世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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森谷司郎「動乱」

たとえ、この映画で、2.26事件が、主君の痛恨をあがなうための忠臣蔵の討ち入りのように描かれていても、僕は、それはそれで、青年将校の蹶起へと思い至った正義からの憤激の意味に繋げて、人間的に共感し得るものがどこかにあるはずと信じていました。

しかし、ここに描かれている彼らは、百姓を奴隷のように意のままに動かし、自分の依拠する党派の利益のために時の権力者に向けてちょっと大掛かりな示威行為をしたにすぎない、もう片方の権力亡者にしか見えず、そしてこの反乱行為の総ては、猿芝居そのままに自らの党派の威を誇示するための時の権力への媚態にすぎなかったとしか思えませんでした。

本来なら、この蹶起の主役であるべき東北出身の兵隊たちは、終始奴隷のようにしか描かれていません。

突撃しろ、と命じられれば突っ込み、殺せと命じられれば殺し、もうお前たちの役割は終わったから帰れと言われれば、すごすごと帰っていくだけです。

政府の無策と重税と飢饉に耐え、さらに、死にたくなければ娘を売れ、と言われれば、そうするしかないそのままの延長線上にいるリアリティのないただの絵に描いた兵隊としか描かれていません。

こうした熾烈な時代状況の中で培われる憤激が、理屈的には確かにこの蹶起の怒りの核となっているらしいのですが、しかしこの兵隊たちの描写は、どこまでも従順な一兵卒として軍務に服したにすぎない人形のようにしか見えないのです。

だから当然、青年将校たちが思い描いた革命思想が、無知で劣悪な百姓たちへ向けての思い上がったひとつの啓蒙としての(蹶起という)妄想としか感じ取ることしかできなかったのだと思います。

この作品から、インテリ指導者の、民衆のなかで「孤立」などという深読みは禁物だと思いますし、あるいは、自らが抱く人間としての誇りから発する怒りのみが、虐げられた人間を隷従的拘束から自ら解き放ち自由へと至ることの出来る力の原点なのだとしたら、この映画に登場する人形のような兵隊たちに、それを求めることは酷以外のなにものでもないと言わなければなりません。

しかし、この作品が宣伝文で「男と女の2.26事件」とあるように、そのような見方をすべきなら、確かに出色の場面はありました。

自分を苦界から救ってくれた病床の青年将校を看病し続け、遂には危篤状態から脱出させる元娼婦の、人知れず安堵の脱力感の中で湧き上がる微笑を必死に抑えようとして、しかし果たせずに満面を歓びに引きつらせてしまう心理的葛藤を描出したささやかな場面に総毛立つような感動を覚えました。

無益で押し付けがましい薄っぺらな理屈をこねるより、むしろ映画とは、本来、このような微妙な感情の揺らぎを一瞬のうちに理解させてしまう、そうした心理描写に長けた芸術なのだろうと痛感しました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 16:32 | 映画 | Comments(0)
洗練されたハリウッド製のミュージカルを見慣れている者にとって、この映画から受ける全体的な印象は、一言でいえば、何かしら悪意に満ちた拒絶に絶えず晒され続けているような不安感、とでも言えばいいでしょうか。

そこでは、何の前置きもなく、不意に歌や踊りが始まり、これがミュージカル映画だったことを改めて思い知らされたりします。

しかも、ハリウッド製ミュージカルなら、例えば、歌や踊りは、文字通り、愛することの素晴らしさや、恋の歓びなどの高揚した感情の結果として歌われ、そして踊られるわけですから、人間の自然な感情の延長線上にある行為として無理なく感情移入できるのですが、この映画の歌や踊りの場面は、必ずしも楽しさや喜びのから為されるわけでもない、そのちぐはぐさ(現実逃避の夢想-らしいのです)が、手持ちカメラの動揺する映像にも増幅されて、一層僕たちを違和感や不安感に陥りさせるのだと思います。

この映画、なにもわざわざミュージカルである必要など全くないのではないかと感じました。

この居心地の悪さや、工事用や鉄橋をくらいのことで「斬新さ」だなどと言って欲しくないというのが、まずは正直な気持ちです。

ビョークを主演させたがために、致し方なくミュージカル仕立てにしたのではないかと勘繰りたくなるほどの出来の悪さです。

しかも、難病の子を抱えて頑張っている母親には、決して見せられない映画です。

それが母子家庭ならなおさらです。

自分の命をできる限り永らえ、難病で苦しむ子供の行く末を見守り続け、親としてできる限りのことをしてあげたい、自分の命と交換してでも子の命を助けたいと考える母性の通説に対し、この映画はその対極に位置する映画です。

