その関心は現在も継続中の状態で、少しずつ関係の本を読みながら、新たな情報に出会えば、細かいことでも(「単語」とか「言い回し」に至るまで)、グズグスと密かにブログに書き加えています。
なんだか諦めの悪い性分がモロに出てしまっているようで、少しきまりが悪いのですが、でも、この未練がましく同じ場所をいつまでもうろうろと堂々巡りしている理由は、「伊藤永之介」という作家を、自分がいままでまるで知らなかった未知の人物だったからで、「もっと知りたい」という好奇心が、このコダワリをいつまでも持続・増幅させているのだと思います。
そうこうしているうちに分かったことが二、三ありました。
まず、映画「鶯」において、とても感心した手法、多くの登場人物が入れ替わり立ち替わり現れては消え、別に誰といった主役が特定されているわけでもないのに、複数の人物を上手にさばいて物語を少しずつ進行させるという手際の良さがあって、これなどは、原作者・伊藤永之介が考案した「集約的リアリズム」という手法そのままの方法だということを知りました。
貧しい農民たちの多様な悲惨を広く目配りできるように工夫された文学手法だと知って、なんだかヤタラ感心してしまったのだと思います。まるで「貧農交響楽」みたいな気宇壮大な感じを受けました。
その関連から、今回、はじめて分かったのですが、久松静児監督の愛すべき佳作「警察日記」1955も伊藤永之介の原作を映画化したもので、そういえば、なるほど、舞台は派出所、狂言回しが警察官ということで(しかし、彼は主人公ではありません)、そこに訪れる愛すべき無知と純朴、そしてコズルイ狡猾さまで兼ね備えた多士済々の村人たちが、ひと騒動もふた騒動も引き起こすなども「鶯」と一致しますし、それぞれの猥雑にして人情味あふれるトボケタ人物設定も共通しています。このことだけでも、伊藤永之介という作家が独特の愛され方で人気を高めていたことが分かります。
なんか、そういうホンワカとした柔らかい雰囲気から、イメージとしては、思わず木山捷平とか井伏鱒二などを連想してしまいがちですが、ところが「さにあらず」、伊藤永之介という作家は、プロレタリア文学に列する「農民文学者」という立ち位置なのだそうです。
へえ~、これはまた意外でした。小説を読んだ感じでは、確かに筋立ては農民の極貧生活の苦難を描いて辛辣です(代表作といわれる「梟」などは、幼い子供を抱えた農家の主婦が、夫は村の未亡人に入れ込んで家に寄り付かず、凶作でコメの収穫を断たれたうえに借金も断られて遂に食う物は尽き、飢えた子供たちに泣かれるのが辛く耐えきれずに、闇夜に地主の蔵から米を盗み出すところを作男に見とがめられて遂に八方塞がり、身動き取れず致し方なく縊死するというなんとも遣り切れない悲痛なエピソードもあったりします)、しかし、その言い回しには突き放したような諧謔と不思議なユーモアがあるので、題材の刺々しさは割合に和らげられ、印象としては深沢七郎をもう少し柔軟にした私小説タイプの作家なのではないかなという感じを持ったのですが、実はなんとゴリゴリのプロレタリア作家にして農民文学者だったとは意外だったのです。
そんな経緯もあって、自分の蔵書のなかで伊藤永之介が掲載されている本を幾冊か引っ張りだしてきて、少しずつ読み始めました。
その本というのは、こんな感じです。
★昭和小説集(1)、現代日本文学全集88・筑摩書房、昭和32.5.5.1刷、429頁・・・小さな活字が3段に組まれており、しかも400頁以上もあるというボリュームで、とても読みでのあるむかしから有名な筑摩の文学全集です、近所の古書店の店頭のワゴンで1冊100円で売っていたのを買いました。昭和初期のプロレタリア文学、農民文学隆盛だった時期の重要な作家たち25人の28作品を読むことができます。具体的な作品は、他の文学全集の掲載作品とダブル部分もあるので、取りまとめて後述しようと思います。
