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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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藤澤清造、最期の日々

以前、豊田四郎監督の「鶯」1938について、「群像劇ふうの設定」が面白くて、ずっと気にかかっていることをブログに書きました。

その関心は現在も継続中の状態で、少しずつ関係の本を読みながら、新たな情報に出会えば、細かいことでも(「単語」とか「言い回し」に至るまで)、グズグスと密かにブログに書き加えています。

なんだか諦めの悪い性分がモロに出てしまっているようで、少しきまりが悪いのですが、でも、この未練がましく同じ場所をいつまでもうろうろと堂々巡りしている理由は、「伊藤永之介」という作家を、自分がいままでまるで知らなかった未知の人物だったからで、「もっと知りたい」という好奇心が、このコダワリをいつまでも持続・増幅させているのだと思います。

そうこうしているうちに分かったことが二、三ありました。

まず、映画「鶯」において、とても感心した手法、多くの登場人物が入れ替わり立ち替わり現れては消え、別に誰といった主役が特定されているわけでもないのに、複数の人物を上手にさばいて物語を少しずつ進行させるという手際の良さがあって、これなどは、原作者・伊藤永之介が考案した「集約的リアリズム」という手法そのままの方法だということを知りました。

貧しい農民たちの多様な悲惨を広く目配りできるように工夫された文学手法だと知って、なんだかヤタラ感心してしまったのだと思います。まるで「貧農交響楽」みたいな気宇壮大な感じを受けました。

その関連から、今回、はじめて分かったのですが、久松静児監督の愛すべき佳作「警察日記」1955も伊藤永之介の原作を映画化したもので、そういえば、なるほど、舞台は派出所、狂言回しが警察官ということで(しかし、彼は主人公ではありません)、そこに訪れる愛すべき無知と純朴、そしてコズルイ狡猾さまで兼ね備えた多士済々の村人たちが、ひと騒動もふた騒動も引き起こすなども「鶯」と一致しますし、それぞれの猥雑にして人情味あふれるトボケタ人物設定も共通しています。このことだけでも、伊藤永之介という作家が独特の愛され方で人気を高めていたことが分かります。

なんか、そういうホンワカとした柔らかい雰囲気から、イメージとしては、思わず木山捷平とか井伏鱒二などを連想してしまいがちですが、ところが「さにあらず」、伊藤永之介という作家は、プロレタリア文学に列する「農民文学者」という立ち位置なのだそうです。

へえ~、これはまた意外でした。小説を読んだ感じでは、確かに筋立ては農民の極貧生活の苦難を描いて辛辣です(代表作といわれる「梟」などは、幼い子供を抱えた農家の主婦が、夫は村の未亡人に入れ込んで家に寄り付かず、凶作でコメの収穫を断たれたうえに借金も断られて遂に食う物は尽き、飢えた子供たちに泣かれるのが辛く耐えきれずに、闇夜に地主の蔵から米を盗み出すところを作男に見とがめられて遂に八方塞がり、身動き取れず致し方なく縊死するというなんとも遣り切れない悲痛なエピソードもあったりします)、しかし、その言い回しには突き放したような諧謔と不思議なユーモアがあるので、題材の刺々しさは割合に和らげられ、印象としては深沢七郎をもう少し柔軟にした私小説タイプの作家なのではないかなという感じを持ったのですが、実はなんとゴリゴリのプロレタリア作家にして農民文学者だったとは意外だったのです。

そんな経緯もあって、自分の蔵書のなかで伊藤永之介が掲載されている本を幾冊か引っ張りだしてきて、少しずつ読み始めました。
その本というのは、こんな感じです。

★昭和小説集(1)、現代日本文学全集88・筑摩書房、昭和32.5.5.1刷、429頁・・・小さな活字が3段に組まれており、しかも400頁以上もあるというボリュームで、とても読みでのあるむかしから有名な筑摩の文学全集です、近所の古書店の店頭のワゴンで1冊100円で売っていたのを買いました。昭和初期のプロレタリア文学、農民文学隆盛だった時期の重要な作家たち25人の28作品を読むことができます。具体的な作品は、他の文学全集の掲載作品とダブル部分もあるので、取りまとめて後述しようと思います。

★名作集(3)、日本の文学79・中央公論社、昭和45.9.5.1刷、533頁・・・日本文学全集の定番といえば、青色を基調にしたこの中央公論版でしょう、片手で持ててどこでも気楽に読めるので、とても便利です。「名作集(3)」というのは、つまり明治、大正と続いての「昭和初期・名作集」ということで、その時期に活躍した19人の作家の作品が掲載されていますが、選択のジャンルの幅を広げたために総花的な選択になってしまい、プロレタリア文学、農民文学に特化した前記の筑摩版からすると若干の物足りなさは否めません。

★前田河廣一郎・伊藤永之介・徳永直・壷井栄 集・現代日本文学大系59・筑摩書房、平成12.1.30.13刷、458頁・・・こちらは新しい筑摩の文学全集で、奥付には「平成12年」とありますが、それは13刷だからで、もともとの初版は昭和48年、いまから思うと、前出の「現代日本文学全集」旧版の方にむしろ年代的には近かったことに意外な感じを受けます。隔世の感、というのは、こういうことを言うのかもしれません。こちらは伊藤永之介の世評の高い「梟」「鴉」が掲載されているので引っ張りだしました。

その他の4冊は、「これなんかどうなの」と迷いながら念のために持ち出しただけで、「なにもそこまでやることはないか」という感じもありました、たぶん今回は参考にしない可能性の方が大きいと思います。

★葉山嘉樹・小林多喜二・徳永直 集・現代文学大系37・筑摩書房、昭和41.2.10.1刷、505頁、430円

★日本プロレタリア文学選2・蔵原惟人監修・新日本出版社、1974.8.20.2刷、395頁、900円

★平林初之輔・青野季吉・蔵原惟人・中野重治 集・現代日本文学全集78・筑摩書房、昭和32.11.10.1刷、423頁、350円

★共同研究 転向2・戦前篇(下)・思想の科学研究会編・東洋文庫818・平凡社、2012.2.24.1刷、366頁

★吉本隆明全著作集13・政治思想評論集・勁草書房、昭和51.2.10.2刷、700頁、2000円・・・最後には吉本隆明の転向論を駆使して、ここはいっちょ、ちゃぶ台返しでもやらかしてみようかなどと邪悪な誘惑に駆られて準備した本です。

まずは、前記「文学全集」3冊に収載されている小説をシャッフルして整理してみました。五十音順です。プロレタリア文学だとか農民文学だとかにこだわらず、先入観なしに、頭から読んでいって、感銘を受けた作品にはシンプルに「◎」を付しました。


淺原六朗「混血児ジョオヂ」(昭和6)
池谷信三郎「橋」(昭和2)
伊藤永之介 ◎「鶯」(昭和13) ◎「梟」(昭和11)「鴉」(昭和13)
犬養健「亜刺比亜人エルアフイ」(昭和4)
岩倉政治 ◎「稲熱病」(昭和14)
岩藤雪夫「ガトフ・フセグダア」(昭和3)
岡田三郎 ◎「三月変」(昭和4)
小田嶽夫「城外」(昭和11)
片岡鐵兵「綱の上の少女」(大正15)「愛情の問題」(昭和5)
北原武夫 ◎「妻」(昭和13)
金史良「光の中に」(昭和14)
久野豊彦「ボール紙の皇帝万歳」(昭和2)
黒島傳治「橇」(昭和2)「渦巻ける鳥の群」(昭和3)
今東光「痩せた花嫁」(大正14)
佐佐木俊郎 ◎「熊の出る開墾地」(昭和4)
里村欣三「苦力頭の表情」(大正15)
下村千秋 ◎「天国の記録」(昭和5)
神西清「垂水」(昭和17)
須井一 ◎「綿」(昭和6)
芹澤光治良「ブルジョア」(昭和5)
髙橋新吉「預言者ヨナ」(昭和3)
立野信之「軍隊病」(昭和3)
田畑修一郎 ◎「鳥羽家の子供」(昭和7)
壷井栄「妻の座」(昭和22)「大根の葉」(昭和13)「風」(昭和29)「日めくり」(昭和38)
坪田譲治「風の中の子供」(昭和11)
鶴田知也「コシャマイン記」(昭和11)
十一谷義三郎「あの道この道」(昭和3)
徳永直「太陽のない街」(昭和4)「他人の中」(昭和14)「あぶら照り」(昭和23)
富ノ澤麟太郎「流星」(大正13)
中村地平「南方郵信」(昭和13)
橋本英吉 ◎「欅の芽立」(昭和11)
深田久彌「オロッコの娘」(昭和5) ◎「あすなろう」(昭和7)
藤澤桓夫 ◎「大阪の話」(昭和9)
北条民雄 ◎「いのちの初夜」(昭和11)
保高徳蔵 ◎「或る死、或る生」(昭和14)
本庄陸男「白い壁」(昭和9)
前田河廣一郎「三等船客」(大正11)「赤い馬車」(大正12)「せむが(鮭)」(昭和5)
森山啓「遠方の人」(昭和21)
龍胆寺雄「アパアトの女たちと僕と」(昭和3)
和田傳 ◎「村の次男」(昭和13)


感銘を受けた作品に「◎」を付した結果を改めてみてみると、自分的には「農民文学って意外に好きかも」という結果にはなったような感じですが、さらに、「いい感じ」な作品を絞り込んでいくと

岡田三郎 ◎「三月変」
北原武夫 ◎「妻」
下村千秋 ◎「天国の記録」
田畑修一郎 ◎「鳥羽家の子供」
北条民雄 ◎「いのちの初夜」

と、こうなります、もし「◎」よりも上のランクの印があれば、そちらを付けたいくらいの魅力ある作品だったところをみると、やっぱり自分は、プロレタリア文学や農民文学には、一定の距離をとっているのかな、という感じです、特に田畑修一郎の「鳥羽家の子供」なんか、芥川龍之介の名作「玄鶴山房」と思わず比較してみたくなるような凄みと迫力を感じましたし、北原武夫の「妻」は、戦後の荒廃を前のめりになって生き急いだ田中英光の諸作品を思わせるような焦燥と自傷・破滅願望を彷彿とさせ好感をもちました。

まあ、こうやって、あちらこちらと寄り道しながら、昭和初期の小説を読んだり、文学状況を解説している本を漁っていたのですが、そんなときにある本に遭遇しました。

川西政明の「新・日本文壇史 第4巻・プロレタリア文学の人々」岩波書店、2010.11.26.1刷、308頁、2800円、です。

書名のサブタイトル「プロレタリア文学の人々」につい惹かれ、役に立つ記事でもあればチョイスしようと手に取ったのですが、目次を見て驚きました。

「第21章 忘れられた作家たち」の内容は、夭折の女流作家・素木しづについて書かれている部分と、藤澤清造について記されている部分で構成されていて、藤澤清造の部分については、

「大正の奇人 藤澤清造ゴシップ集 親友安野助太郎の縊死 芝公園内での凍死」

などと具体的な言葉が暗示風に記されていました。

しかし、考えてみれば、いままで自分は、藤澤清造について知っていることといえば、没後弟子・西村賢太が書いたものと、それから2冊の文庫本「根津権現裏」(新潮文庫)と「藤澤清造短篇集」(角川文庫)からの得た知識しかなかったことを、この本を読んでみて、改めて気づかされました。

知っていることと言えば、せいぜい「芝公園内で凍死」し「身元不明人として(一般行旅病者の行き倒れ、つまり野垂れ死にです)」警察の方でさっさと死体処理されてしまったことくらいで(「くらい」って、これだけで、そうとう壮絶な話になってます)こんなふうに生々しく人物紹介された記事に初めて遭遇したので衝撃を受けたのだと思います。

しかし、なにせ「もの」は、一種のコラムなのですから、リアルを突き抜けて「揶揄」とか「風刺」とか「こきおろし」なんていう脚色もなきにしもあらずで、ときに応じて「眉唾」や「色眼鏡」の小道具を用意して読むくらいの心得は当然要求されるところではあります。


【藤澤清造の人柄】

藤澤清造は毒舌家として知られた。人を人と思わなかった。雑誌の座談会で面と向かって相手を痛罵した。自己尊大にふるまった。大家を大家として扱わなかった。金のある奴から金を毟り取るのは当たり前だと考えた。

巻き舌で喋りまくり、漆黒の髪はオールバックにして、浅黒い顔に鷲鼻がでんと坐り、眼は底意地悪く三白眼で、狭い額は短気を表し、への字の唇は厚く、喋るたびに唾を飛ばし、涎を垂らしていた。

その巻き舌は下町の大工のように、下品で、伝法で、恐ろしく口が悪いと評判であった。

着物はお召しの絣に、濃い茶無地の縫い紋付、それにぞろりとお召しの袴をはいて、足袋は紺キャラコという一分の隙もない風采だ。

そのくせ、部屋は驚くほど綺麗に片付けられており、塵一つ落ちていない。机の上にはいつも真っ白な原稿用紙が置いてあり、部屋にはそれ以上の装飾がなにもない。外出から帰ると、一張羅の羽織、着物、袴を寝押しする。ふだんは黒襟のかかった丹前を着て、長煙管で葉タバコを吸いながら、いつ終わるとも知れぬ文学談に耽る。

自他共に認める変わり者であったが、本人が一番気に入らないのは、自分の顔への不満や衣食住の不足ではなく、文壇の時流に乗ろうとして乗り切れず、猫額のような、鷲鼻のような、俗受けのしない貧乏と病苦と娼婦買いの話しか書くことのない自分の小説そのものであった。

威勢がよいときはよろしい。威勢がなくなると反動がひどい。たちまち口をきわめて罵倒される。しっぺ返しをうける。

大正の世になると、新聞は文士の消息を載せ、雑誌は文士のゴシップを載せた。文壇が世俗化し、文士の一挙手一投足に人目が集まるようになった。

文壇が大衆化したのである。そういう時、世俗に外れた異端者の存在は一種のトリックスターに変貌する。

こういう変人を愛惜する人が後世にあらわれる。そしてそのゴシップ集を編むに至った。その幾つかを紹介する。

「なんだ菊池。弱いくせに、また負かされようてのか」

将棋盤をはさんで、菊池寛を呼び捨てに、大口をたたいている新進作家。が、菊池の方が駒を四枚おろして勝負している。「藤澤清造、酒飲むか」ときいてやると、「当たり前だ」と応じた。菊池が店の女に「酒を少し」と命じる。と、間髪を入れず「少しじゃねえ、どっさりもってこい」と言って、注文し直させた。久米正雄も山本有三も呼びつけである。

中村武羅夫に面と向かって「おい中村! 文壇の大久保彦左衛門は俺だ。それをお前が彦左衛門などとはけしからん」と藤澤が喰って掛かったことがある。

中村は「新潮」を一流文芸誌にした編集長であるだけでなく、「渦巻」「群盲」などの小説を新聞に連載して人気作家にもなっていた。「文芸春秋」に対抗、傘下の若手作家を糾合して「不同調」を創刊しようとしていた頃である。

中村が「お前を一心太助にしてやろう」と応じると、「厭だ、お前の下につくようなものじゃないか」「彦左衛門ならいいだろう」と妥協すると、「彦右と彦左とどっちが上なんだ。それを聞いたうえでなけりゃ承知せん」となお言っていた。