この映画の感想に「犠牲愛」という言葉を使った一文を見かけましたが、どこが犠牲なのか理解に苦しみます。

ものすごく思わせ振りなくせに、内容は何もない、という映画が、僕はそれなりに好きなのですが、この映画には呆れ返りました。

深刻っぽく装っていますが、セルマは、結局自分の身勝手さ(意地とか、不可解な秘密を守る約束とか)と、それにこだわった偏執的な幼稚な嘘を積み上げることによって自業自得のような破滅に至ったとしか見えないのですが、その大元にあるのは、独善的な金がらみの話のようなのです。

なんのための「金」なのか、時には金への物凄い執着だけが強調され、子供のことが視野から外れていることもしばしばです。

しかし、時折、唐突に仄めかされる母性らしきものの表出に出会い、不意を突かれ、混乱させられてしまうこともあるのですが。

しかし、逆に息子ジーンが、自分のために母が、そんな形で死を選んだと知ったとき、たとえ自分が失明を免れたとしても、それからの人生を快活に生きてゆけるだろうか、という視点が全く欠落していることに呆然とさせられます。

子供にとって母親を失うということが、何よりの痛手であることが想像できないのかと少し苛立ちました。

このチェコ移民のシングルマザー・セルマという人物設定がどうしても理解できませんでした。

僕は、同じように極貧のなかで野良犬のように死んでいったロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」を思い浮かべたのですが、でも、この映画には、あのムシェットの削ぎ落とすだけ殺ぎ落とされた無垢で純粋な気品が、決定的に欠けているように思いました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 16:05 | 映画 | Comments(0)

パーフェクト・ストーム

実話だそうですが、なにもわざわざ断らなくても、別にフィクションだって一向に構わないような映画です。

むしろ、実話を強調されると不漁続きで焦った船長が、魚を追いかけすぎて、3つの嵐が合体した100年に1度の大嵐の中に迷い込み、同乗の船員たちをも犠牲にしたことの責任はどうなる、みたいな方向に発展しかねません。

欲に目が眩んだ暴走が、避けられたかもしれない海難事故にこちらから突っ込んでいった訳ですから、猟師たちの死は死として悼みはしても、当時でも、行為としての同情が本当に得られたのか、心情的にはちょっと疑問です。

しかし、そんな無粋なことは言わずに、まあここは、この映画の「売り」であるグランドキャニオンのように眼前にそそり立ち、繰り返し襲い掛かってくる巨大な大波と、その波に木の葉のように翻弄される小さな漁船との息詰まるスペクタクルを楽しめばいいのですが、しかし、なにせ相手がただの大波ですから、ゴジラや巨大ザメやブラキオサウルスみたいに話をやたら盛り上げるわけにはいきません。

船長や船乗りたちが大波に叩きのめされ、死に物狂いで大自然との闘いに全力を傾けるシーンが続いて壮絶なパニック絵巻が繰り広げられても、いくら大音響でがなり立てても、そこはそれ、寄せては返す波の単調さについ快い眠気が・・・。

でも、何故、このような結果が見えている、よりにもよって、わざわざ大波を主役に据えたのでしょうか。

「大波」でさえなければ、まだまだこの繰り返しの単調さから免れることができたかもしれません。

起伏に乏しい盛り上がりばかりでは、いくらなんでも見る方だって緊張感がそうは続くものではありません。

ジョン・フォードの古典的名作「ハリケーン」は、ただ一度のスペクタクルに全力を傾け緊張感を持続することだけに焦点を絞った教科書のような作品でしたが、大スペクタクルといえども、こう同じような場面が幾度も続くとなると、正直ダレるのです。

僕は、この映画の宣伝用ポスターが気になりました。

巨大な大波にいまにも呑み込まれそうな小船。

これ、あの葛飾北斎の富嶽三十六景の神奈川沖波裏という浮世絵とすごく似ていませんか。

ないのは富士山だけです。

ハリケーンであのような巨大波が実際に起こるのかどうか知識がないので分かりませんが、製作者はこの極端にデフォルメされた奇抜な北斎の浮世絵の構図に惚れ込み、「大波」にこだわったのではないか、と考えついたのです。

そうだとすれば、北斎は、印象派ばかりでなく、ハリウッドにも多大な影響を与えたことになる。

世界の常識を覆す誰も考え付かなかった驚天動地の大発見です、なんてね。

ま、普通は考えないか、こんなこと。ハ、ハ、ハ?
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# by sentence2307 | 2004-11-06 13:16 | 映画 | Comments(1)

