世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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この映画の解説にこんなのがありました。

「アメリカの中流家庭の崩壊状況は、もはや修復不可能。家族がばらばらになり、身動きできない倦怠感や閉塞感の中で家庭が崩壊していく悲劇を描く。見終わった後の空虚感は深い。」

でも、家庭の崩壊が、別に今始まった訳じゃなし、それに、見終わった後に空虚感しか残らないような映画が、いい映画といえます?

 「アメリカ映画が、アメリカの幸福な家族の終焉を描き切ろうとするところに、却ってかすかな救いがある。」

 いい作品らしいけど、どういいのか表現することができないまま、こんな無策な持って回った言い方しかできない。

「自国の恥部さえも描き得る民主主義の素晴らしさ」にかこつけて、批評の無力を回避しているとしか思えません。

この作品の批評は、この手の解説がとても多かったのが気になりました。

それだけの感想しか得られないのなら、いい映画と言ってはいけないんじゃないでしょうか。

でも、なんとなく、いい映画らしいことが分かるだけに始末が悪い。

再度見たこの映画、かなり性的なご乱行がすぎる内容の作品にしては、見終わった後の、やたら爽やかな印象が残るのは何故なのか、僕なりに考えてみたのです。

主要な話しの筋は、父親が娘の友達に性的に惹かれ、狂おしい妄想の果てに、いよいよSEXという時、少女から純潔と告白されて思いを遂げられず、その夜、隣の軍人に射殺されるというお話です。

少女は最初、性的にかなり経験豊富な娘として振舞っていました。

頼めば、すぐにでも「やらせて」くれそうな感じで、父親が妄想にふけってしまうのも、あながち無理な話とも思えません。

それが未経験の純潔と知って性交を諦めた訳ですが、僕は、射殺されるまでのストップモーションで描かれる彼の表情に、何か安らかさのようなものさえ感じてしまいました。

「アメリカの美徳は、まだまだ棄てたものじゃない、大丈夫だったんだ」というような。

学校や社会の中で、ともすると僕たちは、自分を大きく見せようとしたり、世慣れていると見せるために、強がったり虚勢を張ったり嘘をついたりして、仲間内の力関係の中でできるだけ自分の位置を有利なものにしようと努力します。

でも、本当の自分は、もっと卑小で無知で素朴なのはずなのです。

あの少女は、性的に未経験であることをダサイと見る現代の風潮の中にあって、世間の目から「純潔」をカモフラージュするために、「淫蕩」の振りをするしかなかったのかもしれません。

現代の真っ只中で生きるあの少女は、そういう方法でしか彼女の純潔を守るしかなかったのかも。

気高いレディが持つ「貞節」という美徳が、形を変えてもまだまだしっかりとあるんだという僕なりの「アメリカン・ビューティー」の言葉の訳を考えてみました。

たとえ見当違いの曲解でも、こういうのって「市民ケーン」の薔薇の蕾の謎解きみたいでとても楽しいですね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:35 | 映画 | Comments(0)

暴力脱獄

最近は、原題の横文字をそのまま使うことが多くなりましたが、とんでもない邦題をつけて顰蹙をかうよりは、まだ罪は軽いかもしれません。

でも、こう横文字をそのまま使うことで、作品に対するイメージが幾分薄れてしまったのではないかという気持ちも片方にあるのは、きっと素晴らしい邦題も多いからでしょう。この話は、「安直な原題の流用に偏りすぎるのはいかがなものか」みたいな意見とツイで論じられることが多いのはそのためだと思います。

例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「Cool Hand Luke」を「暴力脱獄」と暴走ぎみに意訳した感覚には、手放しで敬服しているひとりです。

「平時」にあっては、とても普通の感覚では考え付かない命名だと思いませんか。

内容からは、遥かにかけ離れたこのタイトル「暴力脱獄」は、なにしろゴロがいいです。

何となく「暴力革命」という超危険な語感を連想させ、思わずゾクゾクッときてしまう、あの感覚ですよね。

世界的な潮流を受けて日本の学生たちも叛乱に向けて徐々に動き始めた1967年というまさにそういう時代につけられたタイトルに僕たちは不思議な胸騒ぎみたいなものを感じたのだと思います。