【藤澤清造、最期の日々】

大正14年12月、藤澤は玉の井辺で娼婦をしていたことのある早瀬彩子と東京府豊多摩郡上荻窪六百六番地で所帯を持った。この頃が藤澤の最盛期で、この後、だんだんと坂道を転がるように落ちていった。私小説の悲しさか、種がないと書けない商売であった。

昭和6年11月23日、藤澤と彩子は根津権現にほど近い東京市本郷区根津八重垣町四十番地大沢方の二階に引っ越してきた。四畳半と三畳の二間で月12円の約束だった。

同年4月頃から骨髄炎の痛みがひどくなり、寝たり起きたりの生活になった。症状が昂じて藤澤の身に狂いの見え出したのは、その年の12月からであった。夜半にふと飛び起きて、彩子を殴る蹴るの暴行をはたらいた。狂い出すとまったく手が付けられず、寝巻のまま外へ飛び出し、警察に連れもどされるようになった。幸いこの時はそれ以上にはならず、年を越した。

1月4日にまた彩子を殴り蹴った。5、6、7日と同じことがつづいた。8日、藤澤は彩子を追い出した。

日中は大変機嫌がよかった。風邪気味の彩子は、早目に床についた。咳をすると藤澤がうるさいと怒鳴った。謝っても聞き入れない。彩子の蒲団を剥ぎ取り、殴る蹴るのあと洋食ナイフを持ち出した。

「もう、貴様なんか、出てゆけ!」

下から大家の大沢も上がってきた。「奥さんがいなかったら或いは鎮まるかもしれないから、少しの間だけでも・・・」とすすめるし、警察に相談すると、同じ返事なので、彩子は心ひかれながら、涙ながらに家を出た。

本意なく家を出た彩子は9月1日を叔母の家ですごし、10日の夕刻、家に帰ると、「なぜ来た!」と殴り蹴るので、また叔母の家へ退散した。

11日、夕刻行くと割合元気で、牛肉とホウレンソウを買ってきて二人で食事をした。これが最後の晩餐になった。

食事がすむと藤澤は、「別れよう」と言い、送っていくと言うので、夜の9時頃、一緒に外に出た。途中「お前も可哀そうにな」と言い、逢初町の停留所で「ここから乗ってゆけ」と言った。電車がくると、「乗れ、乗れ」とせきたて、車掌台から振り向くと、「さよなら!」と言って電車道を飛び越えていった。これが最後の別れとなった。

それから間もなく、大沢家に駒込警察署から連絡があり、検束しているから貰い下げに来いとの命令であった。千駄木町あたりの空き家の硝子を壊し、警察でも暴れたという。この時は所持金を4円ばかりしか持っていなかった。

3日ほどたって家を抜け出し、その夜は帰ってこなかった。翌日、下谷阪本警察署から連絡があり、また空き家に入り込んで寝ようとして保護されていた。住所を聞いても、「芝、根津権現裏」というばかりであった。根津ならばと本富士署に問い合わせて身元が判明した。この時、靴先に白のエナメルで「21」の番号が付けられた。

そしてとうとう25日の朝、大沢が「目を覚ますと、藤澤さんの姿が見えないんです」ということになった。

逢初町の停留所で別れた彩子は、29日の昼頃家を訪ねると大沢が荷物を片付けていた。家出から5日目であった。

同じ日、藤澤は東京市芝区芝公園第17号の六角堂で凍死しているのを発見された。早朝一交通人が行路病者の死体を発見して届け出た。芝愛宕署の川口司法主任が検視をした。「メリヤスおよびクレップのシャツ2枚の上に縞のワイシャツを重ね、三つ揃、茶の縦縞の洋服に茶のオーヴァ。帽子はなく、足は、靴下の靴もない素足。所持品は、39銭在中の引きぬきになったがま口1個」と調書に書かれている。「うつ伏せに死んでいました。空腹のせいか、とても痩せこけていましたので、どうしても年齢は50くらいに見えました」と司法主任は話した。死亡推定時刻は午前4時であった。遺骸は一般行旅病者とみなされて芝区役所に渡され、翌30日桐ケ谷火葬場で火葬に付された。

2月1日、彩子は本富士署に行った。もしもと思い、「変死人名簿」を見てもらうと、3、4番目の「芝公園17番地」の項に、茶のオーヴァを着て、鼻高く眉濃く、五十位の男、行き倒れと係官が読み上げる声を聞き、鼻高く眉濃くのところで、彩子ははっとした。さらに「頸に六寸ばかりの骨膜の傷痕あり・・・」と聞いて、「頸はもしや足の間違いでは」と尋ねると、愛宕署に問い合わせてくれ、「足でした」と確認された。愛宕署に駆け付けると、写真原版を見せられた。車の上に菰を掛けられた変わり果てた藤澤の姿、顔がそこにあった。「確かに、間違いございません」と彩子は答えた。同棲8年の懐かしい藤澤との永久の別れであった。

4日、桐ケ谷火葬場からお骨を引き取った。お骨を引き取る14円61銭を借り集めるために3日を要したからである。

昭和7年2月18日、芝増上寺別院源興院で告別式が行われた。徳田秋声、久保田万太郎、室生犀星、三上於菟吉らが総代となり発起、会葬者は百名を越した。

# by sentence2307 | 2021-05-20 11:20 | 藤澤清造 | Comments(0)

伊藤永之介と農民文学

以前、豊田四郎監督の「鶯」1938について、「群像劇ふうの設定」が面白くて、ずっと気にかかっていることをブログに書きました。

その関心は現在も継続中の状態で、少しずつ関係の本を読みながら、新たな情報に出会えば、細かいことでも(「単語」とか「言い回し」に至るまで)、グズグスと密かにブログに書き加えています。

なんだか諦めの悪い性分がモロに出てしまっているようで、少しきまりが悪いのですが、でも、この未練がましく同じ場所をいつまでも堂々巡りしている理由は、「伊藤永之介」という作家を、自分がいままでまるで知らなかった未知の人物だったからで、「もっと知りたい」という好奇心が、このコダワリをいつまでも持続・増幅させているのだと思います。

そうこうしているうちに分かったことが二、三ありました。

まず、映画「鶯」において、とても感心した手法、多くの登場人物が入れ替わり立ち替わり現れては消え、別に誰といった主役が特定されているわけでもないのに、複数の人物を上手にさばいて物語を少しずつ進行させるという手際の良さがあり、これなどは、原作者・伊藤永之介が考案した「集約的リアリズム」という手法だと知りました。

貧しい農民たちの多様な悲惨を広く目配りできるように工夫された文学手法だと知って、なんだかヤタラ感心してしまったのだと思います。まるで「全貧農民交響楽」みたいな気宇壮大な感じを受けました。

その関連から、今回、はじめて分かったのですが、久松静児監督の愛すべき佳作「警察日記」1955も伊藤永之介の原作を映画化したもので、そういえば、なるほど、舞台は派出所、狂言回しが警察官ということで(しかし、彼は主人公ではありません)、そこに訪れる愛すべき無知と純朴、そしてコズルイ狡猾さまで兼ね備えた多士済々の村人たちが、ひと騒動もふた騒動も引き起こすところなども「鶯」と一致しますし、それぞれの猥雑にして人情味あふれるトボケタ人物設定も共通しています。このことだけでも、伊藤永之介という作家の当時の人気の高さが分かります。

なんか、そういうホンワカとした柔らかい雰囲気から、イメージとしては、思わず木山捷平とか井伏鱒二などを連想してしまいがちですが、ところが「さにあらず」、伊藤永之介という作家は、プロレタリア文学に列する「農民文学者」という立ち位置なのだそうです。

へえ~、これはまた意外でした。小説を読んだ感じでは、確かに筋立ては農民の極貧生活の苦難を描いて辛辣です(代表作といわれる「梟」などには、幼い子供を抱えた農家の主婦が、夫は村の未亡人に入れ込んで家に寄り付かず、凶作でコメの収穫を断たれたうえに借金も断られて遂に食う物は尽き、飢えた子供たちに泣かれるのが辛く耐えきれずに、闇夜に地主の蔵から米を盗み出すところを作男に見とがめられて遂に八方塞がり、身動き取れず致し方なく縊死するというなんとも遣り切れない悲痛なエピソードもあったりします)、しかし、その言い回しには突き放したような諧謔と不思議なユーモアがあるので、題材の刺々しさは割合に和らげられ、印象としては深沢七郎をもう少し柔軟にした私小説タイプの作家なのではないかなという感じを持ったのですが、実は、ゴリゴリのプロレタリア作家にして農民文学者とは、これは意外でした。

あっ、そうか、いま思ったのですが、深沢七郎にしても、どこか農民文学者っぽい作品が多い、そこにイメージを同化させる共通性があったのかもしれません。

でもあれです、プロレタリア文学の小説家といえば、およそ冗談なんか通じない、青筋立てて異議申し立て、怒りまくって喧嘩を売り、殴り合いさえ辞さない、殺されても絶対節を曲げない生真面目な、例えば小林多喜二とか、それに葉山嘉樹に徳永直、それから、やっぱり「冗談」なんかとんでもない孤高感満載の中野重治とか、意固地な佐多稲子とか、こう考えると、主義のためには死ぬのも厭わない、ぎりぎりのところで頑張った皆さん壮絶な人ばかりですものね。

これらの作家と比べたら、伊藤永之介の方は、もう少し「余裕」と「あそび」があるように思えるので、そういう親近感というか「意外さ」に惹かれて「知りたい」という自分の(無知だから、なおさらです)意欲も刺激され、その関連で、いままで知識が皆無だった「農民文学」というジャンルへ接近するための「調べる読書」も持続できたのだと思います。

そこで、まず「近代日本文学辞典」(東京堂刊、昭和32.3.20.増訂版、900頁、850円)で「農民文学」の項をあたってみました。

そうそう、自分の場合、文学辞典は、ごく古いものを使っています。近所の古書店で、古い文学辞典が売りに出ていたりすると、つい我慢できずに購入してしまう自分に、よく友人は、

「古い辞典なんか買ってどうするんだ、いまどき最新の情報など、ネットで検索すれば容易に手に入るではないか、そんな古いもの、購入する意味なんてあるのか」

などと冷笑するのですが、なかなかそうではありません。

刊行された当時には「常識」だった事項も、現在となれば解説が必要なほどに古びてしまっている、しかも、必要でない他の細々した部分なら当然に淘汰されてしかるべき削除か捨象されるに違いないでしょうが、しかし、マニアとしては、その古びてはいるけれども「淘汰・捨象はされていない部分」が満載の旧版の辞典のページをめくるのことが、知的なミステリアスを満喫できてたまらないのです。

「時間」の隔たりを埋めるためのまどろっこしい余計な解説を読むことに時間を取られるくらいなら、難解な「古びた事項」の失われた意味をあれこれと妄想しながら、読み込む悦楽に浸りたいと考えている自分には、この昭和32年に刊行された「近代日本文学辞典」は、まさに時間を忘れさせてくれるこのうえもない良書ということができると思います。

さて、その辞典では、「農民文学」をこんなふうに説明していました。


【農民文学】農民文学の名称で呼ばれる文学は、次の二つに大別される。
その一つは、地方の田園風景や特殊な地方色を表出しつつ農民生活の実態を描き出すことを目的とする文学で、ジョルジュ・サンドの田園文学、トルストイ、ツルゲーネフ、ワーズワースの農村を背景とする作品、バルザックの「農民」、ゾラの「大地」などは、この範疇に属する。
他のひとつは、農民が自身の耕作生活の体験に基づいて、労働者の立場から書いた一種のプロレタリア文学で、この傾向の小説・詩はプロレタリア文学運動に伴って起こった。
我が国の農民文学の伝統は、自然主義の作家の農村に取材した作品、例えば真山青果の「南小泉村」(明40)中村星湖の「少年行」(明40、)などに早く見いだされ、長塚節の「土」(明43)は作者の目が農民生活を如実に描き出している点で、農民文学の代表作の名に恥じない。
徳富蘆花の「みみずのたはごと」や有島武郎の「カインの末裔」も広義の農民文学とみてよい。
しかし、この名称がはっきり謳われ始めたのは、大正15年、吉江喬松・中村星湖・平林初之輔・加藤武雄・犬田卯・和田傳などによって農民文芸会が結成され、都会文学の氾濫に抗して、土に生きる農民の姿を文学を通じて示そうとした時からである。
この運動の現われとして、昭和2年「農民」が発刊され、佐々木俊郎の「熊の出る開墾地」(昭4)が注目され、一方プロレタリア文学の立場から貧農解放の叫びや訴えが農民文学として取り上げられ、当時、小林多喜二の「不在地主」「沼尻村」「防雪林」、平林たい子の「荷車」「夜風」、須井一(加賀耿二)の「綿」などが問題となった。
橋本英吉、葉山嘉樹、平田小六、立野信之などもこの傾向の作品を書いた。
ところが満州、上海両事件の勃発により、左翼文学が弾圧され、転向作家としての島木健作の「生活の探求」(昭12)には、理想主義的な調和の文学として農民が描かれた。
その後、戦時体制に入るとともに、生産文学、開拓文学の名で多くの農民文学的作品が書かれたが、なかでも和田傳の「沃土」(昭12)や伊藤永之介の「鶯」(昭13)は評判高く、おのおの昭和13年、14年度の新潮文芸賞を得た。
伊藤の作品は、すべて東北農村に取材し、農民の貧困や無知や独特の生活態度をユーモラスな筆致で見事に浮き彫りにしている点にユニークな味がある。
この頃、農相有馬頼寧の肝いりで、農民文芸懇話会(昭13)が結成され、有馬賞の設定が行われ、ジャーナリズムも農民文学を積極的に取り上げたので、その機運に乗じて、前期の和田、伊藤のほかにも、丸山義二、岩倉政治、打木村治、森山啓、鑓田研一、佐藤民宝、石原文雄などが活躍した。
これらの作家は、ひとしく農民に対して共感を寄せ、篤農家を讃えたり、彼らを勤労戦士として尊ぶべきことを読者に啓蒙する立場をとることで、すでに作家の従軍などで崩壊状態にあった文壇の消費文化を描いてきた流れを断ち切って新しいモラルを樹立する気勢を示した。
しかし、その気勢の裏には多分に時局便乗的な態度が見られ、国策の線に沿うことで本来の文学精神から離れたため、終戦とともに、この種の作家と作品は、影を没した。
現在わずかに伊藤永之介のみ、独自な筆法で発表を続けている。


なるほど、なるほど、こう読み進めると、農民と農民文学が、国家権力からも「プロレタリア権力」からも、どのような存在として認識され、扱われていたのかが、よく分かります。

そもそも、プロレタリア側の「権力」にしろ、それの影響を受けた「文学集団」にしろ、「農民」をプロレタリアに属する階層などとは、少しも考えていない、自分たちの身内などとは思っていなかったことがよく分かります、農民は常にあらゆる時代のあらゆる権力から、適当にあしらわれ、利用され、加重な食糧生産と税金を課されて収奪され、切り捨てられてきた、その間に芽生えた「自立」の機運が独自の「文学」へと結実したかにみえた盛り上がりも、まずはプロレタリア文学に取り込まれ、次に国家権力に懐柔される、つまりは、あまりにも弱体のため存立するには「左右」の権力にすり寄り(そうしなければ逆に潰されていたでしょう)取り込まれ、迎合することによってに変質させられて失速したというのが、実情だったような気がします。

