれて、翌々年には五位に凋落した。大船調を守り続ける松竹の方針に批判が高まり始めたという時代である。

1957年1月、撮影開始。

小津は「いままでは劇的なものは避けて、なんでもないものの積み重ねで映画を作ってきたが、今度は僕のものでは戦後初めてドラマチックな作品となろう。芝居を逃げずに、まともに芝居にぶつかるという作り方をしようと思っている。話の仕組み自体はメロドラマ的なものだが、メロドラマになるもならないも芝居の押し方次第だ。近頃は、大船調批判が厳しいようだが、正調の大船調とはこれだということを、この作品で示してみようと思っている」と語り、作品への意欲を示した。脚本執筆では、野田高梧が反対する部分もあったが、小津は押し通した。助監督によると撮影時、「そんなものが撮れるか、それは野田が勝手に書いたんだ」と小津がめずらしく声を荒げることもあったという。大幅に撮影は遅れ、小津組にはめずらしく、夜中まで撮影が続くこともあった。

4月、「東京暮色」が公開された。物語も画面の調子も暗い作品となったが、「この次に撮る作品も、やはりドラマチックなものにする予定です」と語った。

「東京暮色」は、小津監督が力を入れた作品だったが、批評家や若者から小津は時代遅れだとの批判があがり、キネマ旬報ベストテンでも19位という結果に終わる。それを知った小津は、「俺は19位だから」と周囲に自虐的に語った。野田ものちに、リアルに現実を表現することは無意味だとこの作品を批判した。

のちに小津の脚本全集を出す井上和男からも「若者のヴィヴィッドな動きは、フィックスのローポジでは掴めない」「今の若い女子のにとって、中絶なんて非行でも無軌道でもない、日常茶飯事だ」などと批判された。

生々しい不倫という情事を、女優・岸恵子が演じる軽妙さによって、現実の生臭さと深刻さとを免れた「早春」のあの独特な雰囲気をかもしだそうとした「東京暮色」も、想定していた主演女優を失い、「太陽族ブーム」のあおりを受けて、むき出しの痛切なリアルしか表出できなかったことが、負の成果としての「東京暮色」だったのかもしれないなという思いがきざしてきました。

大人たち=世間と家族の冷ややかな無関心と悪意によって自滅していく「次女・杉山明子」役を、はたして(あるいは「やはり」)、岸恵子以外には演ずることができなかったのかどうか、監督の意に添わぬまま主演に抜擢された有馬稲子と、フランスの三流監督との愚にもつかない結婚のために小津安二郎作品の主演女優の座を逃した岸恵子、この二大女優がいずれもいまだ存命中だとしても、もはやどうすることもできません。


(1957松竹大船撮影所)企画・山内静夫、監督・小津安二郎、監督助手・山本浩三、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、撮影助手・川又昂、音楽・斎藤高順、美術・浜田辰雄、装置・高橋利男、装飾・守谷節太郎、録音・妹尾芳三郎、録音助手・岸本真一、照明・青松明、照明助手・佐藤勇、編集・浜村義康、編集助手・鵜沢克巳、衣裳・長島勇治、現像・林龍次、進行・清水富二、
出演・原節子(沼田孝子)、有馬稲子(杉山明子)、笠智衆(杉山周吉)、山田五十鈴(相馬喜久子)、高橋貞二(川口登)、田浦正巳(木村憲二)、杉村春子(文学座)(竹内重子)、山村聰(関口積)、信欣三(民芸)(沼田康雄)、藤原釜足(東宝)(下村義平)、中村伸郎(文学座)(相馬栄)、宮口精二(文学座)(刑事和田)、須賀不二夫(富田三郎)、浦辺粂子(大映)(「小松」の女主人)、三好栄子(東宝)(女医笠原)、田中春男(東宝)(「小松」の客)、山本和子(前川やす子)、長岡輝子(文学座)(家政婦富沢)、櫻むつ子(バアの女給)、増田順二(バアの客)、山田好二(警官)、長谷部朋香(松下昌太郎)、島村俊雄(「お多福」のおやじ)、森教子(堀田道子)、石井克二(菅井の店の店員)、菅原通済(特別出演)(菅井の旦那)、山吉鴻作(銀行の重役)、川口のぶ(給士)、空伸子(給士)、伊久美愛子(うなぎ屋の少女)、城谷皓二(麻雀屋の客)、井上正彦(麻雀屋の客)、末永功(麻雀屋の客)、秩父晴子(義平の細君)、石山龍嗣(深夜喫茶の客)、佐原康(深夜喫茶の客)、篠山正子(深夜喫茶の客)、高木信夫(深夜喫茶の客)、中村はるえ(深夜喫茶の客)、寺岡孝二(深夜喫茶の客)、谷崎純(取調べを受ける中老の男)、今井健太郎(受付の警官)、宮幸子(笠原医院の女患者)、新島勉(バアの客)、朝海日出男(バアの客)、鬼笑介(バアの客)、千村洋子(町の医院の看護婦)、
1957.04.30 15巻 3,841m 140分 白黒




《以下は、挫折し廃棄した草稿です》
この「東京暮色」には、かつて母親がふたりの娘を置き去りにして駆け落ちし、家を出てしまったという一家の「その後の惨憺たる物語」が描かれています。
「現代」においての小津作品に対する僕たちの大まかな印象を、無理やりひとことで括ってしまうとすれば、(自分だけかもしれませんが)やはり「明るさ」ということになると思うので、この「東京暮色」という作品の暗さはいっそう際立っていて、その意味で「例外的な作品」ということは可能なのかもしれません。
自分など、その「明るさ」が過ぎて見えてしまい、むしろずいぶんと虚無的に感じてしまう部分もあったりするのですが。
しかし、残念ながら(というか、むしろここでは謙虚に、「寡聞にして」とでも言うべきでしょうか)、いまに至るまで、この作品が小津作品群の中でどう例外的なのかと表明した評文というものに接した記憶がなかったので、手元の資料に二、三あたって確認してみることにしました。
最初に見たガイドブックには、こう記されていました。
《小津監督は、それぞれの物言わぬ肩や背中に生きることの悲哀をずっしりと感じさせ、寂莫の人生模様を、甘い感傷に溺れることなく、みごとに織り上げてみせた。》
なるほど、なるほど、なんかコレ、やたらと褒めてるじゃないですか。
こちらの家庭の事情で、最初から「例外的」という負の評価に照応するものだけを見つけ出し、歪んだ先入観を満足させられればいいやくらいの身勝手なものだったので、まず受けたこの「意外さ」の不意打ちは、考えればむしろ常識的で、正義にかなった正統な評価ということができるかもしれません。
いつの時代にも「偏見」を振り戻し正してくれる「常識」というものは、やはり存在しているものなのだなとヒトリ感じ入った次第です。


by sentence2307 | 2019-08-09 13:35 | 小津安二郎 | Comments(0)