そして、この叛逆のテーマを演じ続けてきたポール・ニューマンという俳優が、不服従という反抗を貫き通すことによって、ひるむことなく魂の自由を求め続け、そのためには破滅さえ厭わないのだという演技をデビュー以来一貫して演じ続けてきたことに対する共感でもありました。

アクターズ・スタジオ出身の演技者としてモロに意欲をみせようとしたテネシー・ウイリアムスものや円熟の域に達したといわれる最近のキュートな作品もそれなりの意味があるのかもしれませんが、やはりなんといっても「傷だらけの栄光」から始まって「暴力脱獄」で完結する一連の系列の作品こそポール・ニューマンらしい役どころがあるのだろうと思っています。

しかし、「左ききの拳銃」、「ハスラー」、「ハッド」など、アンチヒーローと呼ばれたそれら主人公像は、当時、NYアクターズ・スタジオ出身の先輩マーロン・ブランドのコピーにすぎないと書き立てられ、ポール・ニューマンもそのことを随分嫌がっていたという記事を読んだことがあります。

同じスタジオで演技指導を受けたので似た部分があるのは仕方のないことだったのか、あるいは、芸能ジャーナリズムが勝手に作り出した単なる偏見にすぎなかったのかもしれませんが。

例えばこの「暴力脱獄」の惚れ惚れするような一場面、どうにもならない絶望的な状況に追い込まれ窮地に立った時に、ルーク=ポール・ニューマンが浮かべる敵を更に挑発するようなあの「不敵な薄笑い」を指すのでしょうか。

ごく初期のマーロン・ブランドも確かに人を小馬鹿にしたような薄笑いを常に浮かべていましたが、ポール・ニューマンが演じようとしていた反逆者とはまるで違う場所を目指していたと思います。その表れのひとつが「暴力脱獄」だったと思います。

内容的には、邦題のタイトルから受けるイメージ「暴力による脱獄」という印象は、ちょっと違うかなというのは、この映画、むしろ「脱獄」に失敗して捕まる度に「暴力」をふるわれるというのがこの作品のストーリーだからです。

看守たちのリンチに耐え、怯むことなく、なおも自由を求めて脱走し続けるというガッツが描かれていて、まあ、殴られて耐えるのを「ガッツ」といえるかどうかは分かりません。

むしろ、後年主演男優賞争いで敗れる「ガンジー」の無抵抗主義を思わせてしまうあたりは皮肉ですが。そして、ルークの前には、絶対的で強力な権力を持っている所長や看守たちが立ち塞がり、どうすることもできないという絶望的な状況がそこにはあります。

刑務所という国家権力の武力装置システムに「拘束する」という強制を、「脱獄」する手段で対抗する権力者を辱める反抗の姿勢はマーロン・ブランドでさえ持ち得なかった演技の深みがあったのだと思います。

再三の脱獄に失敗し、懲罰房に入れられて徹底的に痛みつけられたルークは、その後、看守たちの走り使いなどをして、権力の暴力に屈したかに見え仲間から軽蔑の眼差しでみられる場面などもあるのですが、しかし、それは、再度の脱獄の可能性を残すためも無抵抗のカモフラージュだったことが後で分かり、囚人仲間がルークのガッツにあらためて感嘆するという場面なども用意されています。

あの軽蔑と感嘆の振幅のなかには、不服従の弱さのイメージと信念を貫き通す強さのイメージとを、あえて同列に置いてみせた設定が、とても新鮮に思えました。

俳優としてのポール・ニューマンの生き方も髣髴とさせるものがあります。

しかし、ただそれだけで、この「暴力脱獄」が、伝説の映画たり得るための要件を満たしているとは思えません。

この映画の魅力は、なによりも、ルークを、「今は亡き」既に伝説の中の男、囚われの男たちの「希望」そのものとして描いているところにあったからだと思います。

ジョージ・ケネディが遠い目をして「いまは亡き彼の伝説」を話し始めるあの郷愁のニュアンスです(この演技でジョージ・ケネディはアカデミー助演男優賞を獲得しています。)。

クールなルーク(coolとlukeじゃスペルが違うので洒落じゃないと思いますが)の物語が語られ始めるとき、それは既に遠い思い出の郷愁のなかで語られるジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」とかロバート・マリガンの「アラバマ物語」の、あのなんとも知れん感覚を思わせますね(ここはどうしても淀長さん風でやらないと感じがでません)。