自らの権力を保持するためレーニンにしてもスターリンにしても毛沢東にしても、日本帝国にしても、「加重なノルマ」と「虐殺」という恐怖ツールを駆使して農民を圧し、政策の無能と破綻の辻褄合わせのために機能させて、そのおびただしい凄惨な犠牲のうえに独裁政権は保たれ持続できたのだと思います。

農民の文学が、どのように持ち上げられ失速したか、解説にある最後の一行が、如実に記しています。

「しかし、その気勢の裏には多分に時局便乗的な態度が見られ、国策の線に沿うことで本来の文学精神から離れたため、終戦とともに、この種の作家と作品は、影を没した。」

そして
「現在わずかに伊藤永之介のみ、独自な筆法で発表を続けている(昭和32年当時)」と解説にある2年後の昭和34年には、その伊藤永之介も没します。


農民文学関連の資料をあれこれ検索していて、自分が求めていたことが、そのものズバリで書かれているような本に遂に遭遇しました。

佐賀郁朗「受難の昭和農民文学―伊藤永之介と丸山義二、和田伝」(日本経済評論社)
という本です。

とりあえず、近所の図書館で蔵書しているか検索してみたのですが、残念ながら、その本自体は、ありませんでしたが、amazonで詳細な「目次」だけはアップしていましたので、たいへん参考になるので、とりあえず、筆写しておきました。
伊藤永之介はじめ丸山義二、和田伝ら、農民文学者たちがどのように昭和という時代を生き抜いたかが、この「目次」を読み継ぐだけでも雰囲気だけはなんとなくイメージすることができると思います。


★佐賀郁朗「受難の昭和農民文学―伊藤永之介と丸山義二、和田伝」(日本経済評論社)
2003年8月1日、1刷、229頁、定価1800円、ISBN4-8188-1546-2、ISBN-13 : 978-4818815469

(内容)
農政史や農業関連の刊行物からは、表面的な農業の統計的推移は読み取れのが、実際の農民たちの苦闘の姿は見えてこない。本書は、生々しい農村の実情、国策に翻弄された日本の農民がたどった受難の数十年を、時代に沿って書き残された昭和の農民文学を歴史の生き証言として検証し解説を加えたものである。戦後半世紀以上が過ぎ、暖衣飽食に生きる現代人から農業は次第に等閑視され、農民文学もまた忘れ去られんとしている。伊藤永之介、丸山義二、和田伝の3人の作家の作品を通して、戦前戦後の日本の農村・農民の姿を振り返り、世界史の中に位置付ける。

(目次)
推薦のことば・関西大学教授 浦西和彦
・はしがき

・序章 農民文学と私(農民文学とは、なぜ三人をとりあげたか、水上勉と丸山義二、『大日向村』と「萬宝山」、伊藤永之介”転向説”の誤まり)

・第一章 農民文学の始まり
文学的出発のちがい・プロレタリア文学運動の概括
『文芸戦線』によった伊藤永之介「萬宝山」
プロレタリア作家同盟に加わった丸山義二「拾円札」「貧農の敵」
自然主義リアリズムを受け継いだ和田伝「山の奥へ」

・第二章 伝統探究と思想的帰農 それぞれの再出発
恐慌下の農村を描いて登場した和田伝「村の次男」『沃土』
説話体に活路を見出した伊藤永之介「梟」と『北ホテル』、「梟」「鶯」
イデオロギーを捨てた丸山義二「田螺」

・第三章 戦時体制へ組み込まれていった作家たち 分かれた国策への対応
農民文学懇談会の結成
国策文学の寵児となった和田伝『大日向村』
和田伝に続いた丸山義二『庄内平野』
国策に距離をおいた伊藤永之介『湖畔の村』
弾圧と脚光-農民文学作家の明暗「土の偉人叢書」の執筆
和田伝『船津伝次平』
伊藤永之介『石川理紀之助』
文学報国会の発足と「有馬賞」(農民文学賞)の謎
丸山義二『ふくろしょひ』
太平洋戦争下の伊藤永之介『海の鬼』

・第四章 敗戦後の食糧危機
戦争の傷跡をどう描いたか
戦争の犠牲となった農民を描く伊藤永之介「春の出水」「雪代とその一家」「なつかしい山河」
敗戦後、虚脱に陥った丸山義二
風俗小説作家となった和田伝「試練の井戸-新大日向村建設記」
大政翼賛運動の犠牲となった上泉秀信の死
農民の小ブルジョア化に苦悩する伊藤永之介「六十二万二千円」(『警察日記』所収)「ポプラが丘」と「電源工事場」

・第五章 農民文学会に集まった作家たち
農民文学会に集まった人々
「警察日記」で名を売った伊藤永之介
「南米航路」と余話
『鰯雲』が映画化された 和田伝『鰯雲』
農政をとらえきれなかった伊藤永之介「消える湖」
丸山義二の懺悔

・第六章 農業近代化を
農業の近代化と農産物過剰時代の到来
傍観した丸山義二と和田伝
伊藤永之介没後の農村の変貌
丸山義二に書いてほしかったこと『新しい農民像』と『種をまく人』
農業の近代化の陰をあばいた有吉佐和子『複合汚染』
「むら」社会を描きつづけた和田伝『続・門と倉』「わが人生」
高度経済成長に翻弄された農民を描いた作品
薄井清『ノー政の悲劇』
鎌田慧『逃げる民-出稼ぎ労働者』
ある国営草地造成事業の顛末
環境汚染を告発した『複合汚染』
奢れる人びとに残した鶴田知也の「遺偈」「コシャマイン記」


(著者略歴)
佐賀郁朗
昭和6年北海道に生まれる。24年旧制弘前高等学校終了。31年東京大学農学部卒業。32年全国農業協同組合中央会入会。教育部出版課長、中央協同組合学園教務部長、教育部長を歴任。61年(社)農協電算機研究センター常務理事。平成2年(社)農林放送事業団常務理事。6年(社)日本有線放送電話協会会長(9年5月退任) 著書に「協同組合運動に燃焼した群像」等。


# by sentence2307 | 2021-05-20 11:10 | 豊田四郎 | Comments(0)

エデンの東

遅い朝食をとりながら、ざっと新聞に目を通すのが、毎日の習慣になっています。

まずはスポーツ欄を隅から隅まで熟読し、それから社会面、経済面の大きな扱いの記事に(まあ、厳密にいえば「見出しに」ですが)ざっと目を通してから、世界のコロナ感染者数の現状をチェックしたあとで、ひっくり返して最後のページのテレビ番組表を見る・「本日の放映予定の映画はどうなの?」とチェックするのがいつもの手順です。

とくに今週などNHK・BSプレミアムで立て続けに凄い映画の放映が連続して予定されているので、うかうかできません(この雑文を書いているうちに、自分はものすごい遅筆なので「予定」にどんどん追い越されていると思います)、でも、あらかじめ、そのことは知っているので、単に「確認のチェック」だけという感じではあります。

ただ放映時間が、午後1時からという微妙な時間帯のこともあって、迂闊に予定など入れないよう細心の注意が肝要なのですが、まあ、このコロナ禍のこと(あっ、危ねえ、はずみで「幸い」って書きそうになった!)突然の「お誘い」などということもないでしょうから、差し当たりゆっくりと鑑賞できそうな感じです。

とにかく、予定されているラインアップというのがすごいのです、
月曜日の「タクシー運転手~約束は海を越えて~」(チャン・フン)から始まって、
火曜日は「エデンの東」(エリア・カザン)
水曜日が「サイコ」(ヒッチコック)
木曜日が「わが谷は緑なりき」(ジョン・フォード)
金曜日が「拳銃王」(ヘンリー・キング)
なのです。

いずれも超のつく名作ぞろい、な、な、なんなんだ、これは! まるでもう「名作映画上映会」状態じゃないですか。

いや~、まいった、これが見らずにいらりょうかてんだと、ひとむかし前なら歓喜の雄叫びをあげるところですが、最近は、そうした興奮的常套句が迂闊には使えなくなりました。

だって、なにしろ、滅多に見ることのできない(と思っていた)超レアな「名作」が、インターネットでいとも簡単に見ることのできるご時世です。

そうそう、そういえば、5月からの開催予定だった国立映画アーカイブの「NFAJ所蔵・外国映画選集2021」が、この緊急事態宣言のために急遽「中止」になってしまいました。

このプログラムというのが、滅多に見られないレアな作品がずらりとアップされていたので、とても楽しみにしていたところ、突然中止が決定して(東京都の指導→文化庁の同意)、なんだかとても落胆していますが、事情が事情だから仕方ありません。

でも、どうしても諦め切れなくて、プログラムされている作品のなかで、とくに楽しみにしていた映画をチョイスして、インターネットで順番に見ることにしました。

まあ、このインターネット映画鑑賞の難点と言えば、もともと字幕がついていないか、付いていたとしても、自分に著しく英語能力が欠落しているために自動翻訳ツールに頼らなければならないという弱味があり、これがまた途轍もなく使いにくいのです、「翻訳」とは言い条、おこがましくて、とても「訳」などと呼べるような代物ではなくて、実情は、いわば瞬間直訳(文字通り、頭から単語の意味だけがズラズラと連なって目にも止まらぬ高速で擦過していくだけなので、瞬時に読み取る動体視力が必要なうえに、常識に捉われないアクロバット的解釈の判断能力=だいだいこんな意味なんだな、とか、意味幅を見渡せる柔軟で広範囲な雑学的俗流知識=この場合ならこっちの意味の方がふさわしいかなと読み替える柔軟性が求められる)の字幕なので、そこが難点と言えば難点ですが、どうにかして見たい映画を見ることができるわけですから、その一心さえあれば、見るうえでは大した問題とはなりません、夢中になって見ているうちに言葉の壁や違和感など、いつのまにかふっ飛んでしまいます。

そのプログラムというのは、こんな感じです。

1.予審 (90分・1931・ドイツ:ウーファ・監:ローベルト・ジーオトマク)
2.制服の処女 (89分・1931・ドイツ:ドイチェ・監:レオンティーネ・ザーガン)
3.春の驟雨 (68分・1932・ハンガリー/フランス:フンニア・フィルムステュディオ/オッソ・監・脚:パウル・フェヨシュ)
4.脱走者 (106分・1933・ソ連:メジラブポム・監:フセヴォロド・プドフキン)
5.旅する人々 (106分・1938・ドイツ:トビス・監・脚:ジャック・フェデー)
6.続・深夜の歌声 (107分・1941・中国:新華製片廠/中国聯合影業公司・監・脚:馬徐維邦)
7.戦火の大地 (90分・1944・ソ連:キエフ撮影所・監:マルク・ドンスコイ)
8.諜報員 (92分・1947・ソ連:キエフ撮影所・監・出:ボリス・バルネット)
9.2エーカーの土地 (131分・1953・インド:ビマル・ラーイ・プロ・監:ビマル・ラーイ)
10.世界大藝術家シリーズ ピアノ篇 アレクサンドル・ブライロフスキイの華麗なるワルツ (5分・1936・フランス:国際大芸術家協会・監:マックス・オフュルス)
たそがれの女心 (99分・1953・フランス/イタリア:フランコ・ロンドン/アンデュスフィルム/リッツォーリ・監・脚:マックス・オフュルス)
11.地の塩 (93分・1954・アメリカ:I.P.C. /鉱山選鉱製錬労働者国際組合・監:ハーバート・J・ビーバーマン)
12.イン・ザ・スープ (95分・1992・アメリカ/日本/ドイツ/フランス/スペイン/イタリア:ウィル・アライアンス/パンドラ/オデッサ/ホワイ・ノット・プロ/アルタ/ミカド・監・脚:アレクサンダー・ロックウェル)


そして、このプログラムのなかで、まず最初に見たのが、アレクサンダー・ロックウェルの伝説の映画「イン・ザ・スープ」1992でした。

もう、スティーヴ・ブシェミを見られるだけで十分です。ジム・ジャームッシュも実にいい味をだしています。ジェニファー・ビールスも可愛らしくって、申し分ないのですが、結局は美味しいところはすべてシーモア・カッセルが持っていってしまうという愛すべき映画です。

こんなふうに見ていると、猥雑さと哀愁ただよう不思議な三角関係を描いているこの映画、まるでひとむかし前のフランス映画(どこかロベール・アンリコの「冒険者たち」1966を連想させます)を見ているような幸せな気分にさせてくれました。映画に浸る悦楽って、きっとこういうことをいうのだなと思います。

国立映画アーカイブの今回の企画は、残念ながら現状では中止になってしまいましたが、きっと企画し直されて再開されるとは思います、しかし、万が一という可能性もゼロではありませんので、「幻の企画」になってしまったときに備えて、データだけはちょっと筆写しておきますね。

★イン・ザ・スープ In the Soup 
(1992米/日/独/仏/ス/伊)製作総指揮・鈴木隆一、製作・ジム・スターク、ハンク・ブルーメンソール、監督脚本・アレクサンダー・ロックウェル、脚本・ティム・キッセル、撮影・フィル・パーメット、美術・マーク・フリードバーグ、音楽・メイダー(95分・35mm・白黒)
出演スティーヴ・ブシェミ(アルドルフォ・ロロ)、ジェニファー・ビールス(アンジェリカ・ペーニャ)、シーモア・カッセル(ジョー)、ウィル・パットン(スキッピー)、パット・モーヤ(ダン)、スティーヴン・ランダッツォ(ルイス・バルファルディ)、フランチェスコ・メッシーナ(フランク・バルファルディ)、ジム・ジャームッシュ(モンティ)、キャロル・ケイン(バーバラ)、スタンリー・トゥッチ(グレゴワール)、エリザベス・ブラッコ(ジャッキー)、デビ・メイザー(スージー)、サム・ロックウェル(パウリ)、サリー・ボヤール(老人)、ロケッツ・レッドグレア(Guy)、ルース・マレチェコ(ロロ夫人)、デビッド・カントラー(ジョーの息子)、テッシー・ホーガン(ジョーの元妻)、ハイメ・サンチェス(テオおじさん)、スヴェトラーナ・ロックウェル(ウクライナの女性テナント)、ポール・ハーマン(E-Z レンタカー店員)、リチャード・ボーズ(ニーチェ)、トニー・キタルス(ドストエフスキー)、ケイヴィン・マクニール・グレイズ(警官の息子)、ロビンソン・ヤングブラッド(警官)、マイケル・J・アンダーソン(リトルマン、マイク・アンダーソン)、エディス・ベルモント(アンジェリカの姪、イングリッド・ウリベ)、ウィルソン・ガラルザ(アンジェリカの甥)、ラモン・オニール(アンジェリカの甥)、アニバル・オ・レラス(テオおじさんの友達)、
1992年サンダンス国際映画祭グランプリ受賞作品。
【ストーリー】
映画製作を夢見て500ページにおよぶ脚本を書き上げた貧しい映画青年アルドルフォ(ブシェミ)は、家賃も払えない生活に追われ、僅かな金で食いつなぐ日々を送っている。そこに映画製作の資金を提供しようという怪しげな男ジョー(カッセル)が現れる。ジョーに気に入られたアルドルフォは、隣室に住む美しい女アンジェリカを主役にして映画を撮ることを夢見ている。彼女には、気の弱い夫グレゴワールがいる。活力にあふれ破天荒なジョーにアルドルフォとアンジェリカは惹かれるながらも、振り回され続け、ついて行けなくなる。「フラッシュダンス」のジェニファー・ビールスの夫が監督。90年代アメリカにおけるインディペンデント映画の代表作となった。