島耕二「十代の性典」

「十代の性典」(53大映東京、島耕二監督)という扇情的なタイトルに惹かれ、スケベ心だけで、つい観てしまったアサハカをココに告白しなければならないことは、実に遺憾なのですが、そうしなければ、この小文が先に進まないために致し方なく、断腸の思いで認めるほかありません。

しかしまあ、現代でも、この手の誇大表示は結構あり、勿論小生にしても多々ハメられておりますので、残念な経験者としての立場から敢えて申し上げるのですが、この「十代の性典」という作品の、タイトルと内容のあまりの食い違い様は、ちょっとひどすぎます。

扇情的なタイトルをつけることの埋め合わせみたいに、若者たちの奔放な性衝動に対する警鐘というか訓戒的な世迷言に終始した小品でした。

老婆心ながら、これだけ思わせ振りなタイトルをつけるなら、もっと誠実な態度でスケベ道に精進すべきではないかな、と愚考するものです。

タイトルに惹かれて、わざわざ映画館へ出向いた観客たちの欺かれたことに対する憤懣が、怒りと変わり、暴動でも起きなかったのでしょうか。

「こんな内容なら、“処女の祈り”くらいにしておけ。ばかやろー」なんてね。

処女性が大切なものであることくらい、みんな知っています。
それはそうでしょう。

しかし、それは、強制されたり、かくあるべきなどと上から押し付けられる性質のものではありません。

個人の生き方に関わる自由の問題です。

まして、神など引き合いにだされたりしたら、たまりません。

性は神のものでも、国がどうこう管理すべきものでもありません。

さしずめ、この映画の主人公の娘は、そういうものの犠牲者です。

罪悪感で恋人との性交渉に踏み切れないまま、その葛藤のなかで悩みぬき、半裸のうら若き乙女が雪原を彷徨して凍死してしまいます。

この考え方にも描き方にも、どうしても納得できません。

古臭いステレオテイプの道徳観に押し潰されてしまう人間をみていることの不愉快を、この映画は、嫌というほど感じさせてくれました。

この手の作品を見ていると、性欲というものが、生きていることの証しであることを逆に実感させてくれます。

そういえば、女学生役でまだ初々しい若尾文子がでています。

やがて、彼女は、イタリア・ネオレアリズモの影響を強く受けた増村保造監督と組み、旧来の抑圧されるがままになっている人形のような女性像を全否定して、強烈な自己主張そのままの欲望を持ち、たとえそのために破滅するかもしれないとしても、一向に怯むことなく自分の欲望のままに生き抜いてゆく、旧来の日本映画に存在していなかった全く新しいタイプの女性像を描いて、新たな映像表現の領域を広げていきます。

いまちょっと思い出せないのですが、増村作品の中で若尾文子の人妻が、「セックスって、こんなにいいものだったのね」という衝撃的なセリフがあったように記憶しています。

遅すぎた日本女性の解放が、その一言から始まったのかもしれません。

しかし、それは映画の中だけのことで、現実はといえば、まだまだ立ち遅れていました。

人々が食うや食わずの貧困からどうにか脱して、視点を弱き者へと向け始めたその優しさは、余裕が出来て初めて為しうる一種の贅沢だったのだと思います。

社会主義の制度としての限界と凋落とに何か密接な関係があるような気がします。

この作品は、当時ひとつの事件として社会的に反響を呼んだそうですが、しかし「狂った果実」の登場までには、もう少し時間が必要でした。

なお、この昭和28年という年の物凄さは、キネマ旬報BEST10のラインナップを見ても良く分かります。

①にごりえ(今井正)
②東京物語(小津安二郎)
③雨月物語(溝口健二)
④煙突の見える場所(五所平之介)
⑤あにいもうと(成瀬巳喜男)
⑥日本の悲劇(木下恵介)
⑦ひめゆりの塔(今井正)
⑧雁(豊田四郎)
⑨祇園囃子(溝口健二)
⑩縮図(新藤兼人)

別に昭和28年に限ったことではなかったのでしょうが、前回のキネマ旬報のラインナップが示しているように、とにかく、その頃の日本映画のパワーたるや物凄かったと思います。

勿論、観客も途轍もない高度な映画環境の中にいた訳ですよね。

「溝口にも少し飽きたからさ、今日は黒澤でも見に行くか」とか、

「成瀬もマンネリだねえ」とか

「木下恵介と今井正の違いが、あんたに分かるかい」てなことを言い合っていたんでしょうか。

「溝口が外国でまた賞をとったってねえ。」

「へええ、そうかい。外人ってのは、何考えてるのかよく分からないねえ。そうだろ、あんた。

日本じゃ、あの程度の映画なんて“中の下”ってとこで、その辺にゴロゴロしてらあな。」ってなことを一度は言ってみたかったです。

気持ちいいでしょうね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 13:09 | 映画 | Comments(121)