★名作集(3)、日本の文学79・中央公論社、昭和45.9.5.1刷、533頁・・・日本文学全集の定番といえば、青色を基調にしたこの中央公論版でしょう、片手で持ててどこでも気楽に読めるので、とても便利です。「名作集(3)」というのは、つまり明治、大正と続いての「昭和初期・名作集」ということで、その時期に活躍した19人の作家の作品が掲載されていますが、選択のジャンルの幅を広げたために総花的な選択になってしまい、プロレタリア文学、農民文学に特化した前記の筑摩版からすると若干の物足りなさは否めません。
★前田河廣一郎・伊藤永之介・徳永直・壷井栄 集・現代日本文学大系59・筑摩書房、平成12.1.30.13刷、458頁・・・こちらは新しい筑摩の文学全集で、奥付には「平成12年」とありますが、それは13刷だからで、もともとの初版は昭和48年、いまから思うと、前出の「現代日本文学全集」旧版の方にむしろ年代的には近かったことに意外な感じを受けます。隔世の感、というのは、こういうことを言うのかもしれません。こちらは伊藤永之介の世評の高い「梟」「鴉」が掲載されているので引っ張りだしました。
その他の4冊は、「これなんかどうなの」と迷いながら念のために持ち出しただけで、「なにもそこまでやることはないか」という感じもありました、たぶん今回は参考にしない可能性の方が大きいと思います。
★葉山嘉樹・小林多喜二・徳永直 集・現代文学大系37・筑摩書房、昭和41.2.10.1刷、505頁、430円
★日本プロレタリア文学選2・蔵原惟人監修・新日本出版社、1974.8.20.2刷、395頁、900円
★平林初之輔・青野季吉・蔵原惟人・中野重治 集・現代日本文学全集78・筑摩書房、昭和32.11.10.1刷、423頁、350円
★共同研究 転向2・戦前篇(下)・思想の科学研究会編・東洋文庫818・平凡社、2012.2.24.1刷、366頁
★吉本隆明全著作集13・政治思想評論集・勁草書房、昭和51.2.10.2刷、700頁、2000円・・・最後には吉本隆明の転向論を駆使して、ここはいっちょ、ちゃぶ台返しでもやらかしてみようかなどと邪悪な誘惑に駆られて準備した本です。
まずは、前記「文学全集」3冊に収載されている小説をシャッフルして整理してみました。五十音順です。プロレタリア文学だとか農民文学だとかにこだわらず、先入観なしに、頭から読んでいって、感銘を受けた作品にはシンプルに「◎」を付しました。
淺原六朗「混血児ジョオヂ」(昭和6)
池谷信三郎「橋」(昭和2)
伊藤永之介 ◎「鶯」(昭和13) ◎「梟」(昭和11)「鴉」(昭和13)
犬養健「亜刺比亜人エルアフイ」(昭和4)
岩倉政治 ◎「稲熱病」(昭和14)
岩藤雪夫「ガトフ・フセグダア」(昭和3)
岡田三郎 ◎「三月変」(昭和4)
小田嶽夫「城外」(昭和11)
片岡鐵兵「綱の上の少女」(大正15)「愛情の問題」(昭和5)
北原武夫 ◎「妻」(昭和13)
金史良「光の中に」(昭和14)
久野豊彦「ボール紙の皇帝万歳」(昭和2)
黒島傳治「橇」(昭和2)「渦巻ける鳥の群」(昭和3)
今東光「痩せた花嫁」(大正14)
佐佐木俊郎 ◎「熊の出る開墾地」(昭和4)
里村欣三「苦力頭の表情」(大正15)
下村千秋 ◎「天国の記録」(昭和5)
神西清「垂水」(昭和17)
須井一 ◎「綿」(昭和6)
芹澤光治良「ブルジョア」(昭和5)
髙橋新吉「預言者ヨナ」(昭和3)
立野信之「軍隊病」(昭和3)
田畑修一郎 ◎「鳥羽家の子供」(昭和7)
壷井栄「妻の座」(昭和22)「大根の葉」(昭和13)「風」(昭和29)「日めくり」(昭和38)
坪田譲治「風の中の子供」(昭和11)
