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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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前回、NHK・BSの「映像の世紀」についての感想を書きました。

自分の書いたものを改めて読み返してみると、ちょっと変ですね。

書き出しは、なにやら直近でみた「映像の世紀 太平洋戦争・熱狂から絶望の1346日」(太平洋戦争開戦にちなんだ企画)について始めようとしているのに、突如、話は飛んで、以前見たシリーズのうちの1本「運命の恋人たち」に移り(いかにも唐突です)、そこで紹介されていた映画、「他の人とは違う Anders als die Andern」(1919)という、映画史上最初の同性愛映画といわれるドイツ映画についての説明をしゃあしゃあと展開しています。

改めて読み返してみると、やっぱり、不自然ですよ、だってなんのために、わざわざ「太平洋戦争・熱狂から絶望の1346日」なんかを最初に持ち出す必要があったのでしょうか、関係ないじゃないですか、われながら訳が分かりません。意味分かんねえよ、というやつです。

「でも、あんただって落ち着けば一人前なんだからさ」とよく配偶者から言われていますが、それで励ましている積もりか、バカヤロー。

そうそう、先日も、こんなことがありました。

最近は、寄るトシナミで、めっきり視力が弱ってきて、眼鏡がないと字が霞んでよく読めません。

ですので、本や新聞を読むときはもちろんですが、やたら字の小さい家電の説明書とか、分別ゴミ収集の一覧表とか、とっさに確かめねばならない緊急事態に直面したときなど眼鏡がないと右往左往七転八倒、もう大変な騒ぎになってしまうのです。

ということで、常に眼鏡を片手に、家のなかをウロウロと移動している始末デス、自分にとっていまや「片手に眼鏡」は必須で、すっかり「肉体の一部化」していて、そもそも、もはや眼鏡を持っているという感覚も意識もありません。

昼食も済んで、食器洗いも終わり、さてひと休み、コーヒーでも入れてゆっくり朝刊でも読むか、「岸田君は、まだ外交ボイコットを渋って、くずぐず意地を張っているのかな」どっこらしょと新聞をテーブルに広げたのですが、あれっ、いつも手に持っているはずの眼鏡がありません。そのとき、はじめて気がつきました。

いまのいままで、確かにこの手に持っていたはずなのに、ないのです。

そんなことってあるだろうかと、しばし、呆然と手のひらを見つめてしまいました。

眼鏡がないとなると、自分がとても不自由することは、分かりすぎるくらい分かっています。

だから、いつも注意を払って、神経質なまでに肌身離さず持ち歩いていたのですから、この突然の眼鏡の消失は、正直ショックでした。

狐につままれたようなマジックかミステリーにでもあったような呆然自失の気分です。

そうそう、持ち歩くことができないときには、仮の置場所(テレビの前とか洗面所の棚とか)というのも決めてあって、そこなども念のために見にいったのですが、やはりそこにもありませんでした。

しかたなく配偶者にも聞きました、あとでつべこべ馬鹿にされるので、本当は聞きたくないのですが、背に腹は代えられません、でもやはり、「心当たりなんかないわよ」と突っぱねられました。

「だから、いつも言ってるでしょう、決まった場所に置いときなさいって」

ほら、きた。だから聞きたくなかったんだってば。

「置いといたんだけどさ。それがないから困ってんじゃないのよ!」

反撃をこうむらない程度の弱々しい逆切れを語尾の方だけ強調してカマしてやりました、せめてもの抵抗です。

そんなふうにして、夕食の時間近くまで脂汗をかきながら心当たりの所はすべて、あっちこっちと散々探したのですが、残念ながら、ついに見つかりませんでした。

「忽然と消える」というのは、まさにこのことです。

まあ、眼鏡のほうは、明日にでも近所の眼鏡屋さんにいって、新しいのを作ってもらえば、それでいいことですが、なんだか気持ち的にどうにも収まらないのです。

でも、いつまでも、ずるずると引きずっているようなコトでもないし、気持ちの負担にするなんてのも馬鹿々々しいとは思うのですが、なんか釈然としません。

きっと、しっかりと自分の管理下に置いて、念には念を入れてこれで絶対大丈夫と確信していたものが、実にあっけなく崩れてしまったことに、言い知れないショックというか、苦々しいものを感じたのだと思います。

あえて言えば「くやしい」というような感じかもしれません。

いつもは辛辣な配偶者も、そこまでは言いませんでしたが、さしずめ「モウロク」という言葉が彼女のやっとの自制心とともに一瞬、過ぎったに違いありません。

意気消沈して戻ってきた食卓には、昼食後、読もうとしていた新聞が、あのときの状態で広げられたままになっています。

徒労感に疲れがいっぺんに出て、どっかりと椅子に座り、「駄目だ、なかったよ!!」と、広げられた新聞に手を突いたとき、新聞の下のなにかが手に触れました。なにかあります。

えっ!? ええっ~!!

それは、半日かけてさんざん探していた眼鏡でした。こんなところにィ・・・。

片手に持っていた眼鏡を無意識にテーブルに置き、その上に新聞を無造作に置いてから、「眼鏡がない!」と騒ぎはじめたらしいのです。

「ハハハ、あった、あったよ、ありました」

台所で夕食の支度をしている配偶者の背中に呼び掛けました。

彼女は、身を固くしてマナイタをじっと凝視して一心に手を動かしています。

そのとき、背中が動いて、とても大きな深呼吸をしているらしいことが窺われました。


# by sentence2307 | 2021-12-10 20:48 | 徒然草 | Comments(0)
先週末、テレビ番組表を見ていたら、NHKのBSプレミアムで「映像の世紀」を放送するとあったので、忘れないようにカレンダーにメモしておきました、そして、その時間にしっかりチャンネルを合わせて、逃さず見ることができました、「映像の世紀」は、自分の数少ない愛聴番組のひとつです。