マルコヴィッチの穴

この映画を見た直後は、かなりのカルチャー・ショックを受けて興奮し、しばらくは頭の整理がつかない程に混乱したのですが、しかし沈静化も意外に早く訪れました。

理由はすぐに分かりました。

「分からない」箇所を無理して分かる必要もない、ということが分かったのです。

あの壁穴を通ってゆけば他人の脳に入り込めるという奇抜な着想や、様々に工夫を凝らした素晴らしい数々のディテールに比べると、後半の物語のなりゆきが驚く程パワーダウンして、惨たらしい程の哀れな情痴事件の顛末物になってしまったこともそのひとつでした。

二重三重の知的な罠やどんでん返しが仕掛けられているので、軽率な断定は極めてヤバイことだとは察しながら、ラストシーンから物語の全体を俯瞰すると、最初見始めたときの形而上学的な印象とは、どうも少し勝手が違っているような、ともするとこちらの深読みが先走って、実際の映画の実体である枠を広げてしまったような感じなのです。

ロッテは、マキシンを愛するために(女のあなたじゃ嫌だわ、と言われました)、男の肉体を必要とし、マルコヴィッチの穴を使ったのですが、子を成したことも計算に入っていたのでしょうか。

また、その「種」もロッテ印と考えてOKなのでしょうか。

ロッテに対するマキシンの告白もちょっと唐突すぎて信じられません。

そんなら最初からマルコヴィッチの深層心理を駆け抜けるようなややこしい大騒ぎなんかすんなよ、と思いました。

スパイク・ジョーンズという未知の監督の類まれな数々の奇抜な着想も、しかし同時にそれを生かし切る物語に収束し構成してゆくだけの力量には些か欠けていることも感じたのです。

また、あんな形で永遠の命を得たとしても、それのどこが幸せなのか疑問を覚えます。

素早い沈静化の原因はそれだと思いました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 12:26 | 映画 | Comments(0)

ペーパー・ムーン

ボグダノビッチの作品を最初に見たのは「ラスト・ショー」でした。

粒子の粗い白黒のざらつきが、さびれ西部の田舎町と、そこで暮らす人々の荒廃した感じを実に良く描き出していて、衝撃を受けました。

映画評論を書いていたにすぎない人が、突然こんな途轍もない素晴らしい作品を撮れるものか、ちょっと信じられませんでした。

一瞬トリュフォーを思い浮かべたくらいでした。

もしかしたら、この人、トリュフォーのように、これから次々と名作を発表し続けるのかもしれない、というような予感に襲われたのです。

うらぶれた田舎町の映画館の閉鎖を控え、最後の上映を背景としながら、苦渋に満ちた青春の終わりを描く、実に憎い設定です。

夫に顧みられなくなった妻や、からかいの対象でしかない知恵遅れの少年等、忘れられ置き去りにされた惨めな人々が、かつて抱いていたそれぞれの夢を語り始めるむごたらしさは、ちょっと類のないものでした。

やがて「ペーパー・ムーン」を見て、はっきりと、その力量に《トリュフォー》を確信しました、その時は。

だから尚更、その後のあまりにも唐突な失速が、とても不可解でならなかったのです。

あの「ラスト・ショー」と「ペーパー・ムーン」で描いた胸の締め付けられるような叙情(失われゆくもの、亡び去るものに向けられた限りなく優しい眼差し)は一体何だったのか、どうしちゃったのか、とても不思議でした。

やがて、何年かして、場末の閑散とした映画館で、偶然この「ペーパー・ムーン」に出会いました。

足元にはコーラ瓶がゴロついていて、後ろの酒臭い労務者の疲れ切ったいびきと酒臭さに閉口しながら、ぼろぼろずたずたの最悪な「どしゃぶり」の画面でした。

そこに、テイタム・オニールが大写しになります。

その時、突然気がついたのです。

自分は今、あの「ラスト・ショー」の少年たちが、「赤い河」を見つめていたのと同じ眼差しで、この「ぺーパー・ムーン」を見ているのだ、と。

映画を愛した多くの人達が、こんなふうにして、過ぎし日々の懐かしい思い出に浸るように、グレタ・ガルボを見、ゲーリー・クーパーを見、ジェームス・ディーンを見てきたに違いない、と。

多分、ボグダノヴィッチは、そんなふうに、僕たちと同じように映画を愛し、失われてゆくものを見つめていたのだ。

「ラスト・ショー」も「ペーパー・ムーン」も、きっとあれは、過去の映画たちを追憶した彼の映画の「記憶」だったのかもしれない。

それなら分かる、と思いました。

ボグダノヴッチの向ける眼差しの中に、例えば、チャップリンの「キッド」が、そして、キートンや、ありとあらゆる失われた多くの映画の記憶が、まるで追憶の幻影のように、この作品に込められているのに気がつきます。