鶴田知也「コシャマイン記」(昭和11)
十一谷義三郎「あの道この道」(昭和3)
徳永直「太陽のない街」(昭和4)「他人の中」(昭和14)「あぶら照り」(昭和23)
富ノ澤麟太郎「流星」(大正13)
中村地平「南方郵信」(昭和13)
橋本英吉 ◎「欅の芽立」(昭和11)
深田久彌「オロッコの娘」(昭和5) ◎「あすなろう」(昭和7)
藤澤桓夫 ◎「大阪の話」(昭和9)
北条民雄 ◎「いのちの初夜」(昭和11)
保高徳蔵 ◎「或る死、或る生」(昭和14)
本庄陸男「白い壁」(昭和9)
前田河廣一郎「三等船客」(大正11)「赤い馬車」(大正12)「せむが(鮭)」(昭和5)
森山啓「遠方の人」(昭和21)
龍胆寺雄「アパアトの女たちと僕と」(昭和3)
和田傳 ◎「村の次男」(昭和13)
感銘を受けた作品に「◎」を付した結果を改めてみてみると、自分的には「農民文学って意外に好きかも」という結果にはなったような感じですが、さらに、「いい感じ」な作品を絞り込んでいくと
岡田三郎 ◎「三月変」
北原武夫 ◎「妻」
下村千秋 ◎「天国の記録」
田畑修一郎 ◎「鳥羽家の子供」
北条民雄 ◎「いのちの初夜」
と、こうなります、もし「◎」よりも上のランクの印があれば、そちらを付けたいくらいの魅力ある作品だったところをみると、やっぱり自分は、プロレタリア文学や農民文学には、一定の距離をとっているのかな、という感じです、特に田畑修一郎の「鳥羽家の子供」なんか、芥川龍之介の名作「玄鶴山房」と思わず比較してみたくなるような凄みと迫力を感じましたし、北原武夫の「妻」は、戦後の荒廃を前のめりになって生き急いだ田中英光の諸作品を思わせるような焦燥と自傷・破滅願望を彷彿とさせ好感をもちました。
まあ、こうやって、あちらこちらと寄り道しながら、昭和初期の小説を読んだり、文学状況を解説している本を漁っていたのですが、そんなときにある本に遭遇しました。
川西政明の「新・日本文壇史 第4巻・プロレタリア文学の人々」岩波書店、2010.11.26.1刷、308頁、2800円、です。
書名のサブタイトル「プロレタリア文学の人々」につい惹かれ、役に立つ記事でもあればチョイスしようと手に取ったのですが、目次を見て驚きました。
「第21章 忘れられた作家たち」の内容は、夭折の女流作家・素木しづについて書かれている部分と、藤澤清造について記されている部分で構成されていて、藤澤清造の部分については、
「大正の奇人 藤澤清造ゴシップ集 親友安野助太郎の縊死 芝公園内での凍死」
などと具体的な言葉が暗示風に記されていました。
しかし、考えてみれば、いままで自分は、藤澤清造について知っていることといえば、没後弟子・西村賢太が書いたものと、それから2冊の文庫本「根津権現裏」(新潮文庫)と「藤澤清造短篇集」(角川文庫)からの得た知識しかなかったことを、この本を読んでみて、改めて気づかされました。
知っていることと言えば、せいぜい「芝公園内で凍死」し「身元不明人として(一般行旅病者の行き倒れ、つまり野垂れ死にです)」警察の方でさっさと死体処理されてしまったことくらいで(「くらい」って、これだけで、そうとう壮絶な話になってます)こんなふうに生々しく人物紹介された記事に初めて遭遇したので衝撃を受けたのだと思います。
しかし、なにせ「もの」は、一種のコラムなのですから、リアルを突き抜けて「揶揄」とか「風刺」とか「こきおろし」なんていう脚色もなきにしもあらずで、ときに応じて「眉唾」や「色眼鏡」の小道具を用意して読むくらいの心得は当然要求されるところではあります。
【藤澤清造の人柄】
藤澤清造は毒舌家として知られた。人を人と思わなかった。雑誌の座談会で面と向かって相手を痛罵した。自己尊大にふるまった。大家を大家として扱わなかった。金のある奴から金を毟り取るのは当たり前だと考えた。