この「映像の世紀」、もう第21集ということで、ずいぶん続いているものだなあと、ただただ感心しています。

タイトルは、「太平洋戦争・熱狂から絶望の1346日」ということで、なるほど、なるほど、太平洋戦争開戦の日に引っ掛けた企画という訳ですね。タイムリーというのも、ちょっと変な言い方ですが。

しかし、こうして見てみると、戦時中の外国の報道機関などが撮影したフィルムに比べると、保存状態とか迫力など、どうしても日本のフィルムのほうが見劣りしてしまうのは、戦時下の日本のシステムの不備とか物資不足ということもあったでしょうが、やはり、軍部からの監視とか規制がきつくて、絵作りの工夫どころではなかったことが画面の単調さ(見張られている緊張感?)からも分かります。

それになによりも差し迫った状況下(どれも緊迫した事件の現場なわけですから)での撮影という緊張感もあったでしょうが、どの場面も「きをつけ!! カシラみぎ!!」みたいなカクカクした感じがどうしてもあり、不謹慎な言い方ですが、面白みに欠けるというのが率直な感想です。

それもまあ、仕方ありません、内容というのが、日本が憑かれたように破滅的な戦争にヒステリッリに入れ込んで、なだれを打って敗戦に向かっていく相当悲惨な戦時ドキュメントなのですから、とうぜんヤタラに重苦しくなってしまうのですが、それにしても、古いフィルムを見ることのできる機会は、とにかく貴重なので、膝を出してしっかりと見ることにしています。

それに、自分が、この「映像の世紀」を見逃さないようにしているもうひとつの理由というのがあります、当時作られためずらしい映画の1シーンが唐突に挟み込まれたりすることがあるのです。

少しまえに、これは再放送ですが、毎週月曜日の夕方に、この「映像の世紀」シリーズの一連の旧作を順次放送していて、そのなかの1本に「運命の恋人たち」という作品がありました。なかなか感動的な作品でした。

だいぶ時間が経過しているので、収録されている幾つかのエピソードを正確な順序で記憶できてないかもしれませんが、思いつくままにざっとあげると

☆人妻との禁断の恋のために英国王エドワード8世が王位を棄てた下した決断とか、
☆伝説のギャング・カップル、ボニーとクライドの逃亡と壮絶な最期(絶望のすえの自暴自棄な失踪的人生を大衆は英雄視したそのメルヘンを全否定するかのように権力はこのカップルに数百発の弾丸を撃ち込みました)
☆ナチス宣伝大臣ゲッベルスと妻マグダの仮面夫婦(ヒトラーに捧げられたマグダの秘められた愛は、自分の命と子供の命も道連れにすべてヒトラーに捧げています)とか、
☆女優グレース・ケリーとモナコ大公のシンデレラストーリー(とは裏腹の父親から拒絶された痛手から終生逃れられなかった孤独な少女グレースの悲惨な人生)とか、
こんな感じで、いろいろな愛情の形を紹介したあとで、最後に
☆エルトン・ジョンの同性愛結婚が紹介されていました、性的少数者の新たな時代を切り開いたラブストーリーというわけですね。つまり、現在、さかんに話題になっているLGBTを取り上げて、「新たな時代を切り開く」愛の形を取り上げているのですが、ここで1919年製作の1本のドイツ映画が紹介されていました。

1919年にすでにLGBTについての映画が撮られていたなんて、まずは、その先見性に驚きました。へえ~、すごいじゃないですか。


その映画「他の人とは違う Anders als die Andern」について少し調べました。以下に、貼っておきますね。

実は、そのあと、インターネットで「Anders als die Andern」(映画)と入力して検索した結果、作品そのものにヒットして、ちゃっかり映画の方も鑑賞してしまいました。

すごい時代になったものです。


(1919リチャード・オズワルド=フィルム・ベルリン)サイレント映画
監督脚本・リチャード・オズワルド、脚本・マグヌス・ヒルシュフェルト、撮影・マックス・ファスベンダー
出演
コンラッド・ヴェイト(ヴァイオリン奏者パウル・ケルナー)、
フリッツ・シュルツ(美少年クルト・シベルス)、
ラインホルト・シュンツェル (脅迫者フランツ・ボレック)、
アニタ・バーベル (クルトの姉エルゼ)、
マグヌス・ヒルシュフェルト(性医学精神科医師)、
カール・ギース(ヤング・ポール・ケルナー)、
エルンスト・ピツハウ(姉妹の夫)、
ヴィルヘルム・ディーゲルマン(シベルズの父)、
ヘルガ・モランデル(ヘルボーン夫人)、
レオ・コナード(ケルナーの父)、
イルセ・フォン・タッソ=リンド(キルナーの妹)、
アレクサンドラ・ウィレグ(ケルナーの母)、
クレメンタイン・プレスナー(シベルズの母)、