「カイロの紫のバラ」のミア・ファローのように、彼は単に「映画」を夢見、その記憶を映画にしてみせてくれたのだと思いました。

決して悪い意味でなく、それは、優れた・あるいは巧みな「模倣」だったのだと思います。

彼は巨匠などではなく、単に映画を愛する人なのだから、「枯渇」などという言葉を使うのはおかしいのです。

彼が持っているのは、「才能」なんかじゃなくて「記憶」なのだから。

「ペーパー・ムーン」のラスト、長い坂をゆっくりと走り去っていくボロトラックを追いながら、貧しさの中で、一層しっかりと固い絆で結ばれてゆく二人の姿が、だんだん小さくなっていくシーンに、僕はそっと「モダン・タイムス」のラストをダブらせてみました。

《紙の月でも、信じれば・・・ホンモノ》

僕が、この言葉の本当の意味を知るとき、いつの日か、薄汚れたどこか場末の映画館で、ひとり、夢見るようにスクリーンを凝視しているボグダノヴィッチに会える気がします。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 12:23 | 映画 | Comments(121)
ベティ・デイビスの「愛の勝利」(39,エドムンド・グールディング監督)という映画を見ました。

不治の病に侵され、余命幾許もないことを知った娘が、医師の献身的な行為から真実の愛に目覚めるというこの女性映画は、その年、観客の涙を最も多く搾り取った作品として記録されています。

また、彼女の演技も高く評価された作品でした。

ベティ・デイビスは、その時はもう「青春の抗議」(35)と「黒蘭の女」(38,ウィリアム・ワイラー監督)で、2度のアカデミー主演女優賞を獲得しています。

その力量は既に証明済みで、作品の評価も上々でしたから、ベティが3度目のオスカーを手にすることを、あるいは当然視する向きもあったには違いありませんが、しかし、結果は、セルズニックが600万ドルをつぎ込んで製作した「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リーにオスカーが与えられました。

主演女優賞だけでなく、作品賞、監督賞、助演女優賞、脚色賞、美術賞、編集賞、色彩撮影賞、特別賞など、主演男優賞以外は、主要部門を総なめにした凄まじい結果でした。

スカーレット役を決めるための芝居がかったオーディションや、それにまつわるゴシップなど金にものを言わせた意図的で強引な宣伝は、インディペンデント系の作品だけに公開前の宣伝効果と同業者への根回しとしては十分すぎる程に行われたのですが、しかし、主演男優ゲーブルに対してはどうだったかと言えば、結局、主演男優賞をロバート・ドーナットに持っていかれてしまったことを見ても、その辺の事情は何となく窺い知ることができるように思います。

オスカーを逸して、ひとり恥をかかされた形になったゲーブルは、レット・バトラー役は自分しかいないという触れ込みでわざわざ出演したのに、まるで見殺し同然のこの扱い(宣伝不足や根回しの怠慢)に、MGMとセルズニックに対し、あからさまな不快感を隠そうとしませんでした。

しかしこれとても因縁めいた話しがあって、例えば数年前に他社のコロンビアで撮った「或る夜の出来事」(34,フランク・キャプラ監督)で“たまたま”主演男優賞を獲得してしまったことと何か関係(MGMとの確執)があったらしいとか、更には、前年にドーナットが「城砦」(38,キング・ビダー監督)で好演したのに賞を逸したことへの埋め合わせを、まずアカデミーが判断したからだという見方もあったそうです。

同業者の功績を称え合うという性格を持つアカデミー賞では、しばしば見受けられることですが、その年の優れた仕事に対してというより、前年に優れた仕事をしながら、しかし不運にも、更に優れた作品の評価の影に隠れてしまい、正当な評価を受けられなかった作品や人に対し、改めてその才能を追認する所謂「報奨のシステム」という機能が働く場合が多々あるようなのです。

ゲーブルが、たまたまその「あおり」をくってしまったことは、皮肉というしかありませんが、ベティにしても「青春の抗議」で初めての主演女優賞を得た時、むしろ、直接の評価の対象となったのは、その前年に出演した「痴人の愛」(34)での名演技に対してでしたが、その時はノミネートすらされなかったことへのアカデミーの「穴埋め」だったとも言われています。

「痴人の愛」はRKO作品、ワーナーのトップスターでもあったベティがRKOに貸し出されて主演したもので、他社のスターのハク付けに協力したくないRKOの思惑と、他社作品でヒットを飛ばされても困る抱え主ワーナーの思惑とが一致しての「ノミネートなし」の結果となった経緯もあったそうです。