この国立映画アーカイブ「NFAJ所蔵・外国映画選集2021」のなかで、うまく検索できなかった映画は2本あって、「7.戦火の大地」と「8.諜報員」のいずれもソヴィエト映画がyou tubeでの存在を確認できませんでしたが、しかし「4.脱走者」はフルヴァージョンを見られることが確認できたので、おそらくこの2本についても、単にタイプしたロシア語の綴りが間違っていたためにヒットしなかったのだと思います(特殊なロシア語字体をIMEで検索するのもいささか面倒なので、手近な英字体で代替して間に合わせてしまったことが原因だと思います)。見渡すとロシア映画(ソヴィエト映画)は結構アップされていると見受けられるので、正確な字体で辛抱強く検索していけば、きっとそのうちに本編にたどり着けるものと思います。

実は、「イン・ザ・スープ」のほかに、もう1本、見た映画がありました。No.14ハーバート・J・ビーバーマン監督の「地の塩」1954です。

このタイトルをリストの中に見つけたすぐあとに、たまたまNHK・BSプレミアムでエリア・カザンの「エデンの東」1955が放映されることを知り、なんだか不思議なめぐりあわせに、鳥肌が立つような思いに捉われました。

だって、ハーバート・J・ビーバーマン(1900-1971)は、マッカーシーの赤狩りで「ハリウッド・テン」として告発され、召喚された委員会で証言を拒否し、以後節を曲げずに収監された人ですよね。wikiでは、こんなふうに紹介されています。


≪ナチズムを批判した1944年の『幻影のハーケンクロイツ(英語版)』で注目を浴びたが、下院非米活動委員会で証言を拒否して議会侮辱罪に問われ、投獄された。6ヶ月後に釈放されたが、映画スタジオのブラック・リストに載ったため、ハリウッドから追放され、以降は自主制作を余儀なくされた。ニューメキシコ州の鉱山労働者のストライキの模様を描いた1954年の『地の塩 (1954年の映画)(英語版)』はカルロヴィ・ヴァリ映画祭でグランプリ受賞し、アメリカ国立フィルム登録簿とニューヨーク近代美術館に保存されている。≫


一方、エリア・カザンはというと、俗にいう「タレコミ屋」(罪を逃れるために仲間を密告しました)という陰口が定着し、映画人のなかではある距離をとって(引いて)語られることの多い有能な映画監督です。

たしか、アカデミー賞名誉賞の授賞式でも、出席者の一部からブーイングを浴びせられたことが、いまだ生々しい事件として記憶しています。まあ、いってみれば、このふたり、俗にいう被害者と加害者みたいな関係とイメージされていたのだと思います。

アカデミー賞「名誉賞」授賞式での様子は、wikiでは、こんなふうに描写されています。

≪1998年、エリア・カザンに長年の映画界に対する功労に対してアカデミー賞「名誉賞」を与えられたが、赤狩り時代の行動を批判する一部の映画人からはブーイングを浴びた(賞のプレゼンターはマーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロ)。
リチャード・ドレイファスは事前に授与反対の声明を出し、ニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランらは受賞の瞬間も硬い表情で腕組みして座ったまま、無言の抗議を行なった。
スティーヴン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしたが、起立しなかった。
起立して拍手したのはウォーレン・ビーティやヘレン・ハント、メリル・ストリープらだった。
通常は名誉賞が授けられる人物には、全員でのスタンディングオベーションが慣例のため、会場内は異様な空気に包まれた。
また、会場の外では授与支持派と反対派の双方がデモを行なった。反対派のデモ隊の中には、かつて赤狩りで追放歴のある脚本家のエイブラハム・ポロンスキーもいた。≫

しかし、皮肉なことに、権力の不当な弾圧に際しても敢然と戦い、最後まで決して節を曲げなかった正義と剛直の人・ハーバート・J・ビーバーマンやエイブラハム・ポロンスキーにしても、彼らの代表作とはなんだと問われて、即答できる人はそういるとは思えません(とくに、それが日本人なら、なおさらです)、その一方で、エリア・カザンの代表作は、と問われれば即座に答えられる、それも片手の指では足りないくらいの本数を答えることができます、もちろん、この「エデンの東」も世界映画史上欠くことのできない傑出したアメリカが生み出した名作のひとつです。

以上のそうしたイキサツと特別な思いもあって(伝説の映画を見ることができるという大いなる期待です)、やっと「地の塩」1954を見たわけですが、正直、ものすごく落胆しました。

ニューメキシコの鉱山で働く労働者たちのストライキが悪辣な資本家やその手先の警官によるスト破りの暴力などによって頓挫の危機を乗り越え苦難の勝利を勝ち取るまでの顛末を、女性への内部差別などもからめて描いた満艦飾の労働争議映画なのですが、まるでそのストーリーは、なにかの方程式のように定型化した工夫も魅力もない構図で描かれていて、提供された労働組合からの製作資金と映画人のプライドとを引き換えにしてしまったような印象の映画でした、これではまるで日本の、山本薩夫や亀井文夫が撮った愚劣なひも付き宣伝映画となんら変わるところはない作品(映画以前のもの)ではないかという印象しか抱くことができませんでした。

映画が為し得る「表現」の可能性を捻じ曲げ悪用して、政治の「道具」におとしめる愚劣な策謀と物乞いの姿勢に貫かれた卑しい演出は、映画人として恥ずべき行為というしかなく、正直、この「地の塩」には、そうした嫌悪感しか抱くことしかできません。
この直後に見たジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」と比べるとき、同じ鉱山の事故とストライキを主軸に据えた物語であるのに、貧しい家族の幸せな日々と離散、そして崩壊に至る追憶を、哀愁のなかで抒情深く謳いあげたジョン・フォード作品と比べること自体、惨いくらい明らかに見劣りする貧弱な作品だと一層の落胆を余儀なくされたという感じです。

そうしたイキサツを経て、まるで必然的みたいな流れで「エデンの東」を見る機会がめぐってきたのですが、自分はいままで、この作品を息子キャル(ジェームズ・ディーン)と父親アダム(レイモンド・マッセイ)との葛藤を中心に据えた映画だとずっと思いこんで見てきたことが、なんだか、少しずれていたかもしれないという疑念(誤りだったとまではいいませんが)に捉われました。

父親の誕生日に、息子キャルが大豆の投機で儲けた金(少し前に父親がレタスの冷凍輸送事業に失敗して失ったのと等しい金額です)をプレゼントとして差し出すと、父親から戦争で儲けた不正な金など受け取れるものかと突き返され、その不道徳を激しくなじられます。

キャルは、そのような父親の冷たいアシライと拒絶に思わず逆上し、積年の怒りをぶつけながら父親にむしゃぶりついていく場面です。

「なぜオレの金を受け取れないんだ、あんたのためにオレが稼いできた金だぞ、オレのことをなぜそれほど拒むんだ」と泣きながら詰め寄るジェームズ・ディーンの繊細にして圧巻の演技を示したこのシーンこそが、この作品のクライマックスだとずっと思い込んでいたのでした。

もちろん、重要な「クライマックス・シーン」であることには違いありませんが、今回、改めて見直してみて、この場面を自分はいままで、ここだけ孤立したシーンと捉えて、底の浅い「感動」に都合よく収めていただけだったのではないか(物語のすべてが集約している「クライマックス・シーンのほんの一部」にずぎないのに)という疑問にぶつかったのです。

ジェームズ・ディーンの圧巻の演技に思わず見惚れ、目を奪われてしまったために、自分的に物語全体の流れを追い切れずに、断ち切られた前後のストーリーまで目くばりができず、たどってきたはずの「ストーリー」が飛んでしまったという「疑念」です、それはそれで大変幸福な状態と映画経験ではありますが。

このときの父親に掴みかかって訴えるキャルの怒りは、少し前の場面で、いまは酒場を経営している母ケート(ジョー・ヴァン・フリート)のもとへ、大豆の投機に必要な金を借りにいったときに交わされた会話に潜んでいます、なぜ妻ケートは、夫アダムの元を去ったのか、その際に、なぜ夫に銃を向け発砲するほどの憎しみと怒りに駆られたのか(息子たちの前では父アダムはそのときの傷を誤って事故で負った傷だと誤魔化していました)、そのわけを母親の口から明かされる場面です。

夫アダムは私に「聖書」を読ませて私の自由を奪い自分の元に縛り付けようとした、あの男は、そんなふうに自分の気持ちを誤魔化すことしかできない偽善者のつまらない男だ(そのことなら息子キャルにも思い当たるフシがあります)、人をつなぎとめる自信も力も言葉もないから、「聖書」を読ませるという愚劣な手段によってしか人に思いを伝えられないし語れもしない、いや、そもそもあの男に伝えたいと願う「思い」なんてものがあったのか、そんなものは到底「愛」なんかじゃない、ただの身勝手な欺瞞に満ちた嘘っぱちだ、そのことで、私が、そして他人がどんなに怒っているか、それさえも、あの男には分からりゃしない、なにが「聖書」だ、私は、自分を偽って生きるあの男の愚かさと身勝手さに心底うんざりしてあいつを撃ってやったんだ、と母ケートは家を出た理由を息子キャルに語ります。

しかし、「自由」を求めて家を出たはずの母ケートにしても、そこに安らぎの生活があったかというと、酒浸りで自分をさいなむことしかできない爛れた生活しかなく、自暴自棄のなかで生きている彼女の日々を息子キャルは見ることになります。そして、彼女にとって、さらに残酷なことは、父親を尊敬し母親を理想化していた信心深い長男アーロンの「幻想」を、現実の母親に強引に逢わせることによって打ち砕き絶望のどん底へ突き落すその際に、兄への仕打ちと同じ悪意をもって母親をもまた突き放してみせた衝撃の場面、そこには、息子キャルの母親への同情とか思い入れなどひとかけらもない、どこまでも「父と息子の物語」であることを痛感させるものがありました。

ですので、ここで、あえて「母ケートとの会話を引き継いで、父アダムの誕生日のシーンを見ると」と文章を書き継いだとしても、その「母親の影」などいささかも留めていない姿勢には驚くべきものがあります。その眼差しは、まっすぐに父親にしか向けられていません。どんなに愚かで頑迷であったとしても、父親だけを見極めようとするかのような、まっすぐな一途さしかありません。

さて、父アダムから「戦争で儲けた不正な金など受け取れるものかと突き返され、その不道徳を激しくなじられた」ことに対して、息子キャルが、父親の冷たいアシライと拒絶に思わず逆上し、積年の怒りをぶつけながら父親にむしゃぶりつき「なぜオレの金を受け取れないんだ、あんたのためにオレが稼いできた金だぞ、オレのことをなぜそれほど拒むんだ」と泣きながら詰め寄るシーンに、さらに、「あんたには、なにもわかっちゃいない、あんたは最低な偽善者だな、『聖書』を持ち出して自分を誤魔化して他人も自分も欺き、それで母さんに見限られ、撃たれて、見捨てられても、まだ『そのこと』に気が付かない、いい加減にしろ、いつまでそんなふうに現実から目をそらして善人づらして生きるつもりなんだ」ということなんじゃないかな、と自分勝手に思いつくままに父親への呪詛の言葉を書き連ねていたとき、ある思いがふっと湧きあがってきました。

そうか、「地の塩」は1954年の作品、そしてこの「エデンの東」は1955年の作品だとすると、エリア・カザンが、「ハリウッド・テン」のひとり、ハーバート・ビーバーマンが撮った「地の塩」を意識していないはずはない、息子キャルの父親への呪詛の言葉は、そのまま、「あのこと」と「彼ら」に対するエリア・カザンの思いが込められているのではないか、と思えてきたのです。

「あんたには、なにもわかっちゃいない、あんたは最低な偽善者だな、『正義』を持ち出して自分を誤魔化して他人も自分も欺き、それで観客からも見限られ、撃たれて、見捨てられても、まだ『そのこと』に気が付かないでいるのか、いい加減にしろ、いつまでそんなふうに現実から目をそらして善人づらした建前ばかりで生きていくつもりなんだ。いいか、よく覚えておけ、ペンシルベニア大学では教えてもらえなかったかもしれないが、自分から手を汚さなければ掴み取れない人生の真実というものが、この世にはあるんだぞ」と。

かくして、僕たちは、「地の塩」を見、また「エデンの東」を見て、「地の塩」の方はもう二度と見ることもないだろうと直ちに忘れ去り、一方、「エデンの東」がまたいつか再放映されることがあれば、そのときもまた是非とも見なければ、という熱い思いに駆られたりするのでした。


エデンの東 East of Eden
(1955)監督エリア・カザン、脚本ポール・オズボーン、原作ジョン・スタインベック『エデンの東』、製作エリア・カザン、音楽レナード・ローゼンマン、撮影テッド・マッコード、編集オーウェン・マークス、製作会社ワーナー・ブラザース、
出演ジェームズ・ディーン(ケイレブ(キャル)・トラスク)、ジュリー・ハリス(アブラ)、レイモンド・マッセイ(アダム・トラスク)、ジョー・ヴァン・フリート(ケート)、リチャード・ダヴァロス(アーロン・トラスク)、アルバート・デッカー(ウィル・ハミルトン)、ハロルド・ゴードン(グスタフ・アルブレヒト)、ティモシー・ケイリー(ジョー)、ロイス・スミス(アン)、バール・アイヴス(サム・クーパー)、


# by sentence2307 | 2021-05-16 12:21 | エリア・カザン | Comments(0)

牧師の未亡人 ふたたび

10年か15年くらい前になりますが、「世界の映画監督」というプライベート・リスト(50音順です)を、ある映画のサイトの記事を参考にして作成しました、内容といっても、ごくシンプルに「監督名」と「代表作」がただ羅列されているにすぎません。

べつに、わがブログのトレードマークである「作品の優劣にこだわらず手当たり次第に映画を見る」というコンセプトに揺らぎはないのですが、あるとき、ふっと気が付いたのです。「手当たり次第に映画を見る」といっても、ダラダラとただ本数を消化するだけなら、なんの意味もないじゃないか、その前に、少なくとも監督の代表作なり作品の世評なりの予備知識を得ておくくらいのことは必要なのではないか、と。

とにかく、単に「手当たり次第、映画を見る」というだけでは、どうにも疲れて仕方ありません、そんなことでは到底長続きするわけがない、なんだかんだいっても、世評の高い映画はやっぱり感動できますし(国際映画祭でグランプリをとったような作品なら、そりゃあ当然でしょう)見るモチベーションからして最初から違い物凄く気持ちを挙げてくれます、それに、そうした感動を得られれば日常生活にも影響して「張り」だって出てこようというものです、活力も湧いて、やる気も出て、しかも健康にもいいときています。

それに引き換え、どうしようもなくヘタレな映画を無理して見ていて、だんだん意気消沈し、脱力感に襲われ、そのうち悪寒とか熱まで発して、なんだかすべてが面倒くさくなり、なんでこんな駱駝のゲップみたいなつまらないものに付き合わされなければならないのだと、貴重な時間を無駄にされたと苛立ち、その後も尾を引いた嫌悪感で2か月くらいは鬱状態になって生活にも支障をきたすという、もう映画なんかどうでもいいくらいのダメージを受けてしまったこともありました。

なにごとにも無防備はいけません。まあ、このリスト、ざっくり言えば、自分が映画を見るための手がかりというか、プライベートな「手引き書」のようなものだと思ってください。