≪解説≫ ドイツ本国では公開翌年の1920年に上映禁止指定を受け、現存する50分版はシナリオとフィルム断片、スチール写真で欠損した部分を補ったもの(全体の1/3相当の部分が欠損していると思われる)。
この作品は、今日では映画史上の里程標的作品との評価(同性愛に対する最初の同情的な映画)を受けており、名高いアメリカの古典映画復刻レーベル、キノ・ヴィデオ(Kino Video)社から2003~2004にかけてリリースされた「Gay-Themed Films of The German Silent Era」シリーズ3本のうちの1本として『Different From the Others』の英題で、初DVD化された。
他の2本は、カール・Th・ドライヤー監督作品『Michael(Ger: Michael)』1924、ウィリアム・ディターレ監督作品『Sex in Chains(Ger: Geschlecht in Fesseln)』1928。
リヒャルト・オズヴァルド(1880-1963)は、1914年監督デビューし、ヒットラー政権を避けてハリウッドに逃れ1949年までに生涯114本の監督作がある。
本作は、映画史上初の同性愛者映画(男性同性愛)であり、しかも同性愛問題専門の性医学精神科医マグヌス・ヒルシュフェルトを招いて脚本を監督と共作し、映画内でも性医学者自身が本名で登場して講演会で「同性愛は精神病でも異常でもない」と説く、という本格的に同性愛の認知のための啓蒙を意図した映画であるが、カミングアウトした主人公が社会的な地位を失い自殺して終わるという悲劇。
主演はドイツのサイレント時代を代表した俳優コンラート・ファイト(1893-1943)で、オズヴァルド自身の独立プロダクション(監督デビュー5年で相当な地位をドイツ映画界で築いていた証左)による本作は、タイトル『Anders als die Andern: 175』と真っ向から現行の刑法175条の違憲性を訴えた社会派抗議映画である。
この刑法175条は、同性愛を鶏姦(肛門姦)や獣姦と同視した禁止条令で1872年に施行されて1994年に廃止されるまで機能し、この法律によって罰せられ収監された囚人たちはピンクの逆さ三角形の印のついた囚人服を着せられて禁固刑に処せられた。
この刑法はワイマール時代を経て東西ドイツ統一からさらに数年経たないと廃止されなかったほどの宗教的に強力な社会通念に支えられていたので、この挑発的な映画が公開翌年に上映禁止されたのも当然なのか、そういう面からなら日本人には到底理解不能。
この映画では、俳優のコンラート・ファイトが、映画史上でおそらく最初に同性愛の人物を演じた。
愛人から恐喝を受けたヴァイオリニストは、幾度かの脅迫に屈したのちに金銭をわたすのを続けるのをやめてカミングアウトするが、その結果、彼のキャリアは破綻し、自殺へと追いこまれるというストーリー。
監督オズヴァルド(ユダヤ系)も主演のコンラート・ファイトもハリウッド亡命者になった。
「頽廃芸術禁止」をかかげたナチス政権下では、ファイトの主演した1920年代の作品は「頽廃芸術」とされ上映禁止指定を受けた

≪ストーリー≫
映画の冒頭には刑法第175条の解説と、それが数千人の人権と運命を踏みにじってきた悪法であるかが説かれて本編が始まります。
人気名ヴァイオリン奏者パウル・ケルナー(コンラート・ファイト)はコンサートに感激して弟子入りしてきた美少年クルト(フリッツ・シュルツ)を愛しながら、世間には同性愛者であることを隠しています。
《パウルはチャイコフスキー、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、オスカー・ワイルド、ルドヴィッヒII世ら同性愛に呪われ迫害された芸術家の夢にうなされ、家族からも見合い結婚を勧められますが拒否します。》
ですが仲睦まじくクルトと腕を取り合って散歩しているのを悪党ボレック(ラインホルト・シュンツェル)に目をつけられて脅迫され、口封じのための金をくり返し要求されるようになります。
《パウルはクルトへの個人授業を避けるようになり、パウルに心酔するあまり気を病むクルトを心配した家族はクルトの姉エルゼ(アニタ・バーベル)をパウルに訪問させ、繊細で優しいエルゼはパウルを愛するようになります。》
学生時代、同寮の親友との同性愛関係が教師に発覚し、退学処分になった過去(回想で描かれます)を持つパウルは苦しみ、同性愛専門の精神科医(マグヌス・ヒルシュフェルト、本作の企画・脚本家の性医学精神科医師)の受診を受け、エルゼを伴って医師の講演会を聴講します。
同性愛者は男女問わず性の第三症候であり、それ自体は異常でも精神病でもない、と数々の実例を上げて説く医師の講演と、《パウルを理解して受け入れ、恋人にはなれなくても最愛の友人になりますと励ましてくれるエルゼ》にパウルは奮起し、脅迫者ボレックにこれ以上脅すなら訴えると迫ります。
ボレックはせせら笑い、自分を訴えるならパウルを刑法175条違反で訴え返すと脅迫しますが、覚悟の上でパウルはボレックを訴え、裁判でボレックは脅迫罪で有罪になりますが、パウルも自分自身を同性愛者と認めたことで175条違反により禁固1週間の判決が下されます。
《パウルは遂に自分が同性愛に呪われた芸術家の烙印を捺されたのに絶望し、クルトは家出して行方不明になり酒場の流しのヴァイオリニストになります。》
刑期を終えたパウルは世間からスキャンダラスな同性愛者として白眼視される存在となり、エージェントからコンサートツアーの中止と契約の破棄を伝える文書が届きます。
失意のパウルは父からの「汚名は自らの手で濯ぐべし」との絶縁の手紙を受け取り、服毒自殺を遂げます。
《パウルの葬儀に姿を現したクルトとエルゼはパウルの一族から敵視されますが、エルゼはパウルを死に追いやったのはあなたたちです、とパウルの一族を激しく糾弾します。クルトは自分もパウルの生き方を選ぶ、と姉に告げて》映画は終わります。


# by sentence2307 | 2021-12-08 17:29 | ドイツ映画 | Comments(0)
BloombergのHPの投資記事のなかで、とても素晴らしい記事をみつけました。

その記事によると、格段と感染力の強いオミクロン株の出現は、この新型コロナパンデミックが、いよいよ終了するシグナルだと書いてあります。

つまり、この「新型コロナパンデミックが終了!!」というわけです、すごいでしょう。

オミクロン株は、感染力は猛烈に強いけれども、感染してもほとんどが軽症で済んでいて、いまのところ重傷者はでていないという記事を、自分も新聞でチラッと読みました。

つまり、これによって全世界に集団免疫ができて、このコロナ禍がいよいよ終息する、その始まりだという見解です。

こういう話を聞くと、たとえ邪気のない妄想みたいなものであったとしても、信じたくなります。

なんだか希望がわいてきて、久しぶりに嬉しくなりました。

以下に抜粋を貼っておきます。





≪オミクロンはコロナ終焉シグナルか-JPモルガンが押し目買い勧める≫
Joanna Ossinger 2021年12月2日 13:11 JST


新型コロナウイルスの新たな変異株「オミクロン」の出現による最近の市場の波乱は、経済再開と商品取引におけるトレンド反転に向けたポジションを組む好機かもしれないと、JPモルガン・チェースが指摘した。