巻き舌で喋りまくり、漆黒の髪はオールバックにして、浅黒い顔に鷲鼻がでんと坐り、眼は底意地悪く三白眼で、狭い額は短気を表し、への字の唇は厚く、喋るたびに唾を飛ばし、涎を垂らしていた。
その巻き舌は下町の大工のように、下品で、伝法で、恐ろしく口が悪いと評判であった。
着物はお召しの絣に、濃い茶無地の縫い紋付、それにぞろりとお召しの袴をはいて、足袋は紺キャラコという一分の隙もない風采だ。
そのくせ、部屋は驚くほど綺麗に片付けられており、塵一つ落ちていない。机の上にはいつも真っ白な原稿用紙が置いてあり、部屋にはそれ以上の装飾がなにもない。外出から帰ると、一張羅の羽織、着物、袴を寝押しする。ふだんは黒襟のかかった丹前を着て、長煙管で葉タバコを吸いながら、いつ終わるとも知れぬ文学談に耽る。
自他共に認める変わり者であったが、本人が一番気に入らないのは、自分の顔への不満や衣食住の不足ではなく、文壇の時流に乗ろうとして乗り切れず、猫額のような、鷲鼻のような、俗受けのしない貧乏と病苦と娼婦買いの話しか書くことのない自分の小説そのものであった。
威勢がよいときはよろしい。威勢がなくなると反動がひどい。たちまち口をきわめて罵倒される。しっぺ返しをうける。
大正の世になると、新聞は文士の消息を載せ、雑誌は文士のゴシップを載せた。文壇が世俗化し、文士の一挙手一投足に人目が集まるようになった。
文壇が大衆化したのである。そういう時、世俗に外れた異端者の存在は一種のトリックスターに変貌する。
こういう変人を愛惜する人が後世にあらわれる。そしてそのゴシップ集を編むに至った。その幾つかを紹介する。
「なんだ菊池。弱いくせに、また負かされようてのか」
将棋盤をはさんで、菊池寛を呼び捨てに、大口をたたいている新進作家。が、菊池の方が駒を四枚おろして勝負している。「藤澤清造、酒飲むか」ときいてやると、「当たり前だ」と応じた。菊池が店の女に「酒を少し」と命じる。と、間髪を入れず「少しじゃねえ、どっさりもってこい」と言って、注文し直させた。久米正雄も山本有三も呼びつけである。
中村武羅夫に面と向かって「おい中村! 文壇の大久保彦左衛門は俺だ。それをお前が彦左衛門などとはけしからん」と藤澤が喰って掛かったことがある。
中村は「新潮」を一流文芸誌にした編集長であるだけでなく、「渦巻」「群盲」などの小説を新聞に連載して人気作家にもなっていた。「文芸春秋」に対抗、傘下の若手作家を糾合して「不同調」を創刊しようとしていた頃である。
中村が「お前を一心太助にしてやろう」と応じると、「厭だ、お前の下につくようなものじゃないか」「彦左衛門ならいいだろう」と妥協すると、「彦右と彦左とどっちが上なんだ。それを聞いたうえでなけりゃ承知せん」となお言っていた。
【藤澤清造、最期の日々】
大正14年12月、藤澤は玉の井辺で娼婦をしていたことのある早瀬彩子と東京府豊多摩郡上荻窪六百六番地で所帯を持った。この頃が藤澤の最盛期で、この後、だんだんと坂道を転がるように落ちていった。私小説の悲しさか、種がないと書けない商売であった。
昭和6年11月23日、藤澤と彩子は根津権現にほど近い東京市本郷区根津八重垣町四十番地大沢方の二階に引っ越してきた。四畳半と三畳の二間で月12円の約束だった。
同年4月頃から骨髄炎の痛みがひどくなり、寝たり起きたりの生活になった。症状が昂じて藤澤の身に狂いの見え出したのは、その年の12月からであった。夜半にふと飛び起きて、彩子を殴る蹴るの暴行をはたらいた。狂い出すとまったく手が付けられず、寝巻のまま外へ飛び出し、警察に連れもどされるようになった。幸いこの時はそれ以上にはならず、年を越した。