しかし、また一方では、「黒蘭の女」でベティが2つ目のオスカーを獲得した時、実は、同年に作品賞を獲得したフランク・キャプラ監督「我が家の楽園」のジーン・アーサーの演技が高い評価を得たにも関わらず、ノミネートさえされなかった事実も重要な周辺事情として書き添えておかない訳にはいきません。

理由は、一般的にアカデミーにおいては、コメディーでの軽い演技よりも、シリアス・ドラマでの重厚な演技の方が評価され易い偏見が当時にもあって、ベティが「黒蘭の女」で演じたような「気性の激しい女性の愛と破綻」という演技こそ、最もアカデミー好みの典型であったということも忘れてはならないことなのですが、しかし、その翌年、同じタイプの「わがままで強情な南部女の激しい愛と破綻」を鮮烈に演じた新人女優ヴィヴィアン・リーに主演女優賞を持っていかれたことは、何とも皮肉なこととしか言いようがありません。

「風と共に去りぬ」がアカデミー賞において数々の栄誉を得ることとなった1939年という年は、「実にとんでもない年」だったというのが、アメリカ映画史においてこの年を語る場合の枕詞のように使われます。

そこでは、しばしば「豊饒」とか「成熟」という形容詞が多用され、事実アメリカ映画の巨匠たちがエネルギッシュで充実した仕事を残したひとつのピークだったという見方が評論家たちの一致した見解のようなのです。

しかし、不吉な危機感を帯びた迫り来る戦雲を背景としていたので、必ずしも手放しの楽観ばかりを意味していた訳ではありませんが、例えばピーター・ボグダノビッチは、その著書「ハリウッド・インプレッション」で、わざわざ「1939年アメリカ映画BEST 10」として、BEST作品を選出して、そのことを指摘したひとりでした。

ただ、興味深いのは、そこでは、アカデミー賞を独り占めにした「風と共に去りぬ」を評価の対象から全くはずしたところに特徴があります。

以下は、そのBEST 10の紹介です。

 ①若き日のリンカーン(ジョン・フォード)、
 ②コンドル(ハワード・ホークス)、
 ③ニノチカ(エルンスト・ルビッチ)、
 ④駅馬車(ジョン・フォード)、
 ⑤スミス氏都へ行く(フランク・キャプラ)、
 ⑥邂逅(レオ・マッケリー、後年「めぐり逢い」でリメイク)、
 ⑦モホークの太鼓(ジョン・フォード、初カラー作)、
 ⑧彼らは顔役だ!(ラォール・ウォルシュ)、
 ⑨ザ・ウーメン(ジョージ・キューカー)、
 ⑩は5本あり・ガンガ・ディン(ジョージ・スティーブンス)、ミッドナイト(ミッチェル・ライゼン)、大平原(セシル・B・デミル)、北西への道(キング・ヴィダー)、砂塵(ジョージ・マーシャル)の内から各自の好みで選んでよしとしていますが、しかしなお、ここにおいても「風と共に去りぬ」は、この5本の中にも入らないと特記しています。

しかし、この選考の基準を、単に奇を衒ったものと判断するのは早計です。(もっとも、是を非とし、非を是とする「奇を衒う」ところがなければ、評論なんて書く意味がありませんが。)

アカデミーが切り捨て賞の対象としなかった作品にも、これだけの充実した作品があったことを示したかったのだと考えた方がいいかもしれません。

やはり、アカデミー賞にノミネートされた作品群を前提にしてこそ、初めて上記のボグダノヴィッチの選択も光彩を放ち得るものと思い、彼の外した作品を以下に列挙しておきます。
こちかの方もかなり豪華なラインナップになっています。

風と共に去りぬ(ビクター・フレミング)、オズの魔法使い(ビクター・フレミング)、明日来りなば(ジョン・M・スタール)、サージェント・マッデン(ジョセフ・フォン・スタンバーグ)、嵐が丘(ウイリアム・ワイラー)、青春一座(バズビー・バークレイ、後年MGMミュージカルの振付師に)、巌窟の野獣(アルフレッド・ヒッチコック)、廿日鼠と人間(ルイス・マイルストン)、チップ先生さようなら(サム・ウッド)、愛の勝利(エドムンド・グールディング)

しかし、これを見ると映画評論という微妙で危なっかしい立場がよく分かります。

逸脱が過ぎると、どうしても寄生虫のような甘えの部分が露呈してしまう。

実にシビアです。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 12:20 | 映画 | Comments(1)