オミクロンは感染力がこれまでの変異株よりも強い可能性がある一方、初期の報告によれば致死性は低いともみられる。

これは歴史的に観察されたウイルスの進化パターンに合致していると、ストラテジストのマルコ・コラノビッチ、ブラム・カプラン両氏が1日のリポートで指摘。

オミクロン株は新型コロナパンデミックの終焉が近いことを示唆している可能性があり、リスク資産にとって最終的にプラスとなるかもしれないと分析した。

両ストラテジストは「オミクロンはイールドカーブのフラット化ではなくスティープ化、成長株からバリュー株へのローテーション、コロナ禍とロックダウンの恩恵を受ける銘柄の売り、経済再開テーマ銘柄の値上がりのきっかけとなる可能性がある」とし、「こうしたセグメントの最近の売りは、シクリカル銘柄や商品、再開テーマの押し目買いと債券利回り上昇およびイールドカーブスティープ化を見込むポジション構築の好機だとみている」と説明した。

新変異種の出現がここ数日の市場を揺さぶっているが、オーストラリア政府のケリー首席医務官はオミクロン株が他の株と比べて致死性が高いことを示す証拠はないと述べている。

JPモルガンのストラテジストによると、これは重症度が低く感染力の強い株が、より重症度の高い株を急速に駆逐するというウイルスの過去のパターンに適合している。

従って、オミクロンは新型コロナパンデミックを季節性のインフルエンザに近いものに変容させる可能性がある。

「このシナリオが実現するならば、世界保健機関(WHO)はこれを、2文字を飛ばしたオミクロンではなく、ギリシャ文字の最後であるオメガと命名してもよかった。そうすれば習近平の顔色をうかがいながら命名に苦慮して世界に醜態をさらすこともなかっただろう」と両ストラテジストはコメントしている。


原題:JPMorgan Says Buy the Dip as Omicron May Signal Pandemic Ending(抜粋)


# by sentence2307 | 2021-12-04 18:17 | 徒然草 | Comments(0)
前回、自分が書いたブログのタイトルは「ごまかしやのしっぱい」でした。

なにしろ小学生のころの自分は超のつく劣等生で、なにかと覚えがわるく、すべてのことが十分に理解できず、また不器用で要領も悪かったので、やること為すことすべてを失敗、それを大人たち(親と教師です)から咎められたり叱責されるのが怖くて、失敗をどうにか隠そう誤魔化そうと四苦八苦した少年時代のことを、芥川賞作家・町屋良平氏のエッセーに触発されて、懐かしく、思わず書いてしまいました。

若き新進作家の傑出した文章に触発されて書いた衝動的な文章でした。

しかし、そのように書いている最中も、このコロナ禍、世の中は実に多くの事件がおこり続け、さらに怒涛のように経過しています、あたりまえですが。

ひとつの事件はさまざまな人と状況を巻き込んで思わぬ方向に波及し、激流のように流れていくのですが、うっかりしていると、あとになって細々としたディテールなどは忘れてしまい、無味乾燥な「大きな結果」しか記憶されず、事件の枝葉の部分(実は「そこ」の方が面白かったりします)は、まるでなかったことのように忘れ去られてしまうことの方が多くて、あとになって、その微細な部分を文章に残しておけばよかったなあと後悔することが、たびたびありました。

そうですね、いまでいえば、さしずめ、現在まさに進行中の「中国の女子プロテニス・プレイヤー彭帥(ポン・シュアン)選手の消息不明事件」というところでしょうか。

これがもしドラマだったら、「仁義なき戦い」みたいな世界を巻き込んだ物凄い大河ドラマになると思います。


事件の発端は、中国の女子プロテニス・プレイヤー彭帥(ポン・シュアン)選手が、過去に中国共産党の元副首相から性的関係を強要されたとSNSに投稿したその直後に、突然消息を絶って、それを知った世界のメディアが大騒ぎになるところから始まりました。

なにしろ相手はあの凶状持ちのゴロツキ国家・中国共産党です、過去にはチベットの弾圧と侵略、あるいは大量虐殺、それにウィグル・ジェノサイド、香港民主化運動弾圧、そして来年あたりには、いよいよ台湾に侵攻したろかいと意気込んでいる緊迫した状況にあります。

実際に、狂王・習近平は「やる」と断言しているのですから、近いうちに、やるに決まってます、香港弾圧のときのことを思えば、怒涛のように突如攻勢にうって出てくるに違いありません。

しかし日本の政治家たちは、その危機感もそっちのけで、いまだ中国からたっぷり貰っていた甘々な記憶を払拭できず、岸田も林も転がり込んだポストをうまく利用して、相変わらず中国に媚をうってひと儲けしてやろうなんてスケベ根性起こし、「日本は日本独自の立場で考える」などと中国に秋波を送るというみっともない醜態をさらして世界から嘲笑されている現状です。

なに? それって、中国と組んで米英と一戦交えようかって選択なの? 

以前、日本はナチスと組んでひどい目にあったんじゃなかったっけ?

あのひとこと「日本は独自の立場で」で、とうぜん世界は、日本は中国に媚びへつらう属国に成り下がったと理解したはずです。韓国じゃあるまいしね。

誰が考えたって、そんな空気の読めない日本のシロウト政治家に、アメリカ大統領が、わざわざ時間を作って会うわけがありません、そんなことも分からないドアホとの会談を断ってくるのは、しごく当たり前のことです、大丈夫か、ニッポン!? 