失われたものを振り返るある胸が締め付けられるような郷愁に満ちた思い出の中に生きるルークの薄ら笑いが、負け惜しみの薄ら笑いではなく、彼の後を着いて行きたくなるような生きること自体にすこぶる挑発的な薄ら笑いなのだなとそのとき思いました。

しかし、あの役を、もしマーロン・ブランドとかデニス・ホッパーがやっていたら、観客をこんな深い思いに導くカリスマ性が演じられたかどうか、疑問だと思います。

ポール・ニューマンは、つねづね、まずスターであるよりも、アクター(演技者)であるとともに、家庭を大事にすることを心がけていると公言し、自他共に「最も偉大な普通人」と呼ばれていることは有名でした。

ハリウッド的な考え方を嫌い、愛想も振り撒かないし、サインもしない。

東部に住居を構え、ハリウッドに反旗を翻しながら、しかし、追放される(デニス・ホッパーのように)こともなく、作品を選び続けられる位置を確保している(彼が拒否した作品として知られているのが「オール・ザット・ジャズ」「普通の人々」「ロマンシング・ストーン」です)。

これは、大変なことだったと思います。

こういうギャップが、彼を「本当の大人」に見せてしまうのでしょうか。

しかし、僕の場合も、かつては、優等生のポール・ニューマンよりも、永遠の問題児デニス・ホッパーが好みだと言って仲間内でのウケ狙いに走っていた時期もありました。

しかし、タイプがまるで違うこのふたり、実は共通していることがあります。

それは、共にブロード・ウェイのアクターズ・スタジオで学んでいること、そして共にジェームズ・ディーンに逢っていること、そして両極端という意味でハリウッドのスターらしからぬことでしょうか。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:21 | 映画 | Comments(5)

戦争と平和・亀井文夫版

「戦争と平和」とはいってもヘップパーン主演のあの超大作の方ではなく、亀井文夫が山本薩夫と組んだ初の劇映画です。

夫が戦場で行方不明となるという同じシチュエーションから物語はスタートします。

妻は夫が死んだものと諦めて夫の親友(負傷し復員して療養しています)と再婚します。

しかし、再婚相手(池部良)は空襲にあった際、戦場で晒された死の恐怖を蘇らせて精神の異常を来たしてしまいます。

池部良の迫真の演技でした。

夫は中国から帰還すると、妻が自分の親友と再婚しているばかりか、その友は精神に異常をきたしているのを見てショックを受けます。

悩みぬいた末に「総ては戦争が悪いんだ」と、自分が身を引くことを決意し、なんとか友を快癒させようと友の入院を勧めているとき、池部は狂気のためにミシンを踏み続けながら誤って針を指に突き通し、激痛で正気に戻りますが、この狂気に囚われていた自分の伺い知れない空白の間に、妻と前夫の関係を疑い悩みを募らせていきます。

ここまでくると、話しはもうどろどろの泥沼状態です。

あのイタリア映画「ひまわり」に描かれているような悲しく切ないけれど、しかし同時にどこか爽やかな感じさえ受けるその違いが一体どこにあるのか、きっと、相手を愛する自分の気持ちの強さの確信の違いなのだろうと思いました。

日本の「どろどろ組」にとっては、愛するという行為は、あくまでも二の次、三の次で、いつも何かが優先していたのだと思います。

それが「戦争」だったかもしれないし、「革命」とか「生活」だったかもしれないけれど、少なくとも「愛」ではなかったのだと思いました。

池部良が、妻を疑い、苛立ちから彼女を殴りつける場面に続いて、母をかばう子供をマジでどつき倒す描写にこの映画の精神のあり方の総てが描き出されていました。

この作品の作り手たちが最優先で信じていた「革命」や彼らの「平和」が、少なくとも、愛する夫からいわれのない屈辱的な疑いをかけられたり、目の前で母親が暴力を振るわれているの見せ付けられる惨状など、「革命」の前ではたいした問題ではない最優先の大儀を有していることが良く分かりました。

少なくても「愛」などではないらしいということが。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 08:30 | 映画 | Comments(0)

あまりにも愚かで、ザンパーノの大道芸の手伝いも満足に出来ずに落ち込んでいる失意のジェルソミーナを、道化のキ印は、「この地上の物で役に立たない物など何もないさ。この石だって何かの役に立ってるんだよ」と、励ます場面があります。