カビリアの夜

娼婦カビリアが、男を信じ易いことと、騙され続けることとが、なにか密接に関係する永久運動のように描かれています。

人の良さとか素直なこととかは、まるで人間的な欠陥ででもあるかのようにさえ思えます。

裏切られ、慰みものになっても、なお、こんなふうに人を信じられるものか、ちょっと受け入れ難い部分もあるのですが、そんな失意のとき、善良そうなオスカルという青年に出会い、その誠実な態度に心引かれて、カビリアは夢中になります。

やがて彼の求婚を受け入れ、彼に全財産を捧げますが、すぐに金だけが目当ての求愛だったことが分かります。

そのうえ危うく殺されかけ、助かったものの、もはや生きてゆく支えを全く失った絶望と放心の状態で彷徨い歩いてゆくその帰り道で、カビリアは、偶然に少年たちの歌声の群れの中に紛れ込みます。

そのとき彼女は思わず微笑んでしまうのです。

心に残る名場面ですが、同時に、でも何故彼女は微笑んだのか様々な解釈がなされ得る謎のシーンでもあります。

天使のように無垢だから、愚かな人間の悪い行いも総て許したのでしょうか。

それとも失意ゆえの諦念からでしょうか。

多くのフェリーニの解説書には、そのどちらかが記されています。

しかし、それは少し違うように思います。

カビリアは、男たちから散々に弄ばれ、堕ちるところまで堕ちつくした惨めさのどん底にあっても、突然自分とは全く関係のない賑わいと微笑とに取り囲まれたとき、彼女は、その絶望にも関わらず思わず微笑んでしまったのです。

それまで男たちが望むままの性的玩具になってきたのと同じように、彼女は周囲の雰囲気に促されるままに微笑んでしまっただけなのです。

後年のフェリーニには、このようなされるがままになっているどこまでも受動的な悲しい女を描くことはなくなりましたから、その無垢さに聖性を持たせる意味がどこにあったのか今では知るよしもありませんが、こうフェリーニに訊いてみたいと思いました。

「従順とは、人間にとって欠陥なのですか。カビリアは、更に壊され続け、やがてジェルソミーナのように死んでゆくのですか」と。 
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# by sentence2307 | 2004-11-06 12:14 | 映画 | Comments(4)

キッズ・リターン

この作品、「挫折しても,諦めずに、またイチから頑張ればいいじゃん」みたいな結論の映画なわけ? 

そんなふうには、どうしても思えないけどね。

マサルの行動は単純に納得できるよね。

ボクサーにのされた復讐のためにボクシングを始めたものの、スパーリングでシンジに殴り倒されたことでヤクザになり(シンジを恨んだかな?)、やがて自分を拾ってくれた若頭の仇を取ると息巻いて組長を毒づいたために半殺しの目に遭う。

彼が信じていたものは、いつもストレートな暴力への憧れなのに、逆にいつも管理された「暴力」そのものに裏切られてしまう。

それに引き換えシンジの方は、もう少し複雑かもしれないね。

ボクシングを始めて、自分には人を簡単に殴り倒せる優れた才能があるらしいと気づき、少し嬉しくなるけど(その代償に孤独の苦さも知る)、彼は決してボクシングに誇りを持ったり神聖化したわけじゃない。

ジムから強い選手を出すことしか考えていない会長が、試合のための体重管理の節制を口うるさく言う度に白けてゆくシンジが、何故ジムの先輩ハヤシに惹かれていったのか分かる気がする。

ハヤシは、有望な新人の足を引っ張る小ずるい落ち目のボクサーとして描かれていて、こういう得体の知れない悪魔的な人物をさりげなく要所に配するあたりがタケシ演出の老獪なところだけど、彼は単なる悪役じゃなく、彼なりにちゃんした自己主張をしてるんだ。

シンジは、彼の悪魔的な囁きに耳を傾け、こっそり教わる反則テクニックや体重管理の裏ワザを、過度な節制を強いる会長への当て付けのように受け入れていくけど、なぜ、約束された栄達を選ばずに、ハヤシに近付いていったのか考えてみたんだ、ひとつには、選手を駆り立て、チャンピオンを出してジムを大きくしたいという会長の身勝手な夢のために管理され犠牲を強いられることへの反抗もあるだろうけど、やはり、シンジは、ハヤシのような生き方を本質的なところで受け入れることができたんだと思う。