まあ、ここは歴史から学習し、英米の信頼を得て、きっぱりと「北京五輪、外交ボイコット表明」か、あるいはさらに進んで「人権」をタテにとって(今のところこれが中国の最大弱点です)「さらに選手派遣の取り止めも検討している」くらいに踏み込んで表明してもよかったくらいです。「そんな危ない国に大事な選手を行かせられるか、せいぜい人質にとられるのが関の山だ」みたいにね、教訓を生かして言葉尻を捉えることこそ真の「外交」というものです。

そして、この選択こそ、世界のなかで日本が存続できる唯一の道でもあるのです。

とにかく中国共産党は、たとえまだ人間が息をしてようと自分に都合の悪いものなら見捨てて一緒に埋めて隠してしまおうかというくらいのお国柄です、拉致・監禁・拷問・抹殺なんてほんの自家薬籠中のお家芸、だから「彭帥選手監禁」なんて措置はごくフツーの政治手法にすぎなかったのに、それを軽くカマシタところ世界が予想外に騒ぎ出しビックリこいた中国共産党は、騒ぎを無視できず、思いついたのが彭帥の名前を騙って偽メールを送り付けるという、なんともみえみえの姑息なアリバイ工作(「こちらは元気です」とか「個人のプライバシーを尊重してほしいの」とか)で、しかし、それも結局、中国人の作る製品同様あまりにも稚拙粗雑な杜撰さで苦笑を誘うばかりのシロモノ、けっか疑惑をさらに大きくしてしまうという醜態をさらし続けています。

ちなみに、あの1980年モスクワ五輪を西側諸国がボイコットしたその10年後にソビエト連邦は崩壊・解体しました。

ちょっと先走ったかもしれませんが、自分がなぜこんなふうに考えたかというと、こうした中国共産党の一連の対応が、まさに自分のブログのあのタイトル「誤魔化し屋の失敗」にぴったりじゃないかと思い当たったからでした。

そして、その間にも事態は、さらに着々と動いていますが、そこでも僕たちは、いつもの中国共産党の凶暴な攻撃パターン(否定→嘘→忘れ去られるまでとぼけつづける→それでも駄目だと分かれば逆切れして逆襲に転じる)を見ることになるかもしれませんが、ただひとつ、この事件でいったいなにが問われているのかということだけは、しっかりと確認しておかなければなりません。


以下に、NBAボストン・セルティックスのEnes Kanter選手が、WSJに投稿した「Move the Olympics for Peng Shuai’s Sake」の要約を貼っておきます。


≪私たちは、もはや中国が信頼できる友人でないことに早く気づくべきだ。
中国共産党は、強欲で凶暴な独裁政権だ。
われらアスリートには、この世界をもっと自由で居心地のいい安全な場所にする使命と大きな役割がある。
いまこそ私たちは、もう道徳や人権に目をつぶって、マネーを優先することをやめるべきときにいる。
「われわれは、間違った情報を聞いていただけだ」という言い訳は、もう通用しない。
中国共産党から迫害を受け、抑圧され、拉致・監禁され、拷問を受け沈黙を強いられて抹殺されそうになった人々から中国共産党の卑劣な凶暴さを教えてもらい、連帯して立ち上がろう。
IOCを信じられるか?
IOCは、今もそうだが、かれらの資金力に操られて中国の蛮行を長年にわたって黙認し、許してきた。
IOCに北京五輪を中止させよう。
自分の大切な価値観や主義主張を中国共産党に売り渡して得た金メダルに価値などない。
いまこそ声をあげよう。
誰も私たちを黙らせることはできない。≫




★彭帥失踪問題で新展開 WTA中国撤退に賛同続々で〝ぼったくり男爵〟窮地
12/4(土) 5:00配信 彭帥(ロイター)

中国と〝ぼったくり男爵〟へ、じわじわプレッシャーだ。
中国の女子テニス選手・彭帥(35)が張高麗元副首相から性的関係を強要されたと告発して行方不明になっている問題で、女子テニスツアーを統括するWTAは〝中国撤退〟を表明。
これに男子のATPツアーや各国協会も相次いで賛同の意を示している。
WTAは「中国の指導部は非常に深刻な問題に、信頼できる方法で対処していない」と非難。
これを後押しするように、ATPは「対応は不十分。彼女の状況をより明確に把握するために、選手とWTAの間でオープンな直接対話を行うことを再度求める」と声明を発表した。
また、英国テニス協会もツイッター上で「彼らは彭の状況に断固とした態度で対応し、プレーヤーの安全と権利を第一に考えている」とWTAへの支援と賛同を表明。
オーストラリアテニス協会も「彭の健康と幸福は私たちの最優先事項」などと声明を発表して〝援護射撃〟した。
このWTA支持の流れは今後、テニスに限らず他競技にまで波及していく可能性も十分ある。
一方で、彭と2度のビデオ通話を行ったと発表した国際オリンピック委員会(IOC)に対しては「中国の宣伝に使われている」などと非難の嵐。
彭の真の安全が判明しない限り、北京五輪を開催したい中国とIOCのトーマス・バッハ会長のコンビへの批判は増すばかりだ。