ジェルソミーナが、初めて人間として扱われ、自信をもつ重要な場面です。

ザンパーノにとっては、性欲の対象(それも「女」としてというよりも、まるで「便器」のような)でしかなかった自分を、ひとりの女性としてザンパーノに認めさせようとまで決意させたこの希望に満ちたシーンが、やがてくるキ印殺害の衝撃を更に大きなものにしています。

その純真さゆえに、殺人というあまりにも残酷な出来事に耐え切れず、心を閉ざした廃人のように泣き続けるジェルソミーナに手を焼いたザンパーノは、彼女をその場に置き去りにしたまま立ち去ります。

そして、ラスト。映画史に残る名シーンです。

寒々しい海辺の町に流れてきた今ではすっかり老いさらばえたザンパーノは、そこで自分がかつて捨てたジェルソミーナがいつも口すさんでいた歌を耳にし、歌っている洗濯女に訳を尋ねます。

その女は、気のふれた乞食女が泣きながら惨めに死んでいったこと、それでも気分のいい時には、呟くようにこの歌を歌っていたのだと言います。

やがて夜更け、荒れすさみ、絶望の中で泥酔したザンパーノは、喧嘩の果てにさまよい出た夜の海岸で泣き崩れます。

ただ欲望と快楽にのみ空費し、あと僅かしか残されていない無意味な人生が残酷な罰のようにザンパーノにのし掛かってきます。

一瞬のうちに過ぎ去った人生という儚い時間に対しての驚愕と後悔。

そしてあまりにも大きすぎる失ったものへの恐れ。

途切れるように不意に終わるこのラストには、安易な救いなどどこにも見つけ出すことの出来ない、フェリーニの突き放した人間へのやりきれない絶望感しか感じられません。

ザンパーノの死後も、あの洗濯女は、いつまでもあのメロディを口ずさむのでしょうか。

キ印もジェルソミーナもザンパーノも、そして彼らを知る総てのものが死に絶え、哀しいこの物語の記憶が人々から失われても、ジェルソミーナが愛した美しく物悲しいあのメロディだけが、いつまでも人づてに空しく生き続けていくことの残酷を思うと、何だか胸苦しくなりました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 08:09 | 映画 | Comments(0)

国民の創生

1915年に製作されたグリフィスのこの作品が、映像処理の基本的技法(フラッシュ・バックによる映画的時間の処理とか、クロス・アップや超ロングによるモッブ・シーンの使い分け、様々な形のマスキングの使用、ふたつの場面進行を交互に見せるクロス・カッティングなど)を確立した作品といわれるだけに、その優れた映画話法の完成度の高さと饒舌とにより、いま見ても左程語り口の古さを感じることなく鑑賞できるので、逆に、そこで描かれている強烈な人種的偏見も一層生々しく感じてしまうのかもしれません。

この作品は、南北に分かれて戦った二つの家族の若者同士が、南北の和解を象徴するかのように結ばれ結婚するというのが主要な話しの部分なのですが、それとは別に、北軍の勝利により、解放された黒人たちの凶悪な暴動に対処するために、自衛のため仕方なくKKKが組織されたという理由付けもなされています。

結成のタテマエは、自由の身となった黒人たちが白人に対し激しい憎悪をもって対抗し、その脅威に、やむを得ず白衣覆面のKKK団が暴徒と化した黒人に制裁を加えるためと説明されています。

実際に南軍の大佐だったという父親をもったグリフィスが、南軍的雰囲気の環境の中で育まれたに違いないこの暴力的な白人優越主義の人種偏見を、ごく日常的な常識として身につけていたことに驚くと共に、それを抵抗なく受け入れていた社会にも脅威さえ感じます。

そこには黒人を奴隷として虐待していた記憶に根ざす白人の根深い恐怖感が当然あったでしょうが、一方黒人自身のなかにも階級化された選民意識のようなもの(自分だけは特別白人に近いというような一種の優越感のようなもの)を持っていたらしいのです。