いままでなら、監督名と作品が、ただの文字の羅列でしかなかったものが、作成した我がリストを機会あるごとに眺めていたら、だんだん、彼の「代表作」とか「評価されたけれども不遇な作品」とか「まったくの失敗作」とか、そのためしばらく干され撮る機会に恵まれずに「やっと撮ることのできた作品」とか、いろいろの作品事情が時系列で識別できて、自分の中に明確な作家像と製作地図とかが出来上がったような気がします、いままでの自分は、ただ当てもなく、荒涼たる砂漠を無我夢中で彷徨っていた見捨てられた迷い子にすぎなかったのではないかとさえ思えたくらいです。

そうそう、このリスト、ただ眺めているばかりでなくて、新しい作品を鑑賞したら、監督名のあとにそのタイトルを書き入れて更新します。そして、その作品がもの凄く感動した作品だったなら、ちょっとした印をつけるくらいはしていますが、べつにそれは絶対的なものとかじゃなくて、少し時間が経って再見し「それほどでもないか」と思えば(心変わりは、よくあります)その記号は消してしまいます、がタイトル自体を消すことはありません、そういう「蓄積」を行っています。

さて、前置きが長くなりましたが、わがリストで、カール・ドライヤーが、どう記されているか、ご紹介しますね、


★カール・T・ドライヤー(1889.2~1968.3)デンマーク「あるじ」1925「裁かるゝジャンヌ」1928「吸血鬼」1931「怒りの日」1943「奇跡」1955


という感じ。「えっ~、そんな簡単なの!? しかも、たった5本?」と、あまりにも素っ気なさすぎて、きっと驚かれると思います、これはネットから拝借したもので、基本「自作」ではないので、言い訳みたいになりますが、これはこれでいいんじゃないかなと思っています。

映画が発明されてから1世紀と少しの間、自他ともに映画監督といわれた人たちは、何百人、何千人といたでしょうから、いかに敬愛するカール・T・ドライヤーといえども、名目上(カタチだけは)あくまでも何百人・何千人分の一人の扱いで十分であって、たとえそれが外見上はたったの「2行」のものにすぎなくとも、表記それ自体で十分に輝いているのですから、なんら問題はありません、大丈夫です。

そうそう、この項目にある≪「奇跡」1955≫ですが、死産し母親も危篤状態、やがて息を引き取って棺の中に収められた女性(妻)が、死から甦るという奇跡を描いた厳粛な名作です、むかし、自分が草月会館で見た当時は、確かこの映画、「ことば」とタイトルされていたように記憶していて、原タイトルの「Ordet」も、デンマーク語で、やはり「言葉」という意味だと聞いたことがあります。

そりゃあ、自分だって、「ことば」なんかよりは、ずばり「奇跡」の方が、よほどスマートで見栄えが良く、分かり易くて絶妙なタイトルに違いないとは思いますが、でも作家の意向のほうは「どうなの」という疑問は、やはり残りますね。

たぶん(これは、間違っていたらごめんなさいね、の「たぶん」です)、「ヨハネ伝」の最初の部分、

≪はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき≫

を指しているのではないのかなと、チラッと考えたことがあります。

でも、すぐに、「なぜ、言葉?」という疑問がわいてきました。

そりゃそうですよ、いよいよこの世界を創造しようかというときにですよ、もっとも必要とするものが「言葉なの?」という疑問です、だって、ほかに必要な物なら幾らでもありそうなものじゃないですか。ある、ある、きっとある。そりゃあ、あって当然でしょう。

その「ヨハネ伝」も、このあと、こう続けています。

≪この言葉は、はじめ神とともにあり、
ヨロズのもの、これによりてなり、なりたるものに、ひとつとしてこれによらでなりたるはなし。
これに生命あり、この生命は人の光なりき。
光は暗黒に照る、しかして暗黒はこれを悟らざりき。≫

これって、むしろ逆なんじゃね、と思ったのです。

まず人間が作られ、命を与えられ、命の光が暗黒を照らす、そして、人は言葉を得る。

この方が、むしろ理屈が通っているし、スッキリもするような気がしたのです。

それがアナタ、よりにもよって「言葉」ですよ、わけが分かりません、まったく世間知らずにもほどがあるってもんじゃないですか、あまりにもロマンチックすぎて「神さま、あんたって詩人か」と突っかかりたくなる思いさえしました。

しかし、まあ、神さまにそんな因縁をつけても仕方ありません、だって、もうできあがっちゃったものを、いまさらどうこう言ったところで、もとの原初に戻るわけもなし。

いやいや、これは言いすぎました。

ワタシはといえば、遥か極東の果てに生息し、背は驚くほど低く、猫背で、頭にはいまだチョンマゲを戴き、眼鏡をかけた出っ歯で、肩からカメラをぶら下げていて、いつも薄気味悪い微笑を絶やさず、自分でもなにを考えているのかさっぱり分からない抜け目のない不気味さと狡猾さとで、優越感でふんぞり返っている間抜けな白人のすきを窺っては、あわよくばひと儲けしてやろうと企んでいる黄色い肌をしたコテコテの東洋人なのであります。
しかし、そうやって得た金ですっかり肥え太ったいまの日本人のほとんどが、自分をすっかり「白人」だと勘違いしている人ばかりで、そういう人たちの中で生きていかなければならない「東洋人」の生きずらさというものは、確かにあります。

そもそも、信仰心とかもきわめて薄く、しかも仏教徒ですらない、ナマステ、「聖書」なんてものはアナタ、教養書のひとつとしか考えていないような、こんなわたしがですよ、「まずは言葉だなんて、すっげおかしだろい」なんて、そんな大それたことを言えた義理なんかあるわけないじゃありませんか。

つまらない愚痴はそれくらいにして、リストの代表作「5本」という選択が、果たして正当な選択だったのかどうか、「牧師の未亡人」が外された意味も含めて、カール・T・ドライヤーの作品群を検索して確かめてみることにしました。(✓が、リストにあがっていた作品です)


1919
裁判長Præsidenten(89分・白黒・16fps)
サタンの書の数ページ Blade af Satans Bog(148分・白黒・18fps)
1920
牧師の未亡人 Prästänkan( )
1921
不運な人々Die Gezeichneten(84分・白黒・20fps)
1922
むかしむかしDer Var Engang(64分・白黒・不完全・20fps)
1924
ミカエルMikaël (89分・白黒・20fps)
✓あるじ Du skal ære din Hustru(118分・白黒・18fps)
1926
グロムダールの花嫁Glomdalsbruden(70分・白黒・不完全・18fps)
✓裁かるるジャンヌ La Passion de Jeanne d’Arc ( 97分)
1931
✓吸血鬼 Vampyr (70分 )
デイヴィットグレイの不思議な冒険
1943
✓怒りの日 Vredens Dag ( 97分 )
1945
二人の人間 Två människor( )
1955
✓奇跡 Ordet ( 126分)
1964
ゲアトルーズ Gertrud ( 117分 )


なるほど、なるほど、こう見ると、ドライヤーの円熟した後期の作品を集中的にアップしたというわけですね、そういうことなら、一応の納得はできます、ただ、自分が今回、書きたいと思っている「牧師の未亡人」は、前期も前期、1920年の作品で、しかも重厚で深刻な作品が多いドライヤーの作品のなかでもとても珍しい喜劇(と一般的には、いわれています)ときているので、その辺の困難はあるかもしれません。

しかし、この作品のどの部分が「喜劇」なのかと、ストーリーをたどりながらチェックしてみました。

・牧師の職に応募にきた神学生・競争相手に悪戯をして失敗させる。
・説教に退屈して居眠りする信者を棒でつついて起こして回る。
・牧師となる条件が、前牧師の老未亡人と結婚すること(4回目の結婚で薬指には指輪をはめる余地がない)だが、生活のために偽って結婚する。
・村人の嘲りを知り、良心の呵責に苛まれ、いっそ未亡人を殺してしまおうと決意し、殺人を計画するが、いざとなると実行できない。
・悲しむ恋人に老未亡人が死ねば一緒になれると慰める。
・悪魔の扮装で未亡人を驚かそうとして見破られて笑われる。
・老未亡人の監視をくぐって愛人に逢いにいくたびに失敗する間抜けさ。
・召使の老女の手を握りにかかったり(これは幻覚のためかも)夜這いをかけてしくじるなどの滑稽。(夜這いを察知してベッドをすり替えた老未亡人は、この段階ですべてを理解したはずです)
・二階にあがった未亡人に怪我させようと梯子を外しておいたら、まるで「天罰」のように恋人に大怪我をさせてしまった。
・事故を契機に未亡人からあつい看病を受けることに。
・未亡人は、自分で自分を傷つけていて、早く死にたかったのだと告白する。
・ふたりは偽りを告白・懺悔して、いままでの所業を詫び、心からの愛と尊敬をもって、その死まで彼女に尽くした。
・やがて老未亡人の寿命が尽きて亡くなり悲嘆にくれる葬儀。(真摯な悲嘆に打ちひしがれた姿が描かれている)
・出棺するときの独特のセレモニー。(厳粛な葬儀の様子が描かれていて、もはやこの部分に「喜劇」はない)牧師の未亡人の永遠の眠りを示す新しい十字架が立てられた。

などですが、本筋にあるのは、聖職者(身勝手で典型的な小悪党)が、自分たちが幸福になるために、他人(牧師の未亡人)の死を熱望して、積極的に「罠」を仕掛けたりするブラックさにあり、チョロチョロと策謀するたびに失敗を繰り返す滑稽さにあります。

たとえ最後の最後には悪企みを反省・後悔・懺悔するとはいえ、考えてみればその過程で行われる罠は、かなり悪辣で、「喜劇」の枠をはるかに超えた、一歩間違えば金目当ての凄惨な殺人事件へと展開しかねない、ほとんど紙一重の陰惨な緊張感が保たれていて、いかにも後年のカール・T・ドライヤーらしい、死の影に覆われた中世独特の土俗的描写と、暗く重厚な風格を有した悪意の物語であることに変わりないという印象を持ちました。

「世界映画人名事典・監督編」には、「牧師の未亡人」について、≪徹底したロケイション主義と土俗味の点てシェストレームやスティルレルの影響が認められる。以後数年間の仕事を通じてドレイエルはデンマーク映画を芸術水準世界一におしあげた≫あるいは≪この作品には、ノルウェーへの長期ロケによって、生きた化石のような農民生活が克明に描かれていて、民俗学の教科書のような趣きさえあった≫と絶賛しています。関係資料によれば、影響を受けた4作品というのは、

・ヴィクトール・シェーストレーム監督「波高き日」1916「生恋死恋」1917「イングマールの息子」1918
・モーリッツ・スティルレル「吹雪の夜」1919

をあげたうえで、カール・T・ドライヤー3作目「牧師の未亡人」が、以後の北欧映画に与えた意義をこんなふうに説明しています。

≪これらの作品が、その頃までスタジオのなかに閉じこもっていたカメラを大自然の中に引き出し、自然風景の新鮮な魅力を始めてスクリーン上に持ち込んだ点で大きな意義を持っていることは映画史に記されている通りであり、これらのスウェーデン映画における自然描写の手法がこの作品の随所に用いられていて新しい特色となっている。
この作品では、セットは一つも使用されず、すべてのショットは、ノルウェーの自然風景、外装とインテリアの両方のショットは、ガルモ・スターヴ教会とリレハンメル市近郊に作られたノルウェーの貴重な建築物を集めたマイハウゲン博物館、そして農家で撮影されたもの。また、この作品にエキストラとして出演している農民たちはグルドブランドの住民で、彼らは、尊敬する詩人ヤンソンの作品の映画化ということで進んで協力したと伝えられている。≫

(1920スウェーデン)監督脚本カール・テオドール・ドライヤー、原作クリストファー・ヤンソン『プレストコネン』1901、撮影ゲオルゲ・シュネーフォイグト(ジョージ・シュネヴォイクト)、製作・スヴェンスク・フィルミンドゥストリ(83分・白黒・18fps)
出演ヒルドゥール・カールベルイ(マルガレーテ・ペダースドッター)、アイナール・レード(ソフレン)、グレタ・アルムロート(マリ)、オラフ・オークラスト(神学生)、クルト・ヴェリン(神学生)、エーミル・ヘルセングレーン(召使スタイナー)、マチルデ・ニールセン(召使女グンヴォル)、ロレンツ・ティホルト(鐘撞き男)、ウィリアム・イヴァルソン(司祭長)



★追記

以下は、「奇跡Ordet」(または「ことば」)の部分、「はじめに言葉あり」の、さらなる説明として準備した素材です。

田邊元「哲学入門」1949は、ゲーテの「ファウスト」を引用して、「初めに言葉あり」を説明しようとしています、要約して嚙み砕き、該当箇所に収めようと企図したのですが、どのようにアレンジしても冗長になることが避けられないので、結局、割愛しました。ご参考になれば、このうえなく・・・。

≪「はじめに言葉あり」という場合の「言葉」は、logos、それをファウストがドイツ語に翻訳しようとして(日本語でもロゴスをギリシャ語の原意に従って、「初めに言葉あり」と訳しているのと同じように)、ファウストも、まず第一に、ロゴスを言葉(das wort)と訳してみる。しかし、ファウストは気に入らない。
彼は言う、自分は言葉にそんなに重きをおいていない、と。そこにはギリシャの世界観、ギリシャ人のロゴスの世界観、言葉の世界観というものがあり、アリストテレスにも、存在は語られるものだという前提がある。そこにギリシャの存在学が、言葉と離れられない関係を持つものであることが認められる。ゆえに「ヨハネ伝」は、ギリシャの思想を福音に注ぎ込んだものであるのだから、「言葉あり」という訳でもいいわけだが、しかし、ファウストには気に入らない。
そこで今度は言葉の代わりに意味とか心(der sinn)とかに翻訳してみる。ロゴスを今度は心と訳してみた。そこにいう心とは、われわれの心ではなく、世界には意味がある、神が世界を造るには、神がある心をもって、すなはちある意図をもってしたのであるから、世界には意味がある、心があるというのである。そういう意味でロゴスを心と訳した。いまわれわれがそれを歴史に当てはめて考えると、「言葉あり」は、ギリシャの立場であり、心はヘブライの考えであるといえよう。旧約の神が世界を自分の全知全能によって造るという、そういう意志、心である。それでもファウストは気に入らない。
そこでまた更に改めてロゴスを力(die kraft)と訳してみた。力は、工作的な人間の原理であって近世的なものである。しかし、それでもまだファウストは落ち着かない。最後にファウストは、行為(die tat)と訳した。これは歴史主義の現状と合致するといえる。初めにあるのは、行為である。ロゴスを行為と訳すことによってファウストはやっと満足することが出来た。
もっとも、ファウストの物語は中世のものであるが、しかし、ゲーテの「ファウスト」は、彼の世界観を盛ったものである。それをさらに私が歴史的に、ギリシャ、ヘブライ、近世、現代というふうに当て嵌めてみたのであるが、それほどの困難を感じさせないのは、ゲーテの直感が彼の時代を超えて、現代にいたるその後の世界までをも見通していたということであろうか。偶然にせよ、これは大変興味深い指摘である。
ギリシャでは言葉であり、ヘブライは心(神の意志)であり、近世になればそれは力であり、それから歴史主義の時代、現代になれば、わざであり行為である、と解釈することができる。
ロゴスは、歴史の立場でいえば、行為でなければならないというのが、ファウストの言葉の中に現れたゲーテの世界観、ゲーテの思想であるといわれる。≫


自分が「はじめに言葉あり」の「言葉」に直面したとき、なんのことだかさっぱり分からない違和感に戸惑ったのも、もともとキリスト教(またイスラム教)とは無縁の場所で成長した日本人にとって、いきなり「言葉とはなんぞや」などと問われても、その語句のもつ宗教的歴史的意味合いを即座に直感できるほどの「宗教的素養」など有しておらず、元来が「持ってなかった」のだから、相応するものとして「言葉」だとか「心」だとか「力」だとか「行為」だなどと、幾ら提示されても、へえ~、そういうことなら、きっとそうなんだろうね、くらいの答えしか発せられないというのも、もっともな話で、どこまでいっても頼りなさが付きまとうしかありません。かといって、「無神論」なのかというと、それほどの徹底性は、もちろんない。とにかく、こちらは、ただひたすらnothingなのですから、微動だに出来るわけがないのです。
しかし、「logos」の説明として、提示された「言葉」や「心」や「力」や「行為」のどれかか、あるいは、そのすべてを動員したところで、どうも十分な説明ができたわけではないらしい、時代が移り状況が代われば、そのぶん意味もずれて、さらにまたそれに見合った文言が必要とされ、提示されなければならないのだと解しました。「logos」という巨大な理念の一端を説明できるのは、いつもほんのささやかな一片の言葉だけで、その知的作業をいくら施しても、理念のすべてを説明できるほどのものはない、ということなのだろうと思います。
そこで、ふっと思い出したことがありました。

伊藤整「近代日本における『愛』の虚偽」の一文
≪日本人が、明治初年以来、「愛」という翻訳言葉を輸入し、それによって男女の間の恋を描き、説明し、証明しようとしたことが、どのような無理、空転、虚偽をもたらしたかは、私が最大限に譲歩しても少しも疑うことができない。すなわち、人類愛、ヒューマニズムという言葉も同様である。≫

古来、日本にはもっと多様な感情が、多様な言語によって個々に表現されていたはずなのに、「愛」という翻訳言葉(ヨーロッパから輸入されたキリスト教的ニュアンス)が入ってきたことによって、繊細で微妙な気持ちの揺らぎは、つまらない紋切り型の感情に類型化されて鋳型に嵌められて均され、結局、その虚偽の「愛」をもってしては、他者とうまくつながれない孤独な現代人を生み出したのだと、伊藤整は説明しています。
夏目漱石は、教え子に、「アイ・ラブ・ユー」を「月がきれいですね」と訳せと言ったと伝えられています。
しかし、漱石の教えから、なにひとつ学ぶことのできなかったわれわれ残念な日本人の末裔は、困難な概念を理解した振りをして命名し、とにかく前のめりで、なにもかもを受け入れようとしてきた、そういう「文化」だったのだと思います。「愛」もそうだったろうし、「コンピュータ」もそうでした、「計算」以上のことができるAI(電脳)を、せいぜい「電子・計算機」と訳すくらいが精いっぱいで、理解できないまま、知ったかぶりをして受け入れてしまう「文化」の、想像力の限界をこれらの「言葉」は示しているのかもしれません。




【参考】

・ストーリー
ノルウェーのある山麓の小さな村の教会の老牧師が亡くなって、空席になった牧師の後任を決める選出が行われることとなった。
近くの教区から恋人のマリを連れて応募にやって来たソフレンは、苦学してきた貧乏牧師補で、牧師の職を得て収入が安定しないことには、何年も愛し続けてきたマリとの結婚もおぼつかない状態だった。
この牧師の応募者は、このソフレンのほかに、コペンハーゲンからやってきた神学生が二人いた。
試験は、教会に集まってきた村人を前に、説教壇から説教すること。
最初に説教壇にあがった痩せた神学生の説教には、村人たちは退屈して居眠りを始めた。
次に説教壇に立った太った神学生の後頭部には、ソフレンが密かに付けた鳥の羽毛が話すたびにひらついて、それに気づかない神学生に、村人たちは笑い転げて説教にならなかった。
そのうえ、ここの牧師に選ばれた者は、前牧師の老未亡人マルガレーテと結婚しなければならないと知って、二人の神学生はあわてて逃げ去った。
結局、ひとり残ったソフレンが、ここの牧師になることに決まった。
その夜、老マルガレーテと食事したソフレンは、悲しむマリをよそに、この牧師館に泊まることになった。
翌朝の食事の際、酒を飲みすぎたソフレンは、幻覚に捉われて、目の前にいるマルガレーテの顔にマリの顔をだぶらせた。
そのあとでソフレンは、森の中に行って悲しむマリに逢い、老い先短い老未亡人が死にさえすれば、われわれは一緒になることができると、彼女を慰める。
そこにマルガレーテがやってきたので、慌てたソフレンは、マリを妹だと偽ってマルガレーテに紹介し、そして、女中として牧師館で働かせてほしいと頼み込んだ。
それから数週間後、隣村の牧師の立会いのもとで、ソフレンとマルガレーテの結婚式が地方色豊かな儀式と踊りのなかでとり行われた。
これで4度目の結婚式をあげることになったマルガレーテの薬指には結婚指輪をはめる余地がないので、新しい指輪は、中指に嵌められるのだった。
歳月は過ぎ去るが、老マルガレーテは、依然健康なので、ソフレンはマリとゆっくり会うことができなかった。
ソフレンは、森の中で織物を織る召使の老婆をマリと勘違いして、その手を握ったところをマルガレーテに見つかったり、夜中にマリのベッドにもぐりこもうとしたところをマルガレーテに見つかってしまい、自分の醜態を取り繕うために、にわかに腹痛が起こったと嘘をついたため、苦い薬を飲まされる羽目になったりした。
マルガレーテの死が一日も早からんことを願うソフレンは、魔法の本からヒントを得て、悪魔に扮し、マルガレーテを恐れさせ死期を早めさせようとしたが、彼女に足を見られて見破られて笑われ、失敗した。
その翌日、マルガレーテが納屋の二階に上がるのを見たソフレンは、マルガレーテを墜落させて大けがをさせようと梯子を外しておくが、間違ってマリが落ちてしまい大怪我をさせてしまった。
ソフレンはマリをマルガレーテのベッドに運んだ、脳震盪を起こしたマリは太ももの骨を折っていた、数週間にわたり、手厚い看護をするマルガレーテを見てソフレンはマルガレーテに好意をもつようになる。
ある日、ソフレンとマリがベッドサイドに座っているときに、マルガレーテは告白する。
「私の最初の夫が、この牧師の空席に応募したとき、牧師になる条件として、未亡人と結婚しなければならないことを知りましたが、彼と私は、未亡人の体が弱く、長生きできないことを知りました。それは貧しい私たちにとって願ってもない邪悪な痛い誘惑でした。神よ私たちをどうか許してください、私たちは他者の死を望んで幸せを築きました。」
そのマルガレーテの告白に胸を打たれたソフレンも告白した、「私とマリは兄妹ではありません、彼女は私の婚約者です。私たちは、あなたの死を待っていたのです、マルガレーテ、許してください」
この告白に、最初マルガレーテは驚いたが、やがて表情が柔らぎ「かわいそうな子供たち」とつぶやく。
そのときから、ソフレンとマリは一緒にいられるようになり、マルガレーテも夫の墓参りをして教会の庭で静かで安らかな彼女の時を過ごした。
ある朝、マルガレーテが朝食に降りてこないので、ソフレンとマリが寝室に見に行くと、マルガレーテは眠ったまま安らかに亡くなっているのを見つける。
ソフレンはベッドの横にあるメモを見つける、「私の死すべき遺骨が取り除かれるとき、ドアの上に馬蹄を置き、私があなたに出没しないように私のお墓の周りに亜麻仁を植え付けることを忘れないでください」と。
マルガレーテは夫のそばに埋葬される。
ソフレンとマリは悲しみのうちに彼女の墓の前で祈りをささげる、そしてソフレンが言う、「マルガレーテは私たちに多くのことを教えてくれた。あなたには良い家庭を保つようにと。そして私には名誉ある高潔な人であれと」



・「牧師の未亡人」に影響を与えた映画・4本

★ヴィクトール・シェーストレーム監督
【波高き日 1916】
イプセンの叙事詩。19世紀の初め、ナポレオン戦争時代。イギリスの海上封鎖網をくぐり、飢えた妻子に食料を運ぼうとしたテルイエは捕らえられ、投獄される。5年後に釈放されて帰国したとき、妻子は既に死んでいた。絶望したテルイエの前を漂流する小舟。乗っていたのは、自分を捕らえたイギリス海軍の将官とその家族。テルイエは一度怒りを覚えて復讐しようとするが、彼らの哀願に心が動き、寛大に彼らを救助してやる。
【生恋死恋 1917】
アイスランドの作家シーグルド・ヨンソンの叙事詩。19世紀末のアイスランド。放浪の男ベルイ=エイヴィンドは、ある村の横暴な地主からその妻ハラを奪い去り、山に立てこもる。二人のあいだには子供が生まれる。やがて下界の地主の復讐でその子どもさえ失った二人は、雪に埋もれて死んでいく。
【イングマールの息子たち 1918】
1896年に教区から行われた移民を描いたセルマ・ラガーロフの小説「エルサレム」に基づく。裕福な家の息子、若きイングマール・イングマーソンは、社会階級の下の若い女性ブリタと恋に落ちる。ブリタは家族の状況を改善するためだけにイングマールと結婚することに決めたが、彼女はイングマールと彼の周りすべてに大きな憎しみを持っている。ともに殺人のポイントにかなり劇的な関係を経験します, そのうちの一人が移住したいと思う、シェーストロームは、セルマの最初の2つの章を適応させるためにほぼ2年を費やした。この精巧でファンタジーを帯びたメロドラマは、「天国へのはしご」(パウエルとプレスバーガー)と過去のイングマーズの結論を組み込むことによって、1940年代の幻想的なロマンスを予見した。
★モーリッツ・スティルレル監督
【吹雪の夜 1919】
16世紀後半、陰謀の罪で投獄されたアルシー卿たち三人は、雪に乗じて逃走した。彼らは雪に閉ざされたスウェーデンの片田舎、人里離れた家へ忍び込んでその家の主人アーネを殺し、金を奪って海岸近くの宿屋に隠れる。殺害を免れ孤児となったアーネの姪・哀れな少女エルサリルは、偶然その宿屋で働くことになり、運命のいたずらから親を殺害したアルシーを恋するようになってしまう。アルシーは彼女を人質にしてなおも逃げようとするが、結局捕えられ、やがて共に死ぬ。海氷に閉じ込められて捨て去られた船の黒い影のほとりを長い葬列が黙々と通り過ぎるシーンは、厳粛な絵画美がある。


・カール・テオドール・ドライヤーが選んだ名作10本(1963)

1  『吹雪の夜』(1919 マウリツ・スティルレル)
2  『イングマールの息子たち』(1919  ヴィクトル・シェーストレーム)
3  『イントレランス』(1916 D・W・グリフィス)
4  『クランクビーユ』(922 ジャック・フェデール)
5  『灼熱の情火』(1923 エルンスト・ルービッチュ)
6  『戦艦ポチョムキン』(1925 セルゲイ・エイゼンシュテイン)
7  『母』(1926 フセヴォロド・プドフキン)
8  『イワン雷帝』(1945 セルゲイ・エイゼンシュテイン)
9  『ヘンリー五世』(1944 ローレンス・オリヴィエ。DVD題『ヘンリィ五世』)
10 『地獄門』(1953 衣笠貞之介)



# by sentence2307 | 2021-05-05 14:03 | カール・ドライヤー | Comments(0)

ジュディ 虹の彼方に

今年のアカデミー賞授賞式は、初めから終わりまで、通してゆっくりと見ることができました。

コロナの影響もあってか、例年に比べるとずいぶん抑えた静かな授賞式だなという印象をもったのですが、そのなかでも特に印象に残った場面がありました。

「主演女優賞」の受賞者を名指しする場面、プレゼンターは、前年「ジュディ 虹の彼方に」で主演女優賞を受賞したレニー・ゼルウィガーがつとめていて、ノミネートされた女優たちを次々に紹介したあとで、いよいよ受賞者フランシス・マクドーマンドの名前を読み上げてからのリアクションが、ちょっと気になったのです。

「スリー・ビルボード」で受賞した際にも強く感じたことですが、マクドーマンドは、近年、ますます気難しくなり(のように見えます)、表情に社交性というか、サーピス精神なんかほとんど消失し、「微笑」とか社交儀礼的な表情も意志的に一切排除しようとしているかような印象があります、もっとも、マクドーマンドがもともとそういうクールな人で、分かっている人なら「あんなもんだよ」と一蹴されるレベルの話なのかもしれませんが、パッと見、ほとんど「こんな下らないことで、誰が笑えるもんか」みたいな取りつくしまもない仏頂面で、なにしろ受賞会場にいる映画人のほとんどがきらびやかな正装で身を固めているなかで、まるでそれらを挑発するかのような質素な普段着(それも「よれよれ感」をさらに目立たせるために、懸命にマイナスの努力に励んだのではないかと勘繰りたくなるくらいの「ノマドランド感」で、あえて演出したのではないかという迫真のリアル感がありました)は、まるで華やいだ会場の雰囲気に対して挑戦・抗議しているようにも感じました。

しかし、「マクドーマンド」の方もそれはそうなのですが、マクドーマンドの名前を読み上げたプレゼンターのレニー・ゼルウィガーの方だって負けていませんでした、読み上げるやマクドーマンドの登壇なんか待つことなく、さっさと(プレゼンターたるもの、受賞者を待って祝福するとか挨拶くらいはして楽屋に消えるというのが礼儀なのではないかと思いますが)受賞者の方を見ることもなく、冷ややかな素知らぬ態度で、そそくさと舞台から消え去りました。

「やっぱ、コロナだから『接触』とか『密』なんかを避けたのか」とも思ったのですが、いやいや、そんなことはありません。だって、彼女、楽屋に消えるときに前の方に坐っていた知人の誰かに、わざわざ歩み寄り笑顔で握手と挨拶をしてたくらいですから、マクドーマンドとの微妙な関係や空気感、そして距離感など、やっぱなんかいろいろとあるんじゃないかなと、臨場感あふれるリアルな中継番組を見ながら感じた次第です。

もっとも、マクドーマンドが、あの顔でへらへらと薄笑いを浮かべて愛嬌を振りまかれたりしたら、かえって気持ち悪いかもしれません、そうそう、久しぶりに「ファーゴ」1996を見たのですが、彼女、随所で実に可愛らしい爽やかな笑顔を見せている場面もあったので、まだこの頃は笑っていたんだなと、しばし感慨にふけりました。


さて、そのレニー・ゼルウィガーの「ジュディ 虹の彼方に」ですが、遅ればせながらやっとwowowで見ることが出来て、やはりラストシーンには感動させられ、思わずホロリとしてしまいました。

そのラスト、愛する人に去られ5度目の結婚にも失敗し、ショーの仕事も解雇されたジュディが失意と傷心のなかで、自分の代役をつとめるギタリストのショーを見てからクラブを去ろうと思い立ち、昨日まで出演していた舞台のソデから客席の観客たちの顔を見た瞬間、にわかに歌いたい衝動にかられステージに飛び出し、見事な歌唱力で歌い出すシーン。

その歌が大喝采を受けたあとの次の曲、ジュディを大スターに押し上げた「オーバー・ザ・レインボウ」を歌いだしたとき、彼女の脳裏をよぎったのは、いままで愛した多くの人々に去られたこと、家庭をみずから壊した数々の失敗と、自分のいまある孤独とに胸が詰まって、歌い出した「オーバー・ザ・レインボウ」の曲の途中で、ついに歌えなくなったとき、観客席から沸き起こる「オーバー・ザ・レインボウ」の大合唱が、打ちひしがれたジュディを励ますという感動の場面です。

その観客の歌声が「ジュディ、がんばれ」という励ましの声援であることはもちろんなのでしょうが(そして、この映画の意図もそれ以上はきっと求めていなかったと思います)、むしろ自分には、このときのジュディ・ガーランドは、はじめて自分の歌の歌詞(その意味を含めて)を観客たちの歌声をじっくりと聞くことによって、「歌詞」がはじめて理解できたのではないかという感じを持ちました。

これは単なる想像にすぎませんが、「持ち歌」を日々、繰り返して歌わねばならない「歌手」にとって、そのたびに歌詞を理解し気持ちを入れ髪振り乱して歌っているかというと、それは「疑問」でしょう、まさか日々のステージで毎回そんなオーヴァーアクションを繰り返していたら、それこそ疲れ切り、神経もすり減って、身体がもつわけがありません、明日もまたステージをこなさなければならない彼らにとって、一夜限りで燃え尽きるようなステージなど到底あり得ないことと容易に想像がつきます。彼らとて、日々身体をいとい、末長く仕事を続けるために、肉体的にも精神的にも延命のためになんらかの日常的な工夫をしているに違いありません。

たとえば、外見上あたかも気持ちを入れ歌っているような振りをするとか、自分の歌に感動して思わず涙ぐむ振りをするとか、髪振り乱して懸命に歌っている姿をカタチとして見栄え良く整えるとか、そういう「工夫」です、そしてなによりも、自分がいま歌っている歌詞を隅から隅まで十分に理解しているような振りをするとか、みたいなことだと思います。

若年から繰り返し歌い続けてきて、すっかり慣れきってしまった持ち歌の歌詞は、多分いつの間にか、ただの言葉の羅列(呪文)に過ぎないものになっていて、記号としてなぞっているだけになっていたのではないか、ことにジュディの場合、なにしろ16、17歳あたりからずっと歌い続けてきたわけですから、「Somewhere over the rainbow」は、そういう存在として、ただ惰性で歌っていたと考えることは、むしろ当然かもしれません。そして、このラストシーンにあるように、「観客の大合唱」によって、彼女は改めて、歌詞の意味するものをハタと気づかされたのではないかと感じたのです。

そこで、ちょっと「オーバー・ザ・レインボウ」の意訳を参照しました。


Somewhere over the rainbow
Way up high
あの虹の彼方の
どこか空高くには

There’s a land that I heard of
Once in a lullaby.
特別な場所があるって
小さい頃に子守唄で聞いたことがあるの

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
その虹の彼方は
空がとても青く澄みわたっていて

And the dreams that you dare to dream
Really do come true
信じてた夢は
すべて本当に叶うんだって

Someday I’ll wish upon a star
いつか私も星に願うの

And wake up where the clouds are far behind me
その遠いところにある雲の上で目覚めること

Where troubles melt like lemondrops
そこではどんな悩みもレモンドロップみたいに溶けてなくなる

Away above the chimney tops
That's where you'll find me
あの煙突よりもずっと上のほうにあるところで
あなたは私を見つける

Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly.
あの虹を超えた彼方には
青い鳥たちが飛んでいる

Birds fly over the rainbow.
Why then, oh why can’t I?
鳥たちはあの虹を超えて行けるのに
どうして私にはできないの?

If happy little bluebirds fly
beyond the rainbow
Why, oh why, can't I?
もし、幸せの小さな青い鳥たちが虹を超えて行けたのなら
どうして私にできないの?(きっと、行けるはずよ)

≪Somewhere over the rainbow≫
1936 作詞/エドガー・イップ・ハーバーグ、作曲/ハロルド・アーレン


ふむふむ、なるほどね。

ざっと歌詞の英文をたどりながら「Where troubles melt like lemondrops」の部分の「troubles」という言葉が、少し強い感じがして、どうも気になりました。だって、「オズの魔法使い」の主人公ドロシーは、まだ12、13歳くらいの設定の少女です、どう考えても「troubles」というほどの悩みを抱えるような年齢とは思えません、ちょっと大袈裟なのではないかなと考えたその瞬間、ハッと思い当たるものがありました。

この映画の少女期の回想部分でも繰り返し描かれていましたが、幼いジュディをマネージメントしていた実の母親の「毒親」ぶりです。

太りやすいジュディが契約によって食事制限を課され、それを始終監視するのが、映画にも描かれていた母親の役割でした。絶えず空腹で飢えていたジュディは、撮影所に缶詰めにされて満足な睡眠もとれないまま働かされ(撮影が遅れると社長かブロデューサーに口汚く恫喝されている場面もありました)、疲労が蓄積すると覚せい剤で眠気を飛ばし、たまのオフには、逆に眠れないので睡眠薬を与えられ、酒にも頼ったとジュディの年譜には書かれています。その悪習慣が、後年、彼女の健康を蝕み死に導いたことが映画にも描かれていました。

当時、その覚せい剤と睡眠薬を管理して交互に与えるのが母親の役割でした、こう書くとこの母親は、撮影所のスケジュールをジュディに守らせる管理者ではあっても、ジュディの健康を守るための管理者なんかではなかったことが、よく分かります。

そのことが「troubles」という言葉に表現されていて、そして「観客の大合唱」に対して、ジュディがその言葉の微妙な「含意」を感じ取って反応したのなら、おおいに納得できるような気がしたのです。

そうそう、「毒親」といえば、日本でもつい先だって、たしか同じような話があったなと、まるで連鎖反応のように起こった人気俳優の自殺のことを思い出しました。

もちろん、この映画のジュディ・ガーランドの方は自殺したわけではありませんが、ここで描かれている最期は、彼女が、それに等しい失意と絶望の淵にまで追い詰められていたであろうことだけは確かだと思います。

日本の「人気俳優の自殺のニュース」は、我が子を幼いうちから俳優養成所の初等科(学習院ではないので、そうは言わないかもしれませんが)で訓練を受けさせ、あわよくば芸能界でひとやま当てて、ゆくゆくは子供の稼ぎでラクして暮らそうという「毒親ステージ・ママ」が付きまとい、寄生していて(ここまでは映画と同じです)、そして、この親から逃れるために自死を選んだらしいという話を、芸能界の事情に詳しい女房から聴きました。

しかし、映画「ジュディ 虹の彼方に」に描かれている母親は、さらにその上をいく強烈さで存在感を示しています。

少女ジュディは、昼夜撮影所に閉じ込められ、休みなく働かされてクタクタに疲れ果て、しかし、訴えても休ませてもらえず、反抗すれば、プロデューサーから、「1日撮影が遅れれば、それだけ経費が嵩み『損害』につながるんだぞ」と威嚇されます、また、「人気子役」としての体型が崩れるのをおそれたプロデューサーから食事制限を命じられていた母親から食事を厳しく監視されていて、ジュディは常に空腹と睡眠不足に悩まされながら(そのたびに母親は睡眠薬と覚せい剤を交互に際限なく与えて「映画」に従事させます)、そんなふうに「撮影所で都合よく作られた人間」が成長し大人になった少女が、はたして自立し、社会の極めて微妙な人間関係を保つことができるだろうか、彼女にとって母親から逃れるための唯一の手段といえば「結婚」しかないとしても、その「家庭」という場所において、「撮影所で作られた」リアルを欠いた無力な人造人間にとっては、何ひとつ成し得なかったことは明らかです。

年譜を見ると、結婚した後でも、母親は娘の家庭に遠慮なくずかずかと入ってきたと記されていて、ジュディにとって「結婚」という場が、必ずしも母親からの逃避の場所ではなかったことそれどころか、むしろ、最初から社会性を欠落させている彼女にとって夫との人間関係を保つためには母親の援助(別に言い方をすれば、「介入」とか「付け込む」という幅のある言い方だってあり得ます)を欲したのではないかと思うとき、その幾たびかの結婚が破綻し、離婚へとつながっていったと想像するのは困難ではないのかもしれませんが、しかし、子供にとって、いくら「毒」を持った鵜匠のような厄介な親とはいえ親は親、それまで盲目的に一切を依存してきた分だけ、不在になればそれなりにダメージを受けるというのは、容易に想像できます。

年譜を見ると母親エセルが亡くなったのは、1953年とあり、その後、果たしてジュディが本当に「解放」されたのか、知りたくなりました。

年譜から、その前後の出来事を拾ってみますね。

・1949年、『Summer Stock』(日本未公開)の撮影時には、20ポンド(約9キロ)も太り、撮影を混乱させた。たびたびの騒ぎを起こしたジュディに業を煮やしたMGMはこの作品を最後にジュディを解雇した。ショックを受けた彼女は再び自殺未遂事件を起こす。
・1950年、ヴィンセント・ミネリと離婚した。
・1952年、シドニー・ラフトと3度目の結婚をした
ハリウッドを離れてロンドンやニューヨークのショーで大成功を収め、トニー賞特別賞を受賞し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力が人々に認識された。
・1954年、ワーナー・ブラザースで撮影された『スタア誕生』で4年ぶりの銀幕復帰を果たし、アカデミー賞主演女優賞にも最有力候補としてノミネートされた。
・『スタア誕生』でゴールデングローブ賞主演女優賞(コメディ・ミュージカル部門)を受賞した。
・ノミネートされたアカデミー主演女優賞だが、ワーナー・ブラザースは、撮影中の遅刻や出勤拒否、撮影が長引いたために制作費が増大し赤字になったことを問題視し、彼女の受賞のための宣伝や根回しを一切行わず、授賞式前には「彼女ではもう二度と映画を撮ることはない」と宣言したため、主演女優賞のオスカーは『喝采』のグレース・ケリーに渡った。得票差6票の僅差は 当時の最小記録で、結局、ジュディの受賞はなかった。
・ワーナー・ブラザーズ社からも見離されて受賞を逸した失意から、再び彼女の私生活は荒れはじめ、数度の自殺未遂を起こした。


期せずして、「自殺未遂」から「自殺未遂」までの記事を切り取る感じになってしまいましたが、やはり母親の死というのは、多少影響があったのでしょうか、しかし、ジュディが弱々しい犠牲者だったとは思えません。

映画「ジュディ 虹の彼方に」では、死の直前の数か月が要領よくまとめられて描かれていましたが、ジュディ・ガーランドの生涯を知りたくなり、改めて下記に「ジュディ・ガーランド年譜」として、まとめてみました。

ご高覧いただければ幸いです。

(2019英仏米)監督ルパート・グールド、製作デヴィッド・リヴィングストーン、脚本トム・エッジ、撮影オーレ・ブラット・バークランド、音楽ガブリエル・ヤレド
出演レニー・ゼルウィガー(ジュディ・ガーランド)、ジェシー・バックリー(ロザリン・ワイルダー)、フィン・ウィットロック(ミッキー・ディーンズ)、ルーファス・シーウェル(シド・ラフト)、マイケル・ガンボン(バーナード・デルフォント)、




●私家版・ジュディガーランド年譜

1922年6月10日にミネソタ州グランドラピッズで出生。アイルランド、英国、スコットランド、フランスのユグノーの祖先をもつ両親の両方にちなんでフランシス・エセル・ガムFrances Ethel Gummと名付けられ、地元のエピスコパル教会で洗礼を受けた。ガーランドの生家は、現在ジュディガーランド博物館。
両親、エセル・マリオン(ネ・ミルン;1893-1953年)とフランシス・アヴェント「フランク」ガム(1886-1935)は、興行を催す劇場・映画館を運営するヴォードビリアン。ジョディ(彼女は家族からベイビーと呼ばれていた)は、幼いときから歌とダンスで家族のショーに参加した。
彼女が初めて登場したのは2歳のとき、父親の経営する映画館のクリスマスショーの舞台で姉のメアリー・ジェーン「スージー/スザンヌ」ガム(1915-64)とドロシー・バージニア"ジミー"・ガム(1917-77)と一緒に「ジングルベル」のコーラスを歌った。ガム姉妹は、ピアノを弾く母親と一緒に、数年間そこで演奏した。
芸名の「ジュディ」は彼女が好きだった歌のタイトルからつけられた、「ガーランド」はボードビリアン、ジョージ・ジェッセルが彼女たち姉妹を「ガーランド(花輪)のようだ」と言ったことから付けたといわれる。
1926年6月、家族は、父親が同性愛の傾向があるという噂が立ってその土地にいられず、カリフォルニア州ランカスターに移住した。フランクはランカスターで別の劇場を購入して運営した。
1929年、2人の姉と共に7歳の時に、姉妹の所属していた歌劇団のクリスマス・ショーにGumm Sistersとしてデビュー。その時のステージの様子が、『The Big Revue』1929という短編映画として残っている(you tubeで「The Big Revue 1929」と入力すれば動画視聴可能、「Gumm Sisters」の動画も豊富にあり、幼いジュディを見ることができる)。
ジュディは、幼い人気者となったが、姉が結婚したため、しばらく姉妹トリオ「Garland Sisiters」と名称を変更して活動したのちにシスターズは解散、ジュディは一人で歌いつづけ、踊りつづけた。母エセルは娘をマネージメントしながら映画界入りをもくろんでいた。
1935年、バスター・キートン、ゲーリー・クーパー、ロバー ト・テイラー等がカメオ出演したMGM社の短編映画『La Fiesta de Santa Barbara』1935にも出演したが、長女の結婚を機にトリオは解散したが、ジュディは歌唱力を認められ、翌年MGM社と契約した。
1936年、13歳のとき、コロムビアのスクリーンテストを受けたが不合格、母親はさらにMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)のテストを受けさせ合格。同年MGMと専属契約した。MGM社の短編映画『Every Sunday』1936、「アメリカーナの少女」1936などで、1歳年上のディアナ・ダービンと共演したが、社長のルイス・B・メイヤーが、同じ年頃の少女スターは2人も必要ないとして、「太った方 (ジュディのこと)をクビにしろ」 と命じた、しかし、ジュディの歌唱力に注目していた部下のプロデューサー、アーサー・フリードは指示を無視してジュディと契約を結んだ。間違ったふりをしてダービンをクビにしたとの説もある。しかし当時13歳だったジュディは育ち盛りで肥満気味だったため、MGMは契約に「スリムでいること」を含め強制的なダイエットを命じた。体質的に太りやすかった彼女は当時のハリウッドのスタジオでダイエット薬として使用されていた覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになり、この悪習慣がジュディの体を蝕んでいく。
1937年、『Thoroughbreds Don't Cry』で2歳年上のミッキー・ルーニーと初共演した。以後、『初恋合戦』1938、『青春一座』1939など、合計10本の映画で共演し、少年少女カップルとして絶大な人気を誇った。ミッキーは後年、ジュディとの関係を、「恋愛関係ではなかったが、兄妹以上の特別な間柄だった 」と語った。また、MGM社の大スター、クラー ク・ゲーブルの36歳の誕生日パーティーで、「You Made Me Love You」(1913)の替歌を披露。これが好評で、映画『踊る不夜城』(1937)のなかでも歌い、「Dear Mr. Gable」として親しまれて、この好印象が「オズの魔法使」の大抜擢につながる。
1939年、ミュージカル・ファンタジー「オズの魔法使」(監督:ヴィクター・フレミング)の主役ドロシーに大抜擢され大ヒット、子役(女優)としての存在を決定づけて人気スターとなった。当初、製作者アーサー・フリードは、ドロシー役をライバル社20世紀FOXの人気子役だったシャーリー・テンプルに演じさせようと考え、その条件としてMGM側がクラーク・ゲーブルとジーン・ハーロウという2大スターを20世紀FOXへ貸し出すという交渉をすすめていたが、1937年にハーロウが急死したため交渉が頓挫した、そこで代役としてジュディが急遽ドロシー役を演じることになったという経緯があった。しかし、結果は、主題歌「オーバー・ザ・レインボウ」の大ヒットに加え、作品も記録的なヒットとなり、16歳のジュディの名を一挙に高めた、さらに、その勢いはやまず、アカデミー特別賞(子役賞)まで受賞した(ミッキー・ルーニーも前年、ディアナ・ダービンと共に特別賞を受賞した)。フリードはのちに「神に感謝する」と語った。『オズの魔法使』は、アメリカでは、1950年代後半以降TVで繰り返し放映され、史上最も鑑賞された映画とも言われている。
1941年、18歳の若さで、バンド・リーダーで作曲家のデヴィッド・ローズ(のちに、TVの人気大河ドラマ「大草原の小さな家」のテーマ曲を作曲)と結婚し、翌年妊娠したが、イメージを損なうとの理由でMGMが許さず中絶を余儀なくされ、当時カリフォルニア州では違法だった堕胎手術を受けた。1943年に離婚。
その間、当時の大スターだったミッキー・ルーニーとコンビを組むミュージカルシリーズにつづく「For Me and Gal」1942で初のトップ・ビリング女優となり、さらに1944年の「若草の頃」も空前の大ヒットとなった、この映画の監督は、はじめフレッドジンネマンの予定だったが、ヴィンセント・ミネリに代わり、やがて二人のあいだにロマンスが芽生えて、翌1945年結婚し、翌1946年3月に、のちに女優となる娘ライザ・ミネリを出産する。ライザは2歳のとき『グッド・オールド・サマータイム(英語版)』(1949日本未公開)で子役として映画デビューしている。
ティーンエイジの頃から撮影が押したときなど過労で疲労している時には、周りの大人たちの勧めで、覚せい剤やドラッグの類いを常用していたために、出番が無い時も眠れなくなり睡眠不足が常態となったためアルコールと睡眠薬への依存を繰り返し、副作用に無知だったために健康に深刻なダメージを受けた。また、しばしば数十万ドルの税金を背負うなど金銭的不安にも悩まされていた。
1945年、ミネリ監督の「The Clock」では、初のシリアスな役を見事にこなし、ジュディのミュージカル女優だけでない新たな一面もみせた。さらに『ハーヴェイ・ガールズ(英語版)』1946、フレッド・アステアと共演する『イースター・パレード』1948といった娯楽超大作で主役をつとめ、国民的な人気俳優としてその地位を不動のものとしたが、極度の緊張のストレスによる神経症と長年の薬物中毒(後遺症と依存症)による体調不良に悩まされ、撮影への遅刻や出勤拒否を繰り返した。1947年に出演した『踊る海賊』(ヴィンセント・ミネリ)の撮影では、130日余の撮影中に36日しか姿を見せなかった。撮影後にはジュディ自身が「私の最初の精神病院入院」と呼ぶサナトリウムへの長期入院を余儀なくされ、不眠症と極度の情緒不安定のために自殺未遂事件を起こし、以降、度々薬物治療のための入退院を繰り返した。
1948年、長年の薬物中毒がマスコミにすっぱ抜かれた。このとき、まだ26歳、ミネリとの結婚生活も次第にうまくいかなくなっていく。
その後も乱脈な生活と不安定な精神状態はつづいて、1949年の映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に錯乱状態になりアニー役から下ろされる。また、同年に企画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻(英語版)』1949も、撮影を放棄するなどしたために主役を降板させられた。
1950年公開の『Summer Stock』1950(日本未公開)の撮影時には、以前と比較して20ポンド(約9キロ)も太り、撮影を混乱させた。その際、ジュディは結果的にはダイエットを成功させたが、たびたびの騒動に業を煮やしたMGMはこの作品を最後にジュディを解雇した。ショックを受けた彼女は再び自殺未遂事件を起こした。翌1950年にヴィンセント・ミネリと離婚した。
1952年、シドニー・ラフトと3度目の結婚をしたが、彼やビング・クロスビーら友人の勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークのパレス劇場で行われたショーで記録的な大成功を収め、トニー賞特別賞を受賞し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力が人々に認識されることとなった。
1954年、ワーナー・ブラザースで撮影された『スタア誕生』(シドニー・ラフトのプロデュース、監督ジョージ・キューカー)で4年ぶりの銀幕復帰を果たし、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされ最有力候補と目された。この『スタア誕生』はジュディの才能を余すところなく引き出し新境地を開いたと高く評価されて大ヒットし、ゴールデングローブ賞主演女優賞(コメディ・ミュージカル部門)を受賞した。アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。授賞式前日には長男を出産したばかりの彼女の病室にマスコミも詰めかけたが、ワーナー・ブラザースは、撮影中の遅刻や出勤拒否、撮影が長引いたために制作費が増大し赤字になったことを問題視し、彼女の受賞のための宣伝や根回しを一切行わなかったほかに、授賞式前に「彼女ではもう二度と映画を撮ることはない」と宣言したため、主演女優賞のオスカーは『喝采』のグレース・ケリーに渡った。得票差6票は 当時の最小記録で、結局、ジュディの受賞はなかった。ワーナー・ブラザーズ社からも見離されて受賞を逸した失意から、再び彼女の私生活は荒れはじめ、数度の自殺未遂を起こした。素晴らしいパフォーマンスを披露したジュディがアカデミー賞で敗れたことに憤った人も多く、グルーチョ・マルクスは授賞式後、「ブリンクス以来の最大の略奪だ」と、ジュディに慰めの電報を送った。また、サミー・デイヴィスJr.は自伝の中で「あの時ジュディがなぜ敗れたのか、どうしてもわからなかった。誰かが彼女を罰しようとしたのだろう」と記している。
シドニー・ラフトとの間に2子(ローナとジョーイ)をもうけた。娘ローナは、後にローナ・ラフトとして女優になった。しかし、子供っぽく、ときにはヒステリックになるジュディの気まぐれな性格は、ますます昂じて、モーテル住まいの酒浸りの日々がつづいた、その後、神経症が悪化し、再び自殺未遂を起こし、自殺癖があるとの噂が流れた。銀幕からは遠ざかり、キャバレーやコンサートでのショーで活動した。
映画には出演できず、ショーが中心の生活がつづいた。
1955年には、CBS初の本格的なカラー番組「Ford Star Jubilee」の第1回放映で、TVに初出演した。
1960年はじめ、「ニュールンベルグ裁判」「愛の奇跡」などの作品でみせたシリアスなジュディの演技が、スクリーンで見せた最後の華やかさだった。
1961年、彼女は7年ぶりに銀幕復帰、大作『ニュールンベルグ裁判』(1961監督:スタンリー・クレイマー)に出演。バート・ランカスターやマレーネ・ディートリヒと共演し、ミュージカルから一転、堅実なシリアスな演技力を見せてアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、オスカーには手が届かなかった。その後も薬物中毒と神経症はさらに悪化し、逮捕されることはなかったものの、FBIはジュディを監視していて、膨大なFBIの監視記録が残されている。
1961年に、ニューヨークのカーネギー・ホールで行ったコンサートは「ショービジネス最高の一夜」と称され、収録したライヴ・ アルバム「Judy at Carnegie Hall」 が、ビルボードのアルバム・チャートで13週連続No.1となる大ヒットを記録。8枚のスタジオ・アルバムをリリースした。
翌年のグラミー賞で、最優秀女性歌唱賞、最優秀アルバム賞を受賞して伝説の名盤となった。
1962年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞(映画業界での生涯功績を表彰)受賞。39歳での受賞は 同賞の最年少で初の女性受賞者だった。
1962年2月、TV番組 「ジュディ・ガーランド・ショー」が放映された。フランク・シナトラ、ディーン・マーティンをゲストに迎えた番組は大好評となり、ジュディは同年12月に、CBSと当時のTV史上最高額のギャラでレギュラー番組として契約を締結した。「ジュディ・ガーランド・ショー」 は、1963年9月から翌年の3月まで計26回、毎週日曜日に放映され、エミー賞にノミネートされた。最初の収録時のゲストには、ジュディの要望でミッキー・ルーニーが招かれ、他の回では、ドナルド・オコナー、バーブラ・ストライサンド、娘のライザ・ミネリ、ローナ・ラフトなどがゲスト出演した。
1963年、『愛と歌の日々』英(ロナルド・ニーム監督)が最後の劇場用映画出演作となった。『哀愁の花びら』(1967マーク・ロブスン監督)にもキャストされたが、欠勤を繰り返し降板させられたが、同作に出演したシャロンテートは1969年マンソンの信奉者によって胎児とともに殺害されている。
1965年、シドニー・ラフトと離婚後、マーク・ハーロンと4度目の結婚をしたが、1967年に離婚。この間、ロンドンのパラディアムで、ライザと共演したとき、娘に人気が集まり嫉妬したというエピソードも残されている。マーク・ハーロンとも2年で離婚した。
1969年にディスコティック・マネージャー、ミッキー・ディーンと5度目の結婚。1969年6月、ロンドンのキャバレーでショーに出演した直後の6月22日、滞在先のロンドンで、睡眠薬の過剰摂取のためにバスルームで急死。自殺説もある。享年47歳の若さだった。検死の結果は、バルビツール酸系過量服薬いわゆる睡眠薬の過剰摂取と結論された。
彼女には莫大な収入があったがその大半は浪費してしまっており、埋葬の費用にも事欠いた。当時、映画「くちづけ」で母親ジュディをしのぐ芸達者振りが注目されていた長女ライザ・ミネリは、「母はハリウッドが大嫌いだった、母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外のファーンクリフ墓地にジュディを埋葬した(1969.6.27)。
ライザ・ミネリは弔辞をミッキー・ルーニーに頼みたかったが、彼は大変なショックを受けていてその役を務めることができず、代わりに『スタア誕生』で共演したジェームズ・メーソンが弔辞を読んだ。
1973年、ライザ・ミネリが 『キャバレー』1972でアカデミー賞主演女優賞を受賞した。「母が果たせなかった生涯の夢を果たすことができた。このオスカーは母のもの」と涙ながらにスピーチした。
1997年、グラミー賞の特別功労賞(生涯業績賞) を受賞。
1998年、アルバム「Judy at Carnegie Hall 」がグラミーの殿堂入り。
1999年、AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」で、女優部門の第8位に選出、偉大なスターとしてランクした。
2017年、遺族の意向により墓所はハリウッド・フォーエバー墓地へ移された。
2020.3.8、映画『オズの魔法使』で有名なジュディ・ガーランドを題材にした伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』が日本公開となった。映画では回想シーンのみでしか描かれなかった彼女の幼少期には壮絶な虐待やセクハラなど想像を絶する真実があった。
ジュディの身長は、4フィート11 1⁄2で (151 cm)、髪はブラウン、瞳もブラウン、大柄でもなく美人でもなかったが、目鼻立ちの大きな可愛らしい容貌で、戦中MGMミュージカルを象徴するスターだった。支持政党・民主党
日本で紹介されたジュディ・ガーランドの主な作品として、『オズの魔法使』『若草の頃』『スタア誕生』『ニュールンベルグ裁判』があげられるが、抜群の歌唱力で1940〜50年代のハリウッドを代表する大スターの一人とはいえ、絶頂期が戦時中だったため、残念ながら日本では未公開作品が多く、さらに私生活の乱脈さも伝えられたりして、日本における人気はアメリカほどではなかったかもしれない。
・LGBTQへの影響
1969年6月28日、彼女の死のニュースは、当時の同性愛者のコミュニティに大きな動揺をもたらした。それは、ジュディが1960年代のアメリカで同性愛者に対して理解を示していた数少ない著名人の一人だったからだ。ジュディの父親がホモセクシュアルであり、自身もバイセクシュアルだったといわれる。史上初の同性愛者による暴動、この「ストーンウォールの反乱」は、ジュディの葬儀が行われた教会付近で葬儀翌日に起きており、彼女の死によるコミュニティ内でのショックが影響していたとも言われている。こうした経緯から、ジュディは同性愛者にとって象徴的な存在となった。現在「レインボー・フラッグ」が同性愛解放運動の象徴として用いられるのは、彼女が『オズの魔法使』で歌った「虹の彼方に」から由来している。また「ドロシー(=ジュディ)のお友達」はスラングで「同性愛者」を指す。
【ストーンウォールの反乱】1969年6月28日、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン (Stonewall Inn)」が警察による踏み込み捜査を受けた際、居合わせた「LGBTQ当事者らが初めて警官に真っ向から立ち向かって暴動となった事件」と、これに端を発する一連の「権力によるLGBTQ当事者らの迫害に立ち向かう抵抗運動」を指す。この運動は、後にLGBTQ当事者らの権利獲得運動の転換点となった。ストーンウォールの暴動ともいう。
・事件にまつわる伝説
謎の多い事件であるが故に、事件に関する数々の伝説的な逸話が生まれ、真偽はともかく今日まで伝えられている。
初めに、この夜の客がいつものような忍耐を拒否した理由として、女優ジュディ・ガーランドの死がLGBTQ当事者らの団結心と反抗心を高めたからであるという説明がなされる。ジュディ・ガーランドは同性愛に理解を示していた数少ない著名人の一人であり、LGBTQ当事者らの間で人気が高かった。彼女は6月22日急逝し、その葬儀が6月27日ストーンウォール・イン近くの教会で行われた。踏み込み時の店内は、葬式に参列した者を中心にガーランドの話題で感傷的な雰囲気が形成されていた。そして、そこに踏み込んできた警察官の無神経で侮辱的な言動に、彼らの堪忍袋の緒が切れてしまったという。この逸話は、LGBTQ当事者らの間に広く伝わり信じられている。
次に、暴動の引き金となった行為について、代表的な説の一つによれば、シルビア・リベラ(英語版)という名のトランスジェンダー女性が、警察官に警棒で突かれたことに立腹し、瓶を投げつけた。別の説によれば、パトカーに乗せられようとしたレズビアンが暴れて、店の前にいた群集に同様の行為を唆した。これら二つの逸話は、最初に暴動を仕掛けた人物が外見上女性であったという点、および最初に警察官に投げられた物が瓶であるという点に、共通点が見られる。
加えて、最初に警察官に投げつけられた物がヘアピンであったという神話的な逸話も流布しており、ライチをして「ヘアピンが落ちる音が世界中に響き渡った」と言わしめた。これはストーンウォールの反乱がもたらした社会的影響の大きさを象徴的に表現した名文句として、しばしば引用される。


# by sentence2307 | 2021-04-29 16:51 | ジュディ・ガーランド | Comments(0)