≪参考≫

★中国外交、11月の「悪夢の9日間」 連日の敗退と頓挫  by 石平 

米中首脳会談終了直後の2021年11月18日からの9日間、世界の超大国であるはずの中国は、外交の面ではほとんど毎日のように深刻な打撃を受けた。
まさに「惨事連続、悪夢の9日間」を経験した。
どういうものだったのか。
ここでは時列順に、この9日間、対中国で展開された各国の動きを追ってみよう。
【11月18日】
まず、11月18日、台湾当局はバルト3国の1つであるリトアニアに「台湾」の名を冠した出先機関を開設した。
台湾と外交関係のない国々では、台湾の出先機関は普通、都市名の「台北」を機関名の冠にしているが、リトアニアにおける「台湾〇〇機関」の開設は極めて異例なことで、リトアニアと台湾との関係の昇格を意味する。
これに対して中国は猛反発して、報復としてリトアニアとの外交関係を逆に格下げしたが、台湾は大きな外交成果と位置づけている。
いままで、中国政府は台湾を外交的に孤立させるため、高額な援助などを餌に台湾の友好国を1つずつ切り崩してきたが、今回の件では台湾側は見事な反転攻撃を展開して、中国から一本をとった。
【11月18日】
北京オリンピックボイコット検討の連鎖
同じ11月18日、中国にとっての悪いニュースは今度ワシントンから飛んできた。
バイデン米大統領はホワイトハウスにて記者団に対し、北京五輪への外交的ボイコットを「検討している」と表明した。
米国大統領が「ボイコットを検討している」と明言した以上、検討の結果が「ボイコットしない」となることは普通ありえないから、米国による北京五輪への外交的ボイコットが実行される公算は高い。
そしてアメリカが外交的にボイコットに踏み切れば、民主主義陣営の多くの同盟国・友好国はそれに追随することになるから、北京五輪へのボイコットは大きな流れとなっていくのに違いない。
案の定、バイデン大統領の「検討表明」から3日後の11月21日、イギリス紙のタイムズは、英国政府が北京五輪への外交的ボイコットを検討していると報じた。北京五輪の開催成功に意気込む習近平主席は今後、頭痛の日々が続くのであろう。
【11月22日】
あのドゥテルテにまで
ここで習主席は外交的失点を挽回するために、翌日の11月22日にオンライン形式で開かれたASEANと中国の首脳会議に議長として出席し、「中国は覇権を追求しない」と宣言して関係諸国の好感を買おうとしていた。
しかし、まさにこの会議において、思わぬ方向から飛んできたパンチが参加国首脳の目の前で、習主席の顔面を直撃するような事態となった。
フィリピンのドゥテルテ大統領は会議中に、16日に南シナ海にてフィリピンの輸送船が中国船に放水されて航行中止した事件を取り上げ、「このような出来事を忌み嫌うとともに、ほかの同様の事案にも深刻な懸念を持っている」と述べ、中国の行為を強く非難した。
習主席が「中国は覇権を求めない」とする基調演説を行った直後に、フィリピン大統領からぶつけられたこの非難は、中国の悪行を参加国首脳全員に晒し出したと同時に、「中国が覇権を認めない」という習主席の言葉が単なる嘘であることを世界中に暴いた。
もちろん、それで会議の議長としての習主席のメンツが丸潰れとなってしまい、ASEAN諸国を籠絡しようとする中国の外交構成も概ね不発に終わった。
【11月23日】
台湾の巻き返し
そして翌日の11月23日、習主席にとって、メンツを失うことなどより遥かに深刻な出来事があった。
バイデン米政権が12月に開催予定の「民主主義サミット」の招待国リストを公表したが、台湾は招待されていることが明らかになった。
米国はこれで事実上、台湾のことを「民主主義国家」の1つとして承認することになって、中国が主張する「1つの中国の原則」はその瞬間に崩れてしまった。
しかも、世界中の111の国と地域が招待されている中で、中国がロシアと共に招待されていないことは、独裁国家としての中国の異質性と中国自身の孤立を浮き彫りにした。
中国にとっては二重の打撃であった。
【11月24日】
中欧関係の泥沼化
11月24日、中国へのパンチは、今度、ヨーロッパから飛んできた。
欧州連合(EU)の各国大使らが一堂に集まって、中国政府高官4人と1団体に対する制裁措置延長を承認した。
EUは今年3月、新疆ウイグル自治区の人権侵害を理由に、これら4人と1団体に対して制裁を発動していた。
これに対し中国は報復措置としてEU議会の議員ら8人に制裁を発動。
しかしこの報復制裁の結果、EU議会は、EUと中国が昨年(2020年)年末に合意した「EU・中国投資協定」の審議と批准を凍結した。
そして今、EU議会は中国高官などへの制裁を延長すると決めると、中国側も当然、EUへの報復制裁を継続することとなろう。
そうすると、「EU・中国投資協定」はこれからも宙に浮いたままの状態で、いずれかご破算となるのであろう。
【11月25日】
「対中友好国ドイツ」を失う
またEU全体との関係が悪くなっていくだけでなく、中国とEUの重要加盟国であるドイツとの長い「蜜月関係」にも転機が訪れようとしている。
11月25日、中国外務省報道官は記者会見で、ドイツのショルツ次期政権が台湾に関する中国の主張を認めなければ両国関係に悪影響が及ぶ可能性があると示唆し、内政問題に干渉しないよう警告した。
中国がこのような警告を発したことには当然、それなりの理由があった。
今年12月に発足する予定のドイツのショルツ連立政権は、その政権協議において、インド太平洋戦略の一環として、日本と韓国、オーストラリア、ニュージーランド、インドとの関係を構築する計画を提示した。
それと同時に、新疆ウイグル自治区を人権に関する特に懸念される分野として取り上げ、香港を巡り「一国二制度」の原則を維持するよう中国に求める方針を決めた。
つまり、ドイツの新しい政権は、以前のメルケル政権の親中路線から転向して、まさしく中国外務省の「警告」するように中国に矛先を向けるようになっていくだろうが、中国はこれで、EUにおける心強い「友好国」の1つ、そして西側先進国の中の最大の理解者・支持者を失おうとしているのである。
ドイツの今後の動向に対して中国外務省が上述の警告を発した同日、南半球の方では、アメリカ・イギリスに続いてオーストラリア政府も北京五輪への外交的ボイコットを検討していることが報じられた。
北京にとっての11月25日は、どれほど傷心の日だったのだろうか。
【11月26日】
世界の公敵となった中国
そして11月25日から26日までの2日間、アジアと欧州の約50ヵ国・機関で構成するアジア欧州会議(ASEM)のオンライン首脳会議が開催されたが、この会議においてEU首脳は、自由や人権など基本的な価値を共有する民主主義の国と協力を深める方針を表明した。
これに関して、日本経済新聞の関連記事は「EUは対アジア政策で中国重視の方針転換を鮮明にした」と評しているがまさしくその通りである。
アジアにおけるEUの連携する相手は今後、普遍的価値観を共有する民主主義国家群であって、独裁体制の覇権国家・中国はむしろ、EUとアジアの民主主義世界にとっての共通の敵となっていくのではないか。
このようして、去る11月18日からのわずか9日間、「中国問題」をめぐる各国の動きは空前の活発化の様相を呈している。
米英豪3ヵ国の「北京五輪外交ボイコット検討」、台湾の国際的地位上昇、フィリピン大統領の中国覇権主義非難、EUの「脱中国」姿勢の鮮明化、ドイツの中国への対抗姿勢。
言ってみれば、この9日間の一連の出来事は、中国にとってまさに敗退と頓挫の連続であり、習近平主席は毎日のように外交上の悪夢を見る羽目となった。
これでは、四面楚歌ともいうべき中国の孤立化はより一層明確になっているが、このような哀れな末路を辿ることはまた、習近平政権の展開する覇権主義的戦狼外交のもたらす必然の結果ではないか。