例えば1930年代のある黒人劇場では、冷酷で無知で野蛮なステレオタイプの堕落した黒人が、金髪の美女に襲い掛かろうとしている描写とのクロス・カットで、その黒人を制裁するために馬で駆けつけるKKK団の描写の場面が大写しになった時、黒人の観客が抗議どころか、KKKへ熱狂して喝采を送っていたという当時の新聞記事が紹介されており、黒人の中にもそれぞれ階層があって、ある選民意識を持った者の存在もあったことが窺われます。

しかし、これとても形を変えた「奴隷根性」でしかなく、黒人たちの隷従に甘んじた精神の打撃がいかに深刻なものであったかを示唆したエピソードだと思いました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 08:06 | 映画 | Comments(0)

ローマの休日

宿舎の王宮を密かに抜け出し、ローマの街で普通の娘として思い出深い休日を過ごした王女が、公人として臨んだ記者会見場でジョーと再会するこのシーンが、僕にとっての忘れられない場面です。

アン王女は、そこで始めて彼が新聞記者だったことを知り驚きます。

その表情は、愛する人との再会の喜びより、不安に満ちた困惑の表情に覆われています。

この場面は、うら若い乙女が初めて恋心を抱いた相手との再会に胸をときめかせる一人の「娘」としてよりも、スキャンダルを新聞記者に逐一握られていることを恐れる「公人」としての危惧に支配されていて、彼女の恋心が戸惑いの中で微妙に動揺をみせる繊細な場面です。

ジョーの方も、その前夜に宿舎近くまで王女を見送り、何もかもを知りながら溢れる思慕の情に任せて別離のkissを交わしています。

スクープをとるか放棄するか、迷いながら二人は記者会見場で相対しています。

二人を隔てるこの絶望的なくらいの身分的な距離を見せることによって、別離の演技を更に繊細なものにしているのだと思いました。

ジョーひとりと握手を交わすために、多くの記者たちと握手し紋切り型の社交辞令を交わしながら、王女の心は総てジョーに向かっていて、少しずつ近づいてゆく際のときめきが直に伝わってくる素晴らしい場面です。

そして、いよいよジョーと握手を交わす瞬間、それが、喜びよりも、本当の別離をお互いに確認するための触れ合いでしかないことが、二人の諦念に満ちた微笑からも分かるのです。

王女と新聞記者という決定的な身分的隔たりをお互いがはっきりと認識する瞬間です。

やがて、次の記者へと挨拶に移動して行くヘップバーンの繊細な演技は、幾度見ても胸打たれます。

グレゴリー・ペックの像が、徐々に薄れ遠ざかっていく背景の中で捉えるヘップバーンの振り向くことすら許されない淋しそうに微笑む横顔は、いま終わったばかりの恋が、少しずつ距離を増しながら失われていく象徴的なすばらしいシーンでした。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:51 | 映画 | Comments(124)

フェリーニのカサノバ

フェリーニの映画は、どれも、なんか名場面集のような気がします。

決して軽く見ている訳ではなく、それも映画に酔うという重要な要素だと思っていますし、イタリア語のあの響きが大好きです。

最近の映画では、あまり感じることができなくなりましたが、特にフェリーニ作品にその魅力を強く感じます。

イタリア語の響きがあまりに心地よく、つい二度見てしまうこともしばしばありました、その時はただ眼を閉じたまま言葉の響きの美しさだけを堪能したのです。

「道」の冒頭の老母(立て続けに娘二人をザンパーノに買われ、その命まで奪われることとなります)が叫ぶ「ジェルソミーナ!」は忘れられません。

二度目の回では、ザンパーノに虐待され精神の均衡を失した彼女がやがて無残に野垂れ死ぬことが分かっているだけに泣けて仕方ありませんでした。

さて、名作「道」を思いながら色物の「カサノバ」を書くのは、何だか気が引けるのですが、ご容赦下さい。

「カサノバ」を見て考えました。

好色であることと絶倫であることとは、必ずしも一致するわけではない。

もし、絶倫だからといって、好色でなければ(それどころか性に対し嫌悪感や罪悪感を催すような設定だったら)、ポルノ映画としては、これくらい深刻で鼻白むことはないでしょう。

性の解放を謳歌しているはずのこの好色文学の映画化このカサノバを、むしろ僕はそのような逆の禁欲的で性に対する嫌悪をすらフェリーニが抱いているのではないのかという感じすら覚えました。

きっとフェリーニという人は、人間が嫌いだったのではないかと思えたくらいでした。 
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:48 | 映画 | Comments(0)

花様年華

久々に映画という時間の中で酔いしれました。

不倫をされた配偶者同志が、その痛手を互いに癒し合うかのように逢瀬を重ねていくのですが、棄てられた者同志ですから、互いがその惨めさの反映ということもあって、深い関係にはどうしてもなれません。

手を触れ合うだけの行為を躊躇い、逡巡する繊細なメロ・ドラマです。

貞淑とか道徳観との葛藤とか、今では珍しくなった観念がしっかりと描かれていて、ドラマを支えています。

マギー・チャンのチャイナ・ドレスもすごくいいです。

人を容易に近づけない程の完璧なおしゃれというのは、却って哀しいものだな、とこの映画で思いました。

「棄てられた女、忘れられた女」の惨めさを認めたくないと必死に抗うかのような痛ましい「おしゃれ」でした。

女の髪や服装や装飾に対するこだわりは、その情念と肉体とダイレクトにそのままつながっているような(実際見てもらうと分かると思いますが、男に手を触れられただけで膝をきゅっと閉めてしまうような生々しさがありました)こわい面が良くわかりました。

あだやおろそかにはできません。

思いを寄せながら、日常に疲れた幸薄い女が、うまくいかなかった昔の恋をふと振り返る。

胸苦しいようなそんな感傷を、味合わせてくれました。

今では、日本ではもう作られなくなった松竹大船調の叙情とでもいうのでしょうか。

音楽もとてもいいですよ。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:41 | 映画 | Comments(0)
エドワード・ノートンは、デ・ニーロみたいにもっともっと大きく成長するだろう、とこの映画を見て確信しました。

どこかこの二人似てますよね。

偏執的な狂気じみた印象が共に感じられます。

そして、ここでいちばんの白眉のシーンは、対立する黒人グループのボスを叩きのめしてから、さらに歩道の縁石を咥えさせたうえ頭蓋を真上から蹴り砕く場面です。

今まで見たこともない狂気の場面でした。

しかも不気味な薄ら笑いさえ浮かべながらの凄惨な殺戮です。

お伽話のようなアメリカン・ドリームの虚偽があからさまになり、硬直した社会では、もはや最下層の人間が浮かび上がる余地など全くなくなってしまった絶望のどん底にいる彼らに、もし希望を持たせ得るものがあるなら、それはファシズムという政治の錬金術によって公認された暴力へ奉仕することで得られる快感だけだ、とでもいっているのでしょうか。

その世界は、根深い劣等感が、強烈な選民意識に摩り替えることの出来るナチズムと同じ論理に依拠する回路を持っています。

しかし、それは特殊なことでもなんでもなく、どこの社会でも付随的に生ずるごく一般的な、あるいは必然といえるものなのかもしれません。

とにかく、この映画は、いままでの映画が築ずき挙げてきた価値観では、どうやっても測ることの出来ない途轍もない凄さを見せ付けられた映画でした。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:35 | 映画 | Comments(0)

竜二

妻子のためにヤクザを抜けようとした竜二が、堅気の仕事としてトラック運転手をやります。

しかし、そこで見たものは、まるで自分がヤクザを抜けたために、昔の仲間達がちりぢりばらばらになり、まるで自分が見捨てたような惨状を見せ付けられますが、しかし、むしろ、ヤクザが堅気になることの本当の難しさは、堅気の衆がヤクザの威を借りて虚勢を張ったり強がったりハクをつけて自分を大きく見せようとすることです。

一匹狼としてあらゆる権威に牙を剥きながら生きてきた竜二にとって、それは何よりも苦痛だったに違いありません。

【同僚が言います
「おれなんかよ、名古屋のヤクザで若頭のオサムさんていう人に可愛がってもらったのよ」。
竜二(顔は凄みの効いたヤクザの表情に戻っています。男の手に煙草の火をおしつけながら)「それがどうしたんだよ!」】

嘘で固めた堅気の生きかたに深く絶望した竜二が、本音で生きる一匹狼のヤクザでいる方が、まだしも人間的だとして、苦い旅立ちを痛切に描いた場面でした。

いまはもう既にこの世にはいない金子正次という俳優をきっと僕は永遠に忘れることはないだろうと思います。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:24 | 映画 | Comments(0)