マサルやシンジやハヤシたちは、いつのときも決して頑張らなかったという意味でね。

「頑張る」という観念から、彼らは最も遠くにいたんだ。

ボクシングをしてた時も、ヤクザの世界で凄んでた時も、彼らは、学校にいた時と同じように、少なくとも「頑張る」ことだけはしなかったと思う。

彼らにとって「頑張らない」ことが、管理されることに対するひとつの抵抗だったからだよね。
学校でさんざん管理され、うんざりして自由を求めて入っていったはずのボクシングやヤクザの世界でも、しかし実際は、どこも更にシビアでダーティな管理社会だったわけ。

ラストで、学校の校庭で吐かれる「ばかやろう、まだなんにも始まっちゃいないぜ」という言葉には、管理されることを拒み、そして彼らがいつの時も自由な世界に走り出そうとする限り、彼らは決して傷つくことがない真っ白な状態でいられるという意味が込められていると自分なりに納得したわけだけれどもね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 12:02 | 映画 | Comments(191)

アシッドハウス

様々なコピー作品を生み出した「トレインスポッティング」の衝撃の影響下から完全に解き放たれるだけの力ある作品を、残念ながら僕たちはまだ手に入れていません。

時代の袋小路に迷い込み、息苦しいような閉塞感の優れた描写の到達度は、かつて見た映画のどれかと比較し「情緒」で片付けてしまうには、何かもうひとつ言葉で認識できないものがあります。

この「アシッドハウス」は、「トレイン・・・」の原作者アーヴィン・ウェルシュの短編集から3話を映像化したオムニバスです。

この3話、どの話も半端じゃありませんが、特に第1話「ザ・グラントン・スターの悲劇」が超過激です。

なんの不自由もなく気ままに暮らしていた青年ボブが、ある日たて続けに、まず所属していたサッカーチームを辞めさせられ、恋人には去られ、職も失い、両親の家からも追い出されてしまいます。

そして自暴自棄になって、パブで飲んでいると、神と出会い、その怠惰を非難された挙句に「蠅」にされてしまいます。

蠅になった彼は自分を馬鹿にした奴らに復讐を始めます、しかし、その復讐とは、汚物や糞の中を這いずり回り(怨みに思う奴らを食中毒にさせるためです)、挙句の果てに叩き殺されるという、なんとも救いのない散々なもので、カフカもその品のなさにはビックリでしょう。

さて、この話の中で最も強烈なのは、ボブが両親から家を出て行くように申し渡される部分でしょうか。

両親は、ボブが同居しているために夫婦のいとなみが十分にできず欲求不満を募らせています。

早く夫婦水入らずの生活をし、夫婦の危機を乗り切りたいと彼らは考えています。

そのためにはボブの同居は、具合が悪いのです。

しかし見たところ、もうそんな年でもあるまいにと思うくらいの老齢なのですが・・・と、高を括っている観客の意表を突くような物凄い地獄絵が展開したのでした。

苦悶に歪む表情の父親が、お尻丸出しで暖炉の縁に手をついています。

その後ろから覆い被さるように母親が、父親の苦悶の表情を舐めるように観察しながら、かすかに体を動かしています。

とてもヤバイ雰囲気です。

母の詰問に答え、父親が学生の頃好きだった級友たちの名前を挙げています。

お仕置きプレイなのか、それともそれが彼らの青春を懐古する儀式なのか、やがて電話が鳴り行為を中断した母親が受話器を取ながら、腰から外したものは、なんと、あの大奥のお局様たちが独り寝の寂しさを慰めたという「例のもの」でした。

おいおい、という感じです。

恋人と連れ立ってこの映画を見に行った人は、さぞかし災難だったろうと同情します。

そんなにまでして乗り越えねばならない夫婦の危機とは一体どんなものなのか、倒錯した性生活の深みに嵌っていく夫婦がとてもじゃないが正視に耐えるものではないのは、それが風景として無残だからではなく、そうまでして持続しなければならない関係として残酷だからです。

2話も3話もこのテンションは些かも衰えません。

なんともやりきれない気持ちになる片方で、優れた悪夢を見せられたような充足感に満たされたのも事実でした。

これだけ感情移入を許さない人物を次々に見せ付けられると、ドラッグとセックスとパブとサッカー漬けになっている彼らの世界から、無意識に距離をとっている自分に気づきます。

そして、その距離こそ、作者がこの物語を書くにあたり必要とした同じ「距離」なのではないかなと思えてきました。

その距離が、主観から僕たちを遠去け冷静さを保たせながら、「過激」とか「衝撃的」とかというコピーによって見えにくくされてしまったイギリスの若者たちの姿を少しは見え易くしてくれているのかな、と思えてきました。

この映画の持つ途轍もないエネルギーに終始圧倒されながら、1話を書くだけで全精力を使い果たし、もはや、2話「カモ」、3話「アシッドハウス」を書く余力を失いました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:58 | 映画 | Comments(0)