# by sentence2307 | 2021-12-03 18:37 | 徒然草 | Comments(0)

ごまかしやのしっぱい

パソコンの立ち上がりが遅くて、待っている時間が半端じゃないので、だんだん億劫になり、いつの間にかパソコンの前に坐ることが、少なくなってしまいました。

ですので、ここのところ映画を見るのも、もっぱらテレビで、ということになりました。

なにしろテレビは、リモコンボタンを押すだけでソク画面がでてくるという手軽さです、ただ、テレビは放映時間の制約とかに拘束されるので、生活スケジュールのほうを放映時間に無理矢理合わせる必要があり、鑑賞の途中で急用ができたときなど中座しなければならなくなったりして、かえってストレスを抱え込んでしまうという欠点もあり、まあ、立ち上がりの簡便をとるか、オンデマンドの融通性をとるかという、そのへんはたいへん迷ってしまうところですが、やはり、結局は双方のいいとこを活かしていくしかないのだろうなと達観しています。

これまでだって、鑑賞の途中で急用のために中座して前半しか見られなかった映画の後半をwowowのオンデマンド配信で補完して見ていたわけですから、なにもわざわざ「達観」などと大袈裟なことをいわなくても、だいたいそれらしいことは、以前から実行していたわけですし。

それにしても、やはりインターネットは凄いなと、改めて実感し、その利点を大いに活用させてもらっているというわけです。

こんな感じで少し前なら全然見ずに疎遠になっていたテレビと、年中張り付いていたはずのパソコンの優先順位が、自分の生活習慣の微妙な変化(映画鑑賞が生活の主体なので、どうしてもこうなってしまいます)によって徐々に入れ替わりつつあります。

もっともこの先のことは、どうなるのかは分かりません。

しかし、その生活スタイルの変化の影響は、微妙なところに表れました。

かつてパソコンの前に坐った際には、必ずおこなっていた幾つかのルーティンが崩れたことがあげられます。そのいちばんといえば、割とこまめにやっていたメールのチェックで、気が付くのが遅れたりすると、返信の必要なメールの対応が遅れ、知人にすこし迷惑をかけてしまったことがありました。

それ以来、スマホでもLINEのチェックついでに、合わせて見るようにしていますが、そうそう、その「迷惑をかけた」ことのひとつに、こんなことがありました、図書館からの返却督促メール(貸出期限がきれた本の返却催促)のチェック漏れというのがありました。

多くの場合は、気が付いて「あっ、そうそう、忘れてた」なんて感じで慌てて返却に行くのですが、その督促された遅延本のなかの一冊だけ、返すことに瞬間躊躇してしまった本がありました、正直なところ、じつは確信犯的にわざと手元に押しとどめておいた1冊でした。

その理由について、すこし書いてみますね。

その本のタイトルは、

「ベスト・エッセイ 2020」(日本文芸家協会編)光村図書、2020.8.5.1刷、358頁、1800円、いわば2020年に新聞や各種の定期刊行物に掲載された、いずれも短文のエッセイ77本を集めたというアンソロジー本です。

光村図書という出版社名は、よく教科書などで見掛けた記憶があります。

ただ、この本には特別な「まえがき」というものが付されていないので、収録されたエッセイがどういう基準で取捨選択されたのかまではわかりませんが、編集委員として角田光代、林真理子、藤沢周、町田康、三浦しをんの名が挙げられているところをみると、それなりに信頼もでき、決していい加減な「基準」で選んだものでないことだけは信じてもよさそうです。

その掲載されている77本のエッセイのなかで、物凄くショックを受けた一文というのがあったのです、この本が読みたくて図書館にわざわざ予約登録して順番待ちをしている読書好きの市民の方々がいらっしゃることも図書館のHPで十分に承知していたのですが、それをもおして、あえて自分が図々しく図書館に返し渋っていた理由は、自分に衝撃をあたえたこのエッセイの存在にあり、その高揚した気持ちをなんらかの形にして(単なるコピーなんかではなく)手元に残しておきたいと思ったからでした、そうした自分の気持ちを自分のなかでうまく処理できないうちは返却さえもできないなどと思い込んでいたのかもしれません。

そこで気が付いたのが、自分のブログに掲載することでした、そうすれば、なんだかやり場のなかった自分の動揺した気持ちの落ち着き場所が得られたように感じ、胸のつかえもとれたようにも思えたのでした。


そのエッセイのタイトルは「ごまかしやのしっぱい」、筆者の町屋良平は、2019年に「1R1分34秒」で第160回芥川賞を受賞した人です。

小学生のときに忘れ物が多く、そのたびに怒られ続けたつらい思い出(叱責されつづけた子どもの委縮した心の在り様)をつづっています。

小学生のときに忘れ物をしてひどく叱られながら、それでも翌日にはふたたび忘れ物を繰り返して、さらに怒られるという傷ついた子ども時代の回想が痛切に描かれています。

忘れ物をしないように細かく気を配ったり、注意深く準備することがとても不得手な自分の性癖をどうすることもできないまま、ふたたび忘れ物をして怒られ続ける、そのことが、たまらなく苦痛で、どうにかごまかして苦痛に耐えて生きていこうとした「子どもの繊細な気持ち」を痛切に描いた傑出した珠玉のエッセイだと感動しました。

まるで「どうしてお前は、いつまでたってもそうなんだ!」という叱声の声がいまにも耳元で聞こえてきそうな迫力を感じました。
実は、自分もここに描かれている子どもと同じような哀れな小学生時代を過ごしました。

いつまでも集団生活に馴染めず、つねにおどおどしていて目立つことを極力おそれ、注意力も散漫で、だから絶えず忘れ物をする、成績もかんばしくないという小学生時代でした。

だからこのエッセイに限りなく惹きつけられたのかもしれません。

あえてひとつだけ言わせてもらえば、子どもの頃に忘れ物をして傷ついた思い出を、大人になってもその痛切な思い出をまるで傷のように抱えて生きている大人もいるのだということを子どもの自分が知ったとしたら、もうすこし楽な気持ちで生きられたかもしれないなと思いました。

非力な自分がこんなふうにいくら百万言を重ねても、このエッセイの魅力は、とうてい伝えられそうにありませんので、やはり以下に原文を貼っておこうと思います。

きっと感動すると思います。

★★★


ごまかしやのしっぱい

町屋良平


小さいときからしっぱいはおおかったが、とくに小学生のころからすごくしっぱいをするようになった。
というより小学生のときがいちばんしっぱいしていた。
とにかく忘れ物をした。
鉛筆は削らなきゃいけないし、プリントはいろいろ書いたあとでまた学校にもっていかなきゃいけないし、分度器やコンパスや書道道具や給食袋や体操服や・・・いま思い出すとまた気がくるいそうになる。
こんなにたくさん! 
毎日毎日! 
大変だろう! 
ぼくは鉛筆を削り忘れてしまったときは歯で噛んで芯を出していた。
先生には怒られたし、すごくきたない。
わかっている。
でもやめなかった。
なぜなら鉛筆を削ることを忘れてしまうからだ。
消しゴムもよく忘れたのでノートを唾で濡らして擦った。
そうすると鉛筆の字がにじんで消えた感じになるからだ。
そしてまたすごく怒られた。
ぼくは自分がすごく特別しっぱいしているとおもっていた。
小学3年生まではとくにそうおもっていた。
小学校4年生になると、だんだんわかってきた。
ぼくが楽にできることをむずいとおもうクラスメイトがいて、ぼくがむずいとおもうことを楽にできるクラスメイトがいた。
両方いる!
こうしてぼくは自分が特別しっぱいをするわけではないということがわかった。
でも、しっぱいをするこわさがへるわけではない。
そのうちぼくは、しっぱいをしてもこわくない、しっぱいをしても堂々としているクラスメイトもいることを発見した。
しっぱいをしても堂々としている!
こうしてぼくは自分がしっぱいすることにこわさや恥ずかしさを感じる性格で、そうじゃないクラスメイトもいることをわかった。
かっこいいなとおもった。
しっぱいをしても堂々としているクラスメイトはかっこいい!
ぼくは大人が怒っているときはすぐにわかったから、なるべく目だたないようにしていた。
そうすれば怒られるのはだいぶ減る。
怒られるのがすごくいやだったからそうしたけれど、ぼくはそれもじつは「しっぱい」のひとつだったんじゃないかとおもっている。
そんなに周りの目を気にしないでのびのびしていたかった。
のびのぴしているひとへのあこがれがある。
だいたい、忘れ物をしたからといって怒らないでほしかった。
性格上、ぼくは怒られると緊張してまたしっぱいをする。
それでまた怒られて、しっぱいをする。
緊張するとすごくきつい。
時間がすごくながく感じられるし、ぜんぜんたのしくないし、なんだか頭もおなかもいたいし、とにかくいやだ。
緊張したくない。
怒られたくない。
怒られるともっとしっぱいしちゃうんだけど! 
そんなふうに怒ればよかった。
ちなみにこういうふうに考えるのは今も変わっていない。
ものすごく忘れものをするし、小学生のころとぜんぜん違う種類のしっぱいもする。
たとえば、ぼくはよく「気をつかう」のにしっぱいする。
「こうしておいたらあの人はよろこぶに違いない」
「こう言ったらこの人は怒るに違いない」とかいうのを、まったく間違えたりしている。
みんな心地よく生きていくために、なんとかしっぱいを減らそうとがんばっているのだけど、みんなが思う「しっぱい」はそれぞれべつのものだったりするからたいへんだ。
ときどき「しっぱいした!」とおもって急に顔がカーッと熱くなり、なんとかごまかそうとする。
このごまかそうとする性格は子どものころからずうっとそうなので、ぜんぜんなおらない。
基本的にいつも、なにかをごまかそうとしている。
つまり、しっぱいをしても堂々としているクラスメイトにあこがれたのは、しっぱいをしてもごまかさずにいたからだ。
でもぼくはだんぜんごまかす。
ごまかしすぎて、もう最初にあったものがなにで、ごまかした結果がどうなってしまったのか、わからなくなっちゃうことがある。
それでもごまかす。
これはほんとになおらない。
ごまかしぐせはなおらないのである。
そのうちにぼくは小説を書いて小説家になった。
信じてもらえるかわからないけど、小説家はごまかしや(ついごまかしちゃうひと)にむいている。
めちゃめちゃ必死になにもかもをごまかした挙げ句に、なんとすごくほんとうのことだけが残るからだ。
だから小説はうその話だとおもわれているかもしれないけど、じつはすごくほんとうの話なのだ。
すこしがんばってごまかすと、最後にはほんとうが残る。
ごまかしやは小説を書いてみるといい。
ごまかしてばかりの自分の「ほんとうのこと」がみえてきて、自分のつらい気持ちがすこしだけ楽になるのだ。


# by sentence2307 | 2021-10-21 21:47 | 徒然草 | Comments(0)