1月4日にまた彩子を殴り蹴った。5、6、7日と同じことがつづいた。8日、藤澤は彩子を追い出した。
日中は大変機嫌がよかった。風邪気味の彩子は、早目に床についた。咳をすると藤澤がうるさいと怒鳴った。謝っても聞き入れない。彩子の蒲団を剥ぎ取り、殴る蹴るのあと洋食ナイフを持ち出した。
「もう、貴様なんか、出てゆけ!」
下から大家の大沢も上がってきた。「奥さんがいなかったら或いは鎮まるかもしれないから、少しの間だけでも・・・」とすすめるし、警察に相談すると、同じ返事なので、彩子は心ひかれながら、涙ながらに家を出た。
本意なく家を出た彩子は9月1日を叔母の家ですごし、10日の夕刻、家に帰ると、「なぜ来た!」と殴り蹴るので、また叔母の家へ退散した。
11日、夕刻行くと割合元気で、牛肉とホウレンソウを買ってきて二人で食事をした。これが最後の晩餐になった。
食事がすむと藤澤は、「別れよう」と言い、送っていくと言うので、夜の9時頃、一緒に外に出た。途中「お前も可哀そうにな」と言い、逢初町の停留所で「ここから乗ってゆけ」と言った。電車がくると、「乗れ、乗れ」とせきたて、車掌台から振り向くと、「さよなら!」と言って電車道を飛び越えていった。これが最後の別れとなった。
それから間もなく、大沢家に駒込警察署から連絡があり、検束しているから貰い下げに来いとの命令であった。千駄木町あたりの空き家の硝子を壊し、警察でも暴れたという。この時は所持金を4円ばかりしか持っていなかった。
3日ほどたって家を抜け出し、その夜は帰ってこなかった。翌日、下谷阪本警察署から連絡があり、また空き家に入り込んで寝ようとして保護されていた。住所を聞いても、「芝、根津権現裏」というばかりであった。根津ならばと本富士署に問い合わせて身元が判明した。この時、靴先に白のエナメルで「21」の番号が付けられた。
そしてとうとう25日の朝、大沢が「目を覚ますと、藤澤さんの姿が見えないんです」ということになった。
逢初町の停留所で別れた彩子は、29日の昼頃家を訪ねると大沢が荷物を片付けていた。家出から5日目であった。
同じ日、藤澤は東京市芝区芝公園第17号の六角堂で凍死しているのを発見された。早朝一交通人が行路病者の死体を発見して届け出た。芝愛宕署の川口司法主任が検視をした。「メリヤスおよびクレップのシャツ2枚の上に縞のワイシャツを重ね、三つ揃、茶の縦縞の洋服に茶のオーヴァ。帽子はなく、足は、靴下の靴もない素足。所持品は、39銭在中の引きぬきになったがま口1個」と調書に書かれている。「うつ伏せに死んでいました。空腹のせいか、とても痩せこけていましたので、どうしても年齢は50くらいに見えました」と司法主任は話した。死亡推定時刻は午前4時であった。遺骸は一般行旅病者とみなされて芝区役所に渡され、翌30日桐ケ谷火葬場で火葬に付された。
2月1日、彩子は本富士署に行った。もしもと思い、「変死人名簿」を見てもらうと、3、4番目の「芝公園17番地」の項に、茶のオーヴァを着て、鼻高く眉濃く、五十位の男、行き倒れと係官が読み上げる声を聞き、鼻高く眉濃くのところで、彩子ははっとした。さらに「頸に六寸ばかりの骨膜の傷痕あり・・・」と聞いて、「頸はもしや足の間違いでは」と尋ねると、愛宕署に問い合わせてくれ、「足でした」と確認された。愛宕署に駆け付けると、写真原版を見せられた。車の上に菰を掛けられた変わり果てた藤澤の姿、顔がそこにあった。「確かに、間違いございません」と彩子は答えた。同棲8年の懐かしい藤澤との永久の別れであった。
4日、桐ケ谷火葬場からお骨を引き取った。お骨を引き取る14円61銭を借り集めるために3日を要したからである。
昭和7年2月18日、芝増上寺別院源興院で告別式が行われた。徳田秋声、久保田万太郎、室生犀星、三上於菟吉らが総代となり発起、会葬者は百名を越した。