喜劇王エノケン生誕100年という2004年、しかもキャストには高峰秀子の名前もあったので、引き寄せられるように「当然、ひと笑い」という心積もりで見始めた作品だったのですが、まず、全編をおおう不気味な暗さには驚きました。
喜劇王エノケンが出演しているからといって、お気楽な喜劇とみくびって接すると大火傷をしてしまうかもしれません。
この映画の製作年度は1944年、太平洋戦争の末期、敗色の濃くなった絶望的な戦況のもとでヒステリックでナーバスになっている内務省の干渉によって映画の製作環境が極度に悪化し、それはちょうど三谷幸喜が「笑の大学」で描いてみせたあの最悪の環境の下で、強引に滅私奉公の精神を注入しようとする検閲官の手で「喜劇」が「喜劇」たり得ないまでにずたずたにされ、無残な残滓のようになってしまった深刻な実例が、この「三尺左吾平」なのではないかと思えるほどの「不気味な喜劇」に仕上がっていました。
物語は、あの有名な伊達藩のお家騒動、エノケンの役どころは、健脚でお人好しの足軽・左吾平、軽輩ながら忠義の気持ちは人一倍強く、江戸にいる敬愛する若君に「じきじきにお声を掛けていただく」ことを夢見ながらも、同時に、足軽の身分ではそんなことは思いよらないことも重々分かっている忠義者です。
江戸屋敷で原田甲斐に毒を盛られ暗殺の危機にあるその若き主君の命を救うというストーリーなのですが、最初、左吾平の「忠義の気持ちは人一倍」という一本気な気持ちが、逆に敵陣営の付け入るスキを作り、おだて挙げられ、うまく利用されて、結果、左吾平が深く敬愛していた主君擁立派の重要人物(黒川彌太郎)は、結局詰め腹を切らされてしまいます。
エノケン=左吾平は、自分の不注意から起きた失態を大いに悩み、仲間からも裏切り者と謗られるなどの紆余曲折のなかで、いつの間にか変質させられてしまった自分の「忠義」について思い悩み、どうすれば主を思う自分の真心=忠義の気持ちを主君にお伝えすることができるのか、そのためには自分は何をすればいいのか、などと真剣に考えます。
エノケン=左吾平が悩むその気持ちにぴったりと寄り添っていくことになる観客も、いつの間にか「どうすれば主を思う自分の真心=忠義の気持ちを主君にお伝えすることができるのか、そのためには自分は何をすればいいのか」と反芻しながらエノケンの気持ちの流れをそのまま受け入れていくことになるのかもしれません。
この映画を見ていた僕も、だいたい似たようなプロセスを経て、同じような心境に至りました。
観客がこの「主君」像をどう読み替えるか、この映画を「料理」した検閲官は、本当に優れていた人だったのだなあとつくづく感心します。
しかし、この映画を観ながら、なぜ自分が、これだけ容易に「主君につくす滅私奉公」の気持ちを受け入れることができたのか、そのマインド・コントロールの方程式を知りたくなりました。
きっと、この映画のどこかに庶民の気持ちを「主君」へと揺り動かすキイワードがあるはずだと思いました。
子供の頃、杉浦茂のシュールなギャグ漫画「猿飛佐助」などをこよなく愛読してきた者にとって、このエノケンの映画を見て真っ先に注目したのは、彼が持っている長い刀の先につけられた車輪です。
画面であの奇妙な車輪を見た瞬間、思いは瞬時にあの漫画に夢中になっていた子供の頃の思いに連れ去られてしまいました。
確かあの漫画にもその珍妙なアイデアが使われていた記憶があったからです。
エノケン演じるこの左吾平は足軽ながら居合い抜きの名人、手挟んでいる刀というのが身の丈にあまる長刀です。(それでなくとも、ごく単身のエノケンです。)
それを腰に差そうというのですから、あまりの長さに刀の先が地面に届いてしまい、そのために、その先端には車輪が取り付けられていて、背の低い左吾平ことエノケンが歩くと、地面の上を刀の先の車輪がガラガラと回るという仕掛けで、きっとその「刀ガラガラ」の場面では、エノケンや製作者は、観客を「笑かす」ねらいだったのだろうと思います。
その奇妙な動作で歩く姿は、あきらかに滑稽に演じているはずなのに、その奇妙な格好にさえ笑えないような凄みというか重苦しさが、無残にもこの国策映画全体を支配していました。
喜劇が喜劇でなくなってしまっているという、これは象徴的な作品でした。
江戸屋敷にいる幼い主君が、伊達藩だけで獲れるという珍しい魚を所望し、それを江戸表に届ける役を仰せつかった左吾平(エノケン)は、その魚を途中で死なせてしまいます。
厳罰を覚悟して主君の前でかしこまっている左吾平に、殿は、彼のあやまちを一言もなじることなく、労をねぎらい休息を命じます。
この喜劇くずれの「滅私奉公を説く国策啓蒙映画」におけるこれは最も重要な場面です。
敬愛する殿に一目でもお会いしたい、恐れ多いとは知りながら一言でもお言葉を掛けていただきたい、命を捧げて忠義を尽くそうという左吾平に対して、殿は忠臣の辛い思いのなにもかもをすべて分かっているうえで、あやまちをなじるどころか優しい言葉で労をねぎらうという、ここに主君と足軽が一体となる封建武家社会の主従関係の基本的な精神的連繋を突き抜けて、本土決戦が迫った危機感のなかで軍部が国民になにを求めようとしていたのかが分かるような気がしました。
それは、この映画を見ている観客の気持ちの中では、きっと「臣民たるもの、ありがたくその一命をカシコキアタリに捧げよ」という明確なメッセージとして伝わっていったであろう、「見事な」国策映画だったのだと思います。
(44東宝)製作・氷室徹平、演出・石田民三、脚色・三村伸太郎、撮影・友成達雄、音楽・栗原重一、美術・島康平、録音・村山絢二、照明・横井総一、
出演・榎本健一、高峰秀子、黒川弥太郎、伊藤智子、横山運平、志村喬、清川荘司、尾上栄三郎
1944.07.06 白系 7巻 2,011m 74